2014年5月31日土曜日

ローマ歌劇場 歌劇「シモン=ボッカネグラ」 評 Teatro dell’Opera di Roma ‘Simon Boccanegra’

2014年5月31日 土曜日/ Saturday 31st May 2014
東京文化会館 (東京)/ Tokyo Bunka Kaikan(Tokyo, Japan)

演目:
ジュゼッペ=ヴェルディ 歌劇「シモン=ボッカネグラ」 Giuseppe Verdi ‘Simon Boccanegra’

シモン=ボッカネグラ:ジョルジョ=ペテアン(George Petean)
アメーリア(マリア=ボッカネグラ):エレオノーラ=ブラット(Eleonora Buratto)
ガブリエーレ=アドルノ:フランチェスコ=メーリ(Francesco Meli)
ヤーコポ=フィエスコ:ドミトリー=ベロセルスキー(Дмитрий Белосельский / Domitry Beloselskiy)
パオロ=アルビアーニ:マルコ=カリア(Marco Caria)
ピエトロ:ルーカ=ダッラミーコ(Luca dall’Amico)
伝令:サヴェリオ=フィオーレ(Saverio Fiore)
侍女:シムゲ=ビュユックエデス(Simge Büyükedes)

合唱:ローマ歌劇場合唱団(Coro del Teatro dell’Opera di Roma)

演出:エイドリアン=ノーブル(Adrian Noble)
美術:ダンテ=フィレッティ(Dante Ferretti)
衣装:マウリツィオ=ミレノッティ(Maurizio Millenotti)
合唱指揮:ロベルト=ガッビアーニ(Roberto Gabbiani)

管弦楽:ローマ歌劇場管弦楽団(Orchestra del Teatro dell’Opera di Roma)
指揮:リッカルド=ムーティ(Riccardo Muti)

ローマ歌劇場は、2014年5月20日から6月1日までの日程で、ジュゼッペ=ヴェルディ「ナブッコ」、同「シモン=ボッカネグラ」を、東京にて三公演ずつ、計6公演に渡って繰り広げられた。この評は、「シモン=ボッカネグラ」第三回目(千秋楽)5月31日の公演に対するものである。

着席位置は一階中央僅かに後方僅かに上手側である。チケットは公演日近くで完売した模様である。観客の鑑賞態度は概ね良好であったが、終了時にムーティが左手を挙げている状態であるのにも関わらず拍手が出る状態であった。

切符の購入は、バルバラ=フリットリ(Barbara Frittoli)降板の知らせを聞いて購入した。フリットリは2013年5月19日にタケミツメモリアルで、メッタメタな状態の歌声を本番中に聴かせた挙句、なぜかアンコールだけ完璧に歌い上げる訳の分からないリサイタルを披露した。この時以来、私はフリットリの歌唱能力に対し全面的な不信を抱いている。

フリットリは2013年12月トリノ歌劇場日本公演の際にも、トスカ役を降板しており、その時の理由がスピント-ソプラノ(太く強靭な声を要する)役からの敵前逃亡を理由としたものであった。トリノの降板も今回の降板も、予想の範囲内での展開である。巨大な規模を誇る東京文化会館に恐れを抱き、病気を理由に敵前逃亡をしたのだろう。タケミツメモリアルであんな状態の彼女が、東京文化会館で歌えるわけがない。

ムーティはいつの間にか、何が起こってもおかしくない年齢になってきており、そろそろ聴きに行くべき時かという想いと、バルバラ=フリットリに対する不信とがせめぎあい、結果チケットの購入はしないで置いていた。降板の知らせの後、「残り物には福がある」のか、まあ許容できる席が売れ残っていたので、購入した次第である。

休憩は、第一幕と第二幕の間のみの一回のみである。

舞台は伝統的なものであり、衣装を含めて前衛的な要素は何一つない、正統的なものだ。舞台で観客の目を眩ます事はせず、音のみで勝負する形態である。幕・場毎に場面転換が行われた。

