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2016年7月2日土曜日

Kioi Sinfonietta Tokyo, Concert, (2nd July 2016), review 紀尾井シンフォニエッタ東京 豊田演奏会 評

2016年7月2日 土曜日
Saturday 2nd July 2016
豊田市コンサートホール (愛知県豊田市)
Toyota City Concert Hall (Toyota, Aich, Japan)

曲目:
Antonín Dvořák: Česká suita op.39 B.93
Wolfgang Amadeus Mozart: Concerto per corno e orchestra n.1 KV412 (movimenti 1 e 3)
(Movimento 2) Nino Rota: Andante sostenuto per il Concerto per Corno KV412 di Mozart (1959)
(休憩)
Ludwig van Beethoven: Sinfonia n.3 op.55

corno: Radek Baborák / ラデク=バボラーク
orchestra: Kioi Sinfonietta Tokyo(紀尾井シンフォニエッタ東京)
direttore: Radek Baborák / ラデク=バボラーク

紀尾井シンフォニエッタ東京(KST)は、ラデク=バボラークをソリスト・指揮者に迎えて、2016年7月2日に豊田市コンサートホールで、演奏会を開催した。本拠地である紀尾井ホールでは演奏されなかった。この演奏会が、「紀尾井シンフォニエッタ東京」の名での最後の演奏会となる。

管弦楽配置は、舞台下手側から、第一ヴァイオリン→第二ヴァイオリン→ヴィオラ→ヴァイオリン-チェロのモダン対向配置で、コントラバスはチェロの後方につく。木管パートは後方中央、ホルンは後方上手側、ティンパニ・トランペットは後方下手側の位置につく。金管・打楽器は、本拠地の紀尾井ホールでの公演とは逆の位置である。

着席位置は一階正面やや前方上手側、観客の入りは8割程で空席が目立つ。観客の鑑賞態度は、若干ノイズがあったものの、概ね良好であった。

本日のメンバーは、レギュラーメンバーではない奏者が多かったようにも思える。コンサート-ミストレスは野口千代光さんである。

本拠地ではないということもあり、響きの検討が生煮え状態と感じたり、オーボエの響きに「若さ」が感じられる箇所が無きにしも非ずで、バボラークのホルンももっと豊かな表現が可能かなと思える箇所もあったが、全般的には曲が進むに連れて馴染んだ感がある。

私に取っての好みの箇所は、モーツァルトのバボラークとオーボエのやり取り(第二楽章であり、ロータによる作曲部分)と、第三楽章に於けるバボラークの弱音を披露するソロの箇所である。

Beethoven の3番は、冒頭部分は宇野功芳の真似かと一瞬思えたほどの遅さで焦ったが、以下はマトモな解釈ではある。全般的に遅めのテンポで堂々とした演奏である。いつもとは違うメンバーと思われるホルンにもう少し頑張って欲しかった箇所があると思うのは欲張りか?

アンコールは、前半のバボラークのソリスト-アンコールは、彼自身の作曲による「アルペン-ファンタジー」、演奏会終了時のアンコールは、ドヴォルジャークの「我が母の教えたまいし歌」であった。

2016年6月18日土曜日

Kioi Sinfonietta Tokyo, the 105th Subscription Concert, review 第105回 紀尾井シンフォニエッタ東京 定期演奏会 評

2016年6月18日 土曜日
Saturday 18th June 2016
紀尾井ホール (東京)
Kioi Hall (Tokyo, Japan)

曲目:
Frank Bridge: Suite per orchestra d'archi (弦楽のための組曲)
Arvo Pärt: “Tabula Rasa”
(休憩)
Antonín Dvořák: Serenata per archi op.22 (弦楽セレナーデ)

violino: Антон Бараховский / Anton Barakhovsky / アントン=バラホフスキー
violino (solo Pärt): Людмила Миннибаева / Liudmila Minnibaeva / リュドミラ=ミンニバエヴァ
pianoforte preparato: 鷹羽弘晃 / Takaha Hiroaki
orchestra: Kioi Sinfonietta Tokyo(紀尾井シンフォニエッタ東京)

紀尾井シンフォニエッタ東京(KST)は、アントン=バラホフスキーをリーダーに、リュドミラ=ミンニバエヴァとをソリストに迎えて、2016年6月17日・18日に東京-紀尾井ホールで、第105回定期演奏会を開催した。アントンとリュドミラとは夫婦である。アントンはリーダーとペルト作品のソリスト、ミンニバエヴァはペルト作品のソリストを担当する。この評は、第二日目の公演に対してのものである。なお、この演奏会が「紀尾井シンフォニエッタ東京」の名による最後の本拠地公演である。

管弦楽配置は、舞台下手側から、第一ヴァイオリン→第二ヴァイオリン→ヴァイオリン-チェロ→ヴィオラのモダン配置で、コントラバスはチェロの後方につく。リュドミラ=ミンニバエヴァは、ペルト作品以外は第二ヴァイオリン首席の役を果たす。

着席位置は一階正面後方僅かに上手側、今回サボっている定期会員が見受けられた。。観客の鑑賞態度は、曲の最初の所で緊張感を欠いていたが、全般的には良好であった。

ダントツで“Tabula Rasa”が素晴らしい。ソリストの二人は2013年にハンブルク-バレエにて同じ作品のソリストとして演奏していることもあるのか、盤石の出来である。バックで支える管弦楽も、ソリストと見事に調和しており、ホールの響きとも完璧な相性である。劇場であるハンブルクでの公演よりも、はるかに高い水準の響きを実現出来たのは明らかであろう。

