2014年8月4日月曜日

「サイトウ-キネン-フェスティバル」の終わりの始まり

松本市民の一人として、「サイトウ-キネン-フェスティバル」の名称が来シーズンから「セイジ-オザワ松本フェスティバル」に変わる件については、冷笑的な態度しか取れない。まあ、勝手にしろと言ったところである。「実態通りになったね」とでも、皮肉の一つでも言っておこうか。

「サイトウ-キネン」にしろ「セイジ-オザワ」にしろ、小澤征爾が指揮台に立てなくなったところで、このフェスティバルは終わりだ。それでいいと思っている。

このフェスティバルは、主催する側にしろ観客にしろ、小澤征爾に全てを依存している。チケット発売日の、ファビオ=ルイージの歌劇と小澤征爾のプログラムとの列の差からして、観客の小澤征爾へのべったりぶりはあきれるほどのものであったし、1992年から開始してから22年間、小澤征爾の後継の核となる指揮者・監督を育ててくることもなかった。

サイトウ-キネンのオケが「田園」で無気力でつまらない演奏をしても、ブルックナーで金管のコントロールに大失敗した演奏をしていても、小澤征爾が指揮をしていると言うだけで観客はスタンディングオベーションを繰り広げる異常な雰囲気を見てきた。

歌劇は歌劇で、歌い手のソリストは手を抜いている事例が多すぎた。マトモに歌ったのは山田和樹が睨みを効かせて振った時くらいで(この時も小澤征爾が連れてきたイザベル=カラヤンは手を抜きやがった!この時ほどイザベル=カラヤンと小澤征爾に怒りを感じた時はなかった。あの二人がいなかったら、山田和樹の「ジャンヌダルク」は完璧な出来だったのだ!)、小澤征爾は概して、放置すれば暴走族と化す管弦楽のコントロールをロクにしていなかったし、歌劇の総監督としては無能と言える。リッカルド=ムーティの爪の垢でも煎じて飲めとでも言いたくなる。

室内楽も、まあ一定水準は保っているけど、ロバート=マンがいらっしゃった時の名演はもう期待できないだろう。

サイトウ-キネンにしろセイジ-オザワにしろ、このフェスティバルの終わりは近付いている。主催する側にしろ観客にしろ、無能な者が多かった。松本市民として観客として参加した私にとって、この事は恥としか言いようがない。

サイトウ-キネンよりも水戸室内管弦楽団の方がはるかに優秀だし(当然と言えば当然であるが)、ここ一年を除けば水戸は小澤征爾の依存度が少なかった。吉田秀和さんが亡くなられても、学芸員が充実しているし、水戸芸術館は上手くやっていけるだろう。この事と比較し、松本はどうだったのか?サイトウ-キネンに関わってきた者は(もちろん私を含めて)よくよく考え、どのようにこのフェスティバルを終わらせるかを考える時期に来ているのではないだろうか。