2016年6月18日土曜日

Kioi Sinfonietta Tokyo, the 105th Subscription Concert, review 第105回 紀尾井シンフォニエッタ東京 定期演奏会 評

2016年6月18日 土曜日
Saturday 18th June 2016
紀尾井ホール (東京)
Kioi Hall (Tokyo, Japan)

曲目:
Frank Bridge: Suite per orchestra d'archi (弦楽のための組曲)
Arvo Pärt: “Tabula Rasa”
(休憩)
Antonín Dvořák: Serenata per archi op.22 (弦楽セレナーデ)

violino: Антон Бараховский / Anton Barakhovsky / アントン=バラホフスキー
violino (solo Pärt): Людмила Миннибаева / Liudmila Minnibaeva / リュドミラ=ミンニバエヴァ
pianoforte preparato: 鷹羽弘晃 / Takaha Hiroaki
orchestra: Kioi Sinfonietta Tokyo(紀尾井シンフォニエッタ東京)

紀尾井シンフォニエッタ東京(KST)は、アントン=バラホフスキーをリーダーに、リュドミラ=ミンニバエヴァとをソリストに迎えて、2016年6月17日・18日に東京-紀尾井ホールで、第105回定期演奏会を開催した。アントンとリュドミラとは夫婦である。アントンはリーダーとペルト作品のソリスト、ミンニバエヴァはペルト作品のソリストを担当する。この評は、第二日目の公演に対してのものである。なお、この演奏会が「紀尾井シンフォニエッタ東京」の名による最後の本拠地公演である。

管弦楽配置は、舞台下手側から、第一ヴァイオリン→第二ヴァイオリン→ヴァイオリン-チェロ→ヴィオラのモダン配置で、コントラバスはチェロの後方につく。リュドミラ=ミンニバエヴァは、ペルト作品以外は第二ヴァイオリン首席の役を果たす。

着席位置は一階正面後方僅かに上手側、今回サボっている定期会員が見受けられた。。観客の鑑賞態度は、曲の最初の所で緊張感を欠いていたが、全般的には良好であった。

ダントツで“Tabula Rasa”が素晴らしい。ソリストの二人は2013年にハンブルク-バレエにて同じ作品のソリストとして演奏していることもあるのか、盤石の出来である。バックで支える管弦楽も、ソリストと見事に調和しており、ホールの響きとも完璧な相性である。劇場であるハンブルクでの公演よりも、はるかに高い水準の響きを実現出来たのは明らかであろう。

曲想が眠気を感じさせるものであるが、予めカフェをがぶ飲みしていた私には、夢みるような響きが続く時間である。全ての音符に対してよく考えられた響きが構成されている。ただただ美しい響きの裏には、必ず、完璧な構成があるのだなと思い知らせれる。

このような作品こそ、紀尾井ホールのような中規模ホールで演奏されて良かったと思う。演奏の見事さに観客が応えたかは、少し疑問が残ったが、攻めたプログラムは完璧な演奏で実現された。

アンコールは、マスカーニの「カヴァレリア=ルスティカーナ」から間奏曲であった。

2016年6月5日日曜日

Hilary Hahn + Cory Smythe, recital, (5th June 2016), review ヒラリー=ハーン + コリー=スマイス 松本公演 評

2016年6月5日 日曜日
Sunday 5th June 2016
松本市音楽文化ホール (長野県松本市)
The Harmony Hall (Matsumoto Municipal Concert Hall) (Matsumoto, Japan)