ソリストの出来について述べる。

一番素晴らしいかったのは、文句なしにガブリエーレ役のフランチェスコ=メーリである。終始抜群の安定感を保ち、若手貴族の純真さを的確に演じていた。

また、フィエスコ役のドミトリー=ベロセルスキーは、第一幕まではメーリと同様に素晴らしい。

題名役のジョルジョ=ペテアンは、ベストとは言い難い出来で有るが、後半は破綻なく歌い切る。

アメーリア役のエレオノーラ=ブラットは、特に前半部が声をリニア(線形)にコントロール出来ず不安定ではあったが、強く歌う箇所の表現は出来ていた。エレオノーラ=ブラットは、少なくとも最強唱部分でのパワーでは明らかにバルバラ=フリットリを上回っており、代役の責任は十二分に果たしたと言える。

パオロ役のマルコ=カリアの出来は良くなかった。全般的にソリストの出来は、後半になるに従って良くなって来たが、ムーティと管弦楽に救われたところはある。

合唱の扱いは非常に適切で、第一幕で舞台裏から歌う時点から音量・響きともによく考えられており、その重要な役割を果たす。

管弦楽は極めて素晴らしい出来だ。歌い手を上手に引き立てつつ、ソリスティックな部分では的確に聴かせどころを決めていく。

リッカルド=ムーティは十二分に準備を重ねてきた事が伺えた。歌い手を引き立たせるにはどうしたら良いか、一方で曲想に応じてどこで管弦楽を走らせるか、その選択は的確だった。ムーティによる管弦楽の設定は非常に見事で、本当に必要ある場面以外では管弦楽を鳴らさず、見事な統制力と構築力を見せつける。

管弦楽を暴走に任せ、歌い手を殺す指揮者が新国立劇場に来ているのをこの耳で知っている私としては、リッカルド=ムーティのオペラ指揮者として極めて模範的であることを認識させられる。ムーティが走らせる管弦楽に乗れないのだとしたら、それは全面的に歌い手の責任である。

巨大な死んだ響きの東京文化会館を考慮すると、上演水準は高く、新国立劇場やサイトウ-キネン-フェスティバルの歌劇公演を軽く上回る出来ではあるが、それでも全てのソリストがメーリ並みの水準に達していたとは言い難く、54,000円のチケット代に見合うかと言われるとやや疑問ではあった。

2014年5月17日土曜日

ゴラン=コンチャル+エフゲニー=ザラフィアンツ デュオ-リサイタル 松本公演 評

2014年5月17日 土曜日
松本市音楽文化ホール (長野県松本市)

曲目:
ルートヴィッヒ=ファン=ベートーフェン ヴァイオリン-ソナタ第5番 op.24
フランツ=シューベルト ヴァイオリンとピアノのための二重奏曲 op.162 D.574
(休憩)
フレデリック=ショパン ポロネーズ第2番 op.26-2 (※2)
ヨハン=セバスティアン=バッハ 無伴奏ヴァイオリンパルティータ第3番 BWM1006から「前奏曲」 (※1)
ウジェーヌ=イザイ 無伴奏ヴァイオリン-ソナタ第2番 op.27 (※1)
パブロ=サラサーテ 「ツィゴイネルワイゼン」
カミーユ=サン-サーンス 「序奏とロンド-カプリッチョーソ」

(※1)ヴァイオリン-ソロによる演奏
(※2)ピアノ-ソロによる演奏

ヴァイオリン:ゴラン=コンチャル (Goran Končar)
ピアノ:エフゲニー=ザラフィアンツ (Evgeny Zarafiants)

