2013年12月22日 日曜日
軽井沢大賀ホール (長野県北佐久郡軽井沢町)
曲目:
ゲオルク=フリードリヒ=ヘンデル オラトリオ「メサイア」 HMV56 1753年版
ソプラノ:シェレザード=パンタキ
アルト(カウンターテノール):ダニエル=テイラー
テノール:櫻田亮
バス:クリスティアン=イムラー
合唱・管弦楽:バッハ-コレギウム-ジャパン(BCJ)
指揮:鈴木雅明
軽井沢大賀ホールにて2010年12月から開始された、クリスマスの時期に於けるBCJによる「メサイア」演奏会は、四回目を迎えた。昨年と比較しての今年の特徴としては、昨年の「1743年ロンドン初演版」ではなく「1753年版」を採用したこと。ソプラノ・テノールのソリストを2名から1名にしたことである。
同じ公演は、12月21日に鎌倉芸術館(神奈川県鎌倉市)、23日にサントリーホール(東京)でも開催された。良い音響が期待できるのは、この軽井沢大賀ホールのみであり、事前にソプラノのシェレザード=パンタキの調子が良いらしいとのツィッター情報を得て、急遽当日券により臨席する。
管弦楽配置は、舞台下手側から第一ヴァイオリン→第二ヴァイオリン(その後方にヴィオラ)→チェンバロ→ヴァイオリン-チェロ(その後方にオルガン)→ファゴット→オーボエの順である。トランペット・ティンパニは舞台下手側後方の配置だ。合唱は舞台後方に下手側からソプラノ→アルト→テノール→バスで一列の配列である。ソリストは、原則として指揮者のすぐ下手側からカウンターテノールとテノール、すぐ上手側からソプラノとバスが歌う形態である。なお第一部では、トランペットが二階合唱席下手側後方上方から演奏する場面もあった。
着席位置は、一階平土間後方上手側である。客の入りは八割程であろうか。聴衆の鑑賞態度はかなり良いが、補聴器の作動音らしき音が下手側から継続的に聞こえていた。
ソリストについては、ソプラノのシェレザード=パンタキは期待通りの声量で、特に第一部では圧倒的な存在感を示している。
カウンターテノールのダニエル=テイラーは、声量面では決して大きいものではないが、特に第二部でのアリアが傑出した出来である。これは、第一声から「これは凄い」と感嘆させられると言うよりは、聴いているうちにいつの間にか惹き込まれていて、終わってみたらその自然と溶け込むような歌声に感嘆させられる不思議なものだ。声の音色にカウンターテノールにありがちな不自然なところがないところも、私の好みと合っている。
クリスティアン=イムラーは、第三部第43曲のトランペットと掛けあうアリアが素晴らしい。
合唱は、ソプラノが2010年の時のような二歩前に出たり、昨年のようにあまり自己主張をしていなかったりする事もなく、今年は半歩前に出る歌唱であろうか。基本的には、他のソリスト・管弦楽と溶け込むアプローチではあるが、いつもながらのレベルの高い合唱である。
管弦楽で特筆するべき点は、トランペット奏者にジャン-フランソワ=マドゥフを招聘し首席奏者として演奏することである。ナチュラル-トランペットの奏法は難しく、BCJの演奏会の際にその出来に期待する事はなかったが、今回のマドゥフ招聘の効果は大きく、全てが完璧ではないものの、大幅に改善されている。特に、第二部最後のハレルヤ-コーラスでは、マドゥフのトランペットが実に絶妙な音量で入ってきて、精緻なハーモニーを構築している。また、第三部第43曲でのバスと掛けあうアリアのトランペットも絶品である。
また今回は、昨年とは着席位置が違うこともあるのか、チェンバロやチェロが良く聴こえ、深みがある響きを楽しむことができた。
アンコールは、ジョン=ヘンリー=ホプキンズ-ジュニアの「われらは来たりぬ」であり、テノールのソロはBCJ合唱陣が務める。それぞれのソロが美しく響き、ソプラノパートとの対比が印象的であった。
2013年12月22日日曜日
2013年12月21日土曜日
ロレンツォ=ギエルミ オルガン-リサイタル 評
2013年12月21日 土曜日
ふれあい福寿会館 サラマンカホール (岐阜県岐阜市)
曲目:
アルノルト=ブルンクホルスト 前奏曲
ヨハン=パッヘルベル シャコンヌ
ヨハン=パッヘルベル 「高き天より、我は来たれり」
ゲオルグ=フリードリヒ=ヘンデル 「アダージョとフーガ」
ゲオルグ=フリードリヒ=ヘンデル 「メサイア」HWV56より「なんと美しい事か、平和の福音を伝える者の足は」(※)
ヨハン=セバスティアン=バッハ 「アンナ=マグダレーナ=バッハの音楽帳」より「御身がそばにあるのならば」 BWV508 (※)
ヨハン=セバスティアン=バッハ 「アンナ=マグダレーナ=バッハの音楽帳」より「あなたの心をくださるのなら」 BWV518 (※)
ヨハン=セバスティアン=バッハ 「コーヒー-カンタータ」 BWV211より「ああ!コーヒーってとってもおいしい」 (※)
(休憩)
ヨハン=セバスティアン=バッハ 「前奏曲とフーガ」 BWV539
ヨハン=セバスティアン=バッハ 「イタリア様式によるアリアと変奏」 BWV989
ヨハン=セバスティアン=バッハ 「いざ来たれ、異教徒の救い主よ」 BWV659
ヨハン=セバスティアン=バッハ 「目覚めよ、と呼ぶ声あり」 BWV645
ヨハン=セバスティアン=バッハ 「甘き喜びのうちに」 BWV751
ヨハン=セバスティアン=バッハ 「トッカータ、アダージョとフーガ」 BWV564
ソプラノ:日比野景 (※のみ)
オルガン:ロレンツォ=ギエルミ
着席位置は、一階後方上手側である。チケットは完売している。聴衆の鑑賞態度は、特に前半はあまり良いとは言えず、遅刻者の比率が多く、かつ次の曲が始まるまで着席せず、また飴の包装を破る音や話し声まである始末だった。
前半部の後半に登場した日比野景のソプラノは、音量的にはサラマンカホールを十分に響かせていたが、一本調子のところがあり、表現の多様さは見られないように思える。
さて、このリサイタルで用いたサラマンカホールのオルガンは、岐阜県加茂郡白川町に本拠を置いた辻宏(1933-2005)により建造されたものである。
辻宏は、「サラマンカホール」の名の由来になった、スペイン国サラマンカ大聖堂のオルガンを修復した実績があることで高名であり、古典的建造法によるオルガンの建造・修復のスペシャリストとして国内外で活躍してきたが、2005年の逝去に伴い、辻オルガン工房は2008年に閉鎖された。
サラマンカホールのオルガンは、46ストップ、パイプ数2997本であり、コンサートホールにあるオルガンとしては小ぶりではあるが、古典的建造法により建造されたこれとしては、日本では唯一であろうか。古典的建造法により建造されたオルガンであるからなのだろうか、やや鋭い高音部の音色も適切な音色で響いてくる。モダン指向のカール=シュッケ社のオルガンのように耳触りな響きは全くない。
ロレンツォ=ギエルミのオルガンは、テンポは中庸で基本的には作曲者の意図を伝える演奏であり、曲想上眠くなる曲もあるが、多様な音色を的確に用いている。
特に最後の、「トッカータ、アダージョとフーガ」に於けるフーガは、密かな興奮から生じる霊感を感じさせる素晴らしい演奏である。
アンコールは、J.S.バッハの「コンチェルト」BWV596から第四楽章と、作者不詳の「パストラーレ」であった。
追記:サラマンカホールに於けるオルガン建造の経緯は、下記が詳しい。
https://salamanca.gifu-fureai.jp/information/organ.html
ふれあい福寿会館 サラマンカホール (岐阜県岐阜市)
曲目:
アルノルト=ブルンクホルスト 前奏曲
ヨハン=パッヘルベル シャコンヌ
ヨハン=パッヘルベル 「高き天より、我は来たれり」
ゲオルグ=フリードリヒ=ヘンデル 「アダージョとフーガ」
ゲオルグ=フリードリヒ=ヘンデル 「メサイア」HWV56より「なんと美しい事か、平和の福音を伝える者の足は」(※)
ヨハン=セバスティアン=バッハ 「アンナ=マグダレーナ=バッハの音楽帳」より「御身がそばにあるのならば」 BWV508 (※)
ヨハン=セバスティアン=バッハ 「アンナ=マグダレーナ=バッハの音楽帳」より「あなたの心をくださるのなら」 BWV518 (※)
ヨハン=セバスティアン=バッハ 「コーヒー-カンタータ」 BWV211より「ああ!コーヒーってとってもおいしい」 (※)
(休憩)
ヨハン=セバスティアン=バッハ 「前奏曲とフーガ」 BWV539
ヨハン=セバスティアン=バッハ 「イタリア様式によるアリアと変奏」 BWV989
ヨハン=セバスティアン=バッハ 「いざ来たれ、異教徒の救い主よ」 BWV659
ヨハン=セバスティアン=バッハ 「目覚めよ、と呼ぶ声あり」 BWV645
ヨハン=セバスティアン=バッハ 「甘き喜びのうちに」 BWV751
ヨハン=セバスティアン=バッハ 「トッカータ、アダージョとフーガ」 BWV564
ソプラノ:日比野景 (※のみ)
オルガン:ロレンツォ=ギエルミ
着席位置は、一階後方上手側である。チケットは完売している。聴衆の鑑賞態度は、特に前半はあまり良いとは言えず、遅刻者の比率が多く、かつ次の曲が始まるまで着席せず、また飴の包装を破る音や話し声まである始末だった。
前半部の後半に登場した日比野景のソプラノは、音量的にはサラマンカホールを十分に響かせていたが、一本調子のところがあり、表現の多様さは見られないように思える。
さて、このリサイタルで用いたサラマンカホールのオルガンは、岐阜県加茂郡白川町に本拠を置いた辻宏(1933-2005)により建造されたものである。
辻宏は、「サラマンカホール」の名の由来になった、スペイン国サラマンカ大聖堂のオルガンを修復した実績があることで高名であり、古典的建造法によるオルガンの建造・修復のスペシャリストとして国内外で活躍してきたが、2005年の逝去に伴い、辻オルガン工房は2008年に閉鎖された。
