2016年2月21日日曜日

Noism "Carmen" 2016年2月 横浜公演 感想

2016年2月20/21日と、神奈川芸術劇場(KAAT)にて、Noism 「カルメン」を観劇しました。

Noism は新潟市の劇場施設 りゅーとぴあ の座付き舞踊演劇カンパニーです。

Noism の演目は、一度だけでは分からない事も、二度観ると見えてくるものがあります。二回行って良かったと思います。

あの有名なビゼーによるオペラのカルメンの音楽を用いてはおりますが、ストーリーは大幅に変えております。そもそもオペラ前の原作にはなかったミカエラが、このNoism版では極めて重要な位置を占めています。ここまでミカエラの心情を表現したのは、物語の強い核になり素晴らしいものがあります。

また、歌舞伎・文楽の手法をかなり取り入れているように思えます。

第一幕で、門外の警備の情景と、門内のタバコ工場の場面の転換は、複数(5つ?)繋げたパーテーションをダンサーの手で一気に回して行いますが、やっている事は歌舞伎に於ける回り舞台そのものです。

また、第二幕でのガルシア登場の場は、学者役が大夫になって、パントマイムをしているダンサーの台詞を言います。ダンサーを人形に置き換えれば、やっている事はまさしく文楽です。そもそも舞台を張り出して、学者の部屋のようにしている時点で、文楽の出語り床そのものです。

その他舞台装置に関して言えば、パーテーションの使い方が実に絶妙でした。

このカルメンには亡霊たちが登場しますが、東海道四谷怪談的でもあり、オペラ「ドン-ジョバンニ」の騎士長が迫る場面のように思いました。

もちろん、Noismの皆さん、みんな踊れるし演じられるしで、舞踊と言うよりは演劇を楽しめた感じです♪

2016年2月18日木曜日

Janine Jansen + Itamar Golan, recital, (18th February 2016), review ジャニーヌ=ヤンセン + イタマール=ゴラン 名古屋公演 評

2016年2月18日 木曜日
Thursday 18th February 2016
電気文化会館コンサートホール (愛知県名古屋市)
Denki Bunka Kaikan Concert Hall (Nagoya, Japan)

曲目:
Johannes Brahms: Sonata per violino e pianoforte n.2 op.100
Bartók Béla: Sonata per violino e pianoforte n.2 Sz.76
(休憩)
Bartók Béla: Dansuri populare românești Sz.56 (ルーマニア民族舞曲)
Fritz Kreisler: Marche Miniature Viennoise (ヴィーン風小行進曲)
Fritz Kreisler: Liebesleid (愛の悲しみ)
Fritz Kreisler: syncopation (シンコペーション)
Manuel de Falla (arr. Fritz Kreisler): Danza Española nº 1 (La vida breve) (エスパーニャ舞曲第1番 (歌劇「はかなき人生」より))
Manuel de Falla: Siete canciones populares españolas (7つのエスパーニャ民謡より)

violino: Janine Jansen
pianoforte: Itamar Golan

「7つのエスパーニャ民謡より」で演奏された曲目は、1. ムーア人の衣装 2. 子守唄 3. 歌 4. ポーロ 5. アストゥリアス地方の歌 6. ホタ である。

ジャニーヌ=ヤンセンは、2016年2月16日から22日に掛けて、イタマール=ゴランとともにリサイタルを、ファリアホール(横浜)、紀尾井ホール(東京)、電気文化会館(名古屋)、兵庫県立芸術文化センター(兵庫県西宮市)、東京文化会館(東京)にて行う。電気文化会館に於いては、ブラームス・バルトークのほか、クライスラー・ファジャを演奏するプログラムとなる。

この評は、2月18日電気文化会館の公演に対する評である。

着席位置はやや前方正面中央、観客の入りは9割程か。観客の鑑賞態度は、若干ノイズはあったものの、余韻を損なう拍手はなく、概ね極めて良好だった。

前半は、バルトークのVnソナタ2番が素晴らしい。目を見張る出来だ。ゴランも同格に張り合うし、ジャニーヌはよく考えて構築し、求められている響きを的確に出す。鋭く弾いていても太さがある響きが伴うからか、優し目な響きに聴こえるかな♪

後半はバルトーク・クライスラー・ファジャの曲で、乱暴に言うとポピュラー路線である。全般的にジャニーヌのしっとりとした音色で色付けされている。ファジャだからと言ってエスパーニャ色そのまんまには、決してしない。通俗的な曲目もジャニーヌに掛かるとこのようになるんだ!と言った感じになり、ジャニーヌ色に染まると違って聴こえてくるのだなあと感じられる。