ゴラン=コンチャルとエフゲニー=ザラフィアンツは、それぞれ別個に日本ツアーを組み、ゴラン=コンチャルは、東京(五反田文化センター音楽ホール)・小山(栃木県)・松本・京都(青山記念音楽堂)で、エフゲニー=ザラフィアンツは東京(王子ホール・五反田文化センター音楽ホール)・京都(ゲーテ-インスティチュート-ヴィラ鴨川)・武蔵野市(東京都)にて公演を行っている。この二人の組み合わせは、五反田文化センターの公演と松本公演の二回のみである。この評は5月17日に開催された、松本市音楽文化ホールでの公演に対する者である。

ゴラン=コンチャルはクロアチアのヴァイオリニスト、エフゲニー=ザラフィアンツはロシア出身ではあるが、現在はクロアチアに本拠を構えているピアニストである。

着席位置は正面中央上手側、観客の入りは七割程で、チケットは完売には至らなかったようだ。観客の鑑賞態度は、ややノイジーな状態である。

ゴラン=コンチャルは、ソリストとしての基本的な技量に欠けている。

第一曲目のベートーフェンの時点で、音はか弱くピアノの響きに埋没し、「響き」になっていない。当然、松本市音楽文化ホールの優秀な残響を味方につける事も出来ていない。

第二曲目のシューベルトは、先月庄司紗矢香によっても演奏された曲でもあり、実力差は歴然としている。庄司紗矢香が一歩引く演奏をするときは、プレスラーを立てるためという目的がはっきりしているが、コンチャルはそもそもピアノに対抗できない状態で、およそソリストとしての素養を有しているとは言えない。

バッハの無伴奏、イザイの無伴奏については、ピアノが外れた事もありいくらか聴いた印象は良くなるが、それでも響きが混濁してきちんと音符を弾いているか疑問が残る箇所があるし、イザイに至っては重要な「怒りの日」の動機を明確に表出する事すら出来ていない箇所があり、またこの曲の激しい性格の表現は為されなかった。(ちょうど二週間前に聴いたばかりの)アリーナ=イブラギモヴァのような激しさを表現しろとまでは言わないが、それとは別方向で攻めるのであれば、それなりの明晰な演奏でもって説得力を持たせるべきで、そのような説得力がないコンチャルの演奏はわざわざ聴くには値しないだろう。

5月18日に京都青山記念音楽館に登場するようだが、コンチャルの演奏に失望した聴衆による暴動が起きないか心配でならない。

一方、エフゲニー=ザラフィアンツのピアノは前半のベートーフェン・シューベルトともまともなアプローチで、ヴァイオリンさえ完璧であれば十分に噛み合う事が期待できる演奏だ。ショパンのポロネーズは、技術的な面に於ける問題があってクリアな要素が欠ける部分があり、「彩の国さいたま芸術劇場ピアノエトワールシリーズ」に出演する若手ピアニストの方が上手であるなあとは思わされるが、それでも響かせようとしているだけコンチャルよりはマシな状態だ。

「ツィゴイネルワイゼン」以降の出来は、何故かヴァイオリンとピアノのコンビネーションが格段に良くなり、まあ聴ける状態にはなる。アンコールは三曲あり、マスネの「タイスの瞑想曲」、モンティの「チャールダーシュ」、クライスラーの「愛の悲しみ」の三曲であり、アンコールについては一曲目と三曲目は良い出来であった。

「おやすみなさいのBGM」やら「就寝時の音楽」やらのCDを作成するのであれば、本当に優秀な演奏家であるが、ちょっとでも技量を要する箇所となると、(特にコンチャルは)自らが意図する表現を表出する技量に欠けており、彼以上の優秀な若手演奏家がたくさんいる中で日本ツアーを実現させた意義はないと言ってよい。招聘する側としては、目利きを良くする必要があるだろう。

ここ六カ月の間にヴァイオリンのソリストとして聴いた演奏者は、庄司紗矢香・諏訪内晶子・リサ=ヴァティアシュヴィリ・アリーナ=イブラギモヴァ・ピンカス=ズッカーマンと続いてきた。長野県松本市に住んでいる私としては、ヴァイオリンのソリストはこの水準で演奏されて当たり前だと思っていたが、この環境は贅沢な環境であったのか。その事を思い知らせてくれただけでも感謝するべきなのかも知れない。

