2013年12月22日日曜日

バッハ-コレギウム-ジャパン 「メサイア」2013年軽井沢演奏会 評

2013年12月22日 日曜日
軽井沢大賀ホール (長野県北佐久郡軽井沢町)

曲目:
ゲオルク=フリードリヒ=ヘンデル オラトリオ「メサイア」 HMV56 1753年版

ソプラノ:シェレザード=パンタキ
アルト(カウンターテノール):ダニエル=テイラー
テノール:櫻田亮
バス:クリスティアン=イムラー

合唱・管弦楽:バッハ-コレギウム-ジャパン(BCJ)
指揮:鈴木雅明

軽井沢大賀ホールにて2010年12月から開始された、クリスマスの時期に於けるBCJによる「メサイア」演奏会は、四回目を迎えた。昨年と比較しての今年の特徴としては、昨年の「1743年ロンドン初演版」ではなく「1753年版」を採用したこと。ソプラノ・テノールのソリストを2名から1名にしたことである。

同じ公演は、12月21日に鎌倉芸術館(神奈川県鎌倉市)、23日にサントリーホール(東京)でも開催された。良い音響が期待できるのは、この軽井沢大賀ホールのみであり、事前にソプラノのシェレザード=パンタキの調子が良いらしいとのツィッター情報を得て、急遽当日券により臨席する。

管弦楽配置は、舞台下手側から第一ヴァイオリン→第二ヴァイオリン(その後方にヴィオラ)→チェンバロ→ヴァイオリン-チェロ(その後方にオルガン)→ファゴット→オーボエの順である。トランペット・ティンパニは舞台下手側後方の配置だ。合唱は舞台後方に下手側からソプラノ→アルト→テノール→バスで一列の配列である。ソリストは、原則として指揮者のすぐ下手側からカウンターテノールとテノール、すぐ上手側からソプラノとバスが歌う形態である。なお第一部では、トランペットが二階合唱席下手側後方上方から演奏する場面もあった。

着席位置は、一階平土間後方上手側である。客の入りは八割程であろうか。聴衆の鑑賞態度はかなり良いが、補聴器の作動音らしき音が下手側から継続的に聞こえていた。

ソリストについては、ソプラノのシェレザード=パンタキは期待通りの声量で、特に第一部では圧倒的な存在感を示している。

カウンターテノールのダニエル=テイラーは、声量面では決して大きいものではないが、特に第二部でのアリアが傑出した出来である。これは、第一声から「これは凄い」と感嘆させられると言うよりは、聴いているうちにいつの間にか惹き込まれていて、終わってみたらその自然と溶け込むような歌声に感嘆させられる不思議なものだ。声の音色にカウンターテノールにありがちな不自然なところがないところも、私の好みと合っている。

クリスティアン=イムラーは、第三部第43曲のトランペットと掛けあうアリアが素晴らしい。

合唱は、ソプラノが2010年の時のような二歩前に出たり、昨年のようにあまり自己主張をしていなかったりする事もなく、今年は半歩前に出る歌唱であろうか。基本的には、他のソリスト・管弦楽と溶け込むアプローチではあるが、いつもながらのレベルの高い合唱である。

管弦楽で特筆するべき点は、トランペット奏者にジャン-フランソワ=マドゥフを招聘し首席奏者として演奏することである。ナチュラル-トランペットの奏法は難しく、BCJの演奏会の際にその出来に期待する事はなかったが、今回のマドゥフ招聘の効果は大きく、全てが完璧ではないものの、大幅に改善されている。特に、第二部最後のハレルヤ-コーラスでは、マドゥフのトランペットが実に絶妙な音量で入ってきて、精緻なハーモニーを構築している。また、第三部第43曲でのバスと掛けあうアリアのトランペットも絶品である。

また今回は、昨年とは着席位置が違うこともあるのか、チェンバロやチェロが良く聴こえ、深みがある響きを楽しむことができた。

アンコールは、ジョン=ヘンリー=ホプキンズ-ジュニアの「われらは来たりぬ」であり、テノールのソロはBCJ合唱陣が務める。それぞれのソロが美しく響き、ソプラノパートとの対比が印象的であった。

2013年12月21日土曜日

ロレンツォ=ギエルミ オルガン-リサイタル 評

2013年12月21日 土曜日
ふれあい福寿会館 サラマンカホール (岐阜県岐阜市)

曲目:
アルノルト=ブルンクホルスト 前奏曲
ヨハン=パッヘルベル シャコンヌ
ヨハン=パッヘルベル 「高き天より、我は来たれり」
ゲオルグ=フリードリヒ=ヘンデル 「アダージョとフーガ」
ゲオルグ=フリードリヒ=ヘンデル 「メサイア」HWV56より「なんと美しい事か、平和の福音を伝える者の足は」(※)
ヨハン=セバスティアン=バッハ 「アンナ=マグダレーナ=バッハの音楽帳」より「御身がそばにあるのならば」 BWV508 (※)
ヨハン=セバスティアン=バッハ 「アンナ=マグダレーナ=バッハの音楽帳」より「あなたの心をくださるのなら」 BWV518 (※)
ヨハン=セバスティアン=バッハ 「コーヒー-カンタータ」 BWV211より「ああ!コーヒーってとってもおいしい」 (※)
(休憩)
ヨハン=セバスティアン=バッハ 「前奏曲とフーガ」 BWV539
ヨハン=セバスティアン=バッハ 「イタリア様式によるアリアと変奏」 BWV989
ヨハン=セバスティアン=バッハ 「いざ来たれ、異教徒の救い主よ」 BWV659
ヨハン=セバスティアン=バッハ 「目覚めよ、と呼ぶ声あり」 BWV645
ヨハン=セバスティアン=バッハ 「甘き喜びのうちに」 BWV751
ヨハン=セバスティアン=バッハ 「トッカータ、アダージョとフーガ」 BWV564

ソプラノ:日比野景 (※のみ)
オルガン:ロレンツォ=ギエルミ

着席位置は、一階後方上手側である。チケットは完売している。聴衆の鑑賞態度は、特に前半はあまり良いとは言えず、遅刻者の比率が多く、かつ次の曲が始まるまで着席せず、また飴の包装を破る音や話し声まである始末だった。

前半部の後半に登場した日比野景のソプラノは、音量的にはサラマンカホールを十分に響かせていたが、一本調子のところがあり、表現の多様さは見られないように思える。

さて、このリサイタルで用いたサラマンカホールのオルガンは、岐阜県加茂郡白川町に本拠を置いた辻宏(1933-2005)により建造されたものである。

辻宏は、「サラマンカホール」の名の由来になった、スペイン国サラマンカ大聖堂のオルガンを修復した実績があることで高名であり、古典的建造法によるオルガンの建造・修復のスペシャリストとして国内外で活躍してきたが、2005年の逝去に伴い、辻オルガン工房は2008年に閉鎖された。

サラマンカホールのオルガンは、46ストップ、パイプ数2997本であり、コンサートホールにあるオルガンとしては小ぶりではあるが、古典的建造法により建造されたこれとしては、日本では唯一であろうか。古典的建造法により建造されたオルガンであるからなのだろうか、やや鋭い高音部の音色も適切な音色で響いてくる。モダン指向のカール=シュッケ社のオルガンのように耳触りな響きは全くない。

ロレンツォ=ギエルミのオルガンは、テンポは中庸で基本的には作曲者の意図を伝える演奏であり、曲想上眠くなる曲もあるが、多様な音色を的確に用いている。

特に最後の、「トッカータ、アダージョとフーガ」に於けるフーガは、密かな興奮から生じる霊感を感じさせる素晴らしい演奏である。

アンコールは、J.S.バッハの「コンチェルト」BWV596から第四楽章と、作者不詳の「パストラーレ」であった。


追記:サラマンカホールに於けるオルガン建造の経緯は、下記が詳しい。
https://salamanca.gifu-fureai.jp/information/organ.html

2013年12月14日土曜日

ラファウ=ブレハッチ ピアノ-リサイタル 評

2013年12月14日 土曜日
東京オペラシティ タケミツメモリアル (東京)

曲目:
ヴォルフガング=アマデウス=モーツァルト ピアノ-ソナタ 第9番 K.311
ルートヴィッヒ=ファン=ベートーフェン ピアノ-ソナタ 第7番 op.10-3
(休憩)
フレデリック=ショパン 夜想曲 第10番 op.32-2
フレデリック=ショパン ポロネーズ 第3番「軍隊」 op.40-1
フレデリック=ショパン ポロネーズ 第4番 op.40-2
フレデリック=ショパン 三つのマズルカ op.63
フレデリック=ショパン スケルツォ 第3番 op.69

ピアノ:ラファウ=ブレハッチ

ラファウ=ブレハッチは、12月13日から17日に掛けて来日ツアーを行い、武蔵野(東京都)、東京、横浜、与野(埼玉県)にてリサイタルを行う。12月13日は武蔵野市民文化会館、14日は東京オペラシティ タケミツメモリアル、16日は横浜みなとみらいホール、17日は彩の国さいたま芸術劇場を会場とする。東京オペラシティのような巨大なホールよりは、600名強の規模のホールである彩の国さいたま芸術劇場での演奏が適切であるとは考えたが、土日開催の都合によりタケミツメモリアルでの公演を選択した。よってこの評は二日目の東京オペラシティ タケミツメモリアルでの公演に対するものである。

着席位置は、一階中央上手側である。チケットは完売している。聴衆の鑑賞態度は良好であった。

前半のモーツァルト・ベートーフェンは楽譜通りの演奏で、ブレハッチ独自の味付けは淡白である。速めの楽章よりは、案外緩徐楽章の方が面白い。ベートーフェンについては、テンポは遅めである。響きは軽めであり、軽快であると言えばその通りであるが、しかし音が遠くに感じ臨場感が感じられない。タケミツメモリアルはやはり大き過ぎるのであろうか?いくら音響のよいタケミツメモリアルでも、18列目では難しいのか。彩の国さいたま芸術劇場のような604席しかないホールの方が、断然素晴らしい成果を上げただろう。

一方、後半のショパンでは表現の幅が増す。ピアノが近くにあるように聴こえ始め、適切な音圧で迫ってくる。テンポの扱いは自由自在となる。その一方で、感情に溺れず、放逸を排除した、貴族的とも言うべきブレハッチ独自の様式の枠を構成しながらも、パッションはよく込められてくる。特にこのようなブレハッチの個性が最も行き渡っているのは、ポロネーズ第3番「軍隊」と、アンコール一曲目の前奏曲第20番である。この二曲が私にとっては特に好みの演奏だ。

アンコールは三曲あり、いずれもショパンの作で、「24の前奏曲」第20番、ワルツop34-2、「24の前奏曲」第4番である。「24の前奏曲」第20番で見せたピアニッシモは、絶品であった。

2013年12月7日土曜日

バッハ-コレギウム-ジャパン モーツァルト「レクイエム」演奏会評

2013年12月7日 土曜日
彩の国さいたま芸術劇場 (埼玉県与野市)

曲目:
ヴォルフガング=アマデウス=モーツァルト 「証聖者の荘厳な晩課」 K.339
(休憩)
ヴォルフガング=アマデウス=モーツァルト 「レクイエム」 K.626

ソプラノ:キャロリン=サンプソン
アルト:マリアンネ=ベアーテ=キーラント
テノール:櫻田亮(アンドリュー=ケネディの代役)
バス:クリスティアン=イムラー

合唱・管弦楽:バッハ-コレギウム-ジャパン(BCJ)
指揮:鈴木雅明

BCJは、12月1日・7日・9日の三回に渡り、「モーツァルト レクイエム」演奏会を開催する。12月1日は札幌コンサートホールkitara、7日は彩の国さいたま芸術劇場、9日は東京オペラシティ タケミツメモリアルを会場とする。BCJの特質からして、東京オペラシティのような巨大なホールよりは、600名強の規模のホールである彩の国さいたま芸術劇場での演奏が適切と判断した。よってこの評は二日目の彩の国さいたま芸術劇場での公演に対するものである。

着席位置は、一階ど真ん中よりわずかに上手側である。客の入りはほぼ満席である。聴衆の鑑賞態度はかなり良く、拍手のタイミングも大変適切であった。

管弦楽配置は、舞台下手側から、第一ヴァイオリン→ヴィオラ(「レクイエム」のみ?)→ヴァイオリン-チェロ→第二ヴァイオリンの左右対向配置で、ヴィオローネ(コントラバスに相当)は最も上手側につく。ホルン・木管パートは後方中央、トランペットは後方下手側、トロンボーン・ティンパニは後方上手側、オルガンは中央やや上手側の位置につく。
合唱団は計23名で、舞台後方を途切れることなく二列横隊で並ぶ。ソリストは、「証聖者の荘厳な晩課」では指揮台の舞台後方側に待機し、「レクイエム」では舞台下手側に待機し、歌う時のみ舞台前方に出てくる。

前半は、「証聖者の荘厳な晩課」K.339である。この公演では、典礼に則りグレゴリオ聖歌のアンティフォナを挿入して演奏される。各曲の始まりは、クリスティアン=イムラー(バス-ソリスト)が合唱団バスセクションの所に行き、まずはイムラーの独唱アカペラで始まり、ついでイムラーの指揮でバス-セクションとの合唱に移り、鈴木雅明の指揮による管弦楽により本編が始まるというスタイルである。バス独唱→合唱と本編との対比が面白い。

後半の「レクイエム」K.626は、モーツァルト、アイブラー及びジューズマイヤーの自筆譜に基づく鈴木優人補筆校訂版」によるものである。この版による評価が出来るほど作曲技法や「レクイエム」の経緯に通じている訳ではないが、聴いていて特に不満はなく、たまに何かを挿入したなと感じる程度の差であり、版の差よりは演奏による差の方が観客にとっては大きいであろう。

演奏は、テンポのメリハリははっきりしており、入祭唱やキリエなど速く演奏する箇所はかなりの速さであり、サンクトゥス・ベネディクトゥスと言った比較的緩徐な部分は普通にゆっくりのテンポである。

二曲を通して、歌い手を前面に出す演奏である。

「証聖者の荘厳な晩課」はバスのクリスティアン=イムラーの独唱が良く、管弦楽が始まる前の、どこかビザンチン風を思わせる独唱部・グレゴリオ聖歌部を引き立たせている。また、ソプラノのキャロリン=サンプソンが素晴らしい。ソプラノ独唱から合唱団に引き継ぎ、さらにソプラノ独唱に引き継ぎながら盛り上げていく部分は、実に巧みである。

「レクイエム」はパッションが込められた合唱で、ソリスト・合唱ともここぞの所で仕掛けてくる。頂点に向けて精密に声量をコントロールし、いざ頂点に達する所でソプラノが二歩前に出てくる理想的な形だ。キャロリン=サンプソンは、アルトやテノールと合わせるところでは、それぞれのソリストの声量に合わせるが、ソプラノが飛び出す事が許容されている部分では巧くオーバーラップさせてくるし、長い独唱アリアの部分では自由自在に攻めてくる。キャロリンが歌い始めると、とても幸せな気持ちになってくる。

最後の聖体拝領唱が終わり、残響がなくなり無音となる。誰もがその余韻を尊重し、適切な空白の時間の後で熱烈な拍手となる。このような終わり方は実に素晴らしい。演奏者と観客との一体感が感じられる、とても良い演奏会であった。

2013年12月5日木曜日

ミッシャ=マイスキー チェロ-リサイタル 評

2013年12月5日 木曜日
松本市音楽文化ホール (長野県松本市)

曲目:
ヨハン=セバスティアン=バッハ 無伴奏チェロ組曲第1番 BWV1007
フランツ=シューベルト 「アルペジョーネ-ソナタ」 D821
(休憩)
ロベルト=シューマン 「民謡風の5つの小品集」 op.102
ベンジャミン=ブリテン:チェロ-ソナタ op.65

ヴァイオリン-チェロ:ミッシャ=マイスキー
ピアノ:リリー=マイスキー

1948年にラトヴィアの首都リガで生まれたミッシャ=マイスキーは、この11・12月に来日ツアーで広島交響楽団との協演に臨むほか、鎌倉・東京・札幌・松本・小金井(東京都)・名古屋にてリサイタルに臨む。ピアノを担当するリリー=マイスキーは、ミッシャ=マイスキーの娘である。

着席位置は、後方下手側である。客の入りはほぼ満席。聴衆の鑑賞態度は良好であった。

ミッシャ=マイスキーのチェロは、いかにも平和な家庭生活を送っているかのようだ。私がこのように言うときは、あまりいい意味ではないが、マルタ=アルゲリッチのピアノが嫌いだったり疲れるような人たちには、逆に向いているだろう。

基本的にテンポの変動が少なく、技術的には何ら問題なく、後先はよく考えているものの、かなり抑制的な表現である。疲れている人たちは眠ってしまうだろう。というか、眠くなるように曲を敢えて構成しているのかなと思えるところがある。

二曲目の「アルペジョーネ-ソナタ」に於けるリリー=マイスキーのピアノは、協演ではなく本当の伴奏であり、何もかも父親に任せた娘のように見え、このようなピアノを弾いて楽しいのかとリリーに疑問を呈したくなる程の出来である。父親を立てたと言えばそのようにも見えるが、これ程までピアノが控えめ過ぎる展開は私が聴いている限り初めてである。

最も、後半の進行に伴ってリリーのピアノは少しはパッションが入るようになる。ミッシャとリリーとの間の関係性は、親子だからなのかは分からないが、協調的なアプローチである。どちらかが冒険に飛び出す事はないし、何か仕掛けてスリリングな展開になる事もない。

協調的なアプローチが最もよく機能したのは、四曲目のブリテンに於ける一部楽章に見られる。現代音楽が最も面白い展開になるのは、予想外の楽しみである。

アンコールは四曲のように思えたが、掲示では五曲となっていた。どうも疲労がたまっているのかもしれない。カタルーニャ民謡(カザルス編曲)の「鳥の歌」、シチェドリンの「アルベニス風のスタイルで」、リヒャルト=シュトラウスの「朝に」、ファリャの「火祭りの踊り」、ラフマニノフの「ヴォカリーズ」である。

ファリャの「火祭りの踊り」は大変な盛り上がりであるが、どうもミッシャは速いテンポはあまり得意でないのだろうなと思わざるを得なかった。

圧巻なのは、「火祭りの踊り」ほど何故か盛り上がらなかったのだが、ラフマニノフの「ヴォカリーズ」である。技術面での完璧さ、テンポの取り扱いの巧みさとこれに伴う曲想の豊かさ、パッションの高さの面で、この「ヴォカリーズ」だけは、まるで別の奏者が演奏しているかのように素晴らしいものである。特に、持続的な長いアッチェレランドを掛けていく展開部の曲想には圧倒される。ミッシャもリリーも、メランコリックな性格の描写というだけでなく、純音楽的な面でのパッションが最も入っているように思える。この「ヴォカリーズ」だけが別格の出来で、この演奏だけが、どうしてミッシャ=マイスキーが世界的に「巨匠」として君臨しているのかが理解できるものであった。

2013年12月1日日曜日

大崎結真 ピアノ-リサイタル 評

2013年12月1日 日曜日
彩の国さいたま芸術劇場 音楽ホール (埼玉県与野市)

曲目:
クロード=ドビュッシー:版画
モーリス=ラヴェル:水の戯れ
モーリス=ラヴェル:夜のガスパール
(休憩)
オリヴィエ=メシアン:「幼子イエスに注ぐ20のまなざし」より
 第11曲「聖母の最初の聖体拝領」
 第13曲「ノエル」(イエズス=キリストの生誕)
アンリ=デュティユー:ピアノ-ソナタ

ピアノ:大崎結真

着席場所は、ど真ん中より僅かに上手側である。客の入りは6割程であろうか、中央後方の席でさえも空席の穴が目立つ。観客の鑑賞態度は概ね良好であったが、ビニールをがさがさする音が目立つ箇所があり、また補聴器のハウリングと思われる音が小音量ながらも継続してなっていた。

大崎結真は楽譜通りに作曲家の意図を再現するべく演奏する方向性で、かつ丁寧に弾いている。特に後半の演奏は優れている。しかしながらフランスものは難しい。曲想上、どうしても眠くなる方向性に向かってしまう。かと言って、プログラムに安易に「ラ-ヴァルス」を加えるのも、プログラム全体の一貫性がなくなってしまうところである。

また、曲を終え拍手を受ける時の表情も無く、彼女なりに納得できる演奏が出来たのか否かが分からず、その点でも観客のテンションが上がりにくいところがある。せっかく良い演奏をしても、観客に伝わらない形である。

アンコールは、ドビュッシーの「前奏曲集第2巻」より「オンディーヌ」、「前奏曲集第1巻」より「亜麻色の髪の乙女」であった。

2013年11月30日土曜日

ドイツェ-カンマーフィルハーモニー-ブレーメン 歌劇「フィデリオ」 評

2013年11月30日 土曜日
横浜みなとみらいホール (神奈川県横浜市)

演目:
ルートヴィッヒ=ファン=ベートーフェン 歌劇「フィデリオ」 op.72 (演奏会形式)

レオノーレ(フィデリオ):エミリー=マギー
フロレスタン:ブルクハルト=フリッツ
ドン-ピツァロ:トム=フォックス(当初予定されたファルク=シュトゥルックマンの代役)
ロッコ:ディミトリー=イヴァシュチェンコ
ドン-フェルナンド:デトレフ=ロート
マルツェリーネ:ゴルダ=シュルツ(当初予定されたクリスティーナ=ランドシャーマーの代役)
ヤッキーノ:ユリアン=プレガルディエン
語り部:ヴォルフ=カーラー

合唱:東京音楽大学合唱団

管弦楽:ドイツェ-カンマーフィルハーモニー-ブレーメン
指揮:パーヴォ=ヤルヴィ

ドイツェ-カンマーフィルハーモニー-ブレーメンは、2013年11月から12月に掛けてアジアツアーを行い、全てベートーフェンの曲目であるプログラムを二種類(歌劇・演奏会用にそれぞれ一種類)用意し、横浜で歌劇、札幌・名古屋・武蔵野(東京都)・ソウル(大韓民国)にて演奏会を開催する。

歌劇については、横浜みなとみらいホールで歌劇「フィデリオ」を演奏会形式で2公演上演する。この評は、二回目11月30日横浜みなとみらいホールでの公演に対してのものである。

管弦楽配置は、舞台下手側から、第一ヴァイオリン→ヴァイオリン-チェロ→ヴィオラ→第二ヴァイオリンの左右対向配置で、コントラバスはチェロの後方につく。木管パートは後方中央、ホルンは後方下手側、その他の金管・打楽器群は後方上手側の位置につく。

着席場所は、一階中央上手側である。客の入りは8割5分程である。観客の鑑賞態度は概ね良好であったが、前方中央席で演奏途中での退席があった。

このドイツェ-カンマーフィルハーモニー-ブレーメン独特の慣習として、舞台上でのチューニングは行わない。楽章の間ではもちろんの事、曲の間であっても行わない。唯一ティンパニだけがこっそりと音程をチェックし調整している。

この「フィデリオ」は演奏会形式であり、舞台上に舞台装置はない。管弦楽の譜面台には、歌劇用のランプが備え付けられている。照明は白熱電球の明暗のみであり、着色光は用いていない。歌の間の芝居はなく、その代わりに「四年後のロッコ」を演じる語り部がいる。語り部の位置は固定されず、歌い手同様に舞台前方を歩く形態となる。拍手は終幕時のみを期待する設定であり、歌唱が終わり残響がなくなったところで間髪を入れずに語りを入れる事によって拍手が起きないようにコントロールしている。それでも、レオノーレが「人間の屑!何をしているつもり?かかってきなさい。希望は捨てないわ、最後に星が出る」のソロ-アリアを歌った後で拍手が出る。

