2013年11月30日土曜日

ドイツェ-カンマーフィルハーモニー-ブレーメン 歌劇「フィデリオ」 評

2013年11月30日 土曜日
横浜みなとみらいホール (神奈川県横浜市)

演目:
ルートヴィッヒ=ファン=ベートーフェン 歌劇「フィデリオ」 op.72 (演奏会形式)

レオノーレ(フィデリオ):エミリー=マギー
フロレスタン:ブルクハルト=フリッツ
ドン-ピツァロ:トム=フォックス(当初予定されたファルク=シュトゥルックマンの代役)
ロッコ:ディミトリー=イヴァシュチェンコ
ドン-フェルナンド:デトレフ=ロート
マルツェリーネ:ゴルダ=シュルツ(当初予定されたクリスティーナ=ランドシャーマーの代役)
ヤッキーノ:ユリアン=プレガルディエン
語り部:ヴォルフ=カーラー

合唱:東京音楽大学合唱団

管弦楽:ドイツェ-カンマーフィルハーモニー-ブレーメン
指揮:パーヴォ=ヤルヴィ

ドイツェ-カンマーフィルハーモニー-ブレーメンは、2013年11月から12月に掛けてアジアツアーを行い、全てベートーフェンの曲目であるプログラムを二種類(歌劇・演奏会用にそれぞれ一種類)用意し、横浜で歌劇、札幌・名古屋・武蔵野(東京都)・ソウル(大韓民国)にて演奏会を開催する。

歌劇については、横浜みなとみらいホールで歌劇「フィデリオ」を演奏会形式で2公演上演する。この評は、二回目11月30日横浜みなとみらいホールでの公演に対してのものである。

管弦楽配置は、舞台下手側から、第一ヴァイオリン→ヴァイオリン-チェロ→ヴィオラ→第二ヴァイオリンの左右対向配置で、コントラバスはチェロの後方につく。木管パートは後方中央、ホルンは後方下手側、その他の金管・打楽器群は後方上手側の位置につく。

着席場所は、一階中央上手側である。客の入りは8割5分程である。観客の鑑賞態度は概ね良好であったが、前方中央席で演奏途中での退席があった。

このドイツェ-カンマーフィルハーモニー-ブレーメン独特の慣習として、舞台上でのチューニングは行わない。楽章の間ではもちろんの事、曲の間であっても行わない。唯一ティンパニだけがこっそりと音程をチェックし調整している。

この「フィデリオ」は演奏会形式であり、舞台上に舞台装置はない。管弦楽の譜面台には、歌劇用のランプが備え付けられている。照明は白熱電球の明暗のみであり、着色光は用いていない。歌の間の芝居はなく、その代わりに「四年後のロッコ」を演じる語り部がいる。語り部の位置は固定されず、歌い手同様に舞台前方を歩く形態となる。拍手は終幕時のみを期待する設定であり、歌唱が終わり残響がなくなったところで間髪を入れずに語りを入れる事によって拍手が起きないようにコントロールしている。それでも、レオノーレが「人間の屑!何をしているつもり?かかってきなさい。希望は捨てないわ、最後に星が出る」のソロ-アリアを歌った後で拍手が出る。

序曲は、名古屋でのベートーフェン交響曲第4番第3番の公演の第一曲目でも演奏されたが、693席の中規模ホールでの凝縮された響きとは異なり、やはり2020席の大きなホールでの響きは違う。音圧は拡散される。

歌劇と言う事もあり、管弦楽は今日はおとなしく猫を被っている。軽めと言うよりは柔和な音色で、その柔和さはヴィーン-フィルを超え、室内管弦楽団ならではの綺麗な音色がベースとなる。もちろんパーヴォ=ヤルヴィならではの変幻自在なテンポに柔軟に対処し、パーヴォとの一体感を感じさせる見事な演奏である。

歌い手について述べる。総じて穴がない見事なソリスト揃いで、この事自体が滅多にないことだ。代役を含めて実力あるソリストを揃えている。全ては完璧な状態から出発している。