サラマンカホールのオルガンは、46ストップ、パイプ数2997本であり、コンサートホールにあるオルガンとしては小ぶりではあるが、古典的建造法により建造されたこれとしては、日本では唯一であろうか。古典的建造法により建造されたオルガンであるからなのだろうか、やや鋭い高音部の音色も適切な音色で響いてくる。モダン指向のカール=シュッケ社のオルガンのように耳触りな響きは全くない。
ロレンツォ=ギエルミのオルガンは、テンポは中庸で基本的には作曲者の意図を伝える演奏であり、曲想上眠くなる曲もあるが、多様な音色を的確に用いている。
特に最後の、「トッカータ、アダージョとフーガ」に於けるフーガは、密かな興奮から生じる霊感を感じさせる素晴らしい演奏である。
アンコールは、J.S.バッハの「コンチェルト」BWV596から第四楽章と、作者不詳の「パストラーレ」であった。
追記:サラマンカホールに於けるオルガン建造の経緯は、下記が詳しい。
https://salamanca.gifu-fureai.jp/information/organ.html
2013年12月14日土曜日
ラファウ=ブレハッチ ピアノ-リサイタル 評
2013年12月14日 土曜日
東京オペラシティ タケミツメモリアル (東京)
曲目:
ヴォルフガング=アマデウス=モーツァルト ピアノ-ソナタ 第9番 K.311
ルートヴィッヒ=ファン=ベートーフェン ピアノ-ソナタ 第7番 op.10-3
(休憩)
フレデリック=ショパン 夜想曲 第10番 op.32-2
フレデリック=ショパン ポロネーズ 第3番「軍隊」 op.40-1
フレデリック=ショパン ポロネーズ 第4番 op.40-2
フレデリック=ショパン 三つのマズルカ op.63
フレデリック=ショパン スケルツォ 第3番 op.69
ピアノ:ラファウ=ブレハッチ
ラファウ=ブレハッチは、12月13日から17日に掛けて来日ツアーを行い、武蔵野(東京都)、東京、横浜、与野(埼玉県)にてリサイタルを行う。12月13日は武蔵野市民文化会館、14日は東京オペラシティ タケミツメモリアル、16日は横浜みなとみらいホール、17日は彩の国さいたま芸術劇場を会場とする。東京オペラシティのような巨大なホールよりは、600名強の規模のホールである彩の国さいたま芸術劇場での演奏が適切であるとは考えたが、土日開催の都合によりタケミツメモリアルでの公演を選択した。よってこの評は二日目の東京オペラシティ タケミツメモリアルでの公演に対するものである。
着席位置は、一階中央上手側である。チケットは完売している。聴衆の鑑賞態度は良好であった。
前半のモーツァルト・ベートーフェンは楽譜通りの演奏で、ブレハッチ独自の味付けは淡白である。速めの楽章よりは、案外緩徐楽章の方が面白い。ベートーフェンについては、テンポは遅めである。響きは軽めであり、軽快であると言えばその通りであるが、しかし音が遠くに感じ臨場感が感じられない。タケミツメモリアルはやはり大き過ぎるのであろうか?いくら音響のよいタケミツメモリアルでも、18列目では難しいのか。彩の国さいたま芸術劇場のような604席しかないホールの方が、断然素晴らしい成果を上げただろう。
一方、後半のショパンでは表現の幅が増す。ピアノが近くにあるように聴こえ始め、適切な音圧で迫ってくる。テンポの扱いは自由自在となる。その一方で、感情に溺れず、放逸を排除した、貴族的とも言うべきブレハッチ独自の様式の枠を構成しながらも、パッションはよく込められてくる。特にこのようなブレハッチの個性が最も行き渡っているのは、ポロネーズ第3番「軍隊」と、アンコール一曲目の前奏曲第20番である。この二曲が私にとっては特に好みの演奏だ。
アンコールは三曲あり、いずれもショパンの作で、「24の前奏曲」第20番、ワルツop34-2、「24の前奏曲」第4番である。「24の前奏曲」第20番で見せたピアニッシモは、絶品であった。
東京オペラシティ タケミツメモリアル (東京)
曲目:
ヴォルフガング=アマデウス=モーツァルト ピアノ-ソナタ 第9番 K.311
ルートヴィッヒ=ファン=ベートーフェン ピアノ-ソナタ 第7番 op.10-3
(休憩)
フレデリック=ショパン 夜想曲 第10番 op.32-2
フレデリック=ショパン ポロネーズ 第3番「軍隊」 op.40-1
フレデリック=ショパン ポロネーズ 第4番 op.40-2
フレデリック=ショパン 三つのマズルカ op.63
フレデリック=ショパン スケルツォ 第3番 op.69
ピアノ:ラファウ=ブレハッチ
ラファウ=ブレハッチは、12月13日から17日に掛けて来日ツアーを行い、武蔵野(東京都)、東京、横浜、与野(埼玉県)にてリサイタルを行う。12月13日は武蔵野市民文化会館、14日は東京オペラシティ タケミツメモリアル、16日は横浜みなとみらいホール、17日は彩の国さいたま芸術劇場を会場とする。東京オペラシティのような巨大なホールよりは、600名強の規模のホールである彩の国さいたま芸術劇場での演奏が適切であるとは考えたが、土日開催の都合によりタケミツメモリアルでの公演を選択した。よってこの評は二日目の東京オペラシティ タケミツメモリアルでの公演に対するものである。
着席位置は、一階中央上手側である。チケットは完売している。聴衆の鑑賞態度は良好であった。
前半のモーツァルト・ベートーフェンは楽譜通りの演奏で、ブレハッチ独自の味付けは淡白である。速めの楽章よりは、案外緩徐楽章の方が面白い。ベートーフェンについては、テンポは遅めである。響きは軽めであり、軽快であると言えばその通りであるが、しかし音が遠くに感じ臨場感が感じられない。タケミツメモリアルはやはり大き過ぎるのであろうか?いくら音響のよいタケミツメモリアルでも、18列目では難しいのか。彩の国さいたま芸術劇場のような604席しかないホールの方が、断然素晴らしい成果を上げただろう。
一方、後半のショパンでは表現の幅が増す。ピアノが近くにあるように聴こえ始め、適切な音圧で迫ってくる。テンポの扱いは自由自在となる。その一方で、感情に溺れず、放逸を排除した、貴族的とも言うべきブレハッチ独自の様式の枠を構成しながらも、パッションはよく込められてくる。特にこのようなブレハッチの個性が最も行き渡っているのは、ポロネーズ第3番「軍隊」と、アンコール一曲目の前奏曲第20番である。この二曲が私にとっては特に好みの演奏だ。
アンコールは三曲あり、いずれもショパンの作で、「24の前奏曲」第20番、ワルツop34-2、「24の前奏曲」第4番である。「24の前奏曲」第20番で見せたピアニッシモは、絶品であった。
2013年12月7日土曜日
バッハ-コレギウム-ジャパン モーツァルト「レクイエム」演奏会評
2013年12月7日 土曜日
彩の国さいたま芸術劇場 (埼玉県与野市)
曲目:
ヴォルフガング=アマデウス=モーツァルト 「証聖者の荘厳な晩課」 K.339
(休憩)
ヴォルフガング=アマデウス=モーツァルト 「レクイエム」 K.626
ソプラノ:キャロリン=サンプソン
アルト:マリアンネ=ベアーテ=キーラント
テノール:櫻田亮(アンドリュー=ケネディの代役)
バス:クリスティアン=イムラー
合唱・管弦楽:バッハ-コレギウム-ジャパン(BCJ)
指揮:鈴木雅明
BCJは、12月1日・7日・9日の三回に渡り、「モーツァルト レクイエム」演奏会を開催する。12月1日は札幌コンサートホールkitara、7日は彩の国さいたま芸術劇場、9日は東京オペラシティ タケミツメモリアルを会場とする。BCJの特質からして、東京オペラシティのような巨大なホールよりは、600名強の規模のホールである彩の国さいたま芸術劇場での演奏が適切と判断した。よってこの評は二日目の彩の国さいたま芸術劇場での公演に対するものである。
着席位置は、一階ど真ん中よりわずかに上手側である。客の入りはほぼ満席である。聴衆の鑑賞態度はかなり良く、拍手のタイミングも大変適切であった。
管弦楽配置は、舞台下手側から、第一ヴァイオリン→ヴィオラ(「レクイエム」のみ?)→ヴァイオリン-チェロ→第二ヴァイオリンの左右対向配置で、ヴィオローネ(コントラバスに相当)は最も上手側につく。ホルン・木管パートは後方中央、トランペットは後方下手側、トロンボーン・ティンパニは後方上手側、オルガンは中央やや上手側の位置につく。
合唱団は計23名で、舞台後方を途切れることなく二列横隊で並ぶ。ソリストは、「証聖者の荘厳な晩課」では指揮台の舞台後方側に待機し、「レクイエム」では舞台下手側に待機し、歌う時のみ舞台前方に出てくる。
前半は、「証聖者の荘厳な晩課」K.339である。この公演では、典礼に則りグレゴリオ聖歌のアンティフォナを挿入して演奏される。各曲の始まりは、クリスティアン=イムラー(バス-ソリスト)が合唱団バスセクションの所に行き、まずはイムラーの独唱アカペラで始まり、ついでイムラーの指揮でバス-セクションとの合唱に移り、鈴木雅明の指揮による管弦楽により本編が始まるというスタイルである。バス独唱→合唱と本編との対比が面白い。
後半の「レクイエム」K.626は、モーツァルト、アイブラー及びジューズマイヤーの自筆譜に基づく鈴木優人補筆校訂版」によるものである。この版による評価が出来るほど作曲技法や「レクイエム」の経緯に通じている訳ではないが、聴いていて特に不満はなく、たまに何かを挿入したなと感じる程度の差であり、版の差よりは演奏による差の方が観客にとっては大きいであろう。
演奏は、テンポのメリハリははっきりしており、入祭唱やキリエなど速く演奏する箇所はかなりの速さであり、サンクトゥス・ベネディクトゥスと言った比較的緩徐な部分は普通にゆっくりのテンポである。
二曲を通して、歌い手を前面に出す演奏である。
「証聖者の荘厳な晩課」はバスのクリスティアン=イムラーの独唱が良く、管弦楽が始まる前の、どこかビザンチン風を思わせる独唱部・グレゴリオ聖歌部を引き立たせている。また、ソプラノのキャロリン=サンプソンが素晴らしい。ソプラノ独唱から合唱団に引き継ぎ、さらにソプラノ独唱に引き継ぎながら盛り上げていく部分は、実に巧みである。