曲想が眠気を感じさせるものであるが、予めカフェをがぶ飲みしていた私には、夢みるような響きが続く時間である。全ての音符に対してよく考えられた響きが構成されている。ただただ美しい響きの裏には、必ず、完璧な構成があるのだなと思い知らせれる。

このような作品こそ、紀尾井ホールのような中規模ホールで演奏されて良かったと思う。演奏の見事さに観客が応えたかは、少し疑問が残ったが、攻めたプログラムは完璧な演奏で実現された。

アンコールは、マスカーニの「カヴァレリア=ルスティカーナ」から間奏曲であった。

2016年4月23日土曜日

Kioi Sinfonietta Tokyo, the 104th Subscription Concert, review 第104回 紀尾井シンフォニエッタ東京 定期演奏会 評

2016年4月23日 土曜日
Saturday 23rd April 2016
紀尾井ホール (東京)
Kioi Hall (Tokyo, Japan)

曲目:
Gabriel Fauré: ‘Masques et Bergamasques’ op.112
Ludwig van Beethoven: Concerto per pianoforte e orchestra n.4 op.58
(休憩)
Franz Joseph Haydn: Sinfonia n.103 Hob.I:103

pianoforte: Imogen Cooper / イモジェン=クーパー
orchestra: Kioi Sinfonietta Tokyo(紀尾井シンフォニエッタ東京)
direttore: Trevor Pinnock / トレヴァー=ピノック

紀尾井シンフォニエッタ東京(KST)は、トレヴァー=ピノックを指揮者に、イモジェン=クーパーをソリストに迎えて、2016年4月22日・23日に東京-紀尾井ホールで、第104回定期演奏会を開催した。この評は、第二日目の公演に対してのものである。

管弦楽配置は、舞台下手側から、第一ヴァイオリン→ヴァイオリン-チェロ→ヴィオラ→第二ヴァイオリンの左右対向配置で、コントラバスは中央最後方につく。木管パートは後方中央(コントラバスの手前)、ホルンは後方下手側、トランペットは後方上手側、ティンパニは上手側、ハープは下手側の位置につく。ティンパニはモダンタイプとバロックタイプの二種類を準備し、フォーレ作品のみモダンタイプを用いた。

着席位置は一階正面後方僅かに上手側、チケットはほぼ完売している。観客の鑑賞態度は、若干のノイズはあったが、拍手のタイミングも適切であった。

トレヴァー=ピノックの解釈は全般的に端正なものである。おそらく楽譜に

私にとっての白眉は、二曲目のBeethoven ピアノ協奏曲の4番であった。

イモジェン=クーパーのピアノは全般的に遅く、特に第一楽章で顕著だ。第一楽章前半部ではその遅さに加え曲想上も手を入れにくいのか、覚醒状態が高くなければ眠くなる演奏である。しかし、後半部からは、その遅いテンポでなければ見えてこないものを表現し、遅いテンポの中で揺らぎを入れて表情付けを行い始める。カデンツァも説得力のあるものだ。

第二楽章では、弦楽が深く強く美しい表現響きで始めた後で(今日の管弦楽で一番素晴らしい箇所だった!)、臨終間近を思わせる儚い弱奏のピアノとの対比が面白い。管弦楽はしばらくして強く響かせるのをやめ、同じ方向性を向いた弱奏でピアノに寄り添う。

第三楽章は、通常よりもわずかに遅い程度のテンポか?イモジェンのピアノは必要以上に強い演奏でなく、控えめで溶け込ませ、管弦楽と同じ方向性を持つものである。

全般的にイモジェンのピアノは、遅いテンポの基調でなければ不可能な表現をニュアンス豊かに行うスタイルで、超絶技巧を披露する派手系な路線の対極に位置する。好き嫌いが別れる演奏であることは間違いない。正直観客の反応が心配だったが、是と感じる知的な反応をする観客は思った以上に多く、暖かい反応で前半を終えた。

アンコールは、シューベルト、キプロスの女王 ロザムンデ より 第三幕の間奏曲であった。

2016年2月13日土曜日

Kioi Sinfonietta Tokyo, the 103th Subscription Concert, review 第103回 紀尾井シンフォニエッタ東京 定期演奏会 評

2016年2月13日 土曜日
Saturday 13th February 2016
紀尾井ホール (東京)
Kioi Hall (Tokyo, Japan)

曲目:
Wolfgang Amadeus Mozart: divertimento n.1 K136
Richard Strauss: Concerto per corno e orchestra n.2
(休憩)
Wolfgang Amadeus Mozart: Concerto per corno e orchestra n.3 K447
Richard Strauss: Metamorphosen

violino: Rainer Honeck / ライナー=ホーネック
corno: Stefan Dohr / シュテファン=ドール
orchestra: Kioi Sinfonietta Tokyo(紀尾井シンフォニエッタ東京)
direttore: Rainer Honeck / ライナー=ホーネック

紀尾井シンフォニエッタ東京(KST)は、ライナー=ホーネックを指揮者に、ホルン奏者のシュテファン=ドールをソリストに迎えて、2016年2月12日・13日に東京-紀尾井ホールで、第103回定期演奏会を開催した。この評は、第二日目の公演に対してのものである。

