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2015年5月4日月曜日

Tokyo Philharmonic Orchestra, Cheong Myeonghun, Karuizawa Ohga Hall the 10th Anniversary Concert (4th May 2015), review 東京フィルハーモニー交響楽団 軽井沢大賀ホール開館10周年記念演奏会 評

2015年5月4日 月曜日
Monday 4th May 2015
軽井沢大賀ホール (長野県北佐久郡軽井沢町)
Karuizawa Ohga Hall (Karuizawa, Nagano prefecture, Japan)

曲目:
Wolfgang Amadeus Mozart: Concerto per pianoforte e orchestra n.23 K488
(休憩)
Ludwig van Beethoven: Sinfonia n.7 op.92

pianoforte: 鄭明勳(Cheong Myeonghun/チョン=ミョンフン)
orchestra: Tokyo Philharmonic Orchestra(東京フィルハーモニー交響楽団)
direttore: 鄭明勳(Cheong Myeonghun/チョン=ミョンフン)

東京フィルハーモニー交響楽団は、2015年5月4日に軽井沢大賀ホールで、軽井沢大賀ホール開館10周年記念演奏会を開催した。指揮・ピアノは、鄭明勳(チョン=ミョンフン)である。このプログラムでの演奏会は、「ラ-フォル-ジュルネ金沢」にも持ち込まれ、2015年5月5日に石川県立音楽堂でも演奏される。

着席位置は一階正面後方中央、チケットは完売している。観客の鑑賞態度は、概ね良好であった。

冒頭からアンコールがあり、モーツァルトの「キラキラ星変奏曲」をミョンフンのピアノソロであった。

モーツァルトのピアノ協奏曲23番では、ピアノを上手側後方に斜めに向け、ピアノの蓋は取らずに通常のまま開いた形態である。その周りに半円状に、第一ヴァイオリン→第二ヴァイオリン→ヴァイオリン-チェロ→ヴィオラ→管楽器と囲んでいる。コントラバスは、下手側後方に位置する。

今日はピアノ・管弦楽とも端正に響き、生々しさを感じさせず、綺麗に響いている。デッドな響きの感覚がしないのは、不思議だ。モーツァルトの曲想を活かし、古典派ならではの興奮度を意図した演奏ではあるが、第一楽章で演奏し直しのアクシデントがあった。原因は不明である。その箇所は、長い文脈を経て最高音に達する途中の白眉の箇所であり、ぶつ切り状態となってしまったのは残念である。管楽は、やや大管弦楽のノリっぽい。第三楽章後半部はパッションが込められ、素晴らしい出来である。

ソリストアンコールがここで二曲あり、シューマンの「アラベスク」とBeethoven の「エリーゼのために」である。「エリーゼのために」は大賀緑さんへのラブレターとして捧げられたが、今日のピアノ-ソロの中では一番いい出来である。

Beethovenの第7交響曲の管弦楽配置は、舞台下手側から、第一ヴァイオリン→第二ヴァイオリン→ヴァイオリン-チェロ→ヴィオラのモダン配置で、コントラバスは最上手側を占める。木管・金管パートは後方、ティンパニは後方上手側にズラした位置につく。

第二〜第四楽章まで、私の好みそのまま!きっちり計算され尽くされて、興奮に導かれた感じである。中程度に効かせたテンポの変動の巧みさ、長いフェルマータ、金管のソロの強調などが特徴となるか。緊張感を失わない第二楽章、第三楽章ではA-B-AのAの部分を速く快活にし、Bの部分をかなり遅くしじっくり聴かせる対比が面白い。弦管打きちっと噛み合い、全体的な構成もしっかりしている。終了間近の追い込みの箇所も、見事に実現した。

今日の東フィルは、本当に響きが綺麗である。軽井沢大賀ホールを一番美しく響かせる演奏だ。明日5月5日に、金沢市にある石川県立音楽堂でもBeethovenの7番が演奏される。期待して欲しい!

