2013年5月26日日曜日

リーズ=ドゥ-ラ-サル ピアノ-リサイタル 評

2013年5月26日 日曜日
彩の国さいたま芸術劇場 音楽ホール (埼玉県与野市)

曲目:
モーリス=ラヴェル 「鏡」
クロード=ドビュッシー 「前奏曲集」より 「音と香りは夕べの大気の中に漂う」「妖精たちはあでやかな舞姫」「デルフィの舞姫」「パックの踊り」「亜麻色の髪の乙女」「西風の見たもの」
(休憩)
セルゲイ=プロコフィエフ ピアノ-ソナタ第3番「古い手帳から」op.28
セルゲイ=プロコフィエフ 「バレエ『ロメオとジュリエット』からの10の小品」 op.75 より 「情景」「メヌエット」「少女ジュリエット」「モンタギュー家とキャピュレット家」「マキューシオ」「別れの前のロメオとジュリエット」
セルゲイ=プロコフィエフ トッカータ op.11

ピアノ:リーズ=ドゥ-ラ-サル

前半のラヴェル・ドビュッシーは、静から動へ移り変わる展開である。静を強調する場面では丁寧に弾いていくが、綺麗な響きであるが故に、子守唄のような作用をしてしまう所もある。フランスものの難しさを実感させられる。動の場面では一転表現の幅が広がっていく。最高音は非常に強いが、この強さは必然だ。スタッカートがとても良く活きている。どこに最高音を置き、この最高音に対してどのように場面を展開していくか、その構築力が見事である。

後半のプロコフィエフは実に見事で、彼女はフランス人であるが、お国ものよりもロシアものの方が本性を顕わにする。前半のラヴェル・ドビュッシーの動の場面で見せた構築力がさらに発揮される。

「ロメオとジュリエット」は、最高音を耳触りになる一歩手前で留めながらも、劇的な表現を行う事に成功している。弱奏部も、いつの間にか引き込まれているような叙情性を表現し、ラ-サールの実力がよく発揮される演奏だ。

最後の「トッカータ」も、躍動感が感じられ、プロコフィエフとラ-サールとの相性の良さを実感させられる。

2013年5月19日日曜日

バルバラ=フリットリ ソプラノ-リサイタル 評 (東京公演)

2013年5月19日 日曜日
東京オペラシティ タケミツメモリアル (東京)

曲目:
ジュゼッペ=ヴェルディ 「哀れな男」「誘惑」「亡命者」
ジュゼッペ=ヴェルディ 歌劇「マクベス」より「魔女たちの踊り」(ピアノのみ)
ジュゼッペ=ヴェルディ 「墓に近寄らないでほしい」「ストルネッロ」「乾杯」
フランチェスコ=パオロ=トスティ 「アマランタの四つの歌」
(休憩)
リヒャルト=ヴァーグナー 「すべてはつかの間の幻」「眠れわが子」「かわいい人」「君を待つ」
リヒャルト=ヴァーグナー(リスト編曲) イゾルデの愛の死(ピアノのみ)
リヒャルト=ヴァーグナー 「ヴェーゼンドンク歌曲集」

ソプラノ:バルバラ=フリットリ
ピアノ:ムズィア=バクトゥリーゼ

着席位置は一階中央前方。客の入りは8~9割程である。

冒頭からフリットリの調子は悪く、声は完全にピアノに負けており、ホールに響き渡らない。

ピアノの音量は適切である。というより、ピアノがせっかく煽っているのに、フリットリはこれに乗れないのだ。これでは、歌にならないであろう。

前半部で唯一良かった出来は、トスティの「アマランタの四つの歌」二曲目「夜明けは光から暗闇を分かち」の後半部分のみである。

後半はいくらか調子を上げる。ヴァーグナーのヴェーゼンドルク歌曲集は、第三曲「温室にて」・第五曲「夢」が素晴らしい。弱音で攻める曲については良くなっているが、声量の面で問題があり、かつ音量をリニアにコントロール出来てはいない。劇的な表現ができない状態で、プログラム本編を終える。

