2015年11月25日水曜日

Sinfonia Lahti, Matsumoto performance, review ラハティ交響楽団 松本公演 評

2015年11月25日 水曜日
Wednesday 25th November 2015
松本市音楽文化ホール (長野県松本市)
The Harmony Hall (Matsumoto Municipal Concert Hall) (Matsumoto, Japan)

曲目:
Jean Sibelius: “Finlandia” op.26
Jean Sibelius: Concerto per violino e orchestra op.47
(休憩)
Jean Sibelius: Sinfonia n.2 op.43

violino: Petteri Iivonen
orchestra: Sinfonia Lahti
direttore: Okko Kamu

ラハティ交響楽団は、スオミ共和国の首都ヘルシンキから、北北東に100kmの地に位置するラハティ市に本拠を置く。

2015年11月に、ラハティ交響楽団は、オッコ=カムを指揮者に、ペッテリ=イーヴォネンをソリストに迎えて、日本ツアーを行う。全てシベリウスの作品を演奏する。松本・札幌はフィンランディア+ヴァイオリン協奏曲+交響曲第2番のプログラムである。東京では、シベリウスの全ての交響曲とヴァイオリン協奏曲を披露する。なぜか、札幌公演のみソリストは神尾真由子であった(代役ではなく、当初からの予定)。

管弦楽配置は、舞台下手側から、第一ヴァイオリン→第二ヴァイオリン→ヴィオラ→ヴァイオリン-チェロのモダン配置で、コントラバスはチェロの後方につく。木管パートは後方中央、打楽器群とホルンは後方下手側、その他の金管パートは後方上手側の位置につく

着席位置は一階正面やや後方僅かに上手側、観客の入りは、7割程であろうか。観客の鑑賞態度は、概ね良好であった。

一曲目の「フィンランディア」は音取り的要素もあり、アウェイ感が感じられるところもある。

二曲目のヴァイオリン協奏曲からは、ソリスト・管弦楽ともホールの響きを完璧に掴み始める。

ソリストのイーヴォネンはかなり個性的な演奏だ。技術を誇示するようなタイプではなく、彼独自で解釈した曲想を披露する。誰とも似ていないシベリウスを、彼は産み出す。

技術的に彼より巧い奏者はいるのだろうけど、彼の個性の代わりを務められる奏者は、どこにもいない。音量は小さめであるが、巧みに響かせる。独特の深い音色を駆使しニュアンスで攻めるタイプである。良く響く693席の中規模音楽堂である松本市音楽文化ホールだからこそ、彼の演奏が活きてくる。ヴァイオリン協奏曲というものは、中規模音楽堂を想定して書かれたものなのだと、強く確信する。タケミツメモリアルのような大規模音楽堂では、まず音量が重要になってくるので、彼には不向きなのかも知れない。

音量が必ずしも大きくないタイプのイーヴォネンを、楽団員は巧みに盛りたてる。ヴァイオリン・ヴィオラ・チェロとも、素晴らしく美しい弱音を響かせる。だからこそ、イーヴォネンを引き立たせる事ができるのだ。バランスを良く考えても、美しい弱音が生み出せない管弦楽では、イーヴォネンを引き立たせる事はできない。

イーヴォネンとカムと管弦楽は、あたかも一つの家族のような感じで演奏を繰り広げる。ソリスト・指揮者・管弦楽の三者が目指すべき音楽を共有しており、その場面でどのように演奏してどのような響きを出すべきなのか、一音一音誰もが熟知している。イーヴォネンは、いい意味でシベリウスホールの座付きソリストのようだ。外からお客さんとして招かれたソリストというのではなく、ずっとラハティ交響楽団と一緒に演奏して来たようなソリストのように感じられる。おらが交響楽団のソリストを盛りたてようと、管弦楽がサポートしているような、暖かな関係性が目の前にある。これ程まで自然な感じで見事にソリストをサポートする管弦楽は、見た事がない。

ソリストアンコールは、バッハの無伴奏を二曲披露した。BWV1004からアルマンドとBWV1005からアレグロ-アッサイであった。

休憩の後は、第二交響曲だ。

前にこの曲を別の楽団で聴いた時に、この曲への愛を失ってしまい、2番やるなら5番やってくれよと正直思ったところではあるが、冒頭から説得力のある響きで、第二交響曲への愛を取り戻す。

やはり弦楽は素晴らしい技量で、ヴァイオリン・ヴィオラ・チェロとも随所で美しい響きを出してくる。弦楽の実力は間違いなく世界屈指のものだ。シベリウスの2番は、弦楽が強いと本当に活きてくる。

管楽については、意地悪な耳で聴くと超絶技巧の持ち主は少ないけれど、一定の力は保持している。第二楽章のファゴットは実に見事であるし、他の管楽も要所要所では決めてくる。

ある特定の管楽器奏者の名人芸に頼るのではなく、管弦楽全体で作り上げる意志を強く感じる。どこで何をしなければならないかを、楽団員全員が一音一音全て理解している事が感じられ、好感が持てる。

オッコ=カムの指揮は、奇を衒う事はせず、かといって平凡ではなく適度にエッジを利かした巧みな構成力により、ラハティ交響楽団が持つ個性を維持し、ラハティ交響楽団を適切な方向に導いている。他の管弦楽団では聴けない響きを、カムとラハティ交響楽団は産み出してくるのだ。これほどまでに強い個性を持つ管弦楽団も、珍しい。

アンコールは、全てシベリウスの作品で、「悲しいワルツ」「ミュゼット」「鶴のいる風景」の三曲であった。「悲しいワルツ」では、某エストニア人指揮者のような極端な弱音を用いない、至極真っ当な演奏で魅了されし、他の二曲も弦楽とクラリネットとの見事な対比を味わう事が出来るものであった。

観客の反応はかなり熱狂的で、スタンディングオベーションを伴って演奏会を終了した。

2015年11月22日日曜日

Mito Chamber Orchestra, the 94th Subscription Concert, Toyota performance, review 水戸室内管弦楽団 第94回定期演奏会 豊田公演 評

2015年11月22日 土曜日
Sunday 22nd November 2015
豊田市コンサートホール (愛知県豊田市)
Toyota City Concert Hall (Toyota, Aich, Japan)

曲目:
Franz Joseph Haydn: Sinfonia n.102 Hob.I-102
Wolfgang Amadeus Mozart: Concerto per pianoforte e orchestra n.21 KV467
(休憩)
Wolfgang Amadeus Mozart: Sinfonia n.41 KV551

pianoforte: 児玉桃 / Kodama Momo
orchestra: Mito Chamber Orchestra(水戸室内管弦楽団)
direttore: 広上淳一 / Hirokami Junichi

水戸室内管弦楽団(MCO)は、広上淳一を指揮者に、児玉桃をソリストに迎えて、2015年11月20日・21日に水戸芸術館で、22日に豊田市コンサートホールで、第94回定期演奏会を開催した。この評は、第三日目の豊田市コンサートホールでの公演に対してのものである。ソリストは、当初Menahem Pressler(メナヘム=プレスラー)の予定であったが、病気療養のために変更となった。

管弦楽配置は、舞台下手側から、第一ヴァイオリン→第二ヴァイオリン→ヴァイオリン-チェロ→ヴィオラのモダン配置で、コントラバスはチェロの後方につく。木管パートは後方中央、トランペットとティンパニは後方下手側、ホルンは後方上手側の位置につく。

着席位置は一階正面僅かに後方上手側、観客の入りは、8割強か?岐阜にて同時にバッハ-コレギウム-ジャパンの演奏会があったのは不幸で、チケット完売には至らなかった。観客の鑑賞態度は、概ね良好であったが、ハイドンの最終楽章で長めのパウゼを掛けた箇所で拍手が出てしまった。やっちもうたなあ。

コンサートマスター/ミストレスは、ハイドンは竹澤恭子、KV467は渡辺實和子、KV551は豊嶋泰嗣が担当した。

一曲目のハイドン交響曲第102番は、序盤こそホールのアウェイ感があったものの、いつの間にか初めてであるはずのホールに馴染んでいる。やはり響きが水戸芸術館と違い、美しい。最終楽章で、パウゼを長く取る箇所で拍手が出てしまったので、もう一箇所長くパウゼを取る場面では、昨日の公演よりも短めにしている。

二曲目のモーツァルトピアノ協奏曲第21番KV467からは、一転縦の線をビシッと揃えて始まる。そこから夢見るような時間が始まるが、響きはより美しい。

ソリストの児玉桃のピアノは、自己主張は控えめで管弦楽に溶け込むアプローチを取る。ふっと哀愁を漂わせる演奏で、カデンツァの箇所で加速したテンポをすっと遅くする場面で顕著だ。ここまでは昨日と変わりないが、ホールが変わり、ピアノがよく響き、埋没しがちな昨日の公演と違い、ピアノと管弦楽とのバランスが絶妙である。

特に第二楽章は、ひたすら響きに溺れる。天井を向き恍惚とした表情で美しい響きのシャワーを浴びる。

そこには、ピアノと管弦楽との間の、「何か折り合いをつけた」と言うのとは全く違う、自然な絡み合いがある。ピアノと管弦楽とホールとの、美しい三位一体が実現されている。

児玉桃も本当に気持ち良く弾けたのだろう、アンコールが披露され、ドビュッシーの「亜麻色の髪の乙女」が演奏されて休憩となる。

三曲目のモーツァルト交響曲第41番KV551は、昨日のガチガチに固い、正直聴いていて苦痛な演奏とは打って変わっている。

管弦楽のパッションがホールに美しく響き、その響きが管弦楽と観客のテンションを上げていく。

昨日より柔軟なテンポ設定のように感じられる。ピリオド派の活き活き路線ではないのだが、ホールが広上淳一の意図を実現させていくのだ。

管弦楽が奏でる一音一音が実に美しい。弦楽も、管楽も、伸びやかに心地よく響いてくる。バロック-ティンパニも良く聴こえる。

一つ一つの響きが説得力を持ってくる。そこにモーツァルトがいる。そこに水戸室内管弦楽団の響きがある。

管弦楽の自発性も活きまくり、終盤のホルンの大胆で美しい響きが最後の効果的なアクセントを与え、恍惚とした気持ちで天井を向いて最後の一音を聴く。音が鳴り止む。両側バルコニーからのbravoの声が響く。

大人しい水戸芸術館の観客とは違う反応に続き、熱い拍手が送られる。

初めてのホールなのに、本拠地での公演を圧倒的に上回る内容だ。ホールの響きは重要だ。奏者のパッションを美しく響かせる残響は、西洋古典音楽の命である。

演奏者・観客・ホールが三位一体となって、今日の演奏会を作り上げた。

豊田市コンサートホール、万歳!水戸室内管弦楽団、万歳!

2015年11月21日土曜日

Mito Chamber Orchestra, the 94th Subscription Concert, review 第94回 水戸室内管弦楽団 定期演奏会 評

2015年11月21日 土曜日
Saturday 21st November 2015
水戸芸術館 (茨城県水戸市)
Art Tower Mito, Concert Hall ATM (Mito, Japan)

曲目:
Franz Joseph Haydn: Sinfonia n.102 Hob.I-102
Wolfgang Amadeus Mozart: Concerto per pianoforte e orchestra n.21 KV467
(休憩)
Wolfgang Amadeus Mozart: Sinfonia n.41 KV551

pianoforte: 児玉桃 / Kodama Momo
orchestra: Mito Chamber Orchestra(水戸室内管弦楽団)
direttore: 広上淳一 / Hirokami Junichi

水戸室内管弦楽団(MCO)は、広上淳一を指揮者に、児玉桃をソリストに迎えて、2015年11月20日・21日に水戸芸術館で、22日に豊田市コンサートホールで、第94回定期演奏会を開催する。この評は、第二日目の公演に対してのものである。ソリストは、当初Menahem Pressler(メナヘム=プレスラー)の予定であったが、病気療養のために変更となった。

管弦楽配置は、舞台下手側から、第一ヴァイオリン→第二ヴァイオリン→ヴァイオリン-チェロ→ヴィオラのモダン配置で、コントラバスはチェロの後方につく。木管パートは後方中央、トランペットとティンパニは後方下手側、ホルンは後方上手側の位置につく。

着席位置は一階正面後方上手側、観客の入りは、正面席は補助席を用いた程の、かなりの入りである。観客の鑑賞態度は、概ね良好であったが、ピアノ協奏曲で出た話し声は何だったのだろう?指揮者から思わず出た声だと信じたいが。

コンサートマスター/ミストレスは、ハイドンは竹澤恭子、KV467は渡辺實和子、KV551は豊嶋泰嗣が担当した。

一曲目のハイドン交響曲第102番は、精度よりは躍動感を志向しているが、楽しい演奏だ。最終楽章では、パウゼを長く取るなど、広上淳一の独自の解釈をも入れてくる。濃厚な響きであるが、愉悦感がある演奏だ。

二曲目のモーツァルトピアノ協奏曲第21番KV467からは、一転縦の線をビシッと揃え、水戸芸術館の音響にぴったりあった響きでニュアンスをつけて、管弦楽が始まる。これがモーツァルトなんだ、これが水戸室内管弦楽団なんだ、と思わせる、幸せな時間だ。

ソリストの児玉桃のピアノは、自己主張は控えめで管弦楽に溶け込むアプローチを取る。ふっと哀愁を漂わせる演奏で、カデンツァの箇所で加速したテンポをすっと遅くする場面で顕著だ。

控えめな表現のソリストと、元気いっぱいの管弦楽とで、折り合いをつけた形のコンビネーションである。

三曲目のモーツァルト交響曲第41番KV551は、好みが分かれる演奏だ。正直に申し上げると、私の好みではない。

全般的に遅めのテンポで、かつテンポの変動をかなり制限し、その基盤の上に濃厚に演奏するスタイルだ。ピリオド派の活き活きとした演奏のアンチテーゼを示したいのだろうか?

管弦楽は、広上淳一の意図をくみ取り、パッションを込めて演奏する。管弦楽は実に見事である。

しかしながら、愉悦感は全くない。およそ広上淳一らしくない展開で、一曲目で感じられた愉悦感が消え去り、聴いていて疲れる演奏である。

あれだけの演奏を管弦楽はしているのだから、曲を活かすも殺すも広上淳一次第の状況であるが、果たしてこれがモーツァルトであるのか?そう問われれば、私にとっては否だ。

どんなに見事な演奏をしても、単にクソ真面目なだけで、そこに巧みな構成を与えなければ、何らの説得力を持ち得ず、そこには音楽の悦びはない。もう少し、指揮者から何らかの工夫を注ぎ込む事は出来なかったのか?

アンコールはなかった。

2015年11月14日土曜日

Christian Tetzlaff, Sonate e partite per violino solo di Johann Sebastian Bach, Tokyo performance (14th November 2015), review クリスティアン=テツラフ バッハ無伴奏 東京公演 感想

2015年11月14日 土曜日
Saturday 14th November 2015
紀尾井ホール (東京)
Kioi Hall (Tokyo, Japan)

曲目:
Johann Sebastian Bach: Sonata per violino solo n.1 BWV1001
Johann Sebastian Bach: Partita per violino solo n.1 BWV1002
Johann Sebastian Bach: Sonata per violino solo n.2 BWV1003
(休憩)
Johann Sebastian Bach: Partita per violino solo n.2 BWV1004
Johann Sebastian Bach: Sonata per violino solo n.3 BWV1005
Johann Sebastian Bach: Partita per violino solo n.3 BWV1006

violino: Christian Tetzlaff

クリスティアン=テツラフは、2015年11月14日、バッハ無伴奏ソナタ・パルティータ
全曲演奏会を、紀尾井ホールにて行った。

着席位置は後方正面わずかに下手側、チケットは完売した。観客の鑑賞態度は概ね極めて良好だったが、一階後方上手側から、何かを叩くような音が持続的に聞こえる箇所があった。そのノイズは微かな音量であるが、持続的に確実に聞こえたため、BWV1004を聴くに当たって相当なダメージがあった。

ほぼ普段着による衣装で、無伴奏を135分に渡り弾き続ける事を考慮した、動きやすさを重視したと思われる衣装である。

紀尾井ホールの響きを熟知し、全般に渡り明るく強い音色である。BWV1003・1004が特に素晴らしい。構成・ニュアンスともに高い完成度である。バッハという事もあるのか、テツラフ節は控えめであった。休憩が30分しかなかったが、最後のBWV1006に至るまで力尽きる事はなかった。

アンコールは、パリでの大量殺戮事件を踏まえ、フランスの人々のためにBWV1003からアンダンテ楽章が捧げられた。

2015年11月10日火曜日

Maria João Pires + Julien Libeer , recital in Matsumoto, review マリア=ジョアウ=ピレシュ + ジュリアン=リベール リサイタル 感想

2015年11月10日 火曜日
Tuesday 10th November 2015
松本市音楽文化ホール (長野県松本市)
The Harmony Hall (Matsumoto Municipal Concert Hall) (Matsumoto, Japan)

曲目:
Franz Schubert: Allegro per pianoforte a 4 mani “Lebensstürme” D947 op.144(人生の嵐)
Ludwig van Beethoven: Sonata per pianoforte n. 31 op.110 (Pires)
(休憩)
Ludwig van Beethoven: Sonata per pianoforte n. 30 op.109 (Libeer)
Franz Schubert: Fantasia per pianoforte a quattro mani D940 op.103

pianoforte: Maria João Pires + Julien Libeer

マリア=ジョアウ=ピレシュは、2015年10月から11月に掛けて来日し、多数の演奏会を上演する。アントニオ=メネセスとの共演の他、若手ピアニストの教育事業の一環としての共演もあり、形態は多彩である。松本市音楽文化ホールでの公演は、ジュリアン=リベールとの共演となる。Schubertは四手のためのピアノ曲のため、両人で演奏し、Beethovenはop.110はピレシュ、op.109はリベール単独での演奏となる。

着席位置は後方やや上手側、客席の入りは6割程であった。観客の鑑賞態度は、前半に電子音のノイズ(補聴器?)が小さな音であったものの、持続的に鳴り響いていたのが残念だった。また、演奏内容に比して観客のテンションが低かった。

本日のピアノは、マリア=ジョアウ=ピレシュの出演に関わらず、(ヤマハじゃなくて)スタインウェイである。松本市音楽文化ホールでかなりの確率で使われる、ツヤ消し黒のスタインウェイである。松本市音楽文化ホール、ヤマハのピアノ、なかったっけ?それとも、使用頻度が低くて、状態が悪かったのか?あと、リベール氏も出演するために、ヤマハを使用する義務が免除されたのか?

一曲目のシューベルト D947 から素晴らしい演奏である。松本市音楽文化ホールの長い残響を伴う響きは、序盤で適切に把握される。

Beethoven op.110 は、マリア=ジョアウ=ピレシュによる演奏である。言葉でその素晴らしさを表現するのは難しいが、構成が良く考えられ計算されているのは当たり前として、繊細で上品で、深い響きで魅了される。弱音も含めて緊張感を伴う。単に綺麗な響きという訳ではない、霊感を感じさせるものだ。

ジュリアン=リベール単独で、Beethoven の op.109 最初はクリアな音色で攻めて来たが、次第に曲に没入していく演奏だ。若いのにop.109の難曲をそこまで弾けただけ素晴らしい。さすが、マリア=ジョアウ=ピレシュの生徒だ。

最後の、シューベルトの幻想曲 D940 は、マリア=ジョアウ=ピレシュが高音側の担当だ。どの音も深みはあり、どんなに激しい曲想の箇所でも決して上品さを失わない。低音側のリベールとの相性も完璧である。

Schubert も Beethoven も、曲を深く解釈した演奏であり、どこにもハッタリだとか、これ見よがしの見せ付けの要素は、どこにもない。激しく演奏する場面には、必ずその必然性が感じられる。だからこそ、上品さが保たれ、深みを感じさせる演奏になるのだろう。

アンコールは、クルタークの「シューベルトのへのオマージュ」であった。

2015年11月8日日曜日

Ballet Nacional de España, Osaka performance (November 2015), review / スペイン国立バレエ団 大阪公演(2015年11月) 感想

昨日・今日と、大阪のフェスティバルホールに行きまして、エスパーニャ国立バレエ団 (BNE / Ballet Nacional de España) (スペイン国立バレエ団)の公演を二公演、観劇しました。

11/7公演は、「ファルーカ」「ビバ-ナバーラ」「ボレロ」、ここで休憩を置いて後半は、「セビージャ組曲」の演目。

11/8公演は、「マントンのソレア」「ボレロ」、ここで休憩を置いて「セビージャ組曲」の演目でした。

「バレエ団」という名称ではありますが、皆さんが想像されるような「白鳥の湖」のような古典演目も、先日、新国立劇場バレエ団が上演した「ホフマン物語」のような、物語系演目も、キリアンのようなコンテンポラリー-ダンスも、演じません。

バレエと言っても、バレエ-フラメンコ、要するにフラメンコです。普通のバレエは、CNDエスパーニャ国立ダンスカンパニーで演じます。ダンスカンパニーの方は、昨年、名古屋・横浜で上演したので、記憶に残っている方も多いでしょう。

どうしてこのような逆転現象が起きたのですって?まあ、歴史的経緯なり、大人の事情なのではないでしょうか??

しかしながら、BNEのダンサーの多くは、普通のバレエの素養を持っています。振り付けはどう考えても、バレエのものとしか思えない箇所が多いです。もちろん、どの演目も足踏みのフラメンコの要素は保っています。フラメンコとバレエを融合させたと言うのが、私の理解です。

やはり、「ボレロ」と「セビージャ組曲」の二つは、このBNEの鉄壁演目です。

「ボレロ」は男性ソロと女性群舞・男性群舞とで構成され、二回目の繰り返しからずっと男性ソロが踊り続けます。両日とも、セルヒオ=ベルナルでした。

セルヒオの踊りはとにかく優美で、緩やかなテンポの所作が完璧なテンポ感でしなやかに決まっております。また、シャープに決めるべき箇所も決して優美さを失わない点が凄いです。演技力を重視するバレエファンの方は多いですが、純舞踊的技術の完璧さは、やはり大事です。

日本のバレエ団に於ける男性ダンサーの課題は、如何に優美さと躍動感とを高い次元で両立させるかにあるような気がします。

セルヒオは、まさに両方満たしています。多分、BNEの看板ダンサーなのではないでしょうか。

やはりこの「ボレロ」はBNEしかできない演目です。普通のバレエとフラメンコ双方の高度技術が必要なのと、セルヒオ=ベルナルの存在です。足踏みの音は、お立ち台版では実現不可能でしょう。衣装は赤と黒だけを用いたシンプルなものですが、とても美しいです。女性の方は、上半身裸であるセルヒオの肉体美にメロメロになられた事でしょう♪

後半は「セビージャ組曲」も、BNEの総力を結集した演目です。

「エスペランサ」の場面と思われる箇所の、白い女性ダンサーソロは、日替わりでした。

11/7公演のミリアム=メンドーサさんは、リフトされた状態での揺るぎの無さはもちろんのこと、終始様式美を完璧に保っておりました。このようにあるべき という所で完璧に美しく踊っております。

11/8公演のインマクラーダ=サンチェスさんは、11/7の「ビバ-ナバーラ」の時は私の心に入って行きませんでしたが、今日は素晴らしかったです。

「バイラオール」での六人の男性群舞はシャープで迫力がありました。

「夢の散歩道」の官能的な場面を経て、最後の「歓喜」の場面はいつまでも続いて欲しいほどです。ソロなしの26人による群舞は、フォーメーションが巧みでお祭りを思わせるものでありました。終盤部分をアレンジしたアンコールもあり、巧みな構成に驚愕します。
BNEの「ボレロ」と「セビージャ組曲」は、何度観ても飽きないでしょう!

