2015年8月30日 日曜日
Sunday 30th August 2015
松本市音楽文化ホール (長野県松本市)
The Harmony Hall (Matsumoto Municipal Concert Hall) (Matsumoto, Japan)
曲目:
Johann Sebastian Bach: Sonata per flauto e basso continuo BWV1035 (arranged for flute, cello and Harp by Jacques Zoon )(フルート-ソナタ)
flauto: Jacques Zoon / ジャック=ズーン
violoncello: Iseut Chuat / イズー=シュア
arpa: 吉野直子 / Yoshino Naoko
Fryderyk Chopin: Trio con pianoforte op.8 (arranged for flute, cello and Piano by Jacques Zoon )(ピアノ三重奏曲)
flauto: Jacques Zoon / ジャック=ズーン
violoncello: Iseut Chuat / イズー=シュア
pianoforte: 江口玲 Eguchi Akira
(休憩)
Aaron Copland: Fanfare for the Common Man (市民のためのファンファーレ)
Richard Strauss: Feierlicher Einzug der Ritter des Johanniter-Ordens (ヨハネ騎士修道会の荘重な入場)
Giuseppe Verdi: “la Traviata” preludio atto primo (「椿姫」から第一幕前奏曲)
Irish Forl Song: Londonderry Air (ロンドンデリーの歌)
John Williams --Special selection--
1. Main Title from “Superman”
2. The Imperial March from “Ster Wars : The Empire Strikes Back”
3. The Raiders March from “Raiders of the Lost Ark”
4. Main Title from “JFK”
5. The Throne Room and Finale from “the Star Wars” suite
ジョン=ウィリアムズ スペシャル-セレクション
1. スーパーマンのテーマ(映画「スーパーマン」から)
2. ダース=ベイダーのテーマ(インペリアル-マーチ)(映画「スター-ウォーズ 帝国の逆襲」より)
3. レイダース-マーチ(映画「レイダース 失われた聖櫃」より)
4. JFK プロローグ(メイン-タイトル)(映画「JFK」より)
5. 王座の間とエンド-タイトル(スター-ウォーズ組曲より)
tromba: Gábor Tarkövi, Karl Sodl, 高橋敦 / Takahashi Osamu, 服部孝也 / Hattori Takaya
corno: Radek Baborák, 阿部麿 / Abe Maro
trombone: Walter Voglmayr, 呉信一 / Go Shin-ichi, Randall Hawes
tuba: 杉山康人 / Sugiyama Yasuhito
timpani e percussioni: Don Liuzzi, 竹島悟史 / Takeshima Satoshi
サイトウ-キネン-フェスティバルは、今年も2015年8月9日から9月15日までに掛けて、松本市を中心に長野県内で歌劇・大管弦楽演奏会・室内楽演奏会・ジャズ演奏会・教育プログラムを繰り広げる。室内楽演奏会は「ふれあいコンサート」の名に於いて、2プログラム2公演、いずれも松本市音楽文化ホールにて演奏される。
なお、「セイジ-オザワ松本フェスティバル」の名称は、そもそもその名称への変更自体に正当性がなく、松本市民の私としては承認できないため、今後も一切用いず、従前通り「サイトウ-キネン-フェスティバル」の名称を用いる。
着席位置は最後方上手側、チケットは完売している。観客の鑑賞態度は、かなり良好であった。
今回の「ふれあいコンサートII」は、前半はクラシックの室内楽、後半は金管アンサンブルによるガラ-コンサートの形態を取る。後半に関しては映画音楽を演奏するなど、ポピュラー路線に振っているプログラムであるとも言える。どのような演奏会になるのだろう?
前半の二曲は、普通にいい演奏である。ジャック=ズーンとイズー=シュアの二人は、ピンク色の衣装を着ている。ショパンの第三楽章・第四楽章は良かったかな。
圧巻は後半の金管サンサンブルである。まさに世界最強の金管アンサンブルが、この松本市音楽文化ホールに現れた!
第一曲目のコープランドの作品から完璧な演奏である。完璧な響きでありテンポであり構成であり、パッションと様式の両方を満たす演奏だ。
完璧とはなんであろう?
第一点として、松本市音楽文化ホールは残響が長めで、かつ696席の中規模ホールであり、飽和点を適切に見極める必要がある。最強奏をどのくらいの音量とするべきかについて、飽和点ギリギリの点を的確に把握している。その点から逆算して、中音量・小音量の音量をシームレスに定義し、的確に音量をコントロールしている。
第二点として、響きが美しい。本拠としている出身楽団が違うと言うのに、12名金管・打楽器奏者の心が一致している。合奏精度は高く、ズレは全く感じられない。また、一人ひとりがどのように演奏すれば、ブレンドされてどのように聴衆に伝わるか、誰もが的確に認識している。ソロの響きも美しいが、トゥッティで演奏している時の響きも絶妙にブレンドされ、夢見るような響きとなるのだ。
第三点として、特定のスーパースターに依存する演奏ではない。Gábor Tarköviは案外控えめで、他のトランペット奏者に演奏させている時間が長かったが、誰もが的確な響きを産み出している。重ねて書くが、全員が心を一つにしている演奏であるのだ。
完璧な音楽とは、ホールの響きを知り、曲を深く理解し、個々の奏者がどのように演奏すればどのような響きになるか綿密に計算し、その通りに演奏する事である。その全てが決まっていたからこその、世界最強の金管アンサンブルである!!
曲目がクラシカルなリヒャルト=シュトラウスであろうと、ジョン=ウィリアムズの映画音楽であろうと、古典的様式美を完璧に満たしている。この古典的様式美が全ての基礎であり、その上にパッションを乗せる技術が、傑出した音楽を産み出すのだ
松本市音楽文化ホールでの公演では、2014年10月2日(Arcanto Quartett)以来の、即スタオベを、私は敢行した。
アンコール一曲目は「威風堂々」、二曲目は予定されていなかったが、観客半立ち(後方の観客がスタンディング-オベーションを行っていた)の熱狂に応え、「レイダース-マーチ」をもう一回演奏し、観客総立ちとなった!
演奏会終了後の観客の顔は、みんなどこか高揚した顔をしている。いい演奏会の後はいい顔をしているものであるが、違った顔をしている。どこかみんな冷静さを失い興奮し切っている。どれだけ凄い演奏を展開したかが分かるような顔だ。
1920年生まれのRobert Mann(ロバート=マン、ジュリアード弦楽四重奏団の奏者だった)が演奏していた時の、サイトウ-キネン-フェスティバル室内楽演奏会の黄金時代を取り戻した。サイトウ-キネンの室内楽演奏会で、観客総立ちのスタンディングオベーションが起こったのは、何年ぶりの事だったろうか?
2015年8月30日、日曜日、ふれあいコンサートII 、世界最高の金管アンサンブルは、 サイトウ-キネン-フェスティバルの歴史に残る名演を披露した。サイトウ-キネンに於ける歴史的名演である事に、疑いを持つ者は誰もいない!!松本市音楽文化ホールの響きを熟知し、完璧な計算による響きを見事に実現した!この歴史的名演は、私たち松本市民の誇りである、松本市音楽文化ホールの響きと、世界最高の演奏者たちによって成し遂げられた。 全ての演奏者たちに感謝と万歳を贈る。そして、音文万歳!松本市音楽文化ホール万歳!!
2015年8月30日日曜日
2015年8月28日金曜日
Saito Kinen Orchestra, Fabio Luisi , 28th August 2015 Concert, review サイトウ-キネン-オーケストラ+ファビオ=ルイージ 2015年8月28日演奏会 感想
2015年8月28日 金曜日
Friday 28th August 2015
長野県松本文化会館 (長野県松本市)
Nagano-ken Matsumoto Bunka Kaikan (Nagano Prefectural Matsumoto Theater)
(Matsumoto, Japan)
曲目:
Franz Joseph Haydn: Sinfonia n.82 Hob.I:82
(休憩)
Gustav Mahler: Sinfonia n.5
orchestra: Saito Kinen Orchestra(サイトウ-キネン-オーケストラ)
direttore: Fabio Luisi (指揮:ファビオ=ルイージ)
ファビオ=ルイージを指揮者に迎えて、2015年7月28日に長野県松本文化会館にて開催された。このプログラムによる演奏会は、この一回のみであった。
管弦楽配置は、舞台下手側から、第一ヴァイオリン→第二ヴァイオリン→ヴァイオリン-チェロ→ヴィオラのモダン配置で、コントラバスはチェロの後方につく。木管パートは後方中央、ホルンは後方下手側、その他の金管は後方中央から上手側、ティンパニは後方中央、ハープは下手側の位置につく。
着席位置は二階正面やや上手側最前方、チケットは僅かに完売には至らなかったが、ほぼ満席である。観客の鑑賞態度は、二階で飴の包み紙の音が若干あった以外は、極めて良好であった。
ハイドン82番の、弱奏部で「大ホールのハイドン」となる箇所こそあれ、全般的には、この音響が劣悪の長野県松本文化会館をものともしない演奏だ。このホールにしては驚異的な響きであり、これ以上は望めない。松本市音楽文化ホールでやってくれたら、弱奏部も迫る響きだ。
ハイドンでファビオ=ルイージは奇を衒う事をせず、この箇所ではこの響きでないといけないと言うことを、説得力を持って示している。緊張感を伴う構成力は見事だ。
弦楽はパッションが込められている。ハイドンが仕掛けた数々の仕掛けを的確なニュアンスとともに、ルイージの構成力の下で完璧な響きで圧倒する。
管弦楽の明確な意図は、長野県松本文化会館の劣悪な響きに阻まれる時でさえ、意図を理解することが出来る。それだけに、大管弦楽向けにこのような演奏会場しか提供できない事を、松本市民として、長野県民として恥じるばかりだ。意図を理解出来るが響きとして観客に迫れないのは、全面的にホールの責任であり、もどかしい思いで弱奏部は聴いていた。
一方で後半の、マーラーの5番は、もちろん見事な個人技が聴けたし、部分的に素晴らしい箇所はあったけど、私にとっては不完全燃焼である。ブラボーの数も多く、スタンディング-オベーションを送っている観客もいた。何か、取り残された気持ちで、あっさりと会場を後にした。私は変わり者なのか、偏屈なのかと思いながら。
しかしながら、誰が何と言おうが私にとっては、全体的な完成度はハイドンの方がずっと良かった。
もちろん、タルコヴィのトランペット、バボラークのホルン、いずれもも素晴らしい。(バボラークのホルンは柔らかい響きが特色であり、今回はその特色は出ていなかったが、これは曲想上の問題であり、バボラークの責任ではない)
しかし、私にとっては、やはりどこか違っていた。
マーラーよりも、ずっとずっとハイドンの方が弦楽が好みだった事もあるかもしれない。マーラーの弦楽のスカスカ感があったのは、確かに私の好みではない。ハイドンよりも弦楽の数が多いのに、ハイドンよりも響いていない印象が強い。第四楽章では、そのスカスカ感はなかったけれど。吹奏楽ファンにとっては素晴らしかったに違いないけど。。
作曲家としてのハイドンの完璧さと、マーラーの不完全さが露わになってしまったのかなあ。
ルイージとハイドンとの相性は完璧で、その完璧さをマーラーにまで求めた私が間違っているのかもしれないけれど、あのマーラーはルイージらしくはなかった。
ハイドンではルイージが仕掛けた箇所はバッチリ決まっているけど、マーラーでの仕掛けはどこかチギハグな印象で、作為的との感想を抱かざるを得ない。
ルイージにとって、ハイドンについての解釈は深いレベルまで完璧だったけど、マーラーについてはどうだったのだろう?