曲目:
Wolfgang Amadeus Mozart: Sonata per violino e pianoforte n.27 K.379
Johann Sebastian Bach: Sonata per violino solo n.3 BWV1005
(休憩)
Antón García Abril: ‘Seis Partitas’ 2. 'Immensity', 3.'Love'(「6つのパルティータ」から 2.「無限の広がり」、3.「愛」)
Aaron Copland: Sonata per violino e pianoforte
Tina Davidson: ‘Blue Curve of the Earth’ (「地上の青い曲線」(27のアンコールピースより))

violino: Hilary Hahn
pianoforte: Cory Smythe

ヒラリー=ハーンは、2016年6月4日から12日に掛けて、コリー=スマイスとともにリサイタルを、ファリアホール(横浜市)、松本市音楽文化ホール(長野県松本市)、東京文化会館(東京)、東京オペラシティコンサートホール「タケミツメモリアル」(東京)、愛知県芸術劇場(名古屋市)、兵庫県立芸術文化センター(兵庫県西宮市)、みなとみらいホール(横浜市)にて、計7公演行う。プログラムは全て同一である。理想的な音響となる中規模ホールでの公演は、フィリアホールと松本市音楽文化ホールの二か所だけである。

この評は、6月5日松本市音楽文化ホールでの公演に対する評である。

着席位置は後方正面中央、観客の入りは7割弱で空席が目立ったのは残念である。観客の鑑賞態度は、極めて良好だった。

全体的な白眉は、バッハ無伴奏のBWV1005である。息の長さを感じさせる遅めのテンポで、これ見よがしのギヤチェンジもなく、響きの鋭さを強調するものでもない。全ての音符の響きを完璧に考慮して構築させた演奏であると言ってしまえば、その通りなのだろうけど、弱めな響きでありながら、一音一音が説得力に満ちた演奏である。この696席の中規模ホールである、松本市音楽文化ホールだからこそ実現された名演であると言える。特に第二楽章後半からは、ホールの響きを完璧に味方につけ、霊感に満ちたと思わせる演奏である。

(私は、ヒラリーの真価を、客席数が2000席前後の大きなホールで味わう事は不可能だと思っている。バンバン大音量で鳴らすタイプの奏者ではないからだ。中小規模のホールでのリサイタルでこそ、最もヒラリーらしさを味わえるというのが、私の印象である)

後半のアブリルとコープランドは、少し鋭さを出してくるが、響きの豊かさを必ず伴わせる。もっとも、曲想上の問題でBWV1005を聴いた後だと、バッハの偉大さを感じさせてしまうのは、致し方ないところか。細川俊夫の 'Exstasis' 程の曲想の強さがないと、バッハに対抗する事は、なかなか難しいのかもしれない。

それでも、ピアノのコリー=スマイスとのコンビネーションは完璧だった。どのように客席に響くか、一音一音詳細に検討されているかのような、絶妙なバランスである。

アンコールは三曲あり、佐藤總明の「微風」、マーク=アントニー=ターネジの「ヒラリーのホーダウン」、マックス=リヒターの「慰撫」であった。マックス=リヒターで特に感じられる事であるが、同じ音符を刻むにしても、どうして一音一音が説得力を持つのかを考えさせられる演奏であった。

2016年6月4日土曜日

Mito Chamber Orchestra, the 96th Subscription Concert, review 第96回 水戸室内管弦楽団 定期演奏会 評

2016年6月4日 土曜日
Saturday 4st June 2016
水戸芸術館 (茨城県水戸市)
Art Tower Mito, Concert Hall ATM (Mito, Japan)

曲目:
Franz Joseph Haydn: Sinfonia n.83 Hob.I-83 ‘La poule’ (めんどり)
Niccolò Paganini: Quartetto per Chitarra, Violino, Viola e Violoncello n.15
(休憩)
Max Bruch: ‘Kol Nidrei’ (コル=ニドライ)
Franz Peter Schubert: Sinfonia n.5 D485

viola: Юрий Абрамович Башмет / Yuri Bashmet
orchestra: Mito Chamber Orchestra(水戸室内管弦楽団)
direttore: Юрий Абрамович Башмет / Yuri Bashmet

水戸室内管弦楽団(MCO)は、ユーリ=バシュメットを指揮者兼ヴィオラ-ソリストに迎えて、2016年6月4日・5日に水戸芸術館で、第96回定期演奏会を開催する。この評は、第一日目の公演に対してのものである。