なぜか、アンコールのみは完璧で、世界第一級の歌い手に期待する水準を満たしていた。声量面でも問題はないし、声量のコントロールが効き始め、ようやく本領を発揮した形である。時既に遅しといった形ではあるが。罪滅ぼしの意味があるのか、アンコールは三曲披露される。アンコールが最も素晴らしく、かつプログラム本編との落差があり過ぎ、不完全燃焼のリサイタルであった。

ピンカス=ズッカーマン ヴァイオリン-リサイタル 評

2013年5月19日 日曜日
紀尾井ホール (東京)

曲目:
ロベルト=シューマン 3つのロマンス op.94
セザール=フランク ヴァイオリン-ソナタ
(休憩)
ヨハネス=ブラームス ソナタ「自由だが孤独に」より 第三楽章スケルツォ WoO 2
ヨハネス=ブラームス ヴァイオリン-ソナタ第3番 op.108

ヴァイオリン:ピンカス=ズッカーマン
ピアノ:アンジェラ=チェン

この演奏会は、宮崎国際音楽祭の一環として、5月17日に宮崎県立芸術劇場演劇ホールにて開催されたプログラムと同一のものである。

着席位置は、ど真ん中より少し後方である。客の入りは八割くらいであろうか、同じ時刻で、新国立劇場で「ナブッコ」、東京オペラシティでベロフ+東京交響楽団によるフランスもののプログラム、これら初台での二つのプログラムを向こうに回した事を考えれば、ここまで埋まるのは大成果か。

全般的に、ヴァイオリンとピアノのバランスはよく取れていて、息もピッタリだ。前半のフランクはとても素晴らしい演奏である。叙情的であるだけでなく、第二楽章終了部の緊迫する場面も、パッションを露骨に出さず、ズッカーマンならではの味のある雰囲気を持つ演奏だ。

後半のブラームスも素晴らしい。小技に頼らない、堂々とした演奏だ。パッションを出す場面も、ブラームスを十二分に理解した、極めてよく考慮された発出である。

ズッカーマンの特徴を明確に説明できるようになれば、プロの音楽評論家になれるほどで、その特質を言い表すのは難しいところであるが、ちょっと挑戦してみるとするならば・・・。音量という点で言えば、紀尾井ホールを響かせるパワフルなものである。しかしながら、そういったパワフルさの先に、ズッカーマンならではの地味な個性が光ってくる。この個性というものは、ズッカーマン自身を前面に出すというものでもないし、もちろんズッカーマンの(実は技巧はあるのだが)超絶技巧を見せびらかす要素もない。作曲者の意向を酌んだものではあるが、単に作曲者の意図を実現させるというものではなく、その解釈の深さを感じさせるところにズッカーマンの特徴があると言えるのではないか。

「巨匠」という表現は、私にとってはマイナスイメージでしかなく、この4月6日の演奏会でフランス=ブリュッヘンの演奏から感じられるような、ただただゆっくりとした、生気のない老いた演奏しかできない演奏者と言うのが私の定義であるが、どうもズッカーマンは「最後の巨匠」と宣伝されているらしい。私が通常用いている定義からかけ離れた、まさしく職人芸を極めた偉大なる「匠」という意味で用いれば、まさしく「巨匠」そのものであり、その宣伝は決して間違っていない。

初夏の東京で、季節とは真逆の、秋の深まりを感じさせるブラームス、音の深さを感じる演奏である。

アンコールは、パラディス作のシシリエンヌであった。

2013年5月18日土曜日

ピンカス=ズッカーマン + 宮崎国際音楽祭管弦楽団 演奏会 評

2013年5月18日 土曜日
宮崎県立芸術劇場 (宮崎県宮崎市)

曲目:
ヨハネス=ブラームス セレナード第2番 op.16
ヨハネス=ブラームス ハイドンの主題による変奏曲 op.56a
(休憩)
ヴォルグガング=アマデウス=モーツァルト ヴァイオリン協奏曲第3番 K.216
ヴォルグガング=アマデウス=モーツァルト ロンド(ハフナーセレナード K.250より)