序曲は、名古屋でのベートーフェン交響曲第4番第3番の公演の第一曲目でも演奏されたが、693席の中規模ホールでの凝縮された響きとは異なり、やはり2020席の大きなホールでの響きは違う。音圧は拡散される。

歌劇と言う事もあり、管弦楽は今日はおとなしく猫を被っている。軽めと言うよりは柔和な音色で、その柔和さはヴィーン-フィルを超え、室内管弦楽団ならではの綺麗な音色がベースとなる。もちろんパーヴォ=ヤルヴィならではの変幻自在なテンポに柔軟に対処し、パーヴォとの一体感を感じさせる見事な演奏である。

歌い手について述べる。総じて穴がない見事なソリスト揃いで、この事自体が滅多にないことだ。代役を含めて実力あるソリストを揃えている。全ては完璧な状態から出発している。

第一幕から、マルツェリーナ役のゴルダ=シュルツのよく通る軽快な表現が見事である。元彼のヤッキーノの口説きをかわして、指揮者のパーヴォの所に寄り添って「困っているから助けて」と言っているかのような演技も相まって、実に楽しい。およそ代役とは思えない見事な出来で、出番が多い第一幕に花を添える。

ロッコ役のディミトリー=イヴァシュチェンコは、バスとはとても思えない透明感のある声で、知らないで聴いているとテノールのようにすら感じるほどだ。ごく普通の平凡な看守
長から英雄的な行動を取るところまで、見事に演じる。

フロレスタン役のブルクハルト=フリッツは第二幕からの登場となるが、第二幕開始直後のソロ-アリアから観客の心を掴む。副主役としての役割を十二分に演じ、エミリー=マギーと相まってクライマックスに向けて観客をリードしていく。

主役レオノーレ(フィデリオ)役のエミリー=マギーは、みなとみらいホールの特性に悩まされたであろう。このホールは、レオノーレ役の音域との相性が悪く、なかなか共鳴しないし、共鳴したとしても綺麗に響かない。それでも、知らないでいるとメゾ-ソプラノと思えるような、重量感のある迫力に満ちたレオノーレを見事に演じ、主役としての責任を果たす。みなとみらいホールの音響特性を踏まえると、よくぞここまで演じ切ったと言える。なお、歌い手としてはエミリーのみが楽譜を持っての演技・歌唱であったが、この「フィデリオ」公演にはプロンプターは存在しない事を考慮する必要はあるだろう。

語り部はドイツ語によるものであり、特に第二幕でテンションが上がったか。語り部のテキストは、今年亡くなったドイツの文学者ヴァルター=イェンスによるものである。日本語の字幕で見ただけの判断ではあるが、通俗的な4年後のロッコと本場面での英雄的なロッコとの対比を踏まえつつ、実に格調高くイデアを掲げているものだ。

歌い手と管弦楽との関係性は、必ずしも歌い手重視と言うわけではない。歌い手を表に出すと言うよりは、歌い手・管弦楽を含めて表に出るべきと考えた楽器を表に出した感じである。例えば、オーボエを表に出す時は歌い手は控えめに歌う感じだ。

この点については、公開ゲネプロ時の質疑応答の際に、「演奏を重ねるうちに発見したことはあるか」の質問に対して、「ベートーベンの交響曲を演奏するときに、フィデリオにおいて作曲者は歌にオーケストラのどのパートの役割を歌わせたかったか、働きを持たせたかったか考えさせられる」とパーヴォが答えていたところからも読み取れるところである。
(この辺りの事情については、彩加さん(@p0pular0708)による2013年11月26日16時40分頃(日本時間)からのツイートに依拠している。公開ゲネプロ情報の提供について、この場でも厚く御礼申し上げる。)

歌い手が一人の時はこのように控えめなところもあるが、このような場面から三重唱・四重唱へ積み重なっていく流れや、その三重唱・四重唱自体は極めて素晴らしい。単に管弦楽を一歩上回る形で巧く乗っかった素晴らしい歌唱で、大変気持ちよく響いているというだけの話ではなく、その三重唱・四重唱の場面場面で誰を表に出すのかを細かく考慮している。ドイツ語が分かる方にとっては、一番強調されている歌声の意味が容易に読み取れるようになっているように思われる。

合唱は東京音楽大学合唱団であるが、団員は学生なのであろうか。しかしながら、およそ学生とは思えない。東京オペラシンガーズ同様の高い完成度であり、その声量だけでなく、場面場面に応じたコントロールが適切であり、ソロ二人の出番もあったがこれもまた見事である。第二幕では抱擁しあう演技までをも行い、その場面から終幕に向けてのクライマックスに向けて傑出した実力を発揮していく。

大団円はソリスト・合唱・管弦楽全てがパッションに満ちつつも、全ての構成要素が室内楽を聴いているかのように一体感を持って見事に絡み合い、美しく響かせて終わる。これ程までの大団円を聴くと、ベルリン-フィル、ヴィーン-フィルですら実現は難しいと思わざるを得ない。全てが完璧に終わった。行った、聴いた、勝った!!

2013年11月24日日曜日

NHK交響楽団 横浜定期演奏会 評

2013年11月24日 日曜日
横浜みなとみらいホール (神奈川県横浜市)

曲目:
アナトーリ=リャードフ 交響詩「魔法をかけられた湖」 op.62
ドミートリイ=ショスタコーヴィチ ヴァイオリン協奏曲第2番 op.129
(休憩)
ピョートル=イリイッチ=チャイコフスキー 交響曲第5番 op.64

ヴァイオリン:諏訪内晶子
管弦楽:NHK交響楽団
指揮:トゥガン=ソヒエフ

NHK交響楽団は、諏訪内晶子をソリストに、トゥガン=ソヒエフを指揮者に迎えて、2013年11月20日・21日に東京-サントリーホールで、第1768回定期演奏会を開催した。同じプログラムで11月23日に足利市民会館(栃木県)、24日に横浜みなとみらいホールで演奏会を行った。この評は、最終日11月24日横浜みなとみらいホールでの公演に対してのものである。

諏訪内晶子は1972年生まれの、言うまでもなく、少なくとも日本ではトップレベルのヴァイオリン奏者である。あまりに有名であり、説明の必要はなかろう。

指揮のトゥガン=ソヒエフは、当時のソヴィエト社会主義共和国連邦、北オセチア自治共和国生まれ。現在は、トゥールーズ-キャピトル国立管弦楽団、ベルリン-ドイツ交響楽団の首席指揮者である。

管弦楽配置は、舞台下手側から、第一ヴァイオリン→第二ヴァイオリン→(までは覚えていたが、チェロとヴィオラの配置は忘れた。多分、ヴァイオリン-チェロ→ヴィオラだったかと)のモダン配置で、コントラバスはチェロの後方につく。木管パートは後方中央、ホルンは後方下手側である。弦楽奏者は、第五プルトであっても雛壇を使わない。ロシア人指揮者ならではのやり方であろうか。

着席位置は正面中央上手側、観客の入りは八割五分程である。観客の鑑賞態度は良好であったが、私の隣席で曲の途中でパンフレットを弄んでいたのが気になった。

第一曲の「魔法をかけられた湖」、最初からとてもN響とは思えない精緻な音で、観客の心を掴む。表面の皮膚以外は、ベルリンフィルの奏者の組織を移植しているのではないかと思えてしまうほど、信じられない程の精緻さで、準=メルクルですらこのような音は引き出せていない。静寂な湖のほとりに一人で佇みながら、何かが起こりそうな不安をも感じさせるような、不思議な演奏である。

第二曲のショスタコーヴィチのヴァイオリン協奏曲第2番は、とても優れた演奏である。諏訪内晶子はリズムの刻みも、朗々と流れるような響きも、キッチリと演奏し、技巧的要素の強い現代曲が強い彼女ならではの完成度の高い演奏である。管弦楽の音に乗っかり、この曲に対してはとても適切な協調的なアプローチで寄り添いつつも、管弦楽を一歩上回る響きで伝わってくる。二重奏的な掛けあいはコントラバスともホルンとも決まりまくっているが、特にホルンとの二重奏は、ホルン-ソロの卓越した演奏とも相まって強い感銘を受ける。曲想上ソリストの自由は制限される性格が強い曲であるが、終了直前のカデンツァは唯一ソリストの自由度が高い部分であり、そこではテンポを自由に揺るがせるが自然なものであり、絶品である。

諏訪内晶子の新しいレパートリーの披露は成功裏に終える。管弦楽の精緻な響きはさらにパワーアップされ、プロコフィエルの「古典」交響曲を演奏しているかのような新古典主義を思わせるような響きとまでなり、さらにテンションを高める演奏である。

休憩後、第三曲目のチャイコフスキー第五交響曲は、盛り上がって当然の曲であるし、事実盛り上がっているし、ソヒエフも小技を利かしていて良い演奏ではあるが、まあ普通に良い演奏と言うところであろうか。私にとってはなんと言うか、何と無く中途半端な感じである。クラリネット・ファゴットの自己主張が私にとっては弱いし、最終楽章コーダでトランペットの音程が乱れたようにも思えたし、どこか白熱戦に今ひとつなりきれてなくて、一方で響きは前半ほどの精緻さが消えている。いつものN響に戻ったのであろうか。昨日のドイツェ-カンマーフィルハーモニー-ブレーメンの鮮烈な演奏を聴いたばかりであり、N響にとっては酷な環境ではあったのだろうけど。

と言う訳で、九か月振りに諏訪内晶子の演奏を聴けて、かつ諏訪内晶子とソヒエフの意図を緻密に表現しきったN響に感銘を受けた演奏会だったと、総括しておこう。

2013年11月23日土曜日

ドイツェ-カンマーフィルハーモニー-ブレーメン 名古屋公演 演奏会 評

2013年11月23日 土曜日
三井住友海上しらかわホール (愛知県名古屋市)

曲目:
ルートヴィッヒ=ファン=ベートーフェン 歌劇「フィデリオ」序曲 op.72b
ルートヴィッヒ=ファン=ベートーフェン 交響曲第4番 op.60
(休憩)
ルートヴィッヒ=ファン=ベートーフェン 交響曲第3番 op.55

管弦楽:ドイツェ-カンマーフィルハーモニー-ブレーメン
指揮:パーヴォ=ヤルヴィ

ドイツェ-カンマーフィルハーモニー-ブレーメンは、2013年11月から12月に掛けてアジアツアーを行い、全てベートーフェンの曲目であるプログラムを二種類用意し、札幌・名古屋・武蔵野(東京都)・横浜・ソウル(大韓民国)にて歌劇・演奏会を開催する。

歌劇については、横浜みなとみらいホールで歌劇「フィデリオ」を演奏会形式で2公演上演する。これ以外の公演は全て演奏会であり、この名古屋公演と同一のプログラムである。演奏会は札幌・名古屋・武蔵野で1公演ずつとソウルで2公演開催される。

6月のマーラー室内管弦楽団のような、軽井沢と名古屋のみという程まで変わった形態ではないが、東京23区内での公演を一切行わない点に注目される。なお、約700名規模の中規模ホールでの公演は、アジアツアーを通してこの名古屋公演が唯一のものである。

管弦楽配置は、舞台下手側から、第一ヴァイオリン→ヴァイオリン-チェロ→ヴィオラ→第二ヴァイオリンの左右対向配置で、コントラバスはチェロの後方につく。木管パートは後方中央、ホルンは後方下手側、その他の金管・打楽器群は後方上手側の位置につく。着席場所は、やや後方中央である。客の入りは八割五分程である。観客の鑑賞態度は良好であった。

ベートーフェンはやはり最も素晴らしい作曲家であるため、楽譜通りきちっと演奏すれば、それだけで満足度の高い演奏会にすることができる。それなのに、そのようには決してしないヒネクレタ奴らが、本国ドイツにいたりする。上岡敏之率いるヴッパータール交響楽団、彼らが演奏するベートーフェンの第三交響曲は、日本では確か唯一松本市音楽文化ホールのみで演奏されたが、みんなが速く演奏する所を遅く、みんなが遅く演奏する所を速くする見事な演奏で驚嘆させられた。

2013年11月23日、再びヒネクレタ鮮烈なベートーフェンを演奏する集団を聴いた。ブレーメンの音楽隊だ。ブレーメンに行くロバでもイヌでもネコでもニワトリでもない、ブレーメンから来たドイツェ-カンマーフィルハーモニー-ブレーメンである。

パーヴォ=ヤルヴィは楽団員に苛烈な要求を繰り返す。まるでロバに対して虐待する飼い主のように。しかし楽団員はヤルヴィの指示に対して鮮烈に応えるのみならず、実に楽しそうに弾いている。特にヴィオラ首席の体をブンブン動かして音を作り出している様子といったら。

室内管弦楽団とは思えないパワフルな音づくりだ。二つのMCO、あの水戸室内管弦楽団やマーラー室内管弦楽団以上に力強い迫力で迫ってくる。その迫力は、フル-オーケストラを軽々と上回る。

交響曲第4番、この曲を「2人の北欧神話の巨人の間にはさまれたギリシアの乙女」などと評したロベルト=シューマンよ、君は何と言う過ちを犯したのだ。パーヴォの手に掛かるとこの曲は、可憐なイメージを覆し、苛烈なまでに躍動する硬派なリズムを刻みまくる曲となる。まるで「春の祭典」のような難曲と化す。

冒頭の序奏を実に繊細に弾いているのを見て安心していると、可憐なはずの「ギリシャの乙女」はその狂暴なまでの本性を剥き出しにしてくるのだ。なんと緊密なリズム感なのだろう。特に弦楽セクションは、死に物狂いのパッションを出してリズムを刻んでいく。クラリネットもその重要な役割を見事に果たし、ティンパニはクレッシェンドの閃光を炸裂させる。

比較するのは野暮な話だが、これはこれはオルフェオ-レコードの大看板とも言うべき、あのカルロス=クライバーと名盤と並び称される秀演だ。

後半の交響曲第3番、管楽セクションがパワーアップし、高く保ったテンションはそのままに、より完成度を上げて迫ってくる。「英雄」などという表題はどこかにうっちゃっておこう。純音楽的に傑出した演奏だ。死に物狂いに白熱する躍動感だけではない、叙情的に攻めるところは実に繊細に歌わせ、波をうねらせる。音量の大小、緩急の付け方は非常に大きい。第四楽章の冒頭の僅かな長さのフレーズでさえ、アッチェレランドをスパッと仕掛ける。曲のどこのフレーズをどのように見せていくか、その辺りのメリハリが実に巧みで、パーヴォの構成力の見事さが光る。

とにもかくにも、ベートーフェンに新たな生命を吹き込む演奏である。ピリオド楽器とかモダン楽器とか、ピリオド奏法とかモダン奏法とか、そんなものはどうでも良い。結果的に出てくる音、出てくる響きが全てである。その音、その響きが鮮烈で唖然とするしかない。

この11月、ヴィーン-フィルにもベルリン-フィルにもアムステルダム-コンセルトヘボウにも聴きに行けなかったが、行く必要はなかった。こんなことを言ったらこっぴどく叱られるかも知れないが、これほどまでに前衛的で戦闘的で叙情的で熱情的な演奏は、チケット4万円のヴィーンやベルリンやアムステルダムの輩には出来るはずがない。

アンコールは、ブラームスのマジャール舞曲第1番と、シベリウスの「悲しいワルツ」。プログラム本番と同様の見事な演奏であると同時に、「悲しいワルツ」ではpが五つほどつく程までの弱奏で攻めたりもする。しらかわホールならでは弱い弱奏なのだろうか。世界最高のベートーフェンを味わえた、土曜日の午後であった。

2013年11月21日木曜日

エマニュエル=パユ+ジャン-ギアン=ケラス+マリー-ピエール=ラングラメ 演奏会評

2013年11月21日 木曜日
松本市音楽文化ホール (長野県松本市)

曲目:
演奏会のテーマ「ザ-フレンチ-コレクション in 松本」
マックス=ブルッフ 「トリオのための8つの小品」より 第1番、第2番、第5番
ロベルト=シューマン 「幻想小品集」 op.73 (フルートとハープのみ)
ハンス=ヴェルナー=ヘンツェ 「墓碑銘」 (チェロのみ)
セルゲイ=プロコフィエフ 「10の小品」より 第7曲「前奏曲」 op.12-7 (ハープのみ)
ヨハネス=ブラームス 「2つの歌曲」 op.91
(休憩)
ヨゼフ=ヨンゲン 「トリオのための2つの小品」 op.80
クロード=ドビュッシー チェロとピアノのためのソナタ (チェロとハープのみ)(ピアノパートはハープによる演奏)
エリオット=カーター 「スクリーヴォ-イン-ヴェント」(「風に書く」) (フルートのみ)
モーリス=ラヴェル ソナチネ (フルートとハープとチェロのために独自に編曲)

フルート:エマニュエル=パユ
ヴァイオリン-チェロ:ジャン-ギアン=ケラス
ハープ:マリー-ピエール=ラングラメ

エマニュエル=パユはスイス連邦ジュネーブ生まれの、ベルリン-フィルハーモニーのフルート首席奏者である。ベルリン-フィルハーモニーが来日公演が11月20日で終わり、その翌日の演奏会である。

ジャン-ギアン=ケラスはカナダ国モントリオール生まれのチェリストで、この11月に来日ツアーを実施しており、無伴奏チェロ-ソナタ演奏会を東京・横浜・名古屋・西宮(兵庫県)で行うと同時に、室内楽を唯一この松本で演奏する。

マリー-ピエール=ラングラメはフランス共和国グルノーブル生まれの、ベルリンフィルハーモニーのハープ首席奏者である。ベルリン-フィルハーモニー来日公演での彼女の出番も、昨日で終わったのであろうか。

この三人がどうして松本のみで揃って演奏する事となったのかは、謎である。宣伝文句は、「パユ&ケラス&ラングラメ スーパースターが織り成す 美しき一夜限りの夢のトリオ」となっているが、この三人が揃って演奏するのは確かに松本のみであり、「一夜限り」と言うのは間違いない。

演奏会のテーマ「ザ-フレンチ-コレクション in 松本」となっているものの、ドイツ・ロシア・米国ものもあり、「フレンチ-コレクション」と言うのは「フランス語が母語の奏者をコレクション」したという意味なのか?まあ、演奏が良ければどうでもいいけど。

着席場所は、後方下手側である。客の入りは九割五分程である。観客の鑑賞態度は良好であり、拍手のタイミングが適切であった。

全般的に、三人の奏者それぞれが適切な自己主張をし、特に後半のヨンゲン・ドビュッシー・カーターの三曲については、パッションが自然に込められており、かつ完成度が高い演奏であり、非常に優れた演奏である。

ベルリン-フィルの演奏会に忙しい二人は、特にパユが譜面を注視しているのが目立ったが、それでもフルートの見せ場ではその技巧を見せつけ、特にカーターのソロは秀逸である。

ラングラメは、特に後半の出来が良い。

それにしてもケラスのチェロは絶品である。パワーがあることは当然だとしても、一音一音の響きが絶品である。高音部の軽やかさから低音部の深い音まで、ニュアンスで攻めると言うよりは、一音一音の音色で攻めると言うのが良いのだろうか。

お相手は、フルートとハープ、どちらも華やかな楽器だ。チェロの見せ場とあれば、この二つの楽器をバックに従えて朗々とした響きで観客を見事に弾きつける。決して、通奏低音の下支え的でもなく、伴奏的でもない、堂々と主役を演じられる所に、ケラスの傑出した才能が感じられる。間違いなく、世界最高のチェリストの一人である。

アンコールは、イベールの「二つの間奏曲」である。

終演後のサイン会場は、松本にしては異常に賑わい、女性の比率が高かったが、パユ派とケラス派、または両方の肉食派が並んでいたのか。ベルリン-フィルの来日公演直後であり、リハーサルの時間も長くは取れない中でも、これほどまでの内容で演奏できると言うのは、さすがベルリン-フィルの首席奏者と思い知らされる演奏会であった。

2013年11月17日日曜日

マグダレーナ=コジェナ、プリヴァーテ-ムジケ 演奏会評

2013年11月17日 日曜日
三井住友海上しらかわホール (愛知県名古屋市)

曲目:
演奏会のテーマ:愛の手紙

フィリッポ=ヴィターリ:美しき瞳よ
シジスモンド=ディンディア:酷いアマリッリ
ジウリオ=カッチーニ:聞きたまえ、エウテルペ、甘い歌を
ルイ=ドゥ-ブリセーニョ:カラヴァンダ-チャコーナ(※)
タルキニオ=メルラ:今は眠る時ですよ(子守歌による宗教的カンツォネッタ)
ガスパル=サンス:カナリオス(※)
シジスモンド=ディンディア:穏やかな春風がもどり
ビアジオ=マリーニ:星とともに空に
ジョヴァンニ=パオロ=フォスカリーニ:パッサメッゾ(※)
クラウディオ=モンテヴェルディ:苦悩はとても甘く
ジョヴァンニ=ジロダモ=カプスベルガー:トッカータ-アルペジアータ(※)
ジョヴァンニ=ジロダモ=カプスベルガー:わたしのアウリッラ
シジスモンド=ディンディア:ああどうしたら?もの悲しい哀れな姿でもあなたが好き
ジョヴァンニ=ジロダモ=カプスベルガー:幸いなるかな、羊飼いたちよ
ジョヴァンニ=パオロ=フォスカリーニ:シャコンヌ(※)
バルバラ=ストロッツィ:恋するヘラクレイトス
ガスパル=サンス:曲芸師(※)
タルキニオ=メルラ:そう思う者はとんでもない
クラウディオ=モンテヴェルディ:ちょっと高慢なあの眼差し
(※:古楽アンサンブルのみ)

メゾ-ソプラノ:マグダレーナ=コジェナ
古楽アンサンブル:プリヴァーテ-ムジケ
 ギター:ピエール=ピツル(リーダー)
 コラショーネ:ダニエル=ピルツ
 ギター:ヒュー=ジェームス=サンディランズ
 テオルボ:ヘスス=フェルナンデス=バエナ
 ヴィオローネ:リチャード=リー=マイロン
 パーカッション:マルク=クロス
 リローネ:フランシスコ=ホセ=モンテロ=マルティネス

1973年にチェコ(当時はチェコスロヴァキア)国ブルノ市で生まれたマグダレーナ=コジェナは、この11月にアジア-ツアーを行い、上海・香港・東京(タケミツメモリアル及び王子ホール)・名古屋・ソウルにて演奏会を開催する。この評は、11月17日に開催された名古屋公演に対してのものである。なお、最も理想的な環境である、十分な残響が保たれた中規模ホールでの開催は、このアジア-ツアーで名古屋公演が唯一のものである。

プリヴァーテ-ムジケはPrivate Musickeの表記で示すのがよりその本質を示すのであろうか。1998年に創設された古楽アンサンブルである。

演奏者は、舞台下手側からヴィオローネ→リローネ→ギター→パーカッション→歌い手(マグダレーナ=コジェナ)→ギター→テオルボ→コラショーネの順に、半円状に配置される。

ヴィオローネとリローネは、それぞれヴィオール属弦楽器のコントラバスとチェロに相当する楽器であり、テオルボとコラショーネは、それぞれ低弦リュートと通常のリュートと位置付ければ、モダン楽器との連想がし易いか。弦が下手側、中央にギターとパーカッション、リュートが上手側と考えて差し支えない。

着席位置は正面後方中央、観客の入りは8割程。観客の鑑賞態度は良好であったが、特に拍手のタイミングが完全に曲が終わってから為されていて、その点で好感が持てる。いずれの曲も、終わりが分からず、拍手をして良いか不安だから、このような結果にもなるのだろうけど、狙ってやっているのか。マグダレーナがニコッとしたら、拍手をしても良いらしい。