ライナー=ホーネックは、ディヴェルティメントとメタモルフォーゼンはコンサート=マスター、二曲あるホルン協奏曲は指揮を担当する。

管弦楽配置は、舞台下手側から、第一ヴァイオリン→第二ヴァイオリン→ヴィオラ→ヴァイオリン-チェロのモダン配置で、コントラバスはチェロの後方につく。木管パートは後方中央、ホルンは後方下手側、その他の金管とティンパニは後方上手側の位置につく。

着席位置は一階正面後方僅かに上手側、チケットは完売している。観客の鑑賞態度は、時折ノイズが発生したものの、概ね極めて良好で、メタモルフォーゼンの後の静寂も(時報がなっちゃったけど)守られた。

第一曲目の「ディヴェルティメント」は第三楽章がヴィヴィッドな感じで私の好みである。

第二曲目はリヒャルト=シュトラウスのホルン協奏曲第2番である。ホルン-ソロはシュテファン=ドールだ。

この曲を私が聴くのは初めてであり、リヒャルト=シュトラウスの書法に慣れていないからそのように感じられたのかもしれないが、第一楽章ではドールが紀尾井ホールの響きにマッチせず苦しめられているように思えて、加えて管弦楽が控え目な設定であったこともあり、バラバラな印象を持つ。

しかし第二楽章で、木管の見せ場からさり気なくホルンが入って来るところは素晴らしい。

シュテファン=ドールが本領を発揮し出すのは、休憩後に演奏されたモーツァルトのホルン協奏曲第3番である。弱めな響きの管弦楽と完全にマッチしており、弱音のコントロールが見事で、管弦楽と同じ方向を向いた演奏が、見事に当たる。よく考えられて構成された演奏である。

しかし、シュテファン=ドールの本領はアンコールでさらに発揮される。曲目はメシアンの「峡谷から星たちへ・・」第二部第6章「恒星の叫び声」である。

協奏曲のソリストとして、あるいはアウェイである紀尾井ホールの奏者として課せられた制約から逃れ、自由を得て、伸びやかな明るい響きの演奏だ。

紀尾井ホールの響きを完全に掌握した上で、全てが絶妙に絡み合い、何らの制約なく、やりたい放題に超絶技巧を披露し、私のテンションが上がりまくる。「メタモルフォーゼン」の前で興奮しちゃって良いのかと、罪の意識を持ちながら。

最後の曲は、リヒャルト=シュトラウスのメタモルフォーゼンである。

緻密に考えられ、個々の奏者の技量が的確に発揮され、純音楽的なメリハリがありながらも、感情過多になり過ぎない(私にとっては、涙腺が潤むか潤まないかのギリギリの線だった)重さを感じさせる見事な演奏である。

この曲を、紀尾井ホールのような中規模ホールで聴くことに幸せを感じる。23人の弦楽奏者それぞれが独立しており、一人ひとりの弦楽が意味を持つこの曲は、やはり大ホールでは限界がある。大ホールフルオケばかりの東京で、機会は少ないけれども、紀尾井ホールで、紀尾井シンフォニエッタ東京の演奏で聴けるのは、奇蹟的な幸運だ。

この曲の最後では、祈る気持ちになる。天井のシャンデリアに視線を向け、あるいは目を瞑り、視覚的な情報をカットして響きに心を傾ける。曲が終わり、観客は静寂を保つ。ちょうど16時になり時報がなってしまうのは不幸だったが、祈りの時間が確保される。ホーネックが終了の合図を出したのか、観客から拍手が湧き上がり始める。曲が終わったらしい。名演が終わった。そろそろ私も目を開き、拍手をし始めよう。

2015年9月12日土曜日

Kioi Sinfonietta Tokyo, the 101st Subscription Concert, review 第101回 紀尾井シンフォニエッタ東京 定期演奏会 評

2015年9月12日 土曜日
Saturday 12th September 2015
紀尾井ホール (東京)
Kioi Hall (Tokyo, Japan)

曲目:
Ludwig van Beethoven: Musica per “König Stephan” di Kotzebue (ouverture) op.117 (劇音楽「イシュトヴァーン王」序曲)
Пётр Ильич Чайковский / Pyotr Ilyich Tchaikovsky: Concerto per violino e orchestra op.35
(休憩)
Felix Mendelssohn Bartholdy: Sinfonia n.5 op.107

violino: Антон Бараховский / Anton Barakhovsky / アントン=バラホフスキー
orchestra: Kioi Sinfonietta Tokyo(紀尾井シンフォニエッタ東京)
direttore: Takács-Nagy Gábor / タカーチ-ナジ=ガーボル

紀尾井シンフォニエッタ東京(KST)は、タカーチ-ナジ=ガーボルを指揮者に、アントン=バラホフスキーをソリストに迎えて、2015年9月11日・12日に東京-紀尾井ホールで、第101回定期演奏会を開催した。この評は、第二日目の公演に対してのものである。

管弦楽配置は、舞台下手側から、第一ヴァイオリン→第二ヴァイオリン→ヴィオラ→ヴァイオリン-チェロのモダン配置で、コントラバスはチェロの後方につく。木管パートは後方中央、ホルンは後方下手側、その他の金管・ティンパニは後方上手側の位置につく。

着席位置は一階正面後方僅かに上手側、チケットは完売している。観客の鑑賞態度は、基本的には極めて良好だったが、飴の包み紙の音があったり、拍手が早すぎたりした。音が消えた瞬間に拍手をすることが、いわゆるフラブラである事を認識していない人が少数でもいると厳しい。オペラでもバレエでもないのだから、指揮者が合図をしてから拍手はして欲しい。

