2016年12月31日土曜日

Opernhaus Zürich, Opera ‘Alcina’ (2016/17) review チューリッヒ歌劇場 歌劇「アルチーナ」 感想

2016年12月31日 土曜日
Saturday 31st December 2016
チューリッヒ歌劇場 (スイス連邦チューリッヒ市)
Opernhaus Zürich (Zürich, Confoederatio Helvetica)

演目:
Georg Friedrich Händel: Opera ‘Alcina’
ゲオルグ=フリードリヒ=ヘンデル 歌劇「アルチーナ」

Alcina: Cecilia Bartoli
Ruggiero: Philippe Jaroussky
Morgana: Julie Fuchs
Bradamante: Varduhi Abrahamyan
Oronte: Fabio Trümpy
Melisso: Krzysztof Baczyk
Cupido: Barbara Goodman
Chorsolisten / 合唱ソロ: Soyoung Lee, Boguslaw Bidzinski, Ildo Song

Tänzer / ダンサー: Rouven Pabst, Nikita Korotkov, Amadeus Pawlica, Maxime Guenin, Steven Forster, Anatole Zangs

Producer: Christof Loy
Stage design: Johannes Leiacker
Costumes: Ursula Renzenbrink
Light-Design: Bernd Purkrabek
Choreography: Thomas Wilhelm
Dramaturgy: Kathrin Brunner

Solo-Violine: Hanna Weinmeister
Continuo / 通奏低音: Claudius Herrmann, Margret Köll, Sergio Ciomei, Enrico Maria Cacciari
orchestra: Orchestra La Scintilla
direttore: Giovanni Antonini

チューリッヒ歌劇場は、2016年12月31日から2017年1月10日までの日程で、ゲオルグ=フリードリヒ=ヘンデルの歌劇「アルチーナ」を6公演開催した。この評は2016年12月31日に催されたリバイバル初演に対するものである。演出は2014年1月26日に初演されたものである。2014年は9公演開催されたため、この公演は通算第10公演目となる。

着席位置は一階前方中央わずかに下手側である。観客の入りはほぼ満席。観客の鑑賞態度は概ね極めて良好だった。

舞台は第一幕・第二幕は伝統的なものであり、第三幕は舞台装置の裏をハッキリ見せた、ある種現代的なものだ。第一幕での舞台装置は、第一幕は複雑で舞台を二層にし、奈落を用い装置ごと垂直移動させるものだ。上層舞台は3mから4mの高さに変化するのだろうか、プロセニアムの外の両脇2mまで一緒に動く。ある程度奈落の設備がなければ上演できないものである。よって、日本で上演する場合は、新国立劇場・滋賀県立芸術劇場びわ湖ホール・富山市芸術文化ホール(オーバードホール)等、きちんとした奈落のある劇場でなければ上演が不可能であるが、日本の場合は舞台・観客数の規模が大きすぎるため、チューリッヒ歌劇場での公演の再現は不可能であると言えるだろう。

オケピットは極めて浅く、座った奏者の頭の高さが舞台の高さである。一部背の高い奏者の頭が5cm程、舞台上でに飛び出ていたりするが、視界面での影響はほぼない。しかし、指揮者の背後の席の方は、かなり視界が妨げられるだろう。

オケピットにも一列観客席を入れてある。その観客は、1mの距離なくピットの奏者のそばにいる。平土間5列目の観客は、実際には前から四列目であり、一列カットの平土間観客席である(「ドン-カルロ」では二列カットであった)。

ソリストの出来について述べる。

歌い手で最も素晴らしかったのは、間違いなくモルガーナ役のフランスのソプラノ Julie Fuchs である。声量は十二分にあり、声が綺麗で、ヴィブラートは長音にわずかに掛けただけなので、澄んだ音色だ。装飾音の部分の技巧は世界最高レベルの完成度で、正確なだけでなく、アクセントを掛けても清涼な音色・印象が変わらず、驚異的な余裕を感じさせる。第一幕終結部のアリアは圧巻の出来で、このアリアを聴けただけで、日本の山の中の松本から来たかいがあった。

他に、ルッジェーロ役のカウンターテノールの Philippe Jaroussky 、ブラガマンテ役のコントラルト Varduhi Abrahamyan 、オロンテ役の Fabio Trümpy 、メリッソ役の Krzystof Baczyk いずれも素晴らしい。声量・音圧・声の質、いずれも高い満足を観客に与え、演技も自然である。

ところが、題名役の Cecilia Bartoli であるが、彼女は単なる客寄せパンダであった。第一幕は特にひどく、声量が無いだけでなく、曇りのある声質故に伸びやかさもなく、ヴィブラートを掛けまくりの発声で声の綺麗さに欠け、モーツァルト以前のオペラには向かない。彼女だけ異質な声質であり、これはこれで、圧倒的な声量で劇場を支配し、その方向性で観客をノックアウトすれば、是非はともかく一つの路線であるとは思うが(私は決して賛同しない)、その路線をも取れなかった。第二幕・第三幕では、貫禄はあったが、この役に必要な声量・音圧は欠如していた。ただ、題名役のアリアは限定的ですので、致命傷にはならなかった。まあ、それにしても Cecilia の人気が凄いことと言ったら。チューリッヒの観客は、耳は肥えているはずだけど。

このオペラは、単独アリアの連続で、歌い手の力量が強く問われる厳しいオペラであるが、 Cecilia 以外の歌い手が素晴らしく、ソリストのほとんどを実力者で固めるチューリッヒ歌劇場のならではの完成度を実現した。

管弦楽は、Orchestra La Scintillaであるが、古楽器を用いたチューリッヒ歌劇場の座付き管弦楽と言って良く、モダン楽器主体の Philharmonia Zürich と並び、この歌劇場は二つの座付き管弦楽を持っている。世界最先端の歌劇場は、古楽系・モダン系の二つの座付きオケが不可欠であり、そうでなければ、充実したバロックオペラの上演は不可能だ。この点のチューリッヒ歌劇場の見識の高さは、もっと注目されて然るべきと考える。

コンサートミストレスは、 Philharmonia Zürich のコンサートミストレスである Hanna Weinmeister であるが、ヴァイオリンのソロは見事であった。同様に、チェロ(または相当する古楽器)のソロも、誰かは不明であるが、素晴らしかった。

終演後は、観客総立ちであった。このヘンデルのオペラにまで万全な体勢で上演する、チューリッヒ歌劇場の見識、体制を思い知らされた。

響きが十分に行き渡る限度である1100席規模に抑えた歌劇場で、舞台にきちんとした奈落があり、座付きオケに古楽系も揃え、その上で実力のあるソリストを確保して、高い水準のバロック-オペラ公演を実現させる。このような企画が日本に於いて行えるであろうか。

新国立劇場は1814席もの巨大劇場を作ってしまい、そのくせ、座付きオケ一つない状態である。一億二千七百万人もの人口規模を持つ日本国は、人口250万人規模のチューリッヒ周辺地域の州(カントン)政府に支えられたチューリッヒ歌劇場の企画一つできない、恥ずべき状況にあると言わざるを得ない。歌劇場に必要な機能とは何か、音楽とはどのようなものであるのか、そういった基本的な認識の差が、このような形で表出してしまうのだ。

(お断り:日本・韓国・中国・マジャール人、その他姓名順の表記と取る出演者の表記は、チューリッヒ歌劇場での表記の通り、名姓順とした。また、漢字・ハングル・キリル文字表記は省略した)

2016年12月1日木曜日

Hamburgische Staatsoper, Opera ‘Senza Sangue’ ‘A kékszakállú herceg vára’ (2016) review ハンブルク州立歌劇場 歌劇「無血で」・「青ひげ公の城」 感想

2016年11月30日 水曜日
Wednesday 30th November 2016
ハンブルク州立歌劇場 (ドイツ連邦共和国ハンブルク市)
Hamburgische Staatsoper (Hamburg, Bundesrepublik Deutschland)

演目:
Eötvös Péter: Opera ‘Senza Sangue’
エトヴェシュ=ペーテル 歌劇「無血で」
Bartók Béla: Opera ‘A kékszakállú herceg vára’ Sz.48 op.11
バルトーク=ベーラ 歌劇「青ひげ公の城」

‘Senza Sangue’
La donna: Angela Denoke
L'uomo: Sergei Leiferkus
‘A kékszakállú herceg vára’
Kékszakállú: Bálint Szabó
Judit: Claudia Mahnke

Director: Dmitri Tcherniakov
Set design: Dmitri Tcherniakov
Costume design: Elena Zaytseva
Lighting design: Gleb Filshtinsky
Dramaturgie: Johannes Blum
Video: Tieni Burkhalter

orchestra: Philharmonisches Staatsorchester Hamburg
direttore: 不明 (当初 Eötvös Péter の予定であったが、別のマジャール人指揮者に変更となった。

ハンブルク州立歌劇場は、2016年11月6日から11月30日までの日程で、マジャール人の作曲家・指揮者であるエトヴェシュ=ペーテルを指揮者に招いて(11月30日公演は、別の指揮者)、自身による作曲の歌劇「無血で」と、同じマジャール人であるバルトーク=ベーラの歌劇「青ひげ公の城」の二本立てを計7公演開催する。この評は2016年11月30日に催された第7公演千秋楽に対するものである。「無血で」は2016年に初演されたものである。

着席位置は一階前方わずかに上手側である。観客の入りは約半数であり、現代作品に対しては興行面では苦戦する結果となった。観客の鑑賞態度は良好である。

舞台はシンプルでありながら美しいものである。「無血で」は霧が立ち込める舞台から始まった。ホテルの部屋に入室するプロジェクターマッピングの後で、「無血で」と一体化した形で「青ひげ公の城」をそのまま上演する。キャストは変わるが、衣装はそのままなので、「青ひげ公の城」を知らない人にとっては、「無血で」の後編と思えてしまう巧みな構成だ。「無血で」はイタリア語、「青ひげ公の城」はマジャール語での上演である。ホテルの一室を思わせる「青ひげ公の城」の舞台は、終盤でのプロジェクターマッピングが秀逸である。

終始二人の男女による、緊迫感のある演劇だ。オペラと言うよりは、演劇、二人芝居を見た感覚になる。濃厚な管弦楽に負けることなく、全ての歌い手が声量・ニュアンスとも優れた歌唱である。

管弦楽も、優れた表現を、精度が高く濃密な表現で実現し、惹きつけられられた。

作品の構成が優れており、音楽と演劇とが高い次元で一体化した、素晴らしい作品でである。日本では決して観劇する事が出来ない、この新作の上演に立ち会えて、嬉しい気持ちだ。

また、興行面云々を脇に置いて、このような優れた新作オペラの発表の場を提供する、ハンブルク州立歌劇場の姿勢は、世界中の歌劇場の模範であろう。

今回の旅では、日本では味わえないマイナーな作品であるけど、芸術性の高いオペラ作品を観ることも目的とした。テアトロ-レアルの「皇帝ティートの慈悲」と共に、大成功と考えて良いだろう。

(この文面作成に当たり、現地在住の信頼できる消息筋からの貴重な情報を活用した。厚く御礼申し上げる。)

2016年11月29日火曜日

Royal Opera House, Covent Garden, Opera ‘Les Contes d'Hoffmann’ (2016) review ロイヤルオペラハウス コヴェントガーデン 歌劇「ホフマン物語」 感想

2016年11月28日 月曜日
Monday 28th November 2016
ロイヤルオペラハウス コヴェントガーデン (連合王国ロンドン市)
Royal Opera House, Covent Garden (London, U.K.)

演目:
Jacques Offenbach: Opera ‘Les Contes d'Hoffmann’
ジャック=オッフェンバック 歌劇「ホフマン物語」

Hoffmann: Leonardo Capalbo
FourVillains: Thomas Hampson
Olympia: Sofia Fomina
Giulietta: Christine Rice
Antonia: Sonya Yoncheva
Nicklausse: Kate Lindsey
Spalanzani: Christophe Mortagne
Crespel: Eric Halfvarson
Four Servants: Vincent Ordonneau
Spirit of Antonia's Mother: Catherine Carby
Nathanael: David Junghoon Kim
Hermann: Charles Rice
Schlemil: Yuriy Yurchuk
Luther: Jeremy White
Stella: Olga Sabadoch

Coro: Royal Opera Chorus

Director: John Schlesinger
Set design: William Dudley
Costumes design: Maria Björnson
Lighting design: David Hersey
Choreographer: Eleanor Fazan
Fight director: William Hobbs

orchestra: Orchestra of the Royal Opera House
direttore: Evelino Pidò

ロイヤルオペラハウス コヴェントガーデンは、2016年11月11日から12月3日までの日程で、ジャック=オッフェンバックの歌劇「ホフマン物語」を7公演開催する。この評は2016年11月28日に催された第6公演に対するものである。演出は1980年に初演されたものである。

着席位置は一階中央やや下手側である。チケットは完売した。観客の鑑賞態度は概ね良好であった。

舞台は伝統的なものであり、衣装を含めて前衛的な要素は何一つない、正統的なものだ。古風であるが、よく作り込まれた舞台で、安っぽさを感じる箇所が全くない豪華なものだ。

ソリストの出来について述べる。

あまりに素晴らし過ぎて言葉が出ない。歌い手のソリストが全て見事で、全く穴がなく、ホフマンもオリンピアもジュリエッタもアントニアもリンドルフもニコラウスもその他も完璧な「完璧なホフマン物語」である。

ピットは深めで(写真のハープで深さを推察して欲しい)、管弦楽が上手く音がすっぽ抜けたのか、歌をよく聴ける感じとなった。バレエ公演の時に、大して上手ではないと思っていたが、今日は非常に見事であった。

オリンピア役の Sofia Fomina はあんなに歌えて踊れて、観客を沸き立たせていた。ジュリエッタ役の Christine Rice も歌えて素晴らしい。

アントニア役の Sonya Yoncheva は、とにかく圧巻である。単独でも、ホフマン役との二重唱、母親亡霊+ミラクル博士との三重奏でも、もうこれ以上は望む事はできない。12/3は「個人的な事情」により代役になってしまうため、 Sonya Yoncheva のアントニアは今日が千秋楽で、本当に聴けてよかった!

題名役の Leonardo Capalbo は、長時間にわたり声量・ニュアンスとも完璧で、主役として劇場空間を支配した。ニコラウス(ズボン役)の Kate Lindsey も同様だ。このコンビも素晴らし過ぎました。

その他、リンドルフ役の Thomas Hampson 、クレスペル役の Eric Halfvarson 、アントニアの母親の亡霊役の Catherine Carby 等出番の少ない役も、声量ニュアンスとも完璧だった。

全てがあまりに素晴らし過ぎて、エピローグの前の「舟歌」を聴いている最中に、ここまでの見事な歌いっぷり演じっぷりを思い出して、泣き出しそうになり、舞台上部の紋章を見て、なんとか堪えた程だ。こんな完璧なオペラは初めてで、一生のうちでもそうそう味わえないレベルである。ロイヤルオペラハウス-コヴェントガーデンのプロダクションの力量を思い知らさた。

2016年11月25日金曜日

Camerata Salzburg, Matsumoto performance (25th November 2016), review カメラータ-ザルツブルク 松本公演(2016年11月25日) 評

2016年11月25日 金曜日
Friday 25th November 2016
松本市音楽文化ホール (長野県松本市)
The Harmony Hall (Matsumoto Municipal Concert Hall) (Matsumoto, Japan)

曲目:
Wolfgang Amadeus Mozart: Concerto per oboe e orchestra K.314
Wolfgang Amadeus Mozart: Concerto per violino e orchestra n.4 K.218
(休憩)
Wolfgang Amadeus Mozart: Divertimento n.11 K.251
Wolfgang Amadeus Mozart: Concerto per clarinetto e orchestra K.622

oboe: Hansjörg Schellenberger
violino: 堀米ゆず子 / Horigome Yuzuko
clarinetto: Alessandro Carbonare
orchestra: Camerata Salzburg(カメラータ-ザルツブルク)
direttore: Hansjörg Schellenberger

カメラータ-ザルツブルクは、2016年11月19日から11月27日まで日本ツアーを行い、岡山・東京(杉並公会堂)・静岡・大垣(岐阜県)・松本・横浜(神奈川県立音楽堂)・西宮(兵庫県)にて計7公演(静岡公演と大垣公演は二手に分かれてのほぼ同時の演奏会)の演奏会を開催する。用紙された曲目の中から、公演地の主催者の要望によって変更をしたのか、曲目は公演地により異なる。

この日本ツアーで、中規模ホールである700席前後のホールで演奏されるのは、この松本市音楽文化ホールが唯一である。この日本ツアーの中で、間違いなく最良の演奏会場であることは言うまでもない。

管弦楽配置は、舞台下手側から、第一ヴァイオリン→ヴァイオリン-チェロ→ヴィオラ→第二ヴァイオリンの左右対向配置で、コントラバスはチェロの後方につく。木管パートは後方中央、ホルンは下手側であるが木管と同じ場所にある。

着席位置は一階正面後方やや上手側、客席の入りは5割に満たなかったかもしれない。室内管弦楽団かつ全てモーツァルトのプログラムであり、なおかつ地方開催となると、観客動員には限界があるのだろう。観客の鑑賞態度は、概ね極めて良好であった。

最初はオーボエ協奏曲K.314である。松本市音楽文化ホールの響きには、二分くらいで慣れた感がある。一曲目から手を抜かない演奏である。

二曲目はヴァイオリン協奏曲第4番 K.218で、ソリストは堀米ゆず子である。ソリストと管弦楽との関係は、同じ方向を向き溶け込む方向性であるが、時折堀米ゆず子が、しとやなか音色に変えたりテンポを遅くしたりと面白い。管弦楽は非常に高いレベルにある。ホルンも柔らかく溶け込むし、管弦楽全体としてのアクセントも、全音域で美しくヴィヴィッドに決めてくる。松本市音楽文化ホールならではの、幸福感に満たされた響きが実現されている。