二曲目のパガニーニ、三曲目のブルッフは、ヴィオラと弦楽のために編曲されている。

管弦楽配置は、舞台下手側から、第一ヴァイオリン→第二ヴァイオリン→ヴィオラ→ヴァイオリン-チェロのモダン配置で、コントラバスはチェロの後方につく。管楽パートは後方中央の位置につく。

着席位置は一階正面後方わずかに上手側、観客の入りは、7割程か?。左右両翼及び背後席に空席が目立った。観客の鑑賞態度は、極めて良好だった。

コンサートマスター/ミストレスは、ハイドンは渡辺實和子、パガニーニは小栗まち絵、ブルッフとシューベルトは豊嶋泰嗣が担当した。

ハイドンは、かなり真面目な解釈である。

パガニーニは、原曲をロシア人(モスクワ-ソロイスツのバラショフとカッツによる)が編曲したものであるからか、ヴィオラの哀愁漂う音色もあって、「白鳥の湖」第二幕を観劇しているかの雰囲気になる。カラッとした明るい雰囲気はなく、ジェノヴァ生まれの作曲家の原曲とはとても思えない。少なくとも編曲後は、あまり技巧面は表に出て来ない。原曲の雰囲気とは異なるのだろうか?

バシュメットのヴィオラは、基本的に弱めであるがその割りに通る響きであり、大規模ホールで聴かせる感じではない。水戸芸術館で聴けて良かったという感じである。第二楽章以降は、バシュメットのヴィオラがかなり響き始め、独特の哀愁漂う響きで魅了される。

管弦楽は、どこでどのように振る舞うべきか完璧に把握しており、バシュメットを立てるべき箇所では的確に支えると同時に、管弦楽が出るべき箇所では、曲全体を踏まえて良く考えられた形で自己主張を強めてくる。ソリストと管弦楽との音色の差があり、その対比が面白い。

最後のシューベルトD485は、全般的にかなりロマン派のような演奏である。鋭い響きで惹きつける事はせず、遅めのテンポの中でニュアンスをつける形態である。

私は、この曲はメリハリをつけまくった速めのテンポが好みであるが、この好みとは対照的でありながら、説得力のある演奏である。特に第二楽章をあの遅さでありながら、緊張感を失わずに観客の耳を集中させるMCOの演奏は、これは本当に見事なものだ。ヴィヴィッドな路線とは正反対のものであるが、このような演奏であれば、夢を見ているような心地で聴く事が出来る。

アンコールはなかった。

2016年6月1日水曜日

Shoji Sayaka, recital, (1st June 2016), review 庄司紗矢香 無伴奏リサイタル 名古屋公演 評

2016年6月1日 水曜日
Wednesday 1st june 2016
電気文化会館コンサートホール (愛知県名古屋市)
Denki Bunka Kaikan Concert Hall (Nagoya, Japan)

曲目:
Johann Sebastian Bach (arr. Jean-Frédéric Neuburger): Fantasia e fuga BWV542
Bartók Béla: Sonata per violino solo Sz.117
(休憩)
Hosokawa Toshio / 細川俊夫: ‘Exstasis’ (脱自)
Johann Sebastian Bach: Partita per violino solo n.2 BWV 1004

violino: 庄司紗矢香 / Shoji Sayaka

庄司紗矢香は、2016年5月26日から6月7日に掛けて日本ツアーを行い、無伴奏リサイタルを、美深町文化会館(北海道中川郡美深町)、川口総合文化センター(埼玉県川口市)、神奈川県立音楽堂(横浜市)、北広島市芸術文化ホール(北海道北広島市)、電気文化会館(名古屋市)、JMSアステール-プラザ(広島市)、松江市総合文化センター(島根県松江市)、紀尾井ホール(東京)、計8箇所にて上演する。プログラムは全て同一である。