しかし、最大の聴かせどころは、アンコール一曲目のルトスワフスキの「スピト」だ。バリバリの現代音楽を鋭く聴かせてくれ、テンションが上がりまくる。前半最後にバルトークのVnソナタ2番を持ってくるなど、アンコールを含めて、プログラムの構成が巧みだ。

ルトスワフスキで興奮した気持ちを鎮めるかのような、アンコール二曲目のフォーレ「夢のあとに」も素晴らしい。穏やかな気分で帰ってぐっすり眠ってね、と言った雰囲気がいいのだよな。そんなジャニーヌたん、loveだよ!!背が高くてモデルみたいな美女だし、また来てね♪♪

2016年2月13日土曜日

Kioi Sinfonietta Tokyo, the 103th Subscription Concert, review 第103回 紀尾井シンフォニエッタ東京 定期演奏会 評

2016年2月13日 土曜日
Saturday 13th February 2016
紀尾井ホール (東京)
Kioi Hall (Tokyo, Japan)

曲目:
Wolfgang Amadeus Mozart: divertimento n.1 K136
Richard Strauss: Concerto per corno e orchestra n.2
(休憩)
Wolfgang Amadeus Mozart: Concerto per corno e orchestra n.3 K447
Richard Strauss: Metamorphosen

violino: Rainer Honeck / ライナー=ホーネック
corno: Stefan Dohr / シュテファン=ドール
orchestra: Kioi Sinfonietta Tokyo(紀尾井シンフォニエッタ東京)
direttore: Rainer Honeck / ライナー=ホーネック

紀尾井シンフォニエッタ東京(KST)は、ライナー=ホーネックを指揮者に、ホルン奏者のシュテファン=ドールをソリストに迎えて、2016年2月12日・13日に東京-紀尾井ホールで、第103回定期演奏会を開催した。この評は、第二日目の公演に対してのものである。

ライナー=ホーネックは、ディヴェルティメントとメタモルフォーゼンはコンサート=マスター、二曲あるホルン協奏曲は指揮を担当する。

管弦楽配置は、舞台下手側から、第一ヴァイオリン→第二ヴァイオリン→ヴィオラ→ヴァイオリン-チェロのモダン配置で、コントラバスはチェロの後方につく。木管パートは後方中央、ホルンは後方下手側、その他の金管とティンパニは後方上手側の位置につく。

着席位置は一階正面後方僅かに上手側、チケットは完売している。観客の鑑賞態度は、時折ノイズが発生したものの、概ね極めて良好で、メタモルフォーゼンの後の静寂も(時報がなっちゃったけど)守られた。

第一曲目の「ディヴェルティメント」は第三楽章がヴィヴィッドな感じで私の好みである。

第二曲目はリヒャルト=シュトラウスのホルン協奏曲第2番である。ホルン-ソロはシュテファン=ドールだ。

この曲を私が聴くのは初めてであり、リヒャルト=シュトラウスの書法に慣れていないからそのように感じられたのかもしれないが、第一楽章ではドールが紀尾井ホールの響きにマッチせず苦しめられているように思えて、加えて管弦楽が控え目な設定であったこともあり、バラバラな印象を持つ。

しかし第二楽章で、木管の見せ場からさり気なくホルンが入って来るところは素晴らしい。

シュテファン=ドールが本領を発揮し出すのは、休憩後に演奏されたモーツァルトのホルン協奏曲第3番である。弱めな響きの管弦楽と完全にマッチしており、弱音のコントロールが見事で、管弦楽と同じ方向を向いた演奏が、見事に当たる。よく考えられて構成された演奏である。

しかし、シュテファン=ドールの本領はアンコールでさらに発揮される。曲目はメシアンの「峡谷から星たちへ・・」第二部第6章「恒星の叫び声」である。

協奏曲のソリストとして、あるいはアウェイである紀尾井ホールの奏者として課せられた制約から逃れ、自由を得て、伸びやかな明るい響きの演奏だ。

紀尾井ホールの響きを完全に掌握した上で、全てが絶妙に絡み合い、何らの制約なく、やりたい放題に超絶技巧を披露し、私のテンションが上がりまくる。「メタモルフォーゼン」の前で興奮しちゃって良いのかと、罪の意識を持ちながら。

最後の曲は、リヒャルト=シュトラウスのメタモルフォーゼンである。

緻密に考えられ、個々の奏者の技量が的確に発揮され、純音楽的なメリハリがありながらも、感情過多になり過ぎない(私にとっては、涙腺が潤むか潤まないかのギリギリの線だった)重さを感じさせる見事な演奏である。

この曲を、紀尾井ホールのような中規模ホールで聴くことに幸せを感じる。23人の弦楽奏者それぞれが独立しており、一人ひとりの弦楽が意味を持つこの曲は、やはり大ホールでは限界がある。大ホールフルオケばかりの東京で、機会は少ないけれども、紀尾井ホールで、紀尾井シンフォニエッタ東京の演奏で聴けるのは、奇蹟的な幸運だ。

