2014年8月4日月曜日

「サイトウ-キネン-フェスティバル」の終わりの始まり

松本市民の一人として、「サイトウ-キネン-フェスティバル」の名称が来シーズンから「セイジ-オザワ松本フェスティバル」に変わる件については、冷笑的な態度しか取れない。まあ、勝手にしろと言ったところである。「実態通りになったね」とでも、皮肉の一つでも言っておこうか。

「サイトウ-キネン」にしろ「セイジ-オザワ」にしろ、小澤征爾が指揮台に立てなくなったところで、このフェスティバルは終わりだ。それでいいと思っている。

このフェスティバルは、主催する側にしろ観客にしろ、小澤征爾に全てを依存している。チケット発売日の、ファビオ=ルイージの歌劇と小澤征爾のプログラムとの列の差からして、観客の小澤征爾へのべったりぶりはあきれるほどのものであったし、1992年から開始してから22年間、小澤征爾の後継の核となる指揮者・監督を育ててくることもなかった。

サイトウ-キネンのオケが「田園」で無気力でつまらない演奏をしても、ブルックナーで金管のコントロールに大失敗した演奏をしていても、小澤征爾が指揮をしていると言うだけで観客はスタンディングオベーションを繰り広げる異常な雰囲気を見てきた。

歌劇は歌劇で、歌い手のソリストは手を抜いている事例が多すぎた。マトモに歌ったのは山田和樹が睨みを効かせて振った時くらいで(この時も小澤征爾が連れてきたイザベル=カラヤンは手を抜きやがった!この時ほどイザベル=カラヤンと小澤征爾に怒りを感じた時はなかった。あの二人がいなかったら、山田和樹の「ジャンヌダルク」は完璧な出来だったのだ!)、小澤征爾は概して、放置すれば暴走族と化す管弦楽のコントロールをロクにしていなかったし、歌劇の総監督としては無能と言える。リッカルド=ムーティの爪の垢でも煎じて飲めとでも言いたくなる。

室内楽も、まあ一定水準は保っているけど、ロバート=マンがいらっしゃった時の名演はもう期待できないだろう。

サイトウ-キネンにしろセイジ-オザワにしろ、このフェスティバルの終わりは近付いている。主催する側にしろ観客にしろ、無能な者が多かった。松本市民として観客として参加した私にとって、この事は恥としか言いようがない。

サイトウ-キネンよりも水戸室内管弦楽団の方がはるかに優秀だし(当然と言えば当然であるが)、ここ一年を除けば水戸は小澤征爾の依存度が少なかった。吉田秀和さんが亡くなられても、学芸員が充実しているし、水戸芸術館は上手くやっていけるだろう。この事と比較し、松本はどうだったのか?サイトウ-キネンに関わってきた者は(もちろん私を含めて)よくよく考え、どのようにこのフェスティバルを終わらせるかを考える時期に来ているのではないだろうか。

2014年6月4日水曜日

デヴィッド=ビントレー監督の退任と、政府・新国立劇場のあるべき役割


デヴィッド=ビントレー新国立劇場舞踏部門芸術監督の記事を紹介し、考えた事を述べたい。彼はこの8月で惜しまれながらその職を辞することとなる。

http://www.yomiuri.co.jp/culture/classic/clnews/02/20140523-OYT8T50246.html?from=tw

「日本で古典への愛情がものすごく深いことが、前に進む妨げになっていないでしょうか。ダンサーは時代を反映することが出来る。それをしないと150年前の作品を再現するだけになる」との発言は重い。大原永子次期監督が選んだ2014/2015シーズンの演目は19世紀バレエばかりで、現代作品の演目はほとんどない。

19世紀バレエの演目をやるなと言うわけではないが(むしろ一定比率で上演するべき)、このような演目ばかりを上演することが国立の劇場としての使命ではない。(様々な問題を抱えているとはいえ)日本には民間のバレエカンパニーがあり、採算をも重視しなければならないこのようなバレエカンパニーが19世紀バレエばかりになるのはやむを得ない。国立の劇場が為すべき役割はもっと広範である。

(少なくとも日本では)観客が見込めない現代作品を取り上げ、発信することは民間カンパニーでは不可能であり、日本国政府が担わなければならない役割の一つである。潤沢な資金を新国立劇場に拠出し、現代バレエ作品の発信に寄与しなければならない。

大原永子次期監督は、「歴史と伝統を持つクラシック・バレエを大切にしなければならない」(The Atre 2014年5月号 6頁)と発言している。しかし、2014/2015シーズンの演目を正当化している意図を持つ彼女の「クラシック」の概念は狭量であり、19世紀バレエ以外は「クラシック」ではないと宣言しているとしか思えない。

言うまでもなくバレエは何百年の歴史を有するものであり、チャイコフスキーに代表される19世紀バレエ作品だけが「クラシック」バレエ作品ではない。18世紀のバレエは無価値なのか?チャイコでなければ「クラシック」ではないのか?