新旧合わせて、初めてのフェスティバルホールは、気持ちを高揚させて終わりました。

2015年10月24日土曜日

Gidon Kremer & Kremerata Baltica, Nagoya performance, review ギドン=クレーメル + クレメラータ-バルティカ 名古屋公演 評

2015年10月24日 土曜日
Saturday 24th October 2015
愛知県芸術劇場コンサートホール (愛知県名古屋市)
Aichi Prefectural Art Theater Concert Hall (Nagoya, Japan)

曲目:
Александр Раскатов / Alexander Raskatov: After “The Seasons”
Phillip Glass: Concerto per violino e orchestra “American Four Seasons”
(休憩)
梅林茂 / Umebayashi Shigeru: “Japanese Four Seasons” for violin and string orchestra
Astor Piazzolla: “Las Estaciones” (ブエノスアイレスの四季)

violino: Gidon Kremer (ギドン=クレーメル)
orchestra: Kremerata Baltica
direttore: Gidon Kremer (指揮:ギドン=クレーメル)

クレメラータ-バルティカは、創設者であるギドン=クレーメルがソリスト兼指揮者となって日本ツアーを率いた。日本での公演は、サントリーホール(東京)、神奈川県立音楽堂(神奈川県横浜市)、愛知県芸術劇場(愛知県名古屋市)、兵庫県立芸術文化センター(兵庫県西宮市)の四箇所であり、いずれも大きめの会場ではあったが、間違いなく愛知県芸術劇場が最も理想的な会場である事は言うまでもない。

弦楽配置は、舞台下手側から、第一ヴァイオリン→第二ヴァイオリン→ヴァイオリン-チェロ→ヴィオラのモダン配置であった。

着席位置は二階階正面下手側、客の入りは6割程であろうか、三階席に空席が目立った。観客の鑑賞態度については、概ね良好だった。

ギドン=クレーメルはクレメラータ-バルティカという室内管弦楽団規模の弦楽アンサンブルを創設したことは正解だったと思う。クレーメルとのバランスが自然に取れているし、特に後半では鋭い響きを的確に響かせている。愛知芸文は少し大きいかとも前半思ったが、後半でその認識は覆った。

クレーメルの構成は的確で、かつ繊細に奏でている。音量が特別あるわけではないが、求心力がある。今日はチケット購入時の制約により下手側の席であったが、クレーメルとチェロのソロとの掛け合いを正面から観るのと同然の形となったのは、幸せだった。

クレーメルはやはり大家である。ソロの場面での弱音でさえ感じられる求心力や、クレメラータ-バルティカとの完璧に取られたバランス、この場所ではこのように演奏するべきとの計算とそのように導く統率力、こう言った箇所で大家だと感じられる。

三曲目では、日本の作曲家である梅林茂による「日本の四季」であるが、彼に作曲を依頼し、ドイツでの世界初演から一カ月足らずで名古屋で披露した事を高く評価したい。名古屋フィルハーモニー交響楽団では、小泉和裕次期音楽監督がこれまで行われてきた現代音楽の演奏事業をほぼ全面的に放棄したが、クレーメルと遠いバルト海の楽団がやってくれた事に感謝する。

ピアソジャの「ブエノスアイレスの四季」は、両者の得意とする場面が最も出た演奏だ。故意に出す耳障りな音色、アップ-ボウで繰り出す鋭い音色、クレーメル頼りではないクレメラータ-バルティカの自発性が、ピアソジャの四季を活き活きとさせた。

いつの時代の演奏であれ、残響は音楽と一体不可分なものだ。強く弾き切る箇所でこの事を強く感じる。今回の日本ツアーでは四箇所での公演であるが、愛知県芸術劇場以外の開場は全てアウトだ。マトモなホールで、精緻な室内管弦楽団の演奏を聴けたのは幸せな事である。

それにしても、梅林茂の「日本の四季」と言った作品は、日本のオケが委嘱して日本で世界初演するべきものである。クレーメルとバルト海のオケにより委嘱されドイツで初演されたことを、日本のオケを始めとする音楽関係者は、日本在住者として(日本国籍を持っている者は日本人として)、恥じるべきだ!

作曲された作品は、演奏されなければ生かされないし、演奏されなければ、そこで現代音楽は終わってしまう。一定規模の都市に存在する演奏団体側は、この点の責務を有している。特に名フィル関係者(次期音楽監督及び観客)や、名フィルの保守反動路線の論陣を張った名古屋の文芸の破壊者である長谷義隆をはじめとする中日新聞放送芸能部の連中には、この事をよくよく理解してもらいたい。日本の音楽文化に関わる問題だから!

2015年10月10日土曜日

Nagoya Philharmonic Orchestra, the 428th Subscription Concert, review 第428回 名古屋フィルハーモニー交響楽団 定期演奏会 評

2015年10月10日 土曜日
Saturday 10th October 2015
愛知県芸術劇場コンサートホール (愛知県名古屋市)
Aichi Prefectural Art Theater Concert Hall (Nagoya, Japan)

曲目:
Guillaume Lekeu: Adagio per orchestra da camera op.3 (弦楽のためのアダージョ)
Alban Berg: Concerto per violino e orchestra “Alla memoria di un angelo” (ある天使の想い出に)
(休憩)
Johannes Brahms: Sinfonia n.4 op.98

violino: Алина Ринатовна Ибрагимова / Alina Rinatovna Igragimova (アリーナ=イブラギモヴァ)
orchestra: Nagoya Philharmonic Orchestra(名古屋フィルハーモニー交響楽団)
direttore: Christian Arming (指揮:クリスティアン=アルミンク)

名古屋フィルハーモニー交響楽団は、アリーナ=イブラギモヴァ(ヴァイオリン)をソリストに迎えて、2015年10月9日・10日に愛知県芸術劇場で、第428回定期演奏会を開催した。この評は、第二日目の公演に対してのものである。

管弦楽配置は、舞台下手側から、記録をし忘れている。

着席位置は一階正面後方中央、客の入りは9割程であろうか、かなり観客数は多いと思われたが、チケット完売には至らなかった。観客の鑑賞態度については、ベルクの協奏曲終了時に、指揮者が明確な合図を出す前にフライングの拍手があり、余韻を害した。

アリーナ=イブラギモヴァは、特に第二楽章前半部が素晴らしい。彼女以外の奏者が少なくなればなるほど、彼女は活き活きとしてくる。名フィルの管弦楽も丁寧に演奏していたが、アリーナはリサイタル向けの奏者だとの印象を持った。決して大ホールで大勢の観客を相手にするべき奏者ではない。アリーナ=イブラギモヴァのような、大ホールで演奏させるべきでない奏者の例は、ヒラリー=ハーンを挙げる事が出来る。アリーナが電気文化会館でリサイタルを行う理由が良くわかる。ベルクの協奏曲は、しらかわホールでやっていたら、かなり違った成果が得られただろう。

アリーナ=イブラギモヴァは、音量で攻めるタイプではない。音量的には多分小さいのだろうけど、なぜか響いて、かつ音色の深さで攻めるタイプである事が分かった。いくら愛知芸文でも、大ホールでは無理がある。尚且つあれだけの大管弦楽相手であの曲想では、成果は限定的にならざるを得ない。

後半のブラームス4番は、特に弦楽のパッションが入りまくっており、管楽(特にフルートは素晴らしい)との響きも綺麗にブレンドされ、速めのテンポで躍動感もあり、かつ端正な印象を持つ、素晴らしい演奏であった。若干の、わざとらしさが無いわけでは無く、その点で評価が分かれるかも知れないが。

アルミンクを見捨てた新日フィルは、今頃深く後悔しているであろう。やはり、弦楽が吠えると全てがしっくりし、管楽の装飾と絶妙にブレンドして、パッションと美しさとを兼ね備えた響きが迫ってくる。

3.11の時、福島第一原発があのような事故を起こした状態で、日本在住者でないアルミンクが避難したのは正当な行為だ。それを日本からの逃亡とみなし、追い出した狭量な観客に満たされた東京に戻る必要はない。あれだけキチンとした響きを作り上げる指揮者を追い出した東京は、どうかしている。

2015年10月6日火曜日

Alina Rinatovna Igragimova + Cédric Tiberghien, (6th October 2015), review アリーナ=イブラギモヴァ + セドリック=ティベルギアン 名古屋公演 評

2015年10月6日 火曜日
Tuesday 6th October 2015
電気文化会館コンサートホール (愛知県名古屋市)
Denki Bunka Kaikan Concert Hall (Nagoya, Japan)

曲目:
Wolfgang Amadeus Mozart: Sonata per violino e pianoforte n.25 K.301
Wolfgang Amadeus Mozart: Sonata per violino e pianoforte n.5 K.10
Wolfgang Amadeus Mozart: Sonata per violino e pianoforte n.41 K.481
(休憩)
Wolfgang Amadeus Mozart: Sonata per violino e pianoforte n.35 K.379
Wolfgang Amadeus Mozart: Sonata per violino e pianoforte n.15 K.30
Wolfgang Amadeus Mozart: Sonata per violino e pianoforte n.9 K.14
Wolfgang Amadeus Mozart: Sonata per violino e pianoforte n.28 K.304

violino: Алина Ринатовна Ибрагимова / Alina Rinatovna Igragimova
pianoforte: Cédric Tiberghien

アリーナ=イブラギモヴァは、10月1日から6日に掛けて、セドリック=ティベルギアンとともにモーツァルトのヴァイオリン-ソナタの演奏会を、王子ホール(東京)、電気文化会館(名古屋)にて行う。王子ホールに於いては、五回の演奏会で全曲を演奏する形を取り、この10月では第一から第三のプログラムを演奏した。電気文化会館に於いては、王子ホールでは10月1日に演奏された第一のプログラムのみの公演となる。

この評は、10月6日電気文化会館の公演に対する評である。

着席位置は後方正面中央、観客の入りは9割程か。観客の鑑賞態度は、概ね良好だった。

やはり、アリーナは弱奏を実に深い音色で響かせる。モーツァルトなのに、誤解を恐れずに言えば、どこかロマン派風に、シューベルトの歌曲を聴いているかのように思える箇所もあった。

アリーナの調子は第一曲目からして素晴らしいものがあった。中三日の休息の効果は絶大で、3日の王子ホールでの疲れが目立った公演とは見違える程である。電気文化会館の響きの素晴らしさが、アリーナを的確に援護した。

アリーナの深い音色は、東京の王子ホールでは実現出来ないものだ。電気文化会館でのアリーナは、モーツァルトなので頻度は少ないが、強奏部では伸びやかに激しさを出していたし、弱奏部では深みを伴う音色で響かせいた。

ピアノのティベルギアンも出るべき所は主張して、モーツァルトの比較的ピアノを重視したソナタの真価を表現していた。アリーナとのコンビネーションや、よく考えられた構成も素晴らしく、魅了させられた。

K14 は初期の作品であるが、非常に面白かった。初期のモーツァルトであれだけ深みを出したり、星のようなキラキラした音色を実現させたり、諧謔の要素も盛り込んだりと、様々な意味で興味深い演奏だった。

最後の K304 は、アリーナは控えめでピアノを際立たせる解釈であったが、特にメヌエットが実に深みのある音色で、感銘を受けた。あんなメヌエットがあるんだと、信じ難く、かつ素晴らしい時間でただただ陶酔していた。

アンコールはK296の第二楽章で、 K304 で到達した深みのある音色で魅了させられた。アリーナの真価は、電気文化会館で無ければ分からない。アリーナの真実を知っているのは、東京の観客ではなく、名古屋の観客なのだ!

2015年10月4日日曜日

Batsheva Dance Company, להקת מחול בת-שבע, Yokohama perfomance, review バットシェバ舞踊団 横浜公演 評

2015年10月4日 日曜日
Sunday 4th October 2015
神奈川県民ホール (神奈川県横浜市)
Kanagawa Kenmin Hall (Yokohama, Japan)

演目:
「Decadance - デカダンス- דקהדאנס 」

なお日本公演に於ける「デカダンス」は、下記の演目から抜粋・構成された作品である。
Z/na (1995), Anaphase (1993), Mabul (1992), Naharin's Virus (2001), Zachacha (1998), Sadeh21 (2011), Telophaza (2006), Three (2005), MAX (2007)

ダンスカンパニー:להקת מחול בת-שבע / Batsheva Dance Company / バットシェバ舞踊団

芸術監督:Ohad Naharin (オハッド=ハナリン)

バットシェバ舞踊団は、2015年10月4日から11日まで日本ツアーを実施し、上記演目を、神奈川県民ホール・愛知県芸術劇場・北九州芸術劇場でそれぞれ1公演、計3公演上演する。

この評は、2015年10月4日、神奈川県民ホールに於ける公演に対するものである。

着席位置は一階ず前方中央。観客の入りは一・二階席はほぼ埋まっていたが、三階席は閉鎖していた模様だ。観客の鑑賞態度は概ね良好であった。

名古屋・北九州公演に臨む観客方へ。開場したら、出来るだけ早く自席に着席することをお勧めする。女性は、オシャレして行くと、何かいい事あるかもしれない♪赤い服を着る必要は無いけどね。残念ながら、男性の観客にはいい事は起こらないと思われる♪

(以下、ネタバレ注意。名古屋・北九州公演をご覧になる方は、ご注意願いたい)

昨年11・12月の、CNDスペイン国立ダンスカンパニー「マイナス16」を見た方には、その続編のように思うかもしれない。

コンテンポラリー-ダンスではあるが、純舞踊的路線だけで攻めるだけでなく、物語性を濃厚に感じられる箇所もあり、承前起後の処理も巧みなので、楽しく観る事が出来る。

私の踊り手の好みは、11人が舞台最前列に出て来る演目のセンターを踊った、青緑色?エメラルドグリーン?の衣装の女性である。その演目で、そのダンサーに目を奪われたため、以降よく注目してみた。終盤間近の演目でも、そのダンサーが不規則な動きを始めて、導入部から展開部に移行する画期となる箇所があった。

男性については、後半部の二人の絡み合いが良かった。

多人数で群舞になる際に、微妙に個性の差異が出て来る所が面白い。一方で、千手観音のシーン等、きっちりユニゾンで決めるべき箇所は、ビシッと決めてくる点が印象的だ。

後半の「1,2,3,4,5,6,7,8,9,10」の演目は、「デカダンス」のデカ(=10)と掛けているのだろうか?10の演目からの抜き出し(実際は9の演目数であるが・・・)と言う意味と、事前情報では聞いていたが・・・?

最後の演目「Welcome」にて、開演時刻前のパフォーマンスが回帰し、終了するのは巧みである。オハッド=ナハリンは、開演時刻前にパフォーマンスを実施するのが好きなのか?それにしても、そのパフォーマンスが回帰する構成になっていたとは!

単に純舞踊的路線で攻めるだけでなく、物語性を持つコンテンポラリー-ダンスは少ないと思われるが、バットシェバ舞踊団のダンサーは全員で見事に物語演じた。最後の「Welcome」は、まさしくそんなバットシェバ舞踊団にふさわしい終わり方であった。

2015年10月3日土曜日

Alina Rinatovna Igragimova + Cédric Tiberghien, (3nd October 2015), review アリーナ=イブラギモヴァ + セドリック=ティベルギアン 東京公演 評

2015年10月3日 土曜日
Saturday 3rd October 2015
王子ホール (東京)
Oji Hall (Tokyo, Japan)

曲目:
Wolfgang Amadeus Mozart: Sonata per violino e pianoforte n.40 K.454
Wolfgang Amadeus Mozart: Sonata per violino e pianoforte n.12 K.27
Wolfgang Amadeus Mozart: Sonata per violino e pianoforte n.24 K.296
(休憩)
Wolfgang Amadeus Mozart: Sonata per violino e pianoforte n.43 K.547
Wolfgang Amadeus Mozart: Sonata per violino e pianoforte n.16 K.31
Wolfgang Amadeus Mozart: Sonata per violino e pianoforte n.30 K.306

violino: Алина Ринатовна Ибрагимова / Alina Rinatovna Igragimova
pianoforte: Cédric Tiberghien

アリーナ=イブラギモヴァは、10月1日から6日に掛けて、セドリック=ティベルギアンとともに、モーツァルトのヴァイオリン-ソナタの演奏会を、王子ホール(東京)、電気文化会館(名古屋)にて行う。王子ホールに於いては、五回の演奏会で全曲を演奏する形を取り、この10月では第一から第三のプログラムを演奏する。なお、第一のプログラムのみ、10月6日に電気文化会館にて演奏される。

この評は、10月3日第三プログラムの公演に対する評である。

着席位置は後方正面ほぼ中央、観客の入りは9割5分ほど。観客の鑑賞態度は、時々唸り声が聞こえてきたような気もするが、概ね極めて良好であった。

やはり最後のK.306が一番素晴らしい。

それでも、演奏会全般に渡って、アリーナとセドリックとの二人のコンビネーションは完璧で、どこで誰を前面に立たせるか、二人でどのような響きにブレンドするかの点は、よく考えられている。Mozartのヴァイオリン-ソナタはピアノも同格で主張しなければならないが、セドリックによる的確かつ見事なピアノの演奏により、素晴らしいMozartになる。

劣悪な王子ホールの響きであるが、アリーナはその劣悪な響きを克服する術と力を持っている。セドリックとのコンビネーションの巧みさと合わせ、ピアノとよく調和させた響きを、アリーナは実現させる。

東京の人たちには、アリーナはまろやかで優しい響きの奏者だと思われていると思うけど、それはアリーナが激しく弾くと王子ホールが響きを減衰させて、結果優しい響きになってしまうからである。名古屋の電気文化会館で演奏すれば、アリーナのヴァイオリンは、もっと豊かに、もっと鋭く響くはずだ。激しく鋭い響きこそアリーナの持ち味と考える私としては、きちんと響くホールで演奏して欲しいと思うところであり、紀尾井ホール以外にマトモな中小規模のホールがない東京の聴衆は不幸だと思う。

アリーナには連日かつ別プログラムの疲れが見受けられたが、それでも、最後のK.306は圧巻である。一曲だけでも、王子ホールの響かない特性と折り合いをつけ、あのレベルでやってくれただけで十分だ。

演奏会終了は開始時刻から150分後であり、総演奏時間は120分前後か?これだけ演奏者に負担が大きいプログラムであったのにも関わらず、アンコールを一曲演奏してくれた。K.14の第一楽章であった。

2015年9月27日日曜日

Hagen Quartett, Kyoto perfomance, (27th September 2015), review ハーゲン-クァルテット 京都公演 評

2015年9月27日 日曜日
Sunday 27th September 2015
青山音楽記念館 (京都府京都市)
Aoyama Music Memorial Hall (Kyoto, Japan)

曲目:
Wolfgang Amadeus Mozart: Quartetto n.17 K.458
Wolfgang Amadeus Mozart: Quartetto n.18 K.464
(休憩)
Wolfgang Amadeus Mozart: Quartetto n.19 K.465

Quartetto d'archi: Hagen Quartett
violino 1: Lukas Hagen
violino 2: Rainer Schmidt
viola: Veronika Hagen
violoncello: Clemens Hagen

ハーゲン-クァルテットは、2015年9月から10月に掛けて日本ツアーを実施し、川崎・京都・大阪・東京にて演奏会を開催する。この評は、京都公演に対するものである。

着席位置は前方正面ほぼ中央、チケットは完売した。青山音楽記念館であるからか、観客の鑑賞態度は、極めて良好であった。

全般的にヴァイオリンに不規則に瑕疵があり、技術的にいっぱいいっぱいなのではないかと感じられる箇所もあったので、その点に神経質な方は向かない。

一方で低弦は充実しており、特にチェロのクレメンス=ハーゲンは目覚ましい演奏で聴かせてくれる。響きの説得力が他の三人と格段に違っている。たまたま僅かに下手側の席だったので、クレメンスばかり注目していた。上手側に上手な奏者が座った感じだ。

全般的な解釈は、もちろん鋭さを前面に出している所もあるが、基本的にマトモで真面目な解釈であり、あまり遊び心は感じられない。何が要因かは不明だが、どこかα波が出ている所もある。きちんととした演奏が繰り広げられているのに、眠くなってきてしまうのだ。特に17番で。18番第三楽章終盤のチェロが長いソロを仕掛け、ヴィオラ→ヴァイオリンとフーガで繋げていく所で目が覚める。あのチェロのソロは本当に見事だ。

やはり生真面目な解釈であり、面白い演奏になるか否か、曲想に左右される感がある。決して軽い響きのウキウキとするような、ヴィヴィッドな響きを目指してはいない。モーツァルトに対して、これは正解なのかは、私にはわからない。17から19番については、ヴィヴィッドに演奏してはいけないのかも知れないし。私の好みは後半の19番だった。

アンコールは、モーツァルトの弦楽四重奏曲第14番、K.387から第一楽章であった。

2015年9月26日土曜日

Aichi Chamber Orchestra, the 15th Subscription Concert, review 愛知室内オーケストラ 第15回 定期演奏会 評

2015年9月26日 土曜日
Saturday 26th September 2015
三井住友海上しらかわホール (愛知県名古屋市)
Shirakawa Hall (Nagoya, Japan)

曲目:
Carl August Nielsen: Suite op.1 FS.6 (組曲)
Carl August Nielsen: Concerto per clarinetto e orchestra op.57 FS.129
(休憩)
Jean Sibelius: “La Tempesta” Suite n.2 op.109-3 (「嵐」第二組曲)
Einojuhani Rautavaara: “Cantus Arcticus” op.61 (鳥の協奏曲)

clarinetto: 芹澤美帆 / Serizawa Miho
orchestra: Aichi Chamber Orchestra(愛知室内オーケストラ)
direttore: 新田ユリ / Nitta Yuri

愛知室内オーケストラは、2015年9月26日に三井住友海上しらかわホールで、第15回定期演奏会を開催した。クラリネット独奏は同オーケストラのクラリネット奏者である芹澤美帆、指揮は新田ユリである。

管弦楽配置は、舞台下手側から、第一ヴァイオリン→第二ヴァイオリン→ヴィオラ→ヴァイオリン-チェロのモダン配置で、コントラバスはチェロの後方につく。木管パートは後方中央、ホルンは後方下手側、小太鼓は後方中央、ハープ・チェレスタ・その他のパーカッションは下手側の位置につく。

着席位置は一階正面やや後方中央、観客の入りは六割程である。観客の鑑賞態度は、寝息が聞こえてくる時間帯もあったが、拍手開始のタイミングは適切であり、非常に良好だったと言える。

新田ユリの構成力がしっかりしており、奇を衒わずに何をどうするべきかを明確にした導きに、管弦楽が見事に応えた演奏である。

全般的に弦がしっかりしていて、ニュアンス豊かに、要所を確実に決めてくる。特にニルセン「組曲」第三楽章の強いヴァイオリンの響きや、「鳥の協奏曲」でのチェロのソロが素晴らしい。また、シベリウスは弦楽重視の感もあったが、弦楽が充実していると曲全体が充実して聴こえてくる。

クラリネット協奏曲の芹澤美帆のクラリネットは、曲の進行に連れてノリノリになり、カデンツァその他の難しいそうな見せ場が素晴らしい。

最後のラウタヴァーラの「鳥の協奏曲」は、管弦楽全ての総力が的確に絡み合う見事な演奏である。最初のフルートから決まっていて、これを引き継ぐ管楽、厚みのある弦楽が加わって、ラウタヴァーラの曲を形作る。「鳥の協奏曲」であり、名の通りに鳥の鳴き声がバンダで聴こえたかのように思ったが、実の所は謎である。鳥の鳴き声をステージマネージャーが流したのか。下手側側廊から、舞台袖から、舞台背後の廊下から鳴らしているようにも聴こえる。まさしく舞台上には存在しない鳥がソリストの協奏曲であるが、しらかわホールを知り尽くした構成で魅了された。この作品が聴けただけでも感謝である!。1928年生まれのスオミの作曲家の真価を見事に日本に示した。

アンコールはシベリウスの「舞踏間奏曲」で、センスの良い選曲に加え、熱意のある演奏でこの演奏会を終えた。

2015年9月12日土曜日

Kioi Sinfonietta Tokyo, the 101st Subscription Concert, review 第101回 紀尾井シンフォニエッタ東京 定期演奏会 評

2015年9月12日 土曜日
Saturday 12th September 2015
紀尾井ホール (東京)
Kioi Hall (Tokyo, Japan)

曲目:
Ludwig van Beethoven: Musica per “König Stephan” di Kotzebue (ouverture) op.117 (劇音楽「イシュトヴァーン王」序曲)
Пётр Ильич Чайковский / Pyotr Ilyich Tchaikovsky: Concerto per violino e orchestra op.35
(休憩)
Felix Mendelssohn Bartholdy: Sinfonia n.5 op.107

violino: Антон Бараховский / Anton Barakhovsky / アントン=バラホフスキー
orchestra: Kioi Sinfonietta Tokyo(紀尾井シンフォニエッタ東京)
direttore: Takács-Nagy Gábor / タカーチ-ナジ=ガーボル

紀尾井シンフォニエッタ東京(KST)は、タカーチ-ナジ=ガーボルを指揮者に、アントン=バラホフスキーをソリストに迎えて、2015年9月11日・12日に東京-紀尾井ホールで、第101回定期演奏会を開催した。この評は、第二日目の公演に対してのものである。

管弦楽配置は、舞台下手側から、第一ヴァイオリン→第二ヴァイオリン→ヴィオラ→ヴァイオリン-チェロのモダン配置で、コントラバスはチェロの後方につく。木管パートは後方中央、ホルンは後方下手側、その他の金管・ティンパニは後方上手側の位置につく。

着席位置は一階正面後方僅かに上手側、チケットは完売している。観客の鑑賞態度は、基本的には極めて良好だったが、飴の包み紙の音があったり、拍手が早すぎたりした。音が消えた瞬間に拍手をすることが、いわゆるフラブラである事を認識していない人が少数でもいると厳しい。オペラでもバレエでもないのだから、指揮者が合図をしてから拍手はして欲しい。

アントン=バラホフスキーのヴァイオリン-ソロは、大小の揺らぎを上手く活かしている。大きな周期で、あるいは短い時間内でテンポを変えてくるが、違和感は全く感じないもので、チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲を面白いものにさせる。第三楽章冒頭のソロは、バラホフスキーのソロの白眉である。要所で出てくる木管も適切な響きであり、チェロの出番も効果的で、タカーチ-ナジによりよく準備されているのが伺える。

後半はメンデルスゾーンの交響曲第5番「宗教改革」である。タカーチ-ナジは、引いたかと思わせて一気に押し寄せる、起伏のある波のような演奏で攻めるか一方、必要とあれば響きを繊細にコントロールする。KSTも綺麗な弱音で、あるいは豊かなニュアンスを伴って演奏し、タカーチ-ナジの構成力とこれを実現させるKSTとが、がっちり絡み合う相性の良さが結実する見事な演奏だ。

演奏会終了時のアンコールとして、タカーチ-ナジは、エストニアの作曲家 Arvo Pärt (アルヴォ=ペルト)の「フラトレス」を選んだ。2015年9月11日に80歳の誕生日を迎えたばかりの作曲者の作品は、KSTの繊細さを極めた演奏で活かされた。曲は演奏されなければ活かされない。KSTの特質を把握し、80歳になったばかりのタイミングで現代音楽を紹介した、タカーチ-ナジの見識を最後に示し、名演に満たされた演奏会を終えた。