2014年5月10日土曜日

ピンカス=ズッカーマン + 宮崎国際音楽祭管弦楽団 演奏会 評

2014年5月10日 土曜日
宮崎県立芸術劇場 (宮崎県宮崎市)

曲目:
ヨハネス=ブラームス 交響曲第2番 op.73
(休憩)
ヨハネス=ブラームス ヴァイオリンとヴァイオリン-チェロのための二重協奏曲 op.102

ヴァイオリン:ピンカス=ズッカーマン (Pinchas Zukerman)
ヴァイオリン-チェロ:アマンダ=フォーサイス (Amanda Forsyth)
管弦楽:宮崎国際音楽祭管弦楽団
指揮:ピンカス=ズッカーマン(交響曲)・徳永二男(二重協奏曲)

第19回宮崎国際音楽祭は、2013年4月29日から5月18日までにわたり、宮崎県立芸術劇場を中心に、室内管弦楽・室内楽を中心に10以上の公演を開催し、無事終了した。この評は、演奏会2、「ブラームス・深淵なる響き」の題名の下5月10日に開催された演奏会に対してのものである。

宮崎国際音楽祭に臨席するのも、ピンカス=ズッカーマンの演奏を聴くのも二度目である。着席位置は、一階中央僅かに下手側である。観客の入りは六割程で、一階後方、二階三階バルコニー席に空席が目立つ。観客の鑑賞態度は、僅かに拍手のタイミングが早いが、概ね良好であった。

管弦楽配置は、舞台下手側から第一ヴァイオリン→第二ヴァイオリン→ヴァイオリン-チェロ→ヴィオラの順である。

交響曲2番は、第二・第三楽章の木管・ホルンが素晴らしい音色で響かせる。特に第二楽章のホルンのソロは、まあバボラーク程ではないけれど、それでも確実に決めて引き締める演奏だ。全般的に荒削りの箇所がないとは言えないが、管弦楽それぞれがパッションを出せば良い出来になるのだと実感させられる。2009年の小澤征爾指揮によるサイトウ-キネン-オーケストラの演奏はあまりにつまらなく覇気がなく無気力で、最後の90秒以外は聴いていられない状態で、この曲が嫌いになっていた状態であったが、宮崎で再びこの第二交響曲の魅力を認識させられる演奏に出会える。今日の演奏は、もちろん最後の90秒の盛り上がりも、全管弦楽が精緻に揃い綺麗に決める。

二曲目の二重協奏曲は、ズッカーマンのソロが聴ける事もあり、ほぼこの曲目当てに宮崎まで来たようなものだ。どのような出来となるだろうか。

第一楽章冒頭、アマンダ=フォーサイスのチェロの音が細く、ピンカス=ズッカーマンのヴァイオリンはどう考えてもアマンダを庇っている演奏で、いつものズッカーマンらしさが希薄となってしまう。第一楽章冒頭ではアマンダのチェロの音の細さが影響して、音の多い箇所でズッカーマンとの二人のソロでどのような音を伝えるのか、不鮮明な箇所もあった。しかし、曲が進むにつれ是正される。

一方管弦楽は冒頭から全力全開で思いっ切りの良い演奏で、ホールを豊かな響きで満たす。まるでソリスト(特にアマンダ)に対して総決起を促しているかのようなパッションに溢れている。ソリスト級を含め力のある楽団員を揃えている宮崎国際音楽祭管弦楽団の本領が十全に発揮されている。

このような管弦楽の決起と、ズッカーマンがアマンダに引きずらずにマイペースを取り戻し、アマンダも十分ではないにしろ響かせる演奏になっていく。ここまで来れば、全てがうまく噛み合う演奏となる。宮崎県立芸術劇場の素晴らしい残響を味方につけ活かした、素晴らしい演奏だ。