ヴァイオリン:ピンカス=ズッカーマン
管弦楽:宮崎国際音楽祭管弦楽団
指揮:ピンカス=ズッカーマン

第18回宮崎国際音楽祭は、2013年4月29日から5月18日までにわたり、宮崎県立芸術劇場を中心に、室内管弦楽・室内楽を中心に10以上の公演を開催し、無事終了した。この評は、最終公演、5月18日に開催された演奏会に対してのものである。

宮崎国際音楽祭に臨席するのも、ピンカス=ズッカーマンの演奏を聴くのも初めてである。着席位置は、一階ほぼ中央である。

一曲目の配置は、舞台下手側から第一ヴァイオリン→第二ヴァイオリン→ヴァイオリン-チェロ→ヴィオラの順であり、二曲目以降は第一ヴァイオリン→第二ヴァイオリン→ヴィオラ→チェロの順となる。

前半のブラームスは、弦楽ベースの上に綺麗に管楽セクションが乗っかる演奏である。冒頭から響きのバランスに良く配慮されているのがよく分かる。

二曲目の「ハイドンの主題による変奏曲」は編成が大きくなったのが影響したのか、若干弦楽の線が乱れたところはあるが、全般的に良い演奏である。曲が曲なだけに、ちょっとしんみりした気持ちになって、前半を終了する。

休憩後の一曲目、モーツァルトのヴァイオリン協奏曲3番K.216は、ズッカーマンがヴァイオリン-ソロと指揮を兼ねる指揮振りだ。冒頭、パッション溢れつつも縦の線がビシッと決まった管弦楽が、観客の心を見事に掴む。前半のブラームスから雰囲気がぐっと明るくなる。ズッカーマンのソロは名状し難い魅力がある。何とも説明はし難いのだが・・、ズッカーマンのヴァイオリンは管弦楽に負けず、朗々と響いていく。弱めな音であっても、どういう訳か響いてくる。ズッカーマンが持つヴァイオリンの癖のある音色を、極めて計算して響かせる演奏である。

最後はK.250「ハフナーセレナーデ」から、ロンド。だんだんパワーアップして来た今日の演奏であるが、モーツァルトの協奏曲の成果をぎゅっと凝縮させた演奏だ。確かな技巧はあるが、超絶技巧を前面に出した演奏ではなく、しかし絶妙な味があって、本当に幸せな気持ちになれる演奏会であった。

2013年5月12日日曜日

東京都交響楽団 福井公演 演奏会評

2013年5月12日 日曜日
福井県立音楽堂(ハーモニーホールふくい) (福井県福井市)

曲目:
カール=マリア=フォン-ヴェーバー 歌劇「オベロン」序曲
ピョートル=イリイッチ=チャイコフスキー ロココ風の主題による変奏曲 op.33
(休憩)
ピョートル=イリイッチ=チャイコフスキー 交響曲第5番 op.64

ヴァイオリン-チェロ:宮田大
管弦楽:東京都交響楽団(TMSO)
指揮:エリアフ=インバル

このプログラムは、5月13日にフェスティバルホール(大阪市)の公演と同一であるが、音響面では圧倒的に福井県立音楽堂が優れており、当然のことながら本公演を選択する。

着席位置は、前方中央である。

チャイコフスキー「ロココの主題による変奏曲」、奇を衒わない演奏であるが、宮田大のチェロは緩徐楽章的変奏部が特に素晴らしい。管弦楽とのバランスも保たれた、よく考えられた演奏だ。もっとも、宮田大が2012年1月の水戸室内管弦楽団演奏会で見せたような凄みは、残念ながらあまり感じられなかった。水戸芸術館のような中規模ホールでの演奏と、福井県立音楽堂のような大きなホールとではやはり違ってきてしまうのだろうか。やはりチェロ協奏曲は、中規模ホールで室内管弦楽団規模の演奏との共演でなければ、十分に楽しむことはできないのか。