この曲の最後では、祈る気持ちになる。天井のシャンデリアに視線を向け、あるいは目を瞑り、視覚的な情報をカットして響きに心を傾ける。曲が終わり、観客は静寂を保つ。ちょうど16時になり時報がなってしまうのは不幸だったが、祈りの時間が確保される。ホーネックが終了の合図を出したのか、観客から拍手が湧き上がり始める。曲が終わったらしい。名演が終わった。そろそろ私も目を開き、拍手をし始めよう。

2016年1月30日土曜日

Orchestra Ensemble Kanazawa, the 372nd Subscription Concert, review 第372回 オーケストラ-アンサンブル-金沢 定期演奏会 評

2016年1月30日 土曜日
Saturday 30th January 2016
石川県立音楽堂 (石川県金沢市)
Ishikawa Ongakudo (Ishikawa Prefectural Concert Hall) (Kanazawa, Japan)

曲目:
Benjamin Britten: Simple Symphony op.4
Frédéric Chopin: Variations on "La ci darem la mano" op.2
(休憩)
Frédéric Chopin: Concert Londo "Krakowiak" op.14
Felix Mendelssohn Bartholdy: Sinfonia n.5 op.107

pianoforte: Alexander Krichel
orchestra: Orchestra Ensemble Kanazawa (OEK)(オーケストラ-アンサンブル-金沢)
direttore: Matthias Bamert

オーケストラ-アンサンブル-金沢は、ピアノにアレクサンダー=クリッヒェル、指揮にマティアス=バーメルトを迎えて、2016年1月30日に石川県立音楽堂で、第372回定期演奏会を開催した。

管弦楽配置は、舞台下手側から、第一ヴァイオリン→ヴィオラ→ヴァイオリン-チェロ→第二ヴァイオリンの左右対抗配置で、コントラバスはチェロの上手方につく。木管パートは後方中央、ホルンは後方下手側、他の金管は後方上手、ティンパニは最後方中央の位置につく。

着席位置は一階正面中央わずかに上手側、客の入りは八割程であろうか、チケット完売には至らなかった。

演奏について述べる。

一曲目のシンプル-シンフォニーは、第三楽章・第四楽章が素晴らしい。第二楽章のピッチカートは、中規模ホールだとよく響いて素晴らしい演奏になったろう。

ショパンの、事実上の一楽章形式のピアノ協奏曲が二曲披露される。

ピアノのアレクサンダー=クリッヒェルはハンブルク生まれ。強い音も軽やかさを失わない響きで魅了される。 管弦楽のサポートは絶妙に考えられ、ピアノが休んで管弦楽が強く出るべき箇所の鋭さも見事で、構築力のある組み立てである。

ショパンがモーツァルトの影響を受けた事を伺わせるピアノの軽やかな響きは、これら事実上のピアノ協奏曲には必須な要素だが、これをどんな強い音でも失わせないアレクサンダー=クリッヒェルは素晴らしい!アンコールはクリッヒェル自身の作による「ララバイ」であったが、弱音が綺麗であった。

後半は、メンデルスゾーンの交響曲第5番である。冒頭の金管の鮮やかな響きと(終始金管の調子は良かったように思える)弦楽の弱いけど細さを感じさせない響きとの対比から惹き寄せられる。全般的に奇を衒わない正統派の演奏であるが、もう少し派手にやったら名演の域に達したかもしれない。アンコールはモーツァルトの「カッサシオン」KV65 からアンダンテであった。 #oekjp

2016年1月10日日曜日

新国立劇場バレエ団 ニューイヤーバレエ (2016年1月) 雑感

2015年最後の公演をパリ国立オペラ バレエで終え、今年初めての公演は、新国立劇場バレエ団の「ニューイヤーバレエ」でありました。

1月9・10日の二回だけの公演であり、いずれもチケットは完売したかと思われます。

三部構成に分かれます。

第一部はジョージ=バランシンの「セレナーデ」、チャイコフスキーの「弦楽セレナーデ」op.48の音楽に乗せた演目です。

第二部は、貝川鐵夫(新国立劇場バレエ団ファースト-ソリスト)の振り付けによるFoliaの他、バレエ-ガラ形式で、「パリの炎」「海賊」「タランテラ」の演目です。

第三部は、アレクサンドル=グラズノフの「ライムンダ」第三幕です。

以下、1月9日公演、1月10日公演と分けて、感想を記載します。

(2016年1月9日公演)

第一部の「セレナーデ」は、細田千晶さんが私にとって一番好みの踊りでした。あと、本島美和さんがスカートを空気抵抗を使って落とす場面が印象的です。バランシンの演目は積極的に取り上げて欲しいです。