2014年5月26日にNHK-FMにて、マルク=ミンコフスキ指揮ヴィーンフィルハーモニー管弦楽団演奏で、グルック作曲バレエ音楽「ドン-ファン」が流れたが、このような18世紀以前のバレエ作品に光を当てるのも、日本国政府・新国立劇場の役割の一つであろう。

演目の「バランスが大事です」、このビントレー監督の遺言を大原永子次期監督は深く認識し、2015/2016シーズンの演目に反映するべきであろう。

2014年5月31日土曜日

ローマ歌劇場 歌劇「シモン=ボッカネグラ」 評 Teatro dell’Opera di Roma ‘Simon Boccanegra’

2014年5月31日 土曜日/ Saturday 31st May 2014
東京文化会館 (東京)/ Tokyo Bunka Kaikan(Tokyo, Japan)

演目:
ジュゼッペ=ヴェルディ 歌劇「シモン=ボッカネグラ」 Giuseppe Verdi ‘Simon Boccanegra’

シモン=ボッカネグラ:ジョルジョ=ペテアン(George Petean)
アメーリア(マリア=ボッカネグラ):エレオノーラ=ブラット(Eleonora Buratto)
ガブリエーレ=アドルノ:フランチェスコ=メーリ(Francesco Meli)
ヤーコポ=フィエスコ:ドミトリー=ベロセルスキー(Дмитрий Белосельский / Domitry Beloselskiy)
パオロ=アルビアーニ:マルコ=カリア(Marco Caria)
ピエトロ:ルーカ=ダッラミーコ(Luca dall’Amico)
伝令:サヴェリオ=フィオーレ(Saverio Fiore)
侍女:シムゲ=ビュユックエデス(Simge Büyükedes)

合唱:ローマ歌劇場合唱団(Coro del Teatro dell’Opera di Roma)

演出:エイドリアン=ノーブル(Adrian Noble)
美術:ダンテ=フィレッティ(Dante Ferretti)
衣装:マウリツィオ=ミレノッティ(Maurizio Millenotti)
合唱指揮:ロベルト=ガッビアーニ(Roberto Gabbiani)

管弦楽:ローマ歌劇場管弦楽団(Orchestra del Teatro dell’Opera di Roma)
指揮:リッカルド=ムーティ(Riccardo Muti)

ローマ歌劇場は、2014年5月20日から6月1日までの日程で、ジュゼッペ=ヴェルディ「ナブッコ」、同「シモン=ボッカネグラ」を、東京にて三公演ずつ、計6公演に渡って繰り広げられた。この評は、「シモン=ボッカネグラ」第三回目(千秋楽)5月31日の公演に対するものである。

着席位置は一階中央僅かに後方僅かに上手側である。チケットは公演日近くで完売した模様である。観客の鑑賞態度は概ね良好であったが、終了時にムーティが左手を挙げている状態であるのにも関わらず拍手が出る状態であった。

切符の購入は、バルバラ=フリットリ(Barbara Frittoli)降板の知らせを聞いて購入した。フリットリは2013年5月19日にタケミツメモリアルで、メッタメタな状態の歌声を本番中に聴かせた挙句、なぜかアンコールだけ完璧に歌い上げる訳の分からないリサイタルを披露した。この時以来、私はフリットリの歌唱能力に対し全面的な不信を抱いている。

フリットリは2013年12月トリノ歌劇場日本公演の際にも、トスカ役を降板しており、その時の理由がスピント-ソプラノ(太く強靭な声を要する)役からの敵前逃亡を理由としたものであった。トリノの降板も今回の降板も、予想の範囲内での展開である。巨大な規模を誇る東京文化会館に恐れを抱き、病気を理由に敵前逃亡をしたのだろう。タケミツメモリアルであんな状態の彼女が、東京文化会館で歌えるわけがない。

ムーティはいつの間にか、何が起こってもおかしくない年齢になってきており、そろそろ聴きに行くべき時かという想いと、バルバラ=フリットリに対する不信とがせめぎあい、結果チケットの購入はしないで置いていた。降板の知らせの後、「残り物には福がある」のか、まあ許容できる席が売れ残っていたので、購入した次第である。

休憩は、第一幕と第二幕の間のみの一回のみである。

舞台は伝統的なものであり、衣装を含めて前衛的な要素は何一つない、正統的なものだ。舞台で観客の目を眩ます事はせず、音のみで勝負する形態である。幕・場毎に場面転換が行われた。

ソリストの出来について述べる。

一番素晴らしいかったのは、文句なしにガブリエーレ役のフランチェスコ=メーリである。終始抜群の安定感を保ち、若手貴族の純真さを的確に演じていた。

また、フィエスコ役のドミトリー=ベロセルスキーは、第一幕まではメーリと同様に素晴らしい。

題名役のジョルジョ=ペテアンは、ベストとは言い難い出来で有るが、後半は破綻なく歌い切る。

アメーリア役のエレオノーラ=ブラットは、特に前半部が声をリニア(線形)にコントロール出来ず不安定ではあったが、強く歌う箇所の表現は出来ていた。エレオノーラ=ブラットは、少なくとも最強唱部分でのパワーでは明らかにバルバラ=フリットリを上回っており、代役の責任は十二分に果たしたと言える。

パオロ役のマルコ=カリアの出来は良くなかった。全般的にソリストの出来は、後半になるに従って良くなって来たが、ムーティと管弦楽に救われたところはある。

合唱の扱いは非常に適切で、第一幕で舞台裏から歌う時点から音量・響きともによく考えられており、その重要な役割を果たす。

管弦楽は極めて素晴らしい出来だ。歌い手を上手に引き立てつつ、ソリスティックな部分では的確に聴かせどころを決めていく。

リッカルド=ムーティは十二分に準備を重ねてきた事が伺えた。歌い手を引き立たせるにはどうしたら良いか、一方で曲想に応じてどこで管弦楽を走らせるか、その選択は的確だった。ムーティによる管弦楽の設定は非常に見事で、本当に必要ある場面以外では管弦楽を鳴らさず、見事な統制力と構築力を見せつける。