休憩後のチャイコフスキー交響曲第5番については、チャイコフスキーの第五交響曲、弦楽が先頭を切っていた演奏だ。と書いたのはちょっと皮肉がこめられており、金管パートが精彩を欠いたのは事実である。確かに弦楽器は非常に良い出来である。特にヴァイオリンは怒涛のようにうねりを伴う強烈さがあり、お膳立てを十二分に整えている。後は、金管が弦楽と真っ向勝負し、弦楽の響きに負けない、強く華やかな音で観客を圧倒するところであるが、その部分が達成されているとは言い難い。金管が乗っていないのだ。特にトランペットの調子が良くない。楽章間の取り扱いは、全楽章間休みなしのアタッカである。前の楽章の残響が消えたら、次の楽章が即続く形態である。福井県立音楽堂の残響は、このような場面で効果を発揮する。第三楽章まではインバルの個性はあまり表れなかったが、最終第四楽章で化けの皮が剥がれる。テンポの取り扱い方は個性的でありながら、観客に受け入れし易い点は見事である。

アンコールは、ソリスト=アンコールはサン-サーンスの「白鳥」、最後のアンコールは、ブラームスのハンガリー舞曲第1番であった。

2013年5月11日土曜日

ヒラリー=ハーン リサイタル 評 (名古屋公演)

2013年5月11日 土曜日
三井住友海上しらかわホール (愛知県名古屋市)

曲目:
アントン=ガルシア=アブリル Three Sighs より"First Sigh"*
デイヴィッド=ラング "Light Moving"*
ヴォルフガング=アマデウス=モーツァルト ヴァイオリン-ソナタ第26番 K.302(293b)
大島ミチル "Memories"*
ヨハン=セバスチャン=バッハ シャコンヌ (無伴奏パルティータ第2番 BWV1004より)
(休憩)
リチャード=バレット "Shade"*
エリオット=シャープ "Storm of the Eye"*
ガブリエル=フォーレ ヴァイオリン・ソナタ 第1番 イ長調
ヴァレンティン・シルヴェストロフ "Two Pieces"より1.Waltz 2.Christmas Serenade*

*印は、ヒラリー=ハーンが近年取り組んでいる委嘱作品初演プロジェクト「27の小品:ヒラリー=ハーン-アンコール」で作曲された作品である。

ヴァイオリン:ヒラリー=ハーン
ピアノ:コリー=スマイス

ヒラリー=ハーンは2013年5月に来日ツアーを行い、名古屋・横浜・東京・西宮・倉敷・水戸で公演を行う。プログラムは全て同一である。これらの会場のうち、室内楽に適した700席規模のホールでの公演は名古屋・水戸のみであり、チケット購入検討の際に判明していた名古屋での公演に臨席する事とした。2012年6月2日に、横浜みなとみらいホールにてメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲のソリストを、ヒラリー=ハーンが務めたが、あまりに管弦楽に埋没した演奏であったため、大管弦楽用ホールは避けたかった。

曲の構成は、ヒラリー=ハーン向けアンコール用小品(新曲であり、当然現代音楽となる)と、古典とを混合させたものである。これ自体は悪くはない。曲目は全体的に地味目であり、決して熱くほとばしる演奏を期待するものではない。

前半、特に第一曲目・二曲目の"First Sigh"・"Light Moving"に於いては、ピアノの響きが強過ぎると感じられる。この点は休憩中に修正されたのか、後半は解消されている。

ヒラリー=ハーンは全般的には手堅くまとめた演奏であり、古典・現代音楽ともに技術的な問題点は感じられない。期待している水準を満たす演奏である。

特筆するべきは、前半最後の曲である、ヨハン=セバスチャン=バッハのシャコンヌ (無伴奏パルティータ第2番より)である。この演奏唯一の、ヒラリー一人だけの演奏だ。

ヴァイオリンは、冒頭からしらかわホールを十二分に響かせる厚みのある演奏である。大管弦楽向けとは言えない、中規模ホールであるしらかわホールの残響をフルに活かしている。しらかわホールを選んだ私の思惑は見事に当たっている。

テンポはやや遅めであり、細かな揺らぎがない意味では一見聴きやすい要素があるが、要所でギアを入れ替えたり、ヒラリーならではのアクセントを入れたりもする。非常にニュアンスに富んだ演奏で、重音は極めてよく考えられた音色が発せられ、精緻な演奏であるだけでなく、独特の濃厚な響きで最高音を響かせる。決して熱狂的要素がないこのシャコンヌを、これほどまで分析してその新たな魅力を提示する事に驚愕する。