第二部は、米沢唯ちゃんの「タランテラ」を完璧な踊りで可愛いく仕上げてきました😊あと、ファリアの池田さんらしき踊りが印象に残りました。

第三部の「ライムンダ」は、小野絢子さんのオーラで盛り上げました。

チャイコフスキーの「弦楽セレナーデ」は、室内管弦楽団の規模で、やはり松本市音楽文化ホールや紀尾井ホールといったような、響きの優れた中規模ホールでやって欲しい曲目です。それでも、特に10日公演での新国立劇場に於ける東フィルは、巨大劇場の割にはよくやっていると思います。

ど素人の放言と受け止めて頂きたいですが😅、細田千晶さんのファースト-ソリスト、池田武志さんのソリスト昇格は確実だと思っています。

池田さんの場合は、今シーズン2階級特進しても良かったのだろうけど、花純さんのように主役起用ではなかったから、1階級ずつにしただけなのでしょうね。

細田千晶さんは、現行ソリスト階級陣の中で、明らかに抜きん出ています。踊りの完成度と、これがもたらす踊りの美しさの点で。彼女が昇格しなくて他のソリストが昇格したら、ちょっと抗議活動ものかな😜(←コラッ😅😅)

(2016年1月10日公演)

第一部「セレナーデ」。二回目となると、身を委ねるように観ることができるようになります。今日は涙腺が決壊しそうになりました。主要メンバーだけでなく、群舞まで士気の高さが感じられる踊りをしているからなのでしょう。

「セレナーデ」はプロセニアム制限を掛ける事なく、12mそのまんま使っているのも、いいのだと思います。舞台装置使っていると、地方公演考慮して12mフルに使っていないようであるので。

10日公演はほぼ中央の席で観劇でき、その場所ならではの視点で観ることがができましたが、後半部で、本島美和さんが菅野英男さん(?)の背後に回って、鳥の羽ばたきの仕草をしたあとに、寺田亜沙子さんから略奪していくように見えた場面では、さすが、わる〜い女の美和りん だなと思いました😜😁😊

第2部について。

「海賊」の長田佳世さんは、女性ソロの柔らかい浮遊感溢れる跳躍と、最後の後方上手側から前方下手側に来るところが綺麗に決まっておりました。これらの箇所については、9日のキャストであった木村優里さんにとって、素晴らしい手本になる箇所かと考えます。

「タランテラ」の小野絢子さんは、米沢唯ちゃんとは別種の可愛さです。タンバリンを持ち出した直後のソロは管弦楽と揃えることに焦点を絞り、見事に決まりました。雄大さんも素晴らしかったです。

第3部終了。10日公演の「ライムンダ」は米沢唯ちゃん!一つ一つの所作が完璧でした。昨日の親しみやすい可愛さから、貫禄のあるお姫様に変身しておりました😊

作品としての「ライムンダ」はどうかと思うけど(第三幕は結婚式の舞踊だけという、どうしようもない内容!)、ここまでの内容で打ち出してくる新国立劇場バレエ団のダンサーたちは凄いです!

というわけで、今年は、新国立劇場バレエ団、ニューイヤーバレエ、連続二公演で幕を開けました。早速の素晴らしい公演で、意気揚々と松本に帰っております😊😊

2015年11月25日水曜日

Sinfonia Lahti, Matsumoto performance, review ラハティ交響楽団 松本公演 評

2015年11月25日 水曜日
Wednesday 25th November 2015
松本市音楽文化ホール (長野県松本市)
The Harmony Hall (Matsumoto Municipal Concert Hall) (Matsumoto, Japan)

曲目:
Jean Sibelius: “Finlandia” op.26
Jean Sibelius: Concerto per violino e orchestra op.47
(休憩)
Jean Sibelius: Sinfonia n.2 op.43

violino: Petteri Iivonen
orchestra: Sinfonia Lahti
direttore: Okko Kamu

ラハティ交響楽団は、スオミ共和国の首都ヘルシンキから、北北東に100kmの地に位置するラハティ市に本拠を置く。

2015年11月に、ラハティ交響楽団は、オッコ=カムを指揮者に、ペッテリ=イーヴォネンをソリストに迎えて、日本ツアーを行う。全てシベリウスの作品を演奏する。松本・札幌はフィンランディア+ヴァイオリン協奏曲+交響曲第2番のプログラムである。東京では、シベリウスの全ての交響曲とヴァイオリン協奏曲を披露する。なぜか、札幌公演のみソリストは神尾真由子であった(代役ではなく、当初からの予定)。

管弦楽配置は、舞台下手側から、第一ヴァイオリン→第二ヴァイオリン→ヴィオラ→ヴァイオリン-チェロのモダン配置で、コントラバスはチェロの後方につく。木管パートは後方中央、打楽器群とホルンは後方下手側、その他の金管パートは後方上手側の位置につく