2015年9月2日水曜日

Matthias Görne, Winterreise, recital review マティアス=ゲルネ 「冬の旅」 リサイタル 感想

2015年9月2日 水曜日
Wednesday 2nd September 2015
松本市音楽文化ホール (長野県松本市)
The Harmony Hall (Matsumoto Municipal Concert Hall) (Matsumoto, Japan)

曲目:
Franz Schubert: Winterreise D911 (冬の旅)

baritono: Matthias Görne / マティアス=ゲルネ
pianoforte: Markus Hinterhäuser / マルクス=ヒンターホイザー

サイトウ-キネン-フェスティバルは、今年も2015年8月9日から9月15日までに掛けて、松本市を中心に長野県内で歌劇・大管弦楽演奏会・室内楽演奏会・ジャズ演奏会・教育プログラムを繰り広げる。その一環として、9月2日にマティアス=ゲルネ 「冬の旅」リサイタルが、松本市音楽文化ホールにて上演された。

なお、「セイジ-オザワ松本フェスティバル」の名称は、そもそもその名称への変更自体に正当性がなく、松本市民の私としては承認できないため、今後も一切用いず、従前通り「サイトウ-キネン-フェスティバル」の名称を用いる。

着席位置は後方中央側、客席の入りは8割程であった。後方三列は殆ど当日券の枠となった。音響の良い後方席に空席が目立ったのは、主催者側の切符の売り方に問題があるのだろう。観客の鑑賞態度は、かなり良好であった。

序盤、松本市音楽文化ホールの響きに戸惑っているようにも思える。このホールでの弱唱部から強唱へ移り変わる場面でのコントロールはは難しそうであったが、5.菩提樹 辺りで弱唱部がよくなり、14. 霜おく頭 辺りからは松本市音楽文化ホールの響きを完全に会得し、盤石な出来で曲を終える。

14. 霜おく頭 からはピアノとの相性も格段に良くなり、そのまま終曲まで緊張感を保って行った。特に、21. 宿 23. 幻の太陽 は圧巻の響きであった。もちろん圧巻と言っても、大声量で圧倒したと言う意味ではない。弱唱の良く通る響きの美しさ、あらゆる声量の場面や声量が移り変わる場面での響きの完成度の高さと言う点で、圧倒したのだ。最後の24. 辻音楽師 が最高の出来だった事は言うまでもない。

私はゲルネが内省的だったのか、精神的だったのかは知らない。内省的やら精神的やら、私にとっては定義不明で意味不明の言葉だけれど、曲がその要素を求めているのであれば、響きになって出てくるものだと思っている。

その演奏がいい音楽か否かは、全て響きによって決定する。私にとって納得できる響きであれば、間違いなく素晴らしい演奏だ。響きが全てと書くと、外見ばかり拘っていると誤解する人もいるだろうが、そのような事はない。内面的な要素が仮に必要であれば、その要素も響きとなって出てくるからである。

マティアス=ゲルネの歌唱は、特に後半部分は、曲に対する深い理解に基づいて響きを形作っている。あれだけ弱い音量でありながら、陶酔して聴ける演奏は珍しい。また、マルクス=ヒンターホイザーのピアノも、前半は歌唱よりも響きがちな部分があったものの、後半はピッタリ寄り添っており、歌唱に入るまえのソロの部分の演奏も優れたものである。

総合的に素晴らしい演奏であり、決して盛り上がる性格の曲ではなかったが、暖かな長い拍手とともに、演奏会を終えた。

2015年8月30日日曜日

Saito Kinen Festival 2015, Chamber Concert II , review サイトウ-キネン-フェスティバル ふれあいコンサートII (室内楽演奏会II) 感想

2015年8月30日 日曜日
Sunday 30th August 2015
松本市音楽文化ホール (長野県松本市)
The Harmony Hall (Matsumoto Municipal Concert Hall) (Matsumoto, Japan)

曲目:
Johann Sebastian Bach: Sonata per flauto e basso continuo BWV1035 (arranged for flute, cello and Harp by Jacques Zoon )(フルート-ソナタ)

flauto: Jacques Zoon / ジャック=ズーン
violoncello: Iseut Chuat / イズー=シュア
arpa: 吉野直子 / Yoshino Naoko

Fryderyk Chopin: Trio con pianoforte op.8 (arranged for flute, cello and Piano by Jacques Zoon )(ピアノ三重奏曲)

flauto: Jacques Zoon / ジャック=ズーン
violoncello: Iseut Chuat / イズー=シュア
pianoforte: 江口玲 Eguchi Akira

(休憩)

Aaron Copland: Fanfare for the Common Man (市民のためのファンファーレ)
Richard Strauss: Feierlicher Einzug der Ritter des Johanniter-Ordens (ヨハネ騎士修道会の荘重な入場)
Giuseppe Verdi: “la Traviata” preludio atto primo (「椿姫」から第一幕前奏曲)
Irish Forl Song: Londonderry Air (ロンドンデリーの歌)

John Williams --Special selection--
1. Main Title from “Superman”
2. The Imperial March from “Ster Wars : The Empire Strikes Back”
3. The Raiders March from “Raiders of the Lost Ark”
4. Main Title from “JFK”
5. The Throne Room and Finale from “the Star Wars” suite

ジョン=ウィリアムズ スペシャル-セレクション
1. スーパーマンのテーマ(映画「スーパーマン」から)
2. ダース=ベイダーのテーマ(インペリアル-マーチ)(映画「スター-ウォーズ 帝国の逆襲」より)
3. レイダース-マーチ(映画「レイダース 失われた聖櫃」より)
4. JFK プロローグ(メイン-タイトル)(映画「JFK」より)
5. 王座の間とエンド-タイトル(スター-ウォーズ組曲より)


tromba: Gábor Tarkövi, Karl Sodl, 高橋敦 / Takahashi Osamu, 服部孝也 / Hattori Takaya
corno: Radek Baborák, 阿部麿 / Abe Maro
trombone: Walter Voglmayr, 呉信一 / Go Shin-ichi, Randall Hawes
tuba: 杉山康人 / Sugiyama Yasuhito
timpani e percussioni: Don Liuzzi, 竹島悟史 / Takeshima Satoshi

サイトウ-キネン-フェスティバルは、今年も2015年8月9日から9月15日までに掛けて、松本市を中心に長野県内で歌劇・大管弦楽演奏会・室内楽演奏会・ジャズ演奏会・教育プログラムを繰り広げる。室内楽演奏会は「ふれあいコンサート」の名に於いて、2プログラム2公演、いずれも松本市音楽文化ホールにて演奏される。

なお、「セイジ-オザワ松本フェスティバル」の名称は、そもそもその名称への変更自体に正当性がなく、松本市民の私としては承認できないため、今後も一切用いず、従前通り「サイトウ-キネン-フェスティバル」の名称を用いる。

着席位置は最後方上手側、チケットは完売している。観客の鑑賞態度は、かなり良好であった。

今回の「ふれあいコンサートII」は、前半はクラシックの室内楽、後半は金管アンサンブルによるガラ-コンサートの形態を取る。後半に関しては映画音楽を演奏するなど、ポピュラー路線に振っているプログラムであるとも言える。どのような演奏会になるのだろう?

前半の二曲は、普通にいい演奏である。ジャック=ズーンとイズー=シュアの二人は、ピンク色の衣装を着ている。ショパンの第三楽章・第四楽章は良かったかな。

圧巻は後半の金管サンサンブルである。まさに世界最強の金管アンサンブルが、この松本市音楽文化ホールに現れた!

第一曲目のコープランドの作品から完璧な演奏である。完璧な響きでありテンポであり構成であり、パッションと様式の両方を満たす演奏だ。

完璧とはなんであろう?

第一点として、松本市音楽文化ホールは残響が長めで、かつ696席の中規模ホールであり、飽和点を適切に見極める必要がある。最強奏をどのくらいの音量とするべきかについて、飽和点ギリギリの点を的確に把握している。その点から逆算して、中音量・小音量の音量をシームレスに定義し、的確に音量をコントロールしている。

第二点として、響きが美しい。本拠としている出身楽団が違うと言うのに、12名金管・打楽器奏者の心が一致している。合奏精度は高く、ズレは全く感じられない。また、一人ひとりがどのように演奏すれば、ブレンドされてどのように聴衆に伝わるか、誰もが的確に認識している。ソロの響きも美しいが、トゥッティで演奏している時の響きも絶妙にブレンドされ、夢見るような響きとなるのだ。

第三点として、特定のスーパースターに依存する演奏ではない。Gábor Tarköviは案外控えめで、他のトランペット奏者に演奏させている時間が長かったが、誰もが的確な響きを産み出している。重ねて書くが、全員が心を一つにしている演奏であるのだ。

完璧な音楽とは、ホールの響きを知り、曲を深く理解し、個々の奏者がどのように演奏すればどのような響きになるか綿密に計算し、その通りに演奏する事である。その全てが決まっていたからこその、世界最強の金管アンサンブルである!!

曲目がクラシカルなリヒャルト=シュトラウスであろうと、ジョン=ウィリアムズの映画音楽であろうと、古典的様式美を完璧に満たしている。この古典的様式美が全ての基礎であり、その上にパッションを乗せる技術が、傑出した音楽を産み出すのだ

松本市音楽文化ホールでの公演では、2014年10月2日(Arcanto Quartett)以来の、即スタオベを、私は敢行した。

アンコール一曲目は「威風堂々」、二曲目は予定されていなかったが、観客半立ち(後方の観客がスタンディング-オベーションを行っていた)の熱狂に応え、「レイダース-マーチ」をもう一回演奏し、観客総立ちとなった!

演奏会終了後の観客の顔は、みんなどこか高揚した顔をしている。いい演奏会の後はいい顔をしているものであるが、違った顔をしている。どこかみんな冷静さを失い興奮し切っている。どれだけ凄い演奏を展開したかが分かるような顔だ。

1920年生まれのRobert Mann(ロバート=マン、ジュリアード弦楽四重奏団の奏者だった)が演奏していた時の、サイトウ-キネン-フェスティバル室内楽演奏会の黄金時代を取り戻した。サイトウ-キネンの室内楽演奏会で、観客総立ちのスタンディングオベーションが起こったのは、何年ぶりの事だったろうか?

2015年8月30日、日曜日、ふれあいコンサートII 、世界最高の金管アンサンブルは、 サイトウ-キネン-フェスティバルの歴史に残る名演を披露した。サイトウ-キネンに於ける歴史的名演である事に、疑いを持つ者は誰もいない!!松本市音楽文化ホールの響きを熟知し、完璧な計算による響きを見事に実現した!この歴史的名演は、私たち松本市民の誇りである、松本市音楽文化ホールの響きと、世界最高の演奏者たちによって成し遂げられた。 全ての演奏者たちに感謝と万歳を贈る。そして、音文万歳!松本市音楽文化ホール万歳!!

2015年8月28日金曜日

Saito Kinen Orchestra, Fabio Luisi , 28th August 2015 Concert, review サイトウ-キネン-オーケストラ+ファビオ=ルイージ 2015年8月28日演奏会 感想

2015年8月28日 金曜日
Friday 28th August 2015
長野県松本文化会館 (長野県松本市)
Nagano-ken Matsumoto Bunka Kaikan (Nagano Prefectural Matsumoto Theater)
(Matsumoto, Japan)

曲目:
Franz Joseph Haydn: Sinfonia n.82 Hob.I:82
(休憩)
Gustav Mahler: Sinfonia n.5

orchestra: Saito Kinen Orchestra(サイトウ-キネン-オーケストラ)
direttore: Fabio Luisi (指揮:ファビオ=ルイージ)

ファビオ=ルイージを指揮者に迎えて、2015年7月28日に長野県松本文化会館にて開催された。このプログラムによる演奏会は、この一回のみであった。

管弦楽配置は、舞台下手側から、第一ヴァイオリン→第二ヴァイオリン→ヴァイオリン-チェロ→ヴィオラのモダン配置で、コントラバスはチェロの後方につく。木管パートは後方中央、ホルンは後方下手側、その他の金管は後方中央から上手側、ティンパニは後方中央、ハープは下手側の位置につく。

着席位置は二階正面やや上手側最前方、チケットは僅かに完売には至らなかったが、ほぼ満席である。観客の鑑賞態度は、二階で飴の包み紙の音が若干あった以外は、極めて良好であった。

ハイドン82番の、弱奏部で「大ホールのハイドン」となる箇所こそあれ、全般的には、この音響が劣悪の長野県松本文化会館をものともしない演奏だ。このホールにしては驚異的な響きであり、これ以上は望めない。松本市音楽文化ホールでやってくれたら、弱奏部も迫る響きだ。

ハイドンでファビオ=ルイージは奇を衒う事をせず、この箇所ではこの響きでないといけないと言うことを、説得力を持って示している。緊張感を伴う構成力は見事だ。

弦楽はパッションが込められている。ハイドンが仕掛けた数々の仕掛けを的確なニュアンスとともに、ルイージの構成力の下で完璧な響きで圧倒する。

管弦楽の明確な意図は、長野県松本文化会館の劣悪な響きに阻まれる時でさえ、意図を理解することが出来る。それだけに、大管弦楽向けにこのような演奏会場しか提供できない事を、松本市民として、長野県民として恥じるばかりだ。意図を理解出来るが響きとして観客に迫れないのは、全面的にホールの責任であり、もどかしい思いで弱奏部は聴いていた。

一方で後半の、マーラーの5番は、もちろん見事な個人技が聴けたし、部分的に素晴らしい箇所はあったけど、私にとっては不完全燃焼である。ブラボーの数も多く、スタンディング-オベーションを送っている観客もいた。何か、取り残された気持ちで、あっさりと会場を後にした。私は変わり者なのか、偏屈なのかと思いながら。

しかしながら、誰が何と言おうが私にとっては、全体的な完成度はハイドンの方がずっと良かった。

もちろん、タルコヴィのトランペット、バボラークのホルン、いずれもも素晴らしい。(バボラークのホルンは柔らかい響きが特色であり、今回はその特色は出ていなかったが、これは曲想上の問題であり、バボラークの責任ではない)

しかし、私にとっては、やはりどこか違っていた。

マーラーよりも、ずっとずっとハイドンの方が弦楽が好みだった事もあるかもしれない。マーラーの弦楽のスカスカ感があったのは、確かに私の好みではない。ハイドンよりも弦楽の数が多いのに、ハイドンよりも響いていない印象が強い。第四楽章では、そのスカスカ感はなかったけれど。吹奏楽ファンにとっては素晴らしかったに違いないけど。。

作曲家としてのハイドンの完璧さと、マーラーの不完全さが露わになってしまったのかなあ。

ルイージとハイドンとの相性は完璧で、その完璧さをマーラーにまで求めた私が間違っているのかもしれないけれど、あのマーラーはルイージらしくはなかった。

ハイドンではルイージが仕掛けた箇所はバッチリ決まっているけど、マーラーでの仕掛けはどこかチギハグな印象で、作為的との感想を抱かざるを得ない。

ルイージにとって、ハイドンについての解釈は深いレベルまで完璧だったけど、マーラーについてはどうだったのだろう?

ハイドンでの完璧さが崩れさっていくのを聴くのは、正直ちょっと辛かった。

松本市音楽文化ホールで、ハイドン・モーツァルト・前期シューベルトのプログラムだったら、完璧なプログラムだったのだろうな。うーむ。

2015年8月27日木曜日

Saito Kinen Festival Matsumoto 2015, Opera ‘Béatrice et Bénédict’ review サイトウ-キネン-フェスティバル 歌劇「ベアトリスとベネディクト」 感想

2015年8月27日 木曜日
Thursday 27th August 2015
まつもと市民芸術館 (長野県松本市)
Matsumoto Performing Arts Centre (Matsumoto, Japan)

演目:
Hector Berlioz: Opera ‘Béatrice et Bénédict’
エクトル=ベルリオーズ 歌劇「ベアトリスとベネディクト」

Beatrice: Marie Lenormand (マリー=ルノルマン)
Benedict: Jean-François Borras (ジャン-フランソワ=ボラス)
Hero: Lydia Teuscher (リディア=トイシャー)
Claudio: Edwin Crossley-Mercer (エドウィン=クロスリー-マーサー)
Don Pedro: Paul Gay (ポール=ガイ)
Somarone: Jean-Philippe Lafont (ジャン-フィリップ=ラフォン)
Ursule: Karen Cargill (キャレン=カーギル)
Leonato: Christian Gonon (クリスティアン=ゴノン)
A Messenger / Notary: Vincent Joncquez (ヴァンサン=ジョンケ)

Coro: Saito Kinen Festival Matsumoto Chorus (合唱:サイトウ-キネン-フェスティバル松本合唱団)

Director: Côme de Bellescize (演出:コム=ドゥ-ベルシーズ)
Set design: Sigolène de Chassy(装置:シゴレーヌ=ドゥ-シャシィ)
Costumes design: Colombe Lauriot-Prévost (衣裳:コロンブ=ロリオ-プレヴォ)
Lighting design: Thomas Costerg (照明:トマ=コステール)
Video Images: Ishrann Silgidjian (映像:イシュラン=シルギジアン)

orchestra: Saito Kinen Orchestra (管弦楽:サイトウ-キネン-オーケストラ)
direttore: Gil Rose (指揮:ギル=ローズ)

サイトウ-キネン-フェスティバル実行委員会は、2015年8月24日から8月29日までの日程で、エクトル=ベルリオーズ歌劇「ベアトリスとベネディクト」を、まつもと市民芸術館にて3公演上演する。この評は2015年8月27日に催された第二回目の公演に対するものである。

当初予定されていた、指揮の小澤征爾(Ozawa Seiji)、ベアトリス役のVirginie Verrez(ヴィルジニー=ヴェレーズ)は、それぞれ負傷・病気のため降板した。

着席位置は一階最前方ほぼ中央である。チケットはこの日の公演のみ当日券発売をしており、当日券対応となる。サイトウ-キネン-フェスティバルが主催者も観客も小澤征爾頼みであることを反映している。小澤征爾が引退した時に、サイトウ-キネン-フェスティバルはなくなる見解に変わりはない。観客の鑑賞態度は良好であった。

舞台は伝統的なものであり、衣装を含めて前衛的な要素は何一つない、正統的なものだ。昨年同様に、舞台で観客の目を眩ます事はせず、音のみで勝負する形態である。但し、照明・映像を用い方については効果的で、朝から夜までの時間を的確に舞台上に表出している。下手側に、中央から上手側からしか見れない視覚となる箇所にも舞台はあるが、基本的に物語の中心となる部分がその箇所で演じられる事はなく、背景として用いられている。

ソリストの出来について述べる。

主要ソリストは、ベアトリス役のマリー=ルノルマン以外全てが素晴らしい。

エロー役のリディア=トイシャーは、見栄えも声も可憐で、第一幕の装飾音から決めてくる。リディア=トイシャーとウルスル役キャレン=カーギルによる、第一幕終盤の二重唱は完璧な繊細さを伴う響きで表現される。管弦楽の見事な弱奏に支えられた夢見るような時間だ。

楽団指揮者ソマローネ役のジャン-フィリップ=ラフォンは傑出した素晴らしさである。圧倒的な声量と諧謔に満ちた演技で、強烈なアクセントを添えるあの最強合唱団との掛け合いも傑出していた。

ベネディクト役のジャン-フランソワ=ポラスも、主役の一人として、確実な声量を伴いつつ、よく通る声で圧倒した。あの声で口説かれたら、女性たちはメロメロだろう♪

ベアトリス役のマリー=ルノルマンは、カルメンのような強烈な女が「愛の犠牲者」になるところが肝であるので、何よりもパワーが必要となるが、その点に欠けていた。急遽降板した歌い手の代役であり、しょうがないかという感じだ。

次に、合唱について述べる。

第一幕では、合唱団の練習風景も素晴らしい。声量は圧倒的で、音程が合っているような違っているような、上手いのか下手なのか分からない合唱が面白い。

第二幕では、酔っ払った場面の弾けぶりから凄過ぎで、合唱団の方々の飲み会の騒がしさを想像するに、恐ろしい気持ちになる程である。

一方で、バンダで結婚のお誘いをする場面は、静かな歓びに満ちた、繊細な表現に転ずる。

最後の最強唱も素晴らしい完成度で、これ以上は望めない。ベアトリスとベネディクトが結婚を決意した際の、はやし立てる「ヒュー」もお見事である。

管弦楽について述べる。

管弦楽は実に的確な響きで基盤を構築する。この場面ではこの響きと、求められている響きが見事に実現される。弱奏部が繊細でありながら確実に響き、ギターの箇所や第一幕終盤の二重唱で、見事に活きる。サイトウ-キネン-オーケストラの実力はもちろんのこと、指揮を担当したギル=ローズの構成力の賜物だ。

総合して、サイトウ-キネン-フェスティバルに相応しい素晴らしい水準である。日本で望み得る最高の出来で、歌い手・管弦楽・指揮者が三位一体となって、この まつもと市民芸術館 の素晴らしいインフラの上に、結実させたと言える。

幸せな高揚感で劇場を後にする「ベアトリスとベネディクト」であった。

2015年8月23日日曜日

Saito Kinen Festival 2015, Chamber Concert I , review サイトウ-キネン-フェスティバル ふれあいコンサートI (室内楽演奏会I) 感想

2015年8月23日 日曜日
Sunday 23th August 2015
松本市音楽文化ホール (長野県松本市)
The Harmony Hall (Matsumoto Municipal Concert Hall) (Matsumoto, Japan)

曲目:
Ottmar Gerster: Capriccietto per quattro timpani e orchestra d'archi (4つのティンパニと弦楽のためのカプリチエット)
timpani: Roland Altmann
orchestra: Saito Kinen Orchestra String Ensemble

Joseph Schwantner: Velocities (moto perpetuo)
marimba: 竹島悟史 / Takeshima Satoshi

Jacob ter Veldhuis: Goldrush
Percussione: 竹島悟史 / Takeshima Satoshi, 藤本隆文 / Fujimoto Takafumi
(休憩)
Franz Schubert: Ottetto in fa maggiore D803
violino: 竹澤恭子 Takezawa Kyoko/ , 会田莉凡 / Aida Ribon
viola: 今井信子 / Imai Nobuko
violoncello: 辻本玲 / Tsujimoto Rei
contrabbasso: 池松宏 / Ikematsu Hiroshi
clarinetto: Charles Neidich
fagotto: Marc Goldberg
corno: Julia Pilant

サイトウ-キネン-フェスティバルは、今年も2015年8月9日から9月15日までに掛けて、松本市を中心に長野県内で歌劇・大管弦楽演奏会・室内楽演奏会・ジャズ演奏会・教育プログラムを繰り広げる。室内楽演奏会は「ふれあいコンサート」の名に於いて、2プログラム2公演、いずれも松本市音楽文化ホールにて演奏される。

なお、「セイジ-オザワ松本フェスティバル」の名称は、そもそもその名称への変更自体に正当性がなく、松本市民の私としては承認できないため、今後も一切用いず、従前通り「サイトウ-キネン-フェスティバル」の名称を用いる。

着席位置は最後方下手側、チケットは完売している。観客の鑑賞態度は、ごく少数の人たちによる飴の包み紙の音さえ無ければ、かなり良かった。

演奏について述べる。

第一曲目ゲルスターのカプリチェットは、弦楽セクションは控えめでアルトマンの独擅場の感じである。弦楽が弱く聴こえたのは、下手側だったせいか?チケット確保の制約により止むを得ずその場所にしたが。

この曲は、2015年5月に水戸室内管弦楽団第93回定期演奏会にて、既に演奏されている。ひょっとすると、既に演奏したかなり小容積の水戸芸術館の響きが影響していたのかもしれない。室容積が大きい松本市音楽文化ホールへ適応する時間が少し足りなかったのか?

二曲目の「ヴェロシティーズ」・三曲目の「ゴールドラッシュ」は、ソロ、あるいはデュオであり、バランスがよく取れた素晴らしい出来だ。

後半は、シューベルトの八重奏曲、D803 である。冒頭から弦楽と管楽とがバラバラで、テンションが萎える。管楽が響かせ過ぎる一方で弦楽が鳴らない。クラリネット・ホルンは、2000名希望の多目的ホールのような演奏をしていて、耳を悪くしそうな音量だ。しかし、弦楽の対抗力があまりに弱く、そもそも、きちんとしたサウンドチェックを行っているのか、疑問に感じざるを得ない。

弦楽の弱さについては、竹澤恭子が犯人だと判明する。第一楽章では、第二Vnの会田莉凡ちゃんが、ほんの一小節か二小節で前に出ているけれど、竹澤恭子はこれに応えない。クラリネット・ホルンの音量が大き過ぎた一方で、竹澤恭子は何の対抗も出来なかった。

クラリネット・ホルンは、楽章が進むにつれ、明らかに響きを変え、弦楽とある程度調和させてきた。これにより、第一楽章でのバラバラな印象は薄らいだ。

しかし、竹澤恭子は、特に音の多い箇所で十分に響かせず、弱音の音色の美しさで攻めている訳でもなく(弱音の響きは全く綺麗ではなく、説得力がない)、音符がきちんと刻まれずに曖昧にしか聴こえず(私が最も嫌う奏法である)、何をしたいのか理解に苦しむ演奏だ。こんな感じだったら、若手のリボンちゃんに第一ヴァイオリンを譲った方が良かっただろう。若手らしく、怖いもの知らずに思い切って行かせた方が、断然面白くなったろうに。

それにしても、何度、竹澤恭子によってブレーキを掛けられたか!第一ヴァイオリンよりもチェロの方が響く事態は、異常事態だ。それでも、最終楽章でのニュアンスを掛けた箇所だけは、竹澤恭子の意地を見せたか?