ハイドンでの完璧さが崩れさっていくのを聴くのは、正直ちょっと辛かった。
松本市音楽文化ホールで、ハイドン・モーツァルト・前期シューベルトのプログラムだったら、完璧なプログラムだったのだろうな。うーむ。
Friday 28th August 2015
長野県松本文化会館 (長野県松本市)
Nagano-ken Matsumoto Bunka Kaikan (Nagano Prefectural Matsumoto Theater)
(Matsumoto, Japan)
曲目:
Franz Joseph Haydn: Sinfonia n.82 Hob.I:82
(休憩)
Gustav Mahler: Sinfonia n.5
orchestra: Saito Kinen Orchestra(サイトウ-キネン-オーケストラ)
direttore: Fabio Luisi (指揮:ファビオ=ルイージ)
ファビオ=ルイージを指揮者に迎えて、2015年7月28日に長野県松本文化会館にて開催された。このプログラムによる演奏会は、この一回のみであった。
管弦楽配置は、舞台下手側から、第一ヴァイオリン→第二ヴァイオリン→ヴァイオリン-チェロ→ヴィオラのモダン配置で、コントラバスはチェロの後方につく。木管パートは後方中央、ホルンは後方下手側、その他の金管は後方中央から上手側、ティンパニは後方中央、ハープは下手側の位置につく。
着席位置は二階正面やや上手側最前方、チケットは僅かに完売には至らなかったが、ほぼ満席である。観客の鑑賞態度は、二階で飴の包み紙の音が若干あった以外は、極めて良好であった。
ハイドン82番の、弱奏部で「大ホールのハイドン」となる箇所こそあれ、全般的には、この音響が劣悪の長野県松本文化会館をものともしない演奏だ。このホールにしては驚異的な響きであり、これ以上は望めない。松本市音楽文化ホールでやってくれたら、弱奏部も迫る響きだ。
ハイドンでファビオ=ルイージは奇を衒う事をせず、この箇所ではこの響きでないといけないと言うことを、説得力を持って示している。緊張感を伴う構成力は見事だ。
弦楽はパッションが込められている。ハイドンが仕掛けた数々の仕掛けを的確なニュアンスとともに、ルイージの構成力の下で完璧な響きで圧倒する。
管弦楽の明確な意図は、長野県松本文化会館の劣悪な響きに阻まれる時でさえ、意図を理解することが出来る。それだけに、大管弦楽向けにこのような演奏会場しか提供できない事を、松本市民として、長野県民として恥じるばかりだ。意図を理解出来るが響きとして観客に迫れないのは、全面的にホールの責任であり、もどかしい思いで弱奏部は聴いていた。
一方で後半の、マーラーの5番は、もちろん見事な個人技が聴けたし、部分的に素晴らしい箇所はあったけど、私にとっては不完全燃焼である。ブラボーの数も多く、スタンディング-オベーションを送っている観客もいた。何か、取り残された気持ちで、あっさりと会場を後にした。私は変わり者なのか、偏屈なのかと思いながら。
しかしながら、誰が何と言おうが私にとっては、全体的な完成度はハイドンの方がずっと良かった。
もちろん、タルコヴィのトランペット、バボラークのホルン、いずれもも素晴らしい。(バボラークのホルンは柔らかい響きが特色であり、今回はその特色は出ていなかったが、これは曲想上の問題であり、バボラークの責任ではない)
しかし、私にとっては、やはりどこか違っていた。
マーラーよりも、ずっとずっとハイドンの方が弦楽が好みだった事もあるかもしれない。マーラーの弦楽のスカスカ感があったのは、確かに私の好みではない。ハイドンよりも弦楽の数が多いのに、ハイドンよりも響いていない印象が強い。第四楽章では、そのスカスカ感はなかったけれど。吹奏楽ファンにとっては素晴らしかったに違いないけど。。
作曲家としてのハイドンの完璧さと、マーラーの不完全さが露わになってしまったのかなあ。
ルイージとハイドンとの相性は完璧で、その完璧さをマーラーにまで求めた私が間違っているのかもしれないけれど、あのマーラーはルイージらしくはなかった。
ハイドンではルイージが仕掛けた箇所はバッチリ決まっているけど、マーラーでの仕掛けはどこかチギハグな印象で、作為的との感想を抱かざるを得ない。
ルイージにとって、ハイドンについての解釈は深いレベルまで完璧だったけど、マーラーについてはどうだったのだろう?
ハイドンでの完璧さが崩れさっていくのを聴くのは、正直ちょっと辛かった。
松本市音楽文化ホールで、ハイドン・モーツァルト・前期シューベルトのプログラムだったら、完璧なプログラムだったのだろうな。うーむ。
2015年8月27日木曜日
Saito Kinen Festival Matsumoto 2015, Opera ‘Béatrice et Bénédict’ review サイトウ-キネン-フェスティバル 歌劇「ベアトリスとベネディクト」 感想
2015年8月27日 木曜日
Thursday 27th August 2015
まつもと市民芸術館 (長野県松本市)
Matsumoto Performing Arts Centre (Matsumoto, Japan)
演目:
Hector Berlioz: Opera ‘Béatrice et Bénédict’
エクトル=ベルリオーズ 歌劇「ベアトリスとベネディクト」
Beatrice: Marie Lenormand (マリー=ルノルマン)
Benedict: Jean-François Borras (ジャン-フランソワ=ボラス)
Hero: Lydia Teuscher (リディア=トイシャー)
Claudio: Edwin Crossley-Mercer (エドウィン=クロスリー-マーサー)
Don Pedro: Paul Gay (ポール=ガイ)
Somarone: Jean-Philippe Lafont (ジャン-フィリップ=ラフォン)
Ursule: Karen Cargill (キャレン=カーギル)
Leonato: Christian Gonon (クリスティアン=ゴノン)
A Messenger / Notary: Vincent Joncquez (ヴァンサン=ジョンケ)
Coro: Saito Kinen Festival Matsumoto Chorus (合唱:サイトウ-キネン-フェスティバル松本合唱団)
Director: Côme de Bellescize (演出:コム=ドゥ-ベルシーズ)
Set design: Sigolène de Chassy(装置:シゴレーヌ=ドゥ-シャシィ)
Costumes design: Colombe Lauriot-Prévost (衣裳:コロンブ=ロリオ-プレヴォ)
Lighting design: Thomas Costerg (照明:トマ=コステール)
Video Images: Ishrann Silgidjian (映像:イシュラン=シルギジアン)
orchestra: Saito Kinen Orchestra (管弦楽:サイトウ-キネン-オーケストラ)
direttore: Gil Rose (指揮:ギル=ローズ)
サイトウ-キネン-フェスティバル実行委員会は、2015年8月24日から8月29日までの日程で、エクトル=ベルリオーズ歌劇「ベアトリスとベネディクト」を、まつもと市民芸術館にて3公演上演する。この評は2015年8月27日に催された第二回目の公演に対するものである。
当初予定されていた、指揮の小澤征爾(Ozawa Seiji)、ベアトリス役のVirginie Verrez(ヴィルジニー=ヴェレーズ)は、それぞれ負傷・病気のため降板した。
着席位置は一階最前方ほぼ中央である。チケットはこの日の公演のみ当日券発売をしており、当日券対応となる。サイトウ-キネン-フェスティバルが主催者も観客も小澤征爾頼みであることを反映している。小澤征爾が引退した時に、サイトウ-キネン-フェスティバルはなくなる見解に変わりはない。観客の鑑賞態度は良好であった。
舞台は伝統的なものであり、衣装を含めて前衛的な要素は何一つない、正統的なものだ。昨年同様に、舞台で観客の目を眩ます事はせず、音のみで勝負する形態である。但し、照明・映像を用い方については効果的で、朝から夜までの時間を的確に舞台上に表出している。下手側に、中央から上手側からしか見れない視覚となる箇所にも舞台はあるが、基本的に物語の中心となる部分がその箇所で演じられる事はなく、背景として用いられている。
ソリストの出来について述べる。
主要ソリストは、ベアトリス役のマリー=ルノルマン以外全てが素晴らしい。
エロー役のリディア=トイシャーは、見栄えも声も可憐で、第一幕の装飾音から決めてくる。リディア=トイシャーとウルスル役キャレン=カーギルによる、第一幕終盤の二重唱は完璧な繊細さを伴う響きで表現される。管弦楽の見事な弱奏に支えられた夢見るような時間だ。
楽団指揮者ソマローネ役のジャン-フィリップ=ラフォンは傑出した素晴らしさである。圧倒的な声量と諧謔に満ちた演技で、強烈なアクセントを添えるあの最強合唱団との掛け合いも傑出していた。
ベネディクト役のジャン-フランソワ=ポラスも、主役の一人として、確実な声量を伴いつつ、よく通る声で圧倒した。あの声で口説かれたら、女性たちはメロメロだろう♪
ベアトリス役のマリー=ルノルマンは、カルメンのような強烈な女が「愛の犠牲者」になるところが肝であるので、何よりもパワーが必要となるが、その点に欠けていた。急遽降板した歌い手の代役であり、しょうがないかという感じだ。
次に、合唱について述べる。
第一幕では、合唱団の練習風景も素晴らしい。声量は圧倒的で、音程が合っているような違っているような、上手いのか下手なのか分からない合唱が面白い。
第二幕では、酔っ払った場面の弾けぶりから凄過ぎで、合唱団の方々の飲み会の騒がしさを想像するに、恐ろしい気持ちになる程である。
一方で、バンダで結婚のお誘いをする場面は、静かな歓びに満ちた、繊細な表現に転ずる。
最後の最強唱も素晴らしい完成度で、これ以上は望めない。ベアトリスとベネディクトが結婚を決意した際の、はやし立てる「ヒュー」もお見事である。
管弦楽について述べる。
管弦楽は実に的確な響きで基盤を構築する。この場面ではこの響きと、求められている響きが見事に実現される。弱奏部が繊細でありながら確実に響き、ギターの箇所や第一幕終盤の二重唱で、見事に活きる。サイトウ-キネン-オーケストラの実力はもちろんのこと、指揮を担当したギル=ローズの構成力の賜物だ。
総合して、サイトウ-キネン-フェスティバルに相応しい素晴らしい水準である。日本で望み得る最高の出来で、歌い手・管弦楽・指揮者が三位一体となって、この まつもと市民芸術館 の素晴らしいインフラの上に、結実させたと言える。
幸せな高揚感で劇場を後にする「ベアトリスとベネディクト」であった。
Thursday 27th August 2015
まつもと市民芸術館 (長野県松本市)
Matsumoto Performing Arts Centre (Matsumoto, Japan)
演目:
Hector Berlioz: Opera ‘Béatrice et Bénédict’
エクトル=ベルリオーズ 歌劇「ベアトリスとベネディクト」
Beatrice: Marie Lenormand (マリー=ルノルマン)
Benedict: Jean-François Borras (ジャン-フランソワ=ボラス)
Hero: Lydia Teuscher (リディア=トイシャー)
Claudio: Edwin Crossley-Mercer (エドウィン=クロスリー-マーサー)
Don Pedro: Paul Gay (ポール=ガイ)
Somarone: Jean-Philippe Lafont (ジャン-フィリップ=ラフォン)
Ursule: Karen Cargill (キャレン=カーギル)
Leonato: Christian Gonon (クリスティアン=ゴノン)
A Messenger / Notary: Vincent Joncquez (ヴァンサン=ジョンケ)
Coro: Saito Kinen Festival Matsumoto Chorus (合唱:サイトウ-キネン-フェスティバル松本合唱団)
Director: Côme de Bellescize (演出:コム=ドゥ-ベルシーズ)
Set design: Sigolène de Chassy(装置:シゴレーヌ=ドゥ-シャシィ)
Costumes design: Colombe Lauriot-Prévost (衣裳:コロンブ=ロリオ-プレヴォ)
Lighting design: Thomas Costerg (照明:トマ=コステール)
Video Images: Ishrann Silgidjian (映像:イシュラン=シルギジアン)
orchestra: Saito Kinen Orchestra (管弦楽:サイトウ-キネン-オーケストラ)
direttore: Gil Rose (指揮:ギル=ローズ)
サイトウ-キネン-フェスティバル実行委員会は、2015年8月24日から8月29日までの日程で、エクトル=ベルリオーズ歌劇「ベアトリスとベネディクト」を、まつもと市民芸術館にて3公演上演する。この評は2015年8月27日に催された第二回目の公演に対するものである。