今度ヒラリー=ハーンが来日するときは、無伴奏のみのプログラムを期待したい。

アンコールは、「27の小品:ヒラリー=ハーン-アンコール」から二曲、James Newtown Howardの”133...At least”と、David del Trediciの”Farewell”であった。

2013年5月4日土曜日

NHK交響楽団 軽井沢公演 演奏会評

2013年5月4日 土曜日
軽井沢大賀ホール (長野県北佐久郡軽井沢町)

曲目:
ジャン=シベリウス 「カレリア」組曲 op.11
ジャン=シベリウス 「四つの伝説曲」より「トゥオネラの白鳥」 op.22-2
ジャン=シベリウス 交響詩「フィンランディア」 op.26
(休憩)
ルートヴィッヒ=ファン=ベートーフェン 交響曲第7番 op.92

管弦楽:NHK交響楽団(N響)
指揮:広上淳一

軽井沢大賀ホール(芸術監督:ダニエル=ハーディング)では、4月27日から5月6日までに掛けて「軽井沢大賀ホール2013 春の音楽祭」としてクラシック音楽を中心に7公演を企画しており、その5番目の演奏会として開催されたものである。

昨年の明らかなミスが目立った軽井沢公演とは違い、完成度の高い演奏である。やはりN響は凄い。あの広上淳一の、言うこと聞いているとおかしな方向に進んでいきそうな指揮を、実にN響は良い方向に転換している。管楽器も実に良くきまっていて、昨日のTPOの下手くそな金管楽器とは全く違う出来に、こうでなくてはいけないとの思いを新たにする。

「トゥオネラの白鳥」では、第一ヴァイオリンが、恐怖の第七プルトまであった理由は謎である。この曲だけ第一ヴァイオリンを特別に増強させた広上淳一の意図は不明である。「フィンランディア」では前半、弦楽が濁り、広上の不用意な指揮に管弦楽がちょっと戸惑ったと感じられるところがあった。

休憩後のベートーフェン交響曲第7番は、前半のシベリウスをさらにパワーアップして、弦楽も管楽も素晴らしい出来で、とても完成度の高い演奏だ。緩急の付け方も申し分なく、フルオーケストラかつ軽井沢大賀ホールならではの凝縮された音圧を活かした演奏であり、文句の付けようがない。この曲を説得力を伴って演奏することは、実は難しい曲であるが、あの広上のダンスをしているとしか思えない指揮から、このようなキチっとした演奏が導き出されたのは、不思議としか言いようがない。きっと、N響のメンバーたちは、本気にしては行けないところは賢明に無視し、言う事を聞くべき部分のみ指揮者の指示に従っていたのだろう。そのN響の選択眼が素晴らしかったと言うべきか。

アンコールは、シベリウスの「悲しいワルツ」であった。

2013年5月3日金曜日

東京フィルハーモニー交響楽団 軽井沢公演 演奏会評

2013年5月3日 金曜日
軽井沢大賀ホール (長野県北佐久郡軽井沢町)

曲目:
フレデリック=ショパン ピアノ協奏曲第1番 op.11
(休憩)
ヨハネス=ブラームス 交響曲第4番 op.98

ピアノ:上原彩子
管弦楽:東京フィルハーモニー交響楽団(TPO)
指揮:ダン=エッティンガー(TPO常任指揮者)

軽井沢大賀ホール(芸術監督:ダニエル=ハーディング)では、4月27日から5月6日までに掛けて「軽井沢大賀ホール2013 春の音楽祭」としてクラシック音楽を中心に7公演を企画しており、その4番目の演奏会として開催されたものである。