チェロはよく響いた。チェロ奏者も周囲の奏者も、その点の配慮を行き渡らせたのだろう。ヴィオラの今井信子さんは、最終楽章で的確な響きで出てくる場面はさすがである。これらの場面の演奏は素晴らしい箇所である。

アンコールはなかった。

2015年8月11日火曜日

国立劇場おきなわ 県外公演 「琉球フェスタ in 川越」 感想

2015年8月8日 土曜日
ウェスタ川越 (埼玉県川越市)

演目:
・組踊公演「二童敵討」
・三線音楽「うた・さんしん」
・うちなーミュージカル公演 「かりゆし・かりゆし~恋するシーサー~」

出演:
・組踊公演「二童敵討」
[配役]
あまをへ:宇座仁一 
亀千代:玉城匠
鶴松:西門悠
供一:川満香多
供二:伊野波盛人
供三:阿嘉修
母:真境名律弘
きょうちゃこ持ち:大浜暢明

[地謡] 
(歌三線)玉城正治・上原睦三・玉城和樹
(箏)新垣和代子(笛)入嵩西諭(胡弓)森田夏子(太鼓)高宮城実人


・三線音楽「うた・さんしん」
[宮廷音楽の世界]
古典音楽斉唱「かぎやで風節・揚作田節」  (踊り手) 宇座仁一
若衆踊「四季口説」            (踊り手) 喜納彩華  玉城知世
二才踊「前の浜」             (踊り手) 伊野波盛人
女踊「天川」               (踊り手) 真境名律弘
古典音楽独唱 「二揚仲風節」       (歌三線) 玉城正治  
   
[島々のうた]
宮古島のうた          (歌三線) 川満香多 
八重山諸島のうた        (歌三線) 入髙西諭
沖縄本島のうた         (歌三線) 仲村逸夫 島袋奈美
                (踊り手) 西門悠雅 玉城知世 喜納彩華 
雑踊「加那よー天川」      (踊り手) 阿嘉修  小嶺和佳子
   
(地謡)
(歌三線)上原睦三・仲村逸夫・玉城和樹
(箏)新垣和代子 (笛)入髙西諭 (胡弓)森田夏子 (太鼓)川満香多


・うちなーミュージカル公演 「かりゆし・かりゆし~恋するシーサー~」
シーサー(夫)・人間(女):小嶺和佳子
シーサー(妻)・人間(男):玉城匠

(地謡)髙宮城実人・玉城和樹・入髙西諭・森田夏子・島袋奈美・新垣和代子
(後見)川満香多・大浜暢明・喜納彩華・玉城知世
(脚本・演出)嘉数道彦 
(振り付け)阿嘉修 
(音楽)仲村逸夫


国立劇場おきなわ は、2015年8月7日から8月9日に掛けて、「琉球フェスタ」を、竣工間もないウェスタ川越にて「開館記念公演」の一環として上演した。国立劇場おきなわ の沖縄県外公演の機会は少ないので、貴重な機会である。7日は前夜祭、8・9日が本公演である。本公演は13時から21時頃まで掛けて、古典からコンテンポラリーまで幅広いジャンルの琉球舞踊を展開した。この感想は、8月8日公演のものである。なお、この公演は沖縄県文化観光戦略推進事業の助成を受けている。

着席位置はど真ん中やや前方。客の入りは3割弱であろうか、二階席・三階席は閉鎖、観客の鑑賞態度は、若干のノイズと公演中の入退場があった。29列まである一階席は、22列目に音響調整卓を置いていて、その前方に観客がいる形であるが、当然左右両端には空席が目立った。

 「かりゆし・かりゆし~恋するシーサー~」では観客の数が200名規模で、苦笑してしまうほどのガラ空き状態である。

この客席の状況は妥当で、誰かの努力不足だとか、そんな問題ではなく、そもそもウェスタ川越の1700名規模のホールが大き過ぎる。国立劇場おきなわ の張り出し舞台時の席数は600名弱、東京から離れた川越での公演、琉球舞踊に対する関心を持っている人たちの少なさを考えれば、これだけ集まればいい数字である。

組踊「二童敵討」は、張り出し舞台の形であるが、舞台の上に張り出し舞台を載せた形で、本拠地と同様に客席に張り出す形にならなかったのは残念であるが、アウェイ公演でもあり止むを得ないか。

演目の性格上、踊りの見所が少なめであり、初めて組踊を観る観客を対象とするには、刺激が足りないかもしれない。本年1月に上演した「辺戸の大主」にしておいた方が、ストーリー性はないけれど、純舞踊的要素としては圧倒的に面白いような気はする。

三線音楽「うた・さんしん」と合わせ、宮廷舞踊であれ雑踊であれ、様式美を満たしているように思えた。歌と楽器とのバランスが概して取れていたため、声量の小ささは感じられなかった。[島々のうた]でのみ、生音でなく電気的に増幅を掛けていたかもしれない。

このような事を書いたら怒られるかもしれないが、実のところ、現代琉球舞踊劇「かりゆし-かりゆし-恋するシーサー」が一番好みであった。2014年3月3日に初演になったばかりの、伝統のない現代演目であり、意外な結果であったのだけれど。

沖縄県文化観光戦略推進事業の補助金を受け、2014年3月と2015年3月に国立劇場おきなわ小劇場でそれぞれ四公演上演され、第9公演目にしてようやく本土での公演となった。

国立劇場おきなわ の芸術監督である嘉数道彦による脚本・演出である。

伝統と現代を組み合わせたり、琉球語と共通語を対比させたりするのが巧妙だ。歌も踊りも完成度が高い。伝統的な琉球の楽器を用いたのは効果的である。楽器と舞踊についてはブレずに伝統路線を堅持したのは正解である。ストーリーの構成も無理がない展開である。人間ではそのままであるが、シーサーでは夫を女性が演じ、妻を男性が演じたのも面白い。

伝統を知り尽くした嘉数道彦ならではの、初心者向けとは侮れない、実に素晴らしい作品であった。

2015年8月1日土曜日

Noism 近代童話劇シリーズ vol.1 「箱入り娘」 感想

2015年8月1日 土曜日
新潟市民芸術文化会館 りゅーとぴあ スタジオB (新潟県新潟市)

演目:箱入り娘

出演:Noism1

箱入り娘(我儘娘):井関佐和子
Ne(e)T(無業男):佐藤琢哉
老魔女(悪戯老婆):石原悠子
イケ面(木偶の坊):吉﨑裕也
湖母(娘の養母):簡麟懿(男性である)
お芋(娘の侍女):池ヶ谷奏
欅父(娘の養父):上田尚弘
deザイナー(衣装デザイナー):梶田留以
あしすたんと(deザイナーのアシスタント):亀井彩加
花黒衣(老魔女のアシスタント):亀井彩加・梶田留以
カメラ兎(謎の撮影者):角田レオナルド仁

振り付け・演出:金森穣
音楽:バルトーク=ベーラ「かかし王子」
衣装:堂本教子
映像:遠藤龍

Noism 1は、2015年6月6日から8月1日に掛けて、「箱入り娘」を本拠地新潟で13公演・横浜で6公演・金沢で2公演、計21公演上演した。この感想は、8月1日千秋楽公演のものである。

着席位置は下手側かつやや後方、チケットは完売している。7/25以降のチケットは全て完売したとの情報が入っている。観客の鑑賞態度は極めて良好であった。

(以下、演劇色の強い舞踊であり、新作であるため、ネタばれ注意!)

りゅーとぴあの4階にあるスタジオBでの公演である。開演30分前にホワイエまで入場が可能となる。ホワイエには仕掛けが一つあり、覗いてみてねと貼り紙がある。覗いてみると、(私の部屋ほどではないけど♪)散らかっている和室が一つあるが、特に何の変哲もない。何だろうなあと思いつつ。。

観客の入場が終了するかしないかの内に、明らかに観客席を映している映像が、舞台のスクリーンに映し出される。映し出されて手を振っている観客もいる。どこにカメラがあるのか探して見たところ、舞台下手側にいるピンク色の兎によるものだ。しばらくその光景が続いた後、大きな物音がしてからだったか、登場人物の紹介がどこかの地方語を用いて為される。どこの地方語かは分からないが、琉球語でもなく球磨語でもないため、共通語さえ分かっている観客であれば理解は可能だ。

私にとってNoism公演は初めてで、井関佐和子さんを実際に目にするのは初めてであったが、「箱入り娘」役で登場した彼女は予想に反して可愛い。予想に反してなどと言うと消されてしまいそうだが、ずっとボーイッシュなイメージが強かったので、白い衣装に包まれて、予期していたイメージとは違っていたので。。

演劇色の強い舞踊である。冒頭の登場人物紹介以外に言葉はない。箱入り娘はイケ面大好き、まずはイケ面を狙う。木偶の坊でも何でも、イケ面でさえあればいいのだ。Ne(e)Tは箱入り娘が大好きで狙っていたり、妄想に耽っていたりし、スクリーンに映し出される映像により、ホワイエに展示されていた部屋が実はNe(e)Tの部屋である事が明かされる。

しかしながらイケ面は変態(途中から背中から尻まで露出するスーツ姿となる)である事が明らかになり、実はNe(e)Tはそこそこイケメンであり、箱入り娘は乗り換えようとしたりするが、その辺りの展開が最も面白く私の好みの箇所である。

結局は、箱入り娘は老婆になって終わる。どこまでが映像でどこからが妄想なのか?スクリーンに映し出されるホワイエの映像はどこまでがライブでどこからが収録物の再生なのか?金森監督は観客に対して内緒にしている。

アフタートークで金森監督が出て、いくらか質問に答えたりする。観客からの質問も、要領を得ないものや自分語りのものは全くなく、素晴らしい質問ばかりだ。金森監督は飄飄とした雰囲気でありながら、かなり真面目に回答してくれる。

終盤近くの海の映像は、新潟市西部にある五十嵐浜で収録したものであるとのこと、新潟を本拠地にしているだけあり、日本海の映像であることは必須だったらしいが、地元でよい撮影地があったとのことだろう。

この「箱入り娘」は、「水と土の芸術祭」の一環として、小学生以下のみの観客の公演を一公演、65歳以上のみの観客の公演を一公演、上演している。観客の反応が通常公演と違っていたそうだ。小学生以下の公演ではピンク色の兎に対する反応が、65歳以上の公演ではお芋(娘の侍女)に対する反応が強かったとのこと。地味系なお芋が恋を成就させるかも・・・、の箇所での反応が鋭かったらしい。

Ne(e)Tの別室については、横浜KAAT公演では りゅーとぴあ よりも舞台面積が広かったため、舞台上に別室を置いたとのこと、金沢では別室の設置スペースがなかったとのことである。観客がホワイエに設置してあるNe(e)Tの部屋を覗いてみる事が出来たのは、本拠地である りゅーとぴあ 観客のみであったのかもしれない。

6月にこの「箱入り娘」の公演が始まった時は賛否両論であったらしいが、否の意見の内容とは、シャープなダンスが観られないことのようだ。まあ「近代童話劇シリーズ」なのだから、その路線の公演内容ではないだろうな。

Noismの存在をしったのは、私が舞踊公演を頻繁に観劇しに行くようになってからなので、約一年くらい前の話か。2011年のサイトウ-キネン-フェスティバルで松本に来たようであるが、そもそもペルー旅行を最優先して一公演も観に行かなかったし、そもそもこの舞踊に対する関心が全くなかった頃なので、存在を知らなかったのだ。横浜KAATでも金沢21世紀美術館でも、ましてや(別の演目であるが)NHKホールで初めてNoismを観劇することは、信越地区在住の私としては決してしたくなかった。念願を本拠地である新潟市の りゅーとぴあ でかなえる事ができ、嬉しく思う。

演劇面でも舞踊面でも素晴らしい公演である。今後とも出来得る限り新潟で、Noismの公演を見に行きたい。

2015年7月26日日曜日

まつもと市民芸術館「空中サーカス」2015 感想

2015年7月20日(月)・26日(日)
まつもと市民芸術館 (長野県松本市)

演目:空中サーカス

出演:
歌い手・俳優部門:
串田和美・高泉淳子・小西康久・内田紳一郎・片岡正二郎・秋本奈緒美・近藤隼・佐藤卓・細川貴司・下地尚子

音楽(バンド)部門:
coba・大熊ワタル・花島英三郎・キデオン=ジュークス・熊谷太輔・杉山卓

サーカス・大道芸部門:
ジュロ・ロラン・ロッタ・スティーナ・メリッサ・サラ・金井ケイスケ・目黒陽介・宮野玲・ジェームス=ヨギ

構成演出:串田和美
音楽:coba
サーカスアドヴァイザー:ジュロ

以降、ネタばれ注意!もともとストーリ性がない作品ではあるが、2011年以来二年に一回開催されてきた「空中キャバレー」が今後も上演される場合、舞台装置の設定や、どのような出し物があるかが、この感想によりある程度明らかになってしまう。これまでの「空中キャバレー」をご覧になっていない状態で、2017年に初めて観劇する場合に白紙の状態で臨みたい方は、これ以降は閲覧されないようお勧めする。

まつもと市民芸術館にて、2015年7月17日から26日に掛けて「空中キャバレー」を9公演上演した。私が臨席したのは、4回目の7月20日公演と、千秋楽7月26日公演である。

入口は、西側搬入出口という異例の場所である。まつもと市民芸術館は、東側から搬入用トラックを入れ、舞台北側に横付けし搬入作業後、西側からトラックを出す事が出来る、先進的かつ機能的な搬入システムを用いている。東側搬入入口・西側搬入出口にはシャッターが備え付けられ、真冬の氷点下環境であっても、屋内環境で搬入作業を行う事が出来る。

いつもは閉じられている西側搬入出口のシャッターが開けられ、開場前に集まった観客は搬入作業スペースに誘導される。開場後は、東側舞台搬入口から脇舞台へと誘導される。まつもと市民芸術館は田の字型四面舞台となっており、南西側に主舞台・北西側に奥舞台・主舞台と奥舞台の東側にそれぞれ脇舞台を設置している構成となっている。この公演では主・奥舞台の西側と、脇舞台の東側とを分けており、二分割して用いている。

脇舞台(及びチケットコントロール後の制限区域内の搬入作業スペース)には「空中マルシェ」があり、十ほどの地元企業による仮設店舗が営業している。パンやクッキー・花・ガラス細工・木工作品・絵までも売られている。もちろん、そこで腹ごしらえも可能だ。

前半60分、後半100分、休憩20分を含めると三時間もの長丁場、冷房の効いた脇舞台で軽く食事が取れることは大きい。

脇舞台には「空中マルシェ」の他、小舞台が設置され大道芸が披露されたり、ロッタ+スティーナによるスオミ国コンビがチョコチョコ動き回って、サーカス技を披露していたり、どこかで誰かが歌っていたり、サラが脇舞台1号ホイストから吊り下げられたロープ下りパフォーマンスを繰り広げたりする。プロセニアム高さが15mであることからすると、同じ高さのキャットウォークからロープに移り、ホイストで3m程東側壁から西側へ移動して、スリルあふれる技を伴って下りてくる。客席で落ち付いている開演前の時間ではなく、既にプロローグが始まっているような、賑やかな時間だ。

開演時刻になると、秋本奈緒美がハーメルンの笛吹き女となって、目印を持って観客を主舞台東側下手側から誘導する。この公演の本番では、主舞台と奥舞台をつなげて使っているが、奥舞台には「実験劇場」用の椅子が360席設置されている。大劇場では南側に観客席があるが、「実験劇場」として用いる場合には、北側に観客席が設けられる。主舞台は大劇場公演・「実験劇場」公演いずれも同一の物を用いるが、下手・上手は正反対となる。この稿では、混乱を避けるために「東側下手側」「西側上手側」の表現を用いる。

大劇場の観客席は閉鎖されている。主舞台は当然サイトウ-キネン-フェスティバルのオペラ公演として用いているものと全く同じである。観客たちには、主舞台の床の上にそのまま座って観劇するよう推奨される。「実験劇場」の椅子に座っていると、開演早々、串田和美により「人生に疲れた人たちの席」と揶揄される。

舞台には白円が描かれており、白円内が舞台になることもあれば、観客スペースになる事もあり、演技スペースと観客スペースとの境界は可変的であるだけでなく、混ざり合う事もある。

冒頭はcobaと杉山卓(東大卒!)とのアコーディオン-パフォーマンスから始まる。全般を通したストーリーは存在しない。芝居と歌とサーカスと大道芸を適宜組み合わせ、同時に進行させたりしている。

「空中ブランコに恋する兵士」の芝居は、メリッサの空中ブランコとも組み合わさっているように、同時進行の複合形態は「空中キャバレー」にはよくあることだ。

芝居では、「空中ブランコに恋する兵士」の他、ライオン吠えさせ罪・才能は放棄できない・冬山スキー・太鼓・アカプルコへ行くサボテンがあり、

歌では高泉淳子・秋本奈緒美が三曲ほど単独で歌うほか、秋本奈緒美は「アカプルコへ行くサボテン」でも紅一点歌っている。

サーカス・大道芸部門では、ロッタ+スティーナによるスオミ組地上サーカス演技・メリッサ+サラによる空中ブランコ演技・ロランによる綱演技・ジェームス=ヨギによる自転車演技の他は、大道芸の色彩が強いものだ。

注目するべき点は、音楽は全てcoba率いるバンドにより生演奏され、録音物は用いられない。サーカスを盛り上げる音楽をも、音楽(バンド)部門によって担当され、全ての芝居・歌・サーカス・大道芸の基盤を見事に構築している。

特に前半部では、観客参加型の色彩が強い。主舞台中央で観客が輪になって踊ったりもする。全般に渡り、演者は観客と極めて近い距離で演技し歌う。高泉淳子も秋本奈緒美も、観客のすぐそばを歩きながら、子どもとダンスし歌う。ジェームスの自転車技では、二人を飛び越えて観客が座っている僅か1mの距離を保って見事に停止させる。これ程までの距離感が近い公演は、「空中サーカス」以外にはありえないだろう。

休憩中は、脇舞台・搬入スペースにそれぞれ小舞台が設置され短時間の芝居が上演され、音楽も鳴らされ、出演者はいつ休んでいるのだろうと考えてしまう程だ。もちろん「空中マルシェ」も営業している。休憩時間でもお祭りは続いている。

私の特に好みとしているのは、東側下手側での音楽劇「アカプルコへ行くサボテン」・グラス-ハープによる音楽を背景にしたメリッサ+サラによる幻想的な空中ブランコである。

命綱を用いたサーカス技は、最後の空中ブランコのみである。7月20日公演ではメリッサ、7月26日千秋楽公演ではサラが演じた。私の上空での姿勢変換は、スリルと迫力を感じる。

この「空中サーカス」は、まつもと市民芸術館でないと実現不可能である。田の字型四面舞台、大きな主舞台、収納式の椅子、公道に面し誰もが分かりやすくアクセス出来る搬入口も必要だ。日本で最も設備が整った新国立劇場でさえも、上演不可能な演目で、この松本でしか上演出来ない。

twitterで検索して見ると、地元民だけでなく、東京から遠征して観劇しに来た方も多かったようだ。全てはあっという間に過ぎ去った三時間の空間であった。

2015年7月25日土曜日

Nagoya Philharmonic Orchestra, the 426th Subscription Concert, review 第426回 名古屋フィルハーモニー交響楽団 定期演奏会 評

2015年7月25日 土曜日
Saturday 25th July 2015
愛知県芸術劇場コンサートホール (愛知県名古屋市)
Aichi Prefectural Art Theater Concert Hall (Nagoya, Japan)

曲目:
Николай Римский-Корсаков / Nikolai Rimsky-Korsakov: Каприччио на испанские темы / Capriccio spagnolo (エスパーニャ奇想曲)
Моде́ст Му́соргский / Modest Mussorgsky (orchestrated by Александр Раскатов / Alexander Raskatov): Песни и пляски смерти / Canti e danze della morte (死の歌と踊り) (Japan Premiere / 日本初演)
(休憩)
藤倉大 / Fujikura Dai: 歌曲集「世界にあてたわたしの手紙」/ “My Letter to the World” (World Premiere / 世界初演)
Моде́ст Му́соргский / Modest Mussorgsky (orchestrated by Maurice Ravel): Картинки с выставки / Quadri da un'esposizione (展覧会の絵)

baritono: Simon Bailey (バリトン:サイモン=ベイリー)
orchestra: Nagoya Philharmonic Orchestra(名古屋フィルハーモニー交響楽団)
direttore: Martyn Brabbins (指揮:マーティン=ブラビンズ)

名古屋フィルハーモニー交響楽団は、サイモン=ベイリー(バリトン)をソリストに迎えて、2015年7月24日・25日に愛知県芸術劇場で、第426回定期演奏会を開催した。この評は、第二日目の公演に対してのものである。

管弦楽配置は、舞台下手側から、第一ヴァイオリン→第二ヴァイオリンと並ぶモダン配置で、コントラバスはチェロの後方につく。木管パートは後方中央、金管は後方中央から上手側、ティンパニは後方中央、ハープは下手側の位置につく。

着席位置は一階正面上手側後方、客の入りは8割程であろうか、三階席の様子は不明だが、二階バルコニー席後方に空席が目立った。チケット完売には至らなかった。観客の鑑賞態度は、細かなノイズがあったものの、概ね極めて良好であった。

第一曲目の「エスパーニャ奇想曲」は後半になって全てがうまく響きが噛み合ってくる。その勢いで第二曲目の「死の歌と踊り」に入る。

ムソルグスキーの「死の歌と踊り」は、アレクサンドル=ラスカトフの編曲によるもので、ラスカトフ編曲版は日本初演である。先進的な企画を打ち出すブラビンズ+名フィルならではの企画だ。上手側にエレキギターがある一方で、下手側にはチェンバロがある点が凄い♪

バリトンのベイリーは美しい声で愛知県芸術劇場コンサートホールを満たす。十分な声量で大きなホールを響かせる。管弦楽とのバランスも見事で、ベイリーを見事に引き立たせる。特に第二楽章に相当するセレナーデからが素晴らしい。

第三曲は藤倉大の作品で、管弦楽編曲版は世界初演である。管弦楽編曲版を作成した動機で、ピアノ版でピアニストが酷い演奏をしたからと公言するのはいかがなものか?聴く立場としては複雑な心境となる。

演奏自体は、ベイリーと名フィルの絶妙なバランスが効いて、これまた見事な出来である。

最後の曲目、「展覧会の絵」は最高の出来だ!何をやりたいのか明確になっていて、その路線を実現させようとする士気に漲った演奏だ。欲を言うと・・・の要素が皆無な訳ではないけれど、特定の楽器や特定のソリスティックな何かに頼らない演奏である事が何よりも大切な事である。ティンパニ砲発射〜、金管砲炸裂〜だけでは、響きにならず、音楽にならない。全般的に誰もが高いレベルで精緻な演奏をパッションを込めて行う事が大切なのだと改めて思い知らされる。

冒頭のトランペットからプレッシャーに負けずに決めて、曲の中間部では弦楽がニュアンス豊かに精緻さを伴って攻めてくる。「キエフの大門」では、モッサリしない程度のゆっくりとしたテンポで、ゼネラルパウゼをやり過ぎない程度に長めに取りながら、堂々と演奏する。

ブラビンズの構成力は盤石であり、その上で管弦楽全員で勝負をかけ、勝利した。大管弦楽の醍醐味を味わえる演奏であった。

2015年7月18日土曜日

Orchestra Ensemble Kanazawa , the 365st Subscription Concert, review 第365回 オーケストラ-アンサンブル-金沢 定期演奏会 評

2015年7月18日 土曜日
Saturday 18th February 2015
石川県立音楽堂 (石川県金沢市)
Ishikawa Ongakudo (Ishikawa Prefectural Concert Hall) (Kanazawa, Japan)

曲目:
Gondai Atsuhiko: “Vice Versa” (world premier) (権代敦彦:「逆も真なり」)(世界初演/オーケストラ-アンサンブル-金沢委嘱作品)
Franz Joseph Haydn: Sinfonia n.87 Hob.I:87
(休憩)
И́горь Фёдорович Страви́нский / Igor Stravinsky: “Le sacre du printemps” (「春の祭典」)

orchestra: Orchestra Ensemble Kanazawa (OEK)(オーケストラ-アンサンブル-金沢), Japan Century Symphony Orchestra (日本センチュリー交響楽団)
direttore: Inoue Michiyoshi (指揮:井上道義)

オーケストラ-アンサンブル-金沢は、2015年7月18日に石川県立音楽堂で、第365回定期演奏会として開催した。権代敦彦の「逆も真なり」を世界初演する他、「春の祭典」を日本センチュリー交響楽団と合同で演奏する事で注目された演奏会である。

管弦楽配置は曲によって異なる。

「逆も真なり」では、舞台下手側から、第一ヴァイオリン→第二ヴァイオリン→ヴィオラ→ヴァイオリン-チェロのモダン配置である。コントラバスは前方左右端に一台ずつ、ホルン・トランペットは後方左右端に一台ずつ左右対称に置かれる。木管パート・パーカッションは後方中央の位置につく。フルート(ピッコロ)は、第一楽章では後方中央、第二楽章では指揮者のすぐ前に向かい合うように配置される。

ハイドン交響曲第87番では、舞台下手側から、第一ヴァイオリン→ヴィオラ→ヴァイオリン-チェロ→第二ヴァイオリンの左右対抗配置で、コントラバスはチェロの後方上手側につく。木管パートは後方中央、ホルンは後方下手側の位置につく。

「春の祭典」では、舞台下手側から、第一ヴァイオリン→第二ヴァイオリン→ヴァイオリン-チェロ→ヴィオラのモダン配置で、コントラバスはチェロの後方上手側につく。木管パート・パーカッションは後方中央、ホルンは後方下手側、その他の金管は後方上手側に位置する。

着席位置は一階正面ど真ん中から僅かに後方、客の入りは七割程であろうか。一階席でも後方端に空席が目立った。観客の鑑賞態度は概ね極めて良好であった。

演奏について述べる。

権代敦彦の「Vice Versa」(「逆も真なり」)が本日の白眉である。プレトークによると、作曲に当たり、井上道義から二楽章形式で作るように、注文があったそうだ。バリバリの現代音楽らしい現代音楽なので、好みは別れるだろう。冒頭の掴みの段階で魅了され、私の頭蓋骨が共鳴する不思議な感覚を味わう。権代敦彦が譜面に描いた世界を、十分に検討され、よく考えられた構成で、パッションとニュアンスを込めて、精緻な表現で聴かせる。OEKの実力を十全に引き出す演奏だ。

ハイドン87番は、響きが「大ホールのハイドン」であまり迫らない。上手に演奏しているが、ハイドンならではの歓びに満ちた演奏ではなく、解釈は平凡である。ただ、「Vice Versa」と「春の祭典」の谷間であり、大きな期待を掛けるのは難しいだろう。

「春の祭典」は日本センチュリー交響楽団を招いての合同の演奏であり、この演奏会の目玉となる曲目である。しかしながら、指揮者である井上道義自身の準備不足・解釈不足が感じられる、欲求不満な演奏だ。ティンパニ強打と金管の技倆のみに逃げ込んだ解釈で、おどろおどろしさと野蛮さに欠け、何を表現したかったのか不明確な演奏であり、非難に値する。

特に第一部では、ソロを際立たせるべき箇所で弱い響きしか出せなかった。

井上道義の弦楽セクションの響きに対する関心の稀薄ぶりは唖然とする他ない。弦楽セクションにやってもらう事は、いくらでもあるはずだが、おそらく、リハーサルでこんな響きにして欲しいとの要望も指示もしないし、実現するまで練習もさせないし、そもそも弦楽に対する考え自体を、まとめていなかったのだろう。要するに準備不足で、井上道義が「春の祭典」やるのは十年早かったのではないか?

