2013年10月26日 土曜日
新国立劇場 (東京)
演目:
ヴォルフガング=アマデウス=モーツァルト 歌劇「フィガロの結婚」 K.492
フィガロ:マルコ=ヴィンコ
スザンナ:九嶋香奈枝
アルマヴィーヴァ伯爵:レヴァンテ=モルナール
同伯爵夫人:マンディ=フレドリヒ
ケルビーノ:レナ=ベルキナ
マルチェリーナ:竹本節子
バルトロ:松位浩
バジリオ:大野光彦
ドン=クルツィオ:糸賀修平
アントニオ:志村文彦
バルバリーナ:吉原圭子
合唱:新国立劇場合唱団
演出:アンドレアス=ホモキ
美術:フランク=フィリップ=シュレスマン
衣装:メヒトヒルト=ザイペル
照明:フランク=エヴァン
合唱指揮:冨平恭平
チェンバロ:石野真穂
管弦楽:東京フィルハーモニー交響楽団(TPO)
指揮:ウルフ=シルマー
新国立劇場は、10月20日から29日までの日程で、モーツァルト作歌劇「フィガロの結婚」を、計4公演に渡って繰り広げられる。この評は、第三回目10月26日の公演に対するものである。
着席位置は一階階中央後方、ギリギリ雨宿り席にならない場所である。一階席の最後方席に空席が目立った事を考えると、8割程の入りか。観客の鑑賞態度は概ね良好であった。
休憩は、第二幕と第三幕の間のみの一回のみである。
舞台壁は、全般を通して二回しか動きがなく、これ以外は固定されている。上から見ると台形の形となっており、客席側が広く舞台後方が狭い。上下方向でも同じである。大抵の場合、役者は後方の壁が開く事によって舞台から出入りする他、舞台前方に梯子があり奈落に繋がり、ケルビーノが二階から飛び降りるシーン等で使用する。
第二幕の終わりで壁がずれ、床は左を上に傾き、後半でさらに壁がずれる。
舞台の上には荷物を入れる段ボール箱が数個以上配置される。この段ボールの中に人が隠れたりする。
舞台はシンプルでモダンな形態であるが、役者が着る衣装はモーツァルト時代のものを思わせるもので、伝統とモダンとの折衷形態というところか。
演劇面では、役者は極めて視覚面で似合っている。伯爵夫人を演じるマンディ=フレドリヒは如何にも品格があり上品な雰囲気であるし、スザンナを演じる九嶋香奈枝はスラッとした体格で結婚したくなる雰囲気を醸し出す活発な娘であり、ケルビーノを演じるレナ=ベルキナもまたスラッとして少年のような雰囲気であり、出番が少ないバルバリーナを演じる吉原圭子に至っては小柄かつ華奢な体格で、如何にも小娘という形だ。良くもこれだけ役者を揃えたものである。
ソリストの出来について述べる。
主役のフィガロ役のマルコ=ヴィンコは最悪の出来で、特に第一幕・第二幕では声量が全く足りない状態であり、音楽として成立していない状態である。今すぐ成田から国外追放して、二度と日本に来るなと言ってやりたくなる程の酷さだ。後半はいくらか持ち直したが、私はこの歌い手に対してだけは拍手をせず、掌を役者に見せる事によって抗議の意志を示した。ブーイングが出なかったのが不思議なくらいである。
これに対して、伯爵夫人役のマンディ=フレドリヒは声量・安定感を伴ったニュアンスが良く、一番の出来である。声量がありながらパワーではなく上品さすら感じさせたが、これは声の安定感が齎しているのであろうか。このレベルの歌唱でありながら、全力を出し切っている雰囲気は全くなく、十分な余裕を持っていると感じさせるところが恐ろしい。
第三幕のアリア、管弦楽との(敢えて言えば)二重唱が決まっている。マンディとウルフとの完璧な二重唱と言った形で、実力ある室内管弦楽団の持つ精緻さをも実現させている。
スザンナ役の九嶋香奈枝は、前半こそもう少しの声量が欲しかったところもあるが、小柄な体格でありながら重要な役を務める努力が感じられるところがある。後半調子を上げたように思えるのは気のせいであろうか、マンディとの二重唱をしっかりお相手しており、マンディとの枢軸を見事に形成している。
新国立劇場オペラ研修所の第4期生である彼女であるが、日本からも重要な役を担える歌い手を輩出し始めている事を実感する。
ケルビーノ役のレナ=ベルキナは、この奇妙な役柄を見事に演じ切っている。声量は文句なく、特に前半はマンディに匹敵する出来である。
その他、伯爵役のレヴァンテ=モルナールは、全てが全て理想的ではなかったが、合格点か。マルチェリーナ役の竹本節子の歌唱も、安定感ある声量で盛り上げている。バジリオ役の大野光彦も良い出来だ。
管弦楽の東京フィルハーモニー交響楽団は、全てが全て技巧面で完璧と言うわけではないが、ウルフ=シルマーの意図を実現している。序曲での響きが弱く感じたのは、一階席だったからなのだろうか、しかしながら本編に入るとその違和感は消え去る。ウルフ=シルマーの指揮は、音のうねりや新鮮なアクセントを効かせており、その構成力を堪能した。