アントン=バラホフスキーのヴァイオリン-ソロは、大小の揺らぎを上手く活かしている。大きな周期で、あるいは短い時間内でテンポを変えてくるが、違和感は全く感じないもので、チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲を面白いものにさせる。第三楽章冒頭のソロは、バラホフスキーのソロの白眉である。要所で出てくる木管も適切な響きであり、チェロの出番も効果的で、タカーチ-ナジによりよく準備されているのが伺える。

後半はメンデルスゾーンの交響曲第5番「宗教改革」である。タカーチ-ナジは、引いたかと思わせて一気に押し寄せる、起伏のある波のような演奏で攻めるか一方、必要とあれば響きを繊細にコントロールする。KSTも綺麗な弱音で、あるいは豊かなニュアンスを伴って演奏し、タカーチ-ナジの構成力とこれを実現させるKSTとが、がっちり絡み合う相性の良さが結実する見事な演奏だ。

演奏会終了時のアンコールとして、タカーチ-ナジは、エストニアの作曲家 Arvo Pärt (アルヴォ=ペルト)の「フラトレス」を選んだ。2015年9月11日に80歳の誕生日を迎えたばかりの作曲者の作品は、KSTの繊細さを極めた演奏で活かされた。曲は演奏されなければ活かされない。KSTの特質を把握し、80歳になったばかりのタイミングで現代音楽を紹介した、タカーチ-ナジの見識を最後に示し、名演に満たされた演奏会を終えた。

2015年7月12日日曜日

Kioi Sinfonietta Tokyo, the 20th Anniversary Concert, review 紀尾井ホール・紀尾井シンフォニエッタ東京 創立20周年 特別演奏会 評

2015年7月11日 土曜日
Saturday 11th July 2015
紀尾井ホール (東京)
Kioi Hall (Tokyo, Japan)

曲目:
Johann Sebastian Bach: Messa in Si minore BWV.232 (ミサ曲ロ短調)

soprano: Sawae Eri, Fujisaki Minae / 澤江衣里, 藤崎美苗
contralto: Aoki Hiroya / 青木洋也
tenore: Nakashima Katsuhiko / 中嶋克彦
basso: Kaku Toru / 加耒 徹

Coro: Kioi Bach Chor (合唱:紀尾井バッハコーア)
orchestra: Kioi Sinfonietta Tokyo(紀尾井シンフォニエッタ東京)
direttore: Trevor David Pinnock / トレヴァー=ピノック

紀尾井シンフォニエッタ東京(KST)は、トレヴァー=ピノックを指揮者に迎えて、2015年7月10日・11日に東京-紀尾井ホールで、「紀尾井ホール・紀尾井シンフォニエッタ東京創立20周年記念 特別演奏会」を開催した。この評は、第二日目の公演に対してのものである。

管弦楽配置は、舞台下手側から、第一ヴァイオリン→第二ヴァイオリン→ヴァイオリン-チェロ→ヴィオラのモダン配置で、コントラバスはチェロの後方につく。第二ヴァイオリンとチェロとの間にオルガンが置かれ、指揮台にはチェンバロが置かれ、オルガン奏者と向かい合う形となる。そのチェンバロは、ピノックによって弾かれる。

フルートは後方中央の下手側、後方中央の上手側には、下手側からオーボエ→ファゴットの順に配置される。ティンパニとトランペット、ホルンは、最も下手側に位置し、下手側バルコニーからは見えない位置だ。

着席位置は一階正面後方中央、チケットは完売している。観客の鑑賞態度は、極めて良好であった。

冒頭の合唱から心を捕まされる。紀尾井バッハコーアは、実質的にバッハ-コレギウム-ジャパンの合唱である。澤江衣里、青木洋也、中嶋克彦が素晴らしい。澤江衣里・中嶋克彦の二重唱は、実に相性が良くて前半の白眉である。

澤江衣里のソプラノは、終始自由自在に紀尾井ホールを響かせ、やり過ぎない程度にドラマティックで、歌唱分野をリードしている。

一方で青木洋也のコントラルトは、切々と訴える表現で、聴衆の心に語りかける。主に憐れみを乞う内容を踏まえ、紀尾井ホールの響きを的確に味方につけて歌い上げる。ソプラノとは対称的な役割を与えられているコントラルトであるが、完成度高い歌唱で、心を惹きつけられるソロである。

合唱は30人弱の規模でも、紀尾井ホールでは迫力をも伴う。下手側のソプラノが二歩前に出ると、天国が出現する。私は、他のパートから二歩前に出てくるBCJのソプラノが大好きで、完全に私の好みの展開でもある。

一方管弦楽は控え目で、奇を衒わない方向性でありながら、パッションを込めるべき所は実は攻めている。トランペットの響きは、突出させず精妙にブレンドさせる方向性である。この曲のこの箇所はこのように演奏される必要があると、高い理解の下で弾かれている印象を持つ。

Sanctusでは合唱・管弦楽・ホールが三位一体となって迫ってくる。響きが綺麗なだけでなく、迫ってくるというのが大切なのだ。800席の中規模ホールである、紀尾井ホールならではの響きである。このような響きを指向した紀尾井ホールの20周年を祝福するような、幸福感に満ちた時間だ。

今日は紀尾井ホール始まって以来の観客の素晴らしさだった。演奏中に寝ている人たちはいても(曲想上、これは仕方ない♪)物音はほとんどなかったし、何よりも、指揮者が明確に終了の合図を出してから拍手が沸き起こった事は重大な意味を持った。