「レクイエム」はパッションが込められた合唱で、ソリスト・合唱ともここぞの所で仕掛けてくる。頂点に向けて精密に声量をコントロールし、いざ頂点に達する所でソプラノが二歩前に出てくる理想的な形だ。キャロリン=サンプソンは、アルトやテノールと合わせるところでは、それぞれのソリストの声量に合わせるが、ソプラノが飛び出す事が許容されている部分では巧くオーバーラップさせてくるし、長い独唱アリアの部分では自由自在に攻めてくる。キャロリンが歌い始めると、とても幸せな気持ちになってくる。
最後の聖体拝領唱が終わり、残響がなくなり無音となる。誰もがその余韻を尊重し、適切な空白の時間の後で熱烈な拍手となる。このような終わり方は実に素晴らしい。演奏者と観客との一体感が感じられる、とても良い演奏会であった。
彩の国さいたま芸術劇場 (埼玉県与野市)
曲目:
ヴォルフガング=アマデウス=モーツァルト 「証聖者の荘厳な晩課」 K.339
(休憩)
ヴォルフガング=アマデウス=モーツァルト 「レクイエム」 K.626
ソプラノ:キャロリン=サンプソン
アルト:マリアンネ=ベアーテ=キーラント
テノール:櫻田亮(アンドリュー=ケネディの代役)
バス:クリスティアン=イムラー
合唱・管弦楽:バッハ-コレギウム-ジャパン(BCJ)
指揮:鈴木雅明
BCJは、12月1日・7日・9日の三回に渡り、「モーツァルト レクイエム」演奏会を開催する。12月1日は札幌コンサートホールkitara、7日は彩の国さいたま芸術劇場、9日は東京オペラシティ タケミツメモリアルを会場とする。BCJの特質からして、東京オペラシティのような巨大なホールよりは、600名強の規模のホールである彩の国さいたま芸術劇場での演奏が適切と判断した。よってこの評は二日目の彩の国さいたま芸術劇場での公演に対するものである。
着席位置は、一階ど真ん中よりわずかに上手側である。客の入りはほぼ満席である。聴衆の鑑賞態度はかなり良く、拍手のタイミングも大変適切であった。
管弦楽配置は、舞台下手側から、第一ヴァイオリン→ヴィオラ(「レクイエム」のみ?)→ヴァイオリン-チェロ→第二ヴァイオリンの左右対向配置で、ヴィオローネ(コントラバスに相当)は最も上手側につく。ホルン・木管パートは後方中央、トランペットは後方下手側、トロンボーン・ティンパニは後方上手側、オルガンは中央やや上手側の位置につく。
合唱団は計23名で、舞台後方を途切れることなく二列横隊で並ぶ。ソリストは、「証聖者の荘厳な晩課」では指揮台の舞台後方側に待機し、「レクイエム」では舞台下手側に待機し、歌う時のみ舞台前方に出てくる。
前半は、「証聖者の荘厳な晩課」K.339である。この公演では、典礼に則りグレゴリオ聖歌のアンティフォナを挿入して演奏される。各曲の始まりは、クリスティアン=イムラー(バス-ソリスト)が合唱団バスセクションの所に行き、まずはイムラーの独唱アカペラで始まり、ついでイムラーの指揮でバス-セクションとの合唱に移り、鈴木雅明の指揮による管弦楽により本編が始まるというスタイルである。バス独唱→合唱と本編との対比が面白い。
後半の「レクイエム」K.626は、モーツァルト、アイブラー及びジューズマイヤーの自筆譜に基づく鈴木優人補筆校訂版」によるものである。この版による評価が出来るほど作曲技法や「レクイエム」の経緯に通じている訳ではないが、聴いていて特に不満はなく、たまに何かを挿入したなと感じる程度の差であり、版の差よりは演奏による差の方が観客にとっては大きいであろう。
演奏は、テンポのメリハリははっきりしており、入祭唱やキリエなど速く演奏する箇所はかなりの速さであり、サンクトゥス・ベネディクトゥスと言った比較的緩徐な部分は普通にゆっくりのテンポである。
二曲を通して、歌い手を前面に出す演奏である。
「証聖者の荘厳な晩課」はバスのクリスティアン=イムラーの独唱が良く、管弦楽が始まる前の、どこかビザンチン風を思わせる独唱部・グレゴリオ聖歌部を引き立たせている。また、ソプラノのキャロリン=サンプソンが素晴らしい。ソプラノ独唱から合唱団に引き継ぎ、さらにソプラノ独唱に引き継ぎながら盛り上げていく部分は、実に巧みである。
「レクイエム」はパッションが込められた合唱で、ソリスト・合唱ともここぞの所で仕掛けてくる。頂点に向けて精密に声量をコントロールし、いざ頂点に達する所でソプラノが二歩前に出てくる理想的な形だ。キャロリン=サンプソンは、アルトやテノールと合わせるところでは、それぞれのソリストの声量に合わせるが、ソプラノが飛び出す事が許容されている部分では巧くオーバーラップさせてくるし、長い独唱アリアの部分では自由自在に攻めてくる。キャロリンが歌い始めると、とても幸せな気持ちになってくる。
最後の聖体拝領唱が終わり、残響がなくなり無音となる。誰もがその余韻を尊重し、適切な空白の時間の後で熱烈な拍手となる。このような終わり方は実に素晴らしい。演奏者と観客との一体感が感じられる、とても良い演奏会であった。
2013年12月5日木曜日
ミッシャ=マイスキー チェロ-リサイタル 評
2013年12月5日 木曜日
松本市音楽文化ホール (長野県松本市)
曲目:
ヨハン=セバスティアン=バッハ 無伴奏チェロ組曲第1番 BWV1007
フランツ=シューベルト 「アルペジョーネ-ソナタ」 D821
(休憩)
ロベルト=シューマン 「民謡風の5つの小品集」 op.102
ベンジャミン=ブリテン:チェロ-ソナタ op.65
ヴァイオリン-チェロ:ミッシャ=マイスキー
ピアノ:リリー=マイスキー
1948年にラトヴィアの首都リガで生まれたミッシャ=マイスキーは、この11・12月に来日ツアーで広島交響楽団との協演に臨むほか、鎌倉・東京・札幌・松本・小金井(東京都)・名古屋にてリサイタルに臨む。ピアノを担当するリリー=マイスキーは、ミッシャ=マイスキーの娘である。
着席位置は、後方下手側である。客の入りはほぼ満席。聴衆の鑑賞態度は良好であった。
ミッシャ=マイスキーのチェロは、いかにも平和な家庭生活を送っているかのようだ。私がこのように言うときは、あまりいい意味ではないが、マルタ=アルゲリッチのピアノが嫌いだったり疲れるような人たちには、逆に向いているだろう。
基本的にテンポの変動が少なく、技術的には何ら問題なく、後先はよく考えているものの、かなり抑制的な表現である。疲れている人たちは眠ってしまうだろう。というか、眠くなるように曲を敢えて構成しているのかなと思えるところがある。
二曲目の「アルペジョーネ-ソナタ」に於けるリリー=マイスキーのピアノは、協演ではなく本当の伴奏であり、何もかも父親に任せた娘のように見え、このようなピアノを弾いて楽しいのかとリリーに疑問を呈したくなる程の出来である。父親を立てたと言えばそのようにも見えるが、これ程までピアノが控えめ過ぎる展開は私が聴いている限り初めてである。
最も、後半の進行に伴ってリリーのピアノは少しはパッションが入るようになる。ミッシャとリリーとの間の関係性は、親子だからなのかは分からないが、協調的なアプローチである。どちらかが冒険に飛び出す事はないし、何か仕掛けてスリリングな展開になる事もない。
協調的なアプローチが最もよく機能したのは、四曲目のブリテンに於ける一部楽章に見られる。現代音楽が最も面白い展開になるのは、予想外の楽しみである。
アンコールは四曲のように思えたが、掲示では五曲となっていた。どうも疲労がたまっているのかもしれない。カタルーニャ民謡(カザルス編曲)の「鳥の歌」、シチェドリンの「アルベニス風のスタイルで」、リヒャルト=シュトラウスの「朝に」、ファリャの「火祭りの踊り」、ラフマニノフの「ヴォカリーズ」である。
ファリャの「火祭りの踊り」は大変な盛り上がりであるが、どうもミッシャは速いテンポはあまり得意でないのだろうなと思わざるを得なかった。
圧巻なのは、「火祭りの踊り」ほど何故か盛り上がらなかったのだが、ラフマニノフの「ヴォカリーズ」である。技術面での完璧さ、テンポの取り扱いの巧みさとこれに伴う曲想の豊かさ、パッションの高さの面で、この「ヴォカリーズ」だけは、まるで別の奏者が演奏しているかのように素晴らしいものである。特に、持続的な長いアッチェレランドを掛けていく展開部の曲想には圧倒される。ミッシャもリリーも、メランコリックな性格の描写というだけでなく、純音楽的な面でのパッションが最も入っているように思える。この「ヴォカリーズ」だけが別格の出来で、この演奏だけが、どうしてミッシャ=マイスキーが世界的に「巨匠」として君臨しているのかが理解できるものであった。
松本市音楽文化ホール (長野県松本市)
曲目:
ヨハン=セバスティアン=バッハ 無伴奏チェロ組曲第1番 BWV1007
フランツ=シューベルト 「アルペジョーネ-ソナタ」 D821
(休憩)
ロベルト=シューマン 「民謡風の5つの小品集」 op.102
ベンジャミン=ブリテン:チェロ-ソナタ op.65
ヴァイオリン-チェロ:ミッシャ=マイスキー
ピアノ:リリー=マイスキー
1948年にラトヴィアの首都リガで生まれたミッシャ=マイスキーは、この11・12月に来日ツアーで広島交響楽団との協演に臨むほか、鎌倉・東京・札幌・松本・小金井(東京都)・名古屋にてリサイタルに臨む。ピアノを担当するリリー=マイスキーは、ミッシャ=マイスキーの娘である。
着席位置は、後方下手側である。客の入りはほぼ満席。聴衆の鑑賞態度は良好であった。
ミッシャ=マイスキーのチェロは、いかにも平和な家庭生活を送っているかのようだ。私がこのように言うときは、あまりいい意味ではないが、マルタ=アルゲリッチのピアノが嫌いだったり疲れるような人たちには、逆に向いているだろう。
基本的にテンポの変動が少なく、技術的には何ら問題なく、後先はよく考えているものの、かなり抑制的な表現である。疲れている人たちは眠ってしまうだろう。というか、眠くなるように曲を敢えて構成しているのかなと思えるところがある。
二曲目の「アルペジョーネ-ソナタ」に於けるリリー=マイスキーのピアノは、協演ではなく本当の伴奏であり、何もかも父親に任せた娘のように見え、このようなピアノを弾いて楽しいのかとリリーに疑問を呈したくなる程の出来である。父親を立てたと言えばそのようにも見えるが、これ程までピアノが控えめ過ぎる展開は私が聴いている限り初めてである。
