2015年11月25日水曜日

Sinfonia Lahti, Matsumoto performance, review ラハティ交響楽団 松本公演 評

2015年11月25日 水曜日
Wednesday 25th November 2015
松本市音楽文化ホール (長野県松本市)
The Harmony Hall (Matsumoto Municipal Concert Hall) (Matsumoto, Japan)

曲目:
Jean Sibelius: “Finlandia” op.26
Jean Sibelius: Concerto per violino e orchestra op.47
(休憩)
Jean Sibelius: Sinfonia n.2 op.43

violino: Petteri Iivonen
orchestra: Sinfonia Lahti
direttore: Okko Kamu

ラハティ交響楽団は、スオミ共和国の首都ヘルシンキから、北北東に100kmの地に位置するラハティ市に本拠を置く。

2015年11月に、ラハティ交響楽団は、オッコ=カムを指揮者に、ペッテリ=イーヴォネンをソリストに迎えて、日本ツアーを行う。全てシベリウスの作品を演奏する。松本・札幌はフィンランディア+ヴァイオリン協奏曲+交響曲第2番のプログラムである。東京では、シベリウスの全ての交響曲とヴァイオリン協奏曲を披露する。なぜか、札幌公演のみソリストは神尾真由子であった(代役ではなく、当初からの予定)。

管弦楽配置は、舞台下手側から、第一ヴァイオリン→第二ヴァイオリン→ヴィオラ→ヴァイオリン-チェロのモダン配置で、コントラバスはチェロの後方につく。木管パートは後方中央、打楽器群とホルンは後方下手側、その他の金管パートは後方上手側の位置につく

着席位置は一階正面やや後方僅かに上手側、観客の入りは、7割程であろうか。観客の鑑賞態度は、概ね良好であった。

一曲目の「フィンランディア」は音取り的要素もあり、アウェイ感が感じられるところもある。

二曲目のヴァイオリン協奏曲からは、ソリスト・管弦楽ともホールの響きを完璧に掴み始める。

ソリストのイーヴォネンはかなり個性的な演奏だ。技術を誇示するようなタイプではなく、彼独自で解釈した曲想を披露する。誰とも似ていないシベリウスを、彼は産み出す。

技術的に彼より巧い奏者はいるのだろうけど、彼の個性の代わりを務められる奏者は、どこにもいない。音量は小さめであるが、巧みに響かせる。独特の深い音色を駆使しニュアンスで攻めるタイプである。良く響く693席の中規模音楽堂である松本市音楽文化ホールだからこそ、彼の演奏が活きてくる。ヴァイオリン協奏曲というものは、中規模音楽堂を想定して書かれたものなのだと、強く確信する。タケミツメモリアルのような大規模音楽堂では、まず音量が重要になってくるので、彼には不向きなのかも知れない。

音量が必ずしも大きくないタイプのイーヴォネンを、楽団員は巧みに盛りたてる。ヴァイオリン・ヴィオラ・チェロとも、素晴らしく美しい弱音を響かせる。だからこそ、イーヴォネンを引き立たせる事ができるのだ。バランスを良く考えても、美しい弱音が生み出せない管弦楽では、イーヴォネンを引き立たせる事はできない。

イーヴォネンとカムと管弦楽は、あたかも一つの家族のような感じで演奏を繰り広げる。ソリスト・指揮者・管弦楽の三者が目指すべき音楽を共有しており、その場面でどのように演奏してどのような響きを出すべきなのか、一音一音誰もが熟知している。イーヴォネンは、いい意味でシベリウスホールの座付きソリストのようだ。外からお客さんとして招かれたソリストというのではなく、ずっとラハティ交響楽団と一緒に演奏して来たようなソリストのように感じられる。おらが交響楽団のソリストを盛りたてようと、管弦楽がサポートしているような、暖かな関係性が目の前にある。これ程まで自然な感じで見事にソリストをサポートする管弦楽は、見た事がない。

