2016年6月1日水曜日

Shoji Sayaka, recital, (1st June 2016), review 庄司紗矢香 無伴奏リサイタル 名古屋公演 評

2016年6月1日 水曜日
Wednesday 1st june 2016
電気文化会館コンサートホール (愛知県名古屋市)
Denki Bunka Kaikan Concert Hall (Nagoya, Japan)

曲目:
Johann Sebastian Bach (arr. Jean-Frédéric Neuburger): Fantasia e fuga BWV542
Bartók Béla: Sonata per violino solo Sz.117
(休憩)
Hosokawa Toshio / 細川俊夫: ‘Exstasis’ (脱自)
Johann Sebastian Bach: Partita per violino solo n.2 BWV 1004

violino: 庄司紗矢香 / Shoji Sayaka

庄司紗矢香は、2016年5月26日から6月7日に掛けて日本ツアーを行い、無伴奏リサイタルを、美深町文化会館(北海道中川郡美深町)、川口総合文化センター(埼玉県川口市)、神奈川県立音楽堂(横浜市)、北広島市芸術文化ホール(北海道北広島市)、電気文化会館(名古屋市)、JMSアステール-プラザ(広島市)、松江市総合文化センター(島根県松江市)、紀尾井ホール(東京)、計8箇所にて上演する。プログラムは全て同一である。

この評は、2016年6月1日電気文化会館の公演に対する評である。

着席位置はやや後方正面中央、チケットは完売した。観客の鑑賞態度は、概して極めて良好だった。

二曲目のバルトークは少し優しく聴こえる。三楽章・四楽章で、すりガラスのような音色を使っている箇所もある。響きはかなり豊かに響かせている。ピッチカートは敢えて尖らせていない感じがある。今日の席は後方で、残響が豊かに聴こえる事もあるのか。全般的に、響きの鋭さと言うよりは、響きの豊かさを追求した印象を持つ。その意味では、アリーナ=イブラギモヴァとは対照的かなあ。

圧巻なのは後半である。

後半の細川俊夫の新作 'Exstasis' とBWV1004との組み合わせは、言葉で言い表わすことが出来ない。Exstasisは巫女、BWV1004はただただ主と人とのお取りなし、あるいは、主と人との対話である。

細川俊夫の新作 'Exstasis' は、作曲の段階で、ヴァイオリンの擦弦楽器としての表現の限界を極めたと言える。庄司紗矢香は、作曲者の極めて高い期待を演奏面で傑出したレベルで実現する。ヴァイオリンの四本の弦で、これ程までの音色が出せるのかと、信じがたい気持ちになる。この演奏会の中で、最も鋭い響きを選択する箇所がある一方で、震えるような音色を聴くと、庄司紗矢香はまさに巫女になって脱自の状態にあったのではないか、と思えるような演奏である。

(本当にトランスしちゃったら演奏不能だと思うけど)それだけに、この巫女のような、トランス状態になって人間界から飛び出すような表現は、重い挑戦だったに相違ない。精神的な負担が大きい曲で、演奏出来る奏者は限られるだろう。技巧面・精神面、両面での卓越した強さが求められる。庄司紗矢香がどれだけの強さを持っていることか!

庄司紗矢香は、実演を聴けば誰でも分かる事であるが、 'Exstasis' の後にバッハのBWV1004を持ってくると言う暴挙を為した。こんな、技巧面でも精神面でもとてつもない強靭さを要するプログラムなど、誰がどう考えても無謀である。結論から言うとこの暴挙は大きな成果を持って成功したと断言出来る。トランスする世界から、主と人との対話の世界への移行であった。

BWV1004に於いて、庄司紗矢香は何か特別な技巧を示すことはしないし、「鋭い」表現を為した訳でもない。テンポは遅めである。彼女は明らかに、鋭さとか技巧の誇示と言ったものを求めなかった。と言うよりは、こんな世界の、人間界の世界の約束事など、どうでもよかったのだろう。

どう考えても、これは主と人との取りなしの場であった。全ての響きなりニュアンスがそのようであった。作為は不要であり、霊感だけがそこにあったと言える。このような表現はしたくはないが、「精神的な響き」と言うものがあるのだとすれば、まさしくこのような演奏こそ該当する。

なので、これはピリオド非ピリオドの様式面だとか、どんな技巧を使ったかとか、テンポの設定がどうであるとか、そんな指標であれこれ言うのでなしに、今そこにある響き、主と人との対話の刹那刹那を感じ取る演奏だ。

まあ、細川俊夫さんの 'Exstasis' でエクシタシーに達した状態でBMW1004を聴き出した私の頭がトランス状態で逝っちゃってただけだろう、って言う批判はあるかもしれない。

それにしたって、ではどうしてそのような暴挙とも言うべき後半のプログラムにしたのか?ワザワザそんなプログラミングをしたのには当然意図があるだろう。後半のプログラム全て、BWV1004を含めた全てが、 'Exstasis' 「脱自」であったのだ。どのように聴くのかは、もちろん観客の自由だけれども、この演奏会の後半は、身も心もエクシタシーに達してトランス状態になって聴くのが、観客にとって幸せな気持ちになれるのではないか。このように私は強く思う。