管弦楽を暴走に任せ、歌い手を殺す指揮者が新国立劇場に来ているのをこの耳で知っている私としては、リッカルド=ムーティのオペラ指揮者として極めて模範的であることを認識させられる。ムーティが走らせる管弦楽に乗れないのだとしたら、それは全面的に歌い手の責任である。

巨大な死んだ響きの東京文化会館を考慮すると、上演水準は高く、新国立劇場やサイトウ-キネン-フェスティバルの歌劇公演を軽く上回る出来ではあるが、それでも全てのソリストがメーリ並みの水準に達していたとは言い難く、54,000円のチケット代に見合うかと言われるとやや疑問ではあった。

2014年5月17日土曜日

ゴラン=コンチャル+エフゲニー=ザラフィアンツ デュオ-リサイタル 松本公演 評

2014年5月17日 土曜日
松本市音楽文化ホール (長野県松本市)

曲目:
ルートヴィッヒ=ファン=ベートーフェン ヴァイオリン-ソナタ第5番 op.24
フランツ=シューベルト ヴァイオリンとピアノのための二重奏曲 op.162 D.574
(休憩)
フレデリック=ショパン ポロネーズ第2番 op.26-2 (※2)
ヨハン=セバスティアン=バッハ 無伴奏ヴァイオリンパルティータ第3番 BWM1006から「前奏曲」 (※1)
ウジェーヌ=イザイ 無伴奏ヴァイオリン-ソナタ第2番 op.27 (※1)
パブロ=サラサーテ 「ツィゴイネルワイゼン」
カミーユ=サン-サーンス 「序奏とロンド-カプリッチョーソ」

(※1)ヴァイオリン-ソロによる演奏
(※2)ピアノ-ソロによる演奏

ヴァイオリン:ゴラン=コンチャル (Goran Končar)
ピアノ:エフゲニー=ザラフィアンツ (Evgeny Zarafiants)

ゴラン=コンチャルとエフゲニー=ザラフィアンツは、それぞれ別個に日本ツアーを組み、ゴラン=コンチャルは、東京(五反田文化センター音楽ホール)・小山(栃木県)・松本・京都(青山記念音楽堂)で、エフゲニー=ザラフィアンツは東京(王子ホール・五反田文化センター音楽ホール)・京都(ゲーテ-インスティチュート-ヴィラ鴨川)・武蔵野市(東京都)にて公演を行っている。この二人の組み合わせは、五反田文化センターの公演と松本公演の二回のみである。この評は5月17日に開催された、松本市音楽文化ホールでの公演に対する者である。

ゴラン=コンチャルはクロアチアのヴァイオリニスト、エフゲニー=ザラフィアンツはロシア出身ではあるが、現在はクロアチアに本拠を構えているピアニストである。

着席位置は正面中央上手側、観客の入りは七割程で、チケットは完売には至らなかったようだ。観客の鑑賞態度は、ややノイジーな状態である。

ゴラン=コンチャルは、ソリストとしての基本的な技量に欠けている。

第一曲目のベートーフェンの時点で、音はか弱くピアノの響きに埋没し、「響き」になっていない。当然、松本市音楽文化ホールの優秀な残響を味方につける事も出来ていない。

第二曲目のシューベルトは、先月庄司紗矢香によっても演奏された曲でもあり、実力差は歴然としている。庄司紗矢香が一歩引く演奏をするときは、プレスラーを立てるためという目的がはっきりしているが、コンチャルはそもそもピアノに対抗できない状態で、およそソリストとしての素養を有しているとは言えない。

バッハの無伴奏、イザイの無伴奏については、ピアノが外れた事もありいくらか聴いた印象は良くなるが、それでも響きが混濁してきちんと音符を弾いているか疑問が残る箇所があるし、イザイに至っては重要な「怒りの日」の動機を明確に表出する事すら出来ていない箇所があり、またこの曲の激しい性格の表現は為されなかった。(ちょうど二週間前に聴いたばかりの)アリーナ=イブラギモヴァのような激しさを表現しろとまでは言わないが、それとは別方向で攻めるのであれば、それなりの明晰な演奏でもって説得力を持たせるべきで、そのような説得力がないコンチャルの演奏はわざわざ聴くには値しないだろう。

5月18日に京都青山記念音楽館に登場するようだが、コンチャルの演奏に失望した聴衆による暴動が起きないか心配でならない。

一方、エフゲニー=ザラフィアンツのピアノは前半のベートーフェン・シューベルトともまともなアプローチで、ヴァイオリンさえ完璧であれば十分に噛み合う事が期待できる演奏だ。ショパンのポロネーズは、技術的な面に於ける問題があってクリアな要素が欠ける部分があり、「彩の国さいたま芸術劇場ピアノエトワールシリーズ」に出演する若手ピアニストの方が上手であるなあとは思わされるが、それでも響かせようとしているだけコンチャルよりはマシな状態だ。

「ツィゴイネルワイゼン」以降の出来は、何故かヴァイオリンとピアノのコンビネーションが格段に良くなり、まあ聴ける状態にはなる。アンコールは三曲あり、マスネの「タイスの瞑想曲」、モンティの「チャールダーシュ」、クライスラーの「愛の悲しみ」の三曲であり、アンコールについては一曲目と三曲目は良い出来であった。