着席位置は一階正面やや後方僅かに上手側、観客の入りは、7割程であろうか。観客の鑑賞態度は、概ね良好であった。

一曲目の「フィンランディア」は音取り的要素もあり、アウェイ感が感じられるところもある。

二曲目のヴァイオリン協奏曲からは、ソリスト・管弦楽ともホールの響きを完璧に掴み始める。

ソリストのイーヴォネンはかなり個性的な演奏だ。技術を誇示するようなタイプではなく、彼独自で解釈した曲想を披露する。誰とも似ていないシベリウスを、彼は産み出す。

技術的に彼より巧い奏者はいるのだろうけど、彼の個性の代わりを務められる奏者は、どこにもいない。音量は小さめであるが、巧みに響かせる。独特の深い音色を駆使しニュアンスで攻めるタイプである。良く響く693席の中規模音楽堂である松本市音楽文化ホールだからこそ、彼の演奏が活きてくる。ヴァイオリン協奏曲というものは、中規模音楽堂を想定して書かれたものなのだと、強く確信する。タケミツメモリアルのような大規模音楽堂では、まず音量が重要になってくるので、彼には不向きなのかも知れない。

音量が必ずしも大きくないタイプのイーヴォネンを、楽団員は巧みに盛りたてる。ヴァイオリン・ヴィオラ・チェロとも、素晴らしく美しい弱音を響かせる。だからこそ、イーヴォネンを引き立たせる事ができるのだ。バランスを良く考えても、美しい弱音が生み出せない管弦楽では、イーヴォネンを引き立たせる事はできない。

イーヴォネンとカムと管弦楽は、あたかも一つの家族のような感じで演奏を繰り広げる。ソリスト・指揮者・管弦楽の三者が目指すべき音楽を共有しており、その場面でどのように演奏してどのような響きを出すべきなのか、一音一音誰もが熟知している。イーヴォネンは、いい意味でシベリウスホールの座付きソリストのようだ。外からお客さんとして招かれたソリストというのではなく、ずっとラハティ交響楽団と一緒に演奏して来たようなソリストのように感じられる。おらが交響楽団のソリストを盛りたてようと、管弦楽がサポートしているような、暖かな関係性が目の前にある。これ程まで自然な感じで見事にソリストをサポートする管弦楽は、見た事がない。

ソリストアンコールは、バッハの無伴奏を二曲披露した。BWV1004からアルマンドとBWV1005からアレグロ-アッサイであった。

休憩の後は、第二交響曲だ。

前にこの曲を別の楽団で聴いた時に、この曲への愛を失ってしまい、2番やるなら5番やってくれよと正直思ったところではあるが、冒頭から説得力のある響きで、第二交響曲への愛を取り戻す。

やはり弦楽は素晴らしい技量で、ヴァイオリン・ヴィオラ・チェロとも随所で美しい響きを出してくる。弦楽の実力は間違いなく世界屈指のものだ。シベリウスの2番は、弦楽が強いと本当に活きてくる。

管楽については、意地悪な耳で聴くと超絶技巧の持ち主は少ないけれど、一定の力は保持している。第二楽章のファゴットは実に見事であるし、他の管楽も要所要所では決めてくる。

ある特定の管楽器奏者の名人芸に頼るのではなく、管弦楽全体で作り上げる意志を強く感じる。どこで何をしなければならないかを、楽団員全員が一音一音全て理解している事が感じられ、好感が持てる。

オッコ=カムの指揮は、奇を衒う事はせず、かといって平凡ではなく適度にエッジを利かした巧みな構成力により、ラハティ交響楽団が持つ個性を維持し、ラハティ交響楽団を適切な方向に導いている。他の管弦楽団では聴けない響きを、カムとラハティ交響楽団は産み出してくるのだ。これほどまでに強い個性を持つ管弦楽団も、珍しい。

アンコールは、全てシベリウスの作品で、「悲しいワルツ」「ミュゼット」「鶴のいる風景」の三曲であった。「悲しいワルツ」では、某エストニア人指揮者のような極端な弱音を用いない、至極真っ当な演奏で魅了されし、他の二曲も弦楽とクラリネットとの見事な対比を味わう事が出来るものであった。

観客の反応はかなり熱狂的で、スタンディングオベーションを伴って演奏会を終了した。

2015年11月22日日曜日

Mito Chamber Orchestra, the 94th Subscription Concert, Toyota performance, review 水戸室内管弦楽団 第94回定期演奏会 豊田公演 評

2015年11月22日 土曜日
Sunday 22nd November 2015
豊田市コンサートホール (愛知県豊田市)
Toyota City Concert Hall (Toyota, Aich, Japan)

