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2013年2月9日土曜日

フィルハーモニア管弦楽団 横浜公演 演奏会評

2013年2月9日 土曜日
横浜みなとみらいホール (神奈川県横浜市)

曲目:
ルートヴィッヒ=ファン=ベートーフェン 劇付随音楽「シュテファン王」 op.117より 序曲
ジャン=シベリウス ヴァイオリン協奏曲op.47
(休憩)
ジャン=シベリウス 交響詩「ポホヨラの娘」 op.49
エサ-ペッカ=サロネン ヴァイオリン協奏曲

ヴァイオリン:諏訪内晶子
管弦楽:フィルハーモニア管弦楽団
指揮:エサ-ペッカ=サロネン

フィルハーモニア管弦楽団は、2013年2月に来日公演を行い、この演奏会は8公演あるうちの7番目の演奏会である。この演奏会は、「国際音楽祭NIPPON」の一環としてでも開催される。この音楽祭の芸術監督である諏訪内晶子は、ヴァイオリンのソリストとして二つの協奏曲に出演する。「国際音楽祭NIPPON」初年第二回目の演奏会であり、今年唯一の大管弦楽を伴う演奏会でもある。二曲目のヴァイオリン協奏曲は、エサ-ペッカ=サロネンの自作自演であり、日本における初演である。演奏順について、当初発表の予定から休憩前と後の曲目を入れ替えたものとなる。

管弦楽は左右対向配置ではなく、舞台下手側より第一ヴァイオリン→第二ヴァイオリン→ヴィオラ→チェロと、高弦から低弦に向け順番に下がる配置である。コントラバスはチェロの後ろ、舞台上手側に位置する。

当日の私の席は、ほぼ真ん中である。

第一曲目は「シュテファン王」である。フィルハーモニア管は予想以上にとても上手だ。木管のソロの部分も力強い響きを難なくこなしてしまう安心感がある。

第二曲目は、シベリウスのヴァイオリン協奏曲である。諏訪内晶子のヴァイオリンは、鋭さはやや封印して、ディテールを重視した、ややゆっくり目な演奏である。朗々と流れる響きを主眼にしているのだろう。テンポを一気に変化させる個所は、かなり絞った印象だ。管弦楽との関係は対抗的と言うよりは、むしろ協調的で一緒に音楽を作り上げていく方向性か。ナイフのような切れ味の鋭さや、崩壊寸前のスリリングな展開を求める向きには、やや物足りなさが残るかもしれないが、これはこれで良い。

フィルハーモニア管は、背景になるべきところと前面に出るところとのメリハリがはっきりして見事な演奏だ。ヴァイオリン-ソロが前面に出る部分は、諏訪内晶子のヴァイオリンが引き立つよう精密に音量を調節しており、一方で管弦楽が前面に出るところでは、みなとみらいホールの響きを味方につけながら全開のパワーで観客に迫ってくる。エサ-ペッカ=サロネンの的確な指示があったのか、フィルハーモニア管弦楽団員の職人的な自発性によるものなのか、おそらくその両方によるものだと思うが、協奏曲に対して理想的なアプローチの一つである。

休憩後の第三曲目は「ポホヨラの娘」、弦も木管も金管もパーカッションもとても上手で、完成度の高い惚れ惚れとする演奏である。

第四曲目の、エサ=ペッカ=サロネン自作自演のヴァイオリン協奏曲は、40分はあるのではないかと感じさせる、思った以上の大作である。当日プログラムを変更したのは、やはり当たりである。スタンダードの曲目であるシベリウスとは違い、諏訪内晶子にも譜面が用意される。

この曲は、ソロでの技巧的な部分が多く、多大なプレッシャーをヴァイオリン-ソロに与える曲かとは思うが、諏訪内晶子は、特に弱奏部こその緊迫感を要する部分が素晴らしい。ちょっとした不協和音をソロで弱めに奏でる部分は、浅田真央がトリプルアクセルを飛ぶどころではない、静かではあるが張り詰めたスリルを感じるが、諏訪内晶子は見事に決めていく。彼女の弱奏部は、どういう訳か弱くない。芯があるというか、凛としたものがあるというか、いずれも嘘ではないのだが、朗々としている響きでありながら冷たいナイフを首筋に当てられている時のような心拍の鼓動を覚える、そんな瞬間を味わえる演奏である。

講演記録 「エサ-ペッカ=サロネン 自作を語る」

2013年2月9日 土曜日
横浜みなとみらいホール (神奈川県横浜市)

ヴァイオリン:諏訪内晶子
管弦楽:フィルハーモニア管弦楽団
指揮:エサ-ペッカ=サロネン

フィルハーモニア管弦楽団横浜公演が2013年2月9日に開催されたが、その前にプレトークやらプレシンポジウムやら公開総稽古が実施された。

この公演自体が、「国際音楽祭NIPPON」の一環であり、この音楽祭の芸術監督である諏訪内晶子の強い意向があって開催されたものであろう。「現代音楽」をもっと大衆に広めたいとの意志が、諏訪内晶子の中にあることは間違いない。この公演で諏訪内晶子は、協奏曲のソロを二曲もやり、その内の一曲がエサ-ペッカ=サロネン作曲の「現代音楽」だ。極めてハードなプログラムであり、余程の意向がなければ、このような「無謀」なプログラムは組まないだろう。