「春の祭典」は金管とティンパニをぶっ放せばいい曲では決してない。どの曲目でも一緒だが、弦管打が揃わなければいい演奏にはならない。特に弦楽は全ての基礎だ。弦楽が大きく出て、はじめて全ては回り始める。弦楽に対する無関心は正当化できない。

日本センチュリー交響楽団と合わせ、あれだけ素晴らしい弦楽奏者を揃えといて、あんな結果かよ、と言う感じだ。アンコールの「六甲おろし」であれだけ響かせて、どうして本番ではああなのか?「求めよ、さらば与えられん」だろう。求めなかったのだよな、指揮者井上道義は。

井上道義の解釈の是非は置いておいて、ティンパニは素晴らしい。ホルンはあまりに綺麗過ぎる響きで「春の祭典」向けではないけど、実に見事であった事は確かである。あと、「生贄の踊り」の場面での上手側金管も素晴らしい響きで魅了させられた。それだけに、この合同オケから「春の祭典」は今日の演奏の三倍は引き出せる。もっとやれるだろう、と言う欲求不満の気持ちでいっぱいだった。

井上道義は、指揮台の上で変な格好つけなくていいし、マイクパフォーマンスなどいらないから、音楽そのもので勝負するべきだろう。純粋にエンターテイメント追求型のファンタジー-シリーズなら、各種パフォーマンスは許容されるが、井上道義はやっている事の方向性が何もかも間違っている。OEKは井上道義を切り、ピリオド系の才能ある若手指揮者を音楽監督に据えなければならない。

2015年7月12日日曜日

Kioi Sinfonietta Tokyo, the 20th Anniversary Concert, review 紀尾井ホール・紀尾井シンフォニエッタ東京 創立20周年 特別演奏会 評

2015年7月11日 土曜日
Saturday 11th July 2015
紀尾井ホール (東京)
Kioi Hall (Tokyo, Japan)

曲目:
Johann Sebastian Bach: Messa in Si minore BWV.232 (ミサ曲ロ短調)

soprano: Sawae Eri, Fujisaki Minae / 澤江衣里, 藤崎美苗
contralto: Aoki Hiroya / 青木洋也
tenore: Nakashima Katsuhiko / 中嶋克彦
basso: Kaku Toru / 加耒 徹

Coro: Kioi Bach Chor (合唱:紀尾井バッハコーア)
orchestra: Kioi Sinfonietta Tokyo(紀尾井シンフォニエッタ東京)
direttore: Trevor David Pinnock / トレヴァー=ピノック

紀尾井シンフォニエッタ東京(KST)は、トレヴァー=ピノックを指揮者に迎えて、2015年7月10日・11日に東京-紀尾井ホールで、「紀尾井ホール・紀尾井シンフォニエッタ東京創立20周年記念 特別演奏会」を開催した。この評は、第二日目の公演に対してのものである。

管弦楽配置は、舞台下手側から、第一ヴァイオリン→第二ヴァイオリン→ヴァイオリン-チェロ→ヴィオラのモダン配置で、コントラバスはチェロの後方につく。第二ヴァイオリンとチェロとの間にオルガンが置かれ、指揮台にはチェンバロが置かれ、オルガン奏者と向かい合う形となる。そのチェンバロは、ピノックによって弾かれる。

フルートは後方中央の下手側、後方中央の上手側には、下手側からオーボエ→ファゴットの順に配置される。ティンパニとトランペット、ホルンは、最も下手側に位置し、下手側バルコニーからは見えない位置だ。

着席位置は一階正面後方中央、チケットは完売している。観客の鑑賞態度は、極めて良好であった。

冒頭の合唱から心を捕まされる。紀尾井バッハコーアは、実質的にバッハ-コレギウム-ジャパンの合唱である。澤江衣里、青木洋也、中嶋克彦が素晴らしい。澤江衣里・中嶋克彦の二重唱は、実に相性が良くて前半の白眉である。

澤江衣里のソプラノは、終始自由自在に紀尾井ホールを響かせ、やり過ぎない程度にドラマティックで、歌唱分野をリードしている。

一方で青木洋也のコントラルトは、切々と訴える表現で、聴衆の心に語りかける。主に憐れみを乞う内容を踏まえ、紀尾井ホールの響きを的確に味方につけて歌い上げる。ソプラノとは対称的な役割を与えられているコントラルトであるが、完成度高い歌唱で、心を惹きつけられるソロである。

合唱は30人弱の規模でも、紀尾井ホールでは迫力をも伴う。下手側のソプラノが二歩前に出ると、天国が出現する。私は、他のパートから二歩前に出てくるBCJのソプラノが大好きで、完全に私の好みの展開でもある。

一方管弦楽は控え目で、奇を衒わない方向性でありながら、パッションを込めるべき所は実は攻めている。トランペットの響きは、突出させず精妙にブレンドさせる方向性である。この曲のこの箇所はこのように演奏される必要があると、高い理解の下で弾かれている印象を持つ。

Sanctusでは合唱・管弦楽・ホールが三位一体となって迫ってくる。響きが綺麗なだけでなく、迫ってくるというのが大切なのだ。800席の中規模ホールである、紀尾井ホールならではの響きである。このような響きを指向した紀尾井ホールの20周年を祝福するような、幸福感に満ちた時間だ。

今日は紀尾井ホール始まって以来の観客の素晴らしさだった。演奏中に寝ている人たちはいても(曲想上、これは仕方ない♪)物音はほとんどなかったし、何よりも、指揮者が明確に終了の合図を出してから拍手が沸き起こった事は重大な意味を持った。

曲を終える際の響きの消え去り方は本当に絶妙だった。あのような美しい響きの消え去り方は、なかなか味わえない。最後のあの響きの消え去りの絶妙さは、観客によって尊重され、共有された。"Dona nobis pacem" 平安は我らに与えられた。

2015年7月4日土曜日

Kioi Sinfonietta Tokyo, the 100th Subscription Concert, review 第100回 紀尾井シンフォニエッタ東京 定期演奏会 評

2015年7月4日 土曜日
Saturday 4st July 2015
紀尾井ホール (東京)
Kioi Hall (Tokyo, Japan)

曲目:
Wolfgang Amadeus Mozart: “Le nozze di Figaro”(ouverture) K.492 (序曲「フィガロの結婚」序曲)
Johannes Brahms: Doppio concerto per violino, violoncello e orchestra op.102
(休憩)
Ludwig van Beethoven: Sinfonia n.7 op.92

violino: Rainer Honeck /ライナー=ホーネック
violoncello: Maximilian Hornung / マキシミリアン=ホルヌング
orchestra: Kioi Sinfonietta Tokyo(紀尾井シンフォニエッタ東京)
direttore: Семён Ма́евич Бычко́в/ Semyon Bychkov / セミヨン=ビシュコフ

紀尾井シンフォニエッタ東京(KST)は、セミヨン=ビシュコフを指揮者に、ライナー=ホーネック・マキシミリアン=ホルヌングをソリストに迎えて、2015年7月3日・4日に東京-紀尾井ホールで、第100回定期演奏会を開催した。この評は、第二日目の公演に対してのものである。

管弦楽配置は、舞台下手側から、第一ヴァイオリン→第二ヴァイオリン→ヴァイオリン-チェロ→ヴィオラのモダン配置で、コントラバスはチェロの後方につく。木管パートは後方中央、ホルンは後方下手側、ティンパニ・トランペットは後方上手側の位置につく。

着席位置は一階正面後方僅かに上手側、チケットは完売している。観客の鑑賞態度は、前半は稀に見る程極めて良好であったが、後半は第二楽章冒頭で寝息が流れる(隣席の方は起こしてあげて欲しい)等多少のノイズがあった。

第一曲目の「フィガロの結婚」序曲は、弦楽を控え目な響きにさせ、管楽重視の普通の演奏である。

二曲目は、Brahmsによる、ヴァイオリンとチェロのための二重協奏曲である。第一楽章から管弦楽を良く響かせている一方で、ソリストとの響きのバランスも十分に考えられている。ソリストはホーネック・ホルヌングとも第一楽章中程から本領を発揮し、自由自在に音量・ニュアンスを組み立て、駆使している。音色の扱い方、微妙なテンポの揺るがし方が絶妙である。

東京のホールであったら、(少し大きめのホールであるが)紀尾井ホールで無ければ実現出来ない演奏である。弦楽系協奏曲では、ホールの大きさがどれだけ適切かが問われてくる。大音量ではなく、繊細な音色やニュアンスで攻めるタイプの弦楽系ソリストの場合、適切な会場は600〜800席規模の中規模ホールだ。紀尾井ホールの場合、一般的な中規模ホールでは大きい部類に入るが、それでもホーネック・ホルヌングの音色を適切な音圧をもって聴衆に伝える事ができた。それは中規模ホールだからであって、東京オペラシティ-タケミツメモリアルであったらアウトだろう。

後半はBeethovenの交響曲第7番。第一楽章のテンポ処理については、好みが分かれるかもしれない。遅めのテンポで、ゆっくりだからこそ見えてくる風景を見せるかのように考えられているが、一方で躍動感を感じるのは難しい。率直に申し上げれば私の好みではないが、管弦楽はその演奏で求められている要素を的確に演奏している。好みの問題は、ビシュコフの解釈に起因するものである。

(好みが分かれる第一楽章を含め)全曲を通してとにかく立派な演奏だ。序盤を華やかにする木管の響きから始まり、今日の管弦楽の精度は極めて高い。その精度でニュアンス溢れる表現を行えば、好みはどうであれ、優れた演奏である事を否定できる者は誰一人いないだろう。室内管弦楽団ならではの、素晴らしい演奏であった。

2015年6月27日土曜日

Chubu Philharmonic Orchestra, the 47th Subscription Concert, review 第47回 中部フィルハーモニー交響楽団 定期演奏会 評

2015年6月27日 土曜日
Saturday 27th June 2015
三井住友海上しらかわホール (愛知県名古屋市)
Shirakawa Hall (Nagoya, Japan)

曲目:
Wolfgang Amadeus Mozart: “Exsultate, Jubilate”K.165 (K.158a) (踊れ、喜べ、幸いなる魂よ)
(休憩)
Gustav Mahler: Sinfonia n.4

soprano: Kobayashi Sara (小林沙羅)
orchestra: Chubu Philharmonic Orchestra(中部フィルハーモニー交響楽団)
direttore: Akiyama Kazuyoshi(秋山和慶)

中部フィルハーモニー交響楽団は、2015年6月27日に三井住友海上しらかわホールで、小林沙羅・秋山和慶を招き、第47回定期演奏会を開催した。

管弦楽配置は、舞台下手側から、第一ヴァイオリン→第二ヴァイオリン→ヴァイオリン-チェロ→ヴィオラのモダン配置で、コントラバスはチェロの後方につく。木管パートは後方下手側から中央、ホルンを含め金管パートは後方上手側、ティンパニは後方中央、ハープは下手側の位置につく。

着席位置は一階正面中央上手側、客の入りは9割は超えたであろうか、一階席はほぼ埋まり二階バルコニー席に空席が目立った程度だった。チケット完売には至らなかった。観客の鑑賞態度は、ノイズが多く、後半曲目開始直前に携帯電話が鳴ったり、途中退出者が扉を静かに押さえないでノイズを発生させる事があったものの、演奏に致命傷を与える程ではなかった点は救いである。

モーツァルトのモテットK165は、小林沙羅ちゃんは純白のドレスで登場し、とても可愛い。歌い出しまでの前奏は、お嬢様スマイルで観客を悩殺する。しかし、その可愛らしい容姿とは想像がつかない程、しらかわホールを余裕のある声量で響かせ、音が迫ってくるようにも感じられ、何となく、カルメンを聴いているようにも思える。恐らく、室容積の小ささも効いているのだろう。第一楽章こそ装飾を多数掛ける箇所で重心の低さが感じられた所もあったが、第二楽章レチタティーヴォ、第三楽章アレルヤは完璧である。レチタティーヴォ・アレルヤでは、ソリストと管弦楽とのバランスも見事にとれている。20分程で15分間の休憩に入る。

後半は、マーラーの第四交響曲である。全般的に感じた事は、暴論承知で申し上げるが、マーラーを1800人規模の大ホールで、フル-オーケストラで演奏するのは間違っているのではないかと言う事だ。むしろマーラーは、約700名規模の中規模ホール、例えば、松本市音楽文化ホールや三井住友海上しらかわホールやサラマンカホール(岐阜)や いずみホール(大阪)で演奏するように作られているのではないか?

例えば、第二楽章では弦楽ソロの出番が多い。そのソロの響きが、この しらかわホールでは観客に迫ってくる。世界トップクラスの音響を誇る愛知県芸術劇場コンサートホールでさえも、このような迫ってくる弦楽ソロの響きは実現出来ないだろう。室容積が大き過ぎるからである。

中部フィルハーモニーの演奏は、しらかわホールの響きを熟知しているからこその演奏で、弦楽・木管の素晴らしさがまず感じられた。ホルンは前半は固かったが、後半はかなり良かった。特に弦楽は、ヴァイオリンの自発性溢れるパッションが込められたニュアンスに満ちた演奏で、純音楽的な面白さを感じた。重ねて書くが、第二楽章の迫ってくる弦楽ソロは本当に素晴らしい。しらかわホールの響きを的確に味方につけている。

第四楽章が始まり、小林沙羅ちゃんは、今度は水色のドレスで登場♪充実した管弦楽の上に乗っかり、ソリストとしての存在感を感じさせる。結果、管弦楽とのバランスも良く考えられた見事な演奏となる。

小林沙羅ちゃんと中部フィルの管弦楽と しらかわホールとが三位一体となって全てが素晴らしいかったからこその、充実した演奏会であった。良質な中規模ホールが紀尾井だけの東京の観客は、残念ながらあの弦楽ソロを伴った第二楽章を味わえない。

それだけに、マーラーの4番を小林沙羅ちゃんを呼んで しらかわホールで演奏する企画を立て、優れた演奏で実現させた、中部フィルに感謝感激でいっぱいの思いだ。マーラーの交響曲を大ホールでやるのは、間違っている!♪♪

この しらかわホールでの演奏を聴けば、私がなぜ新国立劇場の1812席が大き過ぎると主張しているか、理解してもらえるだろう。ホールはもっと小さくし、普通に優れた歌い手や首席奏者が映えるようにしなければならない。音楽と言うものは、本来600-800席程度の中規模ホールで演奏されるべきものなのではないだろうか、そのような私の信念を再確認させるような演奏会でもあった。

2015年6月21日日曜日

Tero Saarinen Company "MORPHED" review テロ=サーリネン-カンパニー 「モーフト」 評

2015年6月21日 日曜日
Sunday 21st June 2015
彩の国さいたま芸術劇場 (埼玉県与野市)
Sainokuni Saitama Arts Theater (Yono, Saitama, Japan)

演目:MORPHED (モーフト)

dancer: Ima Iduozee, Leo Kirjonen, Saku Koistinen, Mikko Lampinen, Jarkko Lehmus, Pekka Louhio, Jussi Nousiainen, David Scarantino

スオミ国(フィンランド)首都ヘルシンキに本拠を置く Tero Saarinen Company は、2015年6月20日・21日に、彩の国さいたま芸術劇場で、日本公演を開催した。この評は、第二日目の公演に対してのものである。

冒頭は幾何学的な動きから始まる。音楽は、モーツァルトでもチャイコフスキーでもない、現代曲のエサ-ペッカ=サロネン(Esa-Pekka Salonen)の曲でもあり、曲想から想像することはまず不可能で、振りが極めて難しいそうだ。

中盤二曲目の後半辺りから弛緩しない展開で最後まで持っていく。ロープを動かして背景を歪まる空間の処理が、実に巧みだ。三曲目サロネンのヴァイオリン協奏曲に入ってからの、2〜3人のダンサーによる展開や、終盤近くの腕にタトウを入れている Ima Iduozee のソロは特に素晴らしい。

Ima Iduozee のソロのどこが良いのかと言われると言語化は難しいが、表情の他あらゆる身体の動きが、求心力を保っている。この演目は、幾何学的な動きから、闘っているような動きや、愛し合っているような動き、そう言った物語的な展開へと移行して行くが、Ima の演技はあたかも物語を雄弁に語り、所作がとても美しい。もちろん、全てのダンサーが的確に役を演じているが、終盤近くに登場した Ima Iduozee が持っていってしまう感じである。

この演目は、第三曲にサロネンのヴァイオリン協奏曲が用いられている。録音を用いているが、ヴァイオリンのソリストは諏訪内晶子(Suwanai Akiko)とのことだ。

実は、諏訪内晶子とエサ-ペッカ=サロネン、フィルハーモニー管弦楽団により、2013年2月9日に横浜みなとみらいホールで日本初演されている(恐らく現在に至るまで再演がなく、日本で唯一の公演となっている)。この時に臨席した私の拙い感想は→ http://ookiakira.blogspot.jp/2013/02/blog-post_6547.html?m=0
に掲載している。

どうりで、どこかで聴いた事があるはずだ。本当に近現代曲の諏訪内晶子のヴァイオリンは無敵と言って良い。サロネンの素晴らしい曲想が、諏訪内晶子の抜群なテクニックで実現されていることが、録音を聴いても分かる程だ。2013年2月9日の日本初演から二年四ヶ月して、今度は舞踊公演で再開した。なんと言う縁であろう。

日本とスオミとの関わりにも感慨深いものを感じる、Tero Saarinen Company の日本公演であった。

2015年6月20日土曜日

Nagoya Philharmonic Orchestra, the 425th Subscription Concert, review 第425回 名古屋フィルハーモニー交響楽団 定期演奏会 評

2015年6月20日 土曜日
Saturday 20th June 2015
愛知県芸術劇場コンサートホール (愛知県名古屋市)
Aichi Prefectural Art Theater Concert Hall (Nagoya, Japan)

曲目:
Maurice Ravel: “Valses nobles et sentimentales” (高雅にして感傷的なワルツ)
Camille Saint-Saëns: Concerto per violino e orchestra n.3 op.61
(休憩)
Maurice Ravel: “Alborada del gracioso” (道化師の朝の歌)
Claude Debussy (arr. Michael Jarrell): Douze Études pour piano- 9. pour les notes répétées- 10. pour les sonorités opposées- 12. pour les accords (「12のピアノ練習曲」より、第9番「反復音のために」、第10番「対比的な響きのために」、第12番「和音のために」)
Maurice Ravel: “Boléro” (ボレロ)

violino: Miura Fumiaki (三浦文彰)
orchestra: Nagoya Philharmonic Orchestra(名古屋フィルハーモニー交響楽団)
direttore: Thierry Fischer(ティエリー=フィッシャー)

名古屋フィルハーモニー交響楽団は、2015年6月19日・20日に愛知県芸術劇場で、第425回定期演奏会を開催した。この評は、第二日目の公演に対してのものである。

管弦楽配置は、舞台下手側から、第一ヴァイオリン→第二ヴァイオリン→ヴィオラ→ヴァイオリン-チェロのモダン配置で、コントラバスはチェロの後方につく。木管パート・ティンパニ・ホルンは後方中央、ハープ・サキソフォン系や小太鼓・大太鼓等のパーカッションは後方下手側の位置につく。

私の着席位置は一階正面上手側後方、客の入りはほぼ満席である。ティエリー=フィッシャー人気なのか、ボレロ人気なのか?観客の鑑賞態度は、細かなノイズがあったものの、概ね極めて良好であった。

個人的にこの演奏会の白眉は、サン-サーンスのヴァイオリン協奏曲第三番である。ヴァイオリンのソリストである三浦文彰は、初めて聴くが、第一音から凄い!まるでヴィオラのような太く低い音色から始まる。

冒頭のみならず、三浦文彰のヴァイオリンは、惹きつけるべき箇所での一音が素晴らしいし、ホールを朗々とした響きで満たせる。愛知芸文の大きなコンサートホールをこれ程までの響きで満たせる奏者は、世界的にも少ない。第二楽章では緊張感を途切れさせない見事な演奏だ。第三楽章も同様に完成度が高い演奏であるが、ヴァイオリン-ソロから第一ヴァイオリンとのユニゾンに移行する場面は、変わり者の あきらにゃん のお気に入りの箇所である♪

管弦楽も、ヴァイオリン協奏曲モードに抑えることなく、ごく普通に交響曲を演奏するかのようなノリであるが、三浦文彰のヴァイオリンが良く響いているからこそ、そのようなノリで行けるのだろう。そのような状況下でバランスも良く取られ、これまた完成度が高い。

有名なメンデルスゾーンでもなくチャイコフスキーでもない、演奏機会が極めて少ないサン-サーンスの協奏曲で、これ程観客を惹きつける三浦文彰のヴァイオリンは、只者ではない。彼は庄司紗矢香の次の世代を担えるようになるだろう。

後半、「道化師の朝の歌」は中ほどのファゴットのソロが素晴らしい。ドビュッシーの12のピアノ練習曲も完成度が高い出来だ。「ボレロ」は二台目の小太鼓の攻め方や木管・サキソフォン系が特に良かった。サキソフォン系は、愛知芸文の響きを信じて、スッと音を引っ込める奏法を採ったようにも見受けられた。

ティエリー=フィッシャーは、全般的に管楽を際立たせるアプローチで、華麗な音色であった。

2015年6月6日土曜日

NDR Sinfonieorchester Hamburg, Thomas Hengelbrock, Arabella Steinbacher, Nagoya perfomance, (6th June 2015), review 北ドイツ放送交響楽団(ハンブルク) 名古屋公演 評

2015年6月6日 土曜日
Saturday 6th June 2015
愛知県芸術劇場コンサートホール (愛知県名古屋市)
Aichi Prefectural Art Theater Concert Hall (Nagoya, Japan)

曲目:
Antonín Dvořák: ouverture da concerto “Carnevale” op.92 B.169 (序曲「謝肉祭」)
Felix Mendelssohn Bartholdy: Concerto per violino e orchestra op.64
(休憩)
Ludwig van Beethoven: Sinfonia n.7 op.92

violino: Arabella Steinbacher (ヴァイオリン:アラベラ=シュタインバッハー)
orchestra: NDR Sinfonieorchester Hamburg(管弦楽:北ドイツ放送交響楽団-ハンブルク)
direttore: Thomas Hengelbrock(指揮:トーマス=ヘンゲルブロック)

北ドイツ放送交響楽団(ハンブルク)は、2015年5月から6月に掛けてアジア-ツアーを実施し、ソウル・北京・上海・大阪・東京・名古屋にて演奏会を開催した。この評は、アジア-ツアー最終公演である2015年6月6日名古屋公演に対するものである。

管弦楽配置は、舞台下手側から、第一ヴァイオリン→ヴィオラ→ヴァイオリン-チェロ→第二ヴァイオリンの左右対向配置で、コントラバスはチェロの後方(上手側)につく。木管パートは後方中央、ホルンは後方下手側、ティンパニは後方中央、ハープは下手側の位置につく。

着席位置は二階正面上手側、客の入りは6割程であろうか、三階席はもちろんのこと、一階席中央の席でさえも空席がある始末、梶本音楽事務所は、どんな切符の売り方をしているのだろう。先行発売初日でさえ、第一希望の席は売られていないと梶本音楽事務所の電話口の女性は話していたのだけれど。後半だけ聴きに来る遅刻者が多かった印象もある。