ソリストアンコールは、バッハの無伴奏を二曲披露した。BWV1004からアルマンドとBWV1005からアレグロ-アッサイであった。

休憩の後は、第二交響曲だ。

前にこの曲を別の楽団で聴いた時に、この曲への愛を失ってしまい、2番やるなら5番やってくれよと正直思ったところではあるが、冒頭から説得力のある響きで、第二交響曲への愛を取り戻す。

やはり弦楽は素晴らしい技量で、ヴァイオリン・ヴィオラ・チェロとも随所で美しい響きを出してくる。弦楽の実力は間違いなく世界屈指のものだ。シベリウスの2番は、弦楽が強いと本当に活きてくる。

管楽については、意地悪な耳で聴くと超絶技巧の持ち主は少ないけれど、一定の力は保持している。第二楽章のファゴットは実に見事であるし、他の管楽も要所要所では決めてくる。

ある特定の管楽器奏者の名人芸に頼るのではなく、管弦楽全体で作り上げる意志を強く感じる。どこで何をしなければならないかを、楽団員全員が一音一音全て理解している事が感じられ、好感が持てる。

オッコ=カムの指揮は、奇を衒う事はせず、かといって平凡ではなく適度にエッジを利かした巧みな構成力により、ラハティ交響楽団が持つ個性を維持し、ラハティ交響楽団を適切な方向に導いている。他の管弦楽団では聴けない響きを、カムとラハティ交響楽団は産み出してくるのだ。これほどまでに強い個性を持つ管弦楽団も、珍しい。

アンコールは、全てシベリウスの作品で、「悲しいワルツ」「ミュゼット」「鶴のいる風景」の三曲であった。「悲しいワルツ」では、某エストニア人指揮者のような極端な弱音を用いない、至極真っ当な演奏で魅了されし、他の二曲も弦楽とクラリネットとの見事な対比を味わう事が出来るものであった。

観客の反応はかなり熱狂的で、スタンディングオベーションを伴って演奏会を終了した。

2015年11月22日日曜日

Mito Chamber Orchestra, the 94th Subscription Concert, Toyota performance, review 水戸室内管弦楽団 第94回定期演奏会 豊田公演 評

2015年11月22日 土曜日
Sunday 22nd November 2015
豊田市コンサートホール (愛知県豊田市)
Toyota City Concert Hall (Toyota, Aich, Japan)

曲目:
Franz Joseph Haydn: Sinfonia n.102 Hob.I-102
Wolfgang Amadeus Mozart: Concerto per pianoforte e orchestra n.21 KV467
(休憩)
Wolfgang Amadeus Mozart: Sinfonia n.41 KV551

pianoforte: 児玉桃 / Kodama Momo
orchestra: Mito Chamber Orchestra(水戸室内管弦楽団)
direttore: 広上淳一 / Hirokami Junichi

水戸室内管弦楽団(MCO)は、広上淳一を指揮者に、児玉桃をソリストに迎えて、2015年11月20日・21日に水戸芸術館で、22日に豊田市コンサートホールで、第94回定期演奏会を開催した。この評は、第三日目の豊田市コンサートホールでの公演に対してのものである。ソリストは、当初Menahem Pressler(メナヘム=プレスラー)の予定であったが、病気療養のために変更となった。

管弦楽配置は、舞台下手側から、第一ヴァイオリン→第二ヴァイオリン→ヴァイオリン-チェロ→ヴィオラのモダン配置で、コントラバスはチェロの後方につく。木管パートは後方中央、トランペットとティンパニは後方下手側、ホルンは後方上手側の位置につく。

着席位置は一階正面僅かに後方上手側、観客の入りは、8割強か?岐阜にて同時にバッハ-コレギウム-ジャパンの演奏会があったのは不幸で、チケット完売には至らなかった。観客の鑑賞態度は、概ね良好であったが、ハイドンの最終楽章で長めのパウゼを掛けた箇所で拍手が出てしまった。やっちもうたなあ。

コンサートマスター/ミストレスは、ハイドンは竹澤恭子、KV467は渡辺實和子、KV551は豊嶋泰嗣が担当した。

一曲目のハイドン交響曲第102番は、序盤こそホールのアウェイ感があったものの、いつの間にか初めてであるはずのホールに馴染んでいる。やはり響きが水戸芸術館と違い、美しい。最終楽章で、パウゼを長く取る箇所で拍手が出てしまったので、もう一箇所長くパウゼを取る場面では、昨日の公演よりも短めにしている。