後半はディヴェルティメント第11番K.251である。オーボエ・指揮の Hansjörg Schellenberger は、弦楽に囲まれるような位置で客席を向いて座り、吹き指揮をする。曲想は何かの祝典のBGMを思わせるもので、この曲想を面白く演奏するのはなかなか難しそうに思える。しかしながら、曲の進行とともに華麗な曲想となる要素の上に、美しく演奏し続けることによりテンションが上がってくる要素の相乗効果が働き、単なるBGMではないこの曲の魅力を余すことなく表現仕切っている。

最後はクラリネット協奏曲K.626である。ソリストである Alessandro Carbonare のクラリネットは完璧過ぎる。冒頭から高い技巧を見せつけ、管弦楽を終始リードし、第二楽章弱奏部ソロも完璧な技巧で、ニュアンス豊かに演奏する。音の多い部分は、残響が豊かな松本市音楽文化ホールで美しく響かせるのは難しいが、この点も難なくクリアされている。これ以上のMozartのクラリネット協奏曲は望めない!管弦楽は後半も素晴らしい演奏をしたが、これほどまでのクラリネット-ソロを見せつけられては、どうしてもソリストの独擅場となるのはやむを得ない。それでも、ソリストと管弦楽双方が高い水準の演奏を繰り広げ、これが Mozart なのだと納得させられる演奏である。ソリスト・管弦楽・松本市音楽文化ホールの秀逸な音響が三位一体となって、観客に届く演奏である。演奏終了後に即スタンディングオベーションを行って差し支えない。

アンコールは、K.626の第二楽章からで、弱奏部ソロが始まる直前から開始された。アンコールはどの曲目で行うべきか、的確に把握されている。今年の、松本市で開催された演奏会の中で、最も優れた演奏であった。

2016年11月20日日曜日

新国立劇場バレエ団「DANCE to the Future 2016 Autumn」雑感

昨日・今日(2016年11月19/20日)と、新国立劇場バレエ団「DANCE to the Future 2016 Autumn」を観劇しました。三公演あるうちの、第二公演と第三公演(千秋楽)です。

音楽面で、特にヘンデルとショスタコーヴィチに目が向けられた事が素晴らしいと思います。ヘンデルのオラトリオに目を向け、前衛的なショスタコーヴィチを的確に扱う点に注目させられました。

ショスタコーヴィチのop.67(ピアノ三重奏曲第2番 第四楽章)から「3匹の子ぶた」を思いついた宝満直也は凄いと思います。私だったら、同じ旋律を用いながらもキレッキレのop.110(弦楽四重奏曲第8番 第二楽章)で攻めに掛かると思いつきますが。op.110 しか知らない私にとっては、どうしてあんなユルユルの演奏になるんかと思ったけど、op.67だからあの演奏があって、「3匹の子ぶた」が成立するのですね。

それに、純音楽的にショスタコーヴィチのop.110は完璧な名曲で、第二楽章なんて特別な感情無くして聴けませんし(水戸室内管弦楽団で室内管弦楽団版で初めて聴いた時の衝撃は忘れられない)。でも同じ旋律が「3匹の子ぶた」などとコメディに適用できると言うのが、興味深いところです。

「3匹の子ぶた」については、プログラム上の「怠け者の長男」「誰よりもしっかり者」との記載は、ツボにハマって爆笑してしまいました!それぞれ、八幡顕光さんと小野絢子さんですね♪如何にもそんな感じですから。

三日目千秋楽は、第三部の「即興」が面白かったです。米沢唯ちゃんは、航空会社客室乗務員風の衣装から上着を脱いでダンスパーティー風に変わる衣装です。今日の唯ちゃんはやりたい放題♪官能的に挑発したり、オーボエ奏者をおちょくってるし♪公演毎に登場する楽器・奏者が違う事もあり、千秋楽ではアコーディオンが出てくる事もあるのか、アルヘンティーナ風にタンゴを取り入れていました。

第三部の「即興」は、多分最初と最後の場面や、「今日はアコーディオンが出てくるからタンゴを踊る」と言う程度は決めていて、後は本当に即興だったのですね。振りが昨日の公演とは全面的に(冒頭から!)異なっていました。昨日よりスリリングな展開で楽しめました。

2016年11月12日土曜日

Bach Collegium Japan, Messa in Si minore (J.S. Bach) Yono Concert (2016), review バッハ-コレギウム-ジャパン バッハ「ミサ曲ロ短調」与野演奏会 評

2016年11月12日 土曜日
Saturday 12th November 2016
彩の国さいたま芸術劇場 音楽ホール (埼玉県与野市)
Sainokuni Saitama Arts Theater, Concert Hall (Yono, Saitama, Japan)

曲目:
Johann Sebastian Bach: Messa in Si minore BWV 232
soprano: 朴瑛実 / Boku Terumi
soprano: Joanne Lunn
contralto: Damien Guillon
tenore: 櫻田亮 / Sakurada Makoto
basso: Dominik Wörner
cembalo / organo: Francesco Corti
orchestra: Bach Collegium Japan(バッハ-コレギウム-ジャパン)
direttore: 鈴木雅明 / Suzuki Masaaki

バッハ-コレギウム-ジャパン(BCJ)は、2016年11月11日から15日までにかけて、J.S.バッハの ミサ曲ロ短調 演奏会を、東京・与野(埼玉県)・札幌にて開催する。(同時期の11月13日に、全く別のプログラムで第6回名古屋定期演奏会が開催される。)

管弦楽配置は、舞台下手側から、第一ヴァイオリン→第二ヴァイオリン(この影に隠れるように)ヴィオラ(ここまでで下手側を占める)→オルガン・チェンバロ→ヴァイオリン-チェロ→オーボエと囲み、これらに囲まれて指揮者のすぐ前にフルートが付く。ヴィオローネ(コントラバス相当)はチェロの後方につく。ファゴットはオーボエの後方で上手側、ティンパニとホルンはヴィオラの後方で下手側、トランペットは前方ながら最も下手側である。

合唱配置は、ソプラノ→コントラルト→バス→テノール→ソプラノで始まり、サンクトゥスからコントラルトの一部(上手側)とテノールを入れ替えて演奏された。

着席位置は一階正面やや後方上手側、チケットは完売している。観客の鑑賞態度は極めて良好だった。

全体的に、非常によく考えられて構築された計画にパッションが加わった、盤石な演奏である。誰もが自己顕示とは無縁で、全体の中でどのように歌ったり奏でたりして響きを作り出すかを理解しているかが、よく分かる演奏だ。その上にパッションを乗せてくる。

第一部第8曲目は、私の好きな展開である。朴瑛実と櫻井亮の日本在住者コンビが実に息が合っていて、同じ方向性を向いていて、管弦楽に乗っかっている。一方でフルートも程よく自己主張しつつ、その他の管弦楽は巧みに弱奏で根底から支える。そうやってよく考えられた響きが観客に届く時の幸せは何て表現したらいいだろう。

第一部第10曲と第四部第26曲に於けるコントラルト-ソロ(ダミアン=ギヨン)も素晴らしい。ソリストだけでなく、管弦楽全体を含めた全体で作り上げた音楽を実感出来る点も、注目する点である。

合唱は、冒頭から自由自在に彩の国さいたま芸術劇場の素晴らしいホールを響かせる。構築がしっかり為されていると察せられるところにパッションが乗っかり、ニュアンスに出てくる。第一部のどこかは忘れたが、そのニュアンスで涙腺が潤む。第三部サンクトゥスでの女声の押し寄せる波のようなニュアンスも強い印象を残す。

全体的に、歌・管弦楽とも高い充実ぶりを伺わせる素晴らしい演奏会であった。来年2017年4月に、松本市音楽文化ホール での「マタイ受難曲」が予定されているとのことだ。オルガンがある数少ない中規模ホールである松本市音楽文化ホールでのBCJの演奏会が今までなかったのが不思議なくらいだ。今から楽しみに待っていることとしよう!

2016年11月6日日曜日

Mahler Chamber Orchestra, Uchida Mitsuko, Toyota performance (6th November 2016), review マーラー室内管弦楽団+内田光子 豊田公演(2016年11月6日) 評

2016年11月6日 日曜日
Sunday 6th November 2016
豊田市コンサートホール (愛知県豊田市)
Toyota City Concert Hall (Toyota, Aich, Japan)

曲目:
Wolfgang Amadeus Mozart: Concerto per pianoforte e orchestra n.17 K.453
Bartók Béla: Divertimento Sz.113
(休憩)
Wolfgang Amadeus Mozart: Concerto per pianoforte e orchestra n.25 K.503

pianoforte: 内田光子 / Uchida Mitsuko
orchestra: Mahler Chamber Orchestra(マーラー室内管弦楽団)
direttore: 内田光子 / Uchida Mitsuko

マーラー室内管弦楽団は、2016年10月28日から11月8日まで日本ツアーを行い、札幌・大阪・東京・豊田にて計8公演(室内楽公演を含む)の演奏会を開催する。全ての公演のピアノ独奏・指揮は内田光子である。なお、バルトークのディヴェルティメントについては、コンサートマスターのリードによる演奏であり、内田光子は参画しない。この豊田市コンサートホールでのプログラムは、2016年11月22日から29日までの欧州ツアー(Amsterdam, Rotterdam, Dortmund, Berlin, London)と同じである。

この日本ツアーで、中規模ホールに準じる規模である1004席のホールで演奏されるのは、この豊田市コンサートホールが唯一である。残響はあっても音が届かないサントリーホールはもちろんのこと、大きな室容積と収容人数を誇るKitaraを圧倒的に上回る、豊かな残響と適切な音圧の下での鑑賞となる。欧州ツアーを含めて、最良の演奏会場であることは言うまでもない。

管弦楽配置は、舞台下手側から、第一ヴァイオリン→ヴァイオリン-チェロ→ヴィオラ→第二ヴァイオリンの左右対向配置で、コントラバスはチェロの後方につく、これは、ダニエル=ハーディングと一緒に来日した時と変わりないか。木管・金管パートは後方中央に位置する。下手側のホルンと上手側のトランペットに挟まれるように、木管奏者の席がある。ティンパニは後方上手側の位置につく。バルトークはピアノを撤去し、配置は同じながら、ヴァイオリン・ヴィオラ奏者は立って演奏する。

内田光子のピアノは、舞台中央に置かれ、鍵盤を客席側に向け、蓋を取った形である。アンスネスの来日公演と同様だ。

着席位置は一階正面中央やや上手側、客席の入りは8割程で満席にはならなかった。日曜日の少し遅めの開演時間、高額(1万7千円〜2万円)チケットが影響したのだろう。観客の鑑賞態度は、バルトークの第一楽章で中央上手側にカバンや紙を触る音が反復継続的に響いた(一人の観客が注意書きの手紙を渡したため、後半は静かに鑑賞されていた)ものの、他の箇所では概ね良好であった。

演奏について述べる。

第一曲目の17番K.453については、豊田市コンサートホールの響きに全く馴染んでなかった。ピアノは、特別残響の長いホールに配慮した奏法を用いていないように思える。ベロフやプレトニョフは的確にこのホールの響きに適応していたが・・・。弦楽はもちろん素晴らしい響きであるが、木管がこのホールに馴染むのに最も苦しんだように思える。

二曲目のバルトークによる「ディヴェルティメント」は、弦楽のみの編成であり、世界トップクラスの豊田市コンサートホールの響きを十全に活かす。首席奏者による弦楽四重奏のような箇所や、ロマ音楽を取り入れたような箇所も万全だ。それだけに、中央上手側にいた観客によるノイズ(カバンの中を探る、紙を読み音を立てて触る)は残念だった。気になった客が注意しようにも、両脇にいた同行の友人たちに阻まれ、演奏妨害行為を阻止することが出来なかった。近くで見ていただけに、阻止できず慚愧に堪えない。

三曲目のK.503になり、この曲を特色付ける第一楽章一回目の6連続上昇旋律こそ、愉悦感に満ちる感じとはならなかったが(豊田市コンサートホールの響きを扱う事が如何に難しいか!)曲の進行とともに馴染み始める。木管奏者も、彼女たちなりにこのホールの響かせ方を会得したのか、内田光子との掛け合いがようやく機能し始める。内田光子のカデンツァも素晴らしい。

と言いつつも、この演奏会で最も感銘を受けた点は、個人技と言うよりは、ソリストを含めた管弦楽一体としての まとまり である。トゥッティで演奏される際に、金管楽器が吹かれているとは思えない柔らかな音色が、この豊田市コンサートホールを響かせるのだ。杜撰な音響設計のサントリーホールはもちろんのこと、タケミツメモリアルでさえも実現出来ない、音圧を感じさせながらの柔らかい響き、誰か一人がと言うのではない、全員でモーツァルトを深く理解し、各自どのような響きを出すべきか理解している響きである。

これは、マーラー室内管弦楽団の各奏者の高い技量、バルトークで見せた弦楽の他、金管セクションの、柔らかく溶け込ませるような響きの絶妙さにより実現されたものである。このアプローチでどれだけこのモーツァルトが活かされたであろうか?ホルンはもちろんのこと、トランペットはナチュラル-トランペットでありながら、音を全く外さない(これだけでも驚異)だけでなく、精緻な響きで管弦楽に溶け込ませる。鮮やかな福川ホルンのみで成り立たっているようなNHK交響楽団とは対極の響きだ。輝かしく自己顕示的な響きとは全く無縁で、如何に管弦楽全体としてあるべき響きかを考え、その響きを実現させていく、まるで木管楽器を演奏しているかのような柔らかな音色は、これこそ目立たないながらも高度な技巧を要するものである。これを実現させた金管セクションは本当に傑出した演奏である。

このような響きを出せる金管奏者こそ、今の日本の管弦楽団に欠いている。名フィルの安土さんのホルンくらいしかいないのではないか?吹奏楽部で輝かしい音色でヒーロー / ヒロインになるような金管奏者など不要である。日本の音楽教育から変える必要があるのかもしれない。挑発的に言わせて貰えば、N響福川を反面教師にする必要がある。

アンコールは、内田光子のソロにより謎の現代音楽っぽいものが演奏された。曲名の掲示はなかった。

2016年10月30日日曜日

新国立劇場バレエ団「ロメオとジュリエッタ」2016年10月29/30日公演 感想

新国立劇場バレエ団は「ロメオとジュリエッタ」にて2016/17シーズンの開幕を迎えました。29日は小野絢子さん、30日の本日は米沢唯ちゃんの主演です。両方とも素晴らしい舞台です。

ジュリエッタ役の他、卑劣漢ティボルト役も、菅野英男さん、中家正博さんともに素晴らしいです。ティボルトのやっていることは卑劣漢だけど、死の間際に見せる執念には感情を揺さぶられます。その直後の、キュピレット夫人役の本島美和さんの怒りと慟哭の場面も同様です。

あきらにゃんが贔屓にしている米沢唯ちゃんについては、まずはイタズラ好きな少女を伸びやかな踊りを伴いながら演じて観客を魅了させ、第一幕のバルコニーの場や、第三幕のパリスと脱け殻の状態で踊る箇所(能面のような表情で感情の空白を表現していた)で、涙腺が緩みました。ワディム=ムンタギロフさんとのコンビも盤石です。何気ない場面でも、抜群の技術がなければ崩れる繊細な役だと思いますが、その点もさすがです。主に祈った後での決意の場面も、心を動かされます。

「ロメオとジュリエッタ」は、バレエ作品の中では数少ない、気軽な気持ちで観れない演目です。各幕毎に死人が出て、合計11名が殺され、自死します。観客側にもしっかりした気持ちの強さを求められますが、それでも観に行って良かったと心から思える作品です。

あと、11月2日〜5日まで一公演ずつ、計四公演上演されます。2・4日は小野絢子さん、3・5日は米沢唯ちゃんの主演日です。両キャストが理想ですが、どちらか片方でも観劇されることを強くお勧めします。私は3・5日と、あと二公演観劇します。これ程の幸せな体験は、そうそうありません。

2016年10月22日土曜日

国立劇場 歌舞伎「仮名手本忠臣蔵」第一部 感想

今日は、国立劇場にて歌舞伎「仮名手本忠臣蔵」の第一部を観劇しました。国立劇場開場50周年記念事業の目玉として、三部に分けて「仮名手本忠臣蔵」を上演する企画の、第一弾となります。10月公演では四段目まで、大雑把に言えば、塩冶判官が切腹するまでの場面となります。

あぜくら会に入会し、頑張ってチケ取りしましたため、とちり中央席確保しての観劇となりました!

開演10分前に、エヘン口上人形が出てきて、配役を述べて行きますが、これは聞いておいた方がいいでしょう。この口上自体がと言うよりは、後になって「エヘン」がキーワードになるからです。

私にとって印象に残った箇所は、まずは二段目の「桃井館力弥使者の場」で、小浪と力弥とのウブっぷりが素晴らしい。小浪役の中村米吉は本当に可愛いい娘に化けていて、実は男であることを知らなければ惚れてしまいそうです!