曲目:
Franz Joseph Haydn: Sinfonia n.102 Hob.I-102
Wolfgang Amadeus Mozart: Concerto per pianoforte e orchestra n.21 KV467
(休憩)
Wolfgang Amadeus Mozart: Sinfonia n.41 KV551

pianoforte: 児玉桃 / Kodama Momo
orchestra: Mito Chamber Orchestra(水戸室内管弦楽団)
direttore: 広上淳一 / Hirokami Junichi

水戸室内管弦楽団(MCO)は、広上淳一を指揮者に、児玉桃をソリストに迎えて、2015年11月20日・21日に水戸芸術館で、22日に豊田市コンサートホールで、第94回定期演奏会を開催した。この評は、第三日目の豊田市コンサートホールでの公演に対してのものである。ソリストは、当初Menahem Pressler(メナヘム=プレスラー)の予定であったが、病気療養のために変更となった。

管弦楽配置は、舞台下手側から、第一ヴァイオリン→第二ヴァイオリン→ヴァイオリン-チェロ→ヴィオラのモダン配置で、コントラバスはチェロの後方につく。木管パートは後方中央、トランペットとティンパニは後方下手側、ホルンは後方上手側の位置につく。

着席位置は一階正面僅かに後方上手側、観客の入りは、8割強か?岐阜にて同時にバッハ-コレギウム-ジャパンの演奏会があったのは不幸で、チケット完売には至らなかった。観客の鑑賞態度は、概ね良好であったが、ハイドンの最終楽章で長めのパウゼを掛けた箇所で拍手が出てしまった。やっちもうたなあ。

コンサートマスター/ミストレスは、ハイドンは竹澤恭子、KV467は渡辺實和子、KV551は豊嶋泰嗣が担当した。

一曲目のハイドン交響曲第102番は、序盤こそホールのアウェイ感があったものの、いつの間にか初めてであるはずのホールに馴染んでいる。やはり響きが水戸芸術館と違い、美しい。最終楽章で、パウゼを長く取る箇所で拍手が出てしまったので、もう一箇所長くパウゼを取る場面では、昨日の公演よりも短めにしている。

二曲目のモーツァルトピアノ協奏曲第21番KV467からは、一転縦の線をビシッと揃えて始まる。そこから夢見るような時間が始まるが、響きはより美しい。

ソリストの児玉桃のピアノは、自己主張は控えめで管弦楽に溶け込むアプローチを取る。ふっと哀愁を漂わせる演奏で、カデンツァの箇所で加速したテンポをすっと遅くする場面で顕著だ。ここまでは昨日と変わりないが、ホールが変わり、ピアノがよく響き、埋没しがちな昨日の公演と違い、ピアノと管弦楽とのバランスが絶妙である。

特に第二楽章は、ひたすら響きに溺れる。天井を向き恍惚とした表情で美しい響きのシャワーを浴びる。

そこには、ピアノと管弦楽との間の、「何か折り合いをつけた」と言うのとは全く違う、自然な絡み合いがある。ピアノと管弦楽とホールとの、美しい三位一体が実現されている。

児玉桃も本当に気持ち良く弾けたのだろう、アンコールが披露され、ドビュッシーの「亜麻色の髪の乙女」が演奏されて休憩となる。

三曲目のモーツァルト交響曲第41番KV551は、昨日のガチガチに固い、正直聴いていて苦痛な演奏とは打って変わっている。

管弦楽のパッションがホールに美しく響き、その響きが管弦楽と観客のテンションを上げていく。

昨日より柔軟なテンポ設定のように感じられる。ピリオド派の活き活き路線ではないのだが、ホールが広上淳一の意図を実現させていくのだ。

管弦楽が奏でる一音一音が実に美しい。弦楽も、管楽も、伸びやかに心地よく響いてくる。バロック-ティンパニも良く聴こえる。

一つ一つの響きが説得力を持ってくる。そこにモーツァルトがいる。そこに水戸室内管弦楽団の響きがある。

管弦楽の自発性も活きまくり、終盤のホルンの大胆で美しい響きが最後の効果的なアクセントを与え、恍惚とした気持ちで天井を向いて最後の一音を聴く。音が鳴り止む。両側バルコニーからのbravoの声が響く。

大人しい水戸芸術館の観客とは違う反応に続き、熱い拍手が送られる。

初めてのホールなのに、本拠地での公演を圧倒的に上回る内容だ。ホールの響きは重要だ。奏者のパッションを美しく響かせる残響は、西洋古典音楽の命である。

演奏者・観客・ホールが三位一体となって、今日の演奏会を作り上げた。

豊田市コンサートホール、万歳!水戸室内管弦楽団、万歳!