「おやすみなさいのBGM」やら「就寝時の音楽」やらのCDを作成するのであれば、本当に優秀な演奏家であるが、ちょっとでも技量を要する箇所となると、(特にコンチャルは)自らが意図する表現を表出する技量に欠けており、彼以上の優秀な若手演奏家がたくさんいる中で日本ツアーを実現させた意義はないと言ってよい。招聘する側としては、目利きを良くする必要があるだろう。

ここ六カ月の間にヴァイオリンのソリストとして聴いた演奏者は、庄司紗矢香・諏訪内晶子・リサ=ヴァティアシュヴィリ・アリーナ=イブラギモヴァ・ピンカス=ズッカーマンと続いてきた。長野県松本市に住んでいる私としては、ヴァイオリンのソリストはこの水準で演奏されて当たり前だと思っていたが、この環境は贅沢な環境であったのか。その事を思い知らせてくれただけでも感謝するべきなのかも知れない。

2014年5月10日土曜日

ピンカス=ズッカーマン + 宮崎国際音楽祭管弦楽団 演奏会 評

2014年5月10日 土曜日
宮崎県立芸術劇場 (宮崎県宮崎市)

曲目:
ヨハネス=ブラームス 交響曲第2番 op.73
(休憩)
ヨハネス=ブラームス ヴァイオリンとヴァイオリン-チェロのための二重協奏曲 op.102

ヴァイオリン:ピンカス=ズッカーマン (Pinchas Zukerman)
ヴァイオリン-チェロ:アマンダ=フォーサイス (Amanda Forsyth)
管弦楽:宮崎国際音楽祭管弦楽団
指揮:ピンカス=ズッカーマン(交響曲)・徳永二男(二重協奏曲)

第19回宮崎国際音楽祭は、2013年4月29日から5月18日までにわたり、宮崎県立芸術劇場を中心に、室内管弦楽・室内楽を中心に10以上の公演を開催し、無事終了した。この評は、演奏会2、「ブラームス・深淵なる響き」の題名の下5月10日に開催された演奏会に対してのものである。

宮崎国際音楽祭に臨席するのも、ピンカス=ズッカーマンの演奏を聴くのも二度目である。着席位置は、一階中央僅かに下手側である。観客の入りは六割程で、一階後方、二階三階バルコニー席に空席が目立つ。観客の鑑賞態度は、僅かに拍手のタイミングが早いが、概ね良好であった。

管弦楽配置は、舞台下手側から第一ヴァイオリン→第二ヴァイオリン→ヴァイオリン-チェロ→ヴィオラの順である。

交響曲2番は、第二・第三楽章の木管・ホルンが素晴らしい音色で響かせる。特に第二楽章のホルンのソロは、まあバボラーク程ではないけれど、それでも確実に決めて引き締める演奏だ。全般的に荒削りの箇所がないとは言えないが、管弦楽それぞれがパッションを出せば良い出来になるのだと実感させられる。2009年の小澤征爾指揮によるサイトウ-キネン-オーケストラの演奏はあまりにつまらなく覇気がなく無気力で、最後の90秒以外は聴いていられない状態で、この曲が嫌いになっていた状態であったが、宮崎で再びこの第二交響曲の魅力を認識させられる演奏に出会える。今日の演奏は、もちろん最後の90秒の盛り上がりも、全管弦楽が精緻に揃い綺麗に決める。

二曲目の二重協奏曲は、ズッカーマンのソロが聴ける事もあり、ほぼこの曲目当てに宮崎まで来たようなものだ。どのような出来となるだろうか。

第一楽章冒頭、アマンダ=フォーサイスのチェロの音が細く、ピンカス=ズッカーマンのヴァイオリンはどう考えてもアマンダを庇っている演奏で、いつものズッカーマンらしさが希薄となってしまう。第一楽章冒頭ではアマンダのチェロの音の細さが影響して、音の多い箇所でズッカーマンとの二人のソロでどのような音を伝えるのか、不鮮明な箇所もあった。しかし、曲が進むにつれ是正される。

一方管弦楽は冒頭から全力全開で思いっ切りの良い演奏で、ホールを豊かな響きで満たす。まるでソリスト(特にアマンダ)に対して総決起を促しているかのようなパッションに溢れている。ソリスト級を含め力のある楽団員を揃えている宮崎国際音楽祭管弦楽団の本領が十全に発揮されている。

このような管弦楽の決起と、ズッカーマンがアマンダに引きずらずにマイペースを取り戻し、アマンダも十分ではないにしろ響かせる演奏になっていく。ここまで来れば、全てがうまく噛み合う演奏となる。宮崎県立芸術劇場の素晴らしい残響を味方につけ活かした、素晴らしい演奏だ。

アンコールはコダーイの「ヴァイオリンとヴァイオリン-チェロ二重奏曲」から一曲であった。

2014年5月3日土曜日

アリーナ=イブラギモヴァ 無伴奏ヴァイオリン-リサイタル 評

2014年5月3日 土曜日
電気文化会館 (愛知県名古屋市)

曲目:
ウジェーヌ=イザイ 無伴奏ヴァイオリン-ソナタ op.27
第1番 ヨーゼフ=シゲティに献呈
第2番 ジャック=ティボーに献呈
第3番 「バラード」 ジョルジェ=エネスクに献呈
(休憩)
第4番 フリッツ=クライスラーに献呈
第5番 マチュー=クリックボームに献呈
第6番 マルエル=キロガに献呈