2015年4月29日水曜日

Tokyo Philharmonic Orchestra, Andrea Battistoni, Karuizawa Ohga Hall the 10th Anniversary Concert (29th April 2015), review 東京フィルハーモニー交響楽団 軽井沢大賀ホール開館10周年記念演奏会 評

2015年4月29日 水曜日
Wednesday 29th April 2015
軽井沢大賀ホール (長野県北佐久郡軽井沢町)
Karuizawa Ohga Hall (Karuizawa, Nagano prefecture, Japan)

曲目:
Georges Bizet: L'Arlésienne, Suite n.1 e n.2(アルルの女、第一・第二組曲)
(休憩)
Пётр Ильич Чайковский / Pyotr Ilyich Tchaikovsky: Sinfonia n.5 op.64

orchestra: Tokyo Philharmonic Orchestra(東京フィルハーモニー交響楽団)
direttore: Andrea Battistoni (アンドレア=バッティストーニ)

東京フィルハーモニー交響楽団は、2015年4月29日に軽井沢大賀ホールで、軽井沢大賀ホール開館10周年記念演奏会を開催した。指揮は、この四月に首席客演指揮者に就任したばかりのアンドレア=バッティストーニであり、就任後初の演奏会となる。このプログラムでの演奏会は、この軽井沢大賀ホールに於ける演奏会のみであり、東京を含め他の演奏会はない。

管弦楽配置は、舞台下手側から、第一ヴァイオリン→第二ヴァイオリン→ヴァイオリン-チェロ→ヴィオラのモダン配置で、コントラバスは最上手側を占める。木管パート・ホルン以外の金管パートは後方中央、ホルン・ハープ・パーカッションは後方下手側の位置につく。

着席位置は一階正面後方中央、ほぼ満席である。観客の鑑賞態度は、概ね良好であった。

前半の「アルルの女」組曲について、第一組曲の出来は良いとは言えない。第一楽章から響きの一体感が十分ではない。個々の楽器の演奏は良く響いていても、管弦楽全体としての響きがバラバラで、どの楽器を際立たせたいのか、その意図が不明だった。また、軽井沢大賀ホールのデッドな響きに苦しめられていた。弦楽が強く弾けば生々しい響きになるし、弱く弾くと他の楽器にかき消されてしまい、ホールの響きを味方につける事が出来ない。大賀典雄は、松本市音楽文化ホールのような豊かな残響を嫌っていたのだと思う。直撃音がきちんと来ることは想定しているが、柔らかく艶のある響きには決してならない。

しかしながら、第二組曲では管弦楽全体としての響きが統一性を持ち始めた。第四楽章は圧巻の出来である。

後半はチャイコフスキーの交響曲第五番だ。冒頭部から全てが噛み合い、完成度の高い演奏を予感させる。木管のソロも美しく響き、これを支える他楽器の支援も考えられている。バッティストーニのテンポの変動は、実はさりげないけど、その加減が絶妙だ。全般的に速めで躍動感に満ちているので、テンポの変動をやり過ぎる必要がないのだろう。大胆なテンポの変動は、曲の終了部のみである。なので、決してやり過ぎにはならない。管弦楽がついていくのは大変だろうが、見事にバッティストーニの意図を反映させていく。

私がゾクゾクしたのは、第四楽章冒頭の、高音弦から低音弦への受け渡しの箇所である。繊細に攻めるべきところは繊細に攻めている。第四楽章で弦管打がこれほどまで噛み合った演奏はなかなか聴けない。スリル感・ワイルド感溢れる響きだが、決して崩壊せず緊張感を保っている。ソリスティックな演奏箇所の見事さや、金管楽器の威力に頼らない演奏でもあるが、やはり弦楽がしっかりしているからであろう。弦楽が吠えることができるからこそ、木管・金管も活きてくるのだと思う。

アンコールはチャイコフスキーの弦楽セレナーデから第二楽章と、プログラムにもある「アルルの女」第二組曲第四楽章である。弦楽セレナーデでは弦楽の繊細さをアピールし、ファランドールでは弦管打全体での躍動感ある響きで華やかに終了する。

軽井沢大賀ホールはデッドな響きで艶はなく、ナマナマしく響き、私にとって決して好きな響きのホールではないが、「アルルの女」第一組曲を除いては、小容積の中規模ホールならではの密度ある響きを活かした演奏会であった。

2014年3月30日日曜日

「メキシコ音楽の祭典」 管弦楽演奏会 評

2014年3月30日 日曜日
東京オペラシティ タケミツメモリアル (東京)