当初予定されていた、指揮の小澤征爾(Ozawa Seiji)、ベアトリス役のVirginie Verrez(ヴィルジニー=ヴェレーズ)は、それぞれ負傷・病気のため降板した。
着席位置は一階最前方ほぼ中央である。チケットはこの日の公演のみ当日券発売をしており、当日券対応となる。サイトウ-キネン-フェスティバルが主催者も観客も小澤征爾頼みであることを反映している。小澤征爾が引退した時に、サイトウ-キネン-フェスティバルはなくなる見解に変わりはない。観客の鑑賞態度は良好であった。
舞台は伝統的なものであり、衣装を含めて前衛的な要素は何一つない、正統的なものだ。昨年同様に、舞台で観客の目を眩ます事はせず、音のみで勝負する形態である。但し、照明・映像を用い方については効果的で、朝から夜までの時間を的確に舞台上に表出している。下手側に、中央から上手側からしか見れない視覚となる箇所にも舞台はあるが、基本的に物語の中心となる部分がその箇所で演じられる事はなく、背景として用いられている。
ソリストの出来について述べる。
主要ソリストは、ベアトリス役のマリー=ルノルマン以外全てが素晴らしい。
エロー役のリディア=トイシャーは、見栄えも声も可憐で、第一幕の装飾音から決めてくる。リディア=トイシャーとウルスル役キャレン=カーギルによる、第一幕終盤の二重唱は完璧な繊細さを伴う響きで表現される。管弦楽の見事な弱奏に支えられた夢見るような時間だ。
楽団指揮者ソマローネ役のジャン-フィリップ=ラフォンは傑出した素晴らしさである。圧倒的な声量と諧謔に満ちた演技で、強烈なアクセントを添えるあの最強合唱団との掛け合いも傑出していた。
ベネディクト役のジャン-フランソワ=ポラスも、主役の一人として、確実な声量を伴いつつ、よく通る声で圧倒した。あの声で口説かれたら、女性たちはメロメロだろう♪
ベアトリス役のマリー=ルノルマンは、カルメンのような強烈な女が「愛の犠牲者」になるところが肝であるので、何よりもパワーが必要となるが、その点に欠けていた。急遽降板した歌い手の代役であり、しょうがないかという感じだ。
次に、合唱について述べる。
第一幕では、合唱団の練習風景も素晴らしい。声量は圧倒的で、音程が合っているような違っているような、上手いのか下手なのか分からない合唱が面白い。
第二幕では、酔っ払った場面の弾けぶりから凄過ぎで、合唱団の方々の飲み会の騒がしさを想像するに、恐ろしい気持ちになる程である。
一方で、バンダで結婚のお誘いをする場面は、静かな歓びに満ちた、繊細な表現に転ずる。
最後の最強唱も素晴らしい完成度で、これ以上は望めない。ベアトリスとベネディクトが結婚を決意した際の、はやし立てる「ヒュー」もお見事である。
管弦楽について述べる。
管弦楽は実に的確な響きで基盤を構築する。この場面ではこの響きと、求められている響きが見事に実現される。弱奏部が繊細でありながら確実に響き、ギターの箇所や第一幕終盤の二重唱で、見事に活きる。サイトウ-キネン-オーケストラの実力はもちろんのこと、指揮を担当したギル=ローズの構成力の賜物だ。
総合して、サイトウ-キネン-フェスティバルに相応しい素晴らしい水準である。日本で望み得る最高の出来で、歌い手・管弦楽・指揮者が三位一体となって、この まつもと市民芸術館 の素晴らしいインフラの上に、結実させたと言える。
幸せな高揚感で劇場を後にする「ベアトリスとベネディクト」であった。
2015年8月23日日曜日
Saito Kinen Festival 2015, Chamber Concert I , review サイトウ-キネン-フェスティバル ふれあいコンサートI (室内楽演奏会I) 感想
2015年8月23日 日曜日
Sunday 23th August 2015
松本市音楽文化ホール (長野県松本市)
The Harmony Hall (Matsumoto Municipal Concert Hall) (Matsumoto, Japan)
曲目:
Ottmar Gerster: Capriccietto per quattro timpani e orchestra d'archi (4つのティンパニと弦楽のためのカプリチエット)
timpani: Roland Altmann
orchestra: Saito Kinen Orchestra String Ensemble
Joseph Schwantner: Velocities (moto perpetuo)
marimba: 竹島悟史 / Takeshima Satoshi
Jacob ter Veldhuis: Goldrush
Percussione: 竹島悟史 / Takeshima Satoshi, 藤本隆文 / Fujimoto Takafumi
(休憩)
Franz Schubert: Ottetto in fa maggiore D803
violino: 竹澤恭子 Takezawa Kyoko/ , 会田莉凡 / Aida Ribon
viola: 今井信子 / Imai Nobuko
violoncello: 辻本玲 / Tsujimoto Rei
contrabbasso: 池松宏 / Ikematsu Hiroshi
clarinetto: Charles Neidich
fagotto: Marc Goldberg
corno: Julia Pilant
サイトウ-キネン-フェスティバルは、今年も2015年8月9日から9月15日までに掛けて、松本市を中心に長野県内で歌劇・大管弦楽演奏会・室内楽演奏会・ジャズ演奏会・教育プログラムを繰り広げる。室内楽演奏会は「ふれあいコンサート」の名に於いて、2プログラム2公演、いずれも松本市音楽文化ホールにて演奏される。
なお、「セイジ-オザワ松本フェスティバル」の名称は、そもそもその名称への変更自体に正当性がなく、松本市民の私としては承認できないため、今後も一切用いず、従前通り「サイトウ-キネン-フェスティバル」の名称を用いる。
着席位置は最後方下手側、チケットは完売している。観客の鑑賞態度は、ごく少数の人たちによる飴の包み紙の音さえ無ければ、かなり良かった。
演奏について述べる。
第一曲目ゲルスターのカプリチェットは、弦楽セクションは控えめでアルトマンの独擅場の感じである。弦楽が弱く聴こえたのは、下手側だったせいか?チケット確保の制約により止むを得ずその場所にしたが。
この曲は、2015年5月に水戸室内管弦楽団第93回定期演奏会にて、既に演奏されている。ひょっとすると、既に演奏したかなり小容積の水戸芸術館の響きが影響していたのかもしれない。室容積が大きい松本市音楽文化ホールへ適応する時間が少し足りなかったのか?
二曲目の「ヴェロシティーズ」・三曲目の「ゴールドラッシュ」は、ソロ、あるいはデュオであり、バランスがよく取れた素晴らしい出来だ。
後半は、シューベルトの八重奏曲、D803 である。冒頭から弦楽と管楽とがバラバラで、テンションが萎える。管楽が響かせ過ぎる一方で弦楽が鳴らない。クラリネット・ホルンは、2000名希望の多目的ホールのような演奏をしていて、耳を悪くしそうな音量だ。しかし、弦楽の対抗力があまりに弱く、そもそも、きちんとしたサウンドチェックを行っているのか、疑問に感じざるを得ない。
弦楽の弱さについては、竹澤恭子が犯人だと判明する。第一楽章では、第二Vnの会田莉凡ちゃんが、ほんの一小節か二小節で前に出ているけれど、竹澤恭子はこれに応えない。クラリネット・ホルンの音量が大き過ぎた一方で、竹澤恭子は何の対抗も出来なかった。
クラリネット・ホルンは、楽章が進むにつれ、明らかに響きを変え、弦楽とある程度調和させてきた。これにより、第一楽章でのバラバラな印象は薄らいだ。
しかし、竹澤恭子は、特に音の多い箇所で十分に響かせず、弱音の音色の美しさで攻めている訳でもなく(弱音の響きは全く綺麗ではなく、説得力がない)、音符がきちんと刻まれずに曖昧にしか聴こえず(私が最も嫌う奏法である)、何をしたいのか理解に苦しむ演奏だ。こんな感じだったら、若手のリボンちゃんに第一ヴァイオリンを譲った方が良かっただろう。若手らしく、怖いもの知らずに思い切って行かせた方が、断然面白くなったろうに。
それにしても、何度、竹澤恭子によってブレーキを掛けられたか!第一ヴァイオリンよりもチェロの方が響く事態は、異常事態だ。それでも、最終楽章でのニュアンスを掛けた箇所だけは、竹澤恭子の意地を見せたか?
チェロはよく響いた。チェロ奏者も周囲の奏者も、その点の配慮を行き渡らせたのだろう。ヴィオラの今井信子さんは、最終楽章で的確な響きで出てくる場面はさすがである。これらの場面の演奏は素晴らしい箇所である。
アンコールはなかった。
Sunday 23th August 2015
松本市音楽文化ホール (長野県松本市)
The Harmony Hall (Matsumoto Municipal Concert Hall) (Matsumoto, Japan)
曲目:
Ottmar Gerster: Capriccietto per quattro timpani e orchestra d'archi (4つのティンパニと弦楽のためのカプリチエット)
timpani: Roland Altmann
orchestra: Saito Kinen Orchestra String Ensemble
Joseph Schwantner: Velocities (moto perpetuo)
marimba: 竹島悟史 / Takeshima Satoshi
Jacob ter Veldhuis: Goldrush
Percussione: 竹島悟史 / Takeshima Satoshi, 藤本隆文 / Fujimoto Takafumi
(休憩)
Franz Schubert: Ottetto in fa maggiore D803
violino: 竹澤恭子 Takezawa Kyoko/ , 会田莉凡 / Aida Ribon
viola: 今井信子 / Imai Nobuko
violoncello: 辻本玲 / Tsujimoto Rei
contrabbasso: 池松宏 / Ikematsu Hiroshi
clarinetto: Charles Neidich
fagotto: Marc Goldberg
corno: Julia Pilant
サイトウ-キネン-フェスティバルは、今年も2015年8月9日から9月15日までに掛けて、松本市を中心に長野県内で歌劇・大管弦楽演奏会・室内楽演奏会・ジャズ演奏会・教育プログラムを繰り広げる。室内楽演奏会は「ふれあいコンサート」の名に於いて、2プログラム2公演、いずれも松本市音楽文化ホールにて演奏される。
なお、「セイジ-オザワ松本フェスティバル」の名称は、そもそもその名称への変更自体に正当性がなく、松本市民の私としては承認できないため、今後も一切用いず、従前通り「サイトウ-キネン-フェスティバル」の名称を用いる。
着席位置は最後方下手側、チケットは完売している。観客の鑑賞態度は、ごく少数の人たちによる飴の包み紙の音さえ無ければ、かなり良かった。
演奏について述べる。
第一曲目ゲルスターのカプリチェットは、弦楽セクションは控えめでアルトマンの独擅場の感じである。弦楽が弱く聴こえたのは、下手側だったせいか?チケット確保の制約により止むを得ずその場所にしたが。
この曲は、2015年5月に水戸室内管弦楽団第93回定期演奏会にて、既に演奏されている。ひょっとすると、既に演奏したかなり小容積の水戸芸術館の響きが影響していたのかもしれない。室容積が大きい松本市音楽文化ホールへ適応する時間が少し足りなかったのか?
二曲目の「ヴェロシティーズ」・三曲目の「ゴールドラッシュ」は、ソロ、あるいはデュオであり、バランスがよく取れた素晴らしい出来だ。
後半は、シューベルトの八重奏曲、D803 である。冒頭から弦楽と管楽とがバラバラで、テンションが萎える。管楽が響かせ過ぎる一方で弦楽が鳴らない。クラリネット・ホルンは、2000名希望の多目的ホールのような演奏をしていて、耳を悪くしそうな音量だ。しかし、弦楽の対抗力があまりに弱く、そもそも、きちんとしたサウンドチェックを行っているのか、疑問に感じざるを得ない。
弦楽の弱さについては、竹澤恭子が犯人だと判明する。第一楽章では、第二Vnの会田莉凡ちゃんが、ほんの一小節か二小節で前に出ているけれど、竹澤恭子はこれに応えない。クラリネット・ホルンの音量が大き過ぎた一方で、竹澤恭子は何の対抗も出来なかった。
クラリネット・ホルンは、楽章が進むにつれ、明らかに響きを変え、弦楽とある程度調和させてきた。これにより、第一楽章でのバラバラな印象は薄らいだ。
しかし、竹澤恭子は、特に音の多い箇所で十分に響かせず、弱音の音色の美しさで攻めている訳でもなく(弱音の響きは全く綺麗ではなく、説得力がない)、音符がきちんと刻まれずに曖昧にしか聴こえず(私が最も嫌う奏法である)、何をしたいのか理解に苦しむ演奏だ。こんな感じだったら、若手のリボンちゃんに第一ヴァイオリンを譲った方が良かっただろう。若手らしく、怖いもの知らずに思い切って行かせた方が、断然面白くなったろうに。
それにしても、何度、竹澤恭子によってブレーキを掛けられたか!第一ヴァイオリンよりもチェロの方が響く事態は、異常事態だ。それでも、最終楽章でのニュアンスを掛けた箇所だけは、竹澤恭子の意地を見せたか?