第一曲目の、ドヴォルジャーク序曲「謝肉祭」は、個々の演奏はいいように思える所もあるし、後半は良かったけど、アウェイ感が満載ではある。どうも管弦楽全体として噛み合っていない点があり、愛知県芸術劇場の音響に馴染んでいないような感じがある。

第二曲目の、メンデルスゾーン、ヴァイオリン協奏曲、ソリストはアラベラ=シュタインバッハであるが、一言で言うと子守唄だ。技術的に破綻しているとは思えないし、繊細と言えば繊細だし、優しい演奏と言えばその通りなのだろうけど、前衛性は全くなく、単に楽譜通りに弾いているだけで、アラベラ独自のパッションはなく、個性がない演奏である。何らのサプライズもなく、そのような演奏を国外ツアーでやる意義はない。管弦楽は、必ずしも音量が大きい訳ではないアラベラを盛り立てるべく、バランスを絶妙に取り、弱い響きであるがよく通り、かつアラベラのソロをかき消さないよう、細心の注意を払って演奏する。アラベラ=シュタインバッハーは、このような献身的な北ドイツ放送交響楽団の演奏に応えなかった。

後半は、Beethovenの第七交響曲である。全般的に、トーマス=ヘンゲルブロックは極めて凡庸な指揮者で、前衛性の欠片もなく、因習的な演奏に終始した。因習的な演奏にピリオドチックな味付けをしただけで、面白みは全くない。この解釈の指揮なら、三流指揮者でもやれるレベルで、ポジティブな評価ができない。

それでも第二楽章冒頭の、ヴィオラ+チェロの音色だけは、ヘンゲルブロックの個性が出ていた。

北ドイツ放送交響楽団の管弦楽のレベルは高く、木管・金管とも上手だ。一箇所不用意な音が出たのは、見逃すに値する。全般的には安定しており、さすがドイツの名のある交響楽団だ。

それだけに、卓越した技量を有する北ドイツ放送交響楽団の管弦楽を活かせない、トーマス=ヘンゲルブロックに対する欲求不満が爆発しそうである。ヘンゲルブロックとシュタインバッハーは、平凡な解釈をする者同志で、お似合いだった。梶本音楽事務所から刺客が放たれるとしても、私にとっては事実なのだから、述べるしかない。

今日のBeethoven第七交響曲を聴く限り、ヘンゲルブロックは、およそ古楽系・ピリオド系の指揮者だとは思えない。躍動感と言うか、ヴィヴィッドな感覚も鋭さも欠如している。第一・第三楽章のモサッとした演奏には苛立ちを覚える。第四楽章も速めのテンポだが、緩急の付け方が緩慢なのか、単に速く演奏しているだけで、ちっとも面白くない。ヘンゲルブロックなりに色々考えてはいるのだろうけど、やはりどこか構成力に難点があるのだと考えざるを得ない。

シュタインバッハーのソリスト-アンコールは、クライスラーのカプリチオ op.6-1 レチタティーヴォとスケルツォ、アンコールはブラームスのマジャール舞曲第5番だった。

2015年5月23日土曜日

Nagoya Philharmonic Orchestra, the 424th Subscription Concert, review 第424回 名古屋フィルハーモニー交響楽団 定期演奏会 評

2015年5月23日 土曜日
Saturday 23nd May 2015
愛知県芸術劇場コンサートホール (愛知県名古屋市)
Aichi Prefectural Art Theater Concert Hall (Nagoya, Japan)

曲目:
Felix Mendelssohn Bartholdy: Ouverture da concerto in re maggiore per orchestra “Calma di mare e viaggio felice” op.27(演奏会用序曲:静かな海と
楽しい航海)
Gondai Atsuhiko (権代敦彦): Berceuse(子守歌)
(休憩)
Robert Alexander Schumann: Sinfonia n. 3

mezzo soprano: Fujii Miyuki (藤井美雪)
pianoforte: Noda Kiyotaka (野田清隆)
Coro dei bambini: Nagoya Children's Choir (児童合唱:名古屋少年少女合唱団)
orchestra: Nagoya Philharmonic Orchestra(名古屋フィルハーモニー交響楽団)
direttore: Kawase Kentaro(川瀬賢太郎)

名古屋フィルハーモニー交響楽団は、2015年5月23日・24日に愛知県芸術劇場で、第424回定期演奏会を開催した。この評は、第二日目の公演に対してのものである。

管弦楽配置は、舞台下手側から、第一ヴァイオリン→第二ヴァイオリン→ヴァイオリン-チェロ→ヴィオラのモダン配置で、コントラバスはチェロの後方につく。管打楽はホルンを含めて後方中央の位置に着く。

着席位置は一階正面上手側後方、客の入りは9割程であろうか、チケット完売には至らなかった。観客の鑑賞態度は、極めて良好で権代敦彦の「子守歌」の後での静寂も完璧に守られた。

二曲目の、権代敦彦作の「子守歌」は、誰が上手だとか、そう言う次元で分析する曲ではない。強いて言えば、児童合唱が効いたのか。管弦楽が奏でる旋律に乗る箇所はあったのだろうか?管弦楽の助けが得られない故に、高度な自律性を要し、バラバラに声を発する箇所もあり、明らかに難曲だったが、名古屋少年少女合唱団は見事に表現した。この曲は合唱の役割が大きいが、十二分に果たしている。

もちろん児童合唱だけでなく、全ての出演者が高い士気をもって演奏する。ソリスト・合唱・管弦楽が三位一体となって、噛み合っている。

安直な表現ではあるが、涙腺が決壊しそうになる表現で、演奏中「子守歌」の題名は全く意識しなかった。単に娘を学校で殺された一つの悲劇だけではない、どこか普遍性を帯びる性格を有している。これをどう言語化する術はないが、誰かの親で無ければ、入り込めない世界では、決してなかった。

繊細に響きをコントロールさせて演奏が終わった後の静寂も守られたのは幸せな事であった。指揮者の合図があるまで反応を示さない、当たり前な事が、どれだけ素晴らしい結末を迎えるのか、改めて実感する。

現代音楽かつ暗いテーマのこの曲を取り上げるのは、興行面では冒険だったとは思うが、この曲を演奏したこと自体が快挙であり、このような高い水準での演奏を実現した事が驚異である。この「子守歌」を取り上げた名フィルの企画力に感謝の言葉しかない。

後半は、シューマンの交響曲第3番、グスタフ=マーラーの編曲によるものとのことだ。全般的に各楽章とも、小さく始まり、大きくパッションを伴いながら終わる形である。響きは管楽優位に感じられた。

2015年5月17日日曜日

Mahler Chamber Orchestra, Leif Ove Andsnes, Tokyo performance (17th May 2015), review マーラー室内管弦楽団+レイフ=オヴェ=アンスネス 東京公演(2015年5月17日) 評

2015年5月17日 日曜日
Sunday 17th May 2015
東京オペラシティ タケミツメモリアル (東京)
Tokyo Opera City Concert Hall: Takemitsu Memorial (Tokyo, Japan)

曲目:
Ludwig van Beethoven: Concerto per pianoforte e orchestra n.1 op.15
(休憩)
Ludwig van Beethoven: Concerto per pianoforte e orchestra n.5 op.73

pianoforte: Leif Ove Andsnes (レイフ=オヴェ=アンスネス)
orchestra: Mahler Chamber Orchestra(マーラー室内管弦楽団)
direttore: Leif Ove Andsnes (レイフ=オヴェ=アンスネス)

マーラー室内管弦楽団は、2015年5月3日から17日までアジアツアーを行い、香港・台北・台南(中華民国)・上海・高陽(ソウル近郊)・静岡・東京にて計9公演の演奏会を開催する。全ての公演のピアノ独奏・指揮はレイフ=オヴェ=アンスネスである。

レイフ=オヴェ=アンスネスのピアノは、正面にピアノを舞台後方に向けて置かれ、蓋は取り外されている。

管弦楽配置は、舞台下手側から、第一ヴァイオリン→ヴァイオリン-チェロ→ヴィオラ→第二ヴァイオリンの左右対向配置で、コントラバスはチェロの後方につく、木管パートは後方中央、ホルンは後方下手側、その他の金管・ティンパニは後方上手側位置につく。ティンパニは小さく鋭い音のするタイプである。

着席位置は一階正面中央やや上手側、客席の入りは九割程の入りで、一階後方上手側に空席が目立った。観客の鑑賞態度は、概ね良好であった。

前半はピアノ協奏曲第1番。第三楽章が面白い。また、木管が素晴らしい技量で盛り上げていた。

後半はピアノ協奏曲第5番。かなりピアノ優位の構成でテンポの変動を大きくつけている。管弦楽は控えめな表現であるが、弱音が綺麗である。変わり者のあきらにゃん のムフフポイントは、第三楽章で、下手側ホルン→上手側金管→その両方が合わさって絶妙なブレンドが得られた箇所と、その後で同じように精緻に弦楽が音を合わせてブレンドさせた箇所である。

アンコールは全てBeethovenの作品で、一般参賀の後に一曲加わり、計三曲となった。

一曲目は、ピアノ-ソナタ第18番第三楽章。二曲目は「12のドイツ舞曲」で、ここでも管弦楽の絶妙にブレンドされた弦楽の音色が聴けた。アンスネスはなんとタンバリンを叩いたが、素晴らしい出来だ。ここで客電もついて管弦楽が引き揚げたが、鳴り止まない拍手に応え、アンスネスのソロでバガテルを演奏し、演奏会を終了した。

15・17日の二回の演奏会によりBeethovenピアノ協奏曲全曲演奏会を構成したが、曲レベルで一番素晴らしかったのは第3番、楽章レベルでは第4番第二楽章であった。

チクルスものは、無謀な日程が組まれ、高い水準の演奏を構築出来ないまま演奏会に臨まざるを得ない事例もあるが、今回に関しては、そのような負の要素が避けられた。

今回のチクルスは、全般的に水準の高い演奏であったが、その成功の要因は以下の6つに集約されるだろう。

1. アンスネスのピアノ技量の確実さ
2. アンスネスの驚異的な体力
3. MCOの世界トップレベルの技量・自発性
4. 二回の演奏会で収まる内容であったこと
5. タケミツメモリアルの音響の素晴らしさ。特に第4番第二楽章では、この残響の美しさが効いた。
6. 既に何回も演奏されている内容であり、高水準の演奏が完成されており、アップデートでさらに水準を上げるのみの状態であったこと。

成功は始めから約束されていた。企画段階での吟味がいかに大切かを、改めて認識した、Beethovenピアノ協奏曲チクルスであった。

2015年5月16日土曜日

Miyazaki International Music Festival Orchestra, Pinchas Zukerman, Amanda Forsyth, the 20th Miyazaki International Music Festival Concert (16th May 2015), review 宮崎国際音楽祭管弦楽団 ピンカス=ズッカーマン アマンダ=フォーサイス 第20回宮崎国際音楽祭 演奏会4 評

2015年5月16日 土曜日
Saturday 16th May 2015
宮崎県立芸術劇場 (宮崎県宮崎市)
Miyazaki Prefectural Arts Center (Miyazaki, Japan)

曲目:
Пётр Ильич Чайковский / Pyotr Ilyich Tchaikovsky: Mélodie (Souvenir d'un lieu cher op.42) (チャイコフスキー:メロディー 「懐かしい土地の想い出)より)
Пётр Ильич Чайковский / Pyotr Ilyich Tchaikovsky: Andante cantabile (Quartetto per archi n.1 op.11) (チャイコフスキー:アンダンテ-カンタービレ 弦楽四重奏曲第1番より)
Пётр Ильич Чайковский / Pyotr Ilyich Tchaikovsky: Notturno (6 pezzi op.19) (チャイコフスキー:夜想曲 「6つの小品」より)
(休憩)
Пётр Ильич Чайковский / Pyotr Ilyich Tchaikovsky: Sinfonia n.5 op.64 (チャイコフスキー:交響曲第5番)

violino: צוקרמן‎ פנחס / Pinchas Zukerman (ヴァイオリン:ピンカス=ズッカーマン)
violoncello: Amanda Forsyth(ヴァイオリン-チェロ:アマンダ=フォーサイス)
orchestra: Miyazaki International Music Festival Orchestra(宮崎国際音楽祭管弦楽団)
direttore: צוקרמן‎ פנחס / Pinchas Zukerman (指揮:ピンカス=ズッカーマン)

第20回宮崎国際音楽祭は、2015年4月29日から5月17日まで開催され、5つのメインプログラムとその他の演奏会により構成されている。この評の演奏会は、2015年5月16日に開催された「メインプログラム4」である。ヴァイオリン・指揮は、ここ最近恒例のピンカス=ズッカーマンが担当する。

管弦楽配置は、舞台下手側から、第一ヴァイオリン→第二ヴァイオリン→ヴァイオリン-チェロ→ヴィオラのモダン配置で、コントラバスはチェロの後方につく。木管パート・ホルンは正面後方、ホルン以外の金管パートは後方上手側、ティンパニは後方正面わずかに下手側の位置につく。

前半はチャイコフスキーの小品集、メロディはズッカーマンのソロ、アンダンテ-カンタービレと夜想曲はフォーサイスのソロだ。どの曲も、ソリストだけでなく、管弦楽全体で弱音を繊細に響かせる。ズッカーマン・フォーサイス夫妻のソリストはもちろんの事、バックの管弦楽が非常によく考えている演奏だ。

後半はチャイコフスキーの第五交響曲。弦楽があまりにも素晴らし過ぎる。この宮崎で産み出された独特の音色で豊かなニュアンスを付けてうねらせつつ、パッションを込めて精緻さも保って圧倒していく、最も理想的な響きの形態を実現させる。ズッカーマンは音色を重視し、どのような音色を見つけ出すのか、弦楽奏者に発見させるべく追い込んだのだろうか?経験が浅い若手奏者もいる臨時編成の弦楽とは思えない徹底ぶりと精緻さは驚異である。やはり音色だ。第二楽章後半部では感極まりそうになるほどである。

チャイ5は、暴論承知で言えば、やはり弦楽が全てである。弦楽さえしっかりしていれば、管にアラがあったとしても成立する。臨時構成のオケであるが、弦楽は若手奏者に至るまで何をしたいのかが極めて明確だった。歴史ある管弦楽団でもあの音色は出せないだろう。あるいは、逆に歴史がない臨時編成のオケだからこそ出せたのだろうか。

アンコールは、ブラームスの「五つのリート」より「子守歌」を、ズッカーマンがヴァイオリン奏者から楽器を借りてソロで演奏し、サヨナラと言って演奏会を閉じた。

2015年5月15日金曜日

Mahler Chamber Orchestra, Leif Ove Andsnes, Tokyo performance (15th May 2015), review マーラー室内管弦楽団+レイフ=オヴェ=アンスネス 東京公演(2015年5月15日) 評

2015年5月15日 金曜日
Friday 15th May 2015
東京オペラシティ タケミツメモリアル (東京)
Tokyo Opera City Concert Hall: Takemitsu Memorial (Tokyo, Japan)

曲目:
Ludwig van Beethoven: Concerto per pianoforte e orchestra n.2 op.19
Ludwig van Beethoven: Concerto per pianoforte e orchestra n.3 op.37
(休憩)
Ludwig van Beethoven: Concerto per pianoforte e orchestra n.4 op.58

pianoforte: Leif Ove Andsnes (レイフ=オヴェ=アンスネス)
orchestra: Mahler Chamber Orchestra(マーラー室内管弦楽団)
direttore: Leif Ove Andsnes (レイフ=オヴェ=アンスネス)

マーラー室内管弦楽団は、2015年5月3日から17日までアジアツアーを行い、香港・台北・台南(中華民国)・上海・高陽(ソウル近郊)・静岡・東京にて計9公演の演奏会を開催する。全ての公演のピアノ独奏・指揮はレイフ=オヴェ=アンスネスである。

管弦楽配置は、舞台下手側から、第一ヴァイオリン→ヴァイオリン-チェロ→ヴィオラ→第二ヴァイオリンの左右対向配置で、コントラバスはチェロの後方につく、木管パートは後方中央、ホルンは後方下手側、その他の金管・ティンパニは後方上手側位置につく。ティンパニは小さく鋭い音のするタイプである。

着席位置は一階正面中央やや上手側、客席の入りは九割ほど、一階席後部に空席が目立った。観客の鑑賞態度は、概ね極めて良好であったが、第四番終了時にフライング-ブラヴォーがあった。

前半はピアノ協奏曲第2・3番。アンスネスのピアノは、繊細でニュアンスに富んでいて、響きも綺麗で最高の出来だ。マーラー室内管も素晴らしい。どこでどのように演奏するべきか、全員が心得ている。全ての響きがこうあるべき所にバシッと決まる。

変わり者の あきらにゃん のムフフポイントは、第2番第三楽章の、ヴィオラ→第二Vn→第一Vn→ピアノと繋げる所♪随所でそう言った繋ぎの上手さを感じたなあ。第3番終盤のティンパニの鋭い響きも良いアクセントだった。あそこだけだから効果的に決まったかな♪

後半は、ピアノ協奏曲第4番。誰がなんと言おうと、白眉は第二楽章である!繊細なアンスネスのピアノと、そのピアノを圧倒しようとする弦楽、しかしその弦楽も精緻で、ピアノもなぜかよく通る響きなのだ。その不思議な聖チェチーリアに祝福された空間よ!

変わり者の あきらにゃん的ムフフポイントは、第一楽章序盤の、弦楽セクションが出した、ニュアンスとパッション溢れる最高音であります。全員が名手だから、あのような響きが出せるのだな。

全般的には、前半(2・3番)の方が良い出来だった。特に3番は、繊細さ・ニュアンス共に抜群に活きていた。

日曜日(17日)は1番と5番を聴きに行きます。

2015年5月4日月曜日

Tokyo Philharmonic Orchestra, Cheong Myeonghun, Karuizawa Ohga Hall the 10th Anniversary Concert (4th May 2015), review 東京フィルハーモニー交響楽団 軽井沢大賀ホール開館10周年記念演奏会 評

2015年5月4日 月曜日
Monday 4th May 2015
軽井沢大賀ホール (長野県北佐久郡軽井沢町)
Karuizawa Ohga Hall (Karuizawa, Nagano prefecture, Japan)

曲目:
Wolfgang Amadeus Mozart: Concerto per pianoforte e orchestra n.23 K488
(休憩)
Ludwig van Beethoven: Sinfonia n.7 op.92

pianoforte: 鄭明勳(Cheong Myeonghun/チョン=ミョンフン)
orchestra: Tokyo Philharmonic Orchestra(東京フィルハーモニー交響楽団)
direttore: 鄭明勳(Cheong Myeonghun/チョン=ミョンフン)

東京フィルハーモニー交響楽団は、2015年5月4日に軽井沢大賀ホールで、軽井沢大賀ホール開館10周年記念演奏会を開催した。指揮・ピアノは、鄭明勳(チョン=ミョンフン)である。このプログラムでの演奏会は、「ラ-フォル-ジュルネ金沢」にも持ち込まれ、2015年5月5日に石川県立音楽堂でも演奏される。

着席位置は一階正面後方中央、チケットは完売している。観客の鑑賞態度は、概ね良好であった。

冒頭からアンコールがあり、モーツァルトの「キラキラ星変奏曲」をミョンフンのピアノソロであった。

モーツァルトのピアノ協奏曲23番では、ピアノを上手側後方に斜めに向け、ピアノの蓋は取らずに通常のまま開いた形態である。その周りに半円状に、第一ヴァイオリン→第二ヴァイオリン→ヴァイオリン-チェロ→ヴィオラ→管楽器と囲んでいる。コントラバスは、下手側後方に位置する。

今日はピアノ・管弦楽とも端正に響き、生々しさを感じさせず、綺麗に響いている。デッドな響きの感覚がしないのは、不思議だ。モーツァルトの曲想を活かし、古典派ならではの興奮度を意図した演奏ではあるが、第一楽章で演奏し直しのアクシデントがあった。原因は不明である。その箇所は、長い文脈を経て最高音に達する途中の白眉の箇所であり、ぶつ切り状態となってしまったのは残念である。管楽は、やや大管弦楽のノリっぽい。第三楽章後半部はパッションが込められ、素晴らしい出来である。

ソリストアンコールがここで二曲あり、シューマンの「アラベスク」とBeethoven の「エリーゼのために」である。「エリーゼのために」は大賀緑さんへのラブレターとして捧げられたが、今日のピアノ-ソロの中では一番いい出来である。

Beethovenの第7交響曲の管弦楽配置は、舞台下手側から、第一ヴァイオリン→第二ヴァイオリン→ヴァイオリン-チェロ→ヴィオラのモダン配置で、コントラバスは最上手側を占める。木管・金管パートは後方、ティンパニは後方上手側にズラした位置につく。

第二〜第四楽章まで、私の好みそのまま!きっちり計算され尽くされて、興奮に導かれた感じである。中程度に効かせたテンポの変動の巧みさ、長いフェルマータ、金管のソロの強調などが特徴となるか。緊張感を失わない第二楽章、第三楽章ではA-B-AのAの部分を速く快活にし、Bの部分をかなり遅くしじっくり聴かせる対比が面白い。弦管打きちっと噛み合い、全体的な構成もしっかりしている。終了間近の追い込みの箇所も、見事に実現した。

今日の東フィルは、本当に響きが綺麗である。軽井沢大賀ホールを一番美しく響かせる演奏だ。明日5月5日に、金沢市にある石川県立音楽堂でもBeethovenの7番が演奏される。期待して欲しい!

2015年4月29日水曜日

Tokyo Philharmonic Orchestra, Andrea Battistoni, Karuizawa Ohga Hall the 10th Anniversary Concert (29th April 2015), review 東京フィルハーモニー交響楽団 軽井沢大賀ホール開館10周年記念演奏会 評

2015年4月29日 水曜日
Wednesday 29th April 2015
軽井沢大賀ホール (長野県北佐久郡軽井沢町)
Karuizawa Ohga Hall (Karuizawa, Nagano prefecture, Japan)

曲目:
Georges Bizet: L'Arlésienne, Suite n.1 e n.2(アルルの女、第一・第二組曲)
(休憩)
Пётр Ильич Чайковский / Pyotr Ilyich Tchaikovsky: Sinfonia n.5 op.64

orchestra: Tokyo Philharmonic Orchestra(東京フィルハーモニー交響楽団)
direttore: Andrea Battistoni (アンドレア=バッティストーニ)

東京フィルハーモニー交響楽団は、2015年4月29日に軽井沢大賀ホールで、軽井沢大賀ホール開館10周年記念演奏会を開催した。指揮は、この四月に首席客演指揮者に就任したばかりのアンドレア=バッティストーニであり、就任後初の演奏会となる。このプログラムでの演奏会は、この軽井沢大賀ホールに於ける演奏会のみであり、東京を含め他の演奏会はない。

管弦楽配置は、舞台下手側から、第一ヴァイオリン→第二ヴァイオリン→ヴァイオリン-チェロ→ヴィオラのモダン配置で、コントラバスは最上手側を占める。木管パート・ホルン以外の金管パートは後方中央、ホルン・ハープ・パーカッションは後方下手側の位置につく。

着席位置は一階正面後方中央、ほぼ満席である。観客の鑑賞態度は、概ね良好であった。

前半の「アルルの女」組曲について、第一組曲の出来は良いとは言えない。第一楽章から響きの一体感が十分ではない。個々の楽器の演奏は良く響いていても、管弦楽全体としての響きがバラバラで、どの楽器を際立たせたいのか、その意図が不明だった。また、軽井沢大賀ホールのデッドな響きに苦しめられていた。弦楽が強く弾けば生々しい響きになるし、弱く弾くと他の楽器にかき消されてしまい、ホールの響きを味方につける事が出来ない。大賀典雄は、松本市音楽文化ホールのような豊かな残響を嫌っていたのだと思う。直撃音がきちんと来ることは想定しているが、柔らかく艶のある響きには決してならない。

しかしながら、第二組曲では管弦楽全体としての響きが統一性を持ち始めた。第四楽章は圧巻の出来である。

後半はチャイコフスキーの交響曲第五番だ。冒頭部から全てが噛み合い、完成度の高い演奏を予感させる。木管のソロも美しく響き、これを支える他楽器の支援も考えられている。バッティストーニのテンポの変動は、実はさりげないけど、その加減が絶妙だ。全般的に速めで躍動感に満ちているので、テンポの変動をやり過ぎる必要がないのだろう。大胆なテンポの変動は、曲の終了部のみである。なので、決してやり過ぎにはならない。管弦楽がついていくのは大変だろうが、見事にバッティストーニの意図を反映させていく。

私がゾクゾクしたのは、第四楽章冒頭の、高音弦から低音弦への受け渡しの箇所である。繊細に攻めるべきところは繊細に攻めている。第四楽章で弦管打がこれほどまで噛み合った演奏はなかなか聴けない。スリル感・ワイルド感溢れる響きだが、決して崩壊せず緊張感を保っている。ソリスティックな演奏箇所の見事さや、金管楽器の威力に頼らない演奏でもあるが、やはり弦楽がしっかりしているからであろう。弦楽が吠えることができるからこそ、木管・金管も活きてくるのだと思う。

アンコールはチャイコフスキーの弦楽セレナーデから第二楽章と、プログラムにもある「アルルの女」第二組曲第四楽章である。弦楽セレナーデでは弦楽の繊細さをアピールし、ファランドールでは弦管打全体での躍動感ある響きで華やかに終了する。