マグダレーナは濃いピンク色のワンピース姿で裸足で歌う。田舎の若い娘のようでもある。演奏会は、下手側の扉から入場する所から演奏しながら始められる。調性の合う複数の曲をまとめて演奏する形で進められる。

歌なしの曲で始まり、そのまま歌ありの曲に入っていく展開もある。曲は世俗的な内容で、軽やかな調子の曲が多い。スペイン邸宅の庭で、ギターにより恋の歌を弾き語りしているかのような雰囲気でもあるし、南米のフォルクローレ、あるいは、歌が上手なジャズシンガーのバラードを聴いているような気分にもなる。何百年も前のポピュラー音楽を、21世紀に蘇られたというべきなのか。

マグダレーナの調子はとても良い。第一曲目でしらかわホールの響きを掴み取り、もうその次の曲からは完成度の高い響きで観客の心を掴んでいく。アンサンブルに巧く乗っかった響きでありつつも協調的であったり、舞台前方に出て来てメゾソプラノならではの、ちょっとカルメンチックな迫力を出して歌ったりもする。そうかと思えば若い娘役のソプラノのように軽い声質で歌ったり、曲に応じてメリハリを自由自在に効かせ、実に気持ち良い。

プリヴァーテ-ムジケはヴィオール属の楽器だったりリュート系だったりするので、音量が小さいが、しらかわホールの残響の効いた響きにより、弱い音でも的確に響いてくる。そのような小さな音量の中でも、こちらの方もメリハリを的確に効かせ、あたかもマグダレーナの専属楽団を思われるような、一体感を感じさせる響きだ。パーカッションの音には、アフリカ音楽のような「原始的」な響きが感じられるところもあり、音楽の本質は案外普遍的なのだなと思わせたりする。

プログラムの全19曲は、休憩なしで演奏された。もちろんチューニングは必要なので、小休止くらいはあるのだが、休憩で緊張感がブレイクされることもなく、休憩なしの狙いは達成されていると考える。

アンコールは三曲あり、カプスベルガーのGia Risi、ディンディアのSfete Frrmate、フレスコバルディのSe L’aura Spiraである。マグダレーナは指を鳴らすのも上手で、曲を見事に導入させたりする。

日本ではなかなか聴けない古楽アンサンブルを背景に見事な歌声を味わう事ができ、五百年昔の音楽でありながら新鮮な響きでとても見事な演奏であり、幸せな気分になる演奏会だった。

2013年11月16日土曜日

第92回 紀尾井シンフォニエッタ東京 定期演奏会 演奏会評

2013年11月16日 土曜日
紀尾井ホール (東京)

曲目:
フェリックス=メンデルスゾーン=バルトルディ 弦楽のためのシンフォニア第7番
ロベルト=シューマン ピアノ協奏曲 op.54
(休憩)
フランツ=シューベルト 交響曲第5番 D485

ピアノ:ペーター=レーゼル
管弦楽:紀尾井シンフォニエッタ東京
 ゲスト-コンサートマスター:アントン=バラホフスキー
指揮:イェルク-ペーター=ヴァイグレ

紀尾井シンフォニエッタ東京は、ペーター=レーゼルをソリストに、イェルク-ペーター=ヴァイグレを指揮者に迎えて、2013年11月15日・16日に東京-紀尾井ホールで、第92回定期演奏会を開催した。この評は、第二日目の公演に対してのものである。

1945年にドレスデンで生まれたペーターレーゼルは、この11月に来日し、全て紀尾井ホールにて計4公演に臨む。その内容は、11月7日に室内楽、11月9日にソロ-リサイタル、11月15・16日に紀尾井シンフォニエッタ第92回定期演奏会のソリストとしての公演である。

指揮のイェルク-ペーター=ヴァイグレは旧東ドイツ出身の指揮者でクルト=マズアに師事した。歌劇場・合唱の指揮の経験も豊富であるようだ。ゲスト-コンサートマスターのアントン=バラホフスキーはロシア連邦ノボシビルスク生まれで、現在バイエルン放送交響楽団の第一コンサートマスターである。

管弦楽配置は、舞台下手側から、第一ヴァイオリン→第二ヴァイオリン→ヴァイオリン-チェロ→ヴィオラのモダン配置で、コントラバスはチェロの後方につく。木管パートは後方中央、ホルンは後方下手側、その他の金管・打楽器群は後方上手側の位置につく。

着席位置は正面後方中央、チケットは完売している。観客の鑑賞態度は良好であった。

第一曲目はメンデルスゾーンの「弦楽のためのシンフォニア第7番」である。冒頭弦の響きの細さが気にはなるが、しり上がりに良くなっていき、第四楽章では熱を帯びる演奏となる。第四楽章では、12-13歳の作品とは思えないメンデルスゾーンの天才ぶりを再現させる。

第二曲目、シューマンのピアノ協奏曲は、ソリストと管弦楽とは協調的な方向性であり、ソリストを立てる方向性の音の響きである。ペーター=レーゼルのピアノは、ユジャ=ワンやマルタ=アルゲリッチとは対極にあるのだろう。ダイナミックレンジを敢えて拡げず、奏者による装飾を敢えてつけず、楽譜を深く読み込み解釈したらこうなるのだろうという説得力がある。テンポの変動は、11月9日のピアノ-ソロ-リサイタルの時よりはつけている形だ。

欲を言えば、クラリネットにもう少し朗々とした響きがあれば、第一楽章のピアノとクラリネットとの二重奏が活きたかも知れない。特に、個人的に印象的なのは第二楽章である。

ソリスト-アンコールは、シューマンの「子どもの情景」より「トロイメライ」であった。

休憩後の第三曲目は、シューベルトの第五交響曲である。冒頭の弦の響きはやはり細い。指揮者の指示によるものであろうか。あまり強い自己主張がない演奏で、室内管弦楽団ならではの精緻さ、あるいは技巧的な完璧さを活かしたかと言えば若干の疑問が残る、まあまあ普通の演奏ではある。どの音符も失敗すれば目立つプレッシャーを与えられる木管は良い出来で、フルート、オーボエとも良いアクセントを与えている。ホルンの響きも、よく管弦楽に溶け込ませていた。

2013年11月9日土曜日

ペーター=レーゼル ピアノ-リサイタル 評

2013年11月9日 土曜日
紀尾井ホール (東京)

曲目:
フランツ=シューベルト 「楽興の時」 op.94 D780
ヨハネス=ブラームス 「2つのラプソディ」 op.79
(休憩)
カール=マリア=フォン=ヴェーバー 「舞踏への勧誘」 op.65
ロベルト=シューマン ピアノ-ソナタ第1番 op.11

ピアノ:ペーター=レーゼル

1945年にドレスデンで生まれたペーターレーゼルは、この11月に来日し、全て紀尾井ホールにて計4公演に臨む。その内容は、11月7日に室内楽、11月9日にソロ-リサイタル、11月15・16日に紀尾井シンフォニエッタ第92回定期演奏会のソリストとしての公演である。この評は、11月9日に開催されたソロ-リサイタルに対するものである。

着席位置は、一階ど真ん中より少し後方かつ上手側である。客の入りは八割くらいであろうか。聴衆の鑑賞態度は概ね良好であったが、アンコール一曲目で小銭入れを弄び、コインの音がしたのが気になった。「舞踏への勧誘」でフライング拍手があったが、これは作品の特質上やむを得ないところがある。まあ、演奏者の明確な合図があるまでは拍手をしないというルールが確立されていれば、避けられた話ではあるが。

全般的には、古典的な様式、と言うのが不適切であるのならば、硬質な堅固さを伴った、過剰な感情を排しつつもロマン主義をほのかに感じさせる演奏と言ったらいいか。技巧を見せつける訳でもなく(念のために申し上げれば、技巧面では完璧で問題は全くない)、派手に演出をする訳でもなく、ただただ楽譜を深く理解しその結果自ずから生じてくる音を弾いていくというスタイルである。

後半はややドラマティックな表現とはなるが、その基調にかわりはない。

特に個人的に好みは、「楽興の時」第五・第六楽章と、「2つのラプソディ」、「舞踏への勧誘」、三曲のアンコールである。アンコールの曲目は、ブラームスの「幻想曲集」より第1曲奇想曲 op.116-1、シューベルトの「即興曲集」より第2番 D935 より第2番 op.192-2 D935、ブラームスの「ワルツ」 op.39-15であった。

2013年11月8日金曜日

第517回 新日本フィルハーモニー交響楽団 定期演奏会 演奏会評

2013年11月8日 金曜日
すみだトリフォニーホール (東京)

曲目:
グスタフ=マーラー 交響曲第7番「夜の歌」

管弦楽:新日本フィルハーモニー交響楽団(NJP)
指揮:ダニエル=ハーディング

新日本フィルハーモニー交響楽団は、ダニエル=ハーディングを指揮者に迎えて、2013年11月8日・9日に、第517回定期演奏会を開催した。この評は、第一日目の公演に対してのものである。

管弦楽配置は、舞台下手側から、第一ヴァイオリン→ヴァイオリン-チェロ→ヴィオラ→第二ヴァイオリンの左右対向配置で、コントラバスはチェロの後方につく、ダニエル=ハーディングのいつもの配置である。木管パートは後方中央、ホルンは意外にも後方上手側、その他の金管は後方中央の位置につく。マンドリン・ハープは後方下手側である。

着席位置は一階正面中央下手側、客の入りは8割くらいである。観客の鑑賞態度は第一部前半では拍手のタイミングが若干早かったものの、かなり良好であった。第二部では極めて良好であった。

なお、ほぼ同じ時刻かつ同じ曲目で、エリアフ=インバル指揮東京都交響楽団演奏会も実施されており、この意味でも注目されていた。

管楽器は失敗を恐れず、とにもかくにも響かせる。成功するかしないかは度外視して、ダニエル=ハーディングの意図を実現しようと努力が感じられる。弦楽器はいつものNJPらしく細い響きである。

第一楽章の最後の場面や、第五楽章は、全ての楽器の精度が確保され、ハーディングのしなやかな表現が見事に実現されている。弦楽器が重要な位置を占めながら、その弦の響きが細い中での、第三楽章の組み立てが良く出来ている。ハーディングの構築力が活きている。第509回定期演奏会に於ける、マーラー第六交響曲の時とは違って、ホルンの響きがきれいであり、また要所でヴィオラ・チェロがよく響かせている。

総じて、わざとらしくはない演奏で端正さを保つ意図が感じられ、NJPはその技量の中で実現に向けて努力し、特に第五楽章でその努力が実り、説得力のある演奏となった。

2013年11月3日日曜日

イザベル=ファウスト ヴァイオリン-リサイタル 評

2013年11月3日 日曜日
彩の国さいたま芸術劇場 音楽ホール (埼玉県与野市)

曲目:
第一部
ヨハン=セバスティアン=バッハ:ソナタ第1番 BWV 1001
ヨハン=セバスティアン=バッハ:パルティータ第1番 BWV 1002
ヨハン=セバスティアン=バッハ:ソナタ第2番 BWV 1003
(事実上の休憩)
第二部
ヨハン=セバスティアン=バッハ:パルティータ第3番 BWV 1006
ヨハン=セバスティアン=バッハ:ソナタ第3番 BWV 1005
ヨハン=セバスティアン=バッハ:パルティータ第2番 BWV 1004

ヴァイオリン:イザベル=ファウスト

着席場所は、ど真ん中より僅かに上手側である。チケットは完売している。観客の鑑賞態度は第一部前半では拍手のタイミングが若干早かったものの、かなり良好であった。第二部では極めて良好であった。

ヨハン=セバスティアン=バッハの無伴奏ヴァイオリン作品全曲演奏会である。チケットは第一部と第二部をそれぞれ別売りもしていた。

今回の来日公演で、イザベル=ファウストはこの公演の他、10月31日に東京、11月2日に宮崎でチェコ-フィルハーモニー管弦楽団との、ベートーフェン作ヴァイオリン協奏曲のソリストとして出演している。また、10月27日には横浜フィリアホール(横浜市)でリサイタルを行っているが、違う曲目をプログラムとしているため、バッハの無伴奏ヴァイオリン作品全曲演奏会はこの公演が唯一のものである。

第一部。
期待通りの高水準の演奏で始まる。チェコ-フィルハーモニー管弦楽団との共演で見せたニュアンスに富んだ演奏がそのままソロ-リサイタルに反映される。604席規模の、彩の国さいたま芸術劇場の残響との相性も完璧である。

第二曲目、パルティータ第1番BWV1002後半辺りから、単に高水準の優れた演奏というだけでない高い次元へ没入する。イザベル=ファウストにサンタ-チェチーリアが乗り移り、いと高きところとの媒介者となる。

速い楽章での、超絶技巧に裏打ちされた集中力漲る演奏というだけではない。緩徐部のニュアンスは絶品だ。伸びやかと言うだけではない、その瞬間瞬間に霊感が宿るフェルマータ。ソナタ第2番BWV1003を聴いている時、ホールの空間に聖霊が漂うのを見た。イザベルを媒介者として、主と聖霊と観客との三位一体が実現していた。

まさしく、バッハの無伴奏演奏で至高の演奏だ。

第二部
比較するのは無粋であるが、ヒラリー=ハーンを超える演奏となるのが確実視される中で、第二部が始まる。

ここからイザベルに疲れが明らかに出始めた。75分間の事実上の休憩の際に、日本ツアーで溜まった疲労がどっと出てきてしまったのだろうか。BWV1003で聴かせてくれたニュアンスは消えてしまう。つま先立ちから踵を落とす音が響いてくる。気迫を込めているものの、肉体がついていけない。完璧なる技術にも綻びが目立ち始める。高音の不用意な音は、恐らく楽譜には載っていない音だろう。

ヴァイオリンの無伴奏は、約90分くらいの実演奏時間でとどめ、かつアンコールはやらないものらしい。昨日は宮崎でベートーフェンの協奏曲をやり、今日の朝の飛行機で(ビジネスクラスがある便がありかつ宮崎の公演後与野の公演に間にあう便は、朝しかない)宮崎から与野に移動してこのリサイタルの準備を行い、本番となる。

第三曲目BWV1004の第四楽章を終えた時点で、演奏時間は135分、ここからシャコンヌに入る。ベストの状態では決してないが、最後の気力でシャコンヌを成立させていく。前四楽章よりも状態は良くなっている。

曲が終わり静寂が訪れる。観客も誰ひとり不適切な行動をせず、一分近くもの沈黙を守る。イザベルが合図をし、暖かい拍手でプログラムを終える。長い旅を一緒に終えた達成感を共有したのだ。

150分もの長時間の演奏であったのにも関わらず、アンコールが一曲演奏される。ピゼンデルの無伴奏ヴァイオリン-ソナタから第1楽章である。

今回は冒険的なプログラムであるが、チケットは完売となり、第一部後半での傑出した演奏を聴く事が出来た。今回のプログラムがどのような経緯で決まったのかは不明であるが、彩の国さいたま芸術劇場側の主導によるものであるのならば、このような冒険的な精神は維持してほしい。

しかしながら、バッハの無伴奏ヴァイオリン作品全曲を行うに当たっては、興行上はなかなか難しいところではあるが、150分もの無伴奏である事を踏まえると、二日に分ける演奏形態が望ましいようにも思える。例としては、アンジェラ=ヒューイットは名古屋にて、「フーガの技法」をこの10月20日・22日に分けて全曲演奏を行った。「フーガの技法」はそれぞれ休憩後の後半に置き、前半は関連性のある別の曲目であったが、この形態は参考になるかと思われる。

また、ヒラリー=ハーンがこの5月に日本ツアーをした際に、シャコンヌを前半の最後に置いた意味が良く分かった。興に乗りかつ疲労が出ないタイミングでのシャコンヌは、雑多なプログラムではあったが、シャコンヌを演奏するタイミングとしては正解の一つであったのだ。

2013年11月2日土曜日

チェコ-フィルハーモニー管弦楽団 宮崎公演 評

2013年11月2日 土曜日
宮崎県立芸術劇場 (宮崎県宮崎市)

曲目:
ミハイル=グリンカ:歌劇「ルスランとリュドミラ」序曲
ルートヴィッヒ=ファン=ベートーフェン:ヴァイオリン協奏曲 op.61
(休憩)
ヨハネス=ブラームス:交響曲第1番 op.68

ヴァイオリン:イザベル=ファウスト
管弦楽:チェコ-フィルハーモニー管弦楽団
指揮:イルジー=ビエロフラーヴェク

チェコ-フィルハーモニー管弦楽団(以下「チェコ-フィル」)は首席指揮者イルジー=ビエロフラーヴェクとともに、2013年10月27日から11月4日までに掛けて、京都・松戸(千葉県)・東京(2公演)・宮崎・川崎・名古屋にて、計7公演の来日公演を実施する。共演者は、ヴァイオリンはイザベル=ファウストとヨーゼフ=シュパチェック(チェコ-フィルのコンサートマスター)の二人、ヴァイオリン-チェロはナレク=アフナジャリャン、ピアノは河村尚子である。

イザベル=ファウストは、チェコ-フィルとの二公演の他、横浜フィリアホール(横浜市)と彩の国さいたま芸術劇場(埼玉県与野市)でのリサイタルがある。

イザベル=ファウストとの共演は、10月31日の東京サントリーホールとの公演と本公演の二公演のみとなる。

サントリーホールの音響には問題があり過ぎ、例え週末の公演であったとしてもとても聴くに耐えるホールではない。宮崎県立芸術劇場を選ぶのは当然の選択である。

管弦楽配置は、舞台下手側から、第一ヴァイオリン→第二ヴァイオリン→ヴァイオリン-チェロ→ヴィオラの配置で、コントラバスは中央最後方に八台一列に並ぶ、モダン-オーケストラとしては珍しい形態だ。木管パートは後方中央でコントラバスの前、ホルンは後方下手側、その他の金管は後方上手側の位置につく。

着席場所は、ど真ん中より僅かに前方かつ下手側である。客の入りは7割ほど。観客の鑑賞態度はかなり良好である。

「ルスランとリュドミラ」序曲は、普通の出来である。

二曲目、ベートーフェンのヴァイオリン協奏曲のソリストはイザベル=ファウストである。イザベルが調子に乗り出したのは、第一楽章カデンツァからだ。カデンツァはティンパニも加わったものであるが、今年6月15日に開催された軽井沢大賀ホールでのクリスティアン=テツラフ+マーラー室内管弦楽団とも違うカデンツァのように思えたが、気のせいか。

イザベルはニュアンスを前面に出した演奏で、第二楽章も良いし、第三楽章では、ここでこうくるかと唸らせる一音もある。特に技巧的な聴きどころをゆっくりと絶妙なるニュアンスを効かせてくる点が素晴らしい。パワーを前面に出さないニュアンス指向の奏者が、大管弦楽相手にこれだけやれるだけ見事なものだ。

理想を言えば、テツラフのように800席前後の音響の良い中規模ホールでの開催であれば、イザベルにとっては最も適した状況ではあったのだろうけど。

ソリスト-アンコールは一曲あるが、飛行機に乗り遅れそうな状況だったため記録できなかった。

休憩後の後半は、ブラームスの第一交響曲である。最初がゆっくり目である他は、普通のペースで、小刻みなテンポの変動はなく、堂々とした演奏といったところか。

ヴァイオリンの圧倒的な強みを軸にしている演奏だ。管楽器は、超絶技巧の持ち主の技量ではないけれど、それでも要所要所で確実に決めている。フルートの存在感が映えている。金管は控えめな響きではあるが、第四楽章の始めの部分での、ホルンとトランペット(?)との掛け合いの部分がきれいに決まるなど、地味に溶けあう演奏になっていたように思う。

ヴァイオリン以外は自己主張はあまりなく、一つの管弦楽としてのまとまりを重視した演奏なのであろうか。全員がベルリン-フィルハーモニーほどの超絶技巧の持ち主でない条件下で、何故かそのような技量などどうでもよいと思わせる方向性での音作りを、イルジー=ビエロフラーヴェクが実現させている。各奏者の技量を把握し、実力以上というか、実力をフルに活かす演奏を構築した点が、目立ちはしないがビエロフラーヴェクの指揮者としての力量を感じる。

アンコールは三曲あり、おそらく10月30日のサントリーホールでの公演の時と一緒であろう。ブラームスのハンガリー舞曲5番が第一曲目である。第二曲目はスメタナの歌劇「売られた花嫁」序曲であるが、各楽器がソリスティック(と言うのが適切であるのかは不明であるが)に出るべき箇所でパッションを強く出す印象的な演奏で、傑出した演奏である。この二曲目で観客を熱狂させた後で、第三曲目では「ふるさと」で締める。反則と言っても良いアンコール選曲の絶妙さを持って、予想外のスタンディングオベーションで演奏会を終える。最後に一人だけ呼び出される、イルジー=ビエロフラーヴェクのうれしそうな顔が印象的であった。

2013年10月26日土曜日

新国立劇場 歌劇「フィガロの結婚」 評

2013年10月26日 土曜日
新国立劇場 (東京)

演目:
ヴォルフガング=アマデウス=モーツァルト 歌劇「フィガロの結婚」 K.492

フィガロ:マルコ=ヴィンコ
スザンナ:九嶋香奈枝
アルマヴィーヴァ伯爵:レヴァンテ=モルナール
同伯爵夫人:マンディ=フレドリヒ
ケルビーノ:レナ=ベルキナ
マルチェリーナ:竹本節子
バルトロ:松位浩
バジリオ:大野光彦
ドン=クルツィオ:糸賀修平
アントニオ:志村文彦
バルバリーナ:吉原圭子

合唱:新国立劇場合唱団

演出:アンドレアス=ホモキ
美術:フランク=フィリップ=シュレスマン
衣装:メヒトヒルト=ザイペル
照明:フランク=エヴァン

合唱指揮:冨平恭平
チェンバロ:石野真穂
管弦楽:東京フィルハーモニー交響楽団(TPO)
指揮:ウルフ=シルマー

新国立劇場は、10月20日から29日までの日程で、モーツァルト作歌劇「フィガロの結婚」を、計4公演に渡って繰り広げられる。この評は、第三回目10月26日の公演に対するものである。

着席位置は一階階中央後方、ギリギリ雨宿り席にならない場所である。一階席の最後方席に空席が目立った事を考えると、8割程の入りか。観客の鑑賞態度は概ね良好であった。

休憩は、第二幕と第三幕の間のみの一回のみである。

舞台壁は、全般を通して二回しか動きがなく、これ以外は固定されている。上から見ると台形の形となっており、客席側が広く舞台後方が狭い。上下方向でも同じである。大抵の場合、役者は後方の壁が開く事によって舞台から出入りする他、舞台前方に梯子があり奈落に繋がり、ケルビーノが二階から飛び降りるシーン等で使用する。

第二幕の終わりで壁がずれ、床は左を上に傾き、後半でさらに壁がずれる。

舞台の上には荷物を入れる段ボール箱が数個以上配置される。この段ボールの中に人が隠れたりする。

舞台はシンプルでモダンな形態であるが、役者が着る衣装はモーツァルト時代のものを思わせるもので、伝統とモダンとの折衷形態というところか。

演劇面では、役者は極めて視覚面で似合っている。伯爵夫人を演じるマンディ=フレドリヒは如何にも品格があり上品な雰囲気であるし、スザンナを演じる九嶋香奈枝はスラッとした体格で結婚したくなる雰囲気を醸し出す活発な娘であり、ケルビーノを演じるレナ=ベルキナもまたスラッとして少年のような雰囲気であり、出番が少ないバルバリーナを演じる吉原圭子に至っては小柄かつ華奢な体格で、如何にも小娘という形だ。良くもこれだけ役者を揃えたものである。