三段目の「門前の場」は諧謔の場面で笑える箇所です。加古川本蔵を謀殺するべく練習する場面で、「エヘンと言ったら、何もかも打ち捨てバッサリ」の場面では、大受けしてしまいました♪詳細は、本番を観ましょうね♪♪

四段目で塩冶判官切腹後の焼香の場面では、香りが客席まで漂って来ます。四段目の空気感は、月並みな言い方だけど、やはり緊迫するものです。私にとって涙腺が決壊しそうになった場面は、切腹の場面ではなく、最後に家来たちが去り、大星由良之助が一人になった場面でありました。誰もいなくなって、冷静さを保っていた感情をはじめて露わにする由良之助の姿に、心を動かされずにはいられません。

今回の国立劇場のプロダクションでは、カットされる事が多い場面も上演されているとのこと、これ故に、この「仮名手本忠臣蔵」の構成の巧みさを思い知らされます。シリアスな場面だけでなく、小浪と力弥との初々しい恋の場面や、「エヘンと言ったら、何もかも打ち捨てバッサリ」の場面と言ったような諧謔を挿入して、観客を惹きつけています。国立劇場開場50周年記念に相応しい、名作の真価を味わいました。

2016年10月9日日曜日

Israel Galván, ’SOLO’, Nagoya perfomance, review イスラエル=ガルバン 「SOLO」 名古屋公演 感想

2016年10月8・9日 土・日曜日
Saturday 8th October 2016
Sunday 9th October 2016
愛知県芸術劇場小ホール (愛知県名古屋市)
Aichi Prefectural Art Theater, The Mini Theater (Nagoya, Japan)

演目:「SOLO」(2007年初演)
ダンサー:イスラエル=ガルバン(Israel Galván, 1973年, Sevilla, Andulucía, España生まれ)

イスラエル=ガルバンは、2016年10月7日から16日まで「あいちトリエンナーレ2016」に招聘され、上記演目を愛知県芸術劇場小ホールにて10月7日から9日まで一公演ずつ、計3公演上演した。
この演目とは別に、10月15・16日に、名古屋市芸術創造センターにて「FLA.CO.MEN」をも上演している。
一都市で二演目以上の公演を実施するのは異例のようで、キュレーターの熱意・力量の賜物と思われる。また、イスラエル=ガルバンは「あいちトリエンナーレ2016」での公演のためだけに本拠地から旅行し、名古屋以外の都市での公演を行わなかった。
担当キュレーターは、愛知県芸術劇場シニアプロデューサーの唐津絵理さんである。
「あいちトリエンナーレ2016」パフォーミングアーツ部門で、一番最初に出演が決まったのが、イスラエル=ガルバンであったとのことである。

この感想は、2016年10月8・9日の、第二・第三公演に対するものである。なお、私はフラメンコその他ダンスの知識はなく、私の感じたことをそのまま記したものである。小学生の感想文レベルであることをお許し願いたい。

愛知県芸術劇場の小ホールは、舞台・客席の配置を自由に変えられる構造を有している。関東圏で言えば、新国立劇場小劇場が類似した構造を有している。今回は、出演者・スタッフのみにしか見えないスペースが全くない設定で、観客席の数は269席の設定である。

ホワイエと同一の高さの床面(以下「ホワイエ床面」という)を基調にしており、舞台はホワイエ床面から約30cm程かさ上げされている。座席は三面に配置されている。
下手側・上手側には、それぞれ2列11+12=23席の席が配置される。1列目はホワイエ床面、2列目はかさ上げされている。
正面席は、1列目から7列目の舞台左右端よりも中央側は段階的に床面を下げられ、一番前の席の床面はホワイエ床面の-20cmくらいであろうか。よって、一番前の席と舞台との床面の差はおよそ50cm程である。舞台左右端よりも外側については、1列目から7列目までホワイエ床面である。8列目以降は、ロールバック式客席(20席×5列=100席)となる。
舞台からホワイエ床面に降りると、舞台左右沿い・1列目から7列目席の外側両側通路・7列目と8列目の席の間の通路が・全て同じ高さで構成される。まるでこの’SOLO’のために作られたかのような、構造である。

舞台の上は、フラメンコ靴で床面を傷めないようにするためであろうか、黒い板が張られている。幕は一切用いられない。照明は白熱色の電球を用い、上演中全く同一の照度を保つ。スポットライトも用いられない。BGMもない。よって、イスラエル=ガルバンの身一つで、足踏みしたり、声を出したり、体を叩いたりして音を出さなければならない。後半になって、一部残響増幅装置を用いる箇所があるが、これも音自体はイスラエルが出し、その音を増幅させず、長く残響させるだけの装置であると私には思える。

ホールの扉が閉まった後、上手側から登場し、上手側席の奥方を通過して、舞台最後方中央に立つ。これが最初のポジションである。ここから、手を叩き始めて演技が始まる。前述したとおり、フラメンコ靴を床に叩いたり、声を出したり、体を叩いたりしてリズムを刻み、踊る。言葉にすれば、それだけの事である。

何の技法を用いているのかは、知識のない私には言えない。

振りは、8日公演と9日公演とで、全て違っていると言って過言ではない。
公演開始X分後に客席に降りて観客を構ったり、後半の時点で残響増幅装置を用いた踊りを開始したり、45分後になったら舞台下手側からのホワイエ床面を客席後方に向かい、7列目から8列目の間で下手側から上手側に移動して客席パフォーマンスを行い上手側を舞台奥方端まで進み、舞台に上がって中央まで進み、最初のポジションで「どうもありがと」と言って終演するという骨格だけは決まっているが、その間に何を踊るのかは、その時のイスラエルの気分次第と言うところか。

踊りの内容は、’FLA.CO.MEN’をご覧になった観客に分かるように説明すると、舞台・客席とも暗転した中をイスラエルが一周する直前に、舞台下手側で一人で踊っている場面があるが、そのシーンを45分続けると説明すれば、大きな間違いはないと思う。’FLA.CO.MEN’は、他の六人との音楽家も同格にイスラエルとわたり合う総合芸術であるのに対し、’SOLO’は100%イスラエルのダンスでありリズムであり歌であり、舞台が近くて観客との緊密な一体感の下で演じられる演目であり、性質が全く違う。頭の切り替えが必要となる。

8日の公演では、フラメンコの様式に則っている方向性に感じられた。闘牛とも大きな鳥とも想像させるポーズが多かった。「あん、あん、あんあん・・・」とちょっと官能的な声でリズムを取ったりもする。客席に降りては、観客の前50cmでタップダンスのような踊りを披露したり、観客の手を叩いたりする。好奇心旺盛で楽しそうな表情をしている観客がいたりする一方で、唖然とした表情の観客がいたりして、面白い。そのような観客との相互作用がある性質があるので、観客も試される演目でもある。まあ試されると言ったって、目の前にある踊りを純粋に楽しめばいいだけのことであるけど。
舞台下手から上手へ、上手から下手へと動く場面も多く、その場面では、正面から向かってくるイスラエルを上手側・下手側席の客も味わえる。
楽しく、心臓の鼓動が高まるからなのか、時間はあっという間に過ぎ去り、20分ちょっとで終わってしまったような気持ちで、もっと楽しい時間を過ごしたい気持ちになる。一日目からもあったそうであるが、手拍子付きスタンディングオベーションで終えた。終演後は、登場時とは逆に下手側から去る。カーテンコールは下手側から出入りした。

終演後のアフタートークでは、愛知県芸術劇場小ホールは、気持ちの良い音が出るとの、イスラエルのコメントがあった。舞台が上下方向に可動であり、舞台床には空洞があるため、足踏みした音がよく響くのも要因の一つであったのか。

9日の千秋楽は、何もかもかなぐり捨て、フラメンコの様式に則っているというよりは、より自由な方向性に舵をとったように見えた。以下、その時の私がtwitterに記した感想を書こう。

「今日のIstael は大胆不敵!Israelが狂った!Israelが暴走した。今日のIsrael は言葉に尽くせない凶暴な何かだ!舞踊ファンで今日名古屋にいなかった方は、一生後悔するだろう!まさしく大名演!」
「Israel Galván 'SOLO' 愛知県芸術劇場。あんなに凄く凶暴なダンスはない。こんな名演は数年に一度観れたら、聴けたらいいものだ。何もかもかなぐり捨て、獰猛な本能を観客に見せつけた!日本に於ける今年のダンス部門のダントツトップ公演決定である!心臓の鼓動が収まらない!」
「Israel Galván 'SOLO' 愛知県芸術劇場、千秋楽。あんな凶暴なダンスを見せつけられて狂わない観客はいない!今日観た観客の中で、心臓発作で死ぬ者が50名は出る!名古屋中の循環器専門医師たちよ、覚悟するがいい!今日はIsraelを観劇した観客の波状攻撃を受けるだろう!」
「Israel Galván 'SOLO' 愛知県芸術劇場、千秋楽。「アン、アン、アンアン・・・」と事情を知らない人たちが聞いたら妖しいシャウトしながら金山駅のホームを歩きそうになる。新幹線の車内でやってしまいそうで怖い。頼む、警察に通報しないでくれ!!」

我ながら、どう考えても狂った感想である。8日の演技とは、冒頭の手を叩く場面から空気感が違っていた。尋常ではない、どこか凶暴さを感じさせる雰囲気の下で、手拍子が進められていく。一回目の観客とのコミュニケーションの時間では、最前列の観客とは、Holaとあいさつを交わし握手する程のテンションの高さだ。8日の観客は、楽しそうに笑っていたが、今日の観客は笑い方が変である。何か、気持ちが高揚しているけど、可笑しいから笑うが、しかし高揚した気持ちが勝って変な笑い方になるのだ。
イスラエルは、歌って踊っている間にパッションが抑えられなくなったのか、シャウトまでし始める。後半、残響増幅装置を使っている場面では、舞台奥にある壁を叩きだした。まさに暴走と言って差し支えない。凶暴なダンスであり、獰猛な本性を露わにした、まさに名演である。

終演の合図とともに熱狂的な拍手+スタンディングオベーションが発生する。観客の中に、足で床を叩く人物まで現れ始め、空洞のある床構造故に、これが良く響き、手拍子+足拍子付きの総立ち状態となる。最後は、最前列の観客との連続握手があり、熱狂的な観客から、思わず出てしまったであろうカスティージャ語で「Gracias!! Muchas Gracias!!」と叫び声が上がる。その後下手側扉にイスラエルが去り、公演を終えた。

インターネット上に ’SOLO’ の上演記録がアップされているが、この名古屋公演の熱狂的な演技を再現したものにはなっていない。出回っている記録の10倍は素晴らしい内容だったと、自信をもって言うことができる。

一週間後に同じ名古屋で上演された、 ’FLA.CO.MEN’ に関しては下記リンク先ブログ「la dolce vita」を参照願いたい。私も15・16日公演の両方に臨席したが、私が思ったことについても的確に記述されていり、いちいち私が述べる必要もないだろう。
http://dorianjesus.cocolog-nifty.com/pyon/2016/10/1015flacomen-0a.html

2016年10月2日日曜日

Amsterdam Baroque Orchestra, Osaka Concert, (1st October 2016), review アムステルダム-バロック管弦楽団 大阪演奏会 評

2016年10月1日 土曜日
Saturday 1st October 2016
いずみホール (大阪府大阪市)
Izumi Hall (Osaka, Japan)

曲目:
Johann Sebastian Bach: Suite per orchestra n.3 BWV1068 (管弦楽組曲第3番)
Johann Sebastian Bach: Concerto per violino BWV1045 (シンフォニア)
Johann Sebastian Bach: Concerto brandeburghese n.4 BWV1049 (ブランデンブルク協奏曲第4番)
(休憩)
Johann Sebastian Bach: Concerto brandeburghese n.3 BWV1048 (ブランデンブルク協奏曲第3番)
Johann Sebastian Bach: 1. Sinfonia (cantata ‘Am Abend aber desselbigen Sabbats’ BWV42) (カンタータ「この同じ安息日の夕べ」から第一楽章 シンフォニア)
Johann Sebastian Bach: Suite per orchestra n.4 BWV1069 (管弦楽組曲第4番)

clavicembalo: Ton Koopman
orchestra: Amsterdam Baroque Orchestra(アムステルダム-バロック管弦楽団)
direttore: Ton Koopman / トン=コープマン

アムステルダム-バロック管弦楽団(ABO)は、指揮者トン=コープマンとともに日本・韓国ツアーを行い、日本に於いては演奏会を、いずみホール(大阪市)、東京オペラシティコンサートホール「タケミツメモリアル」(東京)、計2公演行う。日本に於けるプログラムは全て同一である。

理想的な音響となる中規模ホールでの公演は、いずみホールでの公演だけである。

管弦楽配置は、舞台下手側から、第一ヴァイオリン→第二ヴァイオリン→ヴィオラ→ヴァイオリン-チェロの配置で、コントラバスはチェロの上手側につく。木管パートは後方中央、ティンパニはその上手側、ナチュラル-トランペットはティンパニの前方、リコーダー-ソロは指揮者のすぐ上手側の位置につく。チェンバロは客席に鍵盤を見せるように配置され、舞台奥に向けて演奏しながら指揮をできるようにしてある。

ティンパニはバロックティンパニのように見受けられたが、残響が少なく鋭く鳴らすタイプではなく、自己残響が長めのタイプである。

着席位置は一階正面中央上手側、観客の入りは8割程で、発売開始直後の売れ行きが良好の割には完売に至らなかった。観客の鑑賞態度は、曲によって若干のフラ拍の感があったが、極めて良好だった。

前半は、いずみホールに馴染んでいない要素もあった。個々の奏者は素晴らしいが、管弦楽全体として、いずみホールの残響に慣れていない感じがあり、輪郭がボヤけている箇所もあった。しかし、プログラムの進行と共に馴染んでいった。また、馴染んでいない前半部に於いても、弦楽のノン-ヴィブラートの響きや、(奏法が極めて難しい)ナチュラル-トランペットが自然な演奏を見せたところ(これ自体が超絶技巧!)が素晴らしい。

前半最後のBWV1049まで進んで、管弦楽全体として響きがまとまって来た。コンサートミストレスが見せた、ハチドリぶんぶんの場面は楽しく聴かせてもらう。また、ちょっと控えめな音量にして攻めた小技も見事に効かせる。本当にノン-ヴィブラートが美しくて大好きだ!どうしてヴィブラートの概念なんて発明されちゃったのだろうね♪二人のリコーダー-ソロも素晴らしい演奏だ。

後半は、弦・チェンバロ・管・打、全てがガッシリと絡み合った素晴らしい演奏を見せた。チェンバロを響かせつつ、かと言って管弦楽が萎縮せず、自分たちの響きを出し切った。

チェンバロは音量を出せず、その響きを出すには管弦楽は控えめな音量を要するが、その制約の下での最善を尽くしたと言って良い。

チェンバロを活かすべき箇所はチェンバロの音色が響くように、逆に管弦楽が前に出るべき箇所はビシッと鳴らす。いずみホールの優れた音響も自分たちのものにして十全に活用する。プログラム最後のBWV1069は、鉄壁な演奏で終わる。

アンコールは、静と動、プログラムの曲の中からのそれぞれのハイライトを一曲ずつ披露する。BWV1068 の第二楽章(いわゆる Air)と、BWV1069 の第五楽章であった。アンコールまでも聴衆が何を求めているかよく考えられた、素晴らしい演奏会であった。

2016年9月19日月曜日

Aichi Prefectural Art Theater, Opera ‘Die Zauberflöte’ review 愛知県芸術劇場 歌劇「魔笛」 感想

2016年9月19日 月曜日
Monday 19th September 2016
愛知県芸術劇場 (愛知県名古屋市)
Aichi Prefectural Art Theater (Nagoya, Japan)

演目:
Wolfgang Amadeus Mozart: Opera ‘Die Zauberflöte K.620
ヴォルフガング=アマデウス=モーツァルト 歌劇「魔笛」

Sarastro: 妻屋秀和 / Tsumaya Hidekazu
Regina della Notte: 高橋維 / Takahashi Yui
Tamino: 鈴木准 / Suzuki Jun
Pamina: 森谷真理 / Moriya Mari
Papageno: 宮本益光 / Miyamoto Masumitsu
Papagena: 醍醐園佳 / Daigo Sonoka
dama1: 北原瑠美 / Kitahara Rumi
dama2: 磯地美樹 / Isochi Miki
dama3: 丸山奈津美 / Maruyama Natsumi
oratore del tempio / sacerdote1: 小森輝彦 Komori Teruhiko
Monostatos: 青柳素晴 / Aoyagi Motoharu
sacerdote2: 高田正人 / Takada Masato
armigero1: 渡邉公威 / Watanabe Koi
armigero2: 小田桐貴樹 / Otagiri Takaki
ballerina: 佐東利穂子 / Sato Rihoko

Coro: Aichi Prefectural Art Theater Chorus (合唱:愛知県芸術劇場合唱団)
ballerini: 東京バレエ団 / The Tokyo Ballet

Director: 勅使川原三郎 / Teshigawara Saburo
Set design: 勅使川原三郎 / Teshigawara Saburo
Costumes design: 勅使川原三郎 / Teshigawara Saburo
Lighting design: 勅使川原三郎 / Teshigawara Saburo

orchestra: Nagoya Philharmonic Orchestra(名古屋フィルハーモニー交響楽団)
maestro del Coro: 山口浩史
direttore: Gaetano d’Espinosa (指揮:ガエタノ=デスピノーサ)

愛知県芸術劇場は「あいちトリエンナーレ2016」の一環として、2016年9月17日と19日の日程で、ヴォルフガング=アマデウス=モーツァルトの歌劇「魔笛」を2公演開催した。この評は2016年9月19日に催された第二回目千秋楽の公演に対するものである。

着席位置は一階前方中央である。観客の入りは8割くらいか?観客の鑑賞態度は極めて良好だった。

勅使川原三郎の舞台は、シンプルで、白と黒と金色を基調とし、これら以外の色彩は限定した美しいものである。大きな金色の輪をダンサーたちが回すシーンには目を奪われた。愛知県芸術劇場の奥行きが深い広い舞台をフルに活かし、パミーナとパミーノが舞台奥に退出する場面などで活きた。衣装は諧謔の要素を満たす絶妙なもので、モノスタトゥス・童子たち始め思わず笑ってしまう程だった。

ソリストの出来について述べる。

パミーナ役の森谷真理さんは圧巻の素晴らしさで、終始圧倒的な存在感を示した。声量、ニュアンス、ともに完璧である。「ああ、私には分かる、消え失せたことが」のアリアを含め、強い声、弱い声を問わず、その声を聴くだけで涙腺が潤む。文句なしで一番である!Brava!