曲を終える際の響きの消え去り方は本当に絶妙だった。あのような美しい響きの消え去り方は、なかなか味わえない。最後のあの響きの消え去りの絶妙さは、観客によって尊重され、共有された。"Dona nobis pacem" 平安は我らに与えられた。

2015年7月4日土曜日

Kioi Sinfonietta Tokyo, the 100th Subscription Concert, review 第100回 紀尾井シンフォニエッタ東京 定期演奏会 評

2015年7月4日 土曜日
Saturday 4st July 2015
紀尾井ホール (東京)
Kioi Hall (Tokyo, Japan)

曲目:
Wolfgang Amadeus Mozart: “Le nozze di Figaro”(ouverture) K.492 (序曲「フィガロの結婚」序曲)
Johannes Brahms: Doppio concerto per violino, violoncello e orchestra op.102
(休憩)
Ludwig van Beethoven: Sinfonia n.7 op.92

violino: Rainer Honeck /ライナー=ホーネック
violoncello: Maximilian Hornung / マキシミリアン=ホルヌング
orchestra: Kioi Sinfonietta Tokyo(紀尾井シンフォニエッタ東京)
direttore: Семён Ма́евич Бычко́в/ Semyon Bychkov / セミヨン=ビシュコフ

紀尾井シンフォニエッタ東京(KST)は、セミヨン=ビシュコフを指揮者に、ライナー=ホーネック・マキシミリアン=ホルヌングをソリストに迎えて、2015年7月3日・4日に東京-紀尾井ホールで、第100回定期演奏会を開催した。この評は、第二日目の公演に対してのものである。

管弦楽配置は、舞台下手側から、第一ヴァイオリン→第二ヴァイオリン→ヴァイオリン-チェロ→ヴィオラのモダン配置で、コントラバスはチェロの後方につく。木管パートは後方中央、ホルンは後方下手側、ティンパニ・トランペットは後方上手側の位置につく。

着席位置は一階正面後方僅かに上手側、チケットは完売している。観客の鑑賞態度は、前半は稀に見る程極めて良好であったが、後半は第二楽章冒頭で寝息が流れる(隣席の方は起こしてあげて欲しい)等多少のノイズがあった。

第一曲目の「フィガロの結婚」序曲は、弦楽を控え目な響きにさせ、管楽重視の普通の演奏である。

二曲目は、Brahmsによる、ヴァイオリンとチェロのための二重協奏曲である。第一楽章から管弦楽を良く響かせている一方で、ソリストとの響きのバランスも十分に考えられている。ソリストはホーネック・ホルヌングとも第一楽章中程から本領を発揮し、自由自在に音量・ニュアンスを組み立て、駆使している。音色の扱い方、微妙なテンポの揺るがし方が絶妙である。

東京のホールであったら、(少し大きめのホールであるが)紀尾井ホールで無ければ実現出来ない演奏である。弦楽系協奏曲では、ホールの大きさがどれだけ適切かが問われてくる。大音量ではなく、繊細な音色やニュアンスで攻めるタイプの弦楽系ソリストの場合、適切な会場は600〜800席規模の中規模ホールだ。紀尾井ホールの場合、一般的な中規模ホールでは大きい部類に入るが、それでもホーネック・ホルヌングの音色を適切な音圧をもって聴衆に伝える事ができた。それは中規模ホールだからであって、東京オペラシティ-タケミツメモリアルであったらアウトだろう。

後半はBeethovenの交響曲第7番。第一楽章のテンポ処理については、好みが分かれるかもしれない。遅めのテンポで、ゆっくりだからこそ見えてくる風景を見せるかのように考えられているが、一方で躍動感を感じるのは難しい。率直に申し上げれば私の好みではないが、管弦楽はその演奏で求められている要素を的確に演奏している。好みの問題は、ビシュコフの解釈に起因するものである。

(好みが分かれる第一楽章を含め)全曲を通してとにかく立派な演奏だ。序盤を華やかにする木管の響きから始まり、今日の管弦楽の精度は極めて高い。その精度でニュアンス溢れる表現を行えば、好みはどうであれ、優れた演奏である事を否定できる者は誰一人いないだろう。室内管弦楽団ならではの、素晴らしい演奏であった。

2015年2月14日土曜日

Kioi Sinfonietta Tokyo, the 98th Subscription Concert, review 第98回 紀尾井シンフォニエッタ東京 定期演奏会 評

2015年2月14日 土曜日
Saturday 14th February 2015
紀尾井ホール (東京)
Kioi Hall (Tokyo, Japan)

曲目:
Johann Sebastian Bach: Variazioni Goldberg BWV.988 (ゴルドベルク変奏曲)
(arranged for strings by Дмитрий Ситковецкий)
(休憩)
Пётр Ильич Чайковский / Pyotr Ilyich Tchaikovsky: Serenata per archi op.48 (弦楽セレナーデ)

violino: Дмитрий Ситковецкий / Dmitry Sitkovetsky /ドミトリー=シトコヴェツキー
orchestra: Kioi Sinfonietta Tokyo(紀尾井シンフォニエッタ東京)
direttore: Дмитрий Ситковецкий / Dmitry Sitkovetsky /ドミトリー=シトコヴェツキー