ソリストの出来について述べる。

主役のフィガロ役のマルコ=ヴィンコは最悪の出来で、特に第一幕・第二幕では声量が全く足りない状態であり、音楽として成立していない状態である。今すぐ成田から国外追放して、二度と日本に来るなと言ってやりたくなる程の酷さだ。後半はいくらか持ち直したが、私はこの歌い手に対してだけは拍手をせず、掌を役者に見せる事によって抗議の意志を示した。ブーイングが出なかったのが不思議なくらいである。

これに対して、伯爵夫人役のマンディ=フレドリヒは声量・安定感を伴ったニュアンスが良く、一番の出来である。声量がありながらパワーではなく上品さすら感じさせたが、これは声の安定感が齎しているのであろうか。このレベルの歌唱でありながら、全力を出し切っている雰囲気は全くなく、十分な余裕を持っていると感じさせるところが恐ろしい。

第三幕のアリア、管弦楽との(敢えて言えば)二重唱が決まっている。マンディとウルフとの完璧な二重唱と言った形で、実力ある室内管弦楽団の持つ精緻さをも実現させている。

スザンナ役の九嶋香奈枝は、前半こそもう少しの声量が欲しかったところもあるが、小柄な体格でありながら重要な役を務める努力が感じられるところがある。後半調子を上げたように思えるのは気のせいであろうか、マンディとの二重唱をしっかりお相手しており、マンディとの枢軸を見事に形成している。

新国立劇場オペラ研修所の第4期生である彼女であるが、日本からも重要な役を担える歌い手を輩出し始めている事を実感する。

ケルビーノ役のレナ=ベルキナは、この奇妙な役柄を見事に演じ切っている。声量は文句なく、特に前半はマンディに匹敵する出来である。

その他、伯爵役のレヴァンテ=モルナールは、全てが全て理想的ではなかったが、合格点か。マルチェリーナ役の竹本節子の歌唱も、安定感ある声量で盛り上げている。バジリオ役の大野光彦も良い出来だ。

管弦楽の東京フィルハーモニー交響楽団は、全てが全て技巧面で完璧と言うわけではないが、ウルフ=シルマーの意図を実現している。序曲での響きが弱く感じたのは、一階席だったからなのだろうか、しかしながら本編に入るとその違和感は消え去る。ウルフ=シルマーの指揮は、音のうねりや新鮮なアクセントを効かせており、その構成力を堪能した。

2013年10月20日日曜日

アンジェラ=ヒューイット アフタートークの内容について

2013年10月20日 日曜日
三井住友海上しらかわホール (愛知県名古屋市)

同日に行われたリサイタル(別稿参照)の後で開催された、アフタートークでアンジェラ-ヒューイットが話した内容について記述する。

なお、英語で書かれてある箇所を除き日本語での通訳の内容をまとめたものであり、通訳の正確性及び、私の聴きとり・解釈の正確性、この二重の意味で内容の正確性は保証しない。

通訳は久野理恵子である。この通訳は、2013年2月9日に横浜みなとみらいホールで開催された「エサ-ペッカ=サロネン 自作を語る」でも登場していた通訳でもあり、音楽の知識を併せ持った通訳であることは明らか、音楽関係の通訳者としては、その業界ではかなり名を知られているのでないだろうか。ナビゲーターは、月刊ぶらあぼ編集長の田中泰である。

リサイタル後に帰った観客は半分くらいいた。演奏会終了後、アフタートークまでに40分近い時間があったからなのか、名古屋人の気質によるものなのか。

以下、アンジェラ=ヒューイットが話した内容である。

J.S.バッハの「フーガの技法」をについて、二回に分けて演奏する(注:名古屋公演では10月20日と22日に分けて、「フーガの技法」を半分ずつ演奏した)ことについて

外国のホール(注:実際にはそのホールの名を挙げていた。ロンドンのロイヤル-フェスティバルホール?)の企画により、二回に分けて演奏する機会があった。その流れである。

「フーガの技法」は退屈な作品だと思っていた。演奏のやり方によって違う成果が得られる。十年前や十五年前であったら、今のようにはできなかったかも。

「フーガの技法」には楽器の指定がない。音符しかない。様式への理解が必要である。曲を理解するに当たっては、垂直にではなく、水平に見ていく必要がある。

「フーガの技法」は、バッハが自分自身のために作ったものだ。既に流行遅れの様式であった。楽譜は30部しか売れなかった。聴く側にも相当の集中力を要する。

プログラムにベートーフェンとの組み合わるに当たって、op.101(10月20日公演)とop.110(10月22日公演)を対象とした。二つとも最終楽章がフーガ形式である。ベートーフェンをバッハからみる(ショパンからではなく)。

10月20日公演の際にバッハの作品でヴィルヘルム=ケンプ編曲の作品を入れた理由については、オルガニストでもあったケンプへのオマージュである。

「フーガの技法」に於けるバッハの絶筆部(コントラプンクトゥス14)は感動的な場所である。ここで演奏を止める。沈黙の中で生きるものがある。この後コラールに進む。バッハが口述筆記したものである。バッハ最期の部分であるが、死であるがト長調で書かれてあり、そこにバッハの生き様が表れている。(注:この部分は10月22日の演奏で実現されたかと思われる。残念ながら、私は臨席していない)

映像を作っているが、この目的は解説である。日本では日本語ができないため行っていないが、演奏会時には簡単な解説をしている。

(ここからピアノによる実演を行いながら「フーガの技法」を解説し始める)

コントラプンクトゥス6については、楽譜通りに弾いてはならない。フランス様式の文脈によって弾いていかなければならない。(楽譜通りとフランス様式の文脈での演奏を実演して)、フランス様式の文脈の演奏の方が面白いでしょ♪

コントラプンクトゥス14は四部形式、4つ目の主題があると考えている。三つの主題を一緒にしたものに、オリジナルなものを加えている。

バッハは音楽を無限のものと考えていたのではないか。曲を終わらせたくなかったのでは。

(ピアノ実演はここで終わり。その他にも解説はあったが、どうにも辻褄が合わないところがあり、自信を持てない部分は割愛した)

1979年のコンクールでは、デリカシーのある演奏を行う事が出来た。

グレン=グールドとの唯一の共通点はカナダ人であることだけ。

私(アンジェラ)もグレン=グールドも自分の道を歩んできた。グールドは「フーガの技法」をオルガンで演奏した。オルガンでは音の透明感や声部を際立たせる効果がある。一方でピアノは広い強弱・音域を実現できる。

カナダ楽派が無いのが良かった。これにより個性的な音楽家が生じた。ヨーロッパから優秀な先生が来てくれた事は、その要因である。

ファツィオリ社(イタリア、ヴェネツィアのピアノ工房)のピアノは1999年から使用している。タッチが絶妙であり、最高にクリエイティブなコントロールが行える。高音部では音が跳ねまわり軽やかに響く。一方低音部はクリアな響きである。

iPadの楽譜は、そんなに集中して見ていない。何もない砂漠で三週間邪魔もなく過ごせれば、暗譜は可能であるが、そのような機会はない。しかしながら、譜めくりの人が横にいるのは嫌だ。楽譜のめくりは足により操作する。楽譜は、私(アンジェラ)が記号を書いたものをスキャンしてiPadに読み込む。

イタリアはペルージャ(ウンブリア州)のフェスティバルは、2014年は7月5日から11日まで、7日間に6演奏会を開く。2014年で第10回目を迎える。多くの仲間と一緒に演奏できる機会である。

ベートーフェンのop.101・op.110は、レガートは指で実施し、ペダルを用いてはならない。ベートーフェンは葛藤が大事である。透明感が必要なのは、バッハと一緒である。

集中力は徐々に培うものである。他の考えをシャットアウトするしなければならない。6時間トレーニングした時は、6時間歌っている(別の事をしている)。しかしながら、ピアノを弾きながら歌ったりなんてしないですよ、グレン=グールドではないのですから♪♪

アンジェラ=ヒューイット ピアノ-リサイタル 評

2013年10月20日 日曜日
三井住友海上 しらかわホール (愛知県名古屋市)

曲目:
ヨハン=セバスティアン=バッハ(ヴィルヘルム=ケンプ編曲):「いざ来たれ、異教徒の救い主よ」 BWV659
ヨハン=セバスティアン=バッハ(ヴィルヘルム=ケンプ編曲):フルート-ソナタBWV1031より「シチリアーノ」
ヨハン=セバスティアン=バッハ(ヴィルヘルム=ケンプ編曲):カンタータ 第29回「神よ、われら汝に感謝す」 BWV29より「シンフォニア」
ルートヴィッヒ=ファン=ベートーヴェン:ピアノ-ソナタ 第28番 op.101
(休憩)
J.Sバッハ:「フーガの技法 BWV1080」より「コントラプンクトゥス」第1曲から第10曲まで

ピアノ:アンジェラ=ヒューイット

ピアノはイタリアのファツィオリ社製で、持ち込みのピアノである。

着席場所は、若干後方かつやや上手側である。客の入りは6割程である。観客の鑑賞態度はかなり良好だった。

アンジェラの演奏姿勢はそれほど動かず、二つか三つの姿勢で演奏している形である。

前半部は、一言で言うと「華やか」で見た目通りの女性的な演奏だ。第二曲目の「シチリアーノ」で調子に乗った感じがある。ある特定のフレーズで観客の方を向いたりするのは、ここが聴きどころだよと教えてくれているのか、それとも静かに聴いている観客が実は寝ているのか起きているのかをチェックしているのか、ちょっと謎だ。

バッハもベートーヴェンも、アンジェラ風に華やかに軽やかに染めている感じ。パッションを込めて強く弾く部分も、彼女独特のテンポの扱い方も相乗して、どこか蝶が舞いあがる印象がある。この印象については、ファツィオリ社製のピアノの音色も、重要な役割を果たしている事は言うまでもない。

シルバーの光沢あるドレスを着た姿はスラッとした容姿で、写真よりも美しい。妙に彼女の奏でる音と合っている。

後半はバッハの「フーガの技法」。前半とは打って変わって、時折客席を見つめる事もなく、曲にのめり込んで行くかの演奏である。後方上手側だと分からないが、楽譜はiPodを用いているらしい。それぞれの曲の導入部から全開に展開するまでの時間が微妙に長い曲想であることもあり、観客の側にも集中力を要するところがある演奏だ。ティントレットよりもティッツィアーノが好きな享楽主義の私にとっては、前半部の方が好みであるが、そのような事を言ったら怒られるだろうか。

アンコールは、グルックの歌劇「オルフェオとエウリディーチェ」から「聖霊の踊り」。前半部と同じような華やかで軽やかな演奏で、「フーガの技法」の疲れを癒してくれた。

アフタートークについては、別稿を参照願う。

2013年10月19日土曜日

マレイ=ペライア アフタートークの内容について

2013年10月19日 土曜日
彩の国さいたま芸術劇場 音楽ホール (埼玉県与野市)

同日に行われたリサイタル(別稿参照)の後で開催された、アフタートークでマレイ=ペライアが話した内容について記述する。

なお、英語で書かれてある箇所を除き日本語での通訳の内容をまとめたものであり、通訳の正確性及び、私の聴きとり・解釈の正確性、この二重の意味で内容の正確性は保証しない。

リサイタル後に帰った観客はごく少なく、ほぼ全員がそのまま残ってアフタートークに臨んだ形となる。

以下、マレイ=ペライアが話した内容

リサイタルのプログラムについては、ベートーフェンの「熱情」を中心に据えた。その「熱情」を軸に、対照的になるようにプログラムを構成した。悲劇的な「熱情」に対してバッハのフランス組曲を置くように。

ベートーヴェンはシェイクスピアからの影響を受けている。「熱情」については、ハムレットからの影響を受けているのではないか。第一楽章は亡霊を描写的に、第二楽章は祈り、第三楽章は復讐という形で。

ホロヴィッツと一緒に勉強した。

ヴィルトゥオーソを超えるためには、まずヴィルトゥオーソにならなければならない。

過去のヴィルトゥオーソ(ケンプ・ルービンシュタイン・ホロヴィッツ)は、曲の内面・感情に対する深く追求していた。

バッハは、故障により演奏不可能となった時によく聴いていた。癒し・感動がもたらされた。バッハのコラールは、全ての音楽に対しての原点である。

レコーディングについて。後期ベートーフェンについては、op.110とop.109はよく演奏している(から対象となるだろうと暗示?)。op.111はちょっと難しい(から対象にはならないと暗示?)。

ピアノの音については、音色はあまり考えていない。大切な事は、耳から聴こえてくる音が納得できるものであるか否か。個性的な音、本当に自分がどんな音を求めているかを追求している。

音楽に対する愛(love)が大切である。その為には音楽を聴く事(listening)が重要だ。音の要素や意味合いを考えていく事が大切である。

マレイ=ペライア ピアノ-リサイタル 評

2013年10月19日 土曜日
彩の国さいたま芸術劇場 音楽ホール (埼玉県与野市)

曲目:
ヨハン=セバスティアン=バッハ:フランス組曲第4番 BWV 815
ルートヴィッヒ=ファン=ベートーフェン:ピアノ-ソナタ第23番 「熱情」 op.57
(休憩)
ロベルト=シューマン:「ウィーンの謝肉祭の道化」
フレデリック=ショパン:即興曲第2番 op.36
フレデリック=ショパン:スケルツォ第2番 op.31

ピアノ:マレイ=ペライア

着席場所は、ど真ん中より僅かに上手側である。チケットは、前日5枚残っていた分を売り切り、一旦完売していた後、当日券が2枚だけ出てこれも完売した。観客の鑑賞態度はかなり良好だった。

マレイ=ペライアの演奏姿勢はほぼ一定で、あまり変化がない。

第一曲目の、J.S.バッハ:フランス組曲第4番、最初の音から、主と対話しているかのオーラが出ている。全く無駄な音がない。全ては必然である。テンポを揺るがせる訳でもなく、技巧を見せつける訳でもなく。通常奏者の表情も観察したがる私であるが、このバッハにだけは、敢えて奏者から目を逸らす。演奏している映像をシャットアウトし、音だけに集中するべき状況だと思ったから。

二曲目であるベートーフェンの「熱情」は、打って変わってペライア節を前面に押し出す演奏である。特に、最高音をどこに設定するかの解釈に、強い個性が発揮される。通常跳ね上がるように弾かれる三音を敢えて平板に奏したり、テンポの変化が激しくなる。かなり冒険的で、観客の中で好き嫌いが出そうな演奏である。


後半はシューマンとショパン。こちらはベートーフェンとは違って、楽譜通りに自然な感じで演奏していく路線であるが、一方でベートーフェンで見せたペライアの個性を絶妙な形で融合させている。ペライアのパッションは、ベートーフェンではごつごつした武骨な感じになるが、特にショパンとなると、どうしてこれほどまでに相性良く絶妙な形になるのか。ショパンとペライアの完璧な相性を感じた演奏である。

曲によってペライアはアプローチを大幅に変えてくる。私の好みと言う点では、バッハとショパンがそれぞれ全く別の意味で双璧を占める。

アンコールは、ショパンのノクターンop.15-1、シューベルトの即興曲第2番 D899-2、ショパンのエチュードop.10-4、の三曲であった。

演奏会後にアフタートークがあったが、その内容については別稿を参照願う。

2013年10月16日水曜日

堀米ゆず子 バッハ-ブラームス プロジェクトI 松本公演 評

2013年10月16日 水曜日
松本市音楽文化ホール (長野県松本市)

曲目:
ヨハネス=ブラームス:ピアノ五重奏曲 op.34
(休憩)
ヨハネス=ブラームス:ヴァイオリン-ソナタ 第3番 op.108
ヨハン=セバスティアン=バッハ 無伴奏ヴァイオリン-パルティータ 第2番 BWV.1004

ヴァイオリン:堀米ゆず子・山口裕之
ヴィオラ:小倉幸子
ヴァイオリン-チェロ:辻本玲
ピアノ:リュック=ドゥヴォス

着席場所は、中央上手側である。客の入りは半分強で、少なめだ。観客の鑑賞態度は概ね良好であった。

私が知る限り、同じプログラムでの演奏会は、10月18日に白寿ホール(東京)、10月20日に兵庫県立芸術文化センター大ホール(兵庫県西宮市)でも開催される。また、プログラムを半分変形させた形で、10月19日に山形シベール-アリーナ(山形県山形市)でも開催される。一連の公演の初回公演となる。白寿ホールはともかくとして、兵庫県立芸術文化センター大ホールでの公演は無謀かと思われるが・・・。

プログラムは、五人が二人になり、最後は一人になる構成である。当初発表されていたプログラムは、一人が二人になり、最後は五人になる構成だったから、当日来てみたら逆転していたという展開だ。

前半はブラームスのピアノ五重奏曲、この曲がいかに難しいかを認識させられた演奏である。この瞬間の音をどのように響かせ、その為には個々の奏者がどのような音を出すかという点で難しい。実際の演奏は、何となく響きが精緻ではないけど、堀米ゆず子の力技というか、パッションで持たせた印象が強い。個々人の技量ではなく、五重奏全体の問題として、常設の室内楽団でなければ難しいところもあるのか。

後半の曲目は、ブラームスのヴァイオリン-ソナタ第3番と、バッハ無伴奏ヴァイオリン-パルティータ第2番である。

ブラームスのヴァイオリン-ソナタは、第一楽章の堀米ゆず子がやけに大雑把である。冒頭の平板な響きや、弱奏部で二つの音の間で波打たせる表現に、特にそのように感じられる。一方で、強奏部はよく響かせており、パッションを乗せやすいように思える。

バッハの無伴奏ヴァイオリン-パルティータは、速めのテンポである。前曲の大雑把さが不安を抱かせたところであるが、予想外にいい出来だ。強めに弾いているところもあり、前曲のように苦手部分が露呈しないこともあるのか。第四楽章までは調子良かったが、やはり最後の「シャコンヌ」は、冒頭部のテンポの速さからしても、「主との対話」の領域とまでは行かない。堀米ゆず子は、どちらかと言うと如何にドラマティックに作り上げるかを意識しているのかとも思える。ヒラリー=ハーンの領域に達する事の難しさを、改めて思い知らされた。

アンコールは一曲で、おそらくバッハの無伴奏曲からの一曲である。曲名は明らかにされなかった。

2013年10月6日日曜日

新国立劇場 歌劇「リゴレット」 評

2013年10月6日 日曜日
新国立劇場 (東京)

演目:
ジュゼッペ=ヴェルディ 歌劇「リゴレット」

リゴレット:マルコ=ヴラトーニャ
ジルダ:エレナ=ゴルシュノヴァ
マントヴァ公爵:キム=ウーキュン
スパラフチーレ:妻屋秀和
マッダレーナ:山下牧子
モンテローネ伯爵:谷友博
ジョヴァンナ:与田朝子
マルッロ:成田博之
ボルサ:加茂下稔
チュプラーノ伯爵:小林由樹
チュプラーノ伯爵夫人:佐藤路子
小姓:前川依子
牢番:三戸大久

合唱:新国立劇場合唱団

演出:アンドレアス=クリーゲンブルク
美術:ハラルド=トアー
衣装:ターニャ=ホフマン
照明:シュテファン=ボリガー
振付:ツェンタ=ヘルテル
合唱指揮:三澤洋史
管弦楽:東京フィルハーモニー交響楽団(TPO)
指揮:ピエトロ=リッツォ

新国立劇場は、10月3日から22日までの日程で、ヴェルディ作歌劇「リゴレット」を、計7公演に渡って繰り広げられる。この評は、第二回目10月6日の公演に対するものである。

着席位置は二階中央前方、9割程の入りである。観客の鑑賞態度は概ね良好であったが、第一幕第二場「慕わしき御名」にて二階正面後方席でビニールの音を二分以上にも渡って鳴らす演奏妨害があった。

休憩は、第一幕と第二幕の間のみの一回のみである。

舞台は、第一幕・第二幕では、現代風のホテルの部屋やロビー、廊下、階段を円柱三層構造にした巨大な回転体があり、これをメリーゴーランドのように、場面に応じて様々な速度で動かしたり止めたり回転方向を逆転させたりする。舞台脇にはホテルの中にあるようなバルを設置している。この舞台は二幕に渡って変化はなく、そのままホテルやリゴレット邸の舞台としている。

第三幕では、一転郊外にあるスラム街のような背景である。アルコールの宣伝広告が三つあり、Twitter上でのWilm Hosenfeld さん(‏@wilmhosenfeld)の解説(2013年10月6日投稿)によると、「中央は、Spumante Ducale(公爵スパークリング)、右は、Birra Mantova(マントヴァ・ビール)。ビールには、dal 1813とヴェルディの生年が。左のワインには、『頭痛の日』という能書きがある」。

舞台の出来は秀逸で、高級ホテルのような第一幕・第二幕の場面と、怪しげな第三幕のスラム街の対比が、悲劇的結末へ至る見事なインフラとなっている。現代風ではあるが演目との違和感は感じない。

衣装も現代風で、マントヴァ公爵やその手下は、如何にもマフィア風である。舞台と一致している衣装であり、これまた演目との違和感は感じない。

演劇面では、冒頭から女性の扱いが乱暴である。「あれかこれか」は、ムフフな気分ではとても聴けない。「あの女性を抱いては次の女性に心変わり♪」と言った雰囲気ではなく、とにもかくにも「女を捨て、女を捨て」と言った形で最初から最後まで一貫している。捨てられ疲れ切った下着姿の娼婦の姿をしつこいほどに背景に存在させる。男の残酷さ、男性優位社会の不条理を強く印象付ける演出ではある。あまりに強い演出であるが故に、女性の観客の中には、直視できなかった人たちもいたかもしれない。

ソリストの出来について述べる。

リゴレット役のマルコ=ヴラトーニャは、第一幕では九割程の調子であるが主役としての役割を果たしている。第二幕になり管弦楽の強奏に乗ることが出来ず失速したが、終始主役として求められる存在感あるニュアンスで何とか持ちこたえ、調子が悪いなりに頑張ったか。

ジルダ役のエレナ=ゴルシュノヴァは、主要な役としてはギリギリ合格点と言った程度か。

マントヴァ公爵のキム=ウーキュンが抜群の出来だ。あれなら、女性たちも口説かれるのに納得する。「あれかこれか」、一回目の「女心の歌」については、荒っぽさがある。しかし、第一幕第二場でのジルダとの二重唱ではパワー・コントロールとも完璧である。口説く場面になるとテンションが上がるのか、一旦誘惑する女性が側につくと、全てが完璧となり圧巻の出来だ。それにしても徹底的に悪役を演じきる。そういう奴だから、マントヴァ公爵が生き残ったのかと、この歌劇の不条理に納得させられる役割を十二分に果たしている。

その他、マッダレーナ役の山下牧子は声が通っていて良い出来だ。モンテローネ伯爵役の谷友博は、呪いをかける部分での迫力が全くなく、遺憾である。登場する場面が短い役であるが、その呪いは第一幕第一場で重要な場面の一つであり、力のある歌い手である必要があった。

管弦楽の東京フィルハーモニー交響楽団は、演奏会毎の出来不出来が激しい楽団であるが、今回の公演での管弦楽に違和感を感じられるところはなく、したがって良い出来であったと思われる。

2013年10月5日土曜日

第88回 水戸室内管弦楽団 定期演奏会 演奏会評

2013年10月5日 土曜日
水戸芸術館 (茨城県水戸市)

曲目:
アントニーン=レイハ 演奏会用序曲 op.24
アントニオ=ロゼッティ 二つのホルンのための協奏曲 MurrayC56Q
ジャック=イベール 「ディヴェルティスマン」
(休憩)
ヨーゼフ=ハイドン 交響曲第101番「時計」 Hob.I-101