「ダンサー」役の佐東利穂子さんは、一番最初に動き出し、終始ダンスの面で魅了させるだけでなく、ナレーターが見事だった。声にある種の威厳があり、観客に緊張感を持たせ、物語を進行させた。カラス-アスパラスでの実験がこの大舞台で結実している。

歌い手皆さん士気溢れるものがあった。

その中でも、パパゲーノ役の宮本益光さんは、歌の面も見事であるが、何よりも本人そのまんまの性格と思うほど、諧謔に満ちた演技で魅了された。首吊り未遂の遣り取り始め、全てが役者で実に素晴らしい。

三人の侍女たちも盛り上げた。侍女1(北原瑠美さん)と侍女2・3と分かれる部分もバッチリ決まっていた。合唱団も素晴らしい。

また、名フィルの管弦楽は歌を活かすもので、ガエタノ=デスピノーザの見事な構成力を伺われた。名フィルはオケピットに入る事が少なく、松本でのサイトウキネンでよく見られるような、管弦楽の自己主張が強過ぎて歌を殺すような懸念もあったが、これは私の杞憂に過ぎず、全く無用な懸念だった。

#あいちトリエンナーレ #あいちトリエンナーレ2016 #名フィル

2016年9月11日日曜日

国立劇場小劇場、文楽「一谷嫰軍記」・「寿式三番叟」感想

今日(2016年9月11日)は国立劇場小劇場にて、文楽「一谷嫰軍記」の通しと、国立劇場50周年を祝う「寿式三番叟」を、11時00分から20時17分まで九時間を超える長丁場で味わい尽くしました。

「一谷嫰軍記」一段目を観た感想は、一言で言うと、女の人は強い。悪い男どもを、チャンバラで、あるいは弓矢で、見事に成敗していきます!

「一谷嫰軍記」を通しで観劇する意味は、二段目「須磨浦の段」を観れたところにあると思います。三段目の「熊谷桜・熊谷陣屋」は、リアルに起こった「須磨浦の段」の回想であるし、「須磨浦の段」が無ければ活きません。やはり、通しで上演し、通しで観劇するのが基本だと思います。演者・観客とも本当に大変だけど。「須磨浦の段」は、それこそ単独で見取りで成立すると思いました。遠近法を用いた表現方法も見られましたし。演劇として面白いですし、涙腺もウルウルしますし。

一方で、二段目と三段目の間に上演された「寿式三番叟」は、前半下手側に待機していた二体の人形が、後半凄いダンスを繰り広げます。踊り疲れ怠ける演出が入るほどの速いテンポと激しさ!これを人形でやるのが凄い。人形遣いの方、本当に凄い!人形が扇を反転させまくりながらの舞踊は、舞踊公演をご覧になっている方も、鮮やかな印象を与えるものです。単なる祝祭演目ではない、人形劇の一面をみせつけるものでした。

9時間を超過する長い演目ゆえ、チケットの区分けは、一段目・二段目と、「寿式三番叟」・三段目と別れておりましたが、後半の「寿式三番叟」・三段目はチケット完売し、満員御礼の札が出ておりました♪

2016年9月10日土曜日

Orchestra Ensemble Kanazawa, Iwaki Hiroyuki Memorial Concert, review オーケストラ-アンサンブル-金沢 岩城宏之メモリアルコンサート〈没後10年〉 評

2016年9月10日 土曜日
Saturday 10th September 2016
石川県立音楽堂 (石川県金沢市)
Ishikawa Ongakudo (Ishikawa Prefectural Concert Hall) (Kanazawa, Japan)

曲目:
György Ligeti: Lux Aeterna (a cappella)
Samuel Barber: Concerto per violino e orchestra, op. 14
Gabriel Fauré: Requiem, op. 48

violino: Abigail Young (アビゲイル=ヤング)
soprano: 吉原圭子 / Yoshihara Keiko
baritono: 与那城敬 / Yonashiro Kei

coro: 東京混声合唱団 / Philharmonic Chorus of Tokyo
orchestra: オーケストラ-アンサンブル-金沢 / Orchestra Ensemble Kanazawa (OEK)

maestro del Coro: 根本卓也 / Nemoto Takuya
direttore: 山田和樹 / Yamada Kazuki

オーケストラ-アンサンブル-金沢は、吉原圭子(ソプラノ)・与那城敬(バリトン)・東京混声合唱団を迎えて、2015年9月10日に石川県立音楽堂で、岩城宏之メモリアルコンサートを開催した。東京では翌11日にすみだトリフォニーホールにて開催される。

管弦楽配置は、バーバーのヴァイオリン協奏曲では、舞台下手側から、第一ヴァイオリン→第二ヴァイオリン→ヴァイオリン-チェロ→ヴィオラのモダン配置で、コントラバスはチェロの後方につく。木管パートは後方中央、ホルンは後方下手側、他の金管は後方上手、ティンパニは後方さらに上手側の位置につく。

フォーレのレクイエムでは、ヴィオラを8人まで増強する異例の態勢で、指揮者のすぐ前に位置するハープを挟んで、中央下手・上手を占める。ヴァイオリンは下手側で、第二ヴァイオリン首席の江原さんが(美人だからすぐわかる♪)第一ヴァイオリン第3プルト客席側に座る、これまた異例の事態である!チェロは最上手側となる。合唱団は舞台後方、バリトンは指揮者のすぐ下手側、ソプラノはオルガンの高い位置に登場した。

着席位置は一階正面中央やや上手側、客の入りは八割程であろうか。観客の鑑賞態度は、妨害電波発生装置が付いているのにも関わらず、二度携帯着信音がなった。演奏に大きな影響を与えなかったのは幸いであったが。

演奏について述べる。

バーバーのヴァイオリン協奏曲は、特に第二楽章が素晴らしい。管弦楽の弱音が緊張感を保ちながら、アビゲイルのヴァイオリンがニュアンス豊かに奏でた。管楽も華やかに決まったが、弦楽を無視して派手に決めた感はなく、必然性を感じさせるものである。アビゲイルのソロと弦楽管楽打楽が何をすべきか、深く理解している演奏だ。東京公演では、この曲の代わりにベト2を演奏するが、バーバーを演奏せずに保守化路線に日和るのは残念である。

フォーレのレクイエムは、東京混声合唱団に関しては、もう一歩出ても良かったなと思える箇所があるものの、一体感ある管弦楽の力で、このレクイエムの魅力を実感出来る演奏だ。

特に前半部は、下手側にも進出したヴィオラが完璧なリードを見せる。このレクイエムはヴィオラの出来でほとんど決まってしまう事を実感したが、実に見事なヴィオラのニュアンス溢れる音色だ。前面に出るヴィオラを含め、チェロ・コントラバスも含めて、低弦の深い響きが祈りの空間を支配する。また、金管の弱音も的確な響きだ。山田和樹の指揮により、ソプラノ-ソロも上手く引き立たせた。
#oekjp

2016年8月22日月曜日

Saito Kinen Orchestra, Fabio Luisi , Ozawa Seiji, 22nd August 2016 Concert, review サイトウ-キネン-オーケストラ+ファビオ=ルイージ+小澤征爾 2016年8月22日演奏会 感想

2016年8月22日 月曜日
Monday 22nd August 2016
長野県松本文化会館 (長野県松本市)
Nagano-ken Matsumoto Bunka Kaikan (Nagano Prefectural Matsumoto Theater) (Matsumoto, Japan)

曲目:
Arthur Honegger: Sinfonia n.3
(休憩)
Ludwig van Beethoven: Sinfonia n.7 op.92

orchestra: Saito Kinen Orchestra(サイトウ-キネン-オーケストラ)
direttore: Fabio Luisi (Honegger)(指揮:ファビオ=ルイージ), 小澤征爾/Ozawa Seiji (Beethoven)

ファビオ=ルイージを指揮者に迎えて、サイトウ-キネン-フェスティバルの小澤征爾総監督も指揮するこの演奏会は、2016年8月18日・22日に長野県松本文化会館にて開催された。この評は、2016年8月22日第二公演に対する者である。

管弦楽配置は、記録を失念した。着席位置は二階最後方上手側、チケットは完売していたはずだが、当日関係者席解放があったせいか、僅かに当日券が出た。観客の鑑賞態度は覚えていない。

ルイージのオネゲルは、序盤固さがあったようにも思えたが(曲想によるかもしれないが)、曲の進行に連れて本領を発揮した印象がある。高弦が鋭い響きを出し、管楽が見事である。終盤のチェロ・ピッコロ・ヴァイオリン・ティンパニの四重奏が素晴らしい表現を見せる。

小澤征爾指揮の Beethoven 交響曲第7番は、私にとっては感銘を受ける演奏とは言いがたかった。

演奏は、ミクロの濃厚な表現で攻めている方向性で、相変わらずの生真面目ぶりである。第一楽章では木管が崩壊するなど、名手とは思えない出来の箇所もあったが、持ち直した。日本人主体の弦楽と、外国人主体の管楽との間にテンションの差を感じる演奏ではある。部分について言えば、第一楽章終盤・第二楽章冒頭・第四楽章終盤近くの低弦は、実に深い響きであり見事であったが、管楽は普通に素晴らしい程度の演奏である。

弦楽は小澤征爾の我儘に実に的確に答えていた。しかしながら、15-11-10-8-6もの巨大な弦楽配置はどうなのだろう?著しく弦楽に重きを置きすぎ、管楽が軽く聴こえ、バランスが悪すぎる。ていうか、そもそもベト7を音響の悪い2000名規模のホールで大編成の弦楽で演奏することは正しいことなのだろうか?

私は弦楽が好きであり、弦楽が吠えなければ、いくら管楽が吠えてもいい音楽にはならないと思っているし、弦楽に重きを置く演奏は大好きである。その私がこのような感想を持ったくらいである。

小澤征爾は、作曲者の想定したバランスから踏み外して、弦楽バズーカ砲を用いたキワモノ路線を走ったとも言える。一方、細部の濃厚な表現でカバーしているとは言え、構成全般として天才的な面白みはなく、何年も前からの小澤征爾の生真面目ぶりは変わっていない。

小澤征爾と言えば、横綱級とされる指揮者のはずである。しかしながら、まるで横綱が邪道な技で平幕力士を打ち負かした取り組みを見たような気分である。生気がない時代遅れな演奏で、正々堂々と正門から討ち入る感じがない。横綱相撲をしている感じがないのだ。

当初ブラームスの交響曲第4番の予定だったのをこの曲に変更したのであるが、この曲に変更した時点で松本市音楽文化ホールのような中規模ホールに変えるのが本来の筋だと思う(チケット払い戻しが生じ現実的な方法でないことは承知である)。

私は思う。Beethoven はこのような形態の演奏を想定したのだろうか?2000名規模の巨大ホールで演奏することを想定したのだろうか?15-11-10-8-6もの巨大な弦楽編成で演奏することを想定したのだろうか?小澤征爾がやっていることは、19世紀的ロマンチズムに過剰に傾倒し、Beethoven本来の生気に満ちた音楽を軽視しているのではないかと。これは21世紀の現代に披露する演奏会であるのだろうかと。

どう考えても、チョン=ミョンフンが東京フィルハーモニー管弦楽団を率いて軽井沢大賀ホールで演奏した内容に、遠く及ばない演奏である。「一流の指揮者」「一流の奏者」、日本の最も優秀な奏者を揃えてこの演奏はないだろう。まあ、そこが音楽の難しさだと思うが。

私は小澤征爾が好きで聴きに行ったのではなく、たまたま松本で演奏するので実況見分しに行く気分で、この演奏会に臨席している。征爾君が好きでスタンディング-オベーションをする人たちのことを否定するつもりはない。しかし、私にはそのような気持ちにはなれなかった。演奏終了後に、私はすぐにホワイエに退却した。

2016年8月21日日曜日

Saito Kinen Orchestra, Fabio Luisi , 21st August 2016 Concert, review サイトウ-キネン-オーケストラ+ファビオ=ルイージ 2016年8月21日演奏会 感想

2016年8月21日 日曜日
Sunday 21st August 2016
長野県松本文化会館 (長野県松本市)
Nagano-ken Matsumoto Bunka Kaikan (Nagano Prefectural Matsumoto Theater) (Matsumoto, Japan)

曲目:
Gustav Mahler: Sinfonia n.2

orchestra: Saito Kinen Orchestra(サイトウ-キネン-オーケストラ)
direttore: Fabio Luisi (指揮:ファビオ=ルイージ)

ファビオ=ルイージを指揮者に迎えて、2015年8月19日・21日に長野県松本文化会館にて開催された。

管弦楽配置は、失念した。着席位置は19日は二階正面中央下手側、21日は二階正面やや上手側最前方、チケットは僅かに完売には至らなかった。

この公演については二公演とも臨席した。19日公演と21日公演とでは大きな差が出た。

8月19日公演は、どこか精彩を欠いていた。音響劣悪な長野県松本文化会館で、演奏者の意図が伝えることの難しさを感じた。また、上手いオケが感銘を与える演奏をするのは難しいことも実感した。

前半部分は、余り良く練られていない感じがあった。前半部で低弦がマトモに響いたのは、第一楽章終盤部のみであった。曲冒頭の、低弦の貧しい響きは、愛知芸文の響きがスタンダードな私にとっては、堪え難かった。第三楽章冒頭のティンパニ、残響消しの術が見事に失敗して、汚い音になったのは残念である。あと、ソプラノのソロが出る直前のフルートとトランペットの音は、あまりに大き過ぎ、繊細さに掛けていた。弱音を多用する試みは、この貧しい響きの長野県松本文化会館では無謀である。意図が伝わらず、つまらなく響くから。愛知芸文だったら、観客に伝わるだろうけど。

全般的に、個々に傑出した表現は見られるけど、第五楽章前半は良かったと思うけど・・。

二人のソロの歌い手は、単独だと綺麗な中弱音で聴かせてくれるけど、オケが強めに入ってくると、声が引き立たない。サイトウキネン、歌モノは苦手なのかなあと思わせる。

中部フィルによる しらかわホール におけるマーラーの第四交響曲を聴いた後のような満足感が得られなかったのか、考えさせられる。ホールにしても管弦楽にしても、小さければ小さいほど良くて、大きなモノはダメなのだろうか?ある種の まとまり感 があるのかないのか?どこか統合されていないのか?長野県松本文化会館が悪いのか?大きいから全てが上手くいかないのか?私にはサッパリ分からないけど、不完全燃焼状態が強かった。

8月21日の演奏は、19日のこれとは全く別物であった。

弦管打全てが絡みあった感が強く、弦が強く響くと全てが締まる。音の洪水で攻める点だけでなく、弦のゾクッとさせられる鋭い響きを始めとしたニュアンスが効いて、二階席の私の席にも届いた。これぞ、サイトウキネン!合唱も管弦楽に負けずにハーモニーを構成していた。まとまり感が違っていた。一番強調するべき事は、全員が第一楽章冒頭から緊張感に満ち、弛緩した響きがなかった。前半も充実した演奏で、そこが19日とは違っていた。

長野県松本文化会館にはシャンデリアがないので、天井を向いたり、敢えて目を瞑る箇所が多かった。どれほど素晴らしい演奏だったかを示す、私にとっての証左だ。その音にとにかく浸りたい時、私は視覚情報をカットする。この場面の多さが、演奏の傑出した見事さを示す!

どんなに一流の指揮者や奏者を揃え、万全のリハーサルを組んでも、演奏は生物、どうなる事か分からない怖さと面白さを、今回のファビオ=ルイージ+サイトウキネンの「復活」で思い知らされた。

2016年7月24日日曜日

Noism 劇的舞踊vol.3「ラ・バヤデール-幻の国」 静岡公演 感想

2016年7月24日 日曜日 静岡芸術劇場

(キャスト・スタッフは末尾に掲載)

一階前方僅かに上手側。

まずは、開演前の案内アナウンスであるが、独特のオドロオドロしさを伴う男の人の声であるが、本当に素晴らしい。開演前のオドロオドロしさを感じさせる音楽と、完璧にあっていた。

毒蛇を仕掛けたのは、お美しい梶田留以ちゃんの仕業?(たまいみき さんかも知れないけど。でも、留以ちゃんの持ってた壺だったような?)佐和子さんを見る眼がこわいよ〜。

石原悠子さんは愛知公演に引き続いて面白さを感じる。「壺の踊り」の後で拍手あり。真面目過ぎる東京・名古屋とは違う反応である。静岡の観客の反応いいなあ。

中川賢さんはダメ男ぶりを発揮した♪もちろん、踊りも完璧だ。

井関佐和子さんは、終始愛を感じさせる演技であるが、幻想の場面での、病的でありながら慈愛に満ちた表情を見て(阿片でキメタ、ダメ男の願望だろうけど)、涙腺が潤む。

前半部だったか、佐和子さんと賢さんとが呼吸を吸って吐くシーン、音がばっちり観客席に響く。401席の静岡芸術劇場ならではの光景だ。

俳優部門も全員素晴らしいが、たまいみき さんのセリフが、力んでいた愛知芸術劇場公演とは打って変わって、今日は威厳がありながらも自然に聴こえた。ホームの劇場であることもさりながら、適切な規模の劇場であるからだろう。観客との親近感が、声の自然な響きを引き出したのだろうか?