軽井沢大賀ホールはデッドな響きで艶はなく、ナマナマしく響き、私にとって決して好きな響きのホールではないが、「アルルの女」第一組曲を除いては、小容積の中規模ホールならではの密度ある響きを活かした演奏会であった。

2015年3月14日土曜日

Tokyo Metropolitan Symphony Orchestra, Nagoya performance, review 東京都交響楽団 名古屋公演 評

2015年3月14日 土曜日
Saturday 14th March 2015
愛知県芸術劇場 コンサートホール (愛知県名古屋市)
Aichi Prefectural Art Theater Concert Hall (Nagoya, Japan)

曲目:
Richard Wagner: ‘Tristano e Isotta’ ‘Preludio e Morte di Isotta’ 「トリ
スタンとイゾルデ」より「前奏曲と愛の死」
(休憩)
Anton Bruckner: Sinfonia n. 4 (versione 1878-1880, Leopold Nowak)

orchestra: Tokyo Metropolitan Symphony Orchestra(東京都交響楽団)
direttore: Eliahu Inbal / エリアフ=インバル

東京都交響楽団は、エリアフ=インバルの指揮の下、2015年3月14日・15日に名古屋・福岡ツアーを行っている。東京都交響楽団創立50周年を記念するしてのものである。2015年3月18日に、東京文化会館にて開催される、第784回定期演奏会と同一のプログラムである。

この評は、名古屋公演に対してのものである。

管弦楽配置は、舞台下手側から、第一ヴァイオリン→第二ヴァイオリン→ヴィオラ→ヴァイオリン-チェロのモダン配置で、コントラバスはチェロの後方につく。ハープは下手側、ティンパニは後方中央である。

着席位置は一階後方中央、客の入りは7割くらいか?正面席は三階まで埋まっているが、バルコニー席に空席が目立ち、特に三階部は顕著である。鑑賞態度は概ね極めて良好だった。

全般を通して、何をしたいのかが意図が伝わってくる演奏だ。細かい点で突っ込み所がない訳ではないが、そう言った意図なりパッションが伝わる演奏は、やはり私の心を納得させるものがある。

都響の素晴らしいところは、目指すべき地点をみんなで共有しているところである。その瞬間にどのような響きを出すのか、その意図が共有されているのだ。スタープレイヤーの個人技に頼らず、全員の一体感で攻める点が素晴らしい。みんながパッションを抱いているのがよく感じられるのだ。インバルはそのパッションを的確に交通整理する。その透徹なまでの見通しの良さ、構築力に感嘆させられる。

今日の演奏を聴くまで、ブルックナーは解釈の余地が狭く、下手に独自色を出してはいけないのだと思っていた。インバルは許容範囲を超えているはずなのに、このようなアプローチがあり得るのだと、強い説得力を感じた。

第一楽章で見せたアッチェレランドでゾクゾクさせられるスリルを感じる。純音楽的アプローチでこのような大胆な路線を見せられるが、全く反発心が起こらない。

全面降伏である。インバルの構築力だけではなく、インバルの意図を全楽団員が理解し、細かく設定された様式に的確に則りながらも、強い自発性で表現したからである。

インバルのブルックナーはブルックナーではないが、しかしこれも立派なブルックナーだ。

ブルックナーの4番が、あんなにドキドキする曲だとは思わなかった!題名通りに「ロマンティック」に演奏したらツマラナくなってしまうかも♪そんな新鮮な印象を受ける、愛知県での東京都交響楽団だった。

2015年3月7日土曜日

Dance Archive in Japan 2015 評

新国立劇場 中劇場(東京)

第一部
「機械は生きている」(1948年)
【振付・音楽】石井 漠
【演奏】加藤訓子(打楽器)
【出演】石井 登 ほか

「マスク」(1923年)
【振付】石井 漠
【音楽】アレクサンドル=スクリャービン
【出演】石井かほる

「恐怖の踊り」(1932年)
【振付】執行正俊
【音楽】マヌエル=デ-ファリャ『恋は魔術師』より
【出演】小林洋壱

「釣り人」(1939年)
【振付】檜 健次
【音楽】宇賀神味津男
【演奏】河内春香(ピアノ)
【出演】片岡通人

「スカラ座のまり使い」(1935年)(3つのバージョンでの上演)
【振付】江口隆哉
【音楽】フランツ=シューベルト『スケルツォ』D593
【演奏】河内春香(ピアノ)
【出演】1. 木原浩太 2. 西川箕乃助 3. 佐藤一哉・堀登

第二部

「体(たい)」(1961年)
【振付】石井みどり
【音楽】イーゴリ=ストラヴィンスキー『春の祭典』
【装置・衣裳】前田哲彦
【出演】酒井はな・佐々木大 他

ダンス-アーカイブ in Japan 2015は新国立劇場中劇場に於いて、2015年3月7日から8日にかけ2公演上演される。この評は、一回目3月7日の公演に対するものである。

第一部について、私の感覚はいつもの通りに変わっていると思うが、「釣り人」や「スカラ座のまり使い」の日本舞踊バージョンが興味深かった。「スカラ座」の方は、日本舞踊の時間的デフォルメ感覚が歌舞伎の影響を受けているのかなあと思わされる。殺陣の場面で、いい子ちゃんの主役が見得を切っている間に、どうして悪役はやっつけないの?とついつい感じてしまう時間感覚が似ているのだなあっと。常日頃、悪事ばかり企んでいるからかもしれないが♪

最初の演目である「機械は生きている」は、純ダンス的要素とは別に、その当時の日本のメカニカルな要素の強い工場が浮かび上がってくる。半導体工場やロボットばかりの自動車工場とは違う、なんて言うか、歯車とプレス機械に囲まれた1930年代の工場に連れて行かれた感覚だ。妙に同時代的感覚に支配されてくる。

第二部は「体」、「春の祭典」であるが、別の題名を付けているのは意味がある。

酒井はな さんは華やかな踊りで、新国立劇場バレエ団現役時代に見て置きたかったなあと・・。もちろん華やかさだけでなくて、言語化することを意図して見てはいないのでどのように表現するべきかわからないのだけれど、私にとっては完璧で、新国立劇場バレエ団時代に見ていたらファンになっちゃっていたかも♪「こうもり」のベラ役とか面白そうだなと思ったり♪♪

「体」はソリストの出演場面は少なく、群舞が中心になるが、前半部で女性群舞が一斉にシャープに決める場面は、私としては密かにテンションが上がるところ。そのテンションを保って終わったような感じか。舞台は、新国立劇場中劇場独特の構造を活かし、主舞台とその前方の前舞台(オケピットの場所に相当)を用い、長方形状に奥行きのある広さであるが、その空間を十分に活かし躍動感を感じさせる。

酒井はな さんがラストの場面で生贄にされる乙女の踊りをするのかと想定していたが、全く違うストーリー展開で、生贄が倒れるどころか、酒井はな さんが笑みを浮かべて、凱歌を上げるような終わり方は意外過ぎて、つい苦笑してしまったが、ここに「春の祭典」とはしなかった意味があるのだな。

Dance Archive in Japan 2015、財政面でいろいろと厳しいのだろうが、Archiveの中の作品をArchiveの中に閉じ込めて死蔵したままにしておくのではなく、生の実演の形で生きた形にするという点で、国立の劇場としての使命を果たしている。この事業は続けていって欲しいと願う。

2015年3月1日日曜日

ボストン美術館 華麗なるジャポニズム展  印象派を魅了した日本の美

名古屋ボストン美術館 2015年3月1日 日曜日

2014年6月28日から、世田谷美術館(東京)・京都市美術館(京都府京都市)と続いて、2015年1月2日から5月10日までは名古屋ボストン美術館でこの展覧会が開催されている。

東京:大阪:名古屋の美術展観客動員数は、10:5:3であるそうだが、そのような状況の上に展示期間は名古屋が一番長く、良好な環境で鑑賞できることを期待し、混雑が予想される会期始め・会期末にならない中間の3月1日に行くこととした。前日には、トゥールーズ-キャピトル管弦楽団の名古屋公演が愛知県芸術劇場コンサートホールであったので、ちょうど良い。

2014年9月にボストン美術館に行った私にとっては、この展覧会に行くことによって、昨年9月にボストンにはなかった作品を見ることが出来るとの計算も働いた。

余裕を持って時間を確保さえすれば、一番の目玉であるであるクロード=モネ作の「ラ-ジャポネーズ」(目録番号26)ですら、独り占めする時間があるほどだ。狙いは当たった。

一年近くに渡って、作品がボストンを離れ日本ツアーを行っているが、それはボストン美術館の展示室が不足気味で、特に日本の作品の展示室が著しく少ないためである。決して気前が良い訳ではないだろう。浮世絵を紹介するための展示室は実質第280号室のみ、十万点以上の日本作品コレクションを持っているとされるのに、これでは作品は収蔵庫の中にしか入れられない。印象派の作品についても、メトロポリタン美術館ほどではないとしても、かなり充実しているので、それなりの作品を長期間出しても、ボストン美術館の展示室に支障はないのだ。

今回の展覧会は、日本趣味、女性、シティ-ライフ、自然、風景と五つに分けて、作品を紹介している。

以下、私なりの注目作品と、感想を述べる。

1.日本趣味
最初の六点の葛飾北斎・歌川広重の作品からして良いものを出してくる。
目録番号1: 葛飾北斎「富嶽三十六景 武州千住」
目録番号2: 歌川広重「東海道五拾三次内 三島 朝霧」
目録番号3: 歌川広重「名所江戸百景 大はしあたけの夕立」
目録番号4: 歌川広重「名所江戸風景 亀戸梅屋舗」
目録番号5: 歌川広重「名所江戸風景 真崎辺より水神の森内川関屋の里を見る図」
目録番号6: 歌川広重「名所江戸風景 浅草田甫酉の町詣」

こうした作品を見ていると、日本の浮世絵がいかにグラデーションを要所のみに用いていて、色彩も鮮やかでありながらシンプルで、これらの結果、グラデーションを用いている箇所でさえ輪郭の明瞭感が強調されるのだなと思う。

2.女性
目録番号23: クロード=モネ「ラ=ジャポネーズ」

女性は当時のモネの妻、カミーユ=モネである。内掛の図柄は謡曲「紅葉狩」ではないかとの説を解説板で出しており、そうだとすると、内掛の腰から下にある武者が、美女のふりして油断させて武者の命を狙おうとしていた鬼女を成敗する事となるようで、そうなるとカミーユは鬼女となってしまうのだが、どうせモネ一家はそんな経緯など知らずにこの内掛を使ってのだろう。武者が立体的に見える瞬間もあって、実に精緻に描かれていたのだなあと思い知らされる。

目録番号25: 鳥橋斎栄里「(近江八景 石山秋月)丁小屋内 雛鶴つるし つるの」
目録番号26: 菊川英山「風流近江八景 石山」
目録番号28: エドマンド=チャールズ=ターベル「夢想(キャサリン-フィン)」
目録番号29: フランク=ウェストン=ベンソン「装飾的頭像」

3.シティ-ライフ

(特になし)

4.自然
目録番号88: チャールズ=キャリル=コールマン「つつじと林檎の花のある静物」
目録番号94: アンリ=マティス「花瓶の花」

5.風景
目録番号109: 歌川広重「東海道五拾三次内 岡崎 矢矧之橋」
目録番号131: 歌川広重「名所江戸風景 鉄炮洲稲荷橋湊神社」

目録番号137: 歌川広重「名所江戸風景 神田明神曙之景」
目録番号138: ジョン=ラファージ「ヒルサイド-スタデイ(二本の木)」

目録137と138は、138が137の影響を受けていると示す展示方法である。ラファージは広重の空と全く同様に空を描いているが、どうもしっくりこない。浮世絵の影響を受けてばかりで、ラファージ自らの消化が足りない印象を受ける。

目録番号139: 歌川広重「名所江戸風景 愛宕下藪小路」
目録番号140: カミーユ=ピサロ「雪に映える朝日、エラニー-シュル-エプト」

目録139と140は、140が139の影響を受けていると示す展示方法である。
140の作品を見せられても、浮世絵の影響を受けていると素人が見破る事は困難であろう。浮世絵から得た物をピサロ自身の中で消化し、ピサロ自身の様式に落とし込む事に成功している。

目録番号143: 歌川広重「東海道五拾三次内 四日市 三重川」
目録番号144: クロード=モネ「トルーヴィルの海岸」

目録番号145: 歌川広重「東海道五拾三次内 鞠子 名物茶屋」
目録番号146: クロード=モネ「積み藁(日没)」

上記四点の作品も、それぞれ下の作品が上の作品の影響を受けていると示す展示方法である。モネの作品を見ていると、いかに浮世絵の要素を消化して、それぞれの画家の様式に落とし込む事が大切かが良く分かる。モネ・ピサロは優れた例である。日本の流儀をそのまま西洋に移植するのは、その逆がそうであるように、やはり無理があり、良い作品にはならない。影響を受けつつも、自らの様式を確立して表現する事が如何に重要かを思い知らされる。

目録番号147: クロード=モネ「睡蓮の池」
目録番号148: クロード=モネ「睡蓮」

睡蓮の作を二点ボストンから旅出させた。これらの作品を出しても、ボストン美術館の展示室を埋める作品はいくらでもあるのだ。良いことなの悪いことなのかは分からないが。

印象派・浮世絵が好きな方は、名古屋駅から電車で5分の金山駅前にある、名古屋ボストン美術館に行って、この展覧会をご覧になることを進めたい。休憩を含めずに三時間あれば余裕だろう。名フィルの演奏会とセットに訪問するのもいいのかも知れない。

2015年2月28日土曜日

Orchestre National du Capitole de Toulouse, Nagoya performance, review トゥールーズ-キャピトル国立管弦楽団 名古屋公演 評

2015年2月28日 土曜日
Saturday 28th February 2015
愛知県芸術劇場 コンサートホール (愛知県名古屋市)
Aichi Prefectural Art Theater Concert Hall (Nagoya, Japan)

曲目:
Frédéric Chopin: Concerto per pianoforte e orchestra n.1 op.11
(休憩)
Николай Римский-Корсаков / Nikolai Rimsky-Korsakov: suite sinfonica 'Shahrazād' op.35 (シェエラザード)

pianoforte: Юлианна Андреевна Авдеева / Yulianna Avdeeva / ユリアンナ=アヴデーエワ
orchestra: Orchestre National du Capitole de Toulouse (トゥールーズ-キャピトル国立管弦楽団)
direttore: Сохиты Таймуразы фырт Тугъан / Tugan Sokhiev / トゥガン=ソヒエフ

トゥールーズ-キャピトル国立管弦楽団は、ユリアンナ=アヴデーエワをソリストに迎え、音楽監督であるトゥガン=ソヒエフの指揮の下、来日公演を行っている。2015年2月20日から3月2日まで、大阪・東京・広島・福岡・金沢・名古屋・仙台・川崎にて計8公演の日程である。

この評は、六回目の名古屋公演に対してのものである。

管弦楽配置は、舞台下手側から、第一ヴァイオリン→第二ヴァイオリン→ヴァイオリン-チェロ→ヴィオラのモダン配置で、コントラバスはチェロの後方につく。ハープは下手側に置かれている。

着席位置は二階中央上手側、客の入りは7割位か。二階バルコニー・三階席に空席が目立つ。観客の鑑賞態度は、前半部にビニールのおとを鳴らしていた人物がいた以外は、良好であった。

前半はユリアンナ=アヴデーエワのピアノは繊細かつ品のある演奏である。テンポはやや遅めであり、一音一音を掘り起こす意図もあるのだろう。感情は抑制的で、知的なアプローチで、マリア=ジョアウ=ピレシュと似ているか否かは知らないが、文字に書き起こして見ると似ているのかもしれない。響きは違うと思うけど。いずれにしても、Brava!

ユリアンナのリサイタルを聴くとするならば、600-800席クラスの中規模ホールで聴きたい。繊細さで攻めるタイプなので、大ホールでは基本的に無理がある。

一方で、ユリアンナと管弦楽とのコンビネーションの点では、検討不足と感じられる所がある。ユリアンナが繊細に弾いている所で、第一楽章でのあのホルンの出しゃばったソロはどうなのか?ここのホルンも繊細な響きを志向し、うまくサポートしてユリアンナとの統一感を感じさせる響きを実現して欲しかった。

後半は「シェエラザード」。ベルリン-フィル級の個人技で攻める方向ではないものの、全体としての完成度は高い。弦は、低弦に注目させられ、第一・第二楽章での精緻かつ迫力あるコントラバスに耳を奪われる。また、全般的にチェロのソロが素晴らしい。

第二楽章では、オーボエ→クラリネットと続くソロが、最高に素晴らしい。個人技を見せつけた、後半部の白眉である。奏者の自発性溢れるニュアンスも込められ、これ以上何を求めようか?

弦楽は第三楽章が良かった。第四楽章は、愛知芸文で大管弦楽を聴く醍醐味を感じさせる完成度の高い出来で、難破する場面でテンポをタメる小技の相乗効果も、見事に決まっていた。

ソヒエフの指揮は、奇を衒う所はなく、テンポを一瞬遅くする小技を何箇所か使う程度であるが、やり過ぎないので、実に効果的なアクセントとなる。ソヒエフならではのオケの構築力を感じさせる演奏会であった。

アンコールは、ユリアンナのソリスト-アンコールは、ショパンのワルツop.42、終了時は二曲あり、ビゼー歌劇「カルメン」から第三幕への間奏曲と、チャイコフスキーのバレエ「くるみ割り人形」からトレパックであった。

2015年2月22日日曜日

National Ballet of Japan ‘la Bayadère’ (February 2015) review 新国立劇場バレエ団「ラ-バヤデール」(2015年2月) 評

新国立劇場バレエ団「ラ-バヤデール」(2015年2月) 評 

2015年2月22日 日曜日
Sunday 22nd February 2015

新国立劇場(東京)
New National Theatre, Tokyo (NNTT) (Tokyo, Japan)

compagnia di balletto: National Ballet of Japan (新国立劇場バレエ団)

Nikiya: Yonezawa Yui (米沢唯)
Solor: Fukuoka Yudai (福岡雄大)
Gamzatti: Nagata Kayo (長田佳世)
Bronze Idol: Okumura Kosuke (奥村康祐)

Music: Leon MINKUS
Music Arranged by: John LANCHBERY
Choreography: Marius PETIPA
Production: MAKI Asami (牧阿佐美)

orchestra: Tokyo Symphony Orchestra (東京交響楽団)
direttore: Олексій Баклан/ Alexei BAKLAN (指揮:アレクセイ=バクラン)

新国立劇場バレエ団は、2月17日から2月22日までに‘la Bayadère’を計4公演、新国立劇場で上演する。

この評は、千秋楽2月22日の公演に対するものである。

着席位置は前方やや上手側。観客の入りはほぼ満席である。観客の鑑賞態度は、一階前方席で私語が若干あったものの、概ね極めて良好だった。

いつものように、贔屓にしている米沢唯ちゃんから。

本日は主役のニキヤ役、体調は万全ではなかったような気もするが(私が神経過敏だっただけで、妄想かも知れない)、それでも第一幕・第三幕は素晴らしい演技を披露した。技巧を披露する方向性ではなく、演技の完成度を高める方向性で攻めたように思える。

特に第一幕では、哀愁を帯びた演技で、緩徐なテンポ設定の下、ニュアンス豊かに踊る。逢瀬の場面でも、嬉しそうな要素は希薄で、むしろ、この恋が実りそうもない事を予感させるような、悲しい表情だ。身分違いの恋であり、心の奥底に破滅への不安がある、そのような心境を見事に表現している。第一幕は特に純ダンス技術的にも完璧で、物語に心を寄せる事が出来る。

一方、第三幕では完成度の高い演技の方向で、死の世界を強調するニキヤである。どこか冷たく美しい第三幕での唯ちゃんニキヤだ。

米沢唯ちゃんは、どちらかと言うと身体能力の高さが強調され、もちろんその点は最大の強みなのだろうけど、体調が仮に万全な状態で無かったのだとしても、ここまで演技を形にできる。もともとの身体能力が高いからなのだろう。今回の「ラ-バヤデール」で唯ちゃんは大化けしたような気がする。「白鳥の湖」の(オディール役だけでなく)オデット役も、これまで以上のレベルで魅せてくれるのではないかと、予感する。

ソロル役の福岡雄大さんは身体能力見せ付けの方に走ったような感もあるのは、私の気のせいか?私は男性ダンサーはろくすっぽ見ていないのだけれど(ごめんなさい)、しかし身体能力見せ付け系は、それはそれで私は好きである♪

今日は関西から大挙応援団が来ているからか、関西出身ダンサーへの声援が凄い♪

ガムザッティ役の長田佳世さんは、第二幕ニキヤのソロの場面で、ソロルは私のものよと見せ付けたりはしない感じである。佳世さんガムザッティは、一見怖いようだが根は悪人ではない感じで、「パゴダの王子」のエピーヌ皇后の時と同じ路線のような気がする。佳世さんは、不倫をしたら即バレるタイプで♪、悪事が露呈するとすぐ動揺するエピーヌ皇后だったけど、今回のガムザッティでも、悪人になり切れないような印象を与える点が共通しているような・・・。佳世さんはそんな風に悪役を表現したいのかな?私の妄想かもしれないが。

そんな佳世さんは、「ソロルは私のものよ♪」と見せ付ける唯ちゃんとは対照的な印象を持った。唯ちゃんは、自身が中央で踊っていない場合であっても仕掛けをする事があるけど、佳世さんはしないのだよな。本島美和さんはどうだったのだろう・・・。昨日やはり行くべきだった。

第三幕の「影の王国」、ソリスト三人で踊っている姿を見て一番好きなのは、細田千晶さん、指先まで綺麗に決まっている。

群舞は全般的に、2/19の時より精度が高く、完成度を増した印象を持つ。ジャンペの踊りで、特に感じる。なお、あきらにゃん好みの美貌の関晶帆さんは、うれしい事に群舞の前方に位置する時間が長めだ♪目の保養になるなあっと、晶帆たんばっかり見惚れているなんて事は、ないない(まあ、時間的な比率は2~3割程度、そのくらいの不真面目さは許してくださいな)♪♪

2月19日の公演と同じ総括となってしまうが、全体的にソリストもコールドも管弦楽も、士気の高さを感じさせる出来で、非常に高いレベルの舞台芸術を実現させた。特に群舞は、千秋楽で一気に進化した。たった四公演であるのが残念である。

2015年2月19日木曜日

National Ballet of Japan ‘la Bayadère’ (February 2015) review 新国立劇場バレエ団「ラ-バヤデール」(2015年2月) 評

2015年2月19日 木曜日
Thursday 19th February 2015

新国立劇場(東京)
New National Theatre, Tokyo (NNTT) (Tokyo, Japan)

compagnia di balletto: National Ballet of Japan (新国立劇場バレエ団)

Nikiya: ONO Ayako (小野絢子)
Solor: Вадим Мунтагиров / Vadim MUNTAGIROV (The Royal Ballet, Coventgarden)
Gamzatti: YONEZAWA Yui (米沢唯)
Bronze Idol: YAHATA Akimitsu (八幡顕光)

Music: Leon MINKUS
Music Arranged by: John LANCHBERY
Choreography: Marius PETIPA
Production: MAKI Asami (牧阿佐美)

orchestra: Tokyo Symphony Orchestra (東京交響楽団)
direttore: Олексій Баклан/ Alexei BAKLAN (指揮:アレクセイ=バクラン)

新国立劇場バレエ団は、2月17日から2月22日までに‘la Bayadère’を計4公演、新国立劇場で上演する。

この評は、二回目2月19日の公演に対するものである。

着席位置はかなり前方やや下手側。観客の入りはほぼ満席である。学校団体鑑賞があり女子中学生が多く鑑賞していたが、物音一つ立てず(夢中になったいか寝ていたかはともかく)鑑賞態度は非常に良好であった。きっと大部分はバレエの魅力を理解して帰途についたかと思われる。その他の客も、反応は平日マチネでもありシャイであったが、極めて良好だった。

まずは、あきらにゃんが贔屓にしている米沢唯ちゃんから♪

唯ちゃんはお嬢様顔だし、優しそうな顔をしているし、どう考えてもいい子にしか見えないし、悪い事なんて一切しません!って感じであるはずなのですけど・・・。

実は、唯ちゃん、カマトトぶっていただけだったらしい♪実に恐ろしいガムザッティである。気品あるお嬢様がその方面に走り出すと、じつに怖い。ソロルをみごと略奪して、第一幕の最後、唯ちゃんは勝ち誇った表情をしている。

第二幕はガムザッティが中心人物となり、唯ちゃんの見せ場が多い。いつも通り、唯ちゃんは盤石な出来である。リフトされても全くぶれないし、静止技も綺麗に決まっている。

ニキヤのソロの場面で、ソロルは私のものよ♪とニキヤに見せつける唯ちゃんの表情は最高の出来で、むひゃむひゃな気分になってくる。獲物を狙う蛇のような唯ちゃんの視線にドキッとしたり・・・。あんな感じで狙われたら、どうしよう・・・♪♪

大僧正役のマイレーン=トレウバエフは、ロシア人ならではの顔立ちを上手く活かして、嫉妬に燃える表情を的確に表す。

寺田亜沙子さんの「つぼの踊り」は、視線の使い方がとても可愛い!子役の二人の踊りも素晴らしい。

主役ニキヤ役の小野絢子さんは、第三幕が圧巻である。第三幕になってから技術的にもキレが出てきて完成度も高く、悲しみの表現は全幕通して万全であり、あれ以上のレベルのニキヤは、世界的レベルでも味わうのは難しいだろう!Brava!!