アンコールはコダーイの「ヴァイオリンとヴァイオリン-チェロ二重奏曲」から一曲であった。

2014年5月3日土曜日

アリーナ=イブラギモヴァ 無伴奏ヴァイオリン-リサイタル 評

2014年5月3日 土曜日
電気文化会館 (愛知県名古屋市)

曲目:
ウジェーヌ=イザイ 無伴奏ヴァイオリン-ソナタ op.27
第1番 ヨーゼフ=シゲティに献呈
第2番 ジャック=ティボーに献呈
第3番 「バラード」 ジョルジェ=エネスクに献呈
(休憩)
第4番 フリッツ=クライスラーに献呈
第5番 マチュー=クリックボームに献呈
第6番 マルエル=キロガに献呈

ヴァイオリン:アリーナ=イブラギモヴァ
(Алина Ринатовна Ибрагимова / Alina Rinatovna Igragimova)

アリーナ=イブラギモヴァは、4月30日から5月3日に掛けて来日ツアーを行い、トッパンホール(東京)、電気文化会館(名古屋)にてリサイタルを行った。いずれも曲目は、イザイの無伴奏ヴァイオリン-ソナタである。在住国の連合王国にても、日本ツアーの後で123を一回、456を一回、全てを一回の公演がある。

アリーナ=イブラギモヴァは1985年9月28日に、当時のソヴィエト連邦スヴェルドロフスク州に生まれた。10歳の時に、父親がロンドン交響楽団コントラバス首席奏者として就任したことに伴い連合王国に移住し、現在も本拠としている。

イブラギモヴァの評判については、名古屋に於ける聴衆仲間からの噂で聴きつけた。まだ20代の彼女の演奏スタイルは「激しい」らしく、どちらかと言うとカワイイ系の顔立ちを売り物としている写真からは、想像できない。電気文化会館の宣伝チラシによると、「”妖精”イブラギモヴァが誘う。イザイの深淵」との事である。

そもそも東京での公演日は平日であり、かつわざわざ最新鋭の劣悪な音響設計で建築したトッパンホールに、この私が行くはずがない。当然名古屋の電気文化会館で決定である。着席位置は、一階中央やや前方である。客の入りは7割くらいであろうか。予想外の少なさである。聴衆の鑑賞態度は良好であった。

第1番は、演奏スタイルにリサ=バティアシュヴィリとそう変ったところはない。特別な「激しさ」は感じない。

第2番が始まる。最初の一小節だか三音だかは、実に繊細に優しい響きで弾いているなあと思いきや、突然豹変しアリーナの激しい本性が表出される。そのコントラストに圧倒される。第3番は「バラード」のタイトルに拘束されず、「激しさ」を織り込んだ演奏である。後半の4・5・6番は曲想こそおとなしめになるが、演奏スタイルは変わっていない。トッパンホール公演では最終局面で疲れが出たとの情報もあるが、今日の電気文化会館での公演では最後の最後まで緊張感が途切れない抜群の安定感を保っている。

アリーナの傑出しているところは、実は「激しさ」を伴うところも極めて緻密に演奏しているところだ。重音の美しさも何らの淀みもない。感情に全てを任せる事もせず、パッション溢れる演奏スタイルで観客の目を眩ませることもなく、全ては綿密な構成力の下で全ての響きが成り立っている。一音一音のあらゆる場面が必然と感じられる。完璧と言ってよい。身体能力の高さの面では若さの特権を活かしつつ、産み出される音楽は28歳とは思えない演奏だった。

無伴奏と言う事もあり、アンコールはなし。唯一の突っ込みどころは、「妖精」の宣伝文句の割にはふっくらとしていたことくらいしかない。この12月にはJ.S.バッハの無伴奏を同じ電気文化会館で演奏する。その時までにはダイエットを済ませて、「妖精」の宣伝文句の通りになってくださいね、アリーナたん♪♪