曲目:
シルベストレ=レブエルタス(Silvestre Revueltas Sánchez) 「センセマヤ」(ヘビ退治)
マルエル=マリア=ポンセ(Manuel María Ponce Cuéllar) ヴァイオリン協奏曲
(休憩)
カルロス=チャヴェス(Carlos Antonio de Padua Chávez y Ramírez) ピアノ協奏曲 (日本初演)
シルベストレ=レブエルタス(Silvestre Revueltas Sánchez) 「マヤ族の夜」

ヴァイオリン:アドリアン=ユストゥス (Adrían Justus)
ピアノ:ゴンサロ=グティエレス (Gonzalo Gutiérrez)
管弦楽:東京フィルハーモニー交響楽団(TPO)
指揮:ホセ=アレアン (José Areán)

公益財団法人東京オペラシティ財団は「メキシコ音楽の祭典」を企画し、2014年3月28日に東京オペラシティ-リサイタルホールで「室内楽の夕べ」(室内楽演奏会)、3月30日に大管弦楽演奏会を挙行した。この評は、3月30日に開催された大管弦楽演奏会に対するものである。

管弦楽こそ東京フィルハーモニー交響楽団(TPO)であり、日本で「現地調達」したものであるが、ソリスト・指揮者ともメヒコ(メキシコ)市生まれ、曲目もメヒコ出身の作曲家によるものである。

管弦楽配置は、モダン配置であることの記憶ははっきりしているが上手側のヴィオラ・ヴァイオリン-チェロの順番については記憶していない。コントラバスはチェロの後ろにつく。パーカッションは基本的に舞台下手側後方に位置している。

着席位置は一階正面中央僅かに上手側である。観客の入りは六割程であろうか、一階後方はガラガラの状況であり、わざわざメヒコ音楽を聴きに行く変わり者は少ない。当日の同じ時刻に、東京交響楽団演奏会がミューザ川崎にてあり、指揮者ユベール=スダーンの最後の指揮ということもあり、東京の大管弦楽イヴェントが重なったこともあるだろう。私がこの演奏会を選んだ動機は、カスティージャ(スペイン)語圏の音楽に対する好奇心の他、正直「怖いもの見たさ」的な好奇心も大なるものがあり、聴きに行くことをかなりあっさりと決断した事を覚えている。演奏会場が、聴覚的にも視覚的にも東京で最も素晴らしいホールであるタケミツメモリアルでもあるし・・・。観客の鑑賞態度はかなり良く、タケミツメモリアルの余韻が消えるまで待って拍手を送っていた。

演奏会が始まる前に、指揮台に楽譜らしきものを持ってくる、如何にもメヒコ美女らしき人物が登場し、ホセ=アレアンはずいぶんとお美しいアシスタントを確保しているものだなあと感心していたら、名前だけどこかで聞いたことがある政井マヤである。楽譜ではなくスピーチ原稿であった。どうもこの演奏会は、支倉常長遣欧使節団が現在のメヒコに立ち寄って400年であることを記念した「日本メヒコ交流年」行事の一つでもあり、政井マヤはメヒコ国チワワ州生まれの縁もあって親善大使としてご挨拶とのことだ。早く曲を聴きたくてうずうずしている中、ギリギリセーフの長さでスピーチを終える。

ソリストの様子について述べる。

ポンセ作曲ヴァイオリン協奏曲のソリストであるアドリアン=ユストゥスは線が細く、タケミツメモリアルの響きを味方につけられていない。管弦楽はかなり手加減していたが、眠くなる演奏となる。

チャベス作曲のピアノ協奏曲のソリストであるゴンサロ=グティエレスは、この1942年に初演された現代作品で、35分の長さではあるが音が多く、ソリストの負担が大きい曲を、完璧な技術で弾ききり、パッションも込められ、日本初演を鮮やかに飾った。