二曲目のモーツァルトピアノ協奏曲第21番KV467からは、一転縦の線をビシッと揃えて始まる。そこから夢見るような時間が始まるが、響きはより美しい。

ソリストの児玉桃のピアノは、自己主張は控えめで管弦楽に溶け込むアプローチを取る。ふっと哀愁を漂わせる演奏で、カデンツァの箇所で加速したテンポをすっと遅くする場面で顕著だ。ここまでは昨日と変わりないが、ホールが変わり、ピアノがよく響き、埋没しがちな昨日の公演と違い、ピアノと管弦楽とのバランスが絶妙である。

特に第二楽章は、ひたすら響きに溺れる。天井を向き恍惚とした表情で美しい響きのシャワーを浴びる。

そこには、ピアノと管弦楽との間の、「何か折り合いをつけた」と言うのとは全く違う、自然な絡み合いがある。ピアノと管弦楽とホールとの、美しい三位一体が実現されている。

児玉桃も本当に気持ち良く弾けたのだろう、アンコールが披露され、ドビュッシーの「亜麻色の髪の乙女」が演奏されて休憩となる。

三曲目のモーツァルト交響曲第41番KV551は、昨日のガチガチに固い、正直聴いていて苦痛な演奏とは打って変わっている。

管弦楽のパッションがホールに美しく響き、その響きが管弦楽と観客のテンションを上げていく。

昨日より柔軟なテンポ設定のように感じられる。ピリオド派の活き活き路線ではないのだが、ホールが広上淳一の意図を実現させていくのだ。

管弦楽が奏でる一音一音が実に美しい。弦楽も、管楽も、伸びやかに心地よく響いてくる。バロック-ティンパニも良く聴こえる。

一つ一つの響きが説得力を持ってくる。そこにモーツァルトがいる。そこに水戸室内管弦楽団の響きがある。

管弦楽の自発性も活きまくり、終盤のホルンの大胆で美しい響きが最後の効果的なアクセントを与え、恍惚とした気持ちで天井を向いて最後の一音を聴く。音が鳴り止む。両側バルコニーからのbravoの声が響く。

大人しい水戸芸術館の観客とは違う反応に続き、熱い拍手が送られる。

初めてのホールなのに、本拠地での公演を圧倒的に上回る内容だ。ホールの響きは重要だ。奏者のパッションを美しく響かせる残響は、西洋古典音楽の命である。

演奏者・観客・ホールが三位一体となって、今日の演奏会を作り上げた。

豊田市コンサートホール、万歳!水戸室内管弦楽団、万歳!

2015年11月21日土曜日

Mito Chamber Orchestra, the 94th Subscription Concert, review 第94回 水戸室内管弦楽団 定期演奏会 評

2015年11月21日 土曜日
Saturday 21st November 2015
水戸芸術館 (茨城県水戸市)
Art Tower Mito, Concert Hall ATM (Mito, Japan)

曲目:
Franz Joseph Haydn: Sinfonia n.102 Hob.I-102
Wolfgang Amadeus Mozart: Concerto per pianoforte e orchestra n.21 KV467
(休憩)
Wolfgang Amadeus Mozart: Sinfonia n.41 KV551

pianoforte: 児玉桃 / Kodama Momo
orchestra: Mito Chamber Orchestra(水戸室内管弦楽団)
direttore: 広上淳一 / Hirokami Junichi

水戸室内管弦楽団(MCO)は、広上淳一を指揮者に、児玉桃をソリストに迎えて、2015年11月20日・21日に水戸芸術館で、22日に豊田市コンサートホールで、第94回定期演奏会を開催する。この評は、第二日目の公演に対してのものである。ソリストは、当初Menahem Pressler(メナヘム=プレスラー)の予定であったが、病気療養のために変更となった。