最も、後半の進行に伴ってリリーのピアノは少しはパッションが入るようになる。ミッシャとリリーとの間の関係性は、親子だからなのかは分からないが、協調的なアプローチである。どちらかが冒険に飛び出す事はないし、何か仕掛けてスリリングな展開になる事もない。
協調的なアプローチが最もよく機能したのは、四曲目のブリテンに於ける一部楽章に見られる。現代音楽が最も面白い展開になるのは、予想外の楽しみである。
アンコールは四曲のように思えたが、掲示では五曲となっていた。どうも疲労がたまっているのかもしれない。カタルーニャ民謡(カザルス編曲)の「鳥の歌」、シチェドリンの「アルベニス風のスタイルで」、リヒャルト=シュトラウスの「朝に」、ファリャの「火祭りの踊り」、ラフマニノフの「ヴォカリーズ」である。
ファリャの「火祭りの踊り」は大変な盛り上がりであるが、どうもミッシャは速いテンポはあまり得意でないのだろうなと思わざるを得なかった。
圧巻なのは、「火祭りの踊り」ほど何故か盛り上がらなかったのだが、ラフマニノフの「ヴォカリーズ」である。技術面での完璧さ、テンポの取り扱いの巧みさとこれに伴う曲想の豊かさ、パッションの高さの面で、この「ヴォカリーズ」だけは、まるで別の奏者が演奏しているかのように素晴らしいものである。特に、持続的な長いアッチェレランドを掛けていく展開部の曲想には圧倒される。ミッシャもリリーも、メランコリックな性格の描写というだけでなく、純音楽的な面でのパッションが最も入っているように思える。この「ヴォカリーズ」だけが別格の出来で、この演奏だけが、どうしてミッシャ=マイスキーが世界的に「巨匠」として君臨しているのかが理解できるものであった。
2013年12月1日日曜日
大崎結真 ピアノ-リサイタル 評
2013年12月1日 日曜日
彩の国さいたま芸術劇場 音楽ホール (埼玉県与野市)
曲目:
クロード=ドビュッシー:版画
モーリス=ラヴェル:水の戯れ
モーリス=ラヴェル:夜のガスパール
(休憩)
オリヴィエ=メシアン:「幼子イエスに注ぐ20のまなざし」より
第11曲「聖母の最初の聖体拝領」
第13曲「ノエル」(イエズス=キリストの生誕)
アンリ=デュティユー:ピアノ-ソナタ
ピアノ:大崎結真
着席場所は、ど真ん中より僅かに上手側である。客の入りは6割程であろうか、中央後方の席でさえも空席の穴が目立つ。観客の鑑賞態度は概ね良好であったが、ビニールをがさがさする音が目立つ箇所があり、また補聴器のハウリングと思われる音が小音量ながらも継続してなっていた。
大崎結真は楽譜通りに作曲家の意図を再現するべく演奏する方向性で、かつ丁寧に弾いている。特に後半の演奏は優れている。しかしながらフランスものは難しい。曲想上、どうしても眠くなる方向性に向かってしまう。かと言って、プログラムに安易に「ラ-ヴァルス」を加えるのも、プログラム全体の一貫性がなくなってしまうところである。
また、曲を終え拍手を受ける時の表情も無く、彼女なりに納得できる演奏が出来たのか否かが分からず、その点でも観客のテンションが上がりにくいところがある。せっかく良い演奏をしても、観客に伝わらない形である。
アンコールは、ドビュッシーの「前奏曲集第2巻」より「オンディーヌ」、「前奏曲集第1巻」より「亜麻色の髪の乙女」であった。
彩の国さいたま芸術劇場 音楽ホール (埼玉県与野市)
曲目:
クロード=ドビュッシー:版画
モーリス=ラヴェル:水の戯れ
モーリス=ラヴェル:夜のガスパール
(休憩)
オリヴィエ=メシアン:「幼子イエスに注ぐ20のまなざし」より
第11曲「聖母の最初の聖体拝領」
第13曲「ノエル」(イエズス=キリストの生誕)
アンリ=デュティユー:ピアノ-ソナタ
ピアノ:大崎結真
着席場所は、ど真ん中より僅かに上手側である。客の入りは6割程であろうか、中央後方の席でさえも空席の穴が目立つ。観客の鑑賞態度は概ね良好であったが、ビニールをがさがさする音が目立つ箇所があり、また補聴器のハウリングと思われる音が小音量ながらも継続してなっていた。
大崎結真は楽譜通りに作曲家の意図を再現するべく演奏する方向性で、かつ丁寧に弾いている。特に後半の演奏は優れている。しかしながらフランスものは難しい。曲想上、どうしても眠くなる方向性に向かってしまう。かと言って、プログラムに安易に「ラ-ヴァルス」を加えるのも、プログラム全体の一貫性がなくなってしまうところである。
また、曲を終え拍手を受ける時の表情も無く、彼女なりに納得できる演奏が出来たのか否かが分からず、その点でも観客のテンションが上がりにくいところがある。せっかく良い演奏をしても、観客に伝わらない形である。
アンコールは、ドビュッシーの「前奏曲集第2巻」より「オンディーヌ」、「前奏曲集第1巻」より「亜麻色の髪の乙女」であった。
2013年11月30日土曜日
ドイツェ-カンマーフィルハーモニー-ブレーメン 歌劇「フィデリオ」 評
2013年11月30日 土曜日
横浜みなとみらいホール (神奈川県横浜市)
演目:
ルートヴィッヒ=ファン=ベートーフェン 歌劇「フィデリオ」 op.72 (演奏会形式)
レオノーレ(フィデリオ):エミリー=マギー
フロレスタン:ブルクハルト=フリッツ
ドン-ピツァロ:トム=フォックス(当初予定されたファルク=シュトゥルックマンの代役)
ロッコ:ディミトリー=イヴァシュチェンコ
ドン-フェルナンド:デトレフ=ロート
マルツェリーネ:ゴルダ=シュルツ(当初予定されたクリスティーナ=ランドシャーマーの代役)
ヤッキーノ:ユリアン=プレガルディエン
語り部:ヴォルフ=カーラー
合唱:東京音楽大学合唱団
管弦楽:ドイツェ-カンマーフィルハーモニー-ブレーメン
指揮:パーヴォ=ヤルヴィ
ドイツェ-カンマーフィルハーモニー-ブレーメンは、2013年11月から12月に掛けてアジアツアーを行い、全てベートーフェンの曲目であるプログラムを二種類(歌劇・演奏会用にそれぞれ一種類)用意し、横浜で歌劇、札幌・名古屋・武蔵野(東京都)・ソウル(大韓民国)にて演奏会を開催する。
歌劇については、横浜みなとみらいホールで歌劇「フィデリオ」を演奏会形式で2公演上演する。この評は、二回目11月30日横浜みなとみらいホールでの公演に対してのものである。
管弦楽配置は、舞台下手側から、第一ヴァイオリン→ヴァイオリン-チェロ→ヴィオラ→第二ヴァイオリンの左右対向配置で、コントラバスはチェロの後方につく。木管パートは後方中央、ホルンは後方下手側、その他の金管・打楽器群は後方上手側の位置につく。
着席場所は、一階中央上手側である。客の入りは8割5分程である。観客の鑑賞態度は概ね良好であったが、前方中央席で演奏途中での退席があった。
このドイツェ-カンマーフィルハーモニー-ブレーメン独特の慣習として、舞台上でのチューニングは行わない。楽章の間ではもちろんの事、曲の間であっても行わない。唯一ティンパニだけがこっそりと音程をチェックし調整している。
この「フィデリオ」は演奏会形式であり、舞台上に舞台装置はない。管弦楽の譜面台には、歌劇用のランプが備え付けられている。照明は白熱電球の明暗のみであり、着色光は用いていない。歌の間の芝居はなく、その代わりに「四年後のロッコ」を演じる語り部がいる。語り部の位置は固定されず、歌い手同様に舞台前方を歩く形態となる。拍手は終幕時のみを期待する設定であり、歌唱が終わり残響がなくなったところで間髪を入れずに語りを入れる事によって拍手が起きないようにコントロールしている。それでも、レオノーレが「人間の屑!何をしているつもり?かかってきなさい。希望は捨てないわ、最後に星が出る」のソロ-アリアを歌った後で拍手が出る。
序曲は、名古屋でのベートーフェン交響曲第4番第3番の公演の第一曲目でも演奏されたが、693席の中規模ホールでの凝縮された響きとは異なり、やはり2020席の大きなホールでの響きは違う。音圧は拡散される。
歌劇と言う事もあり、管弦楽は今日はおとなしく猫を被っている。軽めと言うよりは柔和な音色で、その柔和さはヴィーン-フィルを超え、室内管弦楽団ならではの綺麗な音色がベースとなる。もちろんパーヴォ=ヤルヴィならではの変幻自在なテンポに柔軟に対処し、パーヴォとの一体感を感じさせる見事な演奏である。
歌い手について述べる。総じて穴がない見事なソリスト揃いで、この事自体が滅多にないことだ。代役を含めて実力あるソリストを揃えている。全ては完璧な状態から出発している。
第一幕から、マルツェリーナ役のゴルダ=シュルツのよく通る軽快な表現が見事である。元彼のヤッキーノの口説きをかわして、指揮者のパーヴォの所に寄り添って「困っているから助けて」と言っているかのような演技も相まって、実に楽しい。およそ代役とは思えない見事な出来で、出番が多い第一幕に花を添える。
ロッコ役のディミトリー=イヴァシュチェンコは、バスとはとても思えない透明感のある声で、知らないで聴いているとテノールのようにすら感じるほどだ。ごく普通の平凡な看守
長から英雄的な行動を取るところまで、見事に演じる。
フロレスタン役のブルクハルト=フリッツは第二幕からの登場となるが、第二幕開始直後のソロ-アリアから観客の心を掴む。副主役としての役割を十二分に演じ、エミリー=マギーと相まってクライマックスに向けて観客をリードしていく。
主役レオノーレ(フィデリオ)役のエミリー=マギーは、みなとみらいホールの特性に悩まされたであろう。このホールは、レオノーレ役の音域との相性が悪く、なかなか共鳴しないし、共鳴したとしても綺麗に響かない。それでも、知らないでいるとメゾ-ソプラノと思えるような、重量感のある迫力に満ちたレオノーレを見事に演じ、主役としての責任を果たす。みなとみらいホールの音響特性を踏まえると、よくぞここまで演じ切ったと言える。なお、歌い手としてはエミリーのみが楽譜を持っての演技・歌唱であったが、この「フィデリオ」公演にはプロンプターは存在しない事を考慮する必要はあるだろう。