管弦楽について述べる。

TPOは第一曲目冒頭こそ硬さが目立ったが、出来不出来の激しいTPOの演奏を踏まえると、少なくとも年に三回レベルの素晴らしい演奏を披露した。おそらく、2014年ベスト演奏となる名演である。タケミツメモリアルの響きの特性を活かしきり、弦楽管楽打楽器全てがその役割を十二分に果たし、楽団員の能力を100%引き出した美しい響きの上に、メヒコの管弦楽団を想像させるパッションを相乗させた演奏であり、ホセ=アレアンの指揮、TPOの演奏、タケミツメモリアルの音響、それらが三位一体となって全てが巧く噛み合った演奏だ。最後の「マヤ族の夜」最終楽章とでもいうべき「魔術の夜」では、パーカッションセクションが卓越した完璧な演技で観客の興奮を最高潮に持っていき、プログラムを華麗に終える。

アンコールは前半終了時に、アドリアン=ユストゥスのソリストアンコールがあり、何故かパガニーニの「24のカプリース」より第21番、演奏会終了時のアンコールが1950年に生まれたメヒコの作曲家、アルトゥーロ=マルケス(Arturo Márquez Navarro)の「ダンソン第2番」である。

演奏会終了は、開始時刻から2時間50分を経過していた。30分を超える協奏曲が2曲あるなど、ボリュームたっぷりでありながら、極めて水準の高い内容でまとめ、しかも日本ではあまり知られていないメヒコの音楽を披露した意義深い演奏会であり、このような演奏会を実現させた日本・メヒコ両国の関係者、公益財団法人東京オペラシティ文化財団を高く評価したい。

2013年10月26日土曜日

新国立劇場 歌劇「フィガロの結婚」 評

2013年10月26日 土曜日
新国立劇場 (東京)

演目:
ヴォルフガング=アマデウス=モーツァルト 歌劇「フィガロの結婚」 K.492

フィガロ:マルコ=ヴィンコ
スザンナ:九嶋香奈枝
アルマヴィーヴァ伯爵:レヴァンテ=モルナール
同伯爵夫人:マンディ=フレドリヒ
ケルビーノ:レナ=ベルキナ
マルチェリーナ:竹本節子
バルトロ:松位浩
バジリオ:大野光彦
ドン=クルツィオ:糸賀修平
アントニオ:志村文彦
バルバリーナ:吉原圭子

合唱:新国立劇場合唱団

演出:アンドレアス=ホモキ
美術:フランク=フィリップ=シュレスマン
衣装:メヒトヒルト=ザイペル
照明:フランク=エヴァン

合唱指揮:冨平恭平
チェンバロ:石野真穂
管弦楽:東京フィルハーモニー交響楽団(TPO)
指揮:ウルフ=シルマー

新国立劇場は、10月20日から29日までの日程で、モーツァルト作歌劇「フィガロの結婚」を、計4公演に渡って繰り広げられる。この評は、第三回目10月26日の公演に対するものである。

着席位置は一階階中央後方、ギリギリ雨宿り席にならない場所である。一階席の最後方席に空席が目立った事を考えると、8割程の入りか。観客の鑑賞態度は概ね良好であった。

休憩は、第二幕と第三幕の間のみの一回のみである。

舞台壁は、全般を通して二回しか動きがなく、これ以外は固定されている。上から見ると台形の形となっており、客席側が広く舞台後方が狭い。上下方向でも同じである。大抵の場合、役者は後方の壁が開く事によって舞台から出入りする他、舞台前方に梯子があり奈落に繋がり、ケルビーノが二階から飛び降りるシーン等で使用する。

第二幕の終わりで壁がずれ、床は左を上に傾き、後半でさらに壁がずれる。

舞台の上には荷物を入れる段ボール箱が数個以上配置される。この段ボールの中に人が隠れたりする。

舞台はシンプルでモダンな形態であるが、役者が着る衣装はモーツァルト時代のものを思わせるもので、伝統とモダンとの折衷形態というところか。

演劇面では、役者は極めて視覚面で似合っている。伯爵夫人を演じるマンディ=フレドリヒは如何にも品格があり上品な雰囲気であるし、スザンナを演じる九嶋香奈枝はスラッとした体格で結婚したくなる雰囲気を醸し出す活発な娘であり、ケルビーノを演じるレナ=ベルキナもまたスラッとして少年のような雰囲気であり、出番が少ないバルバリーナを演じる吉原圭子に至っては小柄かつ華奢な体格で、如何にも小娘という形だ。良くもこれだけ役者を揃えたものである。