管弦楽配置は、舞台下手側から、第一ヴァイオリン→第二ヴァイオリン→ヴァイオリン-チェロ→ヴィオラのモダン配置で、コントラバスはチェロの後方につく。木管パートは後方中央、トランペットとティンパニは後方下手側、ホルンは後方上手側の位置につく。

着席位置は一階正面後方上手側、観客の入りは、正面席は補助席を用いた程の、かなりの入りである。観客の鑑賞態度は、概ね良好であったが、ピアノ協奏曲で出た話し声は何だったのだろう?指揮者から思わず出た声だと信じたいが。

コンサートマスター/ミストレスは、ハイドンは竹澤恭子、KV467は渡辺實和子、KV551は豊嶋泰嗣が担当した。

一曲目のハイドン交響曲第102番は、精度よりは躍動感を志向しているが、楽しい演奏だ。最終楽章では、パウゼを長く取るなど、広上淳一の独自の解釈をも入れてくる。濃厚な響きであるが、愉悦感がある演奏だ。

二曲目のモーツァルトピアノ協奏曲第21番KV467からは、一転縦の線をビシッと揃え、水戸芸術館の音響にぴったりあった響きでニュアンスをつけて、管弦楽が始まる。これがモーツァルトなんだ、これが水戸室内管弦楽団なんだ、と思わせる、幸せな時間だ。

ソリストの児玉桃のピアノは、自己主張は控えめで管弦楽に溶け込むアプローチを取る。ふっと哀愁を漂わせる演奏で、カデンツァの箇所で加速したテンポをすっと遅くする場面で顕著だ。

控えめな表現のソリストと、元気いっぱいの管弦楽とで、折り合いをつけた形のコンビネーションである。

三曲目のモーツァルト交響曲第41番KV551は、好みが分かれる演奏だ。正直に申し上げると、私の好みではない。

全般的に遅めのテンポで、かつテンポの変動をかなり制限し、その基盤の上に濃厚に演奏するスタイルだ。ピリオド派の活き活きとした演奏のアンチテーゼを示したいのだろうか?

管弦楽は、広上淳一の意図をくみ取り、パッションを込めて演奏する。管弦楽は実に見事である。

しかしながら、愉悦感は全くない。およそ広上淳一らしくない展開で、一曲目で感じられた愉悦感が消え去り、聴いていて疲れる演奏である。

あれだけの演奏を管弦楽はしているのだから、曲を活かすも殺すも広上淳一次第の状況であるが、果たしてこれがモーツァルトであるのか?そう問われれば、私にとっては否だ。

どんなに見事な演奏をしても、単にクソ真面目なだけで、そこに巧みな構成を与えなければ、何らの説得力を持ち得ず、そこには音楽の悦びはない。もう少し、指揮者から何らかの工夫を注ぎ込む事は出来なかったのか?

アンコールはなかった。

2015年11月14日土曜日

Christian Tetzlaff, Sonate e partite per violino solo di Johann Sebastian Bach, Tokyo performance (14th November 2015), review クリスティアン=テツラフ バッハ無伴奏 東京公演 感想

2015年11月14日 土曜日
Saturday 14th November 2015
紀尾井ホール (東京)
Kioi Hall (Tokyo, Japan)

曲目:
Johann Sebastian Bach: Sonata per violino solo n.1 BWV1001
Johann Sebastian Bach: Partita per violino solo n.1 BWV1002
Johann Sebastian Bach: Sonata per violino solo n.2 BWV1003
(休憩)
Johann Sebastian Bach: Partita per violino solo n.2 BWV1004
Johann Sebastian Bach: Sonata per violino solo n.3 BWV1005
Johann Sebastian Bach: Partita per violino solo n.3 BWV1006

violino: Christian Tetzlaff

クリスティアン=テツラフは、2015年11月14日、バッハ無伴奏ソナタ・パルティータ
全曲演奏会を、紀尾井ホールにて行った。

着席位置は後方正面わずかに下手側、チケットは完売した。観客の鑑賞態度は概ね極めて良好だったが、一階後方上手側から、何かを叩くような音が持続的に聞こえる箇所があった。そのノイズは微かな音量であるが、持続的に確実に聞こえたため、BWV1004を聴くに当たって相当なダメージがあった。