静岡芸術劇場は、最前列だと確実にダンサーの汗を浴びる程の近さだ。近いだけに、全ての踊り、全ての演技が迫ってくる。随所で涙腺が潤む状態だった。幻想の女性たちが迫る場面は、美しさと臨場感とを併せ持っていた。この独特な場面は、KAATでも実現出来なかったと思う。

演出の金森穣さんは、アフタートークで「記憶と慰霊」を念頭に入れていたとの事である。

Cast
カリオン族
ミラン:井関佐和子、ヨンファ:梶田留以
踊り子:飯田利奈子・西岡ひなの・西澤真耶・鳥羽絢美
メンガイ族
バートル:中川賢、アルダル:チェン=リンイ、兵士:リン=シーピン、少年:田中須和子
マランシュ族
フイシェン:たきいみき、 侍女:浅海侑加・深井響子・秋山沙和・牧野彩季
ポーヤン(フイシェンの侍女/ヤンパオ居留民のスパイ):石原悠子
馬賊
タイラン:吉﨑裕哉、 シンニー:池ヶ谷奏
馬賊の男:佐藤琢哉・上田尚弘・髙木眞慈
オロル人
ガルシン:奥野晃士
ヤンパオ人
ムラカミ:貴島豪、 看護師:石原悠子

演出:金森穣
脚本:平田オリザ
振付:Noism1
音楽:L.ミンクス《ラ・バヤデール》、笠松泰洋
空間:田根剛(DORELL.GHOTMEH.TANE / ARCHITECTS)
衣裳:宮前義之(ISSEY MIYAKE)
木工美術:近藤正樹
舞踊家:Noism1 & Noism2
俳優:奥野晃士、貴島豪、たきいみき(SPAC ‒ 静岡県舞台芸術センター)

舞台監督:夏目雅也
舞台:中井尋央、高橋克也、川口眞人、尾﨑聡
照明デザイン:伊藤雅一(RYU)、金森穣
照明:伊藤雅一(RYU)、葭田野浩介(RYU)、伊藤英行
音響:佐藤哲郎
衣裳製作:ISSEY MIYAKE INC.
衣裳管理:山田志麻、居城地谷
トレーナー:國分義之(郡山健康科学専門学校)
テクニカルアドバイザー:關秀哉(RYU)
PR協力:市川靖子
特設サイト制作:ビークル・プラス
特設サイトインタビュー取材・執筆:尾上そら
写真撮影:遠藤龍
ビジュアルデザイン:阿部太一(GOKIGEN)

2016年7月10日日曜日

Camerata de Lausanne, Nagoya perfomance, (10th July 2016), review カメラータ-ドゥ-ローザンヌ 名古屋公演 評

2016年7月10日 日曜日
Sunday 10th July 2016
宗次ホール (愛知府名古屋市)
Munetsugu Hall (Kyoto, Japan)

曲目:
Johann Sebastian Bach: Concerto per due violini BWV1043
Дмитрий Дмитриевич Шостакович / Dmitrii Shostakovich: Due pezzi per ottetto d'archi, op. 11 (弦楽八重奏のための2つの小品)
Пётр Ильич Чайковский / Pyotr Ilyich Tchaikovsky: Сладкая греза op.39-21 (甘い夢)
Пётр Ильич Чайковский / Pyotr Ilyich Tchaikovsky: Waltz e Scherzo op.34
Пётр Ильич Чайковский / Pyotr Ilyich Tchaikovsky: Воспоминание о дорогом месте op.42 2.Scherzo, 3.Mélodie(なつかしい土地の思い出)
(休憩)
Пётр Ильич Чайковский / Pyotr Ilyich Tchaikovsky: Serenata per archi op.48

orchestra: Camerata de Lausanne

カメラータ-ドゥ-ローザンヌは2016年7月3日から11日までにかけて日本ツアーを行い、仙台で1公演、東京で3公演、神奈川県藤沢市で1公演、名古屋で1公演、計6公演が開催される。この評は、五番目の公演である名古屋公演に対してのものである。

弦楽配置は、舞台下手側から、第一ヴァイオリン→第二ヴァイオリン→ヴィオラ→ヴァイオリン-チェロのモダン配置で、コントラバスはチェロの後方につく。

着席位置は二階正面後方上手側、観客の入りは、7割程か。同じ時刻で名フィルの演奏会があり、観客が割れてしまったか?観客の鑑賞態度は、概ね良好であったが、僅かに拍手とブラヴォーが早かったように思える。スピーカーのスウィッチを切り忘れたような音が終始響いていたのは残念だった。

男性は黒、女性は赤で統一された衣装で登場する。ピエール=アモイヤルの門下等の繋がりで結成されているからか、奏者は彼以外は若手に見える。

全般的に終始素晴らしい演奏であるが、ショスタコーヴィチのop.11、チャイコフスキーの弦楽セレナーデ、アンコールのニーノ=ロータが特に素晴らしい。

響きが若々しく、一方でニュアンスに富み、低弦も豊かに響いた。ショスタコーヴィチはヴィオラが豊かに鋭く響かせているのが効いている。ショスタコーヴィチが初期の作品からその天才ぶりを発揮したのが良く分かる。

その後のチャイコフスキーの小品集は、「甘い夢」でアンドレイ=バラーノフのソリスティックな、パガニーニ的テクニックの披露を聴けるのは楽しいけれど、ショスタコーヴィチがチャイコフスキーを馬鹿にしまくっていたのが良く分かってしまう選曲ではあると言っては、怒られるか?

しかし、後半の弦楽セレナーデは、同じチャイコフスキーとは思えないアプローチである。テンポは全般的に速めで、メリハリを付けた緊張感を絶やさない演奏だ。チャイコフスキーの甘い演奏が嫌いな人に聴かせたい演奏である。ヴィオラ・チェロが表に出る部分はしっかり聴かせてくれる。一方で、ニュアンスも豊かだ。テンポの揺らぎはバッチリ決めてくる。小技に効かせ方が絶妙である。第四楽章だったか、チェロが主旋律を弾いている際の、ヴァイオリンが音量を的確に調節したニュアンスの効果は絶大だった。正統派のチャイコフスキーではないのだろうけど、小技の掛け方がいい意味で職人的に絶妙に計算されているのだろう。本当に新鮮で面白いチャイコフスキーだ。絶賛するしかない。

アンコールは、J.S.バッハの「アリア」と、ニーノ=ロータの「弦楽のための協奏曲」から第四楽章である。ニーノ=ロータの作品は、あたかもショスタコーヴィチに対するアプローチで、ニーノ=ロータが映画音楽だけの作品家ではない、純音楽の作曲家として非凡な才覚を持っている事を認識させられる演奏である。奏者の若さが的確に導かれ、全員の才覚が花開く、傑出したニーノ=ロータであった。

2016年7月9日土曜日

Михаи́л Васи́льевич Плетнёв / Mikhail Pletnev, recital, (9th July 2016), review ミハイル=プレトニョフ 豊田公演 評

2016年7月9日 土曜日
Saturday 9th July 2016
豊田市コンサートホール (愛知県豊田市)
Toyota City Concert Hall (Toyota, Aich, Japan)

曲目:
Johann Sebastian Bach (arr. Liszt Ferenc): Preludio e fuga BWV543/S.462-1
Edvard Hagerup Grieg: Sonata per pianoforte op.7
Edvard Hagerup Grieg: Ballade i form av variasjoner over en norsk folketone op.24 (ノルウェー民謡による変奏曲形式のバラード)
(休憩)
Wolfgang Amadeus Mozart: Sonata per pianoforte n.9 K.311
Wolfgang Amadeus Mozart: Sonata per pianoforte n.14 K.457
Wolfgang Amadeus Mozart: Sonata per pianoforte n.15(18) K.533/494

pianoforte: Михаи́л Васи́льевич Плетнёв / Mikhail Pletnev

ロシア連邦のピアニスト、ミハイル=プレトニョフは、2016年7月1日から9日に掛けて日本ツアーを実施し、リサイタルを、東京オペラシティコンサートホール「タケミツメモリアル」(東京)(2公演)、兵庫県立芸術文化センター(兵庫県西宮市)、青山音楽記念館(京都市)、東京文化会館(東京)、豊田市コンサートホール(愛知県豊田市)にて、計6公演開催する。プログラムは全て同一である。理想的な音響となる中小規模ホールでの公演は、青山音楽記念館と豊田市コンサートホールの二か所だけである。

この評は、日本ツアー千秋楽である7月9日豊田市コンサートホールでの公演に対する評である。

着席位置は正面やや前方上手側、観客の入りは7割弱か。観客の鑑賞態度は、概ね良好だったが、肝腎な箇所でノイズが入る場面もあった。

プレトニョフのピアノは、構成がよく考えられており、正統派の路線で攻めている。ピアノは SHIGERU KAWAI を用いている。強奏部がストレートに響くと言うよりは、独特な透明感で来るような印象を持つ。大規模ホール独特では向かないかもしれない。

グリークにしてもモーツァルトにしても、プレトニョフによる深い分析を経て決定された響きで、観客に示されるように思える。モーツァルトには「軽やかさ」の要素は希薄で、その分、プレトニョフの神経を通わせた要素が入り込んでいたのかと。

わずかにグリークの方が、プレトニョフとの相性は良かったか。

アンコールは、リストの「愛の夢」と「小人の踊り」であった。

2016年7月2日土曜日

Kioi Sinfonietta Tokyo, Concert, (2nd July 2016), review 紀尾井シンフォニエッタ東京 豊田演奏会 評

2016年7月2日 土曜日
Saturday 2nd July 2016
豊田市コンサートホール (愛知県豊田市)
Toyota City Concert Hall (Toyota, Aich, Japan)

曲目:
Antonín Dvořák: Česká suita op.39 B.93
Wolfgang Amadeus Mozart: Concerto per corno e orchestra n.1 KV412 (movimenti 1 e 3)
(Movimento 2) Nino Rota: Andante sostenuto per il Concerto per Corno KV412 di Mozart (1959)
(休憩)
Ludwig van Beethoven: Sinfonia n.3 op.55

corno: Radek Baborák / ラデク=バボラーク
orchestra: Kioi Sinfonietta Tokyo(紀尾井シンフォニエッタ東京)
direttore: Radek Baborák / ラデク=バボラーク

紀尾井シンフォニエッタ東京(KST)は、ラデク=バボラークをソリスト・指揮者に迎えて、2016年7月2日に豊田市コンサートホールで、演奏会を開催した。本拠地である紀尾井ホールでは演奏されなかった。この演奏会が、「紀尾井シンフォニエッタ東京」の名での最後の演奏会となる。

管弦楽配置は、舞台下手側から、第一ヴァイオリン→第二ヴァイオリン→ヴィオラ→ヴァイオリン-チェロのモダン対向配置で、コントラバスはチェロの後方につく。木管パートは後方中央、ホルンは後方上手側、ティンパニ・トランペットは後方下手側の位置につく。金管・打楽器は、本拠地の紀尾井ホールでの公演とは逆の位置である。

着席位置は一階正面やや前方上手側、観客の入りは8割程で空席が目立つ。観客の鑑賞態度は、若干ノイズがあったものの、概ね良好であった。

本日のメンバーは、レギュラーメンバーではない奏者が多かったようにも思える。コンサート-ミストレスは野口千代光さんである。

本拠地ではないということもあり、響きの検討が生煮え状態と感じたり、オーボエの響きに「若さ」が感じられる箇所が無きにしも非ずで、バボラークのホルンももっと豊かな表現が可能かなと思える箇所もあったが、全般的には曲が進むに連れて馴染んだ感がある。

私に取っての好みの箇所は、モーツァルトのバボラークとオーボエのやり取り(第二楽章であり、ロータによる作曲部分)と、第三楽章に於けるバボラークの弱音を披露するソロの箇所である。

Beethoven の3番は、冒頭部分は宇野功芳の真似かと一瞬思えたほどの遅さで焦ったが、以下はマトモな解釈ではある。全般的に遅めのテンポで堂々とした演奏である。いつもとは違うメンバーと思われるホルンにもう少し頑張って欲しかった箇所があると思うのは欲張りか?

アンコールは、前半のバボラークのソリスト-アンコールは、彼自身の作曲による「アルペン-ファンタジー」、演奏会終了時のアンコールは、ドヴォルジャークの「我が母の教えたまいし歌」であった。

2016年6月18日土曜日

Kioi Sinfonietta Tokyo, the 105th Subscription Concert, review 第105回 紀尾井シンフォニエッタ東京 定期演奏会 評

2016年6月18日 土曜日
Saturday 18th June 2016
紀尾井ホール (東京)
Kioi Hall (Tokyo, Japan)

曲目:
Frank Bridge: Suite per orchestra d'archi (弦楽のための組曲)
Arvo Pärt: “Tabula Rasa”
(休憩)
Antonín Dvořák: Serenata per archi op.22 (弦楽セレナーデ)

violino: Антон Бараховский / Anton Barakhovsky / アントン=バラホフスキー
violino (solo Pärt): Людмила Миннибаева / Liudmila Minnibaeva / リュドミラ=ミンニバエヴァ
pianoforte preparato: 鷹羽弘晃 / Takaha Hiroaki
orchestra: Kioi Sinfonietta Tokyo(紀尾井シンフォニエッタ東京)

紀尾井シンフォニエッタ東京(KST)は、アントン=バラホフスキーをリーダーに、リュドミラ=ミンニバエヴァとをソリストに迎えて、2016年6月17日・18日に東京-紀尾井ホールで、第105回定期演奏会を開催した。アントンとリュドミラとは夫婦である。アントンはリーダーとペルト作品のソリスト、ミンニバエヴァはペルト作品のソリストを担当する。この評は、第二日目の公演に対してのものである。なお、この演奏会が「紀尾井シンフォニエッタ東京」の名による最後の本拠地公演である。

管弦楽配置は、舞台下手側から、第一ヴァイオリン→第二ヴァイオリン→ヴァイオリン-チェロ→ヴィオラのモダン配置で、コントラバスはチェロの後方につく。リュドミラ=ミンニバエヴァは、ペルト作品以外は第二ヴァイオリン首席の役を果たす。

着席位置は一階正面後方僅かに上手側、今回サボっている定期会員が見受けられた。。観客の鑑賞態度は、曲の最初の所で緊張感を欠いていたが、全般的には良好であった。

ダントツで“Tabula Rasa”が素晴らしい。ソリストの二人は2013年にハンブルク-バレエにて同じ作品のソリストとして演奏していることもあるのか、盤石の出来である。バックで支える管弦楽も、ソリストと見事に調和しており、ホールの響きとも完璧な相性である。劇場であるハンブルクでの公演よりも、はるかに高い水準の響きを実現出来たのは明らかであろう。

曲想が眠気を感じさせるものであるが、予めカフェをがぶ飲みしていた私には、夢みるような響きが続く時間である。全ての音符に対してよく考えられた響きが構成されている。ただただ美しい響きの裏には、必ず、完璧な構成があるのだなと思い知らせれる。

このような作品こそ、紀尾井ホールのような中規模ホールで演奏されて良かったと思う。演奏の見事さに観客が応えたかは、少し疑問が残ったが、攻めたプログラムは完璧な演奏で実現された。

アンコールは、マスカーニの「カヴァレリア=ルスティカーナ」から間奏曲であった。

2016年6月5日日曜日

Hilary Hahn + Cory Smythe, recital, (5th June 2016), review ヒラリー=ハーン + コリー=スマイス 松本公演 評

2016年6月5日 日曜日
Sunday 5th June 2016
松本市音楽文化ホール (長野県松本市)
The Harmony Hall (Matsumoto Municipal Concert Hall) (Matsumoto, Japan)

曲目:
Wolfgang Amadeus Mozart: Sonata per violino e pianoforte n.27 K.379
Johann Sebastian Bach: Sonata per violino solo n.3 BWV1005
(休憩)
Antón García Abril: ‘Seis Partitas’ 2. 'Immensity', 3.'Love'(「6つのパルティータ」から 2.「無限の広がり」、3.「愛」)
Aaron Copland: Sonata per violino e pianoforte
Tina Davidson: ‘Blue Curve of the Earth’ (「地上の青い曲線」(27のアンコールピースより))

violino: Hilary Hahn
pianoforte: Cory Smythe

ヒラリー=ハーンは、2016年6月4日から12日に掛けて、コリー=スマイスとともにリサイタルを、ファリアホール(横浜市)、松本市音楽文化ホール(長野県松本市)、東京文化会館(東京)、東京オペラシティコンサートホール「タケミツメモリアル」(東京)、愛知県芸術劇場(名古屋市)、兵庫県立芸術文化センター(兵庫県西宮市)、みなとみらいホール(横浜市)にて、計7公演行う。プログラムは全て同一である。理想的な音響となる中規模ホールでの公演は、フィリアホールと松本市音楽文化ホールの二か所だけである。

この評は、6月5日松本市音楽文化ホールでの公演に対する評である。

着席位置は後方正面中央、観客の入りは7割弱で空席が目立ったのは残念である。観客の鑑賞態度は、極めて良好だった。

全体的な白眉は、バッハ無伴奏のBWV1005である。息の長さを感じさせる遅めのテンポで、これ見よがしのギヤチェンジもなく、響きの鋭さを強調するものでもない。全ての音符の響きを完璧に考慮して構築させた演奏であると言ってしまえば、その通りなのだろうけど、弱めな響きでありながら、一音一音が説得力に満ちた演奏である。この696席の中規模ホールである、松本市音楽文化ホールだからこそ実現された名演であると言える。特に第二楽章後半からは、ホールの響きを完璧に味方につけ、霊感に満ちたと思わせる演奏である。

(私は、ヒラリーの真価を、客席数が2000席前後の大きなホールで味わう事は不可能だと思っている。バンバン大音量で鳴らすタイプの奏者ではないからだ。中小規模のホールでのリサイタルでこそ、最もヒラリーらしさを味わえるというのが、私の印象である)

後半のアブリルとコープランドは、少し鋭さを出してくるが、響きの豊かさを必ず伴わせる。もっとも、曲想上の問題でBWV1005を聴いた後だと、バッハの偉大さを感じさせてしまうのは、致し方ないところか。細川俊夫の 'Exstasis' 程の曲想の強さがないと、バッハに対抗する事は、なかなか難しいのかもしれない。

それでも、ピアノのコリー=スマイスとのコンビネーションは完璧だった。どのように客席に響くか、一音一音詳細に検討されているかのような、絶妙なバランスである。

アンコールは三曲あり、佐藤總明の「微風」、マーク=アントニー=ターネジの「ヒラリーのホーダウン」、マックス=リヒターの「慰撫」であった。マックス=リヒターで特に感じられる事であるが、同じ音符を刻むにしても、どうして一音一音が説得力を持つのかを考えさせられる演奏であった。

2016年6月4日土曜日

Mito Chamber Orchestra, the 96th Subscription Concert, review 第96回 水戸室内管弦楽団 定期演奏会 評

2016年6月4日 土曜日
Saturday 4st June 2016
水戸芸術館 (茨城県水戸市)
Art Tower Mito, Concert Hall ATM (Mito, Japan)

曲目:
Franz Joseph Haydn: Sinfonia n.83 Hob.I-83 ‘La poule’ (めんどり)
Niccolò Paganini: Quartetto per Chitarra, Violino, Viola e Violoncello n.15
(休憩)
Max Bruch: ‘Kol Nidrei’ (コル=ニドライ)
Franz Peter Schubert: Sinfonia n.5 D485

viola: Юрий Абрамович Башмет / Yuri Bashmet
orchestra: Mito Chamber Orchestra(水戸室内管弦楽団)
direttore: Юрий Абрамович Башмет / Yuri Bashmet

水戸室内管弦楽団(MCO)は、ユーリ=バシュメットを指揮者兼ヴィオラ-ソリストに迎えて、2016年6月4日・5日に水戸芸術館で、第96回定期演奏会を開催する。この評は、第一日目の公演に対してのものである。

二曲目のパガニーニ、三曲目のブルッフは、ヴィオラと弦楽のために編曲されている。

管弦楽配置は、舞台下手側から、第一ヴァイオリン→第二ヴァイオリン→ヴィオラ→ヴァイオリン-チェロのモダン配置で、コントラバスはチェロの後方につく。管楽パートは後方中央の位置につく。

着席位置は一階正面後方わずかに上手側、観客の入りは、7割程か?。左右両翼及び背後席に空席が目立った。観客の鑑賞態度は、極めて良好だった。

コンサートマスター/ミストレスは、ハイドンは渡辺實和子、パガニーニは小栗まち絵、ブルッフとシューベルトは豊嶋泰嗣が担当した。

ハイドンは、かなり真面目な解釈である。

パガニーニは、原曲をロシア人(モスクワ-ソロイスツのバラショフとカッツによる)が編曲したものであるからか、ヴィオラの哀愁漂う音色もあって、「白鳥の湖」第二幕を観劇しているかの雰囲気になる。カラッとした明るい雰囲気はなく、ジェノヴァ生まれの作曲家の原曲とはとても思えない。少なくとも編曲後は、あまり技巧面は表に出て来ない。原曲の雰囲気とは異なるのだろうか?