ソリストの出来について述べる。

主役のフィガロ役のマルコ=ヴィンコは最悪の出来で、特に第一幕・第二幕では声量が全く足りない状態であり、音楽として成立していない状態である。今すぐ成田から国外追放して、二度と日本に来るなと言ってやりたくなる程の酷さだ。後半はいくらか持ち直したが、私はこの歌い手に対してだけは拍手をせず、掌を役者に見せる事によって抗議の意志を示した。ブーイングが出なかったのが不思議なくらいである。

これに対して、伯爵夫人役のマンディ=フレドリヒは声量・安定感を伴ったニュアンスが良く、一番の出来である。声量がありながらパワーではなく上品さすら感じさせたが、これは声の安定感が齎しているのであろうか。このレベルの歌唱でありながら、全力を出し切っている雰囲気は全くなく、十分な余裕を持っていると感じさせるところが恐ろしい。

第三幕のアリア、管弦楽との(敢えて言えば)二重唱が決まっている。マンディとウルフとの完璧な二重唱と言った形で、実力ある室内管弦楽団の持つ精緻さをも実現させている。

スザンナ役の九嶋香奈枝は、前半こそもう少しの声量が欲しかったところもあるが、小柄な体格でありながら重要な役を務める努力が感じられるところがある。後半調子を上げたように思えるのは気のせいであろうか、マンディとの二重唱をしっかりお相手しており、マンディとの枢軸を見事に形成している。

新国立劇場オペラ研修所の第4期生である彼女であるが、日本からも重要な役を担える歌い手を輩出し始めている事を実感する。

ケルビーノ役のレナ=ベルキナは、この奇妙な役柄を見事に演じ切っている。声量は文句なく、特に前半はマンディに匹敵する出来である。

その他、伯爵役のレヴァンテ=モルナールは、全てが全て理想的ではなかったが、合格点か。マルチェリーナ役の竹本節子の歌唱も、安定感ある声量で盛り上げている。バジリオ役の大野光彦も良い出来だ。

管弦楽の東京フィルハーモニー交響楽団は、全てが全て技巧面で完璧と言うわけではないが、ウルフ=シルマーの意図を実現している。序曲での響きが弱く感じたのは、一階席だったからなのだろうか、しかしながら本編に入るとその違和感は消え去る。ウルフ=シルマーの指揮は、音のうねりや新鮮なアクセントを効かせており、その構成力を堪能した。

2013年10月6日日曜日

新国立劇場 歌劇「リゴレット」 評

2013年10月6日 日曜日
新国立劇場 (東京)

演目:
ジュゼッペ=ヴェルディ 歌劇「リゴレット」

リゴレット:マルコ=ヴラトーニャ
ジルダ:エレナ=ゴルシュノヴァ
マントヴァ公爵:キム=ウーキュン
スパラフチーレ:妻屋秀和
マッダレーナ:山下牧子
モンテローネ伯爵:谷友博
ジョヴァンナ:与田朝子
マルッロ:成田博之
ボルサ:加茂下稔
チュプラーノ伯爵:小林由樹
チュプラーノ伯爵夫人:佐藤路子
小姓:前川依子
牢番:三戸大久

合唱:新国立劇場合唱団

演出:アンドレアス=クリーゲンブルク
美術:ハラルド=トアー
衣装:ターニャ=ホフマン
照明:シュテファン=ボリガー
振付:ツェンタ=ヘルテル
合唱指揮:三澤洋史
管弦楽:東京フィルハーモニー交響楽団(TPO)
指揮:ピエトロ=リッツォ

新国立劇場は、10月3日から22日までの日程で、ヴェルディ作歌劇「リゴレット」を、計7公演に渡って繰り広げられる。この評は、第二回目10月6日の公演に対するものである。

着席位置は二階中央前方、9割程の入りである。観客の鑑賞態度は概ね良好であったが、第一幕第二場「慕わしき御名」にて二階正面後方席でビニールの音を二分以上にも渡って鳴らす演奏妨害があった。

休憩は、第一幕と第二幕の間のみの一回のみである。

舞台は、第一幕・第二幕では、現代風のホテルの部屋やロビー、廊下、階段を円柱三層構造にした巨大な回転体があり、これをメリーゴーランドのように、場面に応じて様々な速度で動かしたり止めたり回転方向を逆転させたりする。舞台脇にはホテルの中にあるようなバルを設置している。この舞台は二幕に渡って変化はなく、そのままホテルやリゴレット邸の舞台としている。