この企画は、三部に分けて構成される。

第一部:エサ-ペッカ=サロネンによる単独の講演で、彼自身の「現代音楽」に対する見解及び、自作のヴァイオリン協奏曲の解説。

第二部:同じく現代音楽の作曲家である西村朗と、エサ-ペッカ=サロネンとの対談形式のシンポジウム

第三部:公開総稽古

以下、あくまで私の記憶の範囲であり、内容の正しさについては保証しない。誤った部分があれば指摘していただければ幸いである。

第一部.まずは、エサ-ペッカ=サロネンによる「現代音楽」に対する見解を述べる。作曲家の誰もが持つ願い・・・、自作が「永遠の音楽」になる願いを実現するために、これまで様々な作曲家が努力してきた。「現代音楽」家たちも「永遠の音楽」を実現させるため、「規則的なもの」「普遍的原理」があるのではないかと追及して来た。しかしながらその追求は「現代音楽」の要素以外の存在が否定され、その抑圧はスターリン時代に於けるソヴィエト連邦の音楽と本質的な性質は同じものであった。当然、「現代音楽」は行き詰った。「永遠の音楽」を実現させるための「規則的なもの」「普遍的原理」など存在しない。「永遠の音楽」を実現させるために必要なものは、「努力、努力、ひたすら努力あるのみ」とのこと。

その後、自作のヴァイオリン協奏曲についての解説となる。諏訪内晶子が登場し、あたかも映画の予告編のように、ヴァイオリン-ソロを弾いては、エサ-ペッカ=サロネンが解説するパターン。あまり語り過ぎない内容で、予習としては良い内容である。


第二部は、西村朗による基調講演っぽいちょっと長い独演から始まる。西村朗、話が巧いよなあ。作曲家だけでなく、講談師にもなれるし、大学教授にも即なれそうだ。話の掴みは、「永遠の音楽」を実現させるために、自身が作曲する前にまず「私は天才である」と唱えるとのこと。私が会場中で一番笑い過ぎていたかも知れない♪もちろん冗談だと思うけどね。ホントだったら、怖いと同時に面白過ぎだけど♪

で、西村朗の基調講演の内容は、以下のとおりである。「現代音楽」は破壊から始まった。ドイツのダルムシュタットを拠点として、まずはナチスドイツ=ドイツロマン派を破壊する活動を開始する。米国からの裏資金が出ていたとの噂もあり♪でもすぐ行き詰りを迎え、今度は「後退」を開始する。その「後退」は、これまでの足跡を踏まない、そのままの逆戻りするわけではない「後退」があり、現在に至る。一方で米国では「偶然性」を追求した結果、ピアノの蓋を開け閉めするだけの「4分33秒」にまで至る。

この後、エサ-ペッカ=サロネンとの対話の展開がある。「現代音楽」、どうせ一回演奏したくらいで観客が全部覚えられるはずがないから、観客を「引っかける」要素は必要だよね、などと、西村朗が発言しただなんて、そんな秘密はバラさないでおいてあげよう♪

シンポジウムでは、ピリオド派について下記の議論がなされていた。現在は音楽のフィールドが広がっている。世界中のいろんな地域から音楽が流通している。18世紀とは時代背景は全く違う。いまの人はマドンナを知っている。そのような中で、ピリオド楽器を用いたり、カツラを被って当時の格好を着用して、18世紀の音楽を単純に再現する意味はないとのこと。同じ理由で、アルフレット=ブレンデルが、ピリオド楽器ではなくモダン楽器を用いて演奏すると。

以下は私の意見である。なるほどね、エサ-ペッカ=サロネンは反ピリオド派ではないのだろうけど、非ピリオド派なのね。だから、ヴァイオリンパートの左右対向配置はやらないのだよね。ピリオド楽器を用いる事の意味は、私はあると思うけど。しかし、単純にピリオド楽器を用いるだけでは演奏する意味は全くない。ピリオド楽器であろうと、その演奏にパッションを込め、かつ適切な様式に沿って発露させなければならないのは、モダン楽器を用いる時と同じ。そうでなければ、ピリオド楽器による演奏を現代に甦らせることはできないし。


第三部は公開総稽古。まずは、諏訪内晶子付きで約1時間強。

この日私はホテルで眠れず、睡眠不足だったため、本番で覚醒させるために、故意に意識レベルを低下させていた。聴き過ぎるのも良くないので、寝ぼけながら聴いて置くのはその意味ではいいだろう。本番でなくてあくまで稽古、真面目に聴く必要はない。

やはり、エサ-ペッカ=サロネンのヴァイオリン協奏曲をメインに時間を取っている。第一楽章は通しで演奏しただけで、サロネンは満足の意を表明。他の楽章でちょこっと指示を出して細切れに演奏をしている。18列目辺りに座っているフィルハーモニア管の職員らしき者とサロネンとが会話しているのは、響きの確認であろうか。

シベリウスのヴァイオリン協奏曲は、二楽章と三楽章をさらっとおさらいしただけである。響きのバランスは、この時点で精密に取れている。既に他会場で演奏済みだからかな。

休憩後、諏訪内晶子抜きで管弦楽のみの総稽古を20分くらい。ほとんど修正点はなく、思い出し稽古のようなものか。

本番については、別稿を参照してほしい。