ほぼ普段着による衣装で、無伴奏を135分に渡り弾き続ける事を考慮した、動きやすさを重視したと思われる衣装である。

紀尾井ホールの響きを熟知し、全般に渡り明るく強い音色である。BWV1003・1004が特に素晴らしい。構成・ニュアンスともに高い完成度である。バッハという事もあるのか、テツラフ節は控えめであった。休憩が30分しかなかったが、最後のBWV1006に至るまで力尽きる事はなかった。

アンコールは、パリでの大量殺戮事件を踏まえ、フランスの人々のためにBWV1003からアンダンテ楽章が捧げられた。

2015年11月10日火曜日

Maria João Pires + Julien Libeer , recital in Matsumoto, review マリア=ジョアウ=ピレシュ + ジュリアン=リベール リサイタル 感想

2015年11月10日 火曜日
Tuesday 10th November 2015
松本市音楽文化ホール (長野県松本市)
The Harmony Hall (Matsumoto Municipal Concert Hall) (Matsumoto, Japan)

曲目:
Franz Schubert: Allegro per pianoforte a 4 mani “Lebensstürme” D947 op.144(人生の嵐)
Ludwig van Beethoven: Sonata per pianoforte n. 31 op.110 (Pires)
(休憩)
Ludwig van Beethoven: Sonata per pianoforte n. 30 op.109 (Libeer)
Franz Schubert: Fantasia per pianoforte a quattro mani D940 op.103

pianoforte: Maria João Pires + Julien Libeer

マリア=ジョアウ=ピレシュは、2015年10月から11月に掛けて来日し、多数の演奏会を上演する。アントニオ=メネセスとの共演の他、若手ピアニストの教育事業の一環としての共演もあり、形態は多彩である。松本市音楽文化ホールでの公演は、ジュリアン=リベールとの共演となる。Schubertは四手のためのピアノ曲のため、両人で演奏し、Beethovenはop.110はピレシュ、op.109はリベール単独での演奏となる。

着席位置は後方やや上手側、客席の入りは6割程であった。観客の鑑賞態度は、前半に電子音のノイズ(補聴器?)が小さな音であったものの、持続的に鳴り響いていたのが残念だった。また、演奏内容に比して観客のテンションが低かった。

本日のピアノは、マリア=ジョアウ=ピレシュの出演に関わらず、(ヤマハじゃなくて)スタインウェイである。松本市音楽文化ホールでかなりの確率で使われる、ツヤ消し黒のスタインウェイである。松本市音楽文化ホール、ヤマハのピアノ、なかったっけ?それとも、使用頻度が低くて、状態が悪かったのか?あと、リベール氏も出演するために、ヤマハを使用する義務が免除されたのか?

一曲目のシューベルト D947 から素晴らしい演奏である。松本市音楽文化ホールの長い残響を伴う響きは、序盤で適切に把握される。

Beethoven op.110 は、マリア=ジョアウ=ピレシュによる演奏である。言葉でその素晴らしさを表現するのは難しいが、構成が良く考えられ計算されているのは当たり前として、繊細で上品で、深い響きで魅了される。弱音も含めて緊張感を伴う。単に綺麗な響きという訳ではない、霊感を感じさせるものだ。

ジュリアン=リベール単独で、Beethoven の op.109 最初はクリアな音色で攻めて来たが、次第に曲に没入していく演奏だ。若いのにop.109の難曲をそこまで弾けただけ素晴らしい。さすが、マリア=ジョアウ=ピレシュの生徒だ。

最後の、シューベルトの幻想曲 D940 は、マリア=ジョアウ=ピレシュが高音側の担当だ。どの音も深みはあり、どんなに激しい曲想の箇所でも決して上品さを失わない。低音側のリベールとの相性も完璧である。

Schubert も Beethoven も、曲を深く解釈した演奏であり、どこにもハッタリだとか、これ見よがしの見せ付けの要素は、どこにもない。激しく演奏する場面には、必ずその必然性が感じられる。だからこそ、上品さが保たれ、深みを感じさせる演奏になるのだろう。