語り部はドイツ語によるものであり、特に第二幕でテンションが上がったか。語り部のテキストは、今年亡くなったドイツの文学者ヴァルター=イェンスによるものである。日本語の字幕で見ただけの判断ではあるが、通俗的な4年後のロッコと本場面での英雄的なロッコとの対比を踏まえつつ、実に格調高くイデアを掲げているものだ。
歌い手と管弦楽との関係性は、必ずしも歌い手重視と言うわけではない。歌い手を表に出すと言うよりは、歌い手・管弦楽を含めて表に出るべきと考えた楽器を表に出した感じである。例えば、オーボエを表に出す時は歌い手は控えめに歌う感じだ。
この点については、公開ゲネプロ時の質疑応答の際に、「演奏を重ねるうちに発見したことはあるか」の質問に対して、「ベートーベンの交響曲を演奏するときに、フィデリオにおいて作曲者は歌にオーケストラのどのパートの役割を歌わせたかったか、働きを持たせたかったか考えさせられる」とパーヴォが答えていたところからも読み取れるところである。
(この辺りの事情については、彩加さん(@p0pular0708)による2013年11月26日16時40分頃(日本時間)からのツイートに依拠している。公開ゲネプロ情報の提供について、この場でも厚く御礼申し上げる。)
歌い手が一人の時はこのように控えめなところもあるが、このような場面から三重唱・四重唱へ積み重なっていく流れや、その三重唱・四重唱自体は極めて素晴らしい。単に管弦楽を一歩上回る形で巧く乗っかった素晴らしい歌唱で、大変気持ちよく響いているというだけの話ではなく、その三重唱・四重唱の場面場面で誰を表に出すのかを細かく考慮している。ドイツ語が分かる方にとっては、一番強調されている歌声の意味が容易に読み取れるようになっているように思われる。
合唱は東京音楽大学合唱団であるが、団員は学生なのであろうか。しかしながら、およそ学生とは思えない。東京オペラシンガーズ同様の高い完成度であり、その声量だけでなく、場面場面に応じたコントロールが適切であり、ソロ二人の出番もあったがこれもまた見事である。第二幕では抱擁しあう演技までをも行い、その場面から終幕に向けてのクライマックスに向けて傑出した実力を発揮していく。
大団円はソリスト・合唱・管弦楽全てがパッションに満ちつつも、全ての構成要素が室内楽を聴いているかのように一体感を持って見事に絡み合い、美しく響かせて終わる。これ程までの大団円を聴くと、ベルリン-フィル、ヴィーン-フィルですら実現は難しいと思わざるを得ない。全てが完璧に終わった。行った、聴いた、勝った!!
横浜みなとみらいホール (神奈川県横浜市)
演目:
ルートヴィッヒ=ファン=ベートーフェン 歌劇「フィデリオ」 op.72 (演奏会形式)
レオノーレ(フィデリオ):エミリー=マギー
フロレスタン:ブルクハルト=フリッツ
ドン-ピツァロ:トム=フォックス(当初予定されたファルク=シュトゥルックマンの代役)
ロッコ:ディミトリー=イヴァシュチェンコ
ドン-フェルナンド:デトレフ=ロート
マルツェリーネ:ゴルダ=シュルツ(当初予定されたクリスティーナ=ランドシャーマーの代役)
ヤッキーノ:ユリアン=プレガルディエン
語り部:ヴォルフ=カーラー
合唱:東京音楽大学合唱団
管弦楽:ドイツェ-カンマーフィルハーモニー-ブレーメン
指揮:パーヴォ=ヤルヴィ
ドイツェ-カンマーフィルハーモニー-ブレーメンは、2013年11月から12月に掛けてアジアツアーを行い、全てベートーフェンの曲目であるプログラムを二種類(歌劇・演奏会用にそれぞれ一種類)用意し、横浜で歌劇、札幌・名古屋・武蔵野(東京都)・ソウル(大韓民国)にて演奏会を開催する。
歌劇については、横浜みなとみらいホールで歌劇「フィデリオ」を演奏会形式で2公演上演する。この評は、二回目11月30日横浜みなとみらいホールでの公演に対してのものである。
管弦楽配置は、舞台下手側から、第一ヴァイオリン→ヴァイオリン-チェロ→ヴィオラ→第二ヴァイオリンの左右対向配置で、コントラバスはチェロの後方につく。木管パートは後方中央、ホルンは後方下手側、その他の金管・打楽器群は後方上手側の位置につく。
着席場所は、一階中央上手側である。客の入りは8割5分程である。観客の鑑賞態度は概ね良好であったが、前方中央席で演奏途中での退席があった。
このドイツェ-カンマーフィルハーモニー-ブレーメン独特の慣習として、舞台上でのチューニングは行わない。楽章の間ではもちろんの事、曲の間であっても行わない。唯一ティンパニだけがこっそりと音程をチェックし調整している。
この「フィデリオ」は演奏会形式であり、舞台上に舞台装置はない。管弦楽の譜面台には、歌劇用のランプが備え付けられている。照明は白熱電球の明暗のみであり、着色光は用いていない。歌の間の芝居はなく、その代わりに「四年後のロッコ」を演じる語り部がいる。語り部の位置は固定されず、歌い手同様に舞台前方を歩く形態となる。拍手は終幕時のみを期待する設定であり、歌唱が終わり残響がなくなったところで間髪を入れずに語りを入れる事によって拍手が起きないようにコントロールしている。それでも、レオノーレが「人間の屑!何をしているつもり?かかってきなさい。希望は捨てないわ、最後に星が出る」のソロ-アリアを歌った後で拍手が出る。
序曲は、名古屋でのベートーフェン交響曲第4番第3番の公演の第一曲目でも演奏されたが、693席の中規模ホールでの凝縮された響きとは異なり、やはり2020席の大きなホールでの響きは違う。音圧は拡散される。
歌劇と言う事もあり、管弦楽は今日はおとなしく猫を被っている。軽めと言うよりは柔和な音色で、その柔和さはヴィーン-フィルを超え、室内管弦楽団ならではの綺麗な音色がベースとなる。もちろんパーヴォ=ヤルヴィならではの変幻自在なテンポに柔軟に対処し、パーヴォとの一体感を感じさせる見事な演奏である。
歌い手について述べる。総じて穴がない見事なソリスト揃いで、この事自体が滅多にないことだ。代役を含めて実力あるソリストを揃えている。全ては完璧な状態から出発している。
第一幕から、マルツェリーナ役のゴルダ=シュルツのよく通る軽快な表現が見事である。元彼のヤッキーノの口説きをかわして、指揮者のパーヴォの所に寄り添って「困っているから助けて」と言っているかのような演技も相まって、実に楽しい。およそ代役とは思えない見事な出来で、出番が多い第一幕に花を添える。
ロッコ役のディミトリー=イヴァシュチェンコは、バスとはとても思えない透明感のある声で、知らないで聴いているとテノールのようにすら感じるほどだ。ごく普通の平凡な看守
長から英雄的な行動を取るところまで、見事に演じる。
フロレスタン役のブルクハルト=フリッツは第二幕からの登場となるが、第二幕開始直後のソロ-アリアから観客の心を掴む。副主役としての役割を十二分に演じ、エミリー=マギーと相まってクライマックスに向けて観客をリードしていく。
主役レオノーレ(フィデリオ)役のエミリー=マギーは、みなとみらいホールの特性に悩まされたであろう。このホールは、レオノーレ役の音域との相性が悪く、なかなか共鳴しないし、共鳴したとしても綺麗に響かない。それでも、知らないでいるとメゾ-ソプラノと思えるような、重量感のある迫力に満ちたレオノーレを見事に演じ、主役としての責任を果たす。みなとみらいホールの音響特性を踏まえると、よくぞここまで演じ切ったと言える。なお、歌い手としてはエミリーのみが楽譜を持っての演技・歌唱であったが、この「フィデリオ」公演にはプロンプターは存在しない事を考慮する必要はあるだろう。
語り部はドイツ語によるものであり、特に第二幕でテンションが上がったか。語り部のテキストは、今年亡くなったドイツの文学者ヴァルター=イェンスによるものである。日本語の字幕で見ただけの判断ではあるが、通俗的な4年後のロッコと本場面での英雄的なロッコとの対比を踏まえつつ、実に格調高くイデアを掲げているものだ。
歌い手と管弦楽との関係性は、必ずしも歌い手重視と言うわけではない。歌い手を表に出すと言うよりは、歌い手・管弦楽を含めて表に出るべきと考えた楽器を表に出した感じである。例えば、オーボエを表に出す時は歌い手は控えめに歌う感じだ。
この点については、公開ゲネプロ時の質疑応答の際に、「演奏を重ねるうちに発見したことはあるか」の質問に対して、「ベートーベンの交響曲を演奏するときに、フィデリオにおいて作曲者は歌にオーケストラのどのパートの役割を歌わせたかったか、働きを持たせたかったか考えさせられる」とパーヴォが答えていたところからも読み取れるところである。
(この辺りの事情については、彩加さん(@p0pular0708)による2013年11月26日16時40分頃(日本時間)からのツイートに依拠している。公開ゲネプロ情報の提供について、この場でも厚く御礼申し上げる。)
歌い手が一人の時はこのように控えめなところもあるが、このような場面から三重唱・四重唱へ積み重なっていく流れや、その三重唱・四重唱自体は極めて素晴らしい。単に管弦楽を一歩上回る形で巧く乗っかった素晴らしい歌唱で、大変気持ちよく響いているというだけの話ではなく、その三重唱・四重唱の場面場面で誰を表に出すのかを細かく考慮している。ドイツ語が分かる方にとっては、一番強調されている歌声の意味が容易に読み取れるようになっているように思われる。
合唱は東京音楽大学合唱団であるが、団員は学生なのであろうか。しかしながら、およそ学生とは思えない。東京オペラシンガーズ同様の高い完成度であり、その声量だけでなく、場面場面に応じたコントロールが適切であり、ソロ二人の出番もあったがこれもまた見事である。第二幕では抱擁しあう演技までをも行い、その場面から終幕に向けてのクライマックスに向けて傑出した実力を発揮していく。
大団円はソリスト・合唱・管弦楽全てがパッションに満ちつつも、全ての構成要素が室内楽を聴いているかのように一体感を持って見事に絡み合い、美しく響かせて終わる。これ程までの大団円を聴くと、ベルリン-フィル、ヴィーン-フィルですら実現は難しいと思わざるを得ない。全てが完璧に終わった。行った、聴いた、勝った!!
