2013年10月26日土曜日

新国立劇場 歌劇「フィガロの結婚」 評

2013年10月26日 土曜日
新国立劇場 (東京)

演目:
ヴォルフガング=アマデウス=モーツァルト 歌劇「フィガロの結婚」 K.492

フィガロ:マルコ=ヴィンコ
スザンナ:九嶋香奈枝
アルマヴィーヴァ伯爵:レヴァンテ=モルナール
同伯爵夫人:マンディ=フレドリヒ
ケルビーノ:レナ=ベルキナ
マルチェリーナ:竹本節子
バルトロ:松位浩
バジリオ:大野光彦
ドン=クルツィオ:糸賀修平
アントニオ:志村文彦
バルバリーナ:吉原