ソロル役の、ヴァディム=ムンタギロフは実に美しく、完成度高く踊る。「眠り」の時と同様に、ゲストとは思えないほど馴染んでいる。ノーブルな雰囲気は彼ならではのもので、金の力でコヴェントガーデンから引き抜くべきだ♪純ダンス的な美しさは惹きつけられるが、どう考えても王子様♪ソロルって戦士の設定だったっけ?の感じとはなる。まあ、戦士らしさが欲しかったら、ワイルドなダンサーをパリ国立歌劇場辺りから呼べよの話しになってしまうだろう。そもそも、ソロルは戦士でなく、王子様の設定であっても全く差し支えないのだとも思わせる。

群舞は、特に第三幕で、本当に素晴らしいものを見せてくれる!。あの坂を降りてくるシーンは、誰か一人でも緊張感が解けて場面を見失うと、致命傷となるし、時間的長さを含めると、群舞にとって最も難しいシーンの一つだろうなと思うが、時間的にも空間的にもキチッと合って精度が高く、美しく踊れている。もちろん、そのような技術的な精度だけではなく、その他の面でどのように言語化するべきかわからないのだけれど、新国立劇場バレエ団全体のレベルが高いのだなと思わせる。

指揮のバクランは管弦楽を巧みに導き、東京交響楽団は完成度の高い出来でこれに応える。東フィルの楽団員とは技術的レベルはもちろんのこと、士気が違うのだろう。もちろん、東京交響楽団の方が圧倒的に上だ。管楽は全般的にしっかり鳴らすし、弦楽ソロの完成度も高い。ミューザから離れて、このまま座付きオケになって欲しい。バレエは総合芸術、東フィルのように管弦楽が「義務で伴奏しに来た」ようでは困る。管弦楽は「伴奏」であってはならない。本気を出してくれないと、バレエは成立しない。

全体的にソリストもコールドも管弦楽も、士気の高さを感じさせる出来で、非常に高いレベルの舞台芸術を実現させた。たった四公演であるのが残念である。ソワレ、週末公演と比べると、平日マチネであり観客はおとなしめではあるが、それぞれの観客に感銘を与えることが出来た公演と確信している。

2015年2月15日日曜日

Orchestra Ensemble Kanazawa, Peer Gynt , the 361st Subscription Concert, review 第361回 オーケストラ-アンサンブル-金沢 定期演奏会 「ペール=ギュント」 評

2015年2月15日 日曜日
Sunday 15th February 2015
石川県立音楽堂 (石川県金沢市)
Ishikawa Ongakudo (Ishikawa Prefectural Concert Hall) (Kanazawa, Japan)

曲目:
Edvard Hagerup Grieg: Peer Gynt op.23 (ペール=ギュント)

Solveig: Tachikawa Kiyoko (soprano) (立川清子)
Peer Gynt : Takahashi Yosuke (baritono) (高橋洋介)
Anitra: Aida Masumi (mezzosoprano) (相田麻純)
Three Witches: Yoshida Waka, Shibata Sakiko, Hayashi Yoko (山の魔女たち:吉田和夏、柴田紗貴子、林よう子)
Thief and Receiver: Muramatsu Koya, Iguchi Toru (泥棒と密売人:村松恒矢、井口達)
narratore: Kazari Issei (語り:風李一成)
coro: Orchestra Ensemble Kanazawa Chorus (オーケストラ-アンサンブル-金沢合唱団)
orchestra: Orchestra Ensemble Kanazawa (OEK)(オーケストラ-アンサンブル-金沢)

maestro del Coro: Saikawa Yuki (合唱指導:犀川裕紀)
maestro dei solisti: Amanuma Yuuko (独唱指導:天沼裕子)
direttore: Kristjan Järvi (指揮:クリスティアン=ヤルヴィ)

オーケストラ-アンサンブル-金沢は、立川清子(ソプラノ)・高橋洋介(バリトン)・相田麻純(メゾソプラノ)等をソリストに迎えて、2015年2月15日に石川県立音楽堂で、グリーク作、劇音楽「ペール=ギュント」全曲演奏会を第361回定期演奏会として開催した。

管弦楽配置は、舞台下手側から、第一ヴァイオリン→第二ヴァイオリン→ヴァイオリン-チェロ→ヴィオラのモダン配置で、コントラバスはチェロの後方につく。兄パーヴォとは全く違う弦楽配置である。木管パートは後方中央、ホルンは後方下手側、他の金管は後方上手、ティンパニは後方上手、他のパーカッションは後方下手側の位置につく。歌い手はソリストを含め最後方中央、語り手のみ指揮者の横だ。

着席位置は一階正面中央上手側、客の入りは八割程であろうか、二階バルコニーに空席が目立ち、チケット完売には至らなかった。観客の鑑賞態度は、ごく少数の人たちによる鈴音やビニールの音によって、あまり良くない印象を持つ。なぜか、最も静謐な雰囲気を必要とする立川清子のソロがある場面で、雑音が目立った。特に最後の「ソルヴェイグの子守唄」では、一階後方上手側の観客が継続的にビニールの音を立て続けていた。また、演奏開始後・休憩後の演奏開始後、それぞれ数分から十分の間、天井からパチパチトタン屋根に雨が当たるような音が聞こえ、弱奏部でかなり雰囲気を阻害したのは残念である。

演奏について述べる。

クリスティアン=ヤルヴィは的確な構成力により、メリハリを効かせた演奏を実現させる。歌い手を優先させるところと、トゥッティで迫力ある演奏で攻めるところとの使い分けが見事だ。OEKの演奏も、クリスティアンの意図を反映させ、パッションを込めたり、精緻に演奏したり、強奏部も弱奏部も的確な響きでニュアンス豊かに演奏する。第二幕最後の、鐘の音のバンダの効果は大きいし、第四幕冒頭の「朝」のフルートも決まるし、クリスティアンはOEKの実力を十全に引き出す。さすがである。

歌い手については、やはりソルヴェイグ役の立川清子がダントツである。魑魅魍魎だらけの役の中で、ソルヴェイグだけが清楚な雰囲気を保つ異質な役であり、その成否がこの演奏会を大きく左右する一因となるプレッシャーが掛かるが、高いレベルでその責務を果たしている。石川県立音楽堂の響きをしっかり把握し、余裕を感じさせる声量がニュアンスを豊かにし、気品ある圧倒的な存在感を観客に示す。第四幕の「ソルヴェイグの歌」、第五幕最後の「ソルヴェイグの子守り歌」、いずれも大事な場面を決めていく。Brava!!

ソルヴェイグ役と山の魔女たち役の四人は、いずれも新国立劇場オペラ研修所の13・14
期生である。13期生の三人については、2013年7月にPMFガラコンサートでも聴いたが、その時も立川清子が二歩抜きんでていた。若手の歌い手が育ちつつあるのは嬉しいことである。

ペール=ギュント役の高橋洋介は、後半が好調で素晴らしい。他のソリストも良い出来で、穴がなかったように思える。第五幕に於ける合唱団も見事だ。「ソルヴェイグの子守り歌」のバンダの弱唱が実に効果的である。

重ねて言及するが、クリスティアンとOEKの管弦楽による歌い手のサポートは実に素晴らしい。一つ例を挙げれば、あの立川清子のソルヴェイグのソロの活かし方だ。指揮・管弦楽・歌い手・語り手全てがうまく絡み合い、総力を挙げて見事な「ペール=ギュント」を描き出した、演奏会であった。

2015年2月14日土曜日

Kioi Sinfonietta Tokyo, the 98th Subscription Concert, review 第98回 紀尾井シンフォニエッタ東京 定期演奏会 評

2015年2月14日 土曜日
Saturday 14th February 2015
紀尾井ホール (東京)
Kioi Hall (Tokyo, Japan)

曲目:
Johann Sebastian Bach: Variazioni Goldberg BWV.988 (ゴルドベルク変奏曲)
(arranged for strings by Дмитрий Ситковецкий)
(休憩)
Пётр Ильич Чайковский / Pyotr Ilyich Tchaikovsky: Serenata per archi op.48 (弦楽セレナーデ)

violino: Дмитрий Ситковецкий / Dmitry Sitkovetsky /ドミトリー=シトコヴェツキー
orchestra: Kioi Sinfonietta Tokyo(紀尾井シンフォニエッタ東京)
direttore: Дмитрий Ситковецкий / Dmitry Sitkovetsky /ドミトリー=シトコヴェツキー

紀尾井シンフォニエッタ東京(KST)は、ドミトリー=シトコヴェツキーをソリスト兼指揮者に迎えて、2015年2月13日・14日に東京-紀尾井ホールで、第98回定期演奏会を開催した。この評は、第二日目の公演に対してのものである。

管弦楽配置は、舞台下手側から、第一ヴァイオリン→ヴィオラ→ヴァイオリン-チェロ→第二ヴァイオリンの左右対向配置で、コントラバスはチェロの後方につく。ゴルドベルク変奏曲はチェンバロがあり、上手側後方の位置につく。

着席位置は一階正面後方僅かに上手側、チケットは完売している。観客の鑑賞態度は、ゴルドベルク変奏曲の冒頭のみ鈴の音が目立ったが、他は概ね良好であり、二曲目の弦楽セレナーデは、紀尾井シンフォニエッタを私が聴き始めて以来の極めて良好なものであった。

ゴルドベルク変奏曲BWV.988は、冒頭固さが見られたものの、曲の進行とともに完成度を高める。全般的に節度あるパッションで表現する。トゥッティで演奏する場面、首席奏者がメインで他が伴奏する場面、シトコヴェツキーのソロのみが前面に立つ場面、この曲の持つ様々な表情を、その場その場で適切な音色を考え抜いた演奏で、バッハの曲想を活かした、素晴らしい演奏だ。

後半はチャイコフスキーの弦楽セレナーデ。節度を保ち、涙腺ウルウル要素が過剰にならない方向性であるが、シトコヴェツキーの見通しの良い構成力が光る、いい意味で中庸な表現である。派手さはないが、この場面ではこの響きでという必然が理解でき、奏者に示せている。一方でKSTは、シトコヴェツキーの意図を的確に理解し、実際の響きにその精緻さで実現される演奏である。好みはともかく、この路線のスタイルでは完璧な出来であった。

アンコールは、J.S.バッハ作管弦楽組曲第3番BWV1068より第2曲アリア、これも完璧な演奏でシトコヴェツキーとKSTとの相性の良さを実感させるものであった。

2015年1月31日土曜日

Nagoya Philharmonic Orchestra, the 420th Subscription Concert, review 第420回 名古屋フィルハーモニー交響楽団 定期演奏会 評

2015年1月31日 土曜日
Saturday 31st January 2015
愛知県芸術劇場コンサートホール (愛知県名古屋市)
Aichi Prefectural Art Theater Concert Hall (Nagoya, Japan)

曲目:
Richard Georg Strauss: Serenata in mi bemolle maggiore per 13 strumenti a fiato op.7 (13管楽器のためのセレナード)
Benjamin Britten: Simple Symphony op.4
(休憩)
Richard Wagner: La Valchiria, Atto Primo(「ヴァルキューレ」より第一幕)

soprano: Susan Bullock
tenore: Richard Berkeley-Steele
basso: Kotetsu Kazuhiro (小鉄和弘)
orchestra: Nagoya Philharmonic Orchestra(名古屋フィルハーモニー交響楽団)
direttore: Martyn Brabbins

名古屋フィルハーモニー交響楽団は、スーザン=ブロック(ソプラノ)・リチャード=バークレー-スティール(テノール)・小鉄和広(バス)をソリストに迎えて、2015年1月30日・31日に愛知県芸術劇場で、第420回定期演奏会を開催した。この評は、第二日目の公演に対してのものである。

管弦楽配置は、舞台下手側から、第一ヴァイオリン→ヴァイオリン-チェロ→ヴィオラ→第二ヴァイオリンの左右対向配置で、コントラバスはチェロの後方につく。木管パートは後方中央、ホルンは後方下手側、ティンパニは後方中央、ハープは上手側の位置につく。なお、一曲目の「13管楽器のためのセレナード」は管楽器奏者のみが立って指揮者を半円形に囲っての演奏であり、二曲目の「シンプル-シンフォニー」はチェロ以外の弦楽奏者は立ち、チェロ奏者は特製の台の上に着席しつつも、顔の高さを他の立って演奏する奏者と同一レベルになるようにしての演奏となる。

着席位置は一階正面上手側後方、客の入りは8割程であろうか、三階席の様子は不明だが、二階バルコニー席後方に空席が目立った。チケット完売には至らなかった。観客の鑑賞態度は、細かなノイズや楽章間のパラパラ拍手があったものの、概ね極めて良好であった。

一曲目の「13管楽器のためのセレナード」は、最初固さが目立ったものの、曲が進行するに連れ本来の響きが出て来る演奏だ。

二曲目との間は、舞台装置設営のため少々時間が掛る。チェロ奏者が乗る特製の台の設営光景がみられる。

二曲目のブリテンによる「シンプル-シンフォニー」は、私としてはこの演奏会の白眉である。ヴァーグナー嫌いの私にとって、そもそも後半の曲目は「ついで」であるし、お目当てはこの「シンプル-シンフォニー」であった。また、昨年12月に、中日新聞社放送芸能部長谷義隆により、マーティン=ブラビンスによるプログラムの前衛路線が徹底的に侮辱された事情もあり、ブラビンス支持を示威する事も重要な目的の一つである。

ブリテンの「シンプル-シンフォニー」は完璧と言って良い。一音一音の響きはビシッと決めた構成力に裏打ちされている。あらゆる響きがこうであるべき所に確実に決めていく。この曲の対照的な目玉と言ってよい、ピッチカートのみで構成されている第二楽章は、ピッチカートでこれ程までの表現が出来るものかと驚愕させられるし、重々しいサラバンドである第三楽章も緊張感が途切れない高度に集中した演奏だ。

全般的に、繊細に演奏する箇所とワイルドに演奏する箇所との使い分けが的確でありながら、実に繊細にワイルドな箇所を描いている。どの場面もニュアンス豊かで、かつ迫力を感じられる。テンポの扱いは正攻法で奇を衒ったものではないが、逆に言えばブラビンスの盤石な構成力によりこの曲が活気づいている。要するに完璧な演奏だと言うことだ。

約16分の長さの曲であり、決して長大な大曲ではないが、演奏会の最後の曲としてもふさわしい内容を持つ曲で、決して題名から連想させるような「軽い曲」などではない。

逆に「シンプル」であるからこそ、弦楽合奏の精緻さ・パッションの強さ・ニュアンスの豊かさが強く問われる曲である。この難曲を、ブラビンスの堅固な構成力に裏打ちされた指揮による導きと、名フィルの奏者による緻密かつパッションを伴った演奏と、愛知県芸術劇場コンサートホールの豊かな残響とが三位一体となり、絶妙に絡み合った名演である。これはもう最高の出来だ!Bravi!!

二年前くらいまでは、名フィルの弦は弱いと言われてきたが、本当に信じられない。私が名フィルを初めて聴いたのは昨年7月の第415回定期演奏会からであるが、厚みのある迫力ある響きで楽しませてくれる。マーティン=ブラビンスが常任指揮者になってから、弦の響きが変わったと聞くが、本当だとしたらブラビンスの功績は実に大きい。2015/16シーズンでブラビンスが名フィルの常任指揮者の地位を辞するのが、本当に残念でならない。

後半のヴァーグナーについては、私の歌劇に臨む態度やら、ヴァーグナーに対する態度やらがあるため、敢えて評の対象から外す事とする。本音を許していただければ、後半は後半はU.K.の作曲家による、あまり演奏されない大作を演奏してほしかったところだ。

2015年1月24日土曜日

国立劇場おきなわ 組踊公演「辺戸の大主」 評

2015年1月24日 土曜日
国立劇場おきなわ (沖縄県浦添市)

【第一部】
琉球舞踊
「松竹梅鶴亀」:名嘉正光・新屋敷孝子・赤嶺光子・ 金城由美子・藤戸絹代
「獅子舞」:諸喜田千華・知念みさ子・上間悦子・宮平友子
「取納奉行」:喜納かおり
「鳩間節」:宮城茂雄
「打組むんじゅる」:奥原めぐみ・喜屋武まゆみ
「金細工」:金城保子・松田恵・中村知子

【第二部】
組踊「辺戸の大主」(へどのうぬふし)

辺戸の大主:真境名正憲    
辺戸の大主の妻:高江洲清勝   
辺戸の比屋:嘉手苅林一
辺戸の子:親泊久玄
孫(娘):名嘉正光・伊野波盛人・佐辺良和・岸本隼人・大浜暢明・田口博章・仲村圭央・佐喜眞一輝
孫(若衆):呉屋智・金城真次
孫(二才):宇座仁一・川満香多

構成振付・立方指導:宮城能鳳
舞踊指導補佐:新垣悟

地謡
歌・三線/上間宏敏・上地正隆・上原陸三
箏/安慶名久美子
笛/我那覇常允
胡弓/川平賀道
太鼓/神山常夫
地謡指導:西江喜春

初めて琉球舞踊を見るべく、那覇まで飛んで、那覇市を僅かに外れた北隣の浦添市にある、国立劇場おきなわに行きます。

着席位置は、一階中央前方、前から三番目の席でほぼ真ん中の特等席と言って良い理想的な位置です。中央部は舞台から客席側に張り出しています。その張り出した場所でも演舞を行うので、張り出し舞台の左右は避けるべきでしょう。

観客の鑑賞態度は、まあ私語が多いです。沖縄ですから♪ヤマトの音楽会の感覚で行ったら、ウソ!と言いたくなるレベルです。

拍手は独特のマナーがあり、踊りが終わって舞台下手側に向かっている最中に行います。その段階では、時謡(管弦楽+歌い手)は続いておりますが、まあ、そういう慣習なので。「郷に入ったら郷に従え」なので、ヤマトの私があれこれ言うべきものではありません。

第一部では、琉球舞踊を六つ程演舞します。女性が中心です。舞台上手側に時謡が付き、踊り手は原則踊りに専念しますが、「打組むんじゅる」ではほんの少し歌を歌います。時謡の歌い手は男声のみですので、女声を入れたい場合は、踊り手が歌うしかありません。「取納奉行」をソロで踊った喜納かおりさんは、娘役に相応しくカワイイです♪

休憩後が、いよいよ組踊「辺戸の大主」です。冒頭、若々しいけど芸術監督があらすじを説明してくれます。

時謡は舞台奥の背景半透明スクリーンの後方につきます。踊り手は女性役を含めて、全て男性になります。歌舞伎と一緒です。

もともと民俗芸能として「長者の大主」という演目があったそうで、これを組踊化したものとのこと、辺戸の大主が120歳になったので、子供の辺戸の比屋(90歳)と辺戸の子(70歳)が相談して、子や孫達を集め、踊ってお祝いをするというものです。とてもあり得ない年齢設定ですが、子孫繁栄といった当時の琉球社会の理想像を示したものだそうです(公演前に講演会を実施していて、そこで説明されていました)。

ストーリーはそれだけで、踊りの前に踊り手を指名して踊ってあげなさいと比屋が言ったり、お祝いの盃を交わしたりした後、踊るだけです♪

ひ孫たちが分担して様々な踊りを披露し、ひ孫たちが全員で踊り、最後に大主・比屋・子も加わり、舞台から退場して演技を終えます。

なんじゃそれって感じのストーリーなので、かなり舞踊の要素に寄った総合芸術です。

様式に従って如何に繊細に踊るか、小道具を的確に用いるかが問われる舞踊と思いました。手先の表現や、扇を一気に広げる音をビシッと決めるような所が、見どころ・聴きどころでしょうか。

琉球舞踊は、バレエ・ダンスとの親和性も大きいです。リフトや32回転フェッテといったような技巧はありませんが、物事の本質にそう大きな違いはないでしょう。

沖縄は遠いですし、なかなか行ける所ではありませんが、観光で沖縄に行く機会があれば、琉球舞踊の鑑賞を是非お勧めしたいです。

2015年1月18日日曜日

'DANCE to the Future -Third Steps-' review 評

2015年1月18日 日曜日 / Sunday, 18th January 2015
新国立劇場 小劇場(東京)/ New National Theatre, Tokyo (NNTT) (Tokyo, Japan)

Ballet Company: National Ballet of Japan(新国立劇場バレエ団)

演目:
Blossom smile 「はなわらう」
Choreography: Homan Naoya / 振り付け:宝満直也
Dancers: Fukuoka Yudai, Yonezawa Yui, Okuda Kasumi, Soutome Haruka, Asaeda Naoko, Ishiyama Saori, Fulford Karin, Bonkohara Mina
踊り手(階級順→あいうえお順):福岡雄大、米沢唯、奥田花純、五月女遥、朝枝尚子、石山沙央理、フルフォード佳林、盆子原美奈

Moon on the water 「水面の月」
Choreography: Hirose Aoi / 振り付け:広瀬碧
Dancers: Kawaguchi Ai, Hirose Aoi
踊り手(階級順→あいうえお順):川口藍、広瀬碧

Chacona
Choreography: Kaikawa Tetsuo / 振り付け:貝川鐡夫
Dancers: Okumura Kosuke, Horiguchi Jun, Wajima Takuya, Tanaka Shuntaro
踊り手(階級順→あいうえお順):奥村康祐、堀口純、輪島拓也、田中俊太朗

Revelation
Choreography: Hirayama Motoko / 振り付け:平山素子
Dancer: Motojima Miwa/ 踊り手:本島美和

(休憩)

The Lost Two in Desert
Choreography: Takahashi Kazuki / 振り付け:髙橋一輝
Dancers: Takahashi Kazuki, Bonkohara Mina
踊り手(階級順→あいうえお順):髙橋一輝、盆子原美奈

Andante behind closed curtain
Choreography: Майден Тлеубаев Минтаевич/ Maylen Tleubaev /振り付け:マイレン=トレウバエフ
Dancer: Yukawa Mamiko/ 踊り手:湯川麻美子

Phases
Choreography: Fukukda Keigo / 振り付け:福田圭吾
Dancers: Sugano Hideo, Terada Asako, Soutome Haruka, Matuo Takako, Ishiyama Saori, Narita Haruka
踊り手(階級順→あいうえお順):菅野英男、寺田亜沙子、五月女遥、丸尾孝子、石山沙央理、成田遥

Dancer Concerto
Choreography: Oguchi Kuniaki / 振り付け:小口邦明
Dancers: Hosoda Chiaki, Oguchi Kuniaki, Koshiba Fukunobu, Hayashida Shohei, Hara Kenta, Wako Ai, Shibata Tomoyo, Harada Maiko
踊り手(階級順→あいうえお順):細田千晶、小口邦明、小柴富久修、林田翔平、原健太、若生愛、柴田知世、原田舞子

新国立劇場バレエ団は、1月16日から1月18日までに‘DANCE to the Future -Third Steps-'を計3公演、新国立劇場で上演した。平山素子によるRevelationを除き、新国立劇場バレエ団所属のダンサーが振り付けを行った作品である。Third Stepsの名の通り、2012/13シーズンより毎年行われており、今回が三回目となる。

この評は、千秋楽1月18日の公演に対するものである。

着席位置は前方下手側。ほぼ満席である。鑑賞態度は非常に良好であった。

「はなわらう」は、ソリスト二人+群舞の形態だ。米沢唯ちゃんは、今回は可愛い系の踊りで楽しそうだ。

ChaconaはJ.S.バッハのパルティータ第二番シャコンヌBWV1004であるが、ノン-ヴィブラート系っぽい音源である。アリーナ=イブラギモヴァの演奏か否かは不明だ。誰がどう見ても大技と思えるものは、男性ダンサーが堀口純を遠心力で浮かせて速い回転でスピンを掛ける技である。小劇場の狭い舞台なものだから、かなり驚く。

RevelationとAndante behind closed curtainは、椅子を用いたソロのダンスで、舞踊と言うよりはむしろ演劇であろう。写真だけ見せて新国立劇場の演劇公演だと言っても、ダンサーの顔を知らない人であれば誰もが信じる。むしろ舞踊公演と信じる方が難しい。本島美和と湯川麻美子が的確に演じている。

PhasesとDancer Concertoは群舞の要素が強い。Chaconaと同様にクラシック音楽の曲目を用いていて、さすがバレエダンサーだけあって、クラシック好きが多いのだと認識させられる。

全般的に、予想以上に素晴らしい振り付けである。もちろん、キリアンやフォーサイスのレベルまではいかないが、八つの演目の内のいくらかは好みの演目が見つかるだろう。

DANCE to the Futureは前の芸術監督であるデヴィッド=ビントレーが始めた企画であるが、この企画の素晴らしい点は、階級が何であろうと、主演の機会が与えられるところにある。プリンシパルでもアーティストでも関係ない。一輝君が振り付けして美奈ちゃんに「一緒に踊ろう♪」と誘って美奈ちゃんがOKを出せば、成立するのだ。The Lost Two in Desertは髙橋一輝と盆子原美奈、「水面の月」は広瀬碧と川口藍、川口藍がファースト-アーティストであり残りの三人はアーティスト、しかし主演である。その気になれば誰でも主役になれる可能性があるこの企画は、特にファースト-アーティスト・アーティストのダンサーの士気を高め、バレエ団全体の活性化につながるものと考えられる。舞台が近かったせいもあるのか、いつもの群舞よりパッションが込められていたような気がしたのは、私の気のせいか。この企画は国立の劇場の使命として続けていって欲しい。