紀尾井シンフォニエッタ東京(KST)は、ドミトリー=シトコヴェツキーをソリスト兼指揮者に迎えて、2015年2月13日・14日に東京-紀尾井ホールで、第98回定期演奏会を開催した。この評は、第二日目の公演に対してのものである。

管弦楽配置は、舞台下手側から、第一ヴァイオリン→ヴィオラ→ヴァイオリン-チェロ→第二ヴァイオリンの左右対向配置で、コントラバスはチェロの後方につく。ゴルドベルク変奏曲はチェンバロがあり、上手側後方の位置につく。

着席位置は一階正面後方僅かに上手側、チケットは完売している。観客の鑑賞態度は、ゴルドベルク変奏曲の冒頭のみ鈴の音が目立ったが、他は概ね良好であり、二曲目の弦楽セレナーデは、紀尾井シンフォニエッタを私が聴き始めて以来の極めて良好なものであった。

ゴルドベルク変奏曲BWV.988は、冒頭固さが見られたものの、曲の進行とともに完成度を高める。全般的に節度あるパッションで表現する。トゥッティで演奏する場面、首席奏者がメインで他が伴奏する場面、シトコヴェツキーのソロのみが前面に立つ場面、この曲の持つ様々な表情を、その場その場で適切な音色を考え抜いた演奏で、バッハの曲想を活かした、素晴らしい演奏だ。

後半はチャイコフスキーの弦楽セレナーデ。節度を保ち、涙腺ウルウル要素が過剰にならない方向性であるが、シトコヴェツキーの見通しの良い構成力が光る、いい意味で中庸な表現である。派手さはないが、この場面ではこの響きでという必然が理解でき、奏者に示せている。一方でKSTは、シトコヴェツキーの意図を的確に理解し、実際の響きにその精緻さで実現される演奏である。好みはともかく、この路線のスタイルでは完璧な出来であった。

アンコールは、J.S.バッハ作管弦楽組曲第3番BWV1068より第2曲アリア、これも完璧な演奏でシトコヴェツキーとKSTとの相性の良さを実感させるものであった。

2014年9月20日土曜日

第96回 紀尾井シンフォニエッタ東京 定期演奏会 評

2014年9月20日 土曜日
紀尾井ホール (東京)

曲目:
ルートヴィッヒ=ファン=ベートーフェン レオノーレ序曲第3番 op.72
フランツ=シューベルト 交響曲第7(8)番 「未完成」
(休憩)
ルートヴィッヒ=ファン=ベートーフェン 交響曲第3番 「英雄」 op.55

管弦楽:紀尾井シンフォニエッタ東京
ゲスト-コンサートマスター:千々岩英一(パリ管弦楽団副コンサートマスター)
指揮:アントン=ナヌート

紀尾井シンフォニエッタ東京(KST)は、アントン=ナヌートを指揮者に迎えて、2014年9月19日・20日に東京-紀尾井ホールで、第96回定期演奏会を開催した。この評は、第二日目の公演に対してのものである。

指揮のアントン=ナヌートは、スロヴァキアの指揮者である。「幽霊指揮者」としても名高いらしい♪ゲスト-コンサートマスターの千々岩英一は、パリ管弦楽団の副コンサートマスターである。

管弦楽配置は、舞台下手側から、第一ヴァイオリン→第二ヴァイオリン→ヴァイオリン-チェロ→ヴィオラのモダン配置で、コントラバスはチェロの後方につく。木管パートは後方中央、ホルンは後方下手側、その他の金管・打楽器群は後方上手側の位置につく。

着席位置は正面後方中央、チケットはこの公演を含め、二公演とも完売した。空席があるのは、定期会員のサボりによるものだろう。観客の鑑賞態度は飴のビニールが部分的に響く箇所はあったが、KSTの定期演奏会にしては良好の部類に入る。拍手のタイミングは「未完成」ではフライング拍手があり、他の二曲もわずかに早かった。アンコールはなかった。

前半の「レオノーレ序曲」「未完成」は若干目立つミス(ある楽器のソロに精緻さが欠けていた、ある楽器のソロの出だしが若干遅れたレベル)はあったものの、管弦楽にナヌートの意図を実現させるパッションが感じられる。

「未完成」は、私が生で聴いた中では一番の出来だ。紀尾井ホールの響きを十全に活かし切りながら、ニュアンスも豊かである。特に第一楽章は傑出した見事なもので、アントン=ナヌートとの相性の良さが見事に開花する演奏だ。

後半の「英雄」では、管弦楽の完成度が上がり、ほぼ完璧にナヌートの意図を実現させている。ナヌートの見通しの良さが活かされる、傑出した内容の「英雄」だ!パーヴォ=ヤルヴィ+ドイツェ-カンマーフィルハーモニー-ブレーメンによる演奏のような凶暴な内容ではなく、正統派と言うか保守本流のアプローチであるが、クライマックスへの持って行き方が絶妙であり、聴かせどころを深く理解している演奏だ。

観客の誰もが「全面勝利」の「英雄」気取りになってしまいそうな演奏となるが、勝因は明らかだ。

まず、紀尾井ホールの豊かな響きを十二分に把握した上で、たっぷりと響かせたところにある。しかし、単にこれだけではない。繊細に行くベキところは神経を通わせているし、金管は響き過ぎ寸前のギリギリの線で鳴らして適切なアクセントを与えている。要所で弦にニュアンスを掛ける場面は、さりげなくも実に効果的で、これらの戦略が全て上手く絡みあっている。

紀尾井ホールの響きを活かし切れていない指揮者、ソリストが多くいる中で、ナヌートはホールの性能を的確に使い倒す。誤解を恐れずに言えば、いい意味での職人芸だ。音楽と言うものは、何よりも「響き」で全てが決まる!ちゃんと響かせれば、指揮者の意図も演奏者のパッションも的確に伝わってくる事を、改めて思い知らされる演奏だ。KSTの演奏は、突っ込みどころが皆無と言うわけではないが、それでも傑出した内容の演奏に仕上げてきた要因は、「ちゃんと響かせた」事である。この事が、一番重要な基本なのだ。アントン=ナヌート万歳!KST万歳!!