2013年11月24日日曜日
NHK交響楽団 横浜定期演奏会 評
2013年11月24日 日曜日
横浜みなとみらいホール (神奈川県横浜市)
曲目:
アナトーリ=リャードフ 交響詩「魔法をかけられた湖」 op.62
ドミートリイ=ショスタコーヴィチ ヴァイオリン協奏曲第2番 op.129
(休憩)
ピョートル=イリイッチ=チャイコフスキー 交響曲第5番 op.64
ヴァイオリン:諏訪内晶子
管弦楽:NHK交響楽団
指揮:トゥガン=ソヒエフ
NHK交響楽団は、諏訪内晶子をソリストに、トゥガン=ソヒエフを指揮者に迎えて、2013年11月20日・21日に東京-サントリーホールで、第1768回定期演奏会を開催した。同じプログラムで11月23日に足利市民会館(栃木県)、24日に横浜みなとみらいホールで演奏会を行った。この評は、最終日11月24日横浜みなとみらいホールでの公演に対してのものである。
諏訪内晶子は1972年生まれの、言うまでもなく、少なくとも日本ではトップレベルのヴァイオリン奏者である。あまりに有名であり、説明の必要はなかろう。
指揮のトゥガン=ソヒエフは、当時のソヴィエト社会主義共和国連邦、北オセチア自治共和国生まれ。現在は、トゥールーズ-キャピトル国立管弦楽団、ベルリン-ドイツ交響楽団の首席指揮者である。
管弦楽配置は、舞台下手側から、第一ヴァイオリン→第二ヴァイオリン→(までは覚えていたが、チェロとヴィオラの配置は忘れた。多分、ヴァイオリン-チェロ→ヴィオラだったかと)のモダン配置で、コントラバスはチェロの後方につく。木管パートは後方中央、ホルンは後方下手側である。弦楽奏者は、第五プルトであっても雛壇を使わない。ロシア人指揮者ならではのやり方であろうか。
着席位置は正面中央上手側、観客の入りは八割五分程である。観客の鑑賞態度は良好であったが、私の隣席で曲の途中でパンフレットを弄んでいたのが気になった。
第一曲の「魔法をかけられた湖」、最初からとてもN響とは思えない精緻な音で、観客の心を掴む。表面の皮膚以外は、ベルリンフィルの奏者の組織を移植しているのではないかと思えてしまうほど、信じられない程の精緻さで、準=メルクルですらこのような音は引き出せていない。静寂な湖のほとりに一人で佇みながら、何かが起こりそうな不安をも感じさせるような、不思議な演奏である。
第二曲のショスタコーヴィチのヴァイオリン協奏曲第2番は、とても優れた演奏である。諏訪内晶子はリズムの刻みも、朗々と流れるような響きも、キッチリと演奏し、技巧的要素の強い現代曲が強い彼女ならではの完成度の高い演奏である。管弦楽の音に乗っかり、この曲に対してはとても適切な協調的なアプローチで寄り添いつつも、管弦楽を一歩上回る響きで伝わってくる。二重奏的な掛けあいはコントラバスともホルンとも決まりまくっているが、特にホルンとの二重奏は、ホルン-ソロの卓越した演奏とも相まって強い感銘を受ける。曲想上ソリストの自由は制限される性格が強い曲であるが、終了直前のカデンツァは唯一ソリストの自由度が高い部分であり、そこではテンポを自由に揺るがせるが自然なものであり、絶品である。
諏訪内晶子の新しいレパートリーの披露は成功裏に終える。管弦楽の精緻な響きはさらにパワーアップされ、プロコフィエルの「古典」交響曲を演奏しているかのような新古典主義を思わせるような響きとまでなり、さらにテンションを高める演奏である。
休憩後、第三曲目のチャイコフスキー第五交響曲は、盛り上がって当然の曲であるし、事実盛り上がっているし、ソヒエフも小技を利かしていて良い演奏ではあるが、まあ普通に良い演奏と言うところであろうか。私にとってはなんと言うか、何と無く中途半端な感じである。クラリネット・ファゴットの自己主張が私にとっては弱いし、最終楽章コーダでトランペットの音程が乱れたようにも思えたし、どこか白熱戦に今ひとつなりきれてなくて、一方で響きは前半ほどの精緻さが消えている。いつものN響に戻ったのであろうか。昨日のドイツェ-カンマーフィルハーモニー-ブレーメンの鮮烈な演奏を聴いたばかりであり、N響にとっては酷な環境ではあったのだろうけど。
と言う訳で、九か月振りに諏訪内晶子の演奏を聴けて、かつ諏訪内晶子とソヒエフの意図を緻密に表現しきったN響に感銘を受けた演奏会だったと、総括しておこう。
横浜みなとみらいホール (神奈川県横浜市)
曲目:
アナトーリ=リャードフ 交響詩「魔法をかけられた湖」 op.62
ドミートリイ=ショスタコーヴィチ ヴァイオリン協奏曲第2番 op.129
(休憩)
ピョートル=イリイッチ=チャイコフスキー 交響曲第5番 op.64
ヴァイオリン:諏訪内晶子
管弦楽:NHK交響楽団
指揮:トゥガン=ソヒエフ
NHK交響楽団は、諏訪内晶子をソリストに、トゥガン=ソヒエフを指揮者に迎えて、2013年11月20日・21日に東京-サントリーホールで、第1768回定期演奏会を開催した。同じプログラムで11月23日に足利市民会館(栃木県)、24日に横浜みなとみらいホールで演奏会を行った。この評は、最終日11月24日横浜みなとみらいホールでの公演に対してのものである。
諏訪内晶子は1972年生まれの、言うまでもなく、少なくとも日本ではトップレベルのヴァイオリン奏者である。あまりに有名であり、説明の必要はなかろう。
指揮のトゥガン=ソヒエフは、当時のソヴィエト社会主義共和国連邦、北オセチア自治共和国生まれ。現在は、トゥールーズ-キャピトル国立管弦楽団、ベルリン-ドイツ交響楽団の首席指揮者である。
管弦楽配置は、舞台下手側から、第一ヴァイオリン→第二ヴァイオリン→(までは覚えていたが、チェロとヴィオラの配置は忘れた。多分、ヴァイオリン-チェロ→ヴィオラだったかと)のモダン配置で、コントラバスはチェロの後方につく。木管パートは後方中央、ホルンは後方下手側である。弦楽奏者は、第五プルトであっても雛壇を使わない。ロシア人指揮者ならではのやり方であろうか。
着席位置は正面中央上手側、観客の入りは八割五分程である。観客の鑑賞態度は良好であったが、私の隣席で曲の途中でパンフレットを弄んでいたのが気になった。
第一曲の「魔法をかけられた湖」、最初からとてもN響とは思えない精緻な音で、観客の心を掴む。表面の皮膚以外は、ベルリンフィルの奏者の組織を移植しているのではないかと思えてしまうほど、信じられない程の精緻さで、準=メルクルですらこのような音は引き出せていない。静寂な湖のほとりに一人で佇みながら、何かが起こりそうな不安をも感じさせるような、不思議な演奏である。
第二曲のショスタコーヴィチのヴァイオリン協奏曲第2番は、とても優れた演奏である。諏訪内晶子はリズムの刻みも、朗々と流れるような響きも、キッチリと演奏し、技巧的要素の強い現代曲が強い彼女ならではの完成度の高い演奏である。管弦楽の音に乗っかり、この曲に対してはとても適切な協調的なアプローチで寄り添いつつも、管弦楽を一歩上回る響きで伝わってくる。二重奏的な掛けあいはコントラバスともホルンとも決まりまくっているが、特にホルンとの二重奏は、ホルン-ソロの卓越した演奏とも相まって強い感銘を受ける。曲想上ソリストの自由は制限される性格が強い曲であるが、終了直前のカデンツァは唯一ソリストの自由度が高い部分であり、そこではテンポを自由に揺るがせるが自然なものであり、絶品である。
諏訪内晶子の新しいレパートリーの披露は成功裏に終える。管弦楽の精緻な響きはさらにパワーアップされ、プロコフィエルの「古典」交響曲を演奏しているかのような新古典主義を思わせるような響きとまでなり、さらにテンションを高める演奏である。
休憩後、第三曲目のチャイコフスキー第五交響曲は、盛り上がって当然の曲であるし、事実盛り上がっているし、ソヒエフも小技を利かしていて良い演奏ではあるが、まあ普通に良い演奏と言うところであろうか。私にとってはなんと言うか、何と無く中途半端な感じである。クラリネット・ファゴットの自己主張が私にとっては弱いし、最終楽章コーダでトランペットの音程が乱れたようにも思えたし、どこか白熱戦に今ひとつなりきれてなくて、一方で響きは前半ほどの精緻さが消えている。いつものN響に戻ったのであろうか。昨日のドイツェ-カンマーフィルハーモニー-ブレーメンの鮮烈な演奏を聴いたばかりであり、N響にとっては酷な環境ではあったのだろうけど。
と言う訳で、九か月振りに諏訪内晶子の演奏を聴けて、かつ諏訪内晶子とソヒエフの意図を緻密に表現しきったN響に感銘を受けた演奏会だったと、総括しておこう。
2013年11月23日土曜日
ドイツェ-カンマーフィルハーモニー-ブレーメン 名古屋公演 演奏会 評
2013年11月23日 土曜日
三井住友海上しらかわホール (愛知県名古屋市)
曲目:
ルートヴィッヒ=ファン=ベートーフェン 歌劇「フィデリオ」序曲 op.72b
ルートヴィッヒ=ファン=ベートーフェン 交響曲第4番 op.60
(休憩)
ルートヴィッヒ=ファン=ベートーフェン 交響曲第3番 op.55
管弦楽:ドイツェ-カンマーフィルハーモニー-ブレーメン
指揮:パーヴォ=ヤルヴィ
ドイツェ-カンマーフィルハーモニー-ブレーメンは、2013年11月から12月に掛けてアジアツアーを行い、全てベートーフェンの曲目であるプログラムを二種類用意し、札幌・名古屋・武蔵野(東京都)・横浜・ソウル(大韓民国)にて歌劇・演奏会を開催する。
