2014年8月24日 日曜日/ Sunday 24th August 2014
まつもと市民芸術館 (長野県松本市)/ Matsumoto Performing Arts Centre (Matsumoto, Japan)
演目:
ジュゼッペ=ヴェルディ 歌劇「ファルスタッフ」 Giuseppe Verdi ‘Falstaff’
Sir John Falstaff: Quinn Kelsey (クイン=ケルシー)
Ford: Massimo Cavalletti (マッシモ=カヴァレッティ)
Fenton: Paolo Fanale (パオロ=ファナーレ)
Alice Ford: Maite Alberola (マイテ=アルベローラ)
Nanetta: Maureen McKay (モーリーン=マッケイ)
Dame Quickly: Jane Henschel (ジェーン=ヘンシェル)
Meg Page: Jamie Barton (ジャイミー=バートン)
Bardolpho: Keith Jameson (キース=ジェイムソン)
Pistola: David Soar (ディヴィッド=ソアー)
Dr. Caius: Raúl Giménez (ラウル=ヒメネス)
Chorus: Saito Kinen Festival Matsumoto Chorus 合唱:サイトウ-キネン-フェスティバル松本合唱団
Director: David Kneuss 演出:ディヴィッド=ニース
Set design & Costumes design: Robert Perdziola 装置・衣装:ロバート=ペルジオーラ
Lighting design: Rick Fisher 照明:リック=フィッシャー
Orchestra: Saito Kinen Orchestra 管弦楽:サイトウ-キネン-オーケストラ
Conductor: Fabio Luisi 指揮:ファビオ=ルイージ
サイトウ-キネン-フェスティバル実行委員会は、2014年8月20日から8月26日までの日程で、ジュゼッペ=ヴェルディ歌劇「ファルスタッフ」を、まつもと市民芸術館にて4公演開催する。この評は2014年8月24日に催された第三回目の公演に対するものである。
着席位置は一階中央前方である。チケットは当日券発売をしている有り様で、サイトウ-キネン-フェスティバルが主催者も観客も小澤征爾頼みであることを反映している。小澤征爾が引退した時に、サイトウ-キネン-フェスティバルはなくなるだろう。観客の鑑賞態度は概ね良好であったが、一回だけ携帯電話が鳴っていた。特に致命傷となるような形ではなかったが。
休憩は、第二幕と第三幕の間のみの一回のみである。
舞台は伝統的なものであり、衣装を含めて前衛的な要素は何一つない、正統的なものだ。舞台で観客の目を眩ます事はせず、音のみで勝負する形態である。舞台の上に20cm程かさ上げし僅かに客席側に傾けた舞台を用いている。舞台の上に欧州の伝統的な歌劇場の額縁と舞台を乗せたような形となり、舞台の幅は狭くなり、高さも抑えられている。幕は額縁の中のみであるが、両左右角から引っ張る形の幕ではなく、単に上下に移動するだけの幕である。
ソリストの出来について述べる。
一番素晴らしいかったのは、文句なしにファルスタッフ役のクイン=ケルシーである。声量はホール中に大きく響き渡り、終始安定した歌唱である。出番は少ないが、ドクター-カイウス役のラウル=ヒメネスも素晴らしい。フォード役のマッシモ=カヴァレッティは、この二人程ではなかったが、それでも要所で確実に決めている。フェントン役のパオロ=ファナーレは、やや声量が少なめである。
女声については、全般的に男声より声量面では控えめであるが、それでも女性同士仲良く響きが合っている。アリーチェ役のマイテ=アルベローラが素晴らしい出来で、要所に於ける声量は十二分に余裕がある。ナンネッタ役のモーリーン=マッケイは大変可愛らしく、やや細めの声ではあるが、管弦楽のコントロールの助けもあり十分にホールに響いており、熟女役だらけの女性陣の中で爽やかな印象を与える事に成功している。クイックリー夫人役のジェーン=ヘンシェルは、やや不調気味である。
合唱の扱いは、かなり控えめに扱われていた。
管弦楽は極めて素晴らしい出来だ。歌い手を上手に引き立てつつ、ソリスティックな部分では的確に聴かせどころを決めていく。小澤征爾時代とは大違いだ。
小澤征爾は、歌い手と管弦楽との関連性について何も考えていなかった。歌い手に手抜きを許し、サイトウ-キネン暴走族とも言える管弦楽は放縦に任せていた。要するに、小澤征爾はオペラに対し無知だったし、無能だった。
これに対して、ファビオ=ルイージは十二分に準備を重ねてきた事が伺えた。歌い手を引き立たせるにはどうしたら良いか、一方で曲想に応じてどこで管弦楽を走らせるか、その選択は的確だった。第三幕で見せた弱奏の美しさ、良く聴くと実に「歌わせている」けどあまりに自然に扱われるテンポのうねり、フーガの扱いの見事さ、ある歌い手から別の歌い手への絶妙なバトンタッチ、要所で鋭さを見せる管弦楽の扱い、山田和樹によって初めて歌劇としての理想的な響きを手に入れた管弦楽は、ファビオ=ルイージによってその正しい路線を発展させたと言える。一つの歌劇を作り上げるのに当たって必要な、見事な統制力と構築力を、ファビオ=ルイージは見せつける。
歌い手が手抜きばかりしていた小澤征爾時代のサイトウ-キネンとは違い、歌い手のソリストは半数以上は十分に満足出来る歌唱であり、特に重要な役に関しては傑出した実力を発揮していた。管弦楽の扱いも巧みであり、どうしてファビオ=ルイージをもっと早く松本に登場されなかったのかと思わずにはいられなかった。
Viva! 'Fabio Luisi Matsumoto Festival' !!
ファビオ=ルイージ 松本フェスティバル、万歳!!
サイトウ-キネン-フェスティバル松本の名前を変えるのであれば、ファビオ=ルイージこそその名にふさわしいであろう。