2014年4月12日土曜日

第94回 紀尾井シンフォニエッタ東京 定期演奏会 評

2014年4月12日 土曜日
紀尾井ホール (東京)

曲目:
モーリス=ラヴェル 組曲「マ-メール-ロワ」
モーリス=ラヴェル 「亡き王女のためのパヴァーヌ」
コダーイ=ゾルターン 「ガランタ舞曲」
(休憩)
リヒャルト=シュトラウス 「町人貴族」 op.60 TrV228c

管弦楽:紀尾井シンフォニエッタ東京
ゲスト-コンサートマスター:千々岩英一(パリ管弦楽団副コンサートマスター)
指揮:ペーター=チャバ

紀尾井シンフォニエッタ東京(KST)は、ペーター=チャバを指揮者に迎えて、2014年4月11日・12日に東京-紀尾井ホールで、第94回定期演奏会を開催した。この評は、第二日目の公演に対してのものである。

指揮のペーター=チャバは、マジャール系ではあるがルーマニアで生まれた指揮者である。ゲスト-コンサートマスターの千々岩英一は、パリ管弦楽団の副コンサートマスターである。

管弦楽配置は、舞台下手側から、第一ヴァイオリン→第二ヴァイオリン→ヴァイオリン-チェロ→ヴィオラのモダン配置で、コントラバスはチェロの後方につく。木管パートは後方中央、ホルンは後方下手側、その他の金管・打楽器群は後方上手側の位置につく。なお、「町人貴族」にあっては、第一ヴァイオリン→第二ヴァイオリン→ヴィオラ→ヴァイオリン-チェロの順に配置換えし、第一プルトを半円形にして各パート二人ずつ配置し、その後ろに第二プルトを二人ずつ(計4人)配置している。

着席位置は正面後方中央、観客の入りは8割程か。観客の鑑賞態度は鈴の音が部分的に響く箇所はあったが、KSTの定期演奏会にしては良好の部類に入る。拍手のタイミングが適切である。

前半のラヴェル・コダーイは、弦楽の線が細く音圧が感じられない演奏である。

一番素晴らしいのは木管パートで、池田昭子のオーボエ、中川佳子のフルートはもちろんであるが、「ガランタ舞曲」で見せた鈴木豊人の長いソロには強く弾きつけられる。難波薫のピッコロは、私はもう少し強く鋭い響きが好みであるが、チャバの指示によって溶け込むようは響きになったのか?

ホルンは弱音で下支えする部分は素晴らしいが、「亡き王女のためのパヴァーヌ」冒頭のホルン-ソロはよく響いてはいるものの、生硬な響きでニュアンスが感じられない。松本に住んでいる私としては、ホルンはラデク=バボラークのように出来て当たり前で、彼のような柔らかくニュアンスに富んだ表現で観客の心を惹きつけるべきところである。「亡き王女のためのパヴァーヌ」終了後に一番最初にホルン首席を立たせたのは、納得しがたい。

休憩後の「町人貴族」で、弦楽は数を減らし、ゲスト-コンサートマスター千々岩英一を始め各弦楽パート首席によるソロも多いが、人数が減ったのにも関わらず前半よりも豊かな響きで音圧を感じさせる演奏だ。休憩前の木管の素晴らしさに弦楽が対抗できる状態となり、わざわざパリから千々岩英一を招いた意味がようやく明らかとなる。千々岩英一は、リヒャルト=シュトラウスならではの音色を朗々と掲示して管弦楽全体を導いていく。「町人貴族」では、故意に下手な奏者を演じるところもあるのだろうか、そのような場面は上品なオブラートに包んで演奏しているようにも思える。各弦楽パート首席のソロも素晴らしく、その室内楽的聴きどころを的確に演奏し、千々岩英一が提示したテンションを保持している。管弦楽全体で紀尾井ホールの響きを味方につけた演奏で完成度が高い演奏だ。

アンコールは、「町人貴族」の中から二分ほど抜粋しての演奏であった。

2013年11月16日土曜日

第92回 紀尾井シンフォニエッタ東京 定期演奏会 演奏会評

2013年11月16日 土曜日
紀尾井ホール (東京)

曲目:
フェリックス=メンデルスゾーン=バルトルディ 弦楽のためのシンフォニア第7番
ロベルト=シューマン ピアノ協奏曲 op.54
(休憩)
フランツ=シューベルト 交響曲第5番 D485

ピアノ:ペーター=レーゼル
管弦楽:紀尾井シンフォニエッタ東京
 ゲスト-コンサートマスター:アントン=バラホフスキー
指揮:イェルク-ペーター=ヴァイグレ

紀尾井シンフォニエッタ東京は、ペーター=レーゼルをソリストに、イェルク-ペーター=ヴァイグレを指揮者に迎えて、2013年11月15日・16日に東京-紀尾井ホールで、第92回定期演奏会を開催した。この評は、第二日目の公演に対してのものである。