バシュメットのヴィオラは、基本的に弱めであるがその割りに通る響きであり、大規模ホールで聴かせる感じではない。水戸芸術館で聴けて良かったという感じである。第二楽章以降は、バシュメットのヴィオラがかなり響き始め、独特の哀愁漂う響きで魅了される。

管弦楽は、どこでどのように振る舞うべきか完璧に把握しており、バシュメットを立てるべき箇所では的確に支えると同時に、管弦楽が出るべき箇所では、曲全体を踏まえて良く考えられた形で自己主張を強めてくる。ソリストと管弦楽との音色の差があり、その対比が面白い。

最後のシューベルトD485は、全般的にかなりロマン派のような演奏である。鋭い響きで惹きつける事はせず、遅めのテンポの中でニュアンスをつける形態である。

私は、この曲はメリハリをつけまくった速めのテンポが好みであるが、この好みとは対照的でありながら、説得力のある演奏である。特に第二楽章をあの遅さでありながら、緊張感を失わずに観客の耳を集中させるMCOの演奏は、これは本当に見事なものだ。ヴィヴィッドな路線とは正反対のものであるが、このような演奏であれば、夢を見ているような心地で聴く事が出来る。

アンコールはなかった。

2016年6月1日水曜日

Shoji Sayaka, recital, (1st June 2016), review 庄司紗矢香 無伴奏リサイタル 名古屋公演 評

2016年6月1日 水曜日
Wednesday 1st june 2016
電気文化会館コンサートホール (愛知県名古屋市)
Denki Bunka Kaikan Concert Hall (Nagoya, Japan)

曲目:
Johann Sebastian Bach (arr. Jean-Frédéric Neuburger): Fantasia e fuga BWV542
Bartók Béla: Sonata per violino solo Sz.117
(休憩)
Hosokawa Toshio / 細川俊夫: ‘Exstasis’ (脱自)
Johann Sebastian Bach: Partita per violino solo n.2 BWV 1004

violino: 庄司紗矢香 / Shoji Sayaka

庄司紗矢香は、2016年5月26日から6月7日に掛けて日本ツアーを行い、無伴奏リサイタルを、美深町文化会館(北海道中川郡美深町)、川口総合文化センター(埼玉県川口市)、神奈川県立音楽堂(横浜市)、北広島市芸術文化ホール(北海道北広島市)、電気文化会館(名古屋市)、JMSアステール-プラザ(広島市)、松江市総合文化センター(島根県松江市)、紀尾井ホール(東京)、計8箇所にて上演する。プログラムは全て同一である。

この評は、2016年6月1日電気文化会館の公演に対する評である。

着席位置はやや後方正面中央、チケットは完売した。観客の鑑賞態度は、概して極めて良好だった。

二曲目のバルトークは少し優しく聴こえる。三楽章・四楽章で、すりガラスのような音色を使っている箇所もある。響きはかなり豊かに響かせている。ピッチカートは敢えて尖らせていない感じがある。今日の席は後方で、残響が豊かに聴こえる事もあるのか。全般的に、響きの鋭さと言うよりは、響きの豊かさを追求した印象を持つ。その意味では、アリーナ=イブラギモヴァとは対照的かなあ。

圧巻なのは後半である。

後半の細川俊夫の新作 'Exstasis' とBWV1004との組み合わせは、言葉で言い表わすことが出来ない。Exstasisは巫女、BWV1004はただただ主と人とのお取りなし、あるいは、主と人との対話である。

細川俊夫の新作 'Exstasis' は、作曲の段階で、ヴァイオリンの擦弦楽器としての表現の限界を極めたと言える。庄司紗矢香は、作曲者の極めて高い期待を演奏面で傑出したレベルで実現する。ヴァイオリンの四本の弦で、これ程までの音色が出せるのかと、信じがたい気持ちになる。この演奏会の中で、最も鋭い響きを選択する箇所がある一方で、震えるような音色を聴くと、庄司紗矢香はまさに巫女になって脱自の状態にあったのではないか、と思えるような演奏である。

(本当にトランスしちゃったら演奏不能だと思うけど)それだけに、この巫女のような、トランス状態になって人間界から飛び出すような表現は、重い挑戦だったに相違ない。精神的な負担が大きい曲で、演奏出来る奏者は限られるだろう。技巧面・精神面、両面での卓越した強さが求められる。庄司紗矢香がどれだけの強さを持っていることか!

庄司紗矢香は、実演を聴けば誰でも分かる事であるが、 'Exstasis' の後にバッハのBWV1004を持ってくると言う暴挙を為した。こんな、技巧面でも精神面でもとてつもない強靭さを要するプログラムなど、誰がどう考えても無謀である。結論から言うとこの暴挙は大きな成果を持って成功したと断言出来る。トランスする世界から、主と人との対話の世界への移行であった。

BWV1004に於いて、庄司紗矢香は何か特別な技巧を示すことはしないし、「鋭い」表現を為した訳でもない。テンポは遅めである。彼女は明らかに、鋭さとか技巧の誇示と言ったものを求めなかった。と言うよりは、こんな世界の、人間界の世界の約束事など、どうでもよかったのだろう。

どう考えても、これは主と人との取りなしの場であった。全ての響きなりニュアンスがそのようであった。作為は不要であり、霊感だけがそこにあったと言える。このような表現はしたくはないが、「精神的な響き」と言うものがあるのだとすれば、まさしくこのような演奏こそ該当する。

なので、これはピリオド非ピリオドの様式面だとか、どんな技巧を使ったかとか、テンポの設定がどうであるとか、そんな指標であれこれ言うのでなしに、今そこにある響き、主と人との対話の刹那刹那を感じ取る演奏だ。

まあ、細川俊夫さんの 'Exstasis' でエクシタシーに達した状態でBMW1004を聴き出した私の頭がトランス状態で逝っちゃってただけだろう、って言う批判はあるかもしれない。

それにしたって、ではどうしてそのような暴挙とも言うべき後半のプログラムにしたのか?ワザワザそんなプログラミングをしたのには当然意図があるだろう。後半のプログラム全て、BWV1004を含めた全てが、 'Exstasis' 「脱自」であったのだ。どのように聴くのかは、もちろん観客の自由だけれども、この演奏会の後半は、身も心もエクシタシーに達してトランス状態になって聴くのが、観客にとって幸せな気持ちになれるのではないか。このように私は強く思う。

2016年5月21日土曜日

Nagoya Philharmonic Orchestra, the 435th Subscription Concert, review 第435回 名古屋フィルハーモニー交響楽団 定期演奏会 評

2016年5月21日 土曜日
Saturday 21st May 2016
愛知県芸術劇場コンサートホール (愛知県名古屋市)
Aichi Prefectural Art Theater Concert Hall (Nagoya, Japan)

曲目:
Дмитрий Дмитриевич Шостакович / Dmitrii Shostakovich: сюита из балета ‘Золотой век’ op.22 (Интродукция, Полька, Танец)(バレエ組曲「黄金時代」から「序奏」,「ポルカ」,「踊り」)
Альфре́д Га́рриевич Шни́тке / Alfred Schnittke : Concerto per viola e orchestra
(休憩)
Дмитрий Дмитриевич Шостакович / Dmitrii Shostakovich: Sinfonia n.6 op.54

viola: Andrea Burger (アンドレア=ブルガー)
orchestra: Nagoya Philharmonic Orchestra(名古屋フィルハーモニー交響楽団)
direttore: Дми́трий Ильи́ч Лисс / Dmitri Liss (指揮:ドミトリ=リス)

名古屋フィルハーモニー交響楽団は、スイス連邦生まれのアンドレア=ブルガー(ヴィオラ)をソリストに、ドミトリー=リスを指揮者に迎えて、2016年5月20日・21日に愛知県芸術劇場で、第435回定期演奏会を開催した。この評は、第二日目の公演に対してのものである。

今回のプログラムは、保守化した今シーズンのプログラムの中では例外的に良心的なもので、ドミトリー=ショスタコーヴィチのバレエ組曲と交響曲、シュニトケが1985年に作曲したヴィオラ協奏曲と、ロシアの近現代音楽から構成されている。今シーズンのプログラムの白眉であることは間違いない。

管弦楽配置は、舞台下手側から、第一ヴァイオリン→第二ヴァイオリン→ヴィオラ→ヴァイオリン-チェロのモダン配置で、コントラバスはチェロの上手方につく。木管パートは後方中央、ホルンは木管後方の中央に位置し、その後ろにティンパニがつく。他の金管は後方上手、ティンパニ以外の打楽器群が後方下手側につく。

なお、第二曲目のシュニトケ、ヴィオラ協奏曲はヴァイオリンは登場せず、そのスペースにチェンバロ・足踏みオルガン・ピアノ・ハープが置かれる。

着席位置は一階正面後方中央、客の入りは8割程であろうか、チケット完売には至らなかった。観客の鑑賞態度については、概ね良好だったものの、シュニトケのヴィオラ協奏曲にて、最後の音符を奏でた直後に余韻を壊すフライング拍手があったのは、同じ聴衆として極めて遺憾である。

今回は、総じて難曲揃いであるが、素晴らしい演奏だった。

第一曲目の「黄金時代」は、冒頭のフルートによる鋭い響きに引き寄せられる。弦が少し戸惑っているように感じられたが、曲の進行ともに管楽打楽と噛み合ってくる。

第二曲目のシュニトケによるヴィオラ協奏曲は、素人受けはしづらい曲想で、終始緊張感を要するが、ヴィオラ-ソリストのアンドレア=ブルガーはこの難曲を、1990年生まれの若手とは思えない程の完成度を持って演奏する。音量は問題ないし、この曲を理解した上で、ソロで攻めるべき箇所や他楽器との絡み合いの箇所を計算し、気を衒わない見事な正統派の演奏だ。一方で、名フィルの管弦楽も綺麗な弱奏でソリストを支えたり、管楽打楽で攻めるべき箇所は攻めたりと、的確な演奏である。にしても、現代音楽なのに、チェンバロとヴィオラ-ソロとの組み合わせで聴かせるポイントがあるのは意外だ。

後半はショスタコーヴィチの交響曲第6番。管楽打楽の聴きどころでしっかり決めてくるし、弦楽も負けずに響かせるし、弦管打、それに愛知県芸術劇場コンサートホールの音響全てが見事に絡みあった完璧な演奏だ。

何よりも、一番長大な第一楽章が素晴らしいのが効いている。下手すると眠気を誘いそうな楽想であるが、天井やオルガンを見上げてウットリしているうちに終わっちゃった感じである。リスの的確な構成力が緊張感を持続させ、管弦楽がこれに応えて、ソリスティックな聴きどころを担当する管楽打楽が決まりまくったからか。

いつものように、この曲も予習せずに初聴で臨んだが、第一楽章で秘かにイイなと思った箇所は、低弦の弱奏に支えられて第一フルートがずっと奏でているところに、第二フルートが鳥の鳴き声のように入ってくるところ。Beethovenの第6交響曲「田園」を意識しているのか?まあ、多分違うと思うけど・・・。

それにしてもこれ程までの内容でショスタコーヴィチを演奏してしまうのだから、間も無く実施される愛知芸文の改修工事時期を外して、年間プログラムをショスタコーヴィチだけで構成することもできるだろうとも思う。無謀承知の発言であるが。

名フィルはトップの指揮者がマーティン=ブラビンズから交代した事により、プログラムが保守化した。中日新聞社放送芸能部の某記者すら自らの責務を放棄して、この保守化に与したが、しかしこの第435回定期演奏会は例外的に挑戦的なプログラムで攻めた、最も良心的な演目だった。こういったプログラムを演奏し紹介し、観客を啓蒙するのは、管弦楽団の重要な社会的責務であるし、聴衆の立場からも応えないといけないと、私は思っている。

観客は、現在自分の好きな音楽を聴きたがるもの、専門知識を有し提起する力がある、その地域の管弦楽団が啓蒙しなければ、観客も管弦楽団も、その地域の文化も進歩しない。このようなプログラムは、これからも比率を増やして継続されるよう、要望したい。

2016年4月24日日曜日

原田靖子(松本市音楽文化ホール専属オルガニスト) + 蓼沼雅紀 + サクソフォン-カルテット ギャルソン 演奏会感想

2016年4月24日 日曜日
松本市音楽文化ホール (長野県松本市)

曲目:
ヨハン=セバスティアン=バッハ:パッサカリア BWV582
作者不詳:グリーンスリーヴス変奏曲
ヤン=ピーテルスゾーンス=ウェーリンク:「われ汝に呼ばれる、主イエス=キリストよ」
ウラディミール=ヴァヴィロフ:「アヴェ=マリア」(いわゆる「カッチーニのアヴェ=マリア」)
(休憩)
ヨハン=セバスティアン=バッハ:フーガ BWV578 (サクソフォン=カルテットとオルガンのために編曲:大場陽子)
長生淳:彗星(トルヴェールの「惑星」より)
天野正道:セカンド-バトル
バルバラ=トンプソン:サクソフォン四重奏とオルガンのための協奏曲「蜃気楼」(第一楽章・第三楽章・第四楽章)(日本初演)

オルガン:原田靖子(松本市音楽文化ホール専属オルガニスト)
サクソフォン=カルテット:ギャルソン
 ソプラノ=サクソフォン:蓼沼雅紀(ソリスト)
 アルト=サクソフォン:細川紘希
 テナー=サクソフォン:完戸吉由希
 バリトン=サクソフォン:大坪俊樹

松本市音楽文化ホールは、「The Harmonu Hall Organ Concert series ~若手サクソフォン奏者と共に~」「人類史上『最古の鍵盤楽器』と『最新の管楽器』が恋に落ちて」のタイトルで、専属オルガニストである原田靖子と 蓼沼雅紀 + サクソフォン-カルテット ギャルソンの共演による演奏会を、2016年4月24日に開催した。

着席位置は後方上手側、観客の入り具合は六割程か。観客の鑑賞態度は、細かなノイズが時折見受けられたが、概ね良好であった。

私自身が少し疲れていたこともあり、第一曲目では照明・オルガンとも気持ちよくなってしまい、夢見心地な状態にあったところもあったが、オルガンとサクソフォンとの共演という冒険的な試みは成功したと言って良い。

やはり白眉は、最後のバルバラ=トンプソンの「蜃気楼」であった。精緻に演奏され、オルガンとサクソフォンとが見事にブレンドされ、サクソフォンカルテットの四人だけでなく、オルガンを含めて五人の奏者全体での一体感が感じられた。松本市音楽文化ホールの豊かな残響を巧みに味方につけ、日本初演を立派に果たした。

このような作品を演奏するに適したホールは、オルガンがあり、かつ残響が豊かな中規模ホールとなるが、松本市音楽文化ホールの他、サラマンカホール(岐阜市)、豊田市コンサートホール、福島市音楽堂くらいしか適したホールが日本にはない。その中で、松本市音楽文化ホールで日本初演を実現できたのは、やはり専属オルガニストである原田靖子による企画力の賜物であろう。きちんとした箱と、きちんとした運営によって、この日本初演が松本市で実現した。人口20万人規模の地方都市のホールでも、やれることはたくさんあるのだと認識した。第二楽章が省略されなければ、全曲での日本初演が実現できたところであり、この点だけが残念である。

このような現代音楽をしれっと地方都市の観客に受け入れさせるためなのか?その前に「セカンド-バトル」という非常に楽しい曲を持ってきた。四人の奏者が客席に降りてきて、空席に図々しく座って演奏するなど、かなりポピュラー色の高い曲目だ。観客の反応も良い。奏者が客席のどこにいても、舞台上での演奏と全く同じ響きで聴こえてくるところに、松本市音楽文化ホールの凄さがある。演奏も、残響が長いからこそ重要となる精緻さを伴ったもので、観客を乗せて盛り上げただけでなく、非常に充実した状態で「蜃気楼」に持ち込める状態を作った。

にしても、やはり日本初演というのは重要だ。200年前の作品を再現させるだけでなく、現代に生きる作曲家の作品を紹介するのは演奏者の重要な使命の一つだと思うが、オルガンとサクソフォンとの珍しい組み合わせの曲を紹介したのは、本当に有意義な事である。松本市音楽文化ホールが続けてきた、専属オルガニスト制度が活かされた公演であった。箱を作るだけではない音楽堂のあるべき姿の事例を示したものである。

アンコールは、村松嵩継の「彼方の光」であった。

2016年4月23日土曜日

Kioi Sinfonietta Tokyo, the 104th Subscription Concert, review 第104回 紀尾井シンフォニエッタ東京 定期演奏会 評