2015年11月21日土曜日

Mito Chamber Orchestra, the 94th Subscription Concert, review 第94回 水戸室内管弦楽団 定期演奏会 評

2015年11月21日 土曜日
Saturday 21st November 2015
水戸芸術館 (茨城県水戸市)
Art Tower Mito, Concert Hall ATM (Mito, Japan)

曲目:
Franz Joseph Haydn: Sinfonia n.102 Hob.I-102
Wolfgang Amadeus Mozart: Concerto per pianoforte e orchestra n.21 KV467
(休憩)
Wolfgang Amadeus Mozart: Sinfonia n.41 KV551

pianoforte: 児玉桃 / Kodama Momo
orchestra: Mito Chamber Orchestra(水戸室内管弦楽団)
direttore: 広上淳一 / Hirokami Junichi

水戸室内管弦楽団(MCO)は、広上淳一を指揮者に、児玉桃をソリストに迎えて、2015年11月20日・21日に水戸芸術館で、22日に豊田市コンサートホールで、第94回定期演奏会を開催する。この評は、第二日目の公演に対してのものである。ソリストは、当初Menahem Pressler(メナヘム=プレスラー)の予定であったが、病気療養のために変更となった。

管弦楽配置は、舞台下手側から、第一ヴァイオリン→第二ヴァイオリン→ヴァイオリン-チェロ→ヴィオラのモダン配置で、コントラバスはチェロの後方につく。木管パートは後方中央、トランペットとティンパニは後方下手側、ホルンは後方上手側の位置につく。

着席位置は一階正面後方上手側、観客の入りは、正面席は補助席を用いた程の、かなりの入りである。観客の鑑賞態度は、概ね良好であったが、ピアノ協奏曲で出た話し声は何だったのだろう?指揮者から思わず出た声だと信じたいが。

コンサートマスター/ミストレスは、ハイドンは竹澤恭子、KV467は渡辺實和子、KV551は豊嶋泰嗣が担当した。

一曲目のハイドン交響曲第102番は、精度よりは躍動感を志向しているが、楽しい演奏だ。最終楽章では、パウゼを長く取るなど、広上淳一の独自の解釈をも入れてくる。濃厚な響きであるが、愉悦感がある演奏だ。

二曲目のモーツァルトピアノ協奏曲第21番KV467からは、一転縦の線をビシッと揃え、水戸芸術館の音響にぴったりあった響きでニュアンスをつけて、管弦楽が始まる。これがモーツァルトなんだ、これが水戸室内管弦楽団なんだ、と思わせる、幸せな時間だ。

ソリストの児玉桃のピアノは、自己主張は控えめで管弦楽に溶け込むアプローチを取る。ふっと哀愁を漂わせる演奏で、カデンツァの箇所で加速したテンポをすっと遅くする場面で顕著だ。

控えめな表現のソリストと、元気いっぱいの管弦楽とで、折り合いをつけた形のコンビネーションである。

三曲目のモーツァルト交響曲第41番KV551は、好みが分かれる演奏だ。正直に申し上げると、私の好みではない。

全般的に遅めのテンポで、かつテンポの変動をかなり制限し、その基盤の上に濃厚に演奏するスタイルだ。ピリオド派の活き活きとした演奏のアンチテーゼを示したいのだろうか?

管弦楽は、広上淳一の意図をくみ取り、パッションを込めて演奏する。管弦楽は実に見事である。

しかしながら、愉悦感は全くない。およそ広上淳一らしくない展開で、一曲目で感じられた愉悦感が消え去り、聴いていて疲れる演奏である。

あれだけの演奏を管弦楽はしているのだから、曲を活かすも殺すも広上淳一次第の状況であるが、果たしてこれがモーツァルトであるのか?そう問われれば、私にとっては否だ。

どんなに見事な演奏をしても、単にクソ真面目なだけで、そこに巧みな構成を与えなければ、何らの説得力を持ち得ず、そこには音楽の悦びはない。もう少し、指揮者から何らかの工夫を注ぎ込む事は出来なかったのか?

アンコールはなかった。

2015年11月14日土曜日

Christian Tetzlaff, Sonate e partite per violino solo di Johann Sebastian Bach, Tokyo performance (14th November 2015), review クリスティアン=テツラフ バッハ無伴奏 東京公演 感想

2015年11月14日 土曜日
Saturday 14th November 2015
紀尾井ホール (東京)
Kioi Hall (Tokyo, Japan)