チェロはよく響いた。チェロ奏者も周囲の奏者も、その点の配慮を行き渡らせたのだろう。ヴィオラの今井信子さんは、最終楽章で的確な響きで出てくる場面はさすがである。これらの場面の演奏は素晴らしい箇所である。
アンコールはなかった。
2015年8月11日火曜日
国立劇場おきなわ 県外公演 「琉球フェスタ in 川越」 感想
2015年8月8日 土曜日
ウェスタ川越 (埼玉県川越市)
演目:
・組踊公演「二童敵討」
・三線音楽「うた・さんしん」
・うちなーミュージカル公演 「かりゆし・かりゆし~恋するシーサー~」
出演:
・組踊公演「二童敵討」
[配役]
あまをへ:宇座仁一
亀千代:玉城匠
鶴松:西門悠
供一:川満香多
供二:伊野波盛人
供三:阿嘉修
母:真境名律弘
きょうちゃこ持ち:大浜暢明
[地謡]
(歌三線)玉城正治・上原睦三・玉城和樹
(箏)新垣和代子(笛)入嵩西諭(胡弓)森田夏子(太鼓)高宮城実人
・三線音楽「うた・さんしん」
[宮廷音楽の世界]
古典音楽斉唱「かぎやで風節・揚作田節」 (踊り手) 宇座仁一
若衆踊「四季口説」 (踊り手) 喜納彩華 玉城知世
二才踊「前の浜」 (踊り手) 伊野波盛人
女踊「天川」 (踊り手) 真境名律弘
古典音楽独唱 「二揚仲風節」 (歌三線) 玉城正治
[島々のうた]
宮古島のうた (歌三線) 川満香多
八重山諸島のうた (歌三線) 入髙西諭
沖縄本島のうた (歌三線) 仲村逸夫 島袋奈美
(踊り手) 西門悠雅 玉城知世 喜納彩華
雑踊「加那よー天川」 (踊り手) 阿嘉修 小嶺和佳子
(地謡)
(歌三線)上原睦三・仲村逸夫・玉城和樹
(箏)新垣和代子 (笛)入髙西諭 (胡弓)森田夏子 (太鼓)川満香多
・うちなーミュージカル公演 「かりゆし・かりゆし~恋するシーサー~」
シーサー(夫)・人間(女):小嶺和佳子
シーサー(妻)・人間(男):玉城匠
(地謡)髙宮城実人・玉城和樹・入髙西諭・森田夏子・島袋奈美・新垣和代子
(後見)川満香多・大浜暢明・喜納彩華・玉城知世
(脚本・演出)嘉数道彦
(振り付け)阿嘉修
(音楽)仲村逸夫
国立劇場おきなわ は、2015年8月7日から8月9日に掛けて、「琉球フェスタ」を、竣工間もないウェスタ川越にて「開館記念公演」の一環として上演した。国立劇場おきなわ の沖縄県外公演の機会は少ないので、貴重な機会である。7日は前夜祭、8・9日が本公演である。本公演は13時から21時頃まで掛けて、古典からコンテンポラリーまで幅広いジャンルの琉球舞踊を展開した。この感想は、8月8日公演のものである。なお、この公演は沖縄県文化観光戦略推進事業の助成を受けている。
着席位置はど真ん中やや前方。客の入りは3割弱であろうか、二階席・三階席は閉鎖、観客の鑑賞態度は、若干のノイズと公演中の入退場があった。29列まである一階席は、22列目に音響調整卓を置いていて、その前方に観客がいる形であるが、当然左右両端には空席が目立った。
「かりゆし・かりゆし~恋するシーサー~」では観客の数が200名規模で、苦笑してしまうほどのガラ空き状態である。
この客席の状況は妥当で、誰かの努力不足だとか、そんな問題ではなく、そもそもウェスタ川越の1700名規模のホールが大き過ぎる。国立劇場おきなわ の張り出し舞台時の席数は600名弱、東京から離れた川越での公演、琉球舞踊に対する関心を持っている人たちの少なさを考えれば、これだけ集まればいい数字である。
組踊「二童敵討」は、張り出し舞台の形であるが、舞台の上に張り出し舞台を載せた形で、本拠地と同様に客席に張り出す形にならなかったのは残念であるが、アウェイ公演でもあり止むを得ないか。
演目の性格上、踊りの見所が少なめであり、初めて組踊を観る観客を対象とするには、刺激が足りないかもしれない。本年1月に上演した「辺戸の大主」にしておいた方が、ストーリー性はないけれど、純舞踊的要素としては圧倒的に面白いような気はする。
三線音楽「うた・さんしん」と合わせ、宮廷舞踊であれ雑踊であれ、様式美を満たしているように思えた。歌と楽器とのバランスが概して取れていたため、声量の小ささは感じられなかった。[島々のうた]でのみ、生音でなく電気的に増幅を掛けていたかもしれない。
このような事を書いたら怒られるかもしれないが、実のところ、現代琉球舞踊劇「かりゆし-かりゆし-恋するシーサー」が一番好みであった。2014年3月3日に初演になったばかりの、伝統のない現代演目であり、意外な結果であったのだけれど。
沖縄県文化観光戦略推進事業の補助金を受け、2014年3月と2015年3月に国立劇場おきなわ小劇場でそれぞれ四公演上演され、第9公演目にしてようやく本土での公演となった。
国立劇場おきなわ の芸術監督である嘉数道彦による脚本・演出である。
伝統と現代を組み合わせたり、琉球語と共通語を対比させたりするのが巧妙だ。歌も踊りも完成度が高い。伝統的な琉球の楽器を用いたのは効果的である。楽器と舞踊についてはブレずに伝統路線を堅持したのは正解である。ストーリーの構成も無理がない展開である。人間ではそのままであるが、シーサーでは夫を女性が演じ、妻を男性が演じたのも面白い。
伝統を知り尽くした嘉数道彦ならではの、初心者向けとは侮れない、実に素晴らしい作品であった。
ウェスタ川越 (埼玉県川越市)
演目:
・組踊公演「二童敵討」
・三線音楽「うた・さんしん」
・うちなーミュージカル公演 「かりゆし・かりゆし~恋するシーサー~」
出演:
・組踊公演「二童敵討」
[配役]
あまをへ:宇座仁一
亀千代:玉城匠
鶴松:西門悠
供一:川満香多
供二:伊野波盛人
供三:阿嘉修
母:真境名律弘
きょうちゃこ持ち:大浜暢明
[地謡]
(歌三線)玉城正治・上原睦三・玉城和樹
(箏)新垣和代子(笛)入嵩西諭(胡弓)森田夏子(太鼓)高宮城実人
・三線音楽「うた・さんしん」
[宮廷音楽の世界]
古典音楽斉唱「かぎやで風節・揚作田節」 (踊り手) 宇座仁一
若衆踊「四季口説」 (踊り手) 喜納彩華 玉城知世
二才踊「前の浜」 (踊り手) 伊野波盛人
女踊「天川」 (踊り手) 真境名律弘
古典音楽独唱 「二揚仲風節」 (歌三線) 玉城正治
[島々のうた]
宮古島のうた (歌三線) 川満香多
八重山諸島のうた (歌三線) 入髙西諭
沖縄本島のうた (歌三線) 仲村逸夫 島袋奈美
(踊り手) 西門悠雅 玉城知世 喜納彩華
雑踊「加那よー天川」 (踊り手) 阿嘉修 小嶺和佳子
(地謡)
(歌三線)上原睦三・仲村逸夫・玉城和樹
(箏)新垣和代子 (笛)入髙西諭 (胡弓)森田夏子 (太鼓)川満香多
・うちなーミュージカル公演 「かりゆし・かりゆし~恋するシーサー~」
シーサー(夫)・人間(女):小嶺和佳子
シーサー(妻)・人間(男):玉城匠
(地謡)髙宮城実人・玉城和樹・入髙西諭・森田夏子・島袋奈美・新垣和代子
(後見)川満香多・大浜暢明・喜納彩華・玉城知世
(脚本・演出)嘉数道彦
(振り付け)阿嘉修
(音楽)仲村逸夫
国立劇場おきなわ は、2015年8月7日から8月9日に掛けて、「琉球フェスタ」を、竣工間もないウェスタ川越にて「開館記念公演」の一環として上演した。国立劇場おきなわ の沖縄県外公演の機会は少ないので、貴重な機会である。7日は前夜祭、8・9日が本公演である。本公演は13時から21時頃まで掛けて、古典からコンテンポラリーまで幅広いジャンルの琉球舞踊を展開した。この感想は、8月8日公演のものである。なお、この公演は沖縄県文化観光戦略推進事業の助成を受けている。
着席位置はど真ん中やや前方。客の入りは3割弱であろうか、二階席・三階席は閉鎖、観客の鑑賞態度は、若干のノイズと公演中の入退場があった。29列まである一階席は、22列目に音響調整卓を置いていて、その前方に観客がいる形であるが、当然左右両端には空席が目立った。
「かりゆし・かりゆし~恋するシーサー~」では観客の数が200名規模で、苦笑してしまうほどのガラ空き状態である。
この客席の状況は妥当で、誰かの努力不足だとか、そんな問題ではなく、そもそもウェスタ川越の1700名規模のホールが大き過ぎる。国立劇場おきなわ の張り出し舞台時の席数は600名弱、東京から離れた川越での公演、琉球舞踊に対する関心を持っている人たちの少なさを考えれば、これだけ集まればいい数字である。
組踊「二童敵討」は、張り出し舞台の形であるが、舞台の上に張り出し舞台を載せた形で、本拠地と同様に客席に張り出す形にならなかったのは残念であるが、アウェイ公演でもあり止むを得ないか。
演目の性格上、踊りの見所が少なめであり、初めて組踊を観る観客を対象とするには、刺激が足りないかもしれない。本年1月に上演した「辺戸の大主」にしておいた方が、ストーリー性はないけれど、純舞踊的要素としては圧倒的に面白いような気はする。
三線音楽「うた・さんしん」と合わせ、宮廷舞踊であれ雑踊であれ、様式美を満たしているように思えた。歌と楽器とのバランスが概して取れていたため、声量の小ささは感じられなかった。[島々のうた]でのみ、生音でなく電気的に増幅を掛けていたかもしれない。
このような事を書いたら怒られるかもしれないが、実のところ、現代琉球舞踊劇「かりゆし-かりゆし-恋するシーサー」が一番好みであった。2014年3月3日に初演になったばかりの、伝統のない現代演目であり、意外な結果であったのだけれど。
沖縄県文化観光戦略推進事業の補助金を受け、2014年3月と2015年3月に国立劇場おきなわ小劇場でそれぞれ四公演上演され、第9公演目にしてようやく本土での公演となった。
国立劇場おきなわ の芸術監督である嘉数道彦による脚本・演出である。
伝統と現代を組み合わせたり、琉球語と共通語を対比させたりするのが巧妙だ。歌も踊りも完成度が高い。伝統的な琉球の楽器を用いたのは効果的である。楽器と舞踊についてはブレずに伝統路線を堅持したのは正解である。ストーリーの構成も無理がない展開である。人間ではそのままであるが、シーサーでは夫を女性が演じ、妻を男性が演じたのも面白い。
伝統を知り尽くした嘉数道彦ならではの、初心者向けとは侮れない、実に素晴らしい作品であった。
2015年8月1日土曜日
Noism 近代童話劇シリーズ vol.1 「箱入り娘」 感想
2015年8月1日 土曜日
新潟市民芸術文化会館 りゅーとぴあ スタジオB (新潟県新潟市)
演目:箱入り娘
出演:Noism1
箱入り娘(我儘娘):井関佐和子
Ne(e)T(無業男):佐藤琢哉
老魔女(悪戯老婆):石原悠子
イケ面(木偶の坊):吉﨑裕也
湖母(娘の養母):簡麟懿(男性である)
お芋(娘の侍女):池ヶ谷奏
欅父(娘の養父):上田尚弘
deザイナー(衣装デザイナー):梶田留以
あしすたんと(deザイナーのアシスタント):亀井彩加
花黒衣(老魔女のアシスタント):亀井彩加・梶田留以
カメラ兎(謎の撮影者):角田レオナルド仁
振り付け・演出:金森穣
音楽:バルトーク=ベーラ「かかし王子」
衣装:堂本教子
映像:遠藤龍
Noism 1は、2015年6月6日から8月1日に掛けて、「箱入り娘」を本拠地新潟で13公演・横浜で6公演・金沢で2公演、計21公演上演した。この感想は、8月1日千秋楽公演のものである。
着席位置は下手側かつやや後方、チケットは完売している。7/25以降のチケットは全て完売したとの情報が入っている。観客の鑑賞態度は極めて良好であった。
(以下、演劇色の強い舞踊であり、新作であるため、ネタばれ注意!)
