2015年8月28日 金曜日
Friday 28th August 2015
長野県松本文化会館 (長野県松本市)
Nagano-ken Matsumoto Bunka Kaikan (Nagano Prefectural Matsumoto Theater)
(Matsumoto, Japan)
曲目:
Franz Joseph Haydn: Sinfonia n.82 Hob.I:82
(休憩)
Gustav Mahler: Sinfonia n.5
orchestra: Saito Kinen Orchestra(サイトウ-キネン-オーケストラ)
direttore: Fabio Luisi (指揮:ファビオ=ルイージ)
ファビオ=ルイージを指揮者に迎えて、2015年7月28日に長野県松本文化会館にて開催された。このプログラムによる演奏会は、この一回のみであった。
管弦楽配置は、舞台下手側から、第一ヴァイオリン→第二ヴァイオリン→ヴァイオリン-チェロ→ヴィオラのモダン配置で、コントラバスはチェロの後方につく。木管パートは後方中央、ホルンは後方下手側、その他の金管は後方中央から上手側、ティンパニは後方中央、ハープは下手側の位置につく。
着席位置は二階正面やや上手側最前方、チケットは僅かに完売には至らなかったが、ほぼ満席である。観客の鑑賞態度は、二階で飴の包み紙の音が若干あった以外は、極めて良好であった。
ハイドン82番の、弱奏部で「大ホールのハイドン」となる箇所こそあれ、全般的には、この音響が劣悪の長野県松本文化会館をものともしない演奏だ。このホールにしては驚異的な響きであり、これ以上は望めない。松本市音楽文化ホールでやってくれたら、弱奏部も迫る響きだ。
ハイドンでファビオ=ルイージは奇を衒う事をせず、この箇所ではこの響きでないといけないと言うことを、説得力を持って示している。緊張感を伴う構成力は見事だ。
弦楽はパッションが込められている。ハイドンが仕掛けた数々の仕掛けを的確なニュアンスとともに、ルイージの構成力の下で完璧な響きで圧倒する。
管弦楽の明確な意図は、長野県松本文化会館の劣悪な響きに阻まれる時でさえ、意図を理解することが出来る。それだけに、大管弦楽向けにこのような演奏会場しか提供できない事を、松本市民として、長野県民として恥じるばかりだ。意図を理解出来るが響きとして観客に迫れないのは、全面的にホールの責任であり、もどかしい思いで弱奏部は聴いていた。
一方で後半の、マーラーの5番は、もちろん見事な個人技が聴けたし、部分的に素晴らしい箇所はあったけど、私にとっては不完全燃焼である。ブラボーの数も多く、スタンディング-オベーションを送っている観客もいた。何か、取り残された気持ちで、あっさりと会場を後にした。私は変わり者なのか、偏屈なのかと思いながら。
しかしながら、誰が何と言おうが私にとっては、全体的な完成度はハイドンの方がずっと良かった。
もちろん、タルコヴィのトランペット、バボラークのホルン、いずれもも素晴らしい。(バボラークのホルンは柔らかい響きが特色であり、今回はその特色は出ていなかったが、これは曲想上の問題であり、バボラークの責任ではない)
しかし、私にとっては、やはりどこか違っていた。
マーラーよりも、ずっとずっとハイドンの方が弦楽が好みだった事もあるかもしれない。マーラーの弦楽のスカスカ感があったのは、確かに私の好みではない。ハイドンよりも弦楽の数が多いのに、ハイドンよりも響いていない印象が強い。第四楽章では、そのスカスカ感はなかったけれど。吹奏楽ファンにとっては素晴らしかったに違いないけど。。
作曲家としてのハイドンの完璧さと、マーラーの不完全さが露わになってしまったのかなあ。
ルイージとハイドンとの相性は完璧で、その完璧さをマーラーにまで求めた私が間違っているのかもしれないけれど、あのマーラーはルイージらしくはなかった。
ハイドンではルイージが仕掛けた箇所はバッチリ決まっているけど、マーラーでの仕掛けはどこかチギハグな印象で、作為的との感想を抱かざるを得ない。
ルイージにとって、ハイドンについての解釈は深いレベルまで完璧だったけど、マーラーについてはどうだったのだろう?
ハイドンでの完璧さが崩れさっていくのを聴くのは、正直ちょっと辛かった。
松本市音楽文化ホールで、ハイドン・モーツァルト・前期シューベルトのプログラムだったら、完璧なプログラムだったのだろうな。うーむ。