2016年4月23日 土曜日
Saturday 23rd April 2016
紀尾井ホール (東京)
Kioi Hall (Tokyo, Japan)

曲目:
Gabriel Fauré: ‘Masques et Bergamasques’ op.112
Ludwig van Beethoven: Concerto per pianoforte e orchestra n.4 op.58
(休憩)
Franz Joseph Haydn: Sinfonia n.103 Hob.I:103

pianoforte: Imogen Cooper / イモジェン=クーパー
orchestra: Kioi Sinfonietta Tokyo(紀尾井シンフォニエッタ東京)
direttore: Trevor Pinnock / トレヴァー=ピノック

紀尾井シンフォニエッタ東京(KST)は、トレヴァー=ピノックを指揮者に、イモジェン=クーパーをソリストに迎えて、2016年4月22日・23日に東京-紀尾井ホールで、第104回定期演奏会を開催した。この評は、第二日目の公演に対してのものである。

管弦楽配置は、舞台下手側から、第一ヴァイオリン→ヴァイオリン-チェロ→ヴィオラ→第二ヴァイオリンの左右対向配置で、コントラバスは中央最後方につく。木管パートは後方中央(コントラバスの手前)、ホルンは後方下手側、トランペットは後方上手側、ティンパニは上手側、ハープは下手側の位置につく。ティンパニはモダンタイプとバロックタイプの二種類を準備し、フォーレ作品のみモダンタイプを用いた。

着席位置は一階正面後方僅かに上手側、チケットはほぼ完売している。観客の鑑賞態度は、若干のノイズはあったが、拍手のタイミングも適切であった。

トレヴァー=ピノックの解釈は全般的に端正なものである。おそらく楽譜に

私にとっての白眉は、二曲目のBeethoven ピアノ協奏曲の4番であった。

イモジェン=クーパーのピアノは全般的に遅く、特に第一楽章で顕著だ。第一楽章前半部ではその遅さに加え曲想上も手を入れにくいのか、覚醒状態が高くなければ眠くなる演奏である。しかし、後半部からは、その遅いテンポでなければ見えてこないものを表現し、遅いテンポの中で揺らぎを入れて表情付けを行い始める。カデンツァも説得力のあるものだ。

第二楽章では、弦楽が深く強く美しい表現響きで始めた後で(今日の管弦楽で一番素晴らしい箇所だった!)、臨終間近を思わせる儚い弱奏のピアノとの対比が面白い。管弦楽はしばらくして強く響かせるのをやめ、同じ方向性を向いた弱奏でピアノに寄り添う。

第三楽章は、通常よりもわずかに遅い程度のテンポか?イモジェンのピアノは必要以上に強い演奏でなく、控えめで溶け込ませ、管弦楽と同じ方向性を持つものである。

全般的にイモジェンのピアノは、遅いテンポの基調でなければ不可能な表現をニュアンス豊かに行うスタイルで、超絶技巧を披露する派手系な路線の対極に位置する。好き嫌いが別れる演奏であることは間違いない。正直観客の反応が心配だったが、是と感じる知的な反応をする観客は思った以上に多く、暖かい反応で前半を終えた。

アンコールは、シューベルト、キプロスの女王 ロザムンデ より 第三幕の間奏曲であった。

2016年4月17日日曜日

New National Theatre Tokyo, Opera ‘Andrea Chénier’ review 新国立劇場 歌劇「アンドレア=シェニエ」 感想

2016年4月17日 日曜日
Sunday 17th April 2016
新国立劇場 (東京)
New National Theatre Tokyo (Tokyo, Japan)

演目:
Umberto Giordano: Opera ‘Andrea Chénier’
ウンベルト=ジョルダーノ 歌劇「アンドレア=シェニエ」

Andrea Chénier : Carlo Ventre (カルロ=ヴェントレ)
Maddalena di Coigny: Maria José Siri (マリア=ホセ=シリ)
Carlo Gérard: Vittorio Vitelli(ヴィットリオ=ヴィテッリ)
Roucher: Kamie Hayato (上江隼人)
un Incredibile: Matsuura Ken (松浦健)
la Contessa di Coigny: Moriyama Kyoko (森山京子)
Bersi: Shimizu Kasumi (清水華澄)
Madelon: Takemoto Setsuko (竹本節子)
Mathieu: Okubo Makoto (大久保眞)
Fléville : Komada Toshiaki (駒田敏章)
l’Abate: Kamoshita Minoru (加茂下稔)
Fouquier Tinville: Sudo Shingo (須藤慎吾)
Dumas: Omori Ichiei (大森いちえい)
Il Maestro di Casa/Schmidt: Okubo Mitsuya (大久保光哉)

Coro: New National Theatre Chorus (合唱:新国立劇場合唱団)

Director: Philippe Arlaud (演出:フィリップ=アルロー)
Set design: Philippe Arlaud(装置:フィリップ=アルロー)
Costumes design: Andrea Uhmann (衣裳:アンドレア=ウーマン)
Lighting design: Tatsuta Yuji (照明:立田雄士)
Stage Maneger: Saito Miho (舞台監督:斉藤美穂)

orchestra: Tokyo Philharmonic Orchestra (管弦楽:東京フィルハーモニー交響楽団)
maestro del Coro: Misawa Fminori (合唱指導:三澤洋史)
direttore: Jader Bignamini (指揮:ヤデル=ビニャミーニ)

新国立劇場は、2016年4月14日から4月23日までの日程で、ウンベルト=ジョルダーノ歌劇「アンドレア=シェニエ」を4公演開催する。この評は2016年4月17日に催された第二回目の公演に対するものである。

着席位置は一階やや前方上手側である。観客の入りは九割程はあったか?観客の鑑賞態度は、極めて良好だった。

(以下ネタバレ注意)

舞台は先進的なもので、新国立劇場ご自慢の廻り舞台がフルに活かされる。赤いオペラカーテンを一切用いず、ギロチンをモチーフとした斜めに切られた舞台装置は、疑問の余地なく秀逸なものだ。第一幕と第二幕の間の幕間のギロチン器材映写も素晴らしい。

ソリストの出来について述べる。

一番の出来は、Maddalena 役の Maria José Siri だ。新国立劇場で求められる爆音の要件を満たしたばかりでなく、終始ニュアンスに富んだ歌唱で観客を魅了した。第三幕での Gérard が改心する前のアリアは完璧だった。Maddalena への欲望に燃える Gérard が改心する説得力溢れるアリアで、まさしくこの公演の白眉だ。このアリアで涙腺の緩まない者は、誰一人としていないだろう。

Maria José Siri 程でないにせよ、題名役の Carlo Ventre 、Gérard 役の Vittorio Vitelli と、外国人ソリストは士気溢れる歌唱を披露し、これに影響されたのか、Bersi 役の清水華澄、Madelon 役の竹本節子も素晴らしかった。

第一幕・第二幕と、爆演系の力技で観客をノックアウトさせようとする陰謀に乗せられてたまるかと思った。このAndrea Chénierは音が多い箇所があり、そう言った箇所での響きの精緻さについては疑問の余地があろうが、そんな要素などどうでも良くなる第三幕・第四幕だった。

この三月に大評判だった「イェヌーファ」・「サロメ」は見ていない条件で言うけど、この「アンドレア=シェニエ」は私が観劇した数少ない新国立劇場のオペラ公演の中で、間違いなく一番の出来だ。視覚面でも聴覚面でも。意気揚々と松本に帰ってる!

わずか四公演だけなのが勿体無い素晴らしい出来だ!20日・23日と、あと二公演あるが、期待して観劇して欲しい!

2016年4月16日土曜日

New National Theatre Tokyo, Opera ‘Werther’ review 新国立劇場 歌劇「ヴェルター」(ウェルテル) 感想

2016年4月16日 土曜日
Saturday 16th April 2016
新国立劇場 (東京)
New National Theatre Tokyo (Tokyo, Japan)

演目:
Jules Massenet: Opera ‘Werther'
ジュール=マスネ 歌劇「ヴェルター」(ウェルテル)

Werther: Dmitry Korchak (ディミトリー=コルチャック)
Charlotte: Elena Maximova (エレーナ=マクシモワ)
Albert: Adrian Eröd(アドリアン=エレート)
Sophie: Sunakawa Ryoko (砂川涼子)
le Bailli: Kubota Masumi (久保田真澄)
Schmidt: Murakami Kota (村上公太)
Johann: Mogiguchi Kenji (森口賢二)

Coro: New National Theatre Chorus (合唱:新国立劇場合唱団)
Coro dei bambini: Tokyo FM Boys Choir

Director: Nicolas Joel (演出:ニコラ=ジョエル)
Set design: Emmanuelle Favre(装置:エマニュエル=ファーヴル)
Costumes design: Katia Duflot (衣裳:カティア=デュフロ)
Lighting design: Vinicio Cheli (照明:ヴィニチオ=ケリ)
Stage Maneger: Onita Masahiko (舞台監督:大仁田雅彦)

orchestra: Tokyo Philharmonic Orchestra (管弦楽:東京フィルハーモニー交響楽団)
maestro del Coro: Misawa Fminori (合唱指導:三澤洋史)
direttore: Emmanuel Plasson (指揮:エマニュエル=プラッソン)

新国立劇場は、2016年4月3日から4月16日までの日程で、ジュール=マスネ歌劇「ヴェルター」を5公演開催した。この評は2016年4月16日に催された第五回目千秋楽の公演に対するものである。

当初予定されていた、指揮のマルコ=アルミリアート・ミシェル=プラッソン、ベアトリス役のマルチェッロ=ジョルダーニは、負傷・病気のため降板した。

着席位置は一階前方やや下手側である。観客の入りは9割ほどか。観客の鑑賞態度は、概ね極めて良好だった。

舞台は伝統的なものであり、衣装を含めて前衛的な要素は特段ない、正統的なものだ。背景の映像はプロジェクターを用いたものと思われるが、事前に新国立劇場会員誌「テアトレ」で予告された背景映像とは異なったものとなったのは残念だ。

ソリストの出来について述べる。

Werther役の Dmitry Korchak は、第一幕、第三幕オシアンの詩の朗読の場面、Charlotte 役の Elena Maximova は第三幕のWertherとの場面が特に素晴らしい。Albert 役の Adrian Eröd は全般に渡り期待する水準を満たし、Sophie 役の 砂川涼子 も特に第三幕での Charlotte との場面は素晴らしく健闘した。

管弦楽は東京フィルハーモニー交響楽団であったが、バレエ公演でこのくらい元気良く上手に演奏してくれたらと思える程ではあるが、歌劇公演としての演奏のあり方としては疑問を持たざるを得ない箇所も見受けられた。演奏のあり方が、タケミツメモリアルでの演奏会のようだった。

特に第一幕・第二幕で、管楽の無神経な響きによって歌が損なわれた。歌の響きに対してどのような響きで対処するかが見えていない。これは各奏者が考えるべき点か、指揮者の無能ぶりにより齎された点かは不明である。

第一幕終盤シャルロッテとヴェルターの段は、もう少し考えるべきだろう。

特に第二幕では、管弦楽をなくして、歌い手のアカペラだけでやった方がマシと思える程だ。歌が綺麗に響く時は、ピットからの音がない時だったり、教会から漏れ伝わる弱いオルガンの音の場面だったりした。

歌の個別が良くても、管弦楽個別が良くても、なんとなくシックリ来ない感じが強い。全体的な響きの組み立てがうまくいっていない。

今日わかった事は、新国立劇場はピットからの音がかなり大きく響き渡り、その結果、歌い手が爆音量対応で無ければ管弦楽に負けてしまう点である。地元の まつもと市民芸術館 では、管弦楽はうまい具合にすっぽ抜けた響きとなり、結果的に歌が活きてくるが、新国立劇場ではそうならない。新国立劇場の音響は、バレエ公演向けとしては抜群に素晴らしいが、オペラ公演としてはダメダメの部類だろう。

オペラに関して、二国問題の勝者はいなかった。佐々木忠次の狂気じみた2000席超構想をぶっ潰したのは良かったとして、現状の1814席は誰得だったのだろう。過剰に響く管弦楽により歌い手に爆音量を要求する劇場となってしまった。1000席前後の規模にし、オケを室内管弦楽団の規模として座付きとしていれば、砂川涼子や Elena Maximova の歌が活きた場面はもっとたくさんあったのではないだろうか。新国立劇場設立のグランド-デザインが誤っていた事については、日本の音楽界を挙げた反省が必要かと思われる。

2016年4月10日日曜日

Wihan Quartet, Nagoya perfomance, (10th April 2016), review ウィハン弦楽四重奏団 名古屋公演 評

2016年4月10日 日曜日
Sunday 10th April 2016
宗次ホール (愛知府名古屋市)
Munetsugu Hall (Kyoto, Japan)

曲目:
Franz Joseph Haydn: Quartetto n.67 op.64-5 Hob.III-63
Leoš Janáček: Quartetto n.1
(休憩)
Ludwig van Beethoven: Quartetto n.15 op.132

Quartetto d'archi: Wihan Quartet
violino 1: Leoš Čepický
violino 2: Jan Schulmeister
viola: Jakub Čepický
violoncello: Aleš Kaspřík

チェコ人により構成されるウィハン-クァルテットは、2016年3月から4月に掛けて日本ツアーを実施し、福岡・横浜・東京(3会場で計3公演)・大阪・広島・武豊(愛知県)・名古屋にて演奏会を開催した。この評は、最終公演である名古屋公演に対するものである。

着席位置は秘密。およそ7割程の入りか?観客の鑑賞態度は、概ね極めて良好であった。

一曲目のハイドンから深い音色で聴かせてくれるが、面白いのは二曲目のヤナーチェクである。どのように弾いてそのような音を出しているのか不明だが、特殊な音色が出て来たり、現代音楽チックな部分もあったりする。

最後のBeethovenは、第三楽章・第五楽章が特に素晴らしい。第三楽章は繊細であり、第五楽章は心臓の鼓動が高鳴る演奏だ。それにしても、全曲に渡り正統派の解釈であり、誰が何をするか、よく考えられた演奏である。深い音色が宗次ホールと実によくマッチしている。

アンコールは二曲あり、いずれもドヴォルジャークである。一曲目は弦楽四重奏曲第12番第四楽章であるが、終盤の二人のヴァイオリンが微妙にテンポを速めながらきっちりユニゾンを決めた響きは実に素晴らしい。二曲目は、弦楽四重奏のための「糸杉」から「自然はまどろみの夢の中に」で心を落ち着かせるものである。

弦楽四重奏の表現力を改めて思い知る。100以上の奏者を集めてデカくやる意味って、どこにあるのでしょうね。

2016年4月9日土曜日

国立文楽劇場「妹背山婦女庭訓」感想

2016年4月9日に、国立文楽劇場にて「妹背山婦女庭訓」を通しで観劇しました。11:00から21:04までの長丁場です。

当日は散り始めておりましたが、国立文楽劇場前の二本の桜がまだまだ咲いておりました。うまく撮影すれば、まだまだ葉桜になっていないように誤魔化せるレベルです。

第一部での「妹山背山の段」は桜の季節の背景です。ギリギリとはいえ、桜が完全に散る前に来れて良かったです。この段は、二時間近くに渡る場面です。雛鳥の首を整える定家の仕草に涙腺が緩みました。この段では、出語り床を上手・下手両側に設置しています。雛鳥は下手側、久我之助は上手側、その間は人の行き来ができない国境の川です。雛鳥側の太夫・三味線を下手側に置く珍しい形態でした。

後半の第二部では、橘姫とお三輪とで藤原淡海(偽名:求馬)を取り合う、よくありがちな場面です。かなり積極的なお三輪に同感される方は多いでしょう。橘姫よりもお三輪の方が、興味深い描かれ方をしています。

四段目、終盤の、お三輪 が鱶七に殺害される場面は圧巻でした。人形劇でこれ程までの表現が出来る事に、いつも感歎します。10時間もの長丁場も、ここ場面で疲れが吹き飛びました。

それにしても、この10時間で五人の命が失われました。暗殺が1件、自害が3件、「大義」のための殺害が1件です。今の時代に生きていて良かったと思います。。外国人の観客もいらっしゃいましたが、このような江戸時代の日本の価値観は、理解し難いでしょうね

2016年4月3日日曜日

Alina Rinatovna Igragimova (3rd April 2016), review アリーナ=イブラギモヴァ 名古屋公演 評

2016年4月3日 日曜日
Sunday 3rd April 2016
電気文化会館コンサートホール (愛知県名古屋市)
Denki Bunka Kaikan Concert Hall (Nagoya, Japan)

曲目:
Heinrich von Biber: Passacaglia
Johann Sebastian Bach: Partita per violino solo n.2 BWV 1004
(休憩)
Eugène Ysaÿe: Sonata per violino solo n.3 op.27/3
Bartók Béla: Sonata per violino solo Sz.117

violino: Алина Ринатовна Ибрагимова / Alina Rinatovna Igragimova

アリーナ=イブラギモヴァは、2016年3月24日から4月9日に掛けて日本・韓国ツアーを行い、セドリック=ティベルギアンとともにモーツァルトのヴァイオリン-ソナタの演奏会を、王子ホール(東京)で、無伴奏のプログラムの演奏会を多摩(東京都)・所沢(埼玉県)・ソウル(大韓民国)・名古屋・西宮(兵庫県)で、キアロスクーロ=カルテットの一員としての演奏会を東京・西宮で、計9公演実施する。

この評は、4月3日電気文化会館に於ける、無伴奏プログラム公演に対する評である。

着席位置はやや前方正面中央、観客の入りは7割程か。観客の鑑賞態度は、多少ノイズはあったものの、拍手のタイミングも的確であり、概ね極めて良好だった。

全般的に、全ての曲目で極めて高い水準の演奏である。

前半のバッハ BWV1004 は私が見ている限り、ヴィブラートを掛けずに演奏する。掴みの部分で聴かせる深い音色、綺麗な弱音に耳を奪われる。解釈もよく考えられ、アリーナ独自の解釈を入れつつも、バッハの音楽を壊す箇所は全くない。

それにしても、アリーナがバッハを弾くと、どうしてヴィブラートの概念が生まれたのか、疑問が生じてくる。弦に接した指を動かす必要などなかったし、これからも永久にない。ノン-ヴィブラートだからあれだけ深い音色が出せるのであれば、ヴァイオリンの教科書からヴィブラートの概念は追放するべきではないか?