第三幕では、一転郊外にあるスラム街のような背景である。アルコールの宣伝広告が三つあり、Twitter上でのWilm Hosenfeld さん(‏@wilmhosenfeld)の解説(2013年10月6日投稿)によると、「中央は、Spumante Ducale(公爵スパークリング)、右は、Birra Mantova(マントヴァ・ビール)。ビールには、dal 1813とヴェルディの生年が。左のワインには、『頭痛の日』という能書きがある」。

舞台の出来は秀逸で、高級ホテルのような第一幕・第二幕の場面と、怪しげな第三幕のスラム街の対比が、悲劇的結末へ至る見事なインフラとなっている。現代風ではあるが演目との違和感は感じない。

衣装も現代風で、マントヴァ公爵やその手下は、如何にもマフィア風である。舞台と一致している衣装であり、これまた演目との違和感は感じない。

演劇面では、冒頭から女性の扱いが乱暴である。「あれかこれか」は、ムフフな気分ではとても聴けない。「あの女性を抱いては次の女性に心変わり♪」と言った雰囲気ではなく、とにもかくにも「女を捨て、女を捨て」と言った形で最初から最後まで一貫している。捨てられ疲れ切った下着姿の娼婦の姿をしつこいほどに背景に存在させる。男の残酷さ、男性優位社会の不条理を強く印象付ける演出ではある。あまりに強い演出であるが故に、女性の観客の中には、直視できなかった人たちもいたかもしれない。

ソリストの出来について述べる。

リゴレット役のマルコ=ヴラトーニャは、第一幕では九割程の調子であるが主役としての役割を果たしている。第二幕になり管弦楽の強奏に乗ることが出来ず失速したが、終始主役として求められる存在感あるニュアンスで何とか持ちこたえ、調子が悪いなりに頑張ったか。

ジルダ役のエレナ=ゴルシュノヴァは、主要な役としてはギリギリ合格点と言った程度か。

マントヴァ公爵のキム=ウーキュンが抜群の出来だ。あれなら、女性たちも口説かれるのに納得する。「あれかこれか」、一回目の「女心の歌」については、荒っぽさがある。しかし、第一幕第二場でのジルダとの二重唱ではパワー・コントロールとも完璧である。口説く場面になるとテンションが上がるのか、一旦誘惑する女性が側につくと、全てが完璧となり圧巻の出来だ。それにしても徹底的に悪役を演じきる。そういう奴だから、マントヴァ公爵が生き残ったのかと、この歌劇の不条理に納得させられる役割を十二分に果たしている。

その他、マッダレーナ役の山下牧子は声が通っていて良い出来だ。モンテローネ伯爵役の谷友博は、呪いをかける部分での迫力が全くなく、遺憾である。登場する場面が短い役であるが、その呪いは第一幕第一場で重要な場面の一つであり、力のある歌い手である必要があった。

管弦楽の東京フィルハーモニー交響楽団は、演奏会毎の出来不出来が激しい楽団であるが、今回の公演での管弦楽に違和感を感じられるところはなく、したがって良い出来であったと思われる。

2013年5月3日金曜日

東京フィルハーモニー交響楽団 軽井沢公演 演奏会評

2013年5月3日 金曜日
軽井沢大賀ホール (長野県北佐久郡軽井沢町)

曲目:
フレデリック=ショパン ピアノ協奏曲第1番 op.11
(休憩)
ヨハネス=ブラームス 交響曲第4番 op.98

ピアノ:上原彩子
管弦楽:東京フィルハーモニー交響楽団(TPO)
指揮:ダン=エッティンガー(TPO常任指揮者)

軽井沢大賀ホール(芸術監督:ダニエル=ハーディング)では、4月27日から5月6日までに掛けて「軽井沢大賀ホール2013 春の音楽祭」としてクラシック音楽を中心に7公演を企画しており、その4番目の演奏会として開催されたものである。