りゅーとぴあの4階にあるスタジオBでの公演である。開演30分前にホワイエまで入場が可能となる。ホワイエには仕掛けが一つあり、覗いてみてねと貼り紙がある。覗いてみると、(私の部屋ほどではないけど♪)散らかっている和室が一つあるが、特に何の変哲もない。何だろうなあと思いつつ。。
観客の入場が終了するかしないかの内に、明らかに観客席を映している映像が、舞台のスクリーンに映し出される。映し出されて手を振っている観客もいる。どこにカメラがあるのか探して見たところ、舞台下手側にいるピンク色の兎によるものだ。しばらくその光景が続いた後、大きな物音がしてからだったか、登場人物の紹介がどこかの地方語を用いて為される。どこの地方語かは分からないが、琉球語でもなく球磨語でもないため、共通語さえ分かっている観客であれば理解は可能だ。
私にとってNoism公演は初めてで、井関佐和子さんを実際に目にするのは初めてであったが、「箱入り娘」役で登場した彼女は予想に反して可愛い。予想に反してなどと言うと消されてしまいそうだが、ずっとボーイッシュなイメージが強かったので、白い衣装に包まれて、予期していたイメージとは違っていたので。。
演劇色の強い舞踊である。冒頭の登場人物紹介以外に言葉はない。箱入り娘はイケ面大好き、まずはイケ面を狙う。木偶の坊でも何でも、イケ面でさえあればいいのだ。Ne(e)Tは箱入り娘が大好きで狙っていたり、妄想に耽っていたりし、スクリーンに映し出される映像により、ホワイエに展示されていた部屋が実はNe(e)Tの部屋である事が明かされる。
しかしながらイケ面は変態(途中から背中から尻まで露出するスーツ姿となる)である事が明らかになり、実はNe(e)Tはそこそこイケメンであり、箱入り娘は乗り換えようとしたりするが、その辺りの展開が最も面白く私の好みの箇所である。
結局は、箱入り娘は老婆になって終わる。どこまでが映像でどこからが妄想なのか?スクリーンに映し出されるホワイエの映像はどこまでがライブでどこからが収録物の再生なのか?金森監督は観客に対して内緒にしている。
アフタートークで金森監督が出て、いくらか質問に答えたりする。観客からの質問も、要領を得ないものや自分語りのものは全くなく、素晴らしい質問ばかりだ。金森監督は飄飄とした雰囲気でありながら、かなり真面目に回答してくれる。
終盤近くの海の映像は、新潟市西部にある五十嵐浜で収録したものであるとのこと、新潟を本拠地にしているだけあり、日本海の映像であることは必須だったらしいが、地元でよい撮影地があったとのことだろう。
この「箱入り娘」は、「水と土の芸術祭」の一環として、小学生以下のみの観客の公演を一公演、65歳以上のみの観客の公演を一公演、上演している。観客の反応が通常公演と違っていたそうだ。小学生以下の公演ではピンク色の兎に対する反応が、65歳以上の公演ではお芋(娘の侍女)に対する反応が強かったとのこと。地味系なお芋が恋を成就させるかも・・・、の箇所での反応が鋭かったらしい。
Ne(e)Tの別室については、横浜KAAT公演では りゅーとぴあ よりも舞台面積が広かったため、舞台上に別室を置いたとのこと、金沢では別室の設置スペースがなかったとのことである。観客がホワイエに設置してあるNe(e)Tの部屋を覗いてみる事が出来たのは、本拠地である りゅーとぴあ 観客のみであったのかもしれない。
6月にこの「箱入り娘」の公演が始まった時は賛否両論であったらしいが、否の意見の内容とは、シャープなダンスが観られないことのようだ。まあ「近代童話劇シリーズ」なのだから、その路線の公演内容ではないだろうな。
Noismの存在をしったのは、私が舞踊公演を頻繁に観劇しに行くようになってからなので、約一年くらい前の話か。2011年のサイトウ-キネン-フェスティバルで松本に来たようであるが、そもそもペルー旅行を最優先して一公演も観に行かなかったし、そもそもこの舞踊に対する関心が全くなかった頃なので、存在を知らなかったのだ。横浜KAATでも金沢21世紀美術館でも、ましてや(別の演目であるが)NHKホールで初めてNoismを観劇することは、信越地区在住の私としては決してしたくなかった。念願を本拠地である新潟市の りゅーとぴあ でかなえる事ができ、嬉しく思う。
演劇面でも舞踊面でも素晴らしい公演である。今後とも出来得る限り新潟で、Noismの公演を見に行きたい。
新潟市民芸術文化会館 りゅーとぴあ スタジオB (新潟県新潟市)
演目:箱入り娘
出演:Noism1
箱入り娘(我儘娘):井関佐和子
Ne(e)T(無業男):佐藤琢哉
老魔女(悪戯老婆):石原悠子
イケ面(木偶の坊):吉﨑裕也
湖母(娘の養母):簡麟懿(男性である)
お芋(娘の侍女):池ヶ谷奏
欅父(娘の養父):上田尚弘
deザイナー(衣装デザイナー):梶田留以
あしすたんと(deザイナーのアシスタント):亀井彩加
花黒衣(老魔女のアシスタント):亀井彩加・梶田留以
カメラ兎(謎の撮影者):角田レオナルド仁
振り付け・演出:金森穣
音楽:バルトーク=ベーラ「かかし王子」
衣装:堂本教子
映像:遠藤龍
Noism 1は、2015年6月6日から8月1日に掛けて、「箱入り娘」を本拠地新潟で13公演・横浜で6公演・金沢で2公演、計21公演上演した。この感想は、8月1日千秋楽公演のものである。
着席位置は下手側かつやや後方、チケットは完売している。7/25以降のチケットは全て完売したとの情報が入っている。観客の鑑賞態度は極めて良好であった。
(以下、演劇色の強い舞踊であり、新作であるため、ネタばれ注意!)
りゅーとぴあの4階にあるスタジオBでの公演である。開演30分前にホワイエまで入場が可能となる。ホワイエには仕掛けが一つあり、覗いてみてねと貼り紙がある。覗いてみると、(私の部屋ほどではないけど♪)散らかっている和室が一つあるが、特に何の変哲もない。何だろうなあと思いつつ。。
観客の入場が終了するかしないかの内に、明らかに観客席を映している映像が、舞台のスクリーンに映し出される。映し出されて手を振っている観客もいる。どこにカメラがあるのか探して見たところ、舞台下手側にいるピンク色の兎によるものだ。しばらくその光景が続いた後、大きな物音がしてからだったか、登場人物の紹介がどこかの地方語を用いて為される。どこの地方語かは分からないが、琉球語でもなく球磨語でもないため、共通語さえ分かっている観客であれば理解は可能だ。
私にとってNoism公演は初めてで、井関佐和子さんを実際に目にするのは初めてであったが、「箱入り娘」役で登場した彼女は予想に反して可愛い。予想に反してなどと言うと消されてしまいそうだが、ずっとボーイッシュなイメージが強かったので、白い衣装に包まれて、予期していたイメージとは違っていたので。。
演劇色の強い舞踊である。冒頭の登場人物紹介以外に言葉はない。箱入り娘はイケ面大好き、まずはイケ面を狙う。木偶の坊でも何でも、イケ面でさえあればいいのだ。Ne(e)Tは箱入り娘が大好きで狙っていたり、妄想に耽っていたりし、スクリーンに映し出される映像により、ホワイエに展示されていた部屋が実はNe(e)Tの部屋である事が明かされる。
しかしながらイケ面は変態(途中から背中から尻まで露出するスーツ姿となる)である事が明らかになり、実はNe(e)Tはそこそこイケメンであり、箱入り娘は乗り換えようとしたりするが、その辺りの展開が最も面白く私の好みの箇所である。
結局は、箱入り娘は老婆になって終わる。どこまでが映像でどこからが妄想なのか?スクリーンに映し出されるホワイエの映像はどこまでがライブでどこからが収録物の再生なのか?金森監督は観客に対して内緒にしている。
アフタートークで金森監督が出て、いくらか質問に答えたりする。観客からの質問も、要領を得ないものや自分語りのものは全くなく、素晴らしい質問ばかりだ。金森監督は飄飄とした雰囲気でありながら、かなり真面目に回答してくれる。
終盤近くの海の映像は、新潟市西部にある五十嵐浜で収録したものであるとのこと、新潟を本拠地にしているだけあり、日本海の映像であることは必須だったらしいが、地元でよい撮影地があったとのことだろう。
この「箱入り娘」は、「水と土の芸術祭」の一環として、小学生以下のみの観客の公演を一公演、65歳以上のみの観客の公演を一公演、上演している。観客の反応が通常公演と違っていたそうだ。小学生以下の公演ではピンク色の兎に対する反応が、65歳以上の公演ではお芋(娘の侍女)に対する反応が強かったとのこと。地味系なお芋が恋を成就させるかも・・・、の箇所での反応が鋭かったらしい。
Ne(e)Tの別室については、横浜KAAT公演では りゅーとぴあ よりも舞台面積が広かったため、舞台上に別室を置いたとのこと、金沢では別室の設置スペースがなかったとのことである。観客がホワイエに設置してあるNe(e)Tの部屋を覗いてみる事が出来たのは、本拠地である りゅーとぴあ 観客のみであったのかもしれない。
6月にこの「箱入り娘」の公演が始まった時は賛否両論であったらしいが、否の意見の内容とは、シャープなダンスが観られないことのようだ。まあ「近代童話劇シリーズ」なのだから、その路線の公演内容ではないだろうな。
Noismの存在をしったのは、私が舞踊公演を頻繁に観劇しに行くようになってからなので、約一年くらい前の話か。2011年のサイトウ-キネン-フェスティバルで松本に来たようであるが、そもそもペルー旅行を最優先して一公演も観に行かなかったし、そもそもこの舞踊に対する関心が全くなかった頃なので、存在を知らなかったのだ。横浜KAATでも金沢21世紀美術館でも、ましてや(別の演目であるが)NHKホールで初めてNoismを観劇することは、信越地区在住の私としては決してしたくなかった。念願を本拠地である新潟市の りゅーとぴあ でかなえる事ができ、嬉しく思う。
演劇面でも舞踊面でも素晴らしい公演である。今後とも出来得る限り新潟で、Noismの公演を見に行きたい。
2015年7月26日日曜日
まつもと市民芸術館「空中サーカス」2015 感想
2015年7月20日(月)・26日(日)
まつもと市民芸術館 (長野県松本市)
演目:空中サーカス
出演:
歌い手・俳優部門:
串田和美・高泉淳子・小西康久・内田紳一郎・片岡正二郎・秋本奈緒美・近藤隼・佐藤卓・細川貴司・下地尚子
音楽(バンド)部門:
coba・大熊ワタル・花島英三郎・キデオン=ジュークス・熊谷太輔・杉山卓
サーカス・大道芸部門:
ジュロ・ロラン・ロッタ・スティーナ・メリッサ・サラ・金井ケイスケ・目黒陽介・宮野玲・ジェームス=ヨギ
構成演出:串田和美
音楽:coba
サーカスアドヴァイザー:ジュロ
以降、ネタばれ注意!もともとストーリ性がない作品ではあるが、2011年以来二年に一回開催されてきた「空中キャバレー」が今後も上演される場合、舞台装置の設定や、どのような出し物があるかが、この感想によりある程度明らかになってしまう。これまでの「空中キャバレー」をご覧になっていない状態で、2017年に初めて観劇する場合に白紙の状態で臨みたい方は、これ以降は閲覧されないようお勧めする。
まつもと市民芸術館にて、2015年7月17日から26日に掛けて「空中キャバレー」を9公演上演した。私が臨席したのは、4回目の7月20日公演と、千秋楽7月26日公演である。
入口は、西側搬入出口という異例の場所である。まつもと市民芸術館は、東側から搬入用トラックを入れ、舞台北側に横付けし搬入作業後、西側からトラックを出す事が出来る、先進的かつ機能的な搬入システムを用いている。東側搬入入口・西側搬入出口にはシャッターが備え付けられ、真冬の氷点下環境であっても、屋内環境で搬入作業を行う事が出来る。
いつもは閉じられている西側搬入出口のシャッターが開けられ、開場前に集まった観客は搬入作業スペースに誘導される。開場後は、東側舞台搬入口から脇舞台へと誘導される。まつもと市民芸術館は田の字型四面舞台となっており、南西側に主舞台・北西側に奥舞台・主舞台と奥舞台の東側にそれぞれ脇舞台を設置している構成となっている。この公演では主・奥舞台の西側と、脇舞台の東側とを分けており、二分割して用いている。
脇舞台(及びチケットコントロール後の制限区域内の搬入作業スペース)には「空中マルシェ」があり、十ほどの地元企業による仮設店舗が営業している。パンやクッキー・花・ガラス細工・木工作品・絵までも売られている。もちろん、そこで腹ごしらえも可能だ。
前半60分、後半100分、休憩20分を含めると三時間もの長丁場、冷房の効いた脇舞台で軽く食事が取れることは大きい。