そんな暴論を公に開陳しないではいられなくなる。(後半のイザイとバルトークでは、ヴィブラートをかけていた)

後半は、やはりバルトークである。技巧を駆使する難曲であるが、高い水準でクリアする事は当然として、単にスリリングな展開を楽しませるだけでなく、弱音の綺麗さ、音色の深さで心に染み渡る演奏だ。

鋭く弾いているのだけれど、柔らかさを感じさせるのは、響きの深さによるものなのだろうか?

アンコールは、バッハの無伴奏ソナタ第2番 BWV1003 からアンダンテである。優しい響きで、安らかな気持ちで地上に出てね、娑婆に帰ってね、と言われているかのような演奏だった。

2016年2月21日日曜日

Noism "Carmen" 2016年2月 横浜公演 感想

2016年2月20/21日と、神奈川芸術劇場(KAAT)にて、Noism 「カルメン」を観劇しました。

Noism は新潟市の劇場施設 りゅーとぴあ の座付き舞踊演劇カンパニーです。

Noism の演目は、一度だけでは分からない事も、二度観ると見えてくるものがあります。二回行って良かったと思います。

あの有名なビゼーによるオペラのカルメンの音楽を用いてはおりますが、ストーリーは大幅に変えております。そもそもオペラ前の原作にはなかったミカエラが、このNoism版では極めて重要な位置を占めています。ここまでミカエラの心情を表現したのは、物語の強い核になり素晴らしいものがあります。

また、歌舞伎・文楽の手法をかなり取り入れているように思えます。

第一幕で、門外の警備の情景と、門内のタバコ工場の場面の転換は、複数(5つ?)繋げたパーテーションをダンサーの手で一気に回して行いますが、やっている事は歌舞伎に於ける回り舞台そのものです。

また、第二幕でのガルシア登場の場は、学者役が大夫になって、パントマイムをしているダンサーの台詞を言います。ダンサーを人形に置き換えれば、やっている事はまさしく文楽です。そもそも舞台を張り出して、学者の部屋のようにしている時点で、文楽の出語り床そのものです。

その他舞台装置に関して言えば、パーテーションの使い方が実に絶妙でした。

このカルメンには亡霊たちが登場しますが、東海道四谷怪談的でもあり、オペラ「ドン-ジョバンニ」の騎士長が迫る場面のように思いました。

もちろん、Noismの皆さん、みんな踊れるし演じられるしで、舞踊と言うよりは演劇を楽しめた感じです♪

2016年2月18日木曜日

Janine Jansen + Itamar Golan, recital, (18th February 2016), review ジャニーヌ=ヤンセン + イタマール=ゴラン 名古屋公演 評

2016年2月18日 木曜日
Thursday 18th February 2016
電気文化会館コンサートホール (愛知県名古屋市)
Denki Bunka Kaikan Concert Hall (Nagoya, Japan)

曲目:
Johannes Brahms: Sonata per violino e pianoforte n.2 op.100
Bartók Béla: Sonata per violino e pianoforte n.2 Sz.76
(休憩)
Bartók Béla: Dansuri populare românești Sz.56 (ルーマニア民族舞曲)
Fritz Kreisler: Marche Miniature Viennoise (ヴィーン風小行進曲)
Fritz Kreisler: Liebesleid (愛の悲しみ)
Fritz Kreisler: syncopation (シンコペーション)
Manuel de Falla (arr. Fritz Kreisler): Danza Española nº 1 (La vida breve) (エスパーニャ舞曲第1番 (歌劇「はかなき人生」より))
Manuel de Falla: Siete canciones populares españolas (7つのエスパーニャ民謡より)

violino: Janine Jansen
pianoforte: Itamar Golan

「7つのエスパーニャ民謡より」で演奏された曲目は、1. ムーア人の衣装 2. 子守唄 3. 歌 4. ポーロ 5. アストゥリアス地方の歌 6. ホタ である。

ジャニーヌ=ヤンセンは、2016年2月16日から22日に掛けて、イタマール=ゴランとともにリサイタルを、ファリアホール(横浜)、紀尾井ホール(東京)、電気文化会館(名古屋)、兵庫県立芸術文化センター(兵庫県西宮市)、東京文化会館(東京)にて行う。電気文化会館に於いては、ブラームス・バルトークのほか、クライスラー・ファジャを演奏するプログラムとなる。

この評は、2月18日電気文化会館の公演に対する評である。

着席位置はやや前方正面中央、観客の入りは9割程か。観客の鑑賞態度は、若干ノイズはあったものの、余韻を損なう拍手はなく、概ね極めて良好だった。

前半は、バルトークのVnソナタ2番が素晴らしい。目を見張る出来だ。ゴランも同格に張り合うし、ジャニーヌはよく考えて構築し、求められている響きを的確に出す。鋭く弾いていても太さがある響きが伴うからか、優し目な響きに聴こえるかな♪

後半はバルトーク・クライスラー・ファジャの曲で、乱暴に言うとポピュラー路線である。全般的にジャニーヌのしっとりとした音色で色付けされている。ファジャだからと言ってエスパーニャ色そのまんまには、決してしない。通俗的な曲目もジャニーヌに掛かるとこのようになるんだ!と言った感じになり、ジャニーヌ色に染まると違って聴こえてくるのだなあと感じられる。

しかし、最大の聴かせどころは、アンコール一曲目のルトスワフスキの「スピト」だ。バリバリの現代音楽を鋭く聴かせてくれ、テンションが上がりまくる。前半最後にバルトークのVnソナタ2番を持ってくるなど、アンコールを含めて、プログラムの構成が巧みだ。

ルトスワフスキで興奮した気持ちを鎮めるかのような、アンコール二曲目のフォーレ「夢のあとに」も素晴らしい。穏やかな気分で帰ってぐっすり眠ってね、と言った雰囲気がいいのだよな。そんなジャニーヌたん、loveだよ!!背が高くてモデルみたいな美女だし、また来てね♪♪

2016年2月13日土曜日

Kioi Sinfonietta Tokyo, the 103th Subscription Concert, review 第103回 紀尾井シンフォニエッタ東京 定期演奏会 評

2016年2月13日 土曜日
Saturday 13th February 2016
紀尾井ホール (東京)
Kioi Hall (Tokyo, Japan)

曲目:
Wolfgang Amadeus Mozart: divertimento n.1 K136
Richard Strauss: Concerto per corno e orchestra n.2
(休憩)
Wolfgang Amadeus Mozart: Concerto per corno e orchestra n.3 K447
Richard Strauss: Metamorphosen

violino: Rainer Honeck / ライナー=ホーネック
corno: Stefan Dohr / シュテファン=ドール
orchestra: Kioi Sinfonietta Tokyo(紀尾井シンフォニエッタ東京)
direttore: Rainer Honeck / ライナー=ホーネック

紀尾井シンフォニエッタ東京(KST)は、ライナー=ホーネックを指揮者に、ホルン奏者のシュテファン=ドールをソリストに迎えて、2016年2月12日・13日に東京-紀尾井ホールで、第103回定期演奏会を開催した。この評は、第二日目の公演に対してのものである。

ライナー=ホーネックは、ディヴェルティメントとメタモルフォーゼンはコンサート=マスター、二曲あるホルン協奏曲は指揮を担当する。

管弦楽配置は、舞台下手側から、第一ヴァイオリン→第二ヴァイオリン→ヴィオラ→ヴァイオリン-チェロのモダン配置で、コントラバスはチェロの後方につく。木管パートは後方中央、ホルンは後方下手側、その他の金管とティンパニは後方上手側の位置につく。

着席位置は一階正面後方僅かに上手側、チケットは完売している。観客の鑑賞態度は、時折ノイズが発生したものの、概ね極めて良好で、メタモルフォーゼンの後の静寂も(時報がなっちゃったけど)守られた。

第一曲目の「ディヴェルティメント」は第三楽章がヴィヴィッドな感じで私の好みである。

第二曲目はリヒャルト=シュトラウスのホルン協奏曲第2番である。ホルン-ソロはシュテファン=ドールだ。

この曲を私が聴くのは初めてであり、リヒャルト=シュトラウスの書法に慣れていないからそのように感じられたのかもしれないが、第一楽章ではドールが紀尾井ホールの響きにマッチせず苦しめられているように思えて、加えて管弦楽が控え目な設定であったこともあり、バラバラな印象を持つ。

しかし第二楽章で、木管の見せ場からさり気なくホルンが入って来るところは素晴らしい。

シュテファン=ドールが本領を発揮し出すのは、休憩後に演奏されたモーツァルトのホルン協奏曲第3番である。弱めな響きの管弦楽と完全にマッチしており、弱音のコントロールが見事で、管弦楽と同じ方向を向いた演奏が、見事に当たる。よく考えられて構成された演奏である。

しかし、シュテファン=ドールの本領はアンコールでさらに発揮される。曲目はメシアンの「峡谷から星たちへ・・」第二部第6章「恒星の叫び声」である。

協奏曲のソリストとして、あるいはアウェイである紀尾井ホールの奏者として課せられた制約から逃れ、自由を得て、伸びやかな明るい響きの演奏だ。

紀尾井ホールの響きを完全に掌握した上で、全てが絶妙に絡み合い、何らの制約なく、やりたい放題に超絶技巧を披露し、私のテンションが上がりまくる。「メタモルフォーゼン」の前で興奮しちゃって良いのかと、罪の意識を持ちながら。

最後の曲は、リヒャルト=シュトラウスのメタモルフォーゼンである。

緻密に考えられ、個々の奏者の技量が的確に発揮され、純音楽的なメリハリがありながらも、感情過多になり過ぎない(私にとっては、涙腺が潤むか潤まないかのギリギリの線だった)重さを感じさせる見事な演奏である。

この曲を、紀尾井ホールのような中規模ホールで聴くことに幸せを感じる。23人の弦楽奏者それぞれが独立しており、一人ひとりの弦楽が意味を持つこの曲は、やはり大ホールでは限界がある。大ホールフルオケばかりの東京で、機会は少ないけれども、紀尾井ホールで、紀尾井シンフォニエッタ東京の演奏で聴けるのは、奇蹟的な幸運だ。

この曲の最後では、祈る気持ちになる。天井のシャンデリアに視線を向け、あるいは目を瞑り、視覚的な情報をカットして響きに心を傾ける。曲が終わり、観客は静寂を保つ。ちょうど16時になり時報がなってしまうのは不幸だったが、祈りの時間が確保される。ホーネックが終了の合図を出したのか、観客から拍手が湧き上がり始める。曲が終わったらしい。名演が終わった。そろそろ私も目を開き、拍手をし始めよう。

2016年1月30日土曜日

Orchestra Ensemble Kanazawa, the 372nd Subscription Concert, review 第372回 オーケストラ-アンサンブル-金沢 定期演奏会 評

2016年1月30日 土曜日
Saturday 30th January 2016
石川県立音楽堂 (石川県金沢市)
Ishikawa Ongakudo (Ishikawa Prefectural Concert Hall) (Kanazawa, Japan)

曲目:
Benjamin Britten: Simple Symphony op.4
Frédéric Chopin: Variations on "La ci darem la mano" op.2
(休憩)
Frédéric Chopin: Concert Londo "Krakowiak" op.14
Felix Mendelssohn Bartholdy: Sinfonia n.5 op.107

pianoforte: Alexander Krichel
orchestra: Orchestra Ensemble Kanazawa (OEK)(オーケストラ-アンサンブル-金沢)
direttore: Matthias Bamert

オーケストラ-アンサンブル-金沢は、ピアノにアレクサンダー=クリッヒェル、指揮にマティアス=バーメルトを迎えて、2016年1月30日に石川県立音楽堂で、第372回定期演奏会を開催した。

管弦楽配置は、舞台下手側から、第一ヴァイオリン→ヴィオラ→ヴァイオリン-チェロ→第二ヴァイオリンの左右対抗配置で、コントラバスはチェロの上手方につく。木管パートは後方中央、ホルンは後方下手側、他の金管は後方上手、ティンパニは最後方中央の位置につく。

着席位置は一階正面中央わずかに上手側、客の入りは八割程であろうか、チケット完売には至らなかった。

演奏について述べる。

一曲目のシンプル-シンフォニーは、第三楽章・第四楽章が素晴らしい。第二楽章のピッチカートは、中規模ホールだとよく響いて素晴らしい演奏になったろう。

ショパンの、事実上の一楽章形式のピアノ協奏曲が二曲披露される。

ピアノのアレクサンダー=クリッヒェルはハンブルク生まれ。強い音も軽やかさを失わない響きで魅了される。 管弦楽のサポートは絶妙に考えられ、ピアノが休んで管弦楽が強く出るべき箇所の鋭さも見事で、構築力のある組み立てである。

ショパンがモーツァルトの影響を受けた事を伺わせるピアノの軽やかな響きは、これら事実上のピアノ協奏曲には必須な要素だが、これをどんな強い音でも失わせないアレクサンダー=クリッヒェルは素晴らしい!アンコールはクリッヒェル自身の作による「ララバイ」であったが、弱音が綺麗であった。

後半は、メンデルスゾーンの交響曲第5番である。冒頭の金管の鮮やかな響きと(終始金管の調子は良かったように思える)弦楽の弱いけど細さを感じさせない響きとの対比から惹き寄せられる。全般的に奇を衒わない正統派の演奏であるが、もう少し派手にやったら名演の域に達したかもしれない。アンコールはモーツァルトの「カッサシオン」KV65 からアンダンテであった。 #oekjp

2016年1月10日日曜日

新国立劇場バレエ団 ニューイヤーバレエ (2016年1月) 雑感

2015年最後の公演をパリ国立オペラ バレエで終え、今年初めての公演は、新国立劇場バレエ団の「ニューイヤーバレエ」でありました。

1月9・10日の二回だけの公演であり、いずれもチケットは完売したかと思われます。

三部構成に分かれます。

第一部はジョージ=バランシンの「セレナーデ」、チャイコフスキーの「弦楽セレナーデ」op.48の音楽に乗せた演目です。

第二部は、貝川鐵夫(新国立劇場バレエ団ファースト-ソリスト)の振り付けによるFoliaの他、バレエ-ガラ形式で、「パリの炎」「海賊」「タランテラ」の演目です。

第三部は、アレクサンドル=グラズノフの「ライムンダ」第三幕です。

以下、1月9日公演、1月10日公演と分けて、感想を記載します。

(2016年1月9日公演)

第一部の「セレナーデ」は、細田千晶さんが私にとって一番好みの踊りでした。あと、本島美和さんがスカートを空気抵抗を使って落とす場面が印象的です。バランシンの演目は積極的に取り上げて欲しいです。

第二部は、米沢唯ちゃんの「タランテラ」を完璧な踊りで可愛いく仕上げてきました😊あと、ファリアの池田さんらしき踊りが印象に残りました。

第三部の「ライムンダ」は、小野絢子さんのオーラで盛り上げました。

チャイコフスキーの「弦楽セレナーデ」は、室内管弦楽団の規模で、やはり松本市音楽文化ホールや紀尾井ホールといったような、響きの優れた中規模ホールでやって欲しい曲目です。それでも、特に10日公演での新国立劇場に於ける東フィルは、巨大劇場の割にはよくやっていると思います。

ど素人の放言と受け止めて頂きたいですが😅、細田千晶さんのファースト-ソリスト、池田武志さんのソリスト昇格は確実だと思っています。

池田さんの場合は、今シーズン2階級特進しても良かったのだろうけど、花純さんのように主役起用ではなかったから、1階級ずつにしただけなのでしょうね。

細田千晶さんは、現行ソリスト階級陣の中で、明らかに抜きん出ています。踊りの完成度と、これがもたらす踊りの美しさの点で。彼女が昇格しなくて他のソリストが昇格したら、ちょっと抗議活動ものかな😜(←コラッ😅😅)

(2016年1月10日公演)

第一部「セレナーデ」。二回目となると、身を委ねるように観ることができるようになります。今日は涙腺が決壊しそうになりました。主要メンバーだけでなく、群舞まで士気の高さが感じられる踊りをしているからなのでしょう。

「セレナーデ」はプロセニアム制限を掛ける事なく、12mそのまんま使っているのも、いいのだと思います。舞台装置使っていると、地方公演考慮して12mフルに使っていないようであるので。

10日公演はほぼ中央の席で観劇でき、その場所ならではの視点で観ることがができましたが、後半部で、本島美和さんが菅野英男さん(?)の背後に回って、鳥の羽ばたきの仕草をしたあとに、寺田亜沙子さんから略奪していくように見えた場面では、さすが、わる〜い女の美和りん だなと思いました😜😁😊

第2部について。

「海賊」の長田佳世さんは、女性ソロの柔らかい浮遊感溢れる跳躍と、最後の後方上手側から前方下手側に来るところが綺麗に決まっておりました。これらの箇所については、9日のキャストであった木村優里さんにとって、素晴らしい手本になる箇所かと考えます。

「タランテラ」の小野絢子さんは、米沢唯ちゃんとは別種の可愛さです。タンバリンを持ち出した直後のソロは管弦楽と揃えることに焦点を絞り、見事に決まりました。雄大さんも素晴らしかったです。

第3部終了。10日公演の「ライムンダ」は米沢唯ちゃん!一つ一つの所作が完璧でした。昨日の親しみやすい可愛さから、貫禄のあるお姫様に変身しておりました😊

作品としての「ライムンダ」はどうかと思うけど(第三幕は結婚式の舞踊だけという、どうしようもない内容!)、ここまでの内容で打ち出してくる新国立劇場バレエ団のダンサーたちは凄いです!

というわけで、今年は、新国立劇場バレエ団、ニューイヤーバレエ、連続二公演で幕を開けました。早速の素晴らしい公演で、意気揚々と松本に帰っております😊😊