上原彩子・ダン=エッティンガーとも初めて聴くソリスト・指揮者である。TPOを聴くのは、ちょうど一年前の5月3日以来、通算三回目となる。

今日のTPOの配置は、舞台下手側より第一ヴァイオリン→ヴァイオリン-チェロ→ヴィオラ→第二ヴァイオリンの順で、コントラバスはチェロの後ろに位置する。

上原彩子のピアノはYAMAHA社製のもので、クラシック音楽で私が体験するのは初めてとなる。

着席場所は、一階後方中央であり、生前大賀典雄が座っていた場所同然と考えていただいて差し支えない。

第一曲目のショパン、ピアノ協奏曲は、上原彩子が予想外に素晴らしい演奏を見せた。彼女が敢えて選んだYAMAHA社製のピアノは、スタインウェイとは違い癖があり、自由自在に表現できるピアノではない。どこかフォルテピアノ(モダンピアノに対する意味で)の音色に似ているかのような軽やかな音色で、自己残響はあまりなく、弦をハンマーで叩きつける音が強調される。最大限の力で鍵盤を叩きつけても、スタインウェイのような劇的な音は出てこない。

しかしながら上原彩子は、そのようなYAMAHA社製ピアノの特徴を知り尽くし、その音色を活かすような演奏をしている。フレデリック=ショパンが生きていた時代のピアノはこのような音だったのかと、想像したくなるような響きである。

演奏自体は、YAMAHA社製ピアノのスタッカートが強調されるような古典的音色を活かした、繊細かつ女性的な要素を持つ演奏だ。要所でテンポを揺るがせたり、小さな可愛いアクセントを付けたりする。ピアノの性能に制約がある中での構成力も素晴らしい。特に1・3楽章は優れた演奏だ。

一方の管弦楽は方向性が明確でない音楽づくりで、ピアノに対する管弦楽の音量は過剰であり、上原彩子のピアノと似合わない演奏だ。繊細な性格の妻と、無神経かつ力任せな夫との組み合わせのようで、これはうまく行きそうにない。今日の上原彩子の演奏に対して管弦楽は、ソリストをサポートするのが適切な方向性であるが、まるでスタインウェイのピアノに真っ向対立するかのような、勘違いをしている。エッティンガーの指示によるものなのか?上原彩子とのリハーサルなり打ち合わせが不足しているのか?一年ぶりの軽井沢大賀ホールの響きに慣れていないのか?これとは別に、ホルンの音が大雑把で無神経であった事は指摘せざるを得ない。

休憩後のブラームス交響曲第4番は、下品な演奏であるが、あのエッティンガーの不潔な指揮ぶりも影響しているのか。エッティンガーの指揮は、分かりやすいと言えば分かりやすいが、明晰な指揮と言うよりは露骨な指揮で、美しさが感じられない点で不潔である。刹那刹那で心地よく感じられるところはあるが、全体の方向性と言う点で粗雑で、特に第一・第二楽章の乱雑さが目立つ。弦楽がメインに出ているといいけど、金管ががなり立てていて、全体的なまとまりが感じられない。

第三・第四楽章は、何故かバランスが少しはマシな状態となる。ここまでの演奏で、私がエッティンガーに洗脳された要素があるのかも知れない。この辺りから管弦楽も取りつかれ始めたようで、反知性的下品さを伴いながらもフルオーケストラならでは大迫力で、力づくで観客を圧倒していく。是非はともかく、これはこれで大したものだ。

曲が終わったあと、金管楽器奏者には拍手をせずに掌を見せるブーイングを行う。私以外の観客は盛り上がっていたが、複雑な気分だ。あのエッティンガーのような容貌の男に誘われて、ポルシェの乱雑な運転についうっとりしてしまった、お馬鹿な若い女の子になってしまった気分である。

それにしても、上原彩子とエッティンガーの組み合わせを考えたのは誰だよ。この似合わない組み合わせがどのような経緯で決められたのかは謎である。どう考えても、準=メルクルや山田和樹により、管弦楽を精密に指揮する指揮者でないといけない演奏会だ。

アンコールは、ブラームスの「マジャール舞曲」第1番、緩急をつけた演奏は巧みであるが、やはり指揮が不潔である。TPOの演奏会に行く人たちって、そういった下品な音楽が大好きなのかなあと、複雑な気持ちにさせられた演奏会であった。