2015年10月24日 土曜日
Saturday 24th October 2015
愛知県芸術劇場コンサートホール (愛知県名古屋市)
Aichi Prefectural Art Theater Concert Hall (Nagoya, Japan)
曲目:
Александр Раскатов / Alexander Raskatov: After “The Seasons”
Phillip Glass: Concerto per violino e orchestra “American Four Seasons”
(休憩)
梅林茂 / Umebayashi Shigeru: “Japanese Four Seasons” for violin and string orchestra
Astor Piazzolla: “Las Estaciones” (ブエノスアイレスの四季)
violino: Gidon Kremer (ギドン=クレーメル)
orchestra: Kremerata Baltica
direttore: Gidon Kremer (指揮:ギドン=クレーメル)
クレメラータ-バルティカは、創設者であるギドン=クレーメルがソリスト兼指揮者となって日本ツアーを率いた。日本での公演は、サントリーホール(東京)、神奈川県立音楽堂(神奈川県横浜市)、愛知県芸術劇場(愛知県名古屋市)、兵庫県立芸術文化センター(兵庫県西宮市)の四箇所であり、いずれも大きめの会場ではあったが、間違いなく愛知県芸術劇場が最も理想的な会場である事は言うまでもない。
弦楽配置は、舞台下手側から、第一ヴァイオリン→第二ヴァイオリン→ヴァイオリン-チェロ→ヴィオラのモダン配置であった。
着席位置は二階階正面下手側、客の入りは6割程であろうか、三階席に空席が目立った。観客の鑑賞態度については、概ね良好だった。
ギドン=クレーメルはクレメラータ-バルティカという室内管弦楽団規模の弦楽アンサンブルを創設したことは正解だったと思う。クレーメルとのバランスが自然に取れているし、特に後半では鋭い響きを的確に響かせている。愛知芸文は少し大きいかとも前半思ったが、後半でその認識は覆った。
クレーメルの構成は的確で、かつ繊細に奏でている。音量が特別あるわけではないが、求心力がある。今日はチケット購入時の制約により下手側の席であったが、クレーメルとチェロのソロとの掛け合いを正面から観るのと同然の形となったのは、幸せだった。
クレーメルはやはり大家である。ソロの場面での弱音でさえ感じられる求心力や、クレメラータ-バルティカとの完璧に取られたバランス、この場所ではこのように演奏するべきとの計算とそのように導く統率力、こう言った箇所で大家だと感じられる。
三曲目では、日本の作曲家である梅林茂による「日本の四季」であるが、彼に作曲を依頼し、ドイツでの世界初演から一カ月足らずで名古屋で披露した事を高く評価したい。名古屋フィルハーモニー交響楽団では、小泉和裕次期音楽監督がこれまで行われてきた現代音楽の演奏事業をほぼ全面的に放棄したが、クレーメルと遠いバルト海の楽団がやってくれた事に感謝する。
ピアソジャの「ブエノスアイレスの四季」は、両者の得意とする場面が最も出た演奏だ。故意に出す耳障りな音色、アップ-ボウで繰り出す鋭い音色、クレーメル頼りではないクレメラータ-バルティカの自発性が、ピアソジャの四季を活き活きとさせた。
いつの時代の演奏であれ、残響は音楽と一体不可分なものだ。強く弾き切る箇所でこの事を強く感じる。今回の日本ツアーでは四箇所での公演であるが、愛知県芸術劇場以外の開場は全てアウトだ。マトモなホールで、精緻な室内管弦楽団の演奏を聴けたのは幸せな事である。
それにしても、梅林茂の「日本の四季」と言った作品は、日本のオケが委嘱して日本で世界初演するべきものである。クレーメルとバルト海のオケにより委嘱されドイツで初演されたことを、日本のオケを始めとする音楽関係者は、日本在住者として(日本国籍を持っている者は日本人として)、恥じるべきだ!
作曲された作品は、演奏されなければ生かされないし、演奏されなければ、そこで現代音楽は終わってしまう。一定規模の都市に存在する演奏団体側は、この点の責務を有している。特に名フィル関係者(次期音楽監督及び観客)や、名フィルの保守反動路線の論陣を張った名古屋の文芸の破壊者である長谷義隆をはじめとする中日新聞放送芸能部の連中には、この事をよくよく理解してもらいたい。日本の音楽文化に関わる問題だから!