この評は、2016年6月1日電気文化会館の公演に対する評である。

着席位置はやや後方正面中央、チケットは完売した。観客の鑑賞態度は、概して極めて良好だった。

二曲目のバルトークは少し優しく聴こえる。三楽章・四楽章で、すりガラスのような音色を使っている箇所もある。響きはかなり豊かに響かせている。ピッチカートは敢えて尖らせていない感じがある。今日の席は後方で、残響が豊かに聴こえる事もあるのか。全般的に、響きの鋭さと言うよりは、響きの豊かさを追求した印象を持つ。その意味では、アリーナ=イブラギモヴァとは対照的かなあ。

圧巻なのは後半である。

後半の細川俊夫の新作 'Exstasis' とBWV1004との組み合わせは、言葉で言い表わすことが出来ない。Exstasisは巫女、BWV1004はただただ主と人とのお取りなし、あるいは、主と人との対話である。

細川俊夫の新作 'Exstasis' は、作曲の段階で、ヴァイオリンの擦弦楽器としての表現の限界を極めたと言える。庄司紗矢香は、作曲者の極めて高い期待を演奏面で傑出したレベルで実現する。ヴァイオリンの四本の弦で、これ程までの音色が出せるのかと、信じがたい気持ちになる。この演奏会の中で、最も鋭い響きを選択する箇所がある一方で、震えるような音色を聴くと、庄司紗矢香はまさに巫女になって脱自の状態にあったのではないか、と思えるような演奏である。

(本当にトランスしちゃったら演奏不能だと思うけど)それだけに、この巫女のような、トランス状態になって人間界から飛び出すような表現は、重い挑戦だったに相違ない。精神的な負担が大きい曲で、演奏出来る奏者は限られるだろう。技巧面・精神面、両面での卓越した強さが求められる。庄司紗矢香がどれだけの強さを持っていることか!

庄司紗矢香は、実演を聴けば誰でも分かる事であるが、 'Exstasis' の後にバッハのBWV1004を持ってくると言う暴挙を為した。こんな、技巧面でも精神面でもとてつもない強靭さを要するプログラムなど、誰がどう考えても無謀である。結論から言うとこの暴挙は大きな成果を持って成功したと断言出来る。トランスする世界から、主と人との対話の世界への移行であった。

BWV1004に於いて、庄司紗矢香は何か特別な技巧を示すことはしないし、「鋭い」表現を為した訳でもない。テンポは遅めである。彼女は明らかに、鋭さとか技巧の誇示と言ったものを求めなかった。と言うよりは、こんな世界の、人間界の世界の約束事など、どうでもよかったのだろう。

どう考えても、これは主と人との取りなしの場であった。全ての響きなりニュアンスがそのようであった。作為は不要であり、霊感だけがそこにあったと言える。このような表現はしたくはないが、「精神的な響き」と言うものがあるのだとすれば、まさしくこのような演奏こそ該当する。

なので、これはピリオド非ピリオドの様式面だとか、どんな技巧を使ったかとか、テンポの設定がどうであるとか、そんな指標であれこれ言うのでなしに、今そこにある響き、主と人との対話の刹那刹那を感じ取る演奏だ。

まあ、細川俊夫さんの 'Exstasis' でエクシタシーに達した状態でBMW1004を聴き出した私の頭がトランス状態で逝っちゃってただけだろう、って言う批判はあるかもしれない。

それにしたって、ではどうしてそのような暴挙とも言うべき後半のプログラムにしたのか?ワザワザそんなプログラミングをしたのには当然意図があるだろう。後半のプログラム全て、BWV1004を含めた全てが、 'Exstasis' 「脱自」であったのだ。どのように聴くのかは、もちろん観客の自由だけれども、この演奏会の後半は、身も心もエクシタシーに達してトランス状態になって聴くのが、観客にとって幸せな気持ちになれるのではないか。このように私は強く思う。