2012年8月19日日曜日

サイトウ-キネン-フェスティバル-松本 聖譚曲評

2012年8月19日 日曜日
まつもと市民芸術館 (長野県松本市)

曲目:
アルチュール=オネゲル 「火刑台上のジャンヌ=ダルク」

ジャンヌ=ダルク:イザベル=カラヤン
修道士ドミニク:エリック=ジェノヴェーズ
語り:クリスチャン=ゴノン
ソプラノ独唱(声・聖マルガリータ):シモーネ=オズボーン
ソプラノ独唱(聖母マリア):藤谷佳奈枝
アルト独唱(聖カタリーナ):ジュリー=ブリアンヌ
テノール独唱(声・豚・伝令官1・聖職者):トーマス=ブロンデル
バス独唱(声・伝令官2):ニコラ=テステ
合唱:サイトウ-キネン-フェスティバル松本合唱団・栗友会合唱団・サイトウ-キネン-フェスティバル松本児童合唱団
合唱指揮:ピエール=ヴァレー

演出:コム=ドゥ-ベルシーズ
アーティスティック-アドヴァイザー:ブロンシュ=ダルクール
装置:シゴレーヌ=ドゥ-シャシィ・森安淳
衣装:コロンブ=ロリオ-プレヴォ・田中晶子
照明:齋藤茂男

管弦楽:サイトウ-キネン-オーケストラ(SKO)
指揮:山田和樹

サイトウ-キネン-フェスティバル松本は、2012年は8月4日から9月9日までの日程で、聖譚曲・演奏会・劇音楽が開催される。このうち8月19日から8月29日までの間、オネゲル作曲の聖譚曲「火刑台上のジャンヌ=ダルク」が計3公演に渡って繰り広げられる。19・26・29日の日程での3公演であるが、19日と26日の間には、23・25日とダニエル=ハーディング指揮によるリヒャルト=シュトラウス「アルプス交響曲」等の演奏会があり、系統が全く違うプログラムを間に挟む事の悪影響を考慮し、リハーサルが仕上がったばかりである19日の公演を選択した。よってこの評は、初日8月19日の公演に対するものである。

まつもと市民芸術館のホールに入ると、歌劇ともまた違う舞台が構成されている。通常のオーケストラピットを設営したときよりもさらに2列の座席を撤去している。オーケストラピットの高さは、座席面とほぼ同じ高さか?左右対向配置ではない管弦楽の回りに、約3メートル幅の通路状の舞台をロの字型に作っている。舞台最前方の高さは、膝と同じくらい、管弦楽・側方の舞台とも舞台後方に向けて上り坂となっている。舞台後方の高さは、管弦楽に邪魔されない程の高さである。舞台後方から管弦楽のスペースに向けて、前方へ幅3メートル・長さ5メートル程の半島状に張り出した舞台を設置しており、舞台前方に向けて管弦楽の坂と平行した下り坂となっている。この半島状の舞台に火刑台の柱が据え付けられている。

舞台後方には、左右に三階建てのバルコニーが設置されている。舞台中央は何もなく、最後方は白い板で行き止まりとなっている。

16時ちょうどに開始時刻を迎えると、合唱隊が左右のバルコニーに3層とも入る。指揮の山田和樹はいつのまにか指揮台に立っている。合唱隊が全てバルコニーに入ったところで、小澤征爾総監督が客席に入る。総監督入場の際に拍手が起きるが、管弦楽・合唱隊・指揮者に対しては拍手がないままホール全体が一旦真っ暗となり、少し時間が経過して管弦楽の譜面台の明かりが灯って、聖譚曲が開始される。

演劇部門の構成は全く申し分がない。ジャンヌ=ダルク・修道士ドミニクは基本的に半島状の火刑台柱周辺に位置し、これを囲むようにインチキ裁判のイベントが行われたり、舞台前方で王たちのトランプ遊びが繰り広げられる。歌い手のフォーメーションは適切である。衣装は現代的ではなく、どちらかと言うと近世的である。ジャンヌ=ダルクが存在していた15世紀的でもないが、衣装により登場人物を判別させるには、これまた適切な手段だ。

歌い手については、修道士ドミニク役のエリック=ジェノヴェーズが素晴らしい。終盤のみの登場であるが、聖母マリア役の藤谷佳奈枝も良い出来だ。クリスチャン=ゴノン・トーマス=ブロンデル・ニコラ=テステの男声も、序盤こそ不安定であったが、後半になるにつれて完成度が上がっていき、存在感のある演技となっていく。

主役のイザベル=カラヤンについては、声量不足が否めず、ジャンヌ=ダルク役に求められるパワーがない。「ジャンヌの剣」にて長いモノローグがあるが、迫力がなく、最大の見せ場であるはずの場面で眠気を誘っている。イザベル=カラヤンを主役としてこの聖譚曲の公演を企画したのは、総監督小澤征爾であり、この責任は小澤征爾にあると言える。

合唱は、序盤やや不安定に感じられたところもあったが、徐々に完成度を高めていき、満足できる出来である。管弦楽とのコンビネーションはとてもよい状態である。

指揮の山田和樹は、暴走しがちなSKOを手堅くまとめ、独唱・合唱とのバランスが細部まで取れている優れた演奏を盛りたてる。SKOは独唱者の状態はなんとやら、管弦楽は管弦楽という感じでどんどん突き進む傾向が小澤征爾時代にはあったが、山田和樹はそのSKOを細かく制御し、歌劇場管弦楽団としてあるべき方向性をSKOに対して示すことに成功している。もちろん、(独唱がない)管弦楽単独の部分ではSKOならではの迫力を引き出すなど、緩急の付け方といった方向性とは全く別ではあるが、彼ならではのメリハリの利いた指揮だ。小澤征爾が本番2日前の17日まで来松しなかったのが、良い影響を与えているのだろう。山田和樹らしい個性を発揮する事ができ、小澤征爾時代には考えられなかったSKOの丁寧な響きを引き出している。

総じて、イザベル=カラヤン以外の独唱者に不満はない。SKFでは珍しく、独唱者の多くが一応満足できる水準を保っている。合唱も良い出来である。なんと言っても、地味ではあるが山田和樹の指揮がとても優れたものだ。世代交代を感じさせる聖譚曲であった。