2013年5月3日 金曜日
軽井沢大賀ホール (長野県北佐久郡軽井沢町)
曲目:
フレデリック=ショパン ピアノ協奏曲第1番 op.11
(休憩)
ヨハネス=ブラームス 交響曲第4番 op.98
ピアノ:上原彩子
管弦楽:東京フィルハーモニー交響楽団(TPO)
指揮:ダン=エッティンガー(TPO常任指揮者)
軽井沢大賀ホール(芸術監督:ダニエル=ハーディング)では、4月27日から5月6日までに掛けて「軽井沢大賀ホール2013 春の音楽祭」としてクラシック音楽を中心に7公演を企画しており、その4番目の演奏会として開催されたものである。
上原彩子・ダン=エッティンガーとも初めて聴くソリスト・指揮者である。TPOを聴くのは、ちょうど一年前の5月3日以来、通算三回目となる。
今日のTPOの配置は、舞台下手側より第一ヴァイオリン→ヴァイオリン-チェロ→ヴィオラ→第二ヴァイオリンの順で、コントラバスはチェロの後ろに位置する。
上原彩子のピアノはYAMAHA社製のもので、クラシック音楽で私が体験するのは初めてとなる。
着席場所は、一階後方中央であり、生前大賀典雄が座っていた場所同然と考えていただいて差し支えない。
第一曲目のショパン、ピアノ協奏曲は、上原彩子が予想外に素晴らしい演奏を見せた。彼女が敢えて選んだYAMAHA社製のピアノは、スタインウェイとは違い癖があり、自由自在に表現できるピアノではない。どこかフォルテピアノ(モダンピアノに対する意味で)の音色に似ているかのような軽やかな音色で、自己残響はあまりなく、弦をハンマーで叩きつける音が強調される。最大限の力で鍵盤を叩きつけても、スタインウェイのような劇的な音は出てこない。
しかしながら上原彩子は、そのようなYAMAHA社製ピアノの特徴を知り尽くし、その音色を活かすような演奏をしている。フレデリック=ショパンが生きていた時代のピアノはこのような音だったのかと、想像したくなるような響きである。
演奏自体は、YAMAHA社製ピアノのスタッカートが強調されるような古典的音色を活かした、繊細かつ女性的な要素を持つ演奏だ。要所でテンポを揺るがせたり、小さな可愛いアクセントを付けたりする。ピアノの性能に制約がある中での構成力も素晴らしい。特に1・3楽章は優れた演奏だ。
一方の管弦楽は方向性が明確でない音楽づくりで、ピアノに対する管弦楽の音量は過剰であり、上原彩子のピアノと似合わない演奏だ。繊細な性格の妻と、無神経かつ力任せな夫との組み合わせのようで、これはうまく行きそうにない。今日の上原彩子の演奏に対して管弦楽は、ソリストをサポートするのが適切な方向性であるが、まるでスタインウェイのピアノに真っ向対立するかのような、勘違いをしている。エッティンガーの指示によるものなのか?上原彩子とのリハーサルなり打ち合わせが不足しているのか?一年ぶりの軽井沢大賀ホールの響きに慣れていないのか?これとは別に、ホルンの音が大雑把で無神経であった事は指摘せざるを得ない。
休憩後のブラームス交響曲第4番は、下品な演奏であるが、あのエッティンガーの不潔な指揮ぶりも影響しているのか。エッティンガーの指揮は、分かりやすいと言えば分かりやすいが、明晰な指揮と言うよりは露骨な指揮で、美しさが感じられない点で不潔である。刹那刹那で心地よく感じられるところはあるが、全体の方向性と言う点で粗雑で、特に第一・第二楽章の乱雑さが目立つ。弦楽がメインに出ているといいけど、金管ががなり立てていて、全体的なまとまりが感じられない。
第三・第四楽章は、何故かバランスが少しはマシな状態となる。ここまでの演奏で、私がエッティンガーに洗脳された要素があるのかも知れない。この辺りから管弦楽も取りつかれ始めたようで、反知性的下品さを伴いながらもフルオーケストラならでは大迫力で、力づくで観客を圧倒していく。是非はともかく、これはこれで大したものだ。
曲が終わったあと、金管楽器奏者には拍手をせずに掌を見せるブーイングを行う。私以外の観客は盛り上がっていたが、複雑な気分だ。あのエッティンガーのような容貌の男に誘われて、ポルシェの乱雑な運転についうっとりしてしまった、お馬鹿な若い女の子になってしまった気分である。
それにしても、上原彩子とエッティンガーの組み合わせを考えたのは誰だよ。この似合わない組み合わせがどのような経緯で決められたのかは謎である。どう考えても、準=メルクルや山田和樹により、管弦楽を精密に指揮する指揮者でないといけない演奏会だ。
アンコールは、ブラームスの「マジャール舞曲」第1番、緩急をつけた演奏は巧みであるが、やはり指揮が不潔である。TPOの演奏会に行く人たちって、そういった下品な音楽が大好きなのかなあと、複雑な気持ちにさせられた演奏会であった。