第一幕から、マルツェリーナ役のゴルダ=シュルツのよく通る軽快な表現が見事である。元彼のヤッキーノの口説きをかわして、指揮者のパーヴォの所に寄り添って「困っているから助けて」と言っているかのような演技も相まって、実に楽しい。およそ代役とは思えない見事な出来で、出番が多い第一幕に花を添える。

ロッコ役のディミトリー=イヴァシュチェンコは、バスとはとても思えない透明感のある声で、知らないで聴いているとテノールのようにすら感じるほどだ。ごく普通の平凡な看守
長から英雄的な行動を取るところまで、見事に演じる。

フロレスタン役のブルクハルト=フリッツは第二幕からの登場となるが、第二幕開始直後のソロ-アリアから観客の心を掴む。副主役としての役割を十二分に演じ、エミリー=マギーと相まってクライマックスに向けて観客をリードしていく。

主役レオノーレ(フィデリオ)役のエミリー=マギーは、みなとみらいホールの特性に悩まされたであろう。このホールは、レオノーレ役の音域との相性が悪く、なかなか共鳴しないし、共鳴したとしても綺麗に響かない。それでも、知らないでいるとメゾ-ソプラノと思えるような、重量感のある迫力に満ちたレオノーレを見事に演じ、主役としての責任を果たす。みなとみらいホールの音響特性を踏まえると、よくぞここまで演じ切ったと言える。なお、歌い手としてはエミリーのみが楽譜を持っての演技・歌唱であったが、この「フィデリオ」公演にはプロンプターは存在しない事を考慮する必要はあるだろう。

語り部はドイツ語によるものであり、特に第二幕でテンションが上がったか。語り部のテキストは、今年亡くなったドイツの文学者ヴァルター=イェンスによるものである。日本語の字幕で見ただけの判断ではあるが、通俗的な4年後のロッコと本場面での英雄的なロッコとの対比を踏まえつつ、実に格調高くイデアを掲げているものだ。

歌い手と管弦楽との関係性は、必ずしも歌い手重視と言うわけではない。歌い手を表に出すと言うよりは、歌い手・管弦楽を含めて表に出るべきと考えた楽器を表に出した感じである。例えば、オーボエを表に出す時は歌い手は控えめに歌う感じだ。

この点については、公開ゲネプロ時の質疑応答の際に、「演奏を重ねるうちに発見したことはあるか」の質問に対して、「ベートーベンの交響曲を演奏するときに、フィデリオにおいて作曲者は歌にオーケストラのどのパートの役割を歌わせたかったか、働きを持たせたかったか考えさせられる」とパーヴォが答えていたところからも読み取れるところである。
(この辺りの事情については、彩加さん(@p0pular0708)による2013年11月26日16時40分頃(日本時間)からのツイートに依拠している。公開ゲネプロ情報の提供について、この場でも厚く御礼申し上げる。)

歌い手が一人の時はこのように控えめなところもあるが、このような場面から三重唱・四重唱へ積み重なっていく流れや、その三重唱・四重唱自体は極めて素晴らしい。単に管弦楽を一歩上回る形で巧く乗っかった素晴らしい歌唱で、大変気持ちよく響いているというだけの話ではなく、その三重唱・四重唱の場面場面で誰を表に出すのかを細かく考慮している。ドイツ語が分かる方にとっては、一番強調されている歌声の意味が容易に読み取れるようになっているように思われる。

合唱は東京音楽大学合唱団であるが、団員は学生なのであろうか。しかしながら、およそ学生とは思えない。東京オペラシンガーズ同様の高い完成度であり、その声量だけでなく、場面場面に応じたコントロールが適切であり、ソロ二人の出番もあったがこれもまた見事である。第二幕では抱擁しあう演技までをも行い、その場面から終幕に向けてのクライマックスに向けて傑出した実力を発揮していく。

大団円はソリスト・合唱・管弦楽全てがパッションに満ちつつも、全ての構成要素が室内楽を聴いているかのように一体感を持って見事に絡み合い、美しく響かせて終わる。これ程までの大団円を聴くと、ベルリン-フィル、ヴィーン-フィルですら実現は難しいと思わざるを得ない。全てが完璧に終わった。行った、聴いた、勝った!!