歌劇については、横浜みなとみらいホールで歌劇「フィデリオ」を演奏会形式で2公演上演する。これ以外の公演は全て演奏会であり、この名古屋公演と同一のプログラムである。演奏会は札幌・名古屋・武蔵野で1公演ずつとソウルで2公演開催される。
6月のマーラー室内管弦楽団のような、軽井沢と名古屋のみという程まで変わった形態ではないが、東京23区内での公演を一切行わない点に注目される。なお、約700名規模の中規模ホールでの公演は、アジアツアーを通してこの名古屋公演が唯一のものである。
管弦楽配置は、舞台下手側から、第一ヴァイオリン→ヴァイオリン-チェロ→ヴィオラ→第二ヴァイオリンの左右対向配置で、コントラバスはチェロの後方につく。木管パートは後方中央、ホルンは後方下手側、その他の金管・打楽器群は後方上手側の位置につく。着席場所は、やや後方中央である。客の入りは八割五分程である。観客の鑑賞態度は良好であった。
ベートーフェンはやはり最も素晴らしい作曲家であるため、楽譜通りきちっと演奏すれば、それだけで満足度の高い演奏会にすることができる。それなのに、そのようには決してしないヒネクレタ奴らが、本国ドイツにいたりする。上岡敏之率いるヴッパータール交響楽団、彼らが演奏するベートーフェンの第三交響曲は、日本では確か唯一松本市音楽文化ホールのみで演奏されたが、みんなが速く演奏する所を遅く、みんなが遅く演奏する所を速くする見事な演奏で驚嘆させられた。
2013年11月23日、再びヒネクレタ鮮烈なベートーフェンを演奏する集団を聴いた。ブレーメンの音楽隊だ。ブレーメンに行くロバでもイヌでもネコでもニワトリでもない、ブレーメンから来たドイツェ-カンマーフィルハーモニー-ブレーメンである。
パーヴォ=ヤルヴィは楽団員に苛烈な要求を繰り返す。まるでロバに対して虐待する飼い主のように。しかし楽団員はヤルヴィの指示に対して鮮烈に応えるのみならず、実に楽しそうに弾いている。特にヴィオラ首席の体をブンブン動かして音を作り出している様子といったら。
室内管弦楽団とは思えないパワフルな音づくりだ。二つのMCO、あの水戸室内管弦楽団やマーラー室内管弦楽団以上に力強い迫力で迫ってくる。その迫力は、フル-オーケストラを軽々と上回る。
交響曲第4番、この曲を「2人の北欧神話の巨人の間にはさまれたギリシアの乙女」などと評したロベルト=シューマンよ、君は何と言う過ちを犯したのだ。パーヴォの手に掛かるとこの曲は、可憐なイメージを覆し、苛烈なまでに躍動する硬派なリズムを刻みまくる曲となる。まるで「春の祭典」のような難曲と化す。
冒頭の序奏を実に繊細に弾いているのを見て安心していると、可憐なはずの「ギリシャの乙女」はその狂暴なまでの本性を剥き出しにしてくるのだ。なんと緊密なリズム感なのだろう。特に弦楽セクションは、死に物狂いのパッションを出してリズムを刻んでいく。クラリネットもその重要な役割を見事に果たし、ティンパニはクレッシェンドの閃光を炸裂させる。
比較するのは野暮な話だが、これはこれはオルフェオ-レコードの大看板とも言うべき、あのカルロス=クライバーと名盤と並び称される秀演だ。
後半の交響曲第3番、管楽セクションがパワーアップし、高く保ったテンションはそのままに、より完成度を上げて迫ってくる。「英雄」などという表題はどこかにうっちゃっておこう。純音楽的に傑出した演奏だ。死に物狂いに白熱する躍動感だけではない、叙情的に攻めるところは実に繊細に歌わせ、波をうねらせる。音量の大小、緩急の付け方は非常に大きい。第四楽章の冒頭の僅かな長さのフレーズでさえ、アッチェレランドをスパッと仕掛ける。曲のどこのフレーズをどのように見せていくか、その辺りのメリハリが実に巧みで、パーヴォの構成力の見事さが光る。
とにもかくにも、ベートーフェンに新たな生命を吹き込む演奏である。ピリオド楽器とかモダン楽器とか、ピリオド奏法とかモダン奏法とか、そんなものはどうでも良い。結果的に出てくる音、出てくる響きが全てである。その音、その響きが鮮烈で唖然とするしかない。
この11月、ヴィーン-フィルにもベルリン-フィルにもアムステルダム-コンセルトヘボウにも聴きに行けなかったが、行く必要はなかった。こんなことを言ったらこっぴどく叱られるかも知れないが、これほどまでに前衛的で戦闘的で叙情的で熱情的な演奏は、チケット4万円のヴィーンやベルリンやアムステルダムの輩には出来るはずがない。
アンコールは、ブラームスのマジャール舞曲第1番と、シベリウスの「悲しいワルツ」。プログラム本番と同様の見事な演奏であると同時に、「悲しいワルツ」ではpが五つほどつく程までの弱奏で攻めたりもする。しらかわホールならでは弱い弱奏なのだろうか。世界最高のベートーフェンを味わえた、土曜日の午後であった。
三井住友海上しらかわホール (愛知県名古屋市)
曲目:
ルートヴィッヒ=ファン=ベートーフェン 歌劇「フィデリオ」序曲 op.72b
ルートヴィッヒ=ファン=ベートーフェン 交響曲第4番 op.60
(休憩)
ルートヴィッヒ=ファン=ベートーフェン 交響曲第3番 op.55
管弦楽:ドイツェ-カンマーフィルハーモニー-ブレーメン
指揮:パーヴォ=ヤルヴィ
ドイツェ-カンマーフィルハーモニー-ブレーメンは、2013年11月から12月に掛けてアジアツアーを行い、全てベートーフェンの曲目であるプログラムを二種類用意し、札幌・名古屋・武蔵野(東京都)・横浜・ソウル(大韓民国)にて歌劇・演奏会を開催する。
歌劇については、横浜みなとみらいホールで歌劇「フィデリオ」を演奏会形式で2公演上演する。これ以外の公演は全て演奏会であり、この名古屋公演と同一のプログラムである。演奏会は札幌・名古屋・武蔵野で1公演ずつとソウルで2公演開催される。
6月のマーラー室内管弦楽団のような、軽井沢と名古屋のみという程まで変わった形態ではないが、東京23区内での公演を一切行わない点に注目される。なお、約700名規模の中規模ホールでの公演は、アジアツアーを通してこの名古屋公演が唯一のものである。
管弦楽配置は、舞台下手側から、第一ヴァイオリン→ヴァイオリン-チェロ→ヴィオラ→第二ヴァイオリンの左右対向配置で、コントラバスはチェロの後方につく。木管パートは後方中央、ホルンは後方下手側、その他の金管・打楽器群は後方上手側の位置につく。着席場所は、やや後方中央である。客の入りは八割五分程である。観客の鑑賞態度は良好であった。
ベートーフェンはやはり最も素晴らしい作曲家であるため、楽譜通りきちっと演奏すれば、それだけで満足度の高い演奏会にすることができる。それなのに、そのようには決してしないヒネクレタ奴らが、本国ドイツにいたりする。上岡敏之率いるヴッパータール交響楽団、彼らが演奏するベートーフェンの第三交響曲は、日本では確か唯一松本市音楽文化ホールのみで演奏されたが、みんなが速く演奏する所を遅く、みんなが遅く演奏する所を速くする見事な演奏で驚嘆させられた。
2013年11月23日、再びヒネクレタ鮮烈なベートーフェンを演奏する集団を聴いた。ブレーメンの音楽隊だ。ブレーメンに行くロバでもイヌでもネコでもニワトリでもない、ブレーメンから来たドイツェ-カンマーフィルハーモニー-ブレーメンである。
パーヴォ=ヤルヴィは楽団員に苛烈な要求を繰り返す。まるでロバに対して虐待する飼い主のように。しかし楽団員はヤルヴィの指示に対して鮮烈に応えるのみならず、実に楽しそうに弾いている。特にヴィオラ首席の体をブンブン動かして音を作り出している様子といったら。
室内管弦楽団とは思えないパワフルな音づくりだ。二つのMCO、あの水戸室内管弦楽団やマーラー室内管弦楽団以上に力強い迫力で迫ってくる。その迫力は、フル-オーケストラを軽々と上回る。
交響曲第4番、この曲を「2人の北欧神話の巨人の間にはさまれたギリシアの乙女」などと評したロベルト=シューマンよ、君は何と言う過ちを犯したのだ。パーヴォの手に掛かるとこの曲は、可憐なイメージを覆し、苛烈なまでに躍動する硬派なリズムを刻みまくる曲となる。まるで「春の祭典」のような難曲と化す。
冒頭の序奏を実に繊細に弾いているのを見て安心していると、可憐なはずの「ギリシャの乙女」はその狂暴なまでの本性を剥き出しにしてくるのだ。なんと緊密なリズム感なのだろう。特に弦楽セクションは、死に物狂いのパッションを出してリズムを刻んでいく。クラリネットもその重要な役割を見事に果たし、ティンパニはクレッシェンドの閃光を炸裂させる。
比較するのは野暮な話だが、これはこれはオルフェオ-レコードの大看板とも言うべき、あのカルロス=クライバーと名盤と並び称される秀演だ。
後半の交響曲第3番、管楽セクションがパワーアップし、高く保ったテンションはそのままに、より完成度を上げて迫ってくる。「英雄」などという表題はどこかにうっちゃっておこう。純音楽的に傑出した演奏だ。死に物狂いに白熱する躍動感だけではない、叙情的に攻めるところは実に繊細に歌わせ、波をうねらせる。音量の大小、緩急の付け方は非常に大きい。第四楽章の冒頭の僅かな長さのフレーズでさえ、アッチェレランドをスパッと仕掛ける。曲のどこのフレーズをどのように見せていくか、その辺りのメリハリが実に巧みで、パーヴォの構成力の見事さが光る。