ホルン:ラデク=バボラーク、アンドレイ=ズスト
管弦楽:水戸室内管弦楽団(MCO)
指揮:ラデク=バボラーク

MCOは、ラデク=バボラークを指揮者に迎えて、2013年10月5日・6日に水戸で、第88回定期演奏会を開催した。この評は、第一日目の公演に対してのものである。

管弦楽配置は、舞台下手側から、第一ヴァイオリン→第二ヴァイオリン→ヴァイオリン-チェロ→ヴィオラのモダン配置で、コントラバスはチェロの後方につく。木管パートは後方中央、ホルンは後方上手側、その他の金管・ティンパニは後方下手側の位置につく。

着席位置は正面やや前方やや上手寄り、客の入りは9割5分である。観客の鑑賞態度は、携帯電話のマナモードの音が一回あったが大きな影響は与えず、その要素を除けばかなり良好であった。楽曲の解説は、家業の都合で退職された元水戸芸術館学芸員の矢澤孝樹さんで、正面後方の席で臨席している。

第1曲目、レイハの「演奏会用序曲」は、ゼネラルパウゼで残響感を強調する場面があって面白い。

第2曲目のロゼッティの協奏曲は、ヨーゼフ=ハイドン作とされていたもの。バボラークとズストのホルンは柔らかい音色でかつユニゾンもしっかり揃っている。ソリストが先頭に立って走るというよりは、ソリストと管弦楽とが協調し盛り上げていくアプローチである。もっとも、残念ながらもともとの曲想が曲想なだけに、観客に強い印象を与えるものではない。

第3曲目のイベールのディヴェルティメント、最高に楽しい!もちろん、弦管打鍵全て非の打ち所がない完璧な演奏に支えられている。特に第五曲・第六曲は、スリリングな要素を持つ曲を演奏させたら無敵のMCOならではの完璧な演奏である。確か元ヴィーン-フィルのローランド=アルトマンさん、ホイッスルも特技なのですね

休憩後のハイドンの交響曲「時計」、第一・第三楽章は、ゆっくり目で一定のテンポで、濃厚なニュアンスで攻める。遅いテンポであることで見えてくるものはあるが、テンポが一定であることもあり躍動感があるわけではないので、好みは分かれるだろう。正直私が好みの展開ではない。

バボラークが冒険したのは第二・第四楽章だ。第二楽章はチクタクが気迫となる展開部の強い表現が印象的である。特に一回目の展開部は本当に見事だ。バボラークの指揮者としての構成力を思い知らされる。

第四楽章はスリリングな展開でドキドキさせて終わらせる。MCOの最も良い特質が出てくる展開で演奏会を締めくくる。

アンコールはなかった。

2013年9月29日日曜日

日本フィルハーモニー交響楽団 「メサイア」演奏会評

2013年9月29日 日曜日
長野県松本文化会館 (長野県松本市)(※)

曲目:
ゲオルク=フリードリヒ=ヘンデル オラトリオ「メサイア」 HMV56

ソプラノ:オクサーナ=ステパニュク
アルト:坂上賀奈子
テノール:大槻孝志
バス:太田直樹

合唱:公募の県民合唱団
管弦楽:日本フィルハーモニー交響楽団(JPO)
 ゲスト-コンサートミストレス:物集女純子
 オルガン・チェンバロ:石野真穂
指揮:田中祐子

メサイア実行委員会は、JPOその他を管弦楽・ソリスト・指揮者として迎えて、2013年9月29日に長野県松本文化会館にて「メサイア」演奏会を行った。合唱団はアマチュアである。通常、長野県松本文化会館はボイコットしている私であるが、今回は友人知人の出演があり、他の予定が入っていない事を考慮し臨席することを決めた。

会場が、音響が優れている松本市音楽文化ホールではなく、この長野県松本文化会館となったのは、音楽面云々の問題ではなく、単に長野県文化振興事業団が関わった事業だからであろう。

管弦楽は、第一ヴァイオリン(8名)→第二ヴァイオリン(6名)→ヴィオラ(5名)→ヴァイオリン-チェロ(3名)→コントラバス(2名)と小ぶりな編成である。

着席位置は2階正面前方やや上手寄り、客の入りは5割程である。観客は1階に集中し、音響が比較的マシな2階は50名程度しかいない。観客の鑑賞態度はおおむね良好であったが、強風が吹き付けるピュー音が気になった。

前述したとおり、JPOの編成はかなり小さく、その上杉並公会堂に慣れたJPOがこのデッドな響きの長野県松本文化会館で十分な音量を出せるか疑わしかったが、予想外によい響きが出ている。合奏精度が十分に保たれ、強く弦を響かせているからなのか。

ソリストはテノールの大槻孝志の出来がダントツである。響きの強さ、安定性が抜群である。

ソプラノは二階を向いて歌うとなぜかよく響く状態である。但し、合唱をしている人たちの評価では、音取りに問題があったとのこと、最後のソプラノ-ソロのアリアが怪しかったようであるが、そのアリアで私が睡魔に襲われたのは、何か目に見えない作用があったのか。

アルトは、二階席に届くパワーが十分ではなかったが、曲が進むに連れ幾分改善された印象。バスは、パワー面ではともかく、ヴィブラートがあまり上手でなかった。

合唱はアマチュアであること、会場が長野県松本文化会館であることを踏まえれば、ここまでの出来まで仕上げただけ見事である。とにもかくにも特にソプラノの元気がよい。この長野県松本文化会館では、大きく響かせる事がまず重要で、精密さは二の次である。そのアプローチは見事に当たっていた。

(※:長野県松本文化会館は、2012年7月から、松本市に本社があるキッセイ薬品のネーミング-ライツにより「キッセイ文化ホール」と称されているが、呼称の変更に伴う混乱を避けるため、従前通り「長野県松本文化会館」の表記を用いる事とする。なお、長野県松本文化会館は長野県政府の施設であるが、長野県政府は県政府により設立された施設に「長野県立」の表記を用いない。)

2013年9月28日土曜日

ベルリン-フィルハーモニー木管五重奏団 与野公演 演奏会評

2013年9月28日 土曜日
彩の国さいたま芸術劇場 (埼玉県与野市)

曲目:
ヨーゼフ=ハイドン ディヴェルティメント Hob.II-46
ヴォルフガング=アマデウス=モーツァルト(ハーゼル編曲) 自動オルガンのための幻想曲 K. 594
ヴォルフガング=アマデウス=モーツァルト(ハーゼル編曲) セレナーデ K.388
(休憩)
ジャック=イベール 木管五重奏のための3つの小品
ダリウス=ミヨー 組曲「ルネ王の暖炉」 op.205
パウル=ヒンデミット 5つの管楽器のための小室内音楽 op.24-2

ベルリン-フィルハーモニー木管五重奏団(Berlin Philharmonic Wind Quintet)
 フルート:ミヒャエル=ハーゼル
 オーボエ:アンドレアス=ヴィットマン
 クラリネット:ヴァルター=ザイファルト
 ホルン:ファーガス=マクウィリアム
 ファゴット:マリオン=ラインハルト

着席場所は、一階ど真ん中である。チケットは全て売り切れている。

同じプログラムでの演奏会は、9月29日に戸塚区民文化センター さくらプラザ(神奈川県横浜市)開館記念公演でも開催されるが、彩の国さいたま芸術劇場の音響に勝るはずはなく、当然の事として与野公演を選択する事となる。

この他にも私が把握している範囲内で、高知県四万十市でも四万十国際音楽祭の一環として、前半部のプログラムを組み替えた形の公演があり、(未曾有の事故を発生させた福島第一原子力発電所に近い)福島県相馬市でも、相馬子どもオーケストラとの交流コンサートに臨んでいる。

前半は、曲目が曲目もあり、誤解を恐れずに言えば、極上の子守り唄を聴いている気分になる。特に、最初の二曲は安全運転に徹した印象が強い。しかしながら、個々の技術は完璧であることがよく分かる。残響のみを残したい時に、楽器をすぐに唇から話すのは、彩の国さいたま芸術劇場の豊かな残響を踏まえての事だろう。無意識の内に演奏者自身で残響を作り出さないようにしているのだろうか、すっと音を落とすだけで残響のみに委ねる事ができる、このホールならではのテクニックであろう。

後半に入ると、彼ら彼女の本領を発揮しやすい曲目になる事もあり、次第にパッションを込めた演奏になっていく。そうは言っても、決してパッションを前面に出すと言うわけではなく、アンサンブルの精緻さや構成を最も重視していて、これを実現させるためのパッションと言うべきか。

特に傑出した箇所は、ミヨーの組曲「ルネ王の暖炉」第7曲のフルートとクラリネットとがコンマ10桁のズレもなく、一つのオルガンのような音色を発しながらホルンも加わって曲を終える所と、ヒンデミット「5つの管楽器のための小室内音楽」第5曲で、他の器楽で盛り上げた所で一つの楽器がソリスティックな演奏を披露する所である。五人にソリスティックな演奏を披露する機会が与えられるが、全員が朗々として安定感があり、それでいてパッションを込めた完璧なソロを奏でるのだ。まるでこのヒンデミットの曲のために、この木管五重奏団を結成したとしか考えられない。

総じて、よく考えられた構成を、抜群の個々のの技術で裏打ちしつつも、五重奏としての統一感を究極まで精密に感じさせた演奏である。世界最高のベルリン-フィルの管楽の中でも最良の部分を味わえ、極めて充実した演奏である。観客の拍手が暖かく響き、演奏者も気持ち良く演奏できたであろう。

私は11月のベルリン-フィルの演奏会には行けないし、「春の祭典」も聴けないけど、一人ひとりが即ソリストになれ、室内楽団を作れる実力があることが理解できた。今夜のベルリン-フィル木管五重奏団の演奏会に行けて良かったと思っている。ベルリン-フィルの演奏会の臨席できるものは、その精緻な響きを楽しんでほしい。

アンコールは、ジュリオ=メダリア(Julio Medaglia)の「ヴァルス-ポーリスタ」(Vals paulista)と、瀧廉太郎(ミヒャエル・ハーゼル編曲)の「荒城の月」であった。

2013年9月7日土曜日

第91回 紀尾井シンフォニエッタ東京 定期演奏会 演奏会評

2013年9月7日 土曜日
紀尾井ホール (東京)

曲目:
蒔田尚昊 組曲「歳時」(2012年 新日鉄住金文化財団委嘱/世界初演)
クロード=ドビュッシー(アンドレ=カプレ編曲) 子どもの領分
(休憩)
アルベール=ルーセル 小管弦楽のためのコンセールOp.34
フランク=マルタン 7つの管楽器とティンパニ、打楽器、弦楽器のための協奏曲

管弦楽:紀尾井シンフォニエッタ東京
指揮:阪哲朗

紀尾井シンフォニエッタ東京は、阪哲朗を指揮者に迎えて、2013年9月6日・7日に東京-紀尾井ホールで、第91回定期演奏会を開催した。この評は、第二日目の公演に対してのものである。

管弦楽配置は、舞台下手側から、第一ヴァイオリン→第二ヴァイオリン→ヴィオラ→ヴァイオリン-チェロのモダン配置で、コントラバスはチェロの後方につく。木管パートは後方中央、ホルンは後方下手側、その他の金管・打楽器群は後方上手側の位置につく。

着席位置は正面後方中央、客の入りはほぼ9割程である。

第一曲目は蒔田尚昊の組曲「歳時」。日本の四季を冬→春→夏→秋の順に構成した曲である。春は「さくらさくら」の変奏の要素があり、夏は「終戦忌-被昇天祭」と題され、「君が代」のモティーフも用いられる。弦管打いずれも響きが綺麗に決まっていると同時に、それぞれの季節に相応しく演奏されている。作曲者も臨席されている。観客の反応のテンションが演奏の内容に応えていないのが非常に残念である。

第二曲目の「子どもの領分」は、個々の演奏で良いと思える部分もあるが、全般的に演奏の方向性が確立されていない演奏で精彩を欠いている。

休憩後の第三曲目のルーセルは、「子どもの領分」で落ちた楽団員のテンションを取り戻す役割を果たす。弦楽のソロの響きも明瞭である。

第四曲目のマルタンは、管楽のソリストを舞台後方に配置しての演奏だ。楽譜を率直に再現するアプローチであるが、響きのバランスは良く考えられており、ソリストも明瞭で朗々とした響きを披露する。特にオーボエとクラリネットは強烈な印象を与える。弦楽もきちんとと響かせていると同時に、精度も高い水準で保たれ、響きが綺麗でかつ力強い。室内管弦楽ならでは精緻な響きを楽しめた演奏会であった。

2013年8月31日土曜日

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サイトウ-キネン-フェスティバル 室内楽演奏会「ふれあいコンサート3」 評

2013年8月30日 金曜日
松本市音楽文化ホール (長野県松本市)

曲目:
ヴォルフガング=アマデウス=モーツァルト アダージョとロンド K.617
エリオット=カーター フルートとチェロのための「魔法を掛けられた前奏曲」
モーリス=ラヴェル(カルロス=サルセード編曲) ソナチネ (フルート・ハープ・チェロによる演奏)
(休憩)
ヴォルフガング=アマデウス=モーツァルト セレナード第11番 K.375

ヴィオラ:川本嘉子(第一曲目)
ヴァイオリン-チェロ:イズー=シュアー(前半全て)
フルート:ジャック=ズーン(前半全て・アンコール)
オーボエ:フィリップ=トーンドゥル(第四曲目)・マニュエル=ビルツ(第一曲目)・森枝繭子(第四曲目)
クラリネット:ウイリアム=ハジンズ・キャサリン=ハジンズ(いずれも第四曲目)
ファゴット:ロブ=ウイヤー・近藤一(いずれも第四曲目)
ホルン:ジュリア=パイラント・猶井正幸(いずれも第四曲目)
ハープ:吉野直子(第一曲目・第三曲目)

着席場所は、中央後方である。客の入りは9割程である。

サイトウ-キネン-フェスティバル松本は、今年は8月12日から9月7日までの日程で、歌劇・演奏会・劇音楽が開催される。このうち8月21日から8月30日までの間、「ふれあいコンサート」という名の室内楽演奏会が、それぞれ奏者・プログラムを変え計3公演に渡って繰り広げられる。この評は、第三回目「ふれあいコンサート3」に対するものである。

この演奏会には、ヴァイオリンはない。また、米国の現代音楽作曲家で昨年103歳で亡くなったエリオット=カーターが、1988年に作曲した作品も取り上げられる。

第一曲目、モーツァルトの「アダージョとロンド」は端正な演奏だ。アダージョは速度記号通り、ロンドはゆっくり目である。モーツァルトの曲想を率直に活かしている。

第二曲目、カーター「フルートとチェロのための『魔法を掛けられた前奏曲』」は、チェロのイズー=シュアのニュアンスに富んだ演奏が印象的だ。終盤に近づくにつれフルートも乗って来て、チェロとフルートとの相乗作用が効いた演奏である。

第三曲目、ラヴェルのソナチネは、さらに精緻な演奏となる。ラヴェルが書いた楽譜通りの意図を再現する方向性の演奏ではあるが、ジャック=ズーン、イズー=シュア、吉野直子のいずれもが、深くこの曲を理解し、三者の役割と相関性が活きた秀逸なる演奏である。この演奏会の白眉だ。

休憩後、モーツァルトのセレナード第11番は、出だしの響きこそ期待させるものであるが、あまりに音量が大きすぎて、私の聴覚の許容容量を超えている。演奏終了後三十分後でも、耳に痛みが残る演奏で、そもそも評価以前の演奏である。ここはすみだトリフォニーホールでもなければ、愛知県芸術劇場コンサートホールといった大ホールでは無いので、大管弦楽のノリとは違った、響きについての基本的な配慮が必要である。

予想外にアンコールが一つあり、シャルル=グノー作の「9つの管楽器のための小交響曲」より、第2楽章アンダンテ-カンタービレである。再びフルートが登場するが、そのジャック=ズーンのフルートがあまりに凄すぎる。モーツァルトのセレナードで暴走した他の奏者が同じように核分裂を引き起こしても、一人で合奏を破綻から救い、朗々と、安定感があって、それでいて歌うような、夢見るような、うっとりさせられるフルートを披露した。ジャック=ズーンのフルートで救われた演奏会であった。

2013年8月28日水曜日

サイトウ-キネン-フェスティバル-松本 歌劇「こどもと魔法」・「スペインの時」 評

2013年8月28日 水曜日
まつもと市民芸術館 (長野県松本市)

演目:
モーリス=ラヴェル 「こどもと魔法」
(休憩)
モーリス=ラヴェル 「スペインの時」

「こどもと魔法」
こども:イザベル=レナード
肘掛椅子・木:ポール=ガイ
母親・中国茶碗・とんぼ:イヴォンヌ=ネフ
火・お姫様・うぐいす:アナ=クリスティ
雌猫・りす:マリー=ルノルマン
大時計・雄猫:エリオット=マドア
小さな老人・雨蛙・ティーポット:ジャン-ポール=フーシェクール
安楽椅子・こうもり:藤谷佳奈枝

合唱:サイトウ-キネン-フェスティバル松本合唱団・サイトウ-キネン-フェスティバル松本児童合唱団

演出:ロラン=ペリー
装置:バーバラ=デリンバーグ
衣装:ロラン=ペリー・ジャン-ジャック=デルモット
照明:ジョエル=アダン
管弦楽:サイトウ-キネン-オーケストラ(SKO)
指揮:小澤征爾 ピエール=ヴァレー


「スペインの時」
コンセプシオン(時計屋の女房):イザベル=レナード
ラミロ(ロバ引き):エリオット=マドア
トルケマダ(時計屋):ジャン-ポール=フーシェクール
ゴンザルヴ(詩人気取りの学生):デイビット=ポーティロ
ドン・イニーゴ・ゴメス(銀行家):ポール=ガイ

演出:ロラン=ペリー
装置:キャロリーヌ=ジネ(オリジナルデザイン:キャロリーヌ=ジネ・フロランス=エヴラール
衣装:ロラン=ペリー・ジャン-ジャック=デルモット
照明:ジョエル=アダン
管弦楽:サイトウ-キネン-オーケストラ(SKO)
指揮:ステファヌ=ドゥネーヴ

サイトウ-キネン-フェスティバル松本は、今年は8月12日から9月7日までの日程で、歌劇・演奏会・劇音楽が開催される。歌劇公演は、8月23日から8月31日までの間、計4公演に渡って繰り広げられる。この評は、第三回目8月28日の公演に対するものである。

今回の公演は、モーリス=ラヴェルの短めな歌劇を二演目上演する。休憩前が「子どもと魔法」、休憩後が「スペインの時」である。なお、これらの歌劇は、グラインドボーン音楽祭との共同制作による。

着席位置は三階上手側前方、9割5分の入りである。おそらく追加発売された席の中で売れなかった席があったものと思われ、特に三階・四階下手側側方席は空席が目立つ。

休憩前の前半は、小澤征爾指揮の「こどもと魔法」である。懸念されていた小澤征爾の降板はなく、その他の配役も全て当初の予定通りである。

私は歌い手に対しては、協奏曲に於けるソリストのような役割を求めるが、このような響きを求める私にとっては、必ずしも全てに賛同できる演奏ではない。しかしながら、総じて歌い手と管弦楽とが溶け合った響きを随所に見せ、2010年頃までのサイトウ-キネン-フェスティバルの歌劇で見せつけられたような、歌い手と管弦楽とが融合せずにバラバラに歌い演奏している点は、限定されており、許容できる内容である。

主役のイザベル=レナードの出来は、一応合格点を与えることができる出来である。同じ歌い手が複数の役を演じるため、歌い手と登場人物との関係を掴むのに苦労させられるが、それでも中国茶碗のイヴォンヌ=ネフ、雌猫のマリー=ルノルマン、安楽椅子の藤谷佳奈枝が印象に残る。

管弦楽はラヴェルが意図した多様な響きを、明瞭かつ精緻さをもって再現し魅了させられる。特に第二場前半の群舞のシーンが印象的で、小澤征爾の数少ない名演である、水戸室内管弦楽団との「マ-メール-ロア」のライブを思い出すほどだ。

休憩後の後半は「スペインの時」で指揮はステファヌ=ドゥネーヴとなる。これも当初の予定通りである。

舞台芸術等視覚的な部分は見事に出来ており、五人の歌い手の演劇的な要素は良く考えられている。しかしながら、音楽的な要素では、歌い手と管弦楽の統一感がなく、時計屋の主人役であるジャン-ポール=フーシェクール以外の男の歌い手も声量不足で、何を考えているか分からないものである。山田和樹と出会う前の、サイトウ-キネンのオペラを思い起こさせる、ひどい出来だ。ペネロペ=クルスを思わせる印象を与えるイザベル=レナードは、かろうじて主役としての役割を演じることが出来ているか。

天皇皇后両陛下が「スペインの時」を観劇せずに退席したのは当然の出来で、これはパンティ脱ぎ捨てシーンを皇族に見せるわけにはいかないという、訳のわからない配慮以前の問題で、純音楽的な問題としてそこまでの水準に達していなかった。

小澤征爾は一応復活したが、サイトウ-キネン-フェスティバルの歌劇の水準としては、例年より少し優れているといったところであろうか。

2013年8月27日火曜日

追加ラベル (サイトウ-キネン-フェスティバル 室内楽演奏会「ふれあいコンサート2」 評 関連)

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サイトウ-キネン-フェスティバル 室内楽演奏会「ふれあいコンサート2」 評

2013年8月27日 火曜日
松本市音楽文化ホール (長野県松本市)

曲目:
ヴォルフガング=アマデウス=モーツァルト ピアノ三重奏曲第3番 K.502
クロード=ドビュッシー フルートとヴィオラ、ハープのためのソナタ
(休憩)
アントニーン=ドヴォルジャーク ピアノ五重奏曲 op.81 B.155

ヴァイオリン:原田幸一郎・渡辺實和子
ヴィオラ:今井信子
ヴァイオリン-チェロ:原田禎夫
フルート:セヴァスチャン=ジャコー
ハープ:吉野直子
ピアノ:野平一郎

着席場所は、後方上手側である。客の入りはほぼ満席である。

サイトウ-キネン-フェスティバル松本は、今年は8月12日から9月7日までの日程で、歌劇・演奏会・劇音楽が開催される。このうち8月21日から8月30日までの間、「ふれあいコンサート」という名の室内楽演奏会が、それぞれ奏者・プログラムを変え計3公演に渡って繰り広げられる。この評は、第二回目「ふれあいコンサート2」に対するものである。

第一曲目、モーツァルトのピアノ三重奏曲は、野平一郎のピアノのみを引き立たせたアプローチなのだろうか。ピアノは終始明瞭さを保った安定した響きでリードしている。それでも、ヴァイオリンの渡辺實和子は音量が小さく、パッションがあまり表出せず、音に明瞭さを感じない状態で、やや精彩を欠いていたように思える。

第一楽章冒頭部ではややチグハグな印象があったが、曲が進むにつれて溶け込むような響きを指向している部分が決まっているところでは、それなりに聴く事ができる出来になっている。

第二曲目、ドビュッシー「フルートとヴィオラ、ハープのためのソナタ」は最も完成度の高い出来で、ドビュッシーが楽譜で表現した内容を敢えていじらずに、作曲者の意図を見事に表現する演奏であると言えるだろうか。

フルートの安定感ある響きや、多くの音を出しながら意外に地味な役割に徹するハープはいずれも素晴らしいものであるが、特筆すべき点と言えば、やはりヴィオラの活躍であるだろう。