上原彩子・ダン=エッティンガーとも初めて聴くソリスト・指揮者である。TPOを聴くのは、ちょうど一年前の5月3日以来、通算三回目となる。

今日のTPOの配置は、舞台下手側より第一ヴァイオリン→ヴァイオリン-チェロ→ヴィオラ→第二ヴァイオリンの順で、コントラバスはチェロの後ろに位置する。

上原彩子のピアノはYAMAHA社製のもので、クラシック音楽で私が体験するのは初めてとなる。

着席場所は、一階後方中央であり、生前大賀典雄が座っていた場所同然と考えていただいて差し支えない。

第一曲目のショパン、ピアノ協奏曲は、上原彩子が予想外に素晴らしい演奏を見せた。彼女が敢えて選んだYAMAHA社製のピアノは、スタインウェイとは違い癖があり、自由自在に表現できるピアノではない。どこかフォルテピアノ(モダンピアノに対する意味で)の音色に似ているかのような軽やかな音色で、自己残響はあまりなく、弦をハンマーで叩きつける音が強調される。最大限の力で鍵盤を叩きつけても、スタインウェイのような劇的な音は出てこない。

しかしながら上原彩子は、そのようなYAMAHA社製ピアノの特徴を知り尽くし、その音色を活かすような演奏をしている。フレデリック=ショパンが生きていた時代のピアノはこのような音だったのかと、想像したくなるような響きである。

演奏自体は、YAMAHA社製ピアノのスタッカートが強調されるような古典的音色を活かした、繊細かつ女性的な要素を持つ演奏だ。要所でテンポを揺るがせたり、小さな可愛いアクセントを付けたりする。ピアノの性能に制約がある中での構成力も素晴らしい。特に1・3楽章は優れた演奏だ。

一方の管弦楽は方向性が明確でない音楽づくりで、ピアノに対する管弦楽の音量は過剰であり、上原彩子のピアノと似合わない演奏だ。繊細な性格の妻と、無神経かつ力任せな夫との組み合わせのようで、これはうまく行きそうにない。今日の上原彩子の演奏に対して管弦楽は、ソリストをサポートするのが適切な方向性であるが、まるでスタインウェイのピアノに真っ向対立するかのような、勘違いをしている。エッティンガーの指示によるものなのか?上原彩子とのリハーサルなり打ち合わせが不足しているのか?一年ぶりの軽井沢大賀ホールの響きに慣れていないのか?これとは別に、ホルンの音が大雑把で無神経であった事は指摘せざるを得ない。

休憩後のブラームス交響曲第4番は、下品な演奏であるが、あのエッティンガーの不潔な指揮ぶりも影響しているのか。エッティンガーの指揮は、分かりやすいと言えば分かりやすいが、明晰な指揮と言うよりは露骨な指揮で、美しさが感じられない点で不潔である。刹那刹那で心地よく感じられるところはあるが、全体の方向性と言う点で粗雑で、特に第一・第二楽章の乱雑さが目立つ。弦楽がメインに出ているといいけど、金管ががなり立てていて、全体的なまとまりが感じられない。

第三・第四楽章は、何故かバランスが少しはマシな状態となる。ここまでの演奏で、私がエッティンガーに洗脳された要素があるのかも知れない。この辺りから管弦楽も取りつかれ始めたようで、反知性的下品さを伴いながらもフルオーケストラならでは大迫力で、力づくで観客を圧倒していく。是非はともかく、これはこれで大したものだ。

曲が終わったあと、金管楽器奏者には拍手をせずに掌を見せるブーイングを行う。私以外の観客は盛り上がっていたが、複雑な気分だ。あのエッティンガーのような容貌の男に誘われて、ポルシェの乱雑な運転についうっとりしてしまった、お馬鹿な若い女の子になってしまった気分である。

それにしても、上原彩子とエッティンガーの組み合わせを考えたのは誰だよ。この似合わない組み合わせがどのような経緯で決められたのかは謎である。どう考えても、準=メルクルや山田和樹により、管弦楽を精密に指揮する指揮者でないといけない演奏会だ。

アンコールは、ブラームスの「マジャール舞曲」第1番、緩急をつけた演奏は巧みであるが、やはり指揮が不潔である。TPOの演奏会に行く人たちって、そういった下品な音楽が大好きなのかなあと、複雑な気持ちにさせられた演奏会であった。