2016年8月22日 月曜日
Monday 22nd August 2016
長野県松本文化会館 (長野県松本市)
Nagano-ken Matsumoto Bunka Kaikan (Nagano Prefectural Matsumoto Theater) (Matsumoto, Japan)
曲目:
Arthur Honegger: Sinfonia n.3
(休憩)
Ludwig van Beethoven: Sinfonia n.7 op.92
orchestra: Saito Kinen Orchestra(サイトウ-キネン-オーケストラ)
direttore: Fabio Luisi (Honegger)(指揮:ファビオ=ルイージ), 小澤征爾/Ozawa Seiji (Beethoven)
ファビオ=ルイージを指揮者に迎えて、サイトウ-キネン-フェスティバルの小澤征爾総監督も指揮するこの演奏会は、2016年8月18日・22日に長野県松本文化会館にて開催された。この評は、2016年8月22日第二公演に対する者である。
管弦楽配置は、記録を失念した。着席位置は二階最後方上手側、チケットは完売していたはずだが、当日関係者席解放があったせいか、僅かに当日券が出た。観客の鑑賞態度は覚えていない。
ルイージのオネゲルは、序盤固さがあったようにも思えたが(曲想によるかもしれないが)、曲の進行に連れて本領を発揮した印象がある。高弦が鋭い響きを出し、管楽が見事である。終盤のチェロ・ピッコロ・ヴァイオリン・ティンパニの四重奏が素晴らしい表現を見せる。
小澤征爾指揮の Beethoven 交響曲第7番は、私にとっては感銘を受ける演奏とは言いがたかった。
演奏は、ミクロの濃厚な表現で攻めている方向性で、相変わらずの生真面目ぶりである。第一楽章では木管が崩壊するなど、名手とは思えない出来の箇所もあったが、持ち直した。日本人主体の弦楽と、外国人主体の管楽との間にテンションの差を感じる演奏ではある。部分について言えば、第一楽章終盤・第二楽章冒頭・第四楽章終盤近くの低弦は、実に深い響きであり見事であったが、管楽は普通に素晴らしい程度の演奏である。
弦楽は小澤征爾の我儘に実に的確に答えていた。しかしながら、15-11-10-8-6もの巨大な弦楽配置はどうなのだろう?著しく弦楽に重きを置きすぎ、管楽が軽く聴こえ、バランスが悪すぎる。ていうか、そもそもベト7を音響の悪い2000名規模のホールで大編成の弦楽で演奏することは正しいことなのだろうか?
私は弦楽が好きであり、弦楽が吠えなければ、いくら管楽が吠えてもいい音楽にはならないと思っているし、弦楽に重きを置く演奏は大好きである。その私がこのような感想を持ったくらいである。
小澤征爾は、作曲者の想定したバランスから踏み外して、弦楽バズーカ砲を用いたキワモノ路線を走ったとも言える。一方、細部の濃厚な表現でカバーしているとは言え、構成全般として天才的な面白みはなく、何年も前からの小澤征爾の生真面目ぶりは変わっていない。
小澤征爾と言えば、横綱級とされる指揮者のはずである。しかしながら、まるで横綱が邪道な技で平幕力士を打ち負かした取り組みを見たような気分である。生気がない時代遅れな演奏で、正々堂々と正門から討ち入る感じがない。横綱相撲をしている感じがないのだ。
当初ブラームスの交響曲第4番の予定だったのをこの曲に変更したのであるが、この曲に変更した時点で松本市音楽文化ホールのような中規模ホールに変えるのが本来の筋だと思う(チケット払い戻しが生じ現実的な方法でないことは承知である)。
私は思う。Beethoven はこのような形態の演奏を想定したのだろうか?2000名規模の巨大ホールで演奏することを想定したのだろうか?15-11-10-8-6もの巨大な弦楽編成で演奏することを想定したのだろうか?小澤征爾がやっていることは、19世紀的ロマンチズムに過剰に傾倒し、Beethoven本来の生気に満ちた音楽を軽視しているのではないかと。これは21世紀の現代に披露する演奏会であるのだろうかと。
どう考えても、チョン=ミョンフンが東京フィルハーモニー管弦楽団を率いて軽井沢大賀ホールで演奏した内容に、遠く及ばない演奏である。「一流の指揮者」「一流の奏者」、日本の最も優秀な奏者を揃えてこの演奏はないだろう。まあ、そこが音楽の難しさだと思うが。
私は小澤征爾が好きで聴きに行ったのではなく、たまたま松本で演奏するので実況見分しに行く気分で、この演奏会に臨席している。征爾君が好きでスタンディング-オベーションをする人たちのことを否定するつもりはない。しかし、私にはそのような気持ちにはなれなかった。演奏終了後に、私はすぐにホワイエに退却した。