この曲は、ヴィオラが果たすべき責務が非常に大きい曲であるが、その求められている多彩な音色を、今井信子は見事に表現していく。ドビュッシーが意図した華やかな世界が再現され、観客はその世界に酔いしれる。この曲のヴィオラが今井信子であって良かったと思えるひと時だ。

休憩後、ドヴォルジャークのピアノ五重奏曲は、ピアノと第一ヴァイオリンの枢軸が機能し、要所でチェロ(原田禎夫)の低音が良く響く展開となる。ピアノの野平一郎は、第一曲目と同様安定感ある明瞭な美しい響きで、終始魅了させられる。一方で第一ヴァイオリンの原田幸一郎はパッションを込めてピアノとの対立軸を示し、演奏にアクセントをつける役割を果たしていく。この枢軸に他の三人を巻き込んで熱気あふれる演奏となる。精緻さよりはパッションの表出をやや優先させた印象が強い演奏であった。

2013年8月25日日曜日

菊池洋子 ピアノ-リサイタル 評

2013年8月25日 日曜日
軽井沢大賀ホール (長野県北佐久郡軽井沢町)

曲目:
ヴォルフガング=アマデウス=モーツアルト:ロンド K.485
ヴォルフガング=アマデウス=モーツアルト:ピアノ-ソナタ 「トルコ行進曲付き」 K.331
(休憩)
モーリス=ラヴェル:水の戯れ 
モーリス=ラヴェル:ソナチネ
クロード=ドビュッシー:亜麻色の髪の乙女 
クロード=ドビュッシー:アラベスク第1番 
フレデリック=ショパン:エオリアンハープ 
リスト=フェレンツ:愛の夢第3番 
フレデリック=ショパン:バラード第1番 
フレデリック=ショパン:ポロネーズ第6番「英雄」

ピアノ:菊池洋子

着席場所は、中央後方やや上手側である。客の入りは7割程である。舞台上手側の平土間と二階席に、特に空席が目立った。ピアノの音って、上手側に飛んでいくみたいだけど、視覚面が重視されるのか。

今日の菊池洋子の衣装は、何とも名状し難い上品な青色系統のロングドレス、私の携帯電話にある色見本アプリで、「新橋色」を濃くしたような色である。背は高く、諏訪内晶子のような髪型で、三割ほどの髪を体の左前に持ってくる。スラっとした体格で、モデルとして紹介されたら誰もが信じてしまう程の美しさだ。実際写真よりも綺麗な女性である。

前半はモーツァルトが二曲である。ロンドK.485は速めのテンポであるが、ちょっとついていけない感じで、やや単調である。

モーツァルトについては、二曲目のピアノ-ソナタK.331の方が断然良い出来だ。冒頭は遅めのテンポで始まり、そのテンポを揺るがせて観客の心を掴む。変奏曲の性格を持つこの曲らしく、それぞれのバリエーションでそのバリエーションに沿った表現で多彩な性格を浮き彫りにする。変奏部に入ると、一見あまり独自色を出さないように思わせて置きながら、意外なところで個性を出している演奏だ。

わずか30分ほどで休憩に入る。

休憩後はラヴェル・ドビュッシー・ショパン・リストの名曲集の構成となる。菊池洋子自身がマイクを持って、曲の案内をして二曲ずつ演奏をしていくスタイルだ。

ラヴェル・ドビュッシーでは、モーツァルトよりも完成度の高い、明晰度の高い演奏だ。音の響きが前半とは打って変わってクリアになったように思える。抑揚やテンポの扱いは、おそらく楽譜に書かれた通りで独自にいじったりはせず、ラヴェル・ドビュッシーの才能をそのまま再現するかのような演奏である。

彼女は2002年モーツァルト国際コンクールに優勝したようであるが、そのチラシでの宣伝文句とは裏腹に、実は一番得意な分野はフランス音楽かと思わせるかのようだ。彼女のセンスと相性がピッタリあっているように感じられる。

ショパンの「エオリアンハープ」とリストの「愛の夢」第3番は、連続して演奏だ。予め、同じ調性の曲であり、拍手なしで連続して演奏すると雰囲気が醸し出せる旨説明をして、演奏に入る。この二曲も、曲の持ち味をそのまま活かした演奏で、違う作曲家でありながら連続した演奏をする事により、これほどまで味わい深い流れになるのかと思い知らされる。

最後の二曲は、ショパンのバラード1番と英雄ポロネーズである。マイクによる説明なしで演奏が開始される。ここでまた彼女の音作りに変化が生じ、独自のパッションを効かせ始める。バラードの方では、速く演奏する部分で若干荒さがあるが、英雄ポロネーズでは実によく考えられた展開だ。大抵の演奏で強調してるところを敢えて弱めに引き、彼女が独自に本当に強調したいところで一気に攻勢を掛け、コントラストを引き立たせる。かなり冒険的なアプローチであり、この点で好みが別れるのだろうけど、私にとっては興味深い展開だ。

アンコールは、ショパンのノクターンと、アルベニスのタンゴであった。

それにしても、10月26日小金井市民交流センターでの演奏会のチラシがプログラムに挟み込まれていて、これには「モーツァルトの使徒—清澄かつ華麗なる響きをもつ正統派」などと、まあ凄いコピーが入っているが、これはちょっと誤解を与えるのではないかなと思う。私は横で見物していただけだが、サイン会はかなり早く始まり、異例な程丁寧な交流をされているのが印象的であった。

2013年8月21日水曜日

ミケランジェロ弦楽四重奏団 松本公演 演奏会評

2013年8月21日 水曜日
松本市音楽文化ホール (長野県松本市)

曲目:
ヨーゼフ=ハイドン 弦楽四重奏曲第78番 「日の出」 op.76-4 Hob.III-78
ドミートリイ=ショスタコーヴィチ 弦楽四重奏曲第3番 op.73
(休憩)
フランツ=シューベルト 弦楽五重奏曲 D956

ヴァイオリン-チェロ:原田禎夫
ミケランジェロ弦楽四重奏団
 ヴァイオリン:ミハエラ=マルティン・ダニエル=アウストリッヒ
 ヴィオラ:今井信子
 ヴァイオリン-チェロ:フランス=ヘルメルソン

着席場所は、中央後方である。客の入りは8割程である。ど真ん中より僅かに後ろの、N列O列中央席は、関係者用としてリザーブして置いたのだろうが、結局空席のまま演奏会が始まる。このような最も良い場所の一つを何らの利用もされないのは、サイトウ-キネンの若手楽団員が忙し過ぎるのか、それとも、マネジメントがあまり巧くいっていないのか。

本日のプログラム構成は、まずミケランジェロ弦楽四重奏団により二曲演奏された後、休憩後に原田禎夫をゲストに招いて、シューベルトの弦楽五重奏曲が演奏される。同じプログラムでの演奏会は、8月16日に宗次ホール(名古屋市)でも開催されているが、ゲストのチェリストは中木健二であった。サイトウ-キネン-フェスティバル松本での、「ふれあいコンサート1」としての演奏会でもある。

サイトウ-キネン-フェスティバル松本は、今年は8月12日から9月7日までの日程で、歌劇・演奏会・劇音楽が開催される。このうち8月21日から8月30日までの間、「ふれあいコンサート」という名の室内楽演奏会が、それぞれ奏者・プログラムを変え計3公演に渡って繰り広げられる。

まずは、ハイドンの「日の出」であるが、冒頭からちょっとバラバラな印象を受ける演奏である。バラバラな印象は、曲が進むに従って興に乗り、集中力が増した演奏となる。決めるべき所でのニュアンスは豊かであるが、それにしても眠くなる演奏だ。

二曲目はショスタコーヴィチの3番であるが、精度が格段に良くなり、別人のような素晴らしい演奏となる。そもそも始めから終わりまで緊張感を要する曲であるが、そのような要素が却って4人のまとまりを良くしているのかもしれない。非常に良く考えられた演奏で、ヴィオラ、チェロにもソリスティックな出番が多いが、ヴィオラってこんなに響かせる事が出来たんだと思い知らされる。ショスタコーヴィチ独特の、陰影とリズム感を表出させた演奏である。

休憩後はシューベルトの弦楽五重奏曲である。第一楽章では開始後3分程で、今井信子のヴィオラの弦が切れるハプニングが生じる。二本切れたのか?ショスタコーヴィチで強く鳴らしたのが影響したのかも知れない。弦が切れた後は、おそらく主題提示部からの再開かと思われるが、再開前と比較して妙に集中力が増しているのは気のせいか。第二楽章が一番傑出した出来で、緩徐楽章では弛緩した部分もなく、響きも良くまとまっている。

第三楽章ではA-B-A形式のAの部分は、圧倒的に繰り返し部分の完成度が高い。そんな状態だから、ライブやっている分にはいいが、レコーディングはやりにくそう。第四楽章は、楽章は完成度の高い演奏で最後を締めくくる。アンコールはなし。

全般的な印象でも感じる事だが、どうもこのミケランジェロ弦楽四重奏団は、曲の冒頭、または楽章の冒頭で、何となく僅かにバラバラな印象を受ける。楽章が進み興に乗ると、ビシッとまとまって良い響きとなる。第一ヴァイオリンは、敢えて控え目に弾いていると思える部分が多い。他楽器を引き立たせる効果を感じさせた箇所もあるが、この辺りは好き嫌いが生じるところかも知れない。曲想が変わるところでのギヤの入れ替えは、全般的にマイルドだ。ぼーっとして聴いていると、いつの間にかクライマックスに達している印象が残る、不思議な弦楽四重奏団であった。

2013年8月9日金曜日

橋下徹‬‎大阪市長による、大阪市立大学‬ の学長選挙廃止に関する声明

‎大阪市立大学‬の学長選挙を廃止しようとする橋下徹‬‎大阪市長‬に対し、その暴挙を糾弾するとともに、大阪市長職からの辞職を要求する。

大阪市立大学の前身である大阪商科大学を創設した、当時の大阪市長關一は、初代学長にリベラル派の河田嗣郎を据えた。滝川事件で京都大学教授を免官された末川博を迎え入れるなど、自主独立を伴う大学運営を戦時下でも行ってきた。

‪‎大阪市立大学の学長選挙を廃止しようとする橋下徹大阪市長の行為は、このような大学設立の経緯・歴史から体現される建学の精神に対する侮辱である。關一により築き上げられ、代々引き継がれてきた大阪市‬の知的インフラストラクチャーを破壊する行為であり、全大阪市民に対する敵対行為である。

また、日本国憲法第23条により保障されている「学問の自由」、及びこれに派生する「大学の自治」に対する重大な挑戦でもある。日本国憲法第99条に規定されている、憲法尊重義務に反した挑戦的行為であり、公職としての適格性を著しく欠いている。

よって私は、橋下徹大阪市長に対し、大阪府立大学‬との統合問題を含む、大阪市立大学に対する一切の介入を直ちに中止し、その齎した混乱に対し適切な謝罪を行うとともに、大阪市長職を辞職するよう、強く要求する。

樋渡啓祐市長によるTSUTAYA化に伴う、武雄市図書館(佐賀県)雑誌所蔵廃止に関する声明

佐賀県武雄市‬長、‪‎樋渡啓祐‬によってTSUTAYA化された武雄市図書館は、雑誌を所蔵せず販売のみにするとのこと。図書館なのか本屋なのかさっぱり分からない。いや、何を考えているのか、ぐちゃぐちゃな状態でさっぱりわからない。何を考えているのかさっぱりわからないだけに、その愚鈍な行為を敢えて行うところに、気味の悪さすら感じる。

市の資産を用いて本屋とするのは、明らかな民業圧迫であり、公正な競争の阻害である。地域文化の担い手に対する敬意が些かも感じられない暴挙である。

また、雑誌の所蔵をしないとは、過去の雑誌のは廃棄するということか。過去の雑誌が見れないのであれば、これは図書館の使命を放棄していると言わざるを得ず、もはや図書館ではない。

樋渡啓祐‎武雄市長‬は、図書館を一体何だと考えているのであろうか。何らのヴィジョンもなく、地域文化を破壊することに専念する者は、市長としての適格性に著しく欠けている。樋渡啓祐の市長職からの辞任を要求する。

2013年7月27日土曜日

PMF (Pacific Music Festival) 2013ガラコンサート 第二部(プログラムC)評

2013年7月27日 土曜日
札幌コンサートホールkitara (北海道札幌市)

曲目:
マックス=ブルッフ ヴァイオリン協奏曲第1番 op.26
(休憩)
エクトル=ベルリオーズ 「妄想交響曲」(「幻想交響曲」) op.14

ヴァイオリン:ワディム=レーピン
管弦楽:PMF管弦楽団(+PMFアメリカ)
指揮:準=メルクル

第一部については別の投稿を参照願う。

札幌市を中心に開催されるPacific Music Festival (PMF) 2013は、7月6日から31日まで開催され、ヴィーン-フィル等から招かれた奏者による若手音楽家に対する教育の他、多数の形態の演奏会により構成される。管弦楽演奏会は三プログラムあり、この評はプログラムC、7月20日札幌コンサートホールkitaraでの公演に対してのものである。また、この管弦楽演奏会は、PMFガラコンサートの第二部としての位置づけでもある。なお、このプログラムの公演は、7月29日に仙台(宮城県)、7月30日に東京で開催される。

管弦楽配置は、舞台下手側から、第一ヴァイオリン→第二ヴァイオリン→ヴァイオリン-チェロ→ヴィオラのモダン配置で、コントラバスはチェロの後方につく。木管パートは後方中央、ホルンは後方上手側、その他の金管・ティンパニは後方中央から下手側の位置につく。

着席位置は正面2階前方中央、チケットは完売している。

第一曲目、ブルッフのヴァイオリン協奏曲は、ワディム=レーピンは名状し難い魅力的な演奏だ。叙情的であるようにも思えるし、さりげないニュアンスで攻めるタイプというべきか。絶対的な音量という点では大きくはないが、なぜか音が通っている。

準=メルクル率いる管弦楽も、ソリストの向こうを張った、綿密な計算とパッションを込めた理想的な演奏で、若手主体とは思えない見事な出来だ。一週間前のプログラムBの時と比較し、ヴァイオリンセクションは完全に立ち直り、人数を半分近くまで減らしたとは思えない、厚い響きである。まさに、協奏曲に臨む管弦楽の模範であると言える。

休憩後の二曲目は、ベルリオーズの妄想交響曲(幻想交響曲)である。PMF教育プログラムの教授陣である「PMFアメリカ」が楽団員として加わる。

「妄想」なり「幻想」と言った標題から距離を置き、おどろおどろしさを追求したと言うよりは、純音楽的にどのように演奏するべきか、白紙の状態から再構築した演奏である。全般的にテンポの扱いが極めて鮮やかだ。

第一楽章からテンポをうねらせたり、長めにゼネラルパウゼを掛けたりする。激しく追い込めると思えば、楽章終わりでゆったりと終わらせたりもする。

前半同様に、ヴァイオリンが元気で自信を持って弾いている。全楽章に渡って彫りの深い演奏で先頭に立っていたが、特に縦の線がビシッと揃いつつ、豊かなニュアンスで歌い上げる第三楽章が印象深い。

第二楽章では、ハープを強烈に弾かせており、このアクセントの効果は絶大だ。演奏会終了後に一番先に準=メルクルが立たせたのは、このハープの二人である。

第三楽章冒頭の、イングリッシュ-ホルンとオーボエとのやり取りは絶品だ。安定感があり朗々とkitaraに響かせる。この時ほど、2階中央の一番前の席を確保して良かったと思えることはない。イングリッシュ-ホルンは舞台後方やや上手側、通常舞台外から演奏するオーボエは、客席2階後方下手側に位置する。完全な対角線上ではないけれど、それでも前方からのイングリッシュ-ホルン、後方からのオーボエの間の空間で、その遣り取りが聴ける歓びは大きい。

もちろん、第三楽章最後の、イングリッシュ-ホルンとティンパニ3台との遣り取りも、素晴らしい。

管楽器は主に後半楽章で自己主張を強める展開だ。第五楽章での、管楽器の鋭く奇怪な響きは強く印象に残るものである。特にクラリネットの奇怪さは、非常に鮮やかに決まっている。また、通常舞台上でならされる鐘の音を、下手側の扉を開けた舞台外からの演奏となる。ちょっと遠くから聴こえてくる鐘の音もいいものだ。

総じて、準=メルクルはかなり冒険的アプローチを採っているが、一見尖がった要素がある響きとは裏腹に、楽団員全員が細かな部分まで綿密な演奏で、メルクルの意思を見事に実現している。

冒険心溢れるマエストロ準=メルクルと、その実力を出し切ったPMFオーケストラの相互作用により、今年最後の札幌公演を見事に飾った。「胸を打つこの響きよ、喜びよ、美しき翼ひろげ、大空へ」!!(PMF賛歌より)

追加ラベル(PMF (Pacific Music Festival) 2013ガラコンサート 第一部 評 関連 )

下記リンク先の投稿について、ラベル制限文字数超過のため、追加ラベル表示のための投稿。

http://ookiakira.blogspot.jp/2013/07/pmf-pacific-music-festival-2013.html

PMF (Pacific Music Festival) 2013ガラコンサート 第一部 評

2013年7月27日 土曜日
札幌コンサートホールkitara (北海道札幌市)

札幌市を中心に開催されるPacific Music Festival (PMF) 2013は、7月6日から31日まで開催され、ヴィーン-フィル等から招かれた奏者による若手音楽家に対する教育の他、多数の形態の演奏会により構成される。7月27日に開催されたガラコンサートは第一部・第二部と分けられ、第一部はカナディアン-ブラスによる吹奏楽、ワディム=レーピン・小山実稚恵による室内楽、天羽明惠による歌曲、新国立劇場オペラ研修所修了生による歌曲、PMF賛歌斉唱という、盛り沢山の内容である。

曲目:
ザミュエル=シャイト 「音楽の諧謔」第一部より 第21番「戦いのガイヤルド」
ヨハン=セバスティアン=バッハ(ロム編曲) フーガ BWV578 「小フーガ」
ジョージ=ガーシュイン(ヘンダーソン編曲) 「必ずしもそうじゃないぜ」(It Ain’t Necesarily So)
ニコライ=リムスキー-コルサコフ(ライデノー編曲) 歌劇「皇帝サルタンの物語」 op.57 より 「くまんばちの飛行」

吹奏楽:カナディアン-ブラス


ピョートル=イリイッチ=チャイコフスキー ワルツ-スケルツォ op.34

ヴァイオリン:ワディム=レーピン
ピアノ:小山実稚恵


ルチアーノ=ベリオ 「フォーク-ソングス」より
3. 月が昇った (アルメリア民謡)
4. 森の小さなナイチンゲール (フランス民謡)
6. 理想の女 (イタリア民謡)
7. 踊り (イタリア民謡)
9. 哀れな男(女房持ちはかわいそう) (フランス-オーヴェルニュ地方民謡) 
10. 紡ぎ歌 (フランス-オーヴェルニュ地方民謡)
11. アゼルバイジャンのラブソング (アゼルバイジャン民謡)

ソプラノ:天羽明惠
室内楽:PMF管弦楽団メンバー
指揮:ダニエル=マツカワ


リスト=フェレンツ 「巡礼の年 第2年 イタリア」より 第7曲「ダンテを読んで:ソナタ風幻想曲」

ピアノ:小山実稚恵

(休憩)

ゲオルグ=フリードリッヒ=ヘンデル 歌劇「エジプトのユリウス=カエサル」から クレオパトラのアリア「難破した船が嵐から」

ソプラノ:吉田和夏(新国立劇場オペラ研修所修了生)
管弦楽:PMF管弦楽団
指揮:準=メルクル


ヴォルフガング=アマデウス=モーツァルト 歌劇「魔笛」より 夜の女王のアリア「私は苦しむために選び出されたもの」

ソプラノ:倉本絵里(新国立劇場オペラ研修所修了生)
管弦楽:PMF管弦楽団
指揮:準=メルクル


ジュール=マスネ 歌劇「エロディアード」から サロメのアリア「美しくやさしい君」

ソプラノ:立川清子(新国立劇場オペラ研修所修了生)
管弦楽:PMF管弦楽団
指揮:準=メルクル


ジャコモ=プッチーニ 歌劇「つばめ」から マグダのアリア「ドレッタの美しい夢」

ソプラノ:柴田紗貴子(新国立劇場オペラ研修所修了生)
管弦楽:PMF管弦楽団
指揮:準=メルクル


グスターブ=ホルスト(田中カレン編曲) PMF賛歌(「惑星」より「木星」の替え歌)

ソプラノ:天羽明惠・吉田和夏・倉本絵里・立川清子・柴田紗貴子
合唱:PMF GALA 合唱団・北海道札幌旭丘高等学校合唱部・観客
管弦楽:PMF管弦楽団
指揮:準=メルクル


着席位置は正面2階前方中央、チケットは完売している。2008席の座席の内、97席は合唱団向けに当てられ、残りの1911席が観客向けに発売されている。当日券によりチケット完売となった模様である。

休憩前は、比較的少人数のソリスティックな演奏を披露するプログラムである。

カナディアン-ブラスによる吹奏楽は、統一感のある柔らかい響きで魅了する。

チャイコフスキーの「ワルツ-スケルツォ」は、ワディム=レーピン・小山実稚恵の息がだんだん合っていく良い演奏である。

ベリオの「フォーク-ソングス」、天羽明惠のソプラノは、大きいホールであればこんなものかと思える内容である。特に速いテンポの部分では声量不足が露呈するが、2000名を超える規模のホールでは止むを得ないか。一方で管弦楽はPMFメンバーから7人出演しており、室内楽規模であるが指揮者が置かれている。PMFメンバーの演奏は力強く精度も整っており、巨大なホールであることを忘れさせる響きで素晴らしい。

リストの「ダンテを読んで:ソナタ風幻想曲」、小山実稚恵の調子はかなり良い。重箱の隅を突けば、ミスタッチしている箇所があるようにも思えるが、全般的にkitaraの響きを十全に活かした音作りだ。構成もしっかりしていて、アクセントを良く効かせている。

ここで休憩に入る。25分と日本では眺めの休憩時間であるが、ホワイエでは天羽明惠によるPMF賛歌の練習が始まる。天羽明惠の教えはちょっとサドっぽい性格が滲み出ている。年上好きでマゾな男の子には堪らないかもしれない。

休憩後は、準=メルクル指揮による大管弦楽を背景とした、新国立劇場オペラ研修所修了生によるオペラ-アリアを四曲と、PMF賛歌である。

管弦楽配置は、舞台下手側から、第一ヴァイオリン→第二ヴァイオリン→ヴァイオリン-チェロ→ヴィオラのモダン配置で、コントラバスはチェロの後方につく。木管パートは後方中央、ホルンは後方上手側、その他の金管・ティンパニは後方中央から下手側の位置につく。

四人の修了生はいずれも大きなホールにしては歌声を響かせているが。マスネによるサロメのアリア「美しくやさしい君」のソリストである立川清子が一歩進んでいる。重い声質で実に作品の雰囲気を捉えている歌唱だ。

ヘンデルを歌う吉田和夏は、バロックオペラに似合った軽い声質で心地よい響きがよい。プッチーニを歌う柴田紗貴子も、短い曲であるが良く響いた声だ。

PMF賛歌は、観客を含めた全員で参加して盛り上げる。ソリストや合唱団の歌声を聴くと言うよりは、観客の側にPacific Music Festival (PMF)に対する参加意識を高める目的の賛歌だ。

第二部は既に投稿された別の投稿を参照願いたい。

2013年7月24日水曜日

イル-デーブ(IL DEVU) 松本公演 評

2013年7月24日 水曜日
松本市音楽文化ホール (長野県松本市)