1945年にドレスデンで生まれたペーターレーゼルは、この11月に来日し、全て紀尾井ホールにて計4公演に臨む。その内容は、11月7日に室内楽、11月9日にソロ-リサイタル、11月15・16日に紀尾井シンフォニエッタ第92回定期演奏会のソリストとしての公演である。

指揮のイェルク-ペーター=ヴァイグレは旧東ドイツ出身の指揮者でクルト=マズアに師事した。歌劇場・合唱の指揮の経験も豊富であるようだ。ゲスト-コンサートマスターのアントン=バラホフスキーはロシア連邦ノボシビルスク生まれで、現在バイエルン放送交響楽団の第一コンサートマスターである。

管弦楽配置は、舞台下手側から、第一ヴァイオリン→第二ヴァイオリン→ヴァイオリン-チェロ→ヴィオラのモダン配置で、コントラバスはチェロの後方につく。木管パートは後方中央、ホルンは後方下手側、その他の金管・打楽器群は後方上手側の位置につく。

着席位置は正面後方中央、チケットは完売している。観客の鑑賞態度は良好であった。

第一曲目はメンデルスゾーンの「弦楽のためのシンフォニア第7番」である。冒頭弦の響きの細さが気にはなるが、しり上がりに良くなっていき、第四楽章では熱を帯びる演奏となる。第四楽章では、12-13歳の作品とは思えないメンデルスゾーンの天才ぶりを再現させる。

第二曲目、シューマンのピアノ協奏曲は、ソリストと管弦楽とは協調的な方向性であり、ソリストを立てる方向性の音の響きである。ペーター=レーゼルのピアノは、ユジャ=ワンやマルタ=アルゲリッチとは対極にあるのだろう。ダイナミックレンジを敢えて拡げず、奏者による装飾を敢えてつけず、楽譜を深く読み込み解釈したらこうなるのだろうという説得力がある。テンポの変動は、11月9日のピアノ-ソロ-リサイタルの時よりはつけている形だ。

欲を言えば、クラリネットにもう少し朗々とした響きがあれば、第一楽章のピアノとクラリネットとの二重奏が活きたかも知れない。特に、個人的に印象的なのは第二楽章である。

ソリスト-アンコールは、シューマンの「子どもの情景」より「トロイメライ」であった。

休憩後の第三曲目は、シューベルトの第五交響曲である。冒頭の弦の響きはやはり細い。指揮者の指示によるものであろうか。あまり強い自己主張がない演奏で、室内管弦楽団ならではの精緻さ、あるいは技巧的な完璧さを活かしたかと言えば若干の疑問が残る、まあまあ普通の演奏ではある。どの音符も失敗すれば目立つプレッシャーを与えられる木管は良い出来で、フルート、オーボエとも良いアクセントを与えている。ホルンの響きも、よく管弦楽に溶け込ませていた。

2013年9月7日土曜日

第91回 紀尾井シンフォニエッタ東京 定期演奏会 演奏会評

2013年9月7日 土曜日
紀尾井ホール (東京)

曲目:
蒔田尚昊 組曲「歳時」(2012年 新日鉄住金文化財団委嘱/世界初演)
クロード=ドビュッシー(アンドレ=カプレ編曲) 子どもの領分
(休憩)
アルベール=ルーセル 小管弦楽のためのコンセールOp.34
フランク=マルタン 7つの管楽器とティンパニ、打楽器、弦楽器のための協奏曲

管弦楽:紀尾井シンフォニエッタ東京
指揮:阪哲朗

紀尾井シンフォニエッタ東京は、阪哲朗を指揮者に迎えて、2013年9月6日・7日に東京-紀尾井ホールで、第91回定期演奏会を開催した。この評は、第二日目の公演に対してのものである。

管弦楽配置は、舞台下手側から、第一ヴァイオリン→第二ヴァイオリン→ヴィオラ→ヴァイオリン-チェロのモダン配置で、コントラバスはチェロの後方につく。木管パートは後方中央、ホルンは後方下手側、その他の金管・打楽器群は後方上手側の位置につく。

着席位置は正面後方中央、客の入りはほぼ9割程である。

第一曲目は蒔田尚昊の組曲「歳時」。日本の四季を冬→春→夏→秋の順に構成した曲である。春は「さくらさくら」の変奏の要素があり、夏は「終戦忌-被昇天祭」と題され、「君が代」のモティーフも用いられる。弦管打いずれも響きが綺麗に決まっていると同時に、それぞれの季節に相応しく演奏されている。作曲者も臨席されている。観客の反応のテンションが演奏の内容に応えていないのが非常に残念である。

第二曲目の「子どもの領分」は、個々の演奏で良いと思える部分もあるが、全般的に演奏の方向性が確立されていない演奏で精彩を欠いている。

休憩後の第三曲目のルーセルは、「子どもの領分」で落ちた楽団員のテンションを取り戻す役割を果たす。弦楽のソロの響きも明瞭である。

第四曲目のマルタンは、管楽のソリストを舞台後方に配置しての演奏だ。楽譜を率直に再現するアプローチであるが、響きのバランスは良く考えられており、ソリストも明瞭で朗々とした響きを披露する。特にオーボエとクラリネットは強烈な印象を与える。弦楽もきちんとと響かせていると同時に、精度も高い水準で保たれ、響きが綺麗でかつ力強い。室内管弦楽ならでは精緻な響きを楽しめた演奏会であった。