ヴァイオリン:アリーナ=イブラギモヴァ
(Алина Ринатовна Ибрагимова / Alina Rinatovna Igragimova)

アリーナ=イブラギモヴァは、4月30日から5月3日に掛けて来日ツアーを行い、トッパンホール(東京)、電気文化会館(名古屋)にてリサイタルを行った。いずれも曲目は、イザイの無伴奏ヴァイオリン-ソナタである。在住国の連合王国にても、日本ツアーの後で123を一回、456を一回、全てを一回の公演がある。

アリーナ=イブラギモヴァは1985年9月28日に、当時のソヴィエト連邦スヴェルドロフスク州に生まれた。10歳の時に、父親がロンドン交響楽団コントラバス首席奏者として就任したことに伴い連合王国に移住し、現在も本拠としている。

イブラギモヴァの評判については、名古屋に於ける聴衆仲間からの噂で聴きつけた。まだ20代の彼女の演奏スタイルは「激しい」らしく、どちらかと言うとカワイイ系の顔立ちを売り物としている写真からは、想像できない。電気文化会館の宣伝チラシによると、「”妖精”イブラギモヴァが誘う。イザイの深淵」との事である。

そもそも東京での公演日は平日であり、かつわざわざ最新鋭の劣悪な音響設計で建築したトッパンホールに、この私が行くはずがない。当然名古屋の電気文化会館で決定である。着席位置は、一階中央やや前方である。客の入りは7割くらいであろうか。予想外の少なさである。聴衆の鑑賞態度は良好であった。

第1番は、演奏スタイルにリサ=バティアシュヴィリとそう変ったところはない。特別な「激しさ」は感じない。

第2番が始まる。最初の一小節だか三音だかは、実に繊細に優しい響きで弾いているなあと思いきや、突然豹変しアリーナの激しい本性が表出される。そのコントラストに圧倒される。第3番は「バラード」のタイトルに拘束されず、「激しさ」を織り込んだ演奏である。後半の4・5・6番は曲想こそおとなしめになるが、演奏スタイルは変わっていない。トッパンホール公演では最終局面で疲れが出たとの情報もあるが、今日の電気文化会館での公演では最後の最後まで緊張感が途切れない抜群の安定感を保っている。

アリーナの傑出しているところは、実は「激しさ」を伴うところも極めて緻密に演奏しているところだ。重音の美しさも何らの淀みもない。感情に全てを任せる事もせず、パッション溢れる演奏スタイルで観客の目を眩ませることもなく、全ては綿密な構成力の下で全ての響きが成り立っている。一音一音のあらゆる場面が必然と感じられる。完璧と言ってよい。身体能力の高さの面では若さの特権を活かしつつ、産み出される音楽は28歳とは思えない演奏だった。

無伴奏と言う事もあり、アンコールはなし。唯一の突っ込みどころは、「妖精」の宣伝文句の割にはふっくらとしていたことくらいしかない。この12月にはJ.S.バッハの無伴奏を同じ電気文化会館で演奏する。その時までにはダイエットを済ませて、「妖精」の宣伝文句の通りになってくださいね、アリーナたん♪♪

2014年4月27日日曜日

モイツァ=エルトマン+グザヴィエ=ドゥ-メストレ デュオ-リサイタル評

2014年4月27日 日曜日
青山音楽記念館 バロックザール (京都府京都市)

曲目:

フランツ=シューベルト:男なんてみんな悪者 op.95 D.866-3
フランツ=シューベルト:至福 D.433
フランツ=シューベルト:乙女 D.652
フランツ=シューベルト:野ばら op.3-3 D.257
フランツ=シューベルト:月に寄せて D.259
フランツ=シューベルト:糸を紡ぐグレートヒェン op.2 D.118
ヴォルフガング=アマデウス=モーツァルト:ピアノ-ソナタ 第16番 K.545 (※)
ヴォルフガング=アマデウス=モーツァルト:歌劇「フィガロの結婚」 K.492 より「さあ早く来て、いとしい人よ」(スザンナのアリア)
ヴィンツェンツォ=ベッリーニ:歌劇「カブレーティとモンテッキ」より「ああ幾度か」
(休憩)
リヒャルト=シュトラウス:ひどい天気 op.69-5
リヒャルト=シュトラウス:万霊節 op.10-8
リヒャルト=シュトラウス:私の思いのすべて op.21-1
リヒャルト=シュトラウス:何もなく op.10-2
リヒャルト=シュトラウス:あなたは私の心の王冠 op.21-2
リヒャルト=シュトラウス:セレナーデ op.17-2
ベドルジハ=スメタナ:交響詩「わが祖国」より「モルダウ」 (※)
ジュゼッペ=ヴェルディ:歌劇「リゴレット」より「愛しき御名」(ジルダのアリア)
アントニオ=サリエーリ:歌劇「ダナオスの娘たち」より「あなたの娘が震えながら」
ジャコモ=プッチーニ:歌劇「ジャンニ=スキッキ」より「私のいとしいお父さん」(ラウレッタのアリア)
(※:ハープのみ)

ソプラノ:モイツァ=エルトマン (Mojca Erdmann)
ハープ:グザヴィエ=ドゥ-メストレ (Xavier de Maistre)

ドイツ連邦共和国ハンブルク市で生まれたモイツァ=エルトマンは、フランス人ハープ奏者であるグザヴィエ=ドゥ-メストレとともにこの4月に日本ツアーを行い、東京(タケミツメモリアル及び王子ホール)・兵庫県西宮市(兵庫県立芸術文化センター)・京都(青山音楽記念館バロックザール)にて演奏会を開催した。この評は、4月27日に開催された京都公演に対してのものである。なお、最も理想的な環境である、十分な残響が保たれた中・小規模ホールでの開催は、この日本ツアーで京都公演が唯一のものである。

着席位置はやや前方上手側、チケットは完売した。観客の鑑賞態度はかなり良好であり、特に拍手のタイミングが完全に曲が終わってから為されていた。

モイツァの調子はとても良い。サウンドチェックは完璧に為されており、青山音楽記念館の音響を完全に我がものとして、自由自在に操っている。第一曲目から浮気する男に対して怒っているような表情を見せながら、完成度の高い響きで観客の心を掴んでいく。曲の構成力も優れており、曲の最初の穏やかなところからクライマックスに達するまでの波状攻撃が実に巧みだ。第一波よりも強く第二波が押し寄せ、さらに強い第三波で観客を熱狂に追い込む。青山音楽記念館の音響が実に懐が深く、弱音からかなり強い音まで綺麗に響かせる。モイツァはそのホールの特質を完全に掌握しており、自信を持って安定感のある三回転半ジャンプを繰り返す。

前半は、特に「糸を紡ぐグレートヒェン」・「ああ幾度か」はモイツァの特質を良く活かしている。後半も完璧な出来であるが、もう曲名すらどうでも良くなり、何も考えず、モイツァの歌声にただただ酔いしれる。

取ってつけたように、大して興味がない(♪)メストレのハープについても言及するが、モイツァを実に巧みに支えている。弱音も綺麗に響く。ハープソロは、「モルダウ」が素晴らしい。

アンコールは、リヒャルト=シュトラウスの「高鳴る心」op.29-2、シューベルトの「万霊の連祷」D.343の二曲であった。

昨年11月17日に三井住友海上しらかわホール(名古屋)で開催されたマグダレーナ=コジェナに引き続き、歌唱ソロ部門で傑出した声を味わうことができた。ホールの吟味を慎重に行い、大規模ホールは避け、中小規模の残響が豊かなホールを選択した事も成功要因の一つだったろう。このリサイタルの存在は、東京-初台にあるタケミツメモリアルのチケット売り場でチラシを漁っている最中に発見した。チラシの隅を読んだのか、検索を掛けたからなのか、青山音楽記念館で同一プログラムが日曜日に開催される事が判明し京都入りを決断、東京オペラシティ地下一階のサークルKに駆け下ってカルワザステーションを操作し、購入したものである。この日本ツアーについては、青山音楽記念館以外には考えられなかった。私の狙いは予想を超えて当たり、歌い手とハープとホールとが実にうまく絡み合い、私の心を幸せな気持ちにさせてくれた。

2014年4月13日日曜日

庄司紗矢香+メナヘム=プレスラー デュオ-リサイタル 松本公演 評

2014年4月13日 日曜日
松本市音楽文化ホール (長野県松本市)

曲目:
ヴォルフガング=アマデウス=モーツァルト ヴァイオリンとピアノのためのソナタ K.454
フランツ=シューベルト ヴァイオリンとピアノのための二重奏曲 op.162 D.574
(休憩)
フランツ=シューベルト ヴァイオリンとピアノのためのソナタ第1番 op.137-1 D.384
ヨハネス=ブラームス ヴァイオリンとピアノのためのソナタ第1番「雨の歌」 op.78

ヴァイオリン:庄司紗矢香
ピアノ:メナヘム=プレスラー

庄司紗矢香とメナヘム=プレスラーは、2014年4月1日から4月13日までに掛けて日本ツアーを行い、高崎(群馬県)・美深町(北海道中川郡、何とまあ、北海道は旭川の北の名寄の北の小さな町に登場したのだ!)・宇都宮・大阪・東京・鎌倉(神奈川県)・松本にて計7公演開催した。この評は、第七回目(最終回)4月13日松本市音楽文化ホールでの公演に対してのものである

庄司紗矢香は1983年生まれの、ヴァイオリニストであり、言うまでもなく世界的にトップレベルのヴァイオリン奏者である。この1月30日に31歳の誕生日を迎えた。今日は、松本で桜が開花し満開に近づきつつある事を踏まえたのか、桜色のドレスで観客の目を惹きつける。

メナヘム=プレスラーは1923年にドイツ、マクレブルク生まれで、昨年12月に90歳に達した。庄司紗矢香とは約60年の年の差で、祖父と孫のように思える。メナヘム=プレスラーは大変小柄な方で、あの庄司紗矢香よりも背が低い程だ。

着席位置は正面中央やや上手側、観客の入りは九割程で、チケットは完売には至らなかったようだ。観客の鑑賞態度は、致命傷にはならない程度に携帯電話の着信音があったものの、拍手のタイミングは余韻が消えた後に為され、またアタッカ気味に進められる曲の進行を妨げる動きもなく、その意味では大変良好であった。

曲を知っている人たちにとってはご存じの通り、聴衆に対しても集中力を要する曲目で、その全てが聴衆を眠らせる魔力を持った曲である。

二人とも目指した方向性は、技巧を見せつけるものではなく、如何に曲を鋭く解釈しニュアンスを豊かにして新たな生命を吹き込むか、と言ったところにある。

完成度は全般的にプログラムの進行とともに上がっていく。リピートがある部分では、二回目の方がより良い出来となっていく。

二人の関係性は、時にヴァイオリンが表に出たり、ピアノが表に出たり、二人で一緒に奏でたりと、かなり明確に区別している。二人とも弱音がとても豊かである。集中力に満ち、ニュアンスに富み、何気ないフレーズからすら新たな命が吹き込まれる名演である。特に最後のブラームスは完璧と言って良い。

プレスラーのピアノは、さすがに90歳であり肉体的に技巧を極める路線では決してないが、何をしたいのかが明確で、優しい響きで淡々と進めているようで、どこか深みが感じられる演奏である。

庄司紗矢香のヴァイオリンから発せられるニュアンスからは、新たな解釈が生まれる。紗矢香の素晴らしいところは、他の誰もが特に意識することなく通り過ぎる場面であっても、新しい世界を構築していく力があるところだ。間違いなく日本人の中で圧倒的な差を持ってトップに君臨するヴァイオリニストであるし、世界的にも彼女のような存在は(いたとしても)稀だろう。

アンコールは四曲あり、ドビュッシーの「亜麻色の髪の乙女」、ショパンの夜想曲第20番(プレスラーのソロ)、ブラームスの「愛のワルツ」、ショパンのマズルカ(op.17-4)(プレスラーのソロ)であった。

2014年4月12日土曜日

第94回 紀尾井シンフォニエッタ東京 定期演奏会 評

2014年4月12日 土曜日
紀尾井ホール (東京)

曲目:
モーリス=ラヴェル 組曲「マ-メール-ロワ」
モーリス=ラヴェル 「亡き王女のためのパヴァーヌ」
コダーイ=ゾルターン 「ガランタ舞曲」
(休憩)
リヒャルト=シュトラウス 「町人貴族」 op.60 TrV228c

管弦楽:紀尾井シンフォニエッタ東京
ゲスト-コンサートマスター:千々岩英一(パリ管弦楽団副コンサートマスター)
指揮:ペーター=チャバ

紀尾井シンフォニエッタ東京(KST)は、ペーター=チャバを指揮者に迎えて、2014年4月11日・12日に東京-紀尾井ホールで、第94回定期演奏会を開催した。この評は、第二日目の公演に対してのものである。

指揮のペーター=チャバは、マジャール系ではあるがルーマニアで生まれた指揮者である。ゲスト-コンサートマスターの千々岩英一は、パリ管弦楽団の副コンサートマスターである。

管弦楽配置は、舞台下手側から、第一ヴァイオリン→第二ヴァイオリン→ヴァイオリン-チェロ→ヴィオラのモダン配置で、コントラバスはチェロの後方につく。木管パートは後方中央、ホルンは後方下手側、その他の金管・打楽器群は後方上手側の位置につく。なお、「町人貴族」にあっては、第一ヴァイオリン→第二ヴァイオリン→ヴィオラ→ヴァイオリン-チェロの順に配置換えし、第一プルトを半円形にして各パート二人ずつ配置し、その後ろに第二プルトを二人ずつ(計4人)配置している。

着席位置は正面後方中央、観客の入りは8割程か。観客の鑑賞態度は鈴の音が部分的に響く箇所はあったが、KSTの定期演奏会にしては良好の部類に入る。拍手のタイミングが適切である。

前半のラヴェル・コダーイは、弦楽の線が細く音圧が感じられない演奏である。

一番素晴らしいのは木管パートで、池田昭子のオーボエ、中川佳子のフルートはもちろんであるが、「ガランタ舞曲」で見せた鈴木豊人の長いソロには強く弾きつけられる。難波薫のピッコロは、私はもう少し強く鋭い響きが好みであるが、チャバの指示によって溶け込むようは響きになったのか?

ホルンは弱音で下支えする部分は素晴らしいが、「亡き王女のためのパヴァーヌ」冒頭のホルン-ソロはよく響いてはいるものの、生硬な響きでニュアンスが感じられない。松本に住んでいる私としては、ホルンはラデク=バボラークのように出来て当たり前で、彼のような柔らかくニュアンスに富んだ表現で観客の心を惹きつけるべきところである。「亡き王女のためのパヴァーヌ」終了後に一番最初にホルン首席を立たせたのは、納得しがたい。

休憩後の「町人貴族」で、弦楽は数を減らし、ゲスト-コンサートマスター千々岩英一を始め各弦楽パート首席によるソロも多いが、人数が減ったのにも関わらず前半よりも豊かな響きで音圧を感じさせる演奏だ。休憩前の木管の素晴らしさに弦楽が対抗できる状態となり、わざわざパリから千々岩英一を招いた意味がようやく明らかとなる。千々岩英一は、リヒャルト=シュトラウスならではの音色を朗々と掲示して管弦楽全体を導いていく。「町人貴族」では、故意に下手な奏者を演じるところもあるのだろうか、そのような場面は上品なオブラートに包んで演奏しているようにも思える。各弦楽パート首席のソロも素晴らしく、その室内楽的聴きどころを的確に演奏し、千々岩英一が提示したテンションを保持している。管弦楽全体で紀尾井ホールの響きを味方につけた演奏で完成度が高い演奏だ。

アンコールは、「町人貴族」の中から二分ほど抜粋しての演奏であった。

2014年3月30日日曜日

「メキシコ音楽の祭典」 管弦楽演奏会 評

2014年3月30日 日曜日
東京オペラシティ タケミツメモリアル (東京)

曲目:
シルベストレ=レブエルタス(Silvestre Revueltas Sánchez) 「センセマヤ」(ヘビ退治)
マルエル=マリア=ポンセ(Manuel María Ponce Cuéllar) ヴァイオリン協奏曲
(休憩)
カルロス=チャヴェス(Carlos Antonio de Padua Chávez y Ramírez) ピアノ協奏曲 (日本初演)
シルベストレ=レブエルタス(Silvestre Revueltas Sánchez) 「マヤ族の夜」

ヴァイオリン:アドリアン=ユストゥス (Adrían Justus)
ピアノ:ゴンサロ=グティエレス (Gonzalo Gutiérrez)
管弦楽:東京フィルハーモニー交響楽団(TPO)
指揮:ホセ=アレアン (José Areán)

公益財団法人東京オペラシティ財団は「メキシコ音楽の祭典」を企画し、2014年3月28日に東京オペラシティ-リサイタルホールで「室内楽の夕べ」(室内楽演奏会)、3月30日に大管弦楽演奏会を挙行した。この評は、3月30日に開催された大管弦楽演奏会に対するものである。

管弦楽こそ東京フィルハーモニー交響楽団(TPO)であり、日本で「現地調達」したものであるが、ソリスト・指揮者ともメヒコ(メキシコ)市生まれ、曲目もメヒコ出身の作曲家によるものである。

管弦楽配置は、モダン配置であることの記憶ははっきりしているが上手側のヴィオラ・ヴァイオリン-チェロの順番については記憶していない。コントラバスはチェロの後ろにつく。パーカッションは基本的に舞台下手側後方に位置している。

着席位置は一階正面中央僅かに上手側である。観客の入りは六割程であろうか、一階後方はガラガラの状況であり、わざわざメヒコ音楽を聴きに行く変わり者は少ない。当日の同じ時刻に、東京交響楽団演奏会がミューザ川崎にてあり、指揮者ユベール=スダーンの最後の指揮ということもあり、東京の大管弦楽イヴェントが重なったこともあるだろう。私がこの演奏会を選んだ動機は、カスティージャ(スペイン)語圏の音楽に対する好奇心の他、正直「怖いもの見たさ」的な好奇心も大なるものがあり、聴きに行くことをかなりあっさりと決断した事を覚えている。演奏会場が、聴覚的にも視覚的にも東京で最も素晴らしいホールであるタケミツメモリアルでもあるし・・・。観客の鑑賞態度はかなり良く、タケミツメモリアルの余韻が消えるまで待って拍手を送っていた。

演奏会が始まる前に、指揮台に楽譜らしきものを持ってくる、如何にもメヒコ美女らしき人物が登場し、ホセ=アレアンはずいぶんとお美しいアシスタントを確保しているものだなあと感心していたら、名前だけどこかで聞いたことがある政井マヤである。楽譜ではなくスピーチ原稿であった。どうもこの演奏会は、支倉常長遣欧使節団が現在のメヒコに立ち寄って400年であることを記念した「日本メヒコ交流年」行事の一つでもあり、政井マヤはメヒコ国チワワ州生まれの縁もあって親善大使としてご挨拶とのことだ。早く曲を聴きたくてうずうずしている中、ギリギリセーフの長さでスピーチを終える。

ソリストの様子について述べる。

ポンセ作曲ヴァイオリン協奏曲のソリストであるアドリアン=ユストゥスは線が細く、タケミツメモリアルの響きを味方につけられていない。管弦楽はかなり手加減していたが、眠くなる演奏となる。

チャベス作曲のピアノ協奏曲のソリストであるゴンサロ=グティエレスは、この1942年に初演された現代作品で、35分の長さではあるが音が多く、ソリストの負担が大きい曲を、完璧な技術で弾ききり、パッションも込められ、日本初演を鮮やかに飾った。

管弦楽について述べる。

TPOは第一曲目冒頭こそ硬さが目立ったが、出来不出来の激しいTPOの演奏を踏まえると、少なくとも年に三回レベルの素晴らしい演奏を披露した。おそらく、2014年ベスト演奏となる名演である。タケミツメモリアルの響きの特性を活かしきり、弦楽管楽打楽器全てがその役割を十二分に果たし、楽団員の能力を100%引き出した美しい響きの上に、メヒコの管弦楽団を想像させるパッションを相乗させた演奏であり、ホセ=アレアンの指揮、TPOの演奏、タケミツメモリアルの音響、それらが三位一体となって全てが巧く噛み合った演奏だ。最後の「マヤ族の夜」最終楽章とでもいうべき「魔術の夜」では、パーカッションセクションが卓越した完璧な演技で観客の興奮を最高潮に持っていき、プログラムを華麗に終える。

アンコールは前半終了時に、アドリアン=ユストゥスのソリストアンコールがあり、何故かパガニーニの「24のカプリース」より第21番、演奏会終了時のアンコールが1950年に生まれたメヒコの作曲家、アルトゥーロ=マルケス(Arturo Márquez Navarro)の「ダンソン第2番」である。

演奏会終了は、開始時刻から2時間50分を経過していた。30分を超える協奏曲が2曲あるなど、ボリュームたっぷりでありながら、極めて水準の高い内容でまとめ、しかも日本ではあまり知られていないメヒコの音楽を披露した意義深い演奏会であり、このような演奏会を実現させた日本・メヒコ両国の関係者、公益財団法人東京オペラシティ文化財団を高く評価したい。