曲目:
武満徹 「混声合唱のための『うた』」より 
 「明日ハ晴れカナ曇リカナ」(ソロ 青山貴)
 「小さな空」(ソロ 望月哲也)
 「死んだ男の残したものは」(ソロ 山下浩司)
 「うたうだけ」(大槻孝志)
「ふるさとの四季」 唱歌メドレー 故郷→春の小川→朧月夜→鯉のぼり→茶摘み→夏は来ぬ→われは海の子→村祭→紅葉→冬景色→雪→故郷

(休憩)

ジュリオ=カッチーニ 「新音楽」より「麗しのアマリッリ」
フランツ=シューベルト 「シルヴィアに」
ボブ=チルコットによる編曲集より
 「O danny boy」(アイルランド民謡)
 「Oborozukiyo」(岡野貞一作曲)
 「Over the wave」(ネイティブアメリカン オジプワ族の歌)
BIGIIN 「涙そうそう」(ピアノソロ)
井上陽水 「少年時代」
木下牧子 「ロマンチストの豚」
木下牧子 「さびしいカシの木」
アレアンドロ=バルディ 「Passera」
クロード=フランソワ 「My way」

合唱:イル-デーブ
構成員
 テノール:望月哲也・大槻孝志
 バリトン:青山貴
 バスバリトン:山下浩司
 ピアノ:河原忠之

着席位置はやや後方僅かに上手寄り、客の入りはほぼ9割5分位であろうか。空席はチケットを購入したものの来れなかった人たちだけで、693席全てが完売であるのは、地元アマチュア合唱団体の恐るべき力によるものだろう。私としては全くの予想外だ。

二日前の、東京の白寿ホールに続く公演となる。白寿ホールのプログラムと比較すると、松本公演はかなりポピュラー系に振った演目だ。

松本市音楽文化ホール(音文)でこの演奏会があることは何カ月も前から知っていたが、宣伝文句は「5人の太メンが醸し出す重量級の響き」。むさい男の歌など誰が聴くかと言うことで、チケットの購入対象から外していた。若くて綺麗なロシア人やスペイン人女性ソプラノのリサイタルだったら、チラシの写真を見てチケット購入を決意してしまうだろうけど、男の声を聴きに行く動機が、このあきらにゃんにあるはずがない。絶対にない。

ところが前日になって、予定がダブルブッキングになってしまったので、一枚上げるから聴きに行ってという話があり、せっかくの機会でもあり、急遽臨席する事となった。

前半は、ソロ+ピアノにより、武満徹の「混声合唱のための『うた』」より、一曲ずつ歌い手が変わって四曲演奏される。どの歌い手も十分に体調を整えたようで、ホールを味方につけて響かせている。バスバリトンの山下浩司の声が、一番音文の特性に合致した響きを持っており、一歩進んだ印象を受ける。

その後の、唱歌メドレーからは合唱形式だ。宣伝文句にある「重量級」は出演者の体重だけのお話で、実際は軽い声質でよく通る声である。バスバリトンの山下浩司の声でさえこのように感じられる程だ。バスがいないIL DEVUならではの特質だろう。

休憩後、ピアノソロ「涙そうそう」の前の五曲は、なんとなく統一感が取れていない歌唱である。

しかしながら、井上陽水の「少年時代」で音がガラっと変わり、統一感が抜群に取られ始める。バリトンの望月哲也を前面に出し、他の三人が的確に下支えする展開だ。木下牧子の「ロマンチストの豚」・「さびしいカシの木」も同様の調子で良い出来である。最後の二曲、「Passera」・「My way」では、統一感に加えパッションを込めた熱唱で、演奏会の最後を熱く締めくくる。予想外に素晴らしい演奏会である。

アンコールは二曲、Andrew Lloyd Webberの「Pie Jesu」、John Rutterの「All Things Bright and Beautiful」であった。

2013年7月23日火曜日

PMF (Pacific Music Festival) 2013管弦楽演奏会(プログラムB)評

2013年7月20日 土曜日
札幌コンサートホールkitara (北海道札幌市)

曲目:
武満徹 A String Around Autumn for viola and orchestra
(休憩)
グスタフ=マーラー 交響曲第5番

ヴィオラ:ダニエル=フォスター
管弦楽:PMF管弦楽団(+PMFアメリカ)
指揮:準=メルクル

札幌市を中心に開催されるPacific Music Festival (PMF) 2013は、7月6日から31日まで開催され、ヴィーン-フィル等から招かれた奏者による若手音楽家に対する教育の他、多数の形態の演奏会により構成される。管弦楽演奏会は三プログラムあり、この評はプログラムB、7月20日札幌コンサートホールkitaraでの公演に対してのものである。なお、このプログラムの公演は、7月19日に苫小牧(北海道)、7月31日に東京で開催される。

管弦楽配置は、舞台下手側から、第一ヴァイオリン→ヴィオラ→ヴァイオリン-チェロ→第二ヴァイオリンの左右対向配置で、コントラバスはチェロの後方につく。メルクルが左右対向配置を採用するのは珍しい。木管パートは後方中央、ホルンは後方上手側、その他の金管・ティンパニは後方中央から下手側の位置につく。

着席位置は正面2階前方中央、客の入りはほぼ9割位であろうか、満席とまではいかないが、空席は少ない。

この演奏会を評するに当たり、その環境について述べる必要がある。準=メルクルは14日に東京で国立音楽大学管弦楽団演奏会を終えた夜に札幌入り、15日札幌交響楽団とのリハ、16日PMFオケとのリハ、17日札幌交響楽団本番、18日PMFリハ、19日苫小牧本番、と超過密スケジュールの状態であった。17日札幌交響楽団演奏会は、当初の予定ではイルジー=コウトが指揮を担当するところであったが、準=メルクルが代役を担当する事となった。よって、この公演の前のリハーサルは二日間しかない状態で、苫小牧公演を聴きに行った人たちはお気の毒と言った形である。

第一曲目は武満徹の「A String Around Autumn for viola and orchestra」で、単楽章形式のヴィオラ協奏曲と言っても良いか。瞑想的と言えば聞こえはいいが、瞑想的な一本調子で15分程続く、眠くなる曲であり、曲自体としては私の最も嫌いなタイプに属する曲である。ヴィオラはまあまあ響かせていたし、響きもよく考えられた演奏である。このような曲をこれ程までの水準で演奏できたら、まあ良いであろう。

休憩後の二曲目は、マーラーの交響曲第5番である。PMF教育プログラムの教授陣である「PMFアメリカ」が楽団員として加わる。

メルクルの指揮は、テンポは限られた箇所を除いてやや速め、全般的に自然な流れである。第一楽章ではテンポにウネリが感じられる。

率直に申し上げて、弦楽はスカスカの印象である。特に第一ヴァイオリンは、17人もいて何をやっているのかと言いたくなってくる。表現の彫りが浅く、熱気がこもっていない。コンサートマスター単独だとあんなに響くのに、第一ヴァイオリン総体ではどうして何かに怯えたかのような響きになるのか。弦楽のアピールポイントである第四楽章で、もっと彫りの深い演奏ができないのか、とは強く思うところである。

プログラムAでの、ライナー=キュッヒル率いるヴァイオリンが濃い表情で縦の線をビシっと揃えた名演だったので、その印象との比較にどうしてもなってしまうが、PMFアメリカの教授たちはあまりトゥッテイに自発性を求めていないのは明らかである。プログラムAのヴァイオリンとはあまりに対照的な出来である。

この演奏を聞いて、逆にライナー=キュッヒルがどれほど凄いかを、改めて認識した次第である。いかに表情をつけ、表現の彫りを深くし、かつ若手奏者に徹底させるとともに、自信を持って演奏させるという点で、彼にかなうものはいない。でも彼は、「東の国の東にある都」に帰っちゃったのだよな。。。

マーラーの第5は、圧倒的な管楽器優位の展開に救われている。

特に第三楽章でテンポを遅くして奏でられるホルンのソリスティックな展開が最も素晴らしい。それぞれ別の旋律を奏でる複数のホルンの繋ぎは、バランスが非常に的確に取られている。また、ホルン首席の個人技の見事さには目を奪われる。抜群の安定感を伴う音量を保持しつつ、圧倒的なニュアンス!レベルの高かった管楽全般の中でも、その存在感は目立っている。

第五楽章冒頭の、ホルンやファゴットやその他の管楽がソリスティックに繋いでいく所も、安定した個人技のみならず、絶妙なバランス自体が素晴らしい。

全般的に、管楽奏者の個人技に頼った要素が強い印象が強い点で、物足りなさを感じる演奏である。管楽の華麗な展開と同調しない弦楽の不調が目立ち、どこか一貫性を欠いている思いが抜けきらない。リハーサル不足も影響しているのであろうか。マーラーの第5は、マーラーに初めて接する人たちに一番馴染みやすい交響曲であるが、一方で弦楽・管楽ともに穴を許さない曲で、その意味では第6よりも難曲である事を認識させられる。

準=メルクルの過密日程を反映してか、またはPMFの慣習であるのか、アンコールはなかった。

2013年7月14日日曜日

日本センチュリー交響楽団 福井公演 演奏会評

2013年7月14日 日曜日
福井県立音楽堂(ハーモニーホールふくい) (福井県福井市)

曲目:
ルートヴィッヒ=ファン=ベートーフェン ヴァイオリン協奏曲 op.61
(休憩)
カミーユ=サン-サーンス 序奏とロンド・カプリチオーソ op.28
モーリス=ラヴェル 「ツィガーヌ」
イーゴル=ストラヴィンスキー バレエ組曲「火の鳥」(1919年版)

ヴァイオリン:戸田弥生
管弦楽:日本センチュリー交響楽団(JCSO) (旧大阪センチュリー交響楽団)
指揮:沼尻竜典

日本センチュリー交響楽団は、7月14日・15日に、福井・岸和田(大阪府)にて特別演奏会を行った。この評は、7月14日福井での公演に対するものである。

着席位置は、前方上手側である。客の入りは7割くらいか、舞台後方(オルガン側)の席は全て空席で、事実上閉鎖扱いである。

ベートーフェンのヴァイオリン協奏曲、戸田弥生はゆっくり目で朗々と響かせる演奏である。朗々と響かせながらも、どこか緊張感を伴っている。細部に至るまで真摯に音作りをしたのが良く分かる。特に第一・第二楽章は非常に優れた演奏である。戸田弥生の演奏の本質は、今年1月の無伴奏リサイタル(福井県立音楽堂 小ホール)の時と変わりない。聴衆の側にも真剣勝負が求められる演奏で、遊びというか愉悦感を求める方には向かないとは思う。管弦楽は対決的アプローチではなく、協調しサポートする方向性で、縦の線が揃ったきれいな響きである。

戸田弥生の地元であるせいか、大盤振る舞いの演奏会で、ベートーフェンの大曲を演奏した後で、休憩後にも二曲小品を演奏する、異例のプログラムである。普通に優れた演奏である。

「火の鳥」は古典的端正さを伴う演奏であり、管弦楽のバランスが良く取れている。一方で、管楽が出るべきところでちゃんと出るのがいい。想像以上にいい管弦楽団だ。

アンコールはビゼーの「アルルの女」より「ファランドール」であった。

2013年7月13日土曜日

PMF (Pacific Music Festival) 2013管弦楽演奏会(プログラムA)評

2013年7月13日 土曜日
札幌コンサートホールkitara (北海道札幌市)

曲目:
アントニーン=ドヴォルジャーク 交響詩「真昼の魔女」 op.108
アントニーン=ドヴォルジャーク ヴァイオリン協奏曲 op.53
(休憩)
アントニーン=ドヴォルジャーク 交響曲第8番「大交響曲」 op.88

ヴァイオリン:ヴェロニカ=エーベルレ
管弦楽:PMF管弦楽団(+PMFヨーロッパ)
指揮:アレクサンドル=ヴェデルニコフ

札幌市を中心に開催されるPacific Music Festival (PMF) 2013は、7月6日から31日まで開催され、ヴィーン-フィル等から招かれた奏者による若手音楽家に対する教育の他、多数の形態の演奏会により構成される。管弦楽演奏会は三プログラムあり、この評はプログラムA、第一日目札幌コンサートホールkitaraでの公演に対してのものである。

管弦楽配置は、舞台下手側から、第一ヴァイオリン→第二ヴァイオリン→ヴィオラ→ヴァイオリン-チェロのモダン配置で、コントラバスはチェロの後方につく。木管パートは後方中央、ホルンは後方上手側、その他の金管・ティンパニは後方中央から下手側の位置につく。

着席位置は正面2階前方中央、客の入りはほぼ7割位であろうか、舞台後方席(Pブロック)、3階席サイド(LC・RCブロック)に空席が目立つ。

この演奏会は、全てドヴォルジャークの作品である。当初の予定ではイルジー=コウトが指揮を担当するところであったが、疾病によりアレクサンドル=ヴェデルニコフに変更となった。

第一曲目は、交響詩「真昼の魔女」、若手を中心とした楽団員による演奏だ。管楽をよく響かせた、題名から想像するようなおどろおどろしさがない、綺麗な演奏だ。

第二曲目はヴァイオリン協奏曲、ソリストは1988年に生まれたドイツ出身の若手、ヴェロニカ=エーベルレである。全般的にテンポは中庸で変化はそれほどない傾向である。エーベルレのソロはパワーが弱めで管弦楽に負けていて、特に第一楽章ではソリストの役割を果たしていない。それでも楽章が進むに連れ少しずつ改善される。第三楽章の冒頭の響きは素晴らしい。また、高音部でステップを刻む部分も良い。その代わり第三楽章では管弦楽が途端に大人しくなり、相当抑えた響きとなる。あるいは管弦楽を犠牲にしてソリストを引き立たせているようにも思える。

休憩後の三曲目は、交響曲第8番である。PMF教育プログラムの教授陣である「PMFヨーロッパ」が楽団員として加わり、コンサートマスターはライナー=キュッヒル、ホルンにラデク=バボラークも配置される強力な布陣だ。

フルートの役割が極めて重大な曲であるが、冒頭のつかみから成功している。冒頭間も無くあるピッコロ(おそらくフルートで唯一の日本人メンバーである有田紘平によるものであろうか)の安定感ある響きで観客を魅了する。朗々と響かせる部分のフルートは絶品だ。

ホルンは若手に美味しいところを吹かせている。バボラークは、地味な場面で演奏し、如何に管弦楽全体の響きを下支えするかを提示しているのだろう。

全般的にその他の管楽も含めてよく響いていた。

極め付けはキュッヒル率いるヴァイオリンであろう。演奏が始まる前から、キュッヒルが実に恐ろしいオーラを発している。ヴァイオリンパートは、指揮者の言うことを聞かずにキュッヒルに従って演奏しているかのような、まるで軍事クーデタでも決起しているかのような演奏だ。

いや、軍事クーデタと言うのはさすがに妄想か。それでも、あの自発的な濃いニュアンスが、指揮者からの指示によるものとは思えない。全体リハーサルの前にキュッヒルがヴァイオリンパート全員に濃密な教育を施し、その成果を全体リハーサルで提示して、ヴェデルニコフの追認を得たというのが真相か。キュッヒルの教育の賜物は実に凄いもので、たった一人のコンサートマスターによってこれほどまでに音が違ってくるのかと感嘆する。縦の線が揃っている上、あれだけテンションが高い濃い表情を若手奏者一人ひとりに極めて高度に貫徹しているところが恐ろしい。ヴァイオリンの可能性について、その極限をキュッヒルは身をもって示す。

長野五輪の際の「第九」演奏会の時にも感じたが、彼はコンサートマスターとして世界最高の実力を示している。コンサートマスターがどのような役割を果たすべきかについて、キュッヒルは究極の模範である。さすが、長年ヴィーン-フィルのコンサートマスターで実力を発揮しているだけの事はある。

PMFがこれほどまでに高い水準の演奏をするとは、正直思わなかった。演奏会のチケット確保の段階から準備を踏んで、飛行機で飛んでまで慣れない札幌の街までやってきたかいがあった。札幌在住であれば、室内楽演奏会を含めて全てのプログラムに参加したいくらいだ。

2013年7月6日土曜日

第87回 水戸室内管弦楽団 定期演奏会 演奏会評

2013年7月6日 土曜日
水戸芸術館 (茨城県水戸市)

曲目:
細川俊夫 室内オーケストラのための「開花II」
ルートヴィッヒ=ファン=ベートーフェン ピアノ協奏曲第3番 op.37
(休憩)
フランツ=シューベルト 交響曲第8(9)番「大交響曲」 D944

ピアノ:小菅優
管弦楽:水戸室内管弦楽団(MCO)
指揮:準=メルクル

MCOは、準=メルクルを指揮者に迎えて、2013年7月6日・7日に水戸で、8日に東京で、第87回定期演奏会を開催した。この評は、第一日目の公演に対してのものである。

管弦楽配置は、舞台下手側から、第一ヴァイオリン→第二ヴァイオリン→ヴァイオリン-チェロ→ヴィオラのモダン配置で、コントラバスはチェロの後方につく。木管パートは後方中央、ホルンは後方上手側、その他の金管・ティンパニは後方下手側の位置につく。

着席位置は正面前方中央、客の入りはほぼ満員である。

演奏会場に入ると、いつもよりも舞台上の照明が暗い。プログラムには紙片が挟まっており、プログラム本編に先立ってモーツァルトのディヴェルティメントK.136(125a)から第二楽章を演奏する事が予告されている。この5月に亡くなられた楽団員で、コンサートミストレスの役割を果たすことも多かった潮田益子に対する追悼演奏である。

定刻となり、最小限の照明の下で楽団員のみが入場し、その後演奏に支障がない程度に抑えた照度となる。安芸晶子をコンサートミストレスとしての演奏だ。最初の一音を聴くだけで、改めてMCOの技量の高さを認識させられる。一音一音がとても綺麗で、淀みが全くなく清冽な演奏だ。演奏終了直前に照明が落とされ、最小限の照明の下で楽団員が去る。演奏前後に拍手をする者はない。追悼演奏が終わる。

照明が通常の明るさとなり、プログラム本編となる。水戸芸術館での慣習のとおり、楽団員登場の場面から盛大な拍手で迎える。

第一曲目は細川俊夫の「開花II」であり、日本初演だ。コンサートマスターは、久しぶりにMCOに登場した川崎洋介である。作曲者臨席の下での演奏だ。冒頭部からの、蓮の花がゆっくりと開花していく情景であろうか、限りなく無音に近い音からの長いクレッシェンドに、その完璧なまでの美しい響きに魅了される。弱音部でのニュアンスが特に冴えわたり、極めて精緻な演奏だ。目隠ししてこの音楽を聴くと、ヴァイオリンやフルートを用いた音色とは決して思えない。西洋の楽器でこれほどまでに仏教的、東洋的な音が出せるのかと、驚嘆につぐ驚嘆に満ちた演奏である。

二曲目はベートーフェンのピアノ協奏曲第3番、コンサートミストレスは渡辺實和子である。正直なところ、ベートーフェンの場合小菅の個性が発揮されるところは相対的に少ないようにも思えるが、それでも小菅の危うさを秘める繊細さが随所に出てくる演奏だ。カデンツァでのテンポの揺らぎ、第二楽章での繊細な演奏が小菅らしいところである。第三楽章ではちょっと遊び心も出たかな、と思えるのは気のせいであろうか。

休憩後の三曲目は、シューベルトの「大交響曲」だ。コンサートマスターは豊嶋泰嗣である。端正なスタイルを保持するのが通例のメルクルとしては、態度がいつもと違う。第一楽章からかなり速めなテンポであり、これはどんなものかと一瞬疑問に感じるが、スタッカートをどちらかというと重視しており、その躍動感が強い説得力を持つ。やや弦楽重視であるが管楽を要所要所で際立たせている。下手側に位置しているトランペットとトロンボーンが、繊細さを伴いつつも的確な自己主張を行っていて素晴らしい。ホルン・オーボエは敢えて抑えられていたのだろうか?第二楽章では、メルクルが指示したと思われるニュアンスが実に効果的である。

「開花II」で見せた演奏から正反対の方向性で、メルクルは鬼と化す。最終楽章で、あれだけスピードが速めでありながら、体全体を用いたボーイングで、弦楽の音の細かく強く刻むよう要求する。近年のMCO演奏会では見られなかった、なりふり構わない凄惨な白兵戦と化す。それでもMCOは驚異的なまでに的確にスタッカートを実現する。ただただ圧巻である。

終演後、心地良い疲労感に満ちた表情を弦楽セクションの人たちがしている。限界を極めた達成感に満ちた表情だ。今回の演奏会は、追悼演奏から始まり、一曲目から重量級の曲目で構成されていた。もうこれ以上の演奏は不可能であることは、誰の目にも明らかだ。アンコールはなし。極めて充実した内容の演奏会であった。

2013年6月29日土曜日

第339回 オーケストラ-アンサンブル-金沢 定期演奏会 演奏会評

2013年6月29日 土曜日
石川県立音楽堂 (石川県金沢市)

曲目:
ルートヴィッヒ=ファン=ベートーフェン 「レオノーレ」序曲第1番 op.138
ヴォルフガング=アマデウス=モーツァルト 交響曲第25番 K.183
(休憩)
ルートヴィッヒ=ファン=ベートーフェン ピアノ協奏曲第5番「皇帝」 op.73

ピアノ:シュテファン=ヴラダー
管弦楽:オーケストラ-アンサンブル-金沢(OEK)
指揮:シュテファン=ヴラダー

OEKは、シュテファン=ヴラダーを指揮者に迎えて、2013年6月29日・30日に、第509回定期演奏会を開催した。この評は、第一日目の金沢公演に対してのものである。

管弦楽配置は、舞台下手側から、第一ヴァイオリン→ヴィオラ→ヴァイオリン-チェロ→第二ヴァイオリンの左右対向配置で、コントラバスはチェロの後方につく。木管パートは後方中央、ホルンは後方下手側、その他の金管・ティンパニは後方上手側の位置につく。

着席位置は一階正面上手側中央、客の入りはほぼ8割程であろうか。

シュテファン=ヴラダーは演奏会前に下記ウェブサイトの通り記者会見を行っている。
http://www.orchestra-ensemble-kanazawa.jp/news/2013/06/339.html

前半、「レオノーレ」序曲から縦の線が揃った演奏で、端正な演奏を目指している事が分かる。記者会見録は演奏会後に閲覧したが、やはりそのような狙いだったのかと納得する次第である。しかしながら、実際の演奏でどこまで反映できたのかは疑問に感じるところもある。

ヴラダーの指揮は手をばたばた動かしている感が強い。テンポの変動は自然であり心地よいが、反面眠くなりやすい演奏でもある。モーツァルト25番の第三楽章トリオ部でのオーボエ・ファゴット・ホルンの見せ場では、チグハグ感が感じられ見せ場を飾ることができない状態である。それでも、アビゲイル=ヤング率いる第一ヴァイオリンのテンションは高く、演奏をリードしているのが感じられ好感が持てる。

前半の観客の拍手は、全く情熱の感じられないお義理の拍手に近い。岩城宏之さんがご存命であったらと思うとちょっと恐ろしくなる。

後半の「皇帝」である。シュテファン=ヴラダーによる指揮振りによる演奏となる。ピアノは鍵盤を客席に向け、天蓋は外されている。このような状況であり、ピアノの直接音は期待できず、全てが間接音によるものとなってしまう苦しい展開ではあるが、その状況の中でもヴラダーは的確な響きを探りだしてくる。