とにもかくにも、ベートーフェンに新たな生命を吹き込む演奏である。ピリオド楽器とかモダン楽器とか、ピリオド奏法とかモダン奏法とか、そんなものはどうでも良い。結果的に出てくる音、出てくる響きが全てである。その音、その響きが鮮烈で唖然とするしかない。
この11月、ヴィーン-フィルにもベルリン-フィルにもアムステルダム-コンセルトヘボウにも聴きに行けなかったが、行く必要はなかった。こんなことを言ったらこっぴどく叱られるかも知れないが、これほどまでに前衛的で戦闘的で叙情的で熱情的な演奏は、チケット4万円のヴィーンやベルリンやアムステルダムの輩には出来るはずがない。
アンコールは、ブラームスのマジャール舞曲第1番と、シベリウスの「悲しいワルツ」。プログラム本番と同様の見事な演奏であると同時に、「悲しいワルツ」ではpが五つほどつく程までの弱奏で攻めたりもする。しらかわホールならでは弱い弱奏なのだろうか。世界最高のベートーフェンを味わえた、土曜日の午後であった。
2013年11月21日木曜日
エマニュエル=パユ+ジャン-ギアン=ケラス+マリー-ピエール=ラングラメ 演奏会評
2013年11月21日 木曜日
松本市音楽文化ホール (長野県松本市)
曲目:
演奏会のテーマ「ザ-フレンチ-コレクション in 松本」
マックス=ブルッフ 「トリオのための8つの小品」より 第1番、第2番、第5番
ロベルト=シューマン 「幻想小品集」 op.73 (フルートとハープのみ)
ハンス=ヴェルナー=ヘンツェ 「墓碑銘」 (チェロのみ)
セルゲイ=プロコフィエフ 「10の小品」より 第7曲「前奏曲」 op.12-7 (ハープのみ)
ヨハネス=ブラームス 「2つの歌曲」 op.91
(休憩)
ヨゼフ=ヨンゲン 「トリオのための2つの小品」 op.80
クロード=ドビュッシー チェロとピアノのためのソナタ (チェロとハープのみ)(ピアノパートはハープによる演奏)
エリオット=カーター 「スクリーヴォ-イン-ヴェント」(「風に書く」) (フルートのみ)
モーリス=ラヴェル ソナチネ (フルートとハープとチェロのために独自に編曲)
フルート:エマニュエル=パユ
ヴァイオリン-チェロ:ジャン-ギアン=ケラス
ハープ:マリー-ピエール=ラングラメ
エマニュエル=パユはスイス連邦ジュネーブ生まれの、ベルリン-フィルハーモニーのフルート首席奏者である。ベルリン-フィルハーモニーが来日公演が11月20日で終わり、その翌日の演奏会である。
ジャン-ギアン=ケラスはカナダ国モントリオール生まれのチェリストで、この11月に来日ツアーを実施しており、無伴奏チェロ-ソナタ演奏会を東京・横浜・名古屋・西宮(兵庫県)で行うと同時に、室内楽を唯一この松本で演奏する。
マリー-ピエール=ラングラメはフランス共和国グルノーブル生まれの、ベルリンフィルハーモニーのハープ首席奏者である。ベルリン-フィルハーモニー来日公演での彼女の出番も、昨日で終わったのであろうか。
この三人がどうして松本のみで揃って演奏する事となったのかは、謎である。宣伝文句は、「パユ&ケラス&ラングラメ スーパースターが織り成す 美しき一夜限りの夢のトリオ」となっているが、この三人が揃って演奏するのは確かに松本のみであり、「一夜限り」と言うのは間違いない。
演奏会のテーマ「ザ-フレンチ-コレクション in 松本」となっているものの、ドイツ・ロシア・米国ものもあり、「フレンチ-コレクション」と言うのは「フランス語が母語の奏者をコレクション」したという意味なのか?まあ、演奏が良ければどうでもいいけど。
着席場所は、後方下手側である。客の入りは九割五分程である。観客の鑑賞態度は良好であり、拍手のタイミングが適切であった。
全般的に、三人の奏者それぞれが適切な自己主張をし、特に後半のヨンゲン・ドビュッシー・カーターの三曲については、パッションが自然に込められており、かつ完成度が高い演奏であり、非常に優れた演奏である。
ベルリン-フィルの演奏会に忙しい二人は、特にパユが譜面を注視しているのが目立ったが、それでもフルートの見せ場ではその技巧を見せつけ、特にカーターのソロは秀逸である。
ラングラメは、特に後半の出来が良い。
それにしてもケラスのチェロは絶品である。パワーがあることは当然だとしても、一音一音の響きが絶品である。高音部の軽やかさから低音部の深い音まで、ニュアンスで攻めると言うよりは、一音一音の音色で攻めると言うのが良いのだろうか。
お相手は、フルートとハープ、どちらも華やかな楽器だ。チェロの見せ場とあれば、この二つの楽器をバックに従えて朗々とした響きで観客を見事に弾きつける。決して、通奏低音の下支え的でもなく、伴奏的でもない、堂々と主役を演じられる所に、ケラスの傑出した才能が感じられる。間違いなく、世界最高のチェリストの一人である。
アンコールは、イベールの「二つの間奏曲」である。
終演後のサイン会場は、松本にしては異常に賑わい、女性の比率が高かったが、パユ派とケラス派、または両方の肉食派が並んでいたのか。ベルリン-フィルの来日公演直後であり、リハーサルの時間も長くは取れない中でも、これほどまでの内容で演奏できると言うのは、さすがベルリン-フィルの首席奏者と思い知らされる演奏会であった。
松本市音楽文化ホール (長野県松本市)
曲目:
演奏会のテーマ「ザ-フレンチ-コレクション in 松本」
マックス=ブルッフ 「トリオのための8つの小品」より 第1番、第2番、第5番
ロベルト=シューマン 「幻想小品集」 op.73 (フルートとハープのみ)
ハンス=ヴェルナー=ヘンツェ 「墓碑銘」 (チェロのみ)
セルゲイ=プロコフィエフ 「10の小品」より 第7曲「前奏曲」 op.12-7 (ハープのみ)
ヨハネス=ブラームス 「2つの歌曲」 op.91
(休憩)
ヨゼフ=ヨンゲン 「トリオのための2つの小品」 op.80
クロード=ドビュッシー チェロとピアノのためのソナタ (チェロとハープのみ)(ピアノパートはハープによる演奏)
エリオット=カーター 「スクリーヴォ-イン-ヴェント」(「風に書く」) (フルートのみ)
モーリス=ラヴェル ソナチネ (フルートとハープとチェロのために独自に編曲)
フルート:エマニュエル=パユ
ヴァイオリン-チェロ:ジャン-ギアン=ケラス
ハープ:マリー-ピエール=ラングラメ
エマニュエル=パユはスイス連邦ジュネーブ生まれの、ベルリン-フィルハーモニーのフルート首席奏者である。ベルリン-フィルハーモニーが来日公演が11月20日で終わり、その翌日の演奏会である。
ジャン-ギアン=ケラスはカナダ国モントリオール生まれのチェリストで、この11月に来日ツアーを実施しており、無伴奏チェロ-ソナタ演奏会を東京・横浜・名古屋・西宮(兵庫県)で行うと同時に、室内楽を唯一この松本で演奏する。
マリー-ピエール=ラングラメはフランス共和国グルノーブル生まれの、ベルリンフィルハーモニーのハープ首席奏者である。ベルリン-フィルハーモニー来日公演での彼女の出番も、昨日で終わったのであろうか。
この三人がどうして松本のみで揃って演奏する事となったのかは、謎である。宣伝文句は、「パユ&ケラス&ラングラメ スーパースターが織り成す 美しき一夜限りの夢のトリオ」となっているが、この三人が揃って演奏するのは確かに松本のみであり、「一夜限り」と言うのは間違いない。
演奏会のテーマ「ザ-フレンチ-コレクション in 松本」となっているものの、ドイツ・ロシア・米国ものもあり、「フレンチ-コレクション」と言うのは「フランス語が母語の奏者をコレクション」したという意味なのか?まあ、演奏が良ければどうでもいいけど。
着席場所は、後方下手側である。客の入りは九割五分程である。観客の鑑賞態度は良好であり、拍手のタイミングが適切であった。
全般的に、三人の奏者それぞれが適切な自己主張をし、特に後半のヨンゲン・ドビュッシー・カーターの三曲については、パッションが自然に込められており、かつ完成度が高い演奏であり、非常に優れた演奏である。
ベルリン-フィルの演奏会に忙しい二人は、特にパユが譜面を注視しているのが目立ったが、それでもフルートの見せ場ではその技巧を見せつけ、特にカーターのソロは秀逸である。
ラングラメは、特に後半の出来が良い。
それにしてもケラスのチェロは絶品である。パワーがあることは当然だとしても、一音一音の響きが絶品である。高音部の軽やかさから低音部の深い音まで、ニュアンスで攻めると言うよりは、一音一音の音色で攻めると言うのが良いのだろうか。
お相手は、フルートとハープ、どちらも華やかな楽器だ。チェロの見せ場とあれば、この二つの楽器をバックに従えて朗々とした響きで観客を見事に弾きつける。決して、通奏低音の下支え的でもなく、伴奏的でもない、堂々と主役を演じられる所に、ケラスの傑出した才能が感じられる。間違いなく、世界最高のチェリストの一人である。
アンコールは、イベールの「二つの間奏曲」である。
終演後のサイン会場は、松本にしては異常に賑わい、女性の比率が高かったが、パユ派とケラス派、または両方の肉食派が並んでいたのか。ベルリン-フィルの来日公演直後であり、リハーサルの時間も長くは取れない中でも、これほどまでの内容で演奏できると言うのは、さすがベルリン-フィルの首席奏者と思い知らされる演奏会であった。
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