アンコールは、クルタークの「シューベルトのへのオマージュ」であった。

2015年11月8日日曜日

Ballet Nacional de España, Osaka performance (November 2015), review / スペイン国立バレエ団 大阪公演(2015年11月) 感想

昨日・今日と、大阪のフェスティバルホールに行きまして、エスパーニャ国立バレエ団 (BNE / Ballet Nacional de España) (スペイン国立バレエ団)の公演を二公演、観劇しました。

11/7公演は、「ファルーカ」「ビバ-ナバーラ」「ボレロ」、ここで休憩を置いて後半は、「セビージャ組曲」の演目。

11/8公演は、「マントンのソレア」「ボレロ」、ここで休憩を置いて「セビージャ組曲」の演目でした。

「バレエ団」という名称ではありますが、皆さんが想像されるような「白鳥の湖」のような古典演目も、先日、新国立劇場バレエ団が上演した「ホフマン物語」のような、物語系演目も、キリアンのようなコンテンポラリー-ダンスも、演じません。

バレエと言っても、バレエ-フラメンコ、要するにフラメンコです。普通のバレエは、CNDエスパーニャ国立ダンスカンパニーで演じます。ダンスカンパニーの方は、昨年、名古屋・横浜で上演したので、記憶に残っている方も多いでしょう。

どうしてこのような逆転現象が起きたのですって?まあ、歴史的経緯なり、大人の事情なのではないでしょうか??

しかしながら、BNEのダンサーの多くは、普通のバレエの素養を持っています。振り付けはどう考えても、バレエのものとしか思えない箇所が多いです。もちろん、どの演目も足踏みのフラメンコの要素は保っています。フラメンコとバレエを融合させたと言うのが、私の理解です。

やはり、「ボレロ」と「セビージャ組曲」の二つは、このBNEの鉄壁演目です。

「ボレロ」は男性ソロと女性群舞・男性群舞とで構成され、二回目の繰り返しからずっと男性ソロが踊り続けます。両日とも、セルヒオ=ベルナルでした。

セルヒオの踊りはとにかく優美で、緩やかなテンポの所作が完璧なテンポ感でしなやかに決まっております。また、シャープに決めるべき箇所も決して優美さを失わない点が凄いです。演技力を重視するバレエファンの方は多いですが、純舞踊的技術の完璧さは、やはり大事です。

日本のバレエ団に於ける男性ダンサーの課題は、如何に優美さと躍動感とを高い次元で両立させるかにあるような気がします。

セルヒオは、まさに両方満たしています。多分、BNEの看板ダンサーなのではないでしょうか。

やはりこの「ボレロ」はBNEしかできない演目です。普通のバレエとフラメンコ双方の高度技術が必要なのと、セルヒオ=ベルナルの存在です。足踏みの音は、お立ち台版では実現不可能でしょう。衣装は赤と黒だけを用いたシンプルなものですが、とても美しいです。女性の方は、上半身裸であるセルヒオの肉体美にメロメロになられた事でしょう♪

後半は「セビージャ組曲」も、BNEの総力を結集した演目です。

「エスペランサ」の場面と思われる箇所の、白い女性ダンサーソロは、日替わりでした。

11/7公演のミリアム=メンドーサさんは、リフトされた状態での揺るぎの無さはもちろんのこと、終始様式美を完璧に保っておりました。このようにあるべき という所で完璧に美しく踊っております。

11/8公演のインマクラーダ=サンチェスさんは、11/7の「ビバ-ナバーラ」の時は私の心に入って行きませんでしたが、今日は素晴らしかったです。

「バイラオール」での六人の男性群舞はシャープで迫力がありました。

「夢の散歩道」の官能的な場面を経て、最後の「歓喜」の場面はいつまでも続いて欲しいほどです。ソロなしの26人による群舞は、フォーメーションが巧みでお祭りを思わせるものでありました。終盤部分をアレンジしたアンコールもあり、巧みな構成に驚愕します。
BNEの「ボレロ」と「セビージャ組曲」は、何度観ても飽きないでしょう!

新旧合わせて、初めてのフェスティバルホールは、気持ちを高揚させて終わりました。