全てが前半とは打って変わり、まるで別人のような演奏と化す。

シュテファン=ヴラダーは監獄から出たかのよう。第一楽章では、同じフレーズをリピートさせる際にテンポを速めるなど、自由闊達な演奏を繰り広げる。

管弦楽は、第一ヴァイオリンの高いテンションは維持しながらも、木管・金管とも見違えたような冴えわたり、厚い響きでヴラダーを力強く支えていく。管楽ソロとピアノとの掛け合いの部分では、管楽は響きがニュアンスに富んだ精緻な室内楽的掛け合いであり、弦楽四重奏を聴いているかのようにも思えてくる。

終盤でのピアノとティンパニとのリタルダンドも見事に決まる。ソリスト・弦楽・管楽・ティンパニの全てがかっちり噛み合った演奏で、ヴラダーも満足した演奏であったに違いない。「皇帝」を終えた後の拍手は、前半とは大違いの熱気を伴うものだ。金沢の観客は露骨な程に率直な性格を見せる。

アンコールはヴラダーのソロで、リストのコンソレーション第3番である。「皇帝」とは別の意味でのニュアンスを深く表現した演奏で、感銘させられるアンコールであった。

2013年6月22日土曜日

第509回 新日本フィルハーモニー交響楽団 定期演奏会 演奏会評

2013年6月22日 土曜日
すみだトリフォニーホール (東京)

曲目:
グスタフ=マーラー 交響曲第6番「悲劇的」

管弦楽:新日本フィルハーモニー交響楽団(NJP)
指揮:ダニエル=ハーディング

新日本フィルハーモニー交響楽団は、ダニエル=ハーディングを指揮者に迎えて、2013年6月21日・22日に、第509回定期演奏会を開催した。この評は、第二日目の公演に対してのものである。

管弦楽配置は、舞台下手側から、第一ヴァイオリン→ヴァイオリン-チェロ→ヴィオラ→第二ヴァイオリンの左右対向配置で、コントラバスはチェロの後方につく、ダニエル=ハーディングのいつもの配置である。木管パートは後方中央、ホルンは後方下手側、その他の金管は後方中央から上手側の位置につく。

着席位置は一階正面下手側やや前方、客の入りはほぼ満席である。

この曲で問題となる中間楽章の取り扱いは、第二楽章をアンダンテ-モデラート、第三楽章をスケルツォとして演奏された。古典回帰の意図もあるのか?最終楽章のハンマーは木槌を用いており、使用回数は二回である。

全般的に管楽器重視の展開である。木管セクションは、強力な金管セクションに囲まれた環境でありながら、十分に響かせるのに成功している。金管については、ホルン-ソロの音程が不安定であり、マーラー室内管弦楽団のホルン奏者と比較すると歴然とした差を感じざるを得ない出来であったが、それでも第四楽章に向けて改善されていったか。ヴァイオリンは全般的に線が細いが、逆にこれが管楽器を際立たせるのに作用しており、もともとの狙い通りか、怪我の功名かは不明であるが、結果的にはよい方向に向いている。

第一楽章冒頭部では、弦楽の縦の線がかなりずれていたが、主題展開部では是正されている。弦楽はやや出来不出来の差があるが、第二楽章(アンダンテ=モデラート)で主旋律を奏でるところ等、決めなければならない箇所では縦の線が揃っている。

ダニエル=ハーディングは、曲によって接する態度を変えているところがあるのか、この曲では作曲家の意図を忠実に表現するアプローチで臨んでいる。マーラー室内管弦楽団とのドヴォルジャークの「新世界」とは対極のアプローチである。また、「悲劇的」との副題とは距離を置き、純音楽的なアプローチである。グスタフ=マーラー自身になり切る事を避けつつ、純音楽的なパッションには溢れている演奏だ。

第一楽章から総じて「流している」と感じられるところはなく、それなりの水準に達している演奏であるが、それでもその意図が最も良く働いたのは第四楽章で、これは圧巻である。別の管弦楽団になったかのようで、何もかもが噛み合い、熱がこもった精緻な演奏となる。連続30分に及ぶこの長大な楽章について、どこで何をすればどのような展開になるか、ダニエル=ハーディングは全てを鋭く見通している。グスタフ=マーラーの作曲の意図が完璧に理解され、如何にこの大作曲家が天才だったかが分かるかのような演奏だ。

弦楽のピッチカートによる最後の弱い一音が終わった後の静寂、すみだトリフォニーホールの客はその意図を理解し、フライング拍手もフライングブラボーもない。観客にも恵まれた演奏である。

小澤征爾もマーラーについては比較的良い結果を出していたが、選りすぐりの楽団員を揃えたサイトウ-キネンではなく、NJPでハーディングがこれほどまでの成果を出しているところを聴くと、もはや小澤征爾が出る幕ではない。6月15日からのマーラー室内管弦楽団演奏会を含め、この6月の三回の公演とも、ダニエル=ハーディングの本領を実感させられた、とても充実した演奏であった。

2013年6月21日金曜日

小曽根真+ゲイリー=バートン 松本公演 演奏会評

(注:この投稿に関しては、twitterには投稿していません)

2013年6月21日 金曜日
松本市音楽文化ホール (長野県松本市)

曲目:
曲名/作曲者
Afro Blue / M. Santamaria
I hear a Rhapsody / G. Fragos, J. Baker
Remembering Tano / G. Burton
「クープランの墓」 / モーリス=ラヴェル
Sol Azteca / 小曽根真
(休憩)
Fat Cat / 小曽根真
Ital Park / 小曽根真
Stompin at B.P.C / 小曽根真
Time Thread(for Bill Evans) / 小曽根真
Suite ‘One Long Day in France’ / 小曽根真

ピアノ:小曽根真
ヴィブラフォン:ゲイリー=バートン

小曽根真+ゲイリー=バートンでは、6月1日から6月23日までに掛けて日本ツアーを行った。この評は13の公演中第11回目、6月21日の松本公園に対する評である。

着席位置は後方中央、チケットは完売しており満席である。小曽根真のピアノはYAMAHA社製である。

総じてヴィブラフォンによる表現力の制約にピアノも拘束され、表現が少ないパターンに収束される形となり、特段の感銘は受けなかった。

前半最終曲の「Sol Azteca」、最終曲の「One Long Day in France」の最終局面で、スリリングなピアノが聴けた事が収穫と言える。

アンコールは、小曽根真の「Popcorn Explosion」であった。

2013年6月16日日曜日

マーラー室内管弦楽団 名古屋公演 演奏会評

2013年6月16日 土曜日
愛知県芸術劇場 コンサートホール (愛知県名古屋市)

曲目:
ロベルト=シューマン 交響曲第3番「ライン」 op.97
(休憩)
アントニーン=ドヴォルジャーク 交響曲第9番「新世界から」 op.95

管弦楽:マーラー室内管弦楽団(MCO)
指揮:ダニエル=ハーディング

マーラー室内管弦楽団は、ダニエル=ハーディングを指揮者に迎えて、2013年6月15日・16日に、軽井沢・名古屋で来日公演を行った。この評は、第二日目名古屋公演に対してのものである。

着席位置は三階(実質的には二階)正面前方やや上手側、客の入りは7割くらいであろうか、二階・三階のバルコニーは空席が非常に目立つ。

第一曲目の「ライン」は、冒頭部で愛知県芸術劇場の響きに戸惑ったのか、乱れが生じていたが徐々に軌道修正されていく。軽井沢公演でも感じた事ではあるが、ホルンの響きがとても明瞭で綺麗な響きである。ハーディングの左手の動きに、管弦楽は敏感に反応している。

後半の「新世界から」は、曲の展開こそ軽井沢公演とほぼ同じであるが、改めて曲の最初から最後まで仕掛けられたハーディングの音作りに感嘆させられる。第一楽章におけるフルートの取り扱いについては、他のオーボエ・クラリネットとのバランスを考慮すると、もっと強く自己主張しても良かったような気がするが、敢えて弱めたのか。第二楽章のイングリッシュ-ホルンは、軽井沢公演と同様に素晴らしい出来だ。

軽井沢公演と違うところは、やはりホールの響きであろうか。軽井沢大賀ホールでは、中規模ホールならではの緊密かつ親密な空間が特色であるし、愛知県芸術劇場では残響の豊かさを味わえるところが良い。

最終局面では、敢えてギアを落としてゆっくりと余韻を聴かせながら終わらせる。このような終わらせ方はなかなか無いものであるが、実に効果的だ。軽井沢公演・名古屋公演とも、指揮棒を降ろすまで拍手・掛け声もなく、観客をも巻き込んで一つになって終わる。一人の観客も見当違いな振る舞いをしなかったのが素晴らしい。

アンコールは、ドヴォルジャークのスラブ舞曲第一集より、第四番であった。

今回のマーラー室内管弦楽団の来日公演は、軽井沢と名古屋だけという、変則的な場所での公演であった。土日の公演であったが、名古屋で空席が目立ったのは少し残念である。ダニエル=ハーディングの知名度が浸透しているのは、東京だけなのだろうか。また、マーラー室内管弦楽団の知名度が日本で浸透していない事を、痛感させられた。

今回のマーラー室内管弦楽団の公演では、やはりダニエル=ハーディングが本領を発揮し、その実力を日本に知らしめる事が出来た事が大きい。在日オーケストラではリハーサル時間が足りないのか、音作りにムラがあり、本気を出しているところと流している(手を抜いている)ところとの差を感じられるところがあったが、今回はそのような場面が無かった。手兵であり、来日直前までオーストラリアで本番を重ねていたところもあり、テンションが高い状態で演奏できる所もあっただろう。どうしてダニエル=ハーディングが欧州で高い評価を得ているのかを、実感する事ができた。松本の地の利を活かした、軽井沢→名古屋への追っかけは、実に有意義であった。

2013年6月15日土曜日

マーラー室内管弦楽団 軽井沢公演 演奏会評

2013年6月15日 土曜日
軽井沢大賀ホール (長野県北佐久郡軽井沢町)

曲目:
ルートヴィッヒ=ファン=ベートーフェン ヴァイオリン協奏曲 op.61
(休憩)
アントニーン=ドヴォルジャーク 交響曲第9番「新世界から」 op.95

ヴァイオリン:クリスティアン=テツラフ
管弦楽:マーラー室内管弦楽団(MCO)
指揮:ダニエル=ハーディング

マーラー室内管弦楽団は、ダニエル=ハーディングを指揮者に迎えて、2013年6月15日・16日に、軽井沢・名古屋で来日公演を行う。この評は、第一日目軽井沢公演に対してのものである。

管弦楽配置は、舞台下手側から、第一ヴァイオリン→ヴァイオリン-チェロ→ヴィオラ→第二ヴァイオリンの左右対向配置で、コントラバスはチェロの後方につく、ダニエル=ハーディングのいつもの配置である。木管パートは後方中央、ホルンは後方下手側、その他の金管は後方上手側の位置につく。

着席位置は一階正面後方中央、客の入りはほぼ満席である。大賀典雄さんが生前座っていたC-L席の一つ後ろのC-M席、なぜか六席連続で空席となっていたが、関係者に割り振っていたのであろうか。関係者がタダでチケットもらうこと自体は否定しないが、せっかく割り当てられた関係者席、せめて音楽好きな社員に割り振って消化するなど、良い席を空席にするような事はしないで頂きたいと思うところだ。

第一曲のベートーフェンのヴァイオリン協奏曲のソリストは、クリスティアン=テツラフ。ドイツ出身で最近名が売れ出しているらしい。この曲について、ダニエル=ハーディングは、昨年(2012年)7月13日にオーケストラ-アンサンブル-金沢を指揮しており、その時のソリストは、韓国の若手シン=ヒョンスであった。若々しく朗々とした響きであったのを覚えている(この時の評は2012年7月15日に掲載している)。

指揮者は同じでありながら、管弦楽は手兵とも言えるMCOになり、ソリストはドイツ出身となる。どのような変化を見せるのだろう。

冒頭から管弦楽はかなり飛ばしている。二日前の夜にオーストラリアで公演を行ったばかりとは思えない元気さだ。ソロが出るまでの長い管弦楽を、テツラフはヴァイオリンを抱えて目をつぶりながらじっと聴いている。ソロが始まる。少し弱い響きで不安を感じるが、数分経過するとこの弱奏が計算ずくであることが分かる。

テツラフは非常に危うい橋を渡る。両岸は断崖絶壁の切り立った尾根を走るかのような、繊細な演奏だ。ほんのわずかなミスで全てが崩壊してしまいそうな、危うい繊細さ、その繊細さに宿る霊感をどのように表現したらよいのか。一音一音が霊感に満たされ、繊細であっても訴えてくるものは力強い。

テツラフのその繊細さは大胆さとも見事に同居している。第一楽章のカデンツァ、ティンパニをも巻き込んだデュオ形式になることに驚愕する。カデンツァに本来の即興的性格は無くなり、確立された「カデンツァ」を演奏する出来レースが当然となった現代に於いて、出来レースである事に変わりはなくとも、ティンパニを巻き込んだ新鮮なカデンツァの道を切り開き、反則と言えるかも知れないが説得力のある魅力的なカデンツァの在り方を提起したクリスティアン=テツラフの大胆不敵ぶりを、極めて高く評価したい。

しかしテツラフのヴァイオリンは、実は強く出るべきところでは強く出れる。決して弱奏のみで攻めている訳ではない。

一方で、テツラフのヴァイオリンとMCOの管弦楽とのバランスは実に的確に取れている。ハーディングのコントロールがうまく働いているのだろう。

ソリストアンコールは、J.S.バッハの無伴奏パルティータ第3番、ヒラリー=ハーンのやや遅めの演奏とは違い、少し速めではあるが、霊感がこもった実に素晴らしいアンコールである。

軽井沢大賀ホールは、実は残響の少ないホールであるが、それでもその小さな室容積を活かした繊細なテツラフの演奏であった。クリスティアン=テツラフのヴァイオリンは、ソロであれ協奏曲であれ、是非800席程度以下の中規模ホールで聴いてほしい。彼の霊感を帯びた繊細な響きを大きなホールで味わう事は不可能である。

後半のドヴォルジャーク「新世界から」は、冒頭はやや弱めな響きで始まる。タメを少し長めにとって、表現を独自なものにしている。第一楽章でややフルートの調子が若干怪しいところがあったが、ダニエル=ハーディングが何をやりたいかの意図は十分に伝わってくるので、あまり気にしなくて済む。第二楽章のオーボエは素晴らしい。全般を通してクラリネットも良い響きだ。ホルンも実によくコントロールされた音色である。弦楽パートもハーディングの意図を良く組んだ素晴らしい演奏だ。もっとも、前半のテツラフの独奏が凄過ぎたため、「普通に凄い」程度ではあるが、まあそれでも素晴らしい演奏であるとは言えるだろう。

アンコールは、シューマンの第三交響曲「ライン」から第四楽章、明日名古屋で聴く曲目の予告となった。♪

私の中では、「2013年に長野県で演奏された最も素晴らしい演奏会」決定である。サイトウキネンが始まっていない段階ではあるが、決定している。ダニエル=ハーディングが在日オーケストラ客演の場合に見せる手抜きが、今回は見当たらなかった。手兵である事もあるかとは思うが、準備に掛ける時間や、既にオーストラリアで本番が繰り返されている事情もあって、高い完成度を保つ演奏に仕上げる事が出来たのだろう。

2013年6月9日日曜日

田部京子+カルミナ四重奏団 岐阜公演 演奏会評

2013年6月9日 日曜日
ふれあい福寿会館 サラマンカホール (岐阜県岐阜市)

曲目:
フェリックス=メンデルスゾーン=バルトルディ 無言歌集より「ヴェネツィアのゴンドラの歌 第2番」
ロベルト=シューマン 「子供の情景」より「トロイメライ」
エドヴァルド=グリーグ 抒情小曲集より「トロルドハウゲンの婚礼の日」
アントニーン=ドヴォジャーク 弦楽四重奏曲第12番 「アメリカ」 op.96
(休憩)
フランツ=シューベルト ピアノ五重奏曲 「ます」 D667 op.166

ピアノ:田部京子
コントラバス:井戸田善之
カルミナ弦楽四重奏団
ヴァイオリン:マティーアス=エンデルレ・スザンヌ=フランク
ヴィオラ:ウェンディ=チャンプニー
ヴァイオリン-チェロ:シュテファン=ゲルナー

着席場所は、一階中央上手側である。客の入りは八割程である。

本日のプログラム構成は、まず田部京子のピアノ-ソロによる小品が三曲演奏された後、カルミナ弦楽四重奏団のみによるドボルジャークの「アメリカ」が演奏される。休憩後は、田部京子とカルミナ弦楽四重奏団(第二ヴァイオリンのスザンヌ=フランクはお休み)に加え、NHK交響楽団コントラバス奏者の井戸田善之を加えての「ます」である。

田部京子のピアノ-ソロは、昨日の浜離宮朝日ホールでの公演と比べ非常に良く響く。下手側から上手側に席が移っただけでなく、ホールの特性も影響しているのだろう。浜離宮朝日ホールのような、何かフィルターを掛けたかのような音とは対照的な、率直な音が飛んできて、かつ豊かな残響に包まれる理想的な形である。

静の曲では丁寧なタッチで非常に上品な演奏であるが、「トロルドハウゲンの婚礼の日」と言った華麗な曲では、綺麗な響きを重視しつつも躍動感をも感じさせる演奏になる。サラマンカホールの残響を敢えてそのまま活かした部分も効果的である。

続いて、カルミナ弦楽四重奏団の「アメリカ」が演奏されるが、浜離宮朝日ホールでの演奏と比べ、明らかに響きが明瞭である。叙情的な第二楽章はしっかりと響かせ、全曲に渡って各奏者のパッションが綺麗な響きによって見事に表現され、全てがきちっと噛み合いまとまった演奏だ。やはり、ホールは演奏に重大な影響を及ぼすものだと改めて認識する。ホールの完成度は、サラマンカホールの圧勝である。

後半の「ます」は、「アメリカ」で示された路線をさらに深く追求した演奏で、完璧と言ってよい。田部京子も井戸田善之も、初めからカルミナ弦楽四重奏団に加入しているかのように、一体感のある演奏である。どこで誰を際立たせるか、よく考えられた演奏だ。第四楽章ではピアノで軽やかに跳び跳ねるかと思えば、ヴァイオリンが力強く奏で始めたりと、多彩な姿を楽しませてくれる。

この演奏会は「シューベルトの『ます』を聴きたい!」などという、ちょっと恥ずかしい副題が付けられているが、これほどまでの「ます」を聴いたら、まあ許しても良いだろう。今回の演奏を超える「ます」を実現する事は、かなり難しいのではないだろうか。演奏者のパッションと技巧とサラマンカホールの響きの全てが巧く絡み合い、とても優れた演奏である。

アンコールは、昨日と同じくブラームスのピアノ五重奏曲から、第三楽章であった。

2013年6月8日土曜日

田部京子+カルミナ四重奏団 東京公演 演奏会評

201368日 土曜日
浜離宮朝日ホール (東京)
 
曲目:
ルートヴィッヒ=ファン=ベートーフェン ピアノ-ソナタ第20 op.49-2
ルートヴィッヒ=ファン=ベートーフェン ピアノ-ソナタ第21番「ワルトシュタイン」 op.53
 
(休憩)
 
ヨハネス=ブラームス ピアノ五重奏曲 op.34
 
ピアノ:田部京子
カルミナ弦楽四重奏団
ヴァイオリン:マティーアス=エンデルレ・スザンヌ=フランク
ヴィオラ:ウェンディ=チャンプニー
ヴァイオリン-チェロ:シュテファン=ゲルナー
 
着席場所は、一階中央下手側である。8割程の客の入りか。
 
前半は田部京子のピアノ-ソロでベートーフェンを二曲である。今日はチケット入手の都合上、下手側の席になってしまったが、最近行きつけの、彩の国さいたま芸術劇場との音響の差に驚愕させられる。要するに響かない。田部京子が敢えて弱めのタッチで弾いている事もあるかも知れない。
 
20番はおよそベートーフェンとは言い難く、まるでモーツァルトのように弾いている。第21番は多彩な姿を見せる。弱いタッチでありながら旋律を際立たせたり、ここぞという所で強く出て行ったり、最後はちゃんと盛り上がて終わる演奏である。ニュアンスで攻めるタイプで、パワーで攻めることも出来るのだろうけど、その方向に走らずに上品に弾いていくタイプだ。
 
後半は、カルミナ弦楽四重奏団+田部京子のピアノによる、ブラームスのピアノ五重奏曲である。ヴァイオリンの二人がパッションを込めて先頭を走り、田部京子のピアノも、主役に躍り出るところと脇役に回るところのメリハリがはっきりしていて、良い演奏をしている事は分かるのだが、なんとなく気分が乗らない演奏だ。
 
気迫を込めた演奏をしているのだが、何となく精緻さに欠けていて、うまく噛み合っていない演奏である。理由はよく分からないが、プログラムにCDの宣伝があり、そこに「精緻な職人的アプローチ」とある文言に、私が引きずられたところがあるのかもしれない。あるいは、そもそもカルミナ弦楽四重奏団と浜離宮朝日ホールとの相性が良くないと言うところもあるのだろう。
 
浜離宮朝日ホールは、世間の評判ほど音の響きと言う点では良くないホールで、松本市音楽文化ホールや彩の国さいたま芸術劇場(与野市)、サラマンカホール(岐阜市)で感じられるような、華があり厚みがある響きにならないところがあって、その辺りの事情でパッションが空回りしてしまうのではないかと思うところがある。私の思い過ごしであるのかもしれないが、浜離宮朝日ホールは今後ちょっと敬遠したい。

アンコールは、後半で演奏されたブラームスのピアノ五重奏曲から、第三楽章であった。本番の演奏よりも、しっかりと噛み合った良い演奏であった。

2013年5月26日日曜日

リーズ=ドゥ-ラ-サル ピアノ-リサイタル 評

2013年5月26日 日曜日
彩の国さいたま芸術劇場 音楽ホール (埼玉県与野市)

曲目:
モーリス=ラヴェル 「鏡」
クロード=ドビュッシー 「前奏曲集」より 「音と香りは夕べの大気の中に漂う」「妖精たちはあでやかな舞姫」「デルフィの舞姫」「パックの踊り」「亜麻色の髪の乙女」「西風の見たもの」
(休憩)
セルゲイ=プロコフィエフ ピアノ-ソナタ第3番「古い手帳から」op.28
セルゲイ=プロコフィエフ 「バレエ『ロメオとジュリエット』からの10の小品」 op.75 より 「情景」「メヌエット」「少女ジュリエット」「モンタギュー家とキャピュレット家」「マキューシオ」「別れの前のロメオとジュリエット」
セルゲイ=プロコフィエフ トッカータ op.11

ピアノ:リーズ=ドゥ-ラ-サル

前半のラヴェル・ドビュッシーは、静から動へ移り変わる展開である。静を強調する場面では丁寧に弾いていくが、綺麗な響きであるが故に、子守唄のような作用をしてしまう所もある。フランスものの難しさを実感させられる。動の場面では一転表現の幅が広がっていく。最高音は非常に強いが、この強さは必然だ。スタッカートがとても良く活きている。どこに最高音を置き、この最高音に対してどのように場面を展開していくか、その構築力が見事である。

後半のプロコフィエフは実に見事で、彼女はフランス人であるが、お国ものよりもロシアものの方が本性を顕わにする。前半のラヴェル・ドビュッシーの動の場面で見せた構築力がさらに発揮される。

「ロメオとジュリエット」は、最高音を耳触りになる一歩手前で留めながらも、劇的な表現を行う事に成功している。弱奏部も、いつの間にか引き込まれているような叙情性を表現し、ラ-サールの実力がよく発揮される演奏だ。

最後の「トッカータ」も、躍動感が感じられ、プロコフィエフとラ-サールとの相性の良さを実感させられる。