脇舞台には「空中マルシェ」の他、小舞台が設置され大道芸が披露されたり、ロッタ+スティーナによるスオミ国コンビがチョコチョコ動き回って、サーカス技を披露していたり、どこかで誰かが歌っていたり、サラが脇舞台1号ホイストから吊り下げられたロープ下りパフォーマンスを繰り広げたりする。プロセニアム高さが15mであることからすると、同じ高さのキャットウォークからロープに移り、ホイストで3m程東側壁から西側へ移動して、スリルあふれる技を伴って下りてくる。客席で落ち付いている開演前の時間ではなく、既にプロローグが始まっているような、賑やかな時間だ。
開演時刻になると、秋本奈緒美がハーメルンの笛吹き女となって、目印を持って観客を主舞台東側下手側から誘導する。この公演の本番では、主舞台と奥舞台をつなげて使っているが、奥舞台には「実験劇場」用の椅子が360席設置されている。大劇場では南側に観客席があるが、「実験劇場」として用いる場合には、北側に観客席が設けられる。主舞台は大劇場公演・「実験劇場」公演いずれも同一の物を用いるが、下手・上手は正反対となる。この稿では、混乱を避けるために「東側下手側」「西側上手側」の表現を用いる。
大劇場の観客席は閉鎖されている。主舞台は当然サイトウ-キネン-フェスティバルのオペラ公演として用いているものと全く同じである。観客たちには、主舞台の床の上にそのまま座って観劇するよう推奨される。「実験劇場」の椅子に座っていると、開演早々、串田和美により「人生に疲れた人たちの席」と揶揄される。
舞台には白円が描かれており、白円内が舞台になることもあれば、観客スペースになる事もあり、演技スペースと観客スペースとの境界は可変的であるだけでなく、混ざり合う事もある。
冒頭はcobaと杉山卓(東大卒!)とのアコーディオン-パフォーマンスから始まる。全般を通したストーリーは存在しない。芝居と歌とサーカスと大道芸を適宜組み合わせ、同時に進行させたりしている。
「空中ブランコに恋する兵士」の芝居は、メリッサの空中ブランコとも組み合わさっているように、同時進行の複合形態は「空中キャバレー」にはよくあることだ。
芝居では、「空中ブランコに恋する兵士」の他、ライオン吠えさせ罪・才能は放棄できない・冬山スキー・太鼓・アカプルコへ行くサボテンがあり、
歌では高泉淳子・秋本奈緒美が三曲ほど単独で歌うほか、秋本奈緒美は「アカプルコへ行くサボテン」でも紅一点歌っている。
サーカス・大道芸部門では、ロッタ+スティーナによるスオミ組地上サーカス演技・メリッサ+サラによる空中ブランコ演技・ロランによる綱演技・ジェームス=ヨギによる自転車演技の他は、大道芸の色彩が強いものだ。
注目するべき点は、音楽は全てcoba率いるバンドにより生演奏され、録音物は用いられない。サーカスを盛り上げる音楽をも、音楽(バンド)部門によって担当され、全ての芝居・歌・サーカス・大道芸の基盤を見事に構築している。
特に前半部では、観客参加型の色彩が強い。主舞台中央で観客が輪になって踊ったりもする。全般に渡り、演者は観客と極めて近い距離で演技し歌う。高泉淳子も秋本奈緒美も、観客のすぐそばを歩きながら、子どもとダンスし歌う。ジェームスの自転車技では、二人を飛び越えて観客が座っている僅か1mの距離を保って見事に停止させる。これ程までの距離感が近い公演は、「空中サーカス」以外にはありえないだろう。
休憩中は、脇舞台・搬入スペースにそれぞれ小舞台が設置され短時間の芝居が上演され、音楽も鳴らされ、出演者はいつ休んでいるのだろうと考えてしまう程だ。もちろん「空中マルシェ」も営業している。休憩時間でもお祭りは続いている。
私の特に好みとしているのは、東側下手側での音楽劇「アカプルコへ行くサボテン」・グラス-ハープによる音楽を背景にしたメリッサ+サラによる幻想的な空中ブランコである。
命綱を用いたサーカス技は、最後の空中ブランコのみである。7月20日公演ではメリッサ、7月26日千秋楽公演ではサラが演じた。私の上空での姿勢変換は、スリルと迫力を感じる。
この「空中サーカス」は、まつもと市民芸術館でないと実現不可能である。田の字型四面舞台、大きな主舞台、収納式の椅子、公道に面し誰もが分かりやすくアクセス出来る搬入口も必要だ。日本で最も設備が整った新国立劇場でさえも、上演不可能な演目で、この松本でしか上演出来ない。
twitterで検索して見ると、地元民だけでなく、東京から遠征して観劇しに来た方も多かったようだ。全てはあっという間に過ぎ去った三時間の空間であった。
まつもと市民芸術館 (長野県松本市)
演目:空中サーカス
出演:
歌い手・俳優部門:
串田和美・高泉淳子・小西康久・内田紳一郎・片岡正二郎・秋本奈緒美・近藤隼・佐藤卓・細川貴司・下地尚子
音楽(バンド)部門:
coba・大熊ワタル・花島英三郎・キデオン=ジュークス・熊谷太輔・杉山卓
サーカス・大道芸部門:
ジュロ・ロラン・ロッタ・スティーナ・メリッサ・サラ・金井ケイスケ・目黒陽介・宮野玲・ジェームス=ヨギ
構成演出:串田和美
音楽:coba
サーカスアドヴァイザー:ジュロ
以降、ネタばれ注意!もともとストーリ性がない作品ではあるが、2011年以来二年に一回開催されてきた「空中キャバレー」が今後も上演される場合、舞台装置の設定や、どのような出し物があるかが、この感想によりある程度明らかになってしまう。これまでの「空中キャバレー」をご覧になっていない状態で、2017年に初めて観劇する場合に白紙の状態で臨みたい方は、これ以降は閲覧されないようお勧めする。
まつもと市民芸術館にて、2015年7月17日から26日に掛けて「空中キャバレー」を9公演上演した。私が臨席したのは、4回目の7月20日公演と、千秋楽7月26日公演である。
入口は、西側搬入出口という異例の場所である。まつもと市民芸術館は、東側から搬入用トラックを入れ、舞台北側に横付けし搬入作業後、西側からトラックを出す事が出来る、先進的かつ機能的な搬入システムを用いている。東側搬入入口・西側搬入出口にはシャッターが備え付けられ、真冬の氷点下環境であっても、屋内環境で搬入作業を行う事が出来る。
いつもは閉じられている西側搬入出口のシャッターが開けられ、開場前に集まった観客は搬入作業スペースに誘導される。開場後は、東側舞台搬入口から脇舞台へと誘導される。まつもと市民芸術館は田の字型四面舞台となっており、南西側に主舞台・北西側に奥舞台・主舞台と奥舞台の東側にそれぞれ脇舞台を設置している構成となっている。この公演では主・奥舞台の西側と、脇舞台の東側とを分けており、二分割して用いている。
脇舞台(及びチケットコントロール後の制限区域内の搬入作業スペース)には「空中マルシェ」があり、十ほどの地元企業による仮設店舗が営業している。パンやクッキー・花・ガラス細工・木工作品・絵までも売られている。もちろん、そこで腹ごしらえも可能だ。
前半60分、後半100分、休憩20分を含めると三時間もの長丁場、冷房の効いた脇舞台で軽く食事が取れることは大きい。
脇舞台には「空中マルシェ」の他、小舞台が設置され大道芸が披露されたり、ロッタ+スティーナによるスオミ国コンビがチョコチョコ動き回って、サーカス技を披露していたり、どこかで誰かが歌っていたり、サラが脇舞台1号ホイストから吊り下げられたロープ下りパフォーマンスを繰り広げたりする。プロセニアム高さが15mであることからすると、同じ高さのキャットウォークからロープに移り、ホイストで3m程東側壁から西側へ移動して、スリルあふれる技を伴って下りてくる。客席で落ち付いている開演前の時間ではなく、既にプロローグが始まっているような、賑やかな時間だ。
開演時刻になると、秋本奈緒美がハーメルンの笛吹き女となって、目印を持って観客を主舞台東側下手側から誘導する。この公演の本番では、主舞台と奥舞台をつなげて使っているが、奥舞台には「実験劇場」用の椅子が360席設置されている。大劇場では南側に観客席があるが、「実験劇場」として用いる場合には、北側に観客席が設けられる。主舞台は大劇場公演・「実験劇場」公演いずれも同一の物を用いるが、下手・上手は正反対となる。この稿では、混乱を避けるために「東側下手側」「西側上手側」の表現を用いる。
大劇場の観客席は閉鎖されている。主舞台は当然サイトウ-キネン-フェスティバルのオペラ公演として用いているものと全く同じである。観客たちには、主舞台の床の上にそのまま座って観劇するよう推奨される。「実験劇場」の椅子に座っていると、開演早々、串田和美により「人生に疲れた人たちの席」と揶揄される。
舞台には白円が描かれており、白円内が舞台になることもあれば、観客スペースになる事もあり、演技スペースと観客スペースとの境界は可変的であるだけでなく、混ざり合う事もある。
冒頭はcobaと杉山卓(東大卒!)とのアコーディオン-パフォーマンスから始まる。全般を通したストーリーは存在しない。芝居と歌とサーカスと大道芸を適宜組み合わせ、同時に進行させたりしている。
「空中ブランコに恋する兵士」の芝居は、メリッサの空中ブランコとも組み合わさっているように、同時進行の複合形態は「空中キャバレー」にはよくあることだ。
芝居では、「空中ブランコに恋する兵士」の他、ライオン吠えさせ罪・才能は放棄できない・冬山スキー・太鼓・アカプルコへ行くサボテンがあり、
歌では高泉淳子・秋本奈緒美が三曲ほど単独で歌うほか、秋本奈緒美は「アカプルコへ行くサボテン」でも紅一点歌っている。
サーカス・大道芸部門では、ロッタ+スティーナによるスオミ組地上サーカス演技・メリッサ+サラによる空中ブランコ演技・ロランによる綱演技・ジェームス=ヨギによる自転車演技の他は、大道芸の色彩が強いものだ。
注目するべき点は、音楽は全てcoba率いるバンドにより生演奏され、録音物は用いられない。サーカスを盛り上げる音楽をも、音楽(バンド)部門によって担当され、全ての芝居・歌・サーカス・大道芸の基盤を見事に構築している。
特に前半部では、観客参加型の色彩が強い。主舞台中央で観客が輪になって踊ったりもする。全般に渡り、演者は観客と極めて近い距離で演技し歌う。高泉淳子も秋本奈緒美も、観客のすぐそばを歩きながら、子どもとダンスし歌う。ジェームスの自転車技では、二人を飛び越えて観客が座っている僅か1mの距離を保って見事に停止させる。これ程までの距離感が近い公演は、「空中サーカス」以外にはありえないだろう。
休憩中は、脇舞台・搬入スペースにそれぞれ小舞台が設置され短時間の芝居が上演され、音楽も鳴らされ、出演者はいつ休んでいるのだろうと考えてしまう程だ。もちろん「空中マルシェ」も営業している。休憩時間でもお祭りは続いている。
私の特に好みとしているのは、東側下手側での音楽劇「アカプルコへ行くサボテン」・グラス-ハープによる音楽を背景にしたメリッサ+サラによる幻想的な空中ブランコである。
命綱を用いたサーカス技は、最後の空中ブランコのみである。7月20日公演ではメリッサ、7月26日千秋楽公演ではサラが演じた。私の上空での姿勢変換は、スリルと迫力を感じる。
この「空中サーカス」は、まつもと市民芸術館でないと実現不可能である。田の字型四面舞台、大きな主舞台、収納式の椅子、公道に面し誰もが分かりやすくアクセス出来る搬入口も必要だ。日本で最も設備が整った新国立劇場でさえも、上演不可能な演目で、この松本でしか上演出来ない。
twitterで検索して見ると、地元民だけでなく、東京から遠征して観劇しに来た方も多かったようだ。全てはあっという間に過ぎ去った三時間の空間であった。
2015年7月25日土曜日
Nagoya Philharmonic Orchestra, the 426th Subscription Concert, review 第426回 名古屋フィルハーモニー交響楽団 定期演奏会 評
2015年7月25日 土曜日
Saturday 25th July 2015
愛知県芸術劇場コンサートホール (愛知県名古屋市)
Aichi Prefectural Art Theater Concert Hall (Nagoya, Japan)
曲目:
Николай Римский-Корсаков / Nikolai Rimsky-Korsakov: Каприччио на испанские темы / Capriccio spagnolo (エスパーニャ奇想曲)
Моде́ст Му́соргский / Modest Mussorgsky (orchestrated by Александр Раскатов / Alexander Raskatov): Песни и пляски смерти / Canti e danze della morte (死の歌と踊り) (Japan Premiere / 日本初演)
(休憩)
藤倉大 / Fujikura Dai: 歌曲集「世界にあてたわたしの手紙」/ “My Letter to the World” (World Premiere / 世界初演)
Моде́ст Му́соргский / Modest Mussorgsky (orchestrated by Maurice Ravel): Картинки с выставки / Quadri da un'esposizione (展覧会の絵)
baritono: Simon Bailey (バリトン:サイモン=ベイリー)
orchestra: Nagoya Philharmonic Orchestra(名古屋フィルハーモニー交響楽団)
direttore: Martyn Brabbins (指揮:マーティン=ブラビンズ)
名古屋フィルハーモニー交響楽団は、サイモン=ベイリー(バリトン)をソリストに迎えて、2015年7月24日・25日に愛知県芸術劇場で、第426回定期演奏会を開催した。この評は、第二日目の公演に対してのものである。
管弦楽配置は、舞台下手側から、第一ヴァイオリン→第二ヴァイオリンと並ぶモダン配置で、コントラバスはチェロの後方につく。木管パートは後方中央、金管は後方中央から上手側、ティンパニは後方中央、ハープは下手側の位置につく。
着席位置は一階正面上手側後方、客の入りは8割程であろうか、三階席の様子は不明だが、二階バルコニー席後方に空席が目立った。チケット完売には至らなかった。観客の鑑賞態度は、細かなノイズがあったものの、概ね極めて良好であった。
第一曲目の「エスパーニャ奇想曲」は後半になって全てがうまく響きが噛み合ってくる。その勢いで第二曲目の「死の歌と踊り」に入る。
ムソルグスキーの「死の歌と踊り」は、アレクサンドル=ラスカトフの編曲によるもので、ラスカトフ編曲版は日本初演である。先進的な企画を打ち出すブラビンズ+名フィルならではの企画だ。上手側にエレキギターがある一方で、下手側にはチェンバロがある点が凄い♪
バリトンのベイリーは美しい声で愛知県芸術劇場コンサートホールを満たす。十分な声量で大きなホールを響かせる。管弦楽とのバランスも見事で、ベイリーを見事に引き立たせる。特に第二楽章に相当するセレナーデからが素晴らしい。
第三曲は藤倉大の作品で、管弦楽編曲版は世界初演である。管弦楽編曲版を作成した動機で、ピアノ版でピアニストが酷い演奏をしたからと公言するのはいかがなものか?聴く立場としては複雑な心境となる。
演奏自体は、ベイリーと名フィルの絶妙なバランスが効いて、これまた見事な出来である。
最後の曲目、「展覧会の絵」は最高の出来だ!何をやりたいのか明確になっていて、その路線を実現させようとする士気に漲った演奏だ。欲を言うと・・・の要素が皆無な訳ではないけれど、特定の楽器や特定のソリスティックな何かに頼らない演奏である事が何よりも大切な事である。ティンパニ砲発射〜、金管砲炸裂〜だけでは、響きにならず、音楽にならない。全般的に誰もが高いレベルで精緻な演奏をパッションを込めて行う事が大切なのだと改めて思い知らされる。
冒頭のトランペットからプレッシャーに負けずに決めて、曲の中間部では弦楽がニュアンス豊かに精緻さを伴って攻めてくる。「キエフの大門」では、モッサリしない程度のゆっくりとしたテンポで、ゼネラルパウゼをやり過ぎない程度に長めに取りながら、堂々と演奏する。
ブラビンズの構成力は盤石であり、その上で管弦楽全員で勝負をかけ、勝利した。大管弦楽の醍醐味を味わえる演奏であった。
Saturday 25th July 2015
愛知県芸術劇場コンサートホール (愛知県名古屋市)
Aichi Prefectural Art Theater Concert Hall (Nagoya, Japan)
曲目:
Николай Римский-Корсаков / Nikolai Rimsky-Korsakov: Каприччио на испанские темы / Capriccio spagnolo (エスパーニャ奇想曲)
Моде́ст Му́соргский / Modest Mussorgsky (orchestrated by Александр Раскатов / Alexander Raskatov): Песни и пляски смерти / Canti e danze della morte (死の歌と踊り) (Japan Premiere / 日本初演)
(休憩)
藤倉大 / Fujikura Dai: 歌曲集「世界にあてたわたしの手紙」/ “My Letter to the World” (World Premiere / 世界初演)
Моде́ст Му́соргский / Modest Mussorgsky (orchestrated by Maurice Ravel): Картинки с выставки / Quadri da un'esposizione (展覧会の絵)
baritono: Simon Bailey (バリトン:サイモン=ベイリー)
orchestra: Nagoya Philharmonic Orchestra(名古屋フィルハーモニー交響楽団)
direttore: Martyn Brabbins (指揮:マーティン=ブラビンズ)
名古屋フィルハーモニー交響楽団は、サイモン=ベイリー(バリトン)をソリストに迎えて、2015年7月24日・25日に愛知県芸術劇場で、第426回定期演奏会を開催した。この評は、第二日目の公演に対してのものである。
管弦楽配置は、舞台下手側から、第一ヴァイオリン→第二ヴァイオリンと並ぶモダン配置で、コントラバスはチェロの後方につく。木管パートは後方中央、金管は後方中央から上手側、ティンパニは後方中央、ハープは下手側の位置につく。
着席位置は一階正面上手側後方、客の入りは8割程であろうか、三階席の様子は不明だが、二階バルコニー席後方に空席が目立った。チケット完売には至らなかった。観客の鑑賞態度は、細かなノイズがあったものの、概ね極めて良好であった。
第一曲目の「エスパーニャ奇想曲」は後半になって全てがうまく響きが噛み合ってくる。その勢いで第二曲目の「死の歌と踊り」に入る。
ムソルグスキーの「死の歌と踊り」は、アレクサンドル=ラスカトフの編曲によるもので、ラスカトフ編曲版は日本初演である。先進的な企画を打ち出すブラビンズ+名フィルならではの企画だ。上手側にエレキギターがある一方で、下手側にはチェンバロがある点が凄い♪
バリトンのベイリーは美しい声で愛知県芸術劇場コンサートホールを満たす。十分な声量で大きなホールを響かせる。管弦楽とのバランスも見事で、ベイリーを見事に引き立たせる。特に第二楽章に相当するセレナーデからが素晴らしい。
第三曲は藤倉大の作品で、管弦楽編曲版は世界初演である。管弦楽編曲版を作成した動機で、ピアノ版でピアニストが酷い演奏をしたからと公言するのはいかがなものか?聴く立場としては複雑な心境となる。
演奏自体は、ベイリーと名フィルの絶妙なバランスが効いて、これまた見事な出来である。
最後の曲目、「展覧会の絵」は最高の出来だ!何をやりたいのか明確になっていて、その路線を実現させようとする士気に漲った演奏だ。欲を言うと・・・の要素が皆無な訳ではないけれど、特定の楽器や特定のソリスティックな何かに頼らない演奏である事が何よりも大切な事である。ティンパニ砲発射〜、金管砲炸裂〜だけでは、響きにならず、音楽にならない。全般的に誰もが高いレベルで精緻な演奏をパッションを込めて行う事が大切なのだと改めて思い知らされる。
冒頭のトランペットからプレッシャーに負けずに決めて、曲の中間部では弦楽がニュアンス豊かに精緻さを伴って攻めてくる。「キエフの大門」では、モッサリしない程度のゆっくりとしたテンポで、ゼネラルパウゼをやり過ぎない程度に長めに取りながら、堂々と演奏する。
ブラビンズの構成力は盤石であり、その上で管弦楽全員で勝負をかけ、勝利した。大管弦楽の醍醐味を味わえる演奏であった。
2015年7月18日土曜日
Orchestra Ensemble Kanazawa , the 365st Subscription Concert, review 第365回 オーケストラ-アンサンブル-金沢 定期演奏会 評
2015年7月18日 土曜日
Saturday 18th February 2015
石川県立音楽堂 (石川県金沢市)
Ishikawa Ongakudo (Ishikawa Prefectural Concert Hall) (Kanazawa, Japan)
曲目:
Gondai Atsuhiko: “Vice Versa” (world premier) (権代敦彦:「逆も真なり」)(世界初演/オーケストラ-アンサンブル-金沢委嘱作品)
Franz Joseph Haydn: Sinfonia n.87 Hob.I:87
(休憩)
И́горь Фёдорович Страви́нский / Igor Stravinsky: “Le sacre du printemps” (「春の祭典」)
orchestra: Orchestra Ensemble Kanazawa (OEK)(オーケストラ-アンサンブル-金沢), Japan Century Symphony Orchestra (日本センチュリー交響楽団)
direttore: Inoue Michiyoshi (指揮:井上道義)
オーケストラ-アンサンブル-金沢は、2015年7月18日に石川県立音楽堂で、第365回定期演奏会として開催した。権代敦彦の「逆も真なり」を世界初演する他、「春の祭典」を日本センチュリー交響楽団と合同で演奏する事で注目された演奏会である。
管弦楽配置は曲によって異なる。
「逆も真なり」では、舞台下手側から、第一ヴァイオリン→第二ヴァイオリン→ヴィオラ→ヴァイオリン-チェロのモダン配置である。コントラバスは前方左右端に一台ずつ、ホルン・トランペットは後方左右端に一台ずつ左右対称に置かれる。木管パート・パーカッションは後方中央の位置につく。フルート(ピッコロ)は、第一楽章では後方中央、第二楽章では指揮者のすぐ前に向かい合うように配置される。
ハイドン交響曲第87番では、舞台下手側から、第一ヴァイオリン→ヴィオラ→ヴァイオリン-チェロ→第二ヴァイオリンの左右対抗配置で、コントラバスはチェロの後方上手側につく。木管パートは後方中央、ホルンは後方下手側の位置につく。
「春の祭典」では、舞台下手側から、第一ヴァイオリン→第二ヴァイオリン→ヴァイオリン-チェロ→ヴィオラのモダン配置で、コントラバスはチェロの後方上手側につく。木管パート・パーカッションは後方中央、ホルンは後方下手側、その他の金管は後方上手側に位置する。
着席位置は一階正面ど真ん中から僅かに後方、客の入りは七割程であろうか。一階席でも後方端に空席が目立った。観客の鑑賞態度は概ね極めて良好であった。
演奏について述べる。
権代敦彦の「Vice Versa」(「逆も真なり」)が本日の白眉である。プレトークによると、作曲に当たり、井上道義から二楽章形式で作るように、注文があったそうだ。バリバリの現代音楽らしい現代音楽なので、好みは別れるだろう。冒頭の掴みの段階で魅了され、私の頭蓋骨が共鳴する不思議な感覚を味わう。権代敦彦が譜面に描いた世界を、十分に検討され、よく考えられた構成で、パッションとニュアンスを込めて、精緻な表現で聴かせる。OEKの実力を十全に引き出す演奏だ。
ハイドン87番は、響きが「大ホールのハイドン」であまり迫らない。上手に演奏しているが、ハイドンならではの歓びに満ちた演奏ではなく、解釈は平凡である。ただ、「Vice Versa」と「春の祭典」の谷間であり、大きな期待を掛けるのは難しいだろう。
「春の祭典」は日本センチュリー交響楽団を招いての合同の演奏であり、この演奏会の目玉となる曲目である。しかしながら、指揮者である井上道義自身の準備不足・解釈不足が感じられる、欲求不満な演奏だ。ティンパニ強打と金管の技倆のみに逃げ込んだ解釈で、おどろおどろしさと野蛮さに欠け、何を表現したかったのか不明確な演奏であり、非難に値する。
特に第一部では、ソロを際立たせるべき箇所で弱い響きしか出せなかった。
井上道義の弦楽セクションの響きに対する関心の稀薄ぶりは唖然とする他ない。弦楽セクションにやってもらう事は、いくらでもあるはずだが、おそらく、リハーサルでこんな響きにして欲しいとの要望も指示もしないし、実現するまで練習もさせないし、そもそも弦楽に対する考え自体を、まとめていなかったのだろう。要するに準備不足で、井上道義が「春の祭典」やるのは十年早かったのではないか?
「春の祭典」は金管とティンパニをぶっ放せばいい曲では決してない。どの曲目でも一緒だが、弦管打が揃わなければいい演奏にはならない。特に弦楽は全ての基礎だ。弦楽が大きく出て、はじめて全ては回り始める。弦楽に対する無関心は正当化できない。
日本センチュリー交響楽団と合わせ、あれだけ素晴らしい弦楽奏者を揃えといて、あんな結果かよ、と言う感じだ。アンコールの「六甲おろし」であれだけ響かせて、どうして本番ではああなのか?「求めよ、さらば与えられん」だろう。求めなかったのだよな、指揮者井上道義は。
井上道義の解釈の是非は置いておいて、ティンパニは素晴らしい。ホルンはあまりに綺麗過ぎる響きで「春の祭典」向けではないけど、実に見事であった事は確かである。あと、「生贄の踊り」の場面での上手側金管も素晴らしい響きで魅了させられた。それだけに、この合同オケから「春の祭典」は今日の演奏の三倍は引き出せる。もっとやれるだろう、と言う欲求不満の気持ちでいっぱいだった。
井上道義は、指揮台の上で変な格好つけなくていいし、マイクパフォーマンスなどいらないから、音楽そのもので勝負するべきだろう。純粋にエンターテイメント追求型のファンタジー-シリーズなら、各種パフォーマンスは許容されるが、井上道義はやっている事の方向性が何もかも間違っている。OEKは井上道義を切り、ピリオド系の才能ある若手指揮者を音楽監督に据えなければならない。
Saturday 18th February 2015
石川県立音楽堂 (石川県金沢市)
Ishikawa Ongakudo (Ishikawa Prefectural Concert Hall) (Kanazawa, Japan)
曲目:
Gondai Atsuhiko: “Vice Versa” (world premier) (権代敦彦:「逆も真なり」)(世界初演/オーケストラ-アンサンブル-金沢委嘱作品)
Franz Joseph Haydn: Sinfonia n.87 Hob.I:87
(休憩)
И́горь Фёдорович Страви́нский / Igor Stravinsky: “Le sacre du printemps” (「春の祭典」)
orchestra: Orchestra Ensemble Kanazawa (OEK)(オーケストラ-アンサンブル-金沢), Japan Century Symphony Orchestra (日本センチュリー交響楽団)
direttore: Inoue Michiyoshi (指揮:井上道義)
オーケストラ-アンサンブル-金沢は、2015年7月18日に石川県立音楽堂で、第365回定期演奏会として開催した。権代敦彦の「逆も真なり」を世界初演する他、「春の祭典」を日本センチュリー交響楽団と合同で演奏する事で注目された演奏会である。
管弦楽配置は曲によって異なる。
「逆も真なり」では、舞台下手側から、第一ヴァイオリン→第二ヴァイオリン→ヴィオラ→ヴァイオリン-チェロのモダン配置である。コントラバスは前方左右端に一台ずつ、ホルン・トランペットは後方左右端に一台ずつ左右対称に置かれる。木管パート・パーカッションは後方中央の位置につく。フルート(ピッコロ)は、第一楽章では後方中央、第二楽章では指揮者のすぐ前に向かい合うように配置される。
ハイドン交響曲第87番では、舞台下手側から、第一ヴァイオリン→ヴィオラ→ヴァイオリン-チェロ→第二ヴァイオリンの左右対抗配置で、コントラバスはチェロの後方上手側につく。木管パートは後方中央、ホルンは後方下手側の位置につく。
「春の祭典」では、舞台下手側から、第一ヴァイオリン→第二ヴァイオリン→ヴァイオリン-チェロ→ヴィオラのモダン配置で、コントラバスはチェロの後方上手側につく。木管パート・パーカッションは後方中央、ホルンは後方下手側、その他の金管は後方上手側に位置する。
着席位置は一階正面ど真ん中から僅かに後方、客の入りは七割程であろうか。一階席でも後方端に空席が目立った。観客の鑑賞態度は概ね極めて良好であった。
演奏について述べる。
権代敦彦の「Vice Versa」(「逆も真なり」)が本日の白眉である。プレトークによると、作曲に当たり、井上道義から二楽章形式で作るように、注文があったそうだ。バリバリの現代音楽らしい現代音楽なので、好みは別れるだろう。冒頭の掴みの段階で魅了され、私の頭蓋骨が共鳴する不思議な感覚を味わう。権代敦彦が譜面に描いた世界を、十分に検討され、よく考えられた構成で、パッションとニュアンスを込めて、精緻な表現で聴かせる。OEKの実力を十全に引き出す演奏だ。
ハイドン87番は、響きが「大ホールのハイドン」であまり迫らない。上手に演奏しているが、ハイドンならではの歓びに満ちた演奏ではなく、解釈は平凡である。ただ、「Vice Versa」と「春の祭典」の谷間であり、大きな期待を掛けるのは難しいだろう。
「春の祭典」は日本センチュリー交響楽団を招いての合同の演奏であり、この演奏会の目玉となる曲目である。しかしながら、指揮者である井上道義自身の準備不足・解釈不足が感じられる、欲求不満な演奏だ。ティンパニ強打と金管の技倆のみに逃げ込んだ解釈で、おどろおどろしさと野蛮さに欠け、何を表現したかったのか不明確な演奏であり、非難に値する。
特に第一部では、ソロを際立たせるべき箇所で弱い響きしか出せなかった。
井上道義の弦楽セクションの響きに対する関心の稀薄ぶりは唖然とする他ない。弦楽セクションにやってもらう事は、いくらでもあるはずだが、おそらく、リハーサルでこんな響きにして欲しいとの要望も指示もしないし、実現するまで練習もさせないし、そもそも弦楽に対する考え自体を、まとめていなかったのだろう。要するに準備不足で、井上道義が「春の祭典」やるのは十年早かったのではないか?
「春の祭典」は金管とティンパニをぶっ放せばいい曲では決してない。どの曲目でも一緒だが、弦管打が揃わなければいい演奏にはならない。特に弦楽は全ての基礎だ。弦楽が大きく出て、はじめて全ては回り始める。弦楽に対する無関心は正当化できない。
日本センチュリー交響楽団と合わせ、あれだけ素晴らしい弦楽奏者を揃えといて、あんな結果かよ、と言う感じだ。アンコールの「六甲おろし」であれだけ響かせて、どうして本番ではああなのか?「求めよ、さらば与えられん」だろう。求めなかったのだよな、指揮者井上道義は。
井上道義の解釈の是非は置いておいて、ティンパニは素晴らしい。ホルンはあまりに綺麗過ぎる響きで「春の祭典」向けではないけど、実に見事であった事は確かである。あと、「生贄の踊り」の場面での上手側金管も素晴らしい響きで魅了させられた。それだけに、この合同オケから「春の祭典」は今日の演奏の三倍は引き出せる。もっとやれるだろう、と言う欲求不満の気持ちでいっぱいだった。
井上道義は、指揮台の上で変な格好つけなくていいし、マイクパフォーマンスなどいらないから、音楽そのもので勝負するべきだろう。純粋にエンターテイメント追求型のファンタジー-シリーズなら、各種パフォーマンスは許容されるが、井上道義はやっている事の方向性が何もかも間違っている。OEKは井上道義を切り、ピリオド系の才能ある若手指揮者を音楽監督に据えなければならない。
2015年7月12日日曜日
Kioi Sinfonietta Tokyo, the 20th Anniversary Concert, review 紀尾井ホール・紀尾井シンフォニエッタ東京 創立20周年 特別演奏会 評
2015年7月11日 土曜日
Saturday 11th July 2015
紀尾井ホール (東京)
Kioi Hall (Tokyo, Japan)
曲目:
Johann Sebastian Bach: Messa in Si minore BWV.232 (ミサ曲ロ短調)
soprano: Sawae Eri, Fujisaki Minae / 澤江衣里, 藤崎美苗
contralto: Aoki Hiroya / 青木洋也
tenore: Nakashima Katsuhiko / 中嶋克彦
basso: Kaku Toru / 加耒 徹
Coro: Kioi Bach Chor (合唱:紀尾井バッハコーア)
orchestra: Kioi Sinfonietta Tokyo(紀尾井シンフォニエッタ東京)
direttore: Trevor David Pinnock / トレヴァー=ピノック
紀尾井シンフォニエッタ東京(KST)は、トレヴァー=ピノックを指揮者に迎えて、2015年7月10日・11日に東京-紀尾井ホールで、「紀尾井ホール・紀尾井シンフォニエッタ東京創立20周年記念 特別演奏会」を開催した。この評は、第二日目の公演に対してのものである。
管弦楽配置は、舞台下手側から、第一ヴァイオリン→第二ヴァイオリン→ヴァイオリン-チェロ→ヴィオラのモダン配置で、コントラバスはチェロの後方につく。第二ヴァイオリンとチェロとの間にオルガンが置かれ、指揮台にはチェンバロが置かれ、オルガン奏者と向かい合う形となる。そのチェンバロは、ピノックによって弾かれる。
フルートは後方中央の下手側、後方中央の上手側には、下手側からオーボエ→ファゴットの順に配置される。ティンパニとトランペット、ホルンは、最も下手側に位置し、下手側バルコニーからは見えない位置だ。
着席位置は一階正面後方中央、チケットは完売している。観客の鑑賞態度は、極めて良好であった。
冒頭の合唱から心を捕まされる。紀尾井バッハコーアは、実質的にバッハ-コレギウム-ジャパンの合唱である。澤江衣里、青木洋也、中嶋克彦が素晴らしい。澤江衣里・中嶋克彦の二重唱は、実に相性が良くて前半の白眉である。
澤江衣里のソプラノは、終始自由自在に紀尾井ホールを響かせ、やり過ぎない程度にドラマティックで、歌唱分野をリードしている。
一方で青木洋也のコントラルトは、切々と訴える表現で、聴衆の心に語りかける。主に憐れみを乞う内容を踏まえ、紀尾井ホールの響きを的確に味方につけて歌い上げる。ソプラノとは対称的な役割を与えられているコントラルトであるが、完成度高い歌唱で、心を惹きつけられるソロである。
合唱は30人弱の規模でも、紀尾井ホールでは迫力をも伴う。下手側のソプラノが二歩前に出ると、天国が出現する。私は、他のパートから二歩前に出てくるBCJのソプラノが大好きで、完全に私の好みの展開でもある。
一方管弦楽は控え目で、奇を衒わない方向性でありながら、パッションを込めるべき所は実は攻めている。トランペットの響きは、突出させず精妙にブレンドさせる方向性である。この曲のこの箇所はこのように演奏される必要があると、高い理解の下で弾かれている印象を持つ。
Sanctusでは合唱・管弦楽・ホールが三位一体となって迫ってくる。響きが綺麗なだけでなく、迫ってくるというのが大切なのだ。800席の中規模ホールである、紀尾井ホールならではの響きである。このような響きを指向した紀尾井ホールの20周年を祝福するような、幸福感に満ちた時間だ。
今日は紀尾井ホール始まって以来の観客の素晴らしさだった。演奏中に寝ている人たちはいても(曲想上、これは仕方ない♪)物音はほとんどなかったし、何よりも、指揮者が明確に終了の合図を出してから拍手が沸き起こった事は重大な意味を持った。
曲を終える際の響きの消え去り方は本当に絶妙だった。あのような美しい響きの消え去り方は、なかなか味わえない。最後のあの響きの消え去りの絶妙さは、観客によって尊重され、共有された。"Dona nobis pacem" 平安は我らに与えられた。
Saturday 11th July 2015
紀尾井ホール (東京)
Kioi Hall (Tokyo, Japan)
曲目:
Johann Sebastian Bach: Messa in Si minore BWV.232 (ミサ曲ロ短調)
soprano: Sawae Eri, Fujisaki Minae / 澤江衣里, 藤崎美苗
contralto: Aoki Hiroya / 青木洋也
tenore: Nakashima Katsuhiko / 中嶋克彦
basso: Kaku Toru / 加耒 徹
Coro: Kioi Bach Chor (合唱:紀尾井バッハコーア)
orchestra: Kioi Sinfonietta Tokyo(紀尾井シンフォニエッタ東京)
direttore: Trevor David Pinnock / トレヴァー=ピノック
紀尾井シンフォニエッタ東京(KST)は、トレヴァー=ピノックを指揮者に迎えて、2015年7月10日・11日に東京-紀尾井ホールで、「紀尾井ホール・紀尾井シンフォニエッタ東京創立20周年記念 特別演奏会」を開催した。この評は、第二日目の公演に対してのものである。
管弦楽配置は、舞台下手側から、第一ヴァイオリン→第二ヴァイオリン→ヴァイオリン-チェロ→ヴィオラのモダン配置で、コントラバスはチェロの後方につく。第二ヴァイオリンとチェロとの間にオルガンが置かれ、指揮台にはチェンバロが置かれ、オルガン奏者と向かい合う形となる。そのチェンバロは、ピノックによって弾かれる。
フルートは後方中央の下手側、後方中央の上手側には、下手側からオーボエ→ファゴットの順に配置される。ティンパニとトランペット、ホルンは、最も下手側に位置し、下手側バルコニーからは見えない位置だ。
着席位置は一階正面後方中央、チケットは完売している。観客の鑑賞態度は、極めて良好であった。
冒頭の合唱から心を捕まされる。紀尾井バッハコーアは、実質的にバッハ-コレギウム-ジャパンの合唱である。澤江衣里、青木洋也、中嶋克彦が素晴らしい。澤江衣里・中嶋克彦の二重唱は、実に相性が良くて前半の白眉である。
澤江衣里のソプラノは、終始自由自在に紀尾井ホールを響かせ、やり過ぎない程度にドラマティックで、歌唱分野をリードしている。
一方で青木洋也のコントラルトは、切々と訴える表現で、聴衆の心に語りかける。主に憐れみを乞う内容を踏まえ、紀尾井ホールの響きを的確に味方につけて歌い上げる。ソプラノとは対称的な役割を与えられているコントラルトであるが、完成度高い歌唱で、心を惹きつけられるソロである。
合唱は30人弱の規模でも、紀尾井ホールでは迫力をも伴う。下手側のソプラノが二歩前に出ると、天国が出現する。私は、他のパートから二歩前に出てくるBCJのソプラノが大好きで、完全に私の好みの展開でもある。
一方管弦楽は控え目で、奇を衒わない方向性でありながら、パッションを込めるべき所は実は攻めている。トランペットの響きは、突出させず精妙にブレンドさせる方向性である。この曲のこの箇所はこのように演奏される必要があると、高い理解の下で弾かれている印象を持つ。
Sanctusでは合唱・管弦楽・ホールが三位一体となって迫ってくる。響きが綺麗なだけでなく、迫ってくるというのが大切なのだ。800席の中規模ホールである、紀尾井ホールならではの響きである。このような響きを指向した紀尾井ホールの20周年を祝福するような、幸福感に満ちた時間だ。
今日は紀尾井ホール始まって以来の観客の素晴らしさだった。演奏中に寝ている人たちはいても(曲想上、これは仕方ない♪)物音はほとんどなかったし、何よりも、指揮者が明確に終了の合図を出してから拍手が沸き起こった事は重大な意味を持った。
曲を終える際の響きの消え去り方は本当に絶妙だった。あのような美しい響きの消え去り方は、なかなか味わえない。最後のあの響きの消え去りの絶妙さは、観客によって尊重され、共有された。"Dona nobis pacem" 平安は我らに与えられた。
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