曲目:
Johann Sebastian Bach: Sonata per violino solo n.1 BWV1001
Johann Sebastian Bach: Partita per violino solo n.1 BWV1002
Johann Sebastian Bach: Sonata per violino solo n.2 BWV1003
(休憩)
Johann Sebastian Bach: Partita per violino solo n.2 BWV1004
Johann Sebastian Bach: Sonata per violino solo n.3 BWV1005
Johann Sebastian Bach: Partita per violino solo n.3 BWV1006

violino: Christian Tetzlaff

クリスティアン=テツラフは、2015年11月14日、バッハ無伴奏ソナタ・パルティータ
全曲演奏会を、紀尾井ホールにて行った。

着席位置は後方正面わずかに下手側、チケットは完売した。観客の鑑賞態度は概ね極めて良好だったが、一階後方上手側から、何かを叩くような音が持続的に聞こえる箇所があった。そのノイズは微かな音量であるが、持続的に確実に聞こえたため、BWV1004を聴くに当たって相当なダメージがあった。

ほぼ普段着による衣装で、無伴奏を135分に渡り弾き続ける事を考慮した、動きやすさを重視したと思われる衣装である。

紀尾井ホールの響きを熟知し、全般に渡り明るく強い音色である。BWV1003・1004が特に素晴らしい。構成・ニュアンスともに高い完成度である。バッハという事もあるのか、テツラフ節は控えめであった。休憩が30分しかなかったが、最後のBWV1006に至るまで力尽きる事はなかった。

アンコールは、パリでの大量殺戮事件を踏まえ、フランスの人々のためにBWV1003からアンダンテ楽章が捧げられた。

2015年11月10日火曜日

Maria João Pires + Julien Libeer , recital in Matsumoto, review マリア=ジョアウ=ピレシュ + ジュリアン=リベール リサイタル 感想

2015年11月10日 火曜日
Tuesday 10th November 2015
松本市音楽文化ホール (長野県松本市)
The Harmony Hall (Matsumoto Municipal Concert Hall) (Matsumoto, Japan)

曲目:
Franz Schubert: Allegro per pianoforte a 4 mani “Lebensstürme” D947 op.144(人生の嵐)
Ludwig van Beethoven: Sonata per pianoforte n. 31 op.110 (Pires)
(休憩)
Ludwig van Beethoven: Sonata per pianoforte n. 30 op.109 (Libeer)
Franz Schubert: Fantasia per pianoforte a quattro mani D940 op.103

pianoforte: Maria João Pires + Julien Libeer

マリア=ジョアウ=ピレシュは、2015年10月から11月に掛けて来日し、多数の演奏会を上演する。アントニオ=メネセスとの共演の他、若手ピアニストの教育事業の一環としての共演もあり、形態は多彩である。松本市音楽文化ホールでの公演は、ジュリアン=リベールとの共演となる。Schubertは四手のためのピアノ曲のため、両人で演奏し、Beethovenはop.110はピレシュ、op.109はリベール単独での演奏となる。

着席位置は後方やや上手側、客席の入りは6割程であった。観客の鑑賞態度は、前半に電子音のノイズ(補聴器?)が小さな音であったものの、持続的に鳴り響いていたのが残念だった。また、演奏内容に比して観客のテンションが低かった。

本日のピアノは、マリア=ジョアウ=ピレシュの出演に関わらず、(ヤマハじゃなくて)スタインウェイである。松本市音楽文化ホールでかなりの確率で使われる、ツヤ消し黒のスタインウェイである。松本市音楽文化ホール、ヤマハのピアノ、なかったっけ?それとも、使用頻度が低くて、状態が悪かったのか?あと、リベール氏も出演するために、ヤマハを使用する義務が免除されたのか?

一曲目のシューベルト D947 から素晴らしい演奏である。松本市音楽文化ホールの長い残響を伴う響きは、序盤で適切に把握される。

Beethoven op.110 は、マリア=ジョアウ=ピレシュによる演奏である。言葉でその素晴らしさを表現するのは難しいが、構成が良く考えられ計算されているのは当たり前として、繊細で上品で、深い響きで魅了される。弱音も含めて緊張感を伴う。単に綺麗な響きという訳ではない、霊感を感じさせるものだ。

ジュリアン=リベール単独で、Beethoven の op.109 最初はクリアな音色で攻めて来たが、次第に曲に没入していく演奏だ。若いのにop.109の難曲をそこまで弾けただけ素晴らしい。さすが、マリア=ジョアウ=ピレシュの生徒だ。

最後の、シューベルトの幻想曲 D940 は、マリア=ジョアウ=ピレシュが高音側の担当だ。どの音も深みはあり、どんなに激しい曲想の箇所でも決して上品さを失わない。低音側のリベールとの相性も完璧である。

Schubert も Beethoven も、曲を深く解釈した演奏であり、どこにもハッタリだとか、これ見よがしの見せ付けの要素は、どこにもない。激しく演奏する場面には、必ずその必然性が感じられる。だからこそ、上品さが保たれ、深みを感じさせる演奏になるのだろう。

アンコールは、クルタークの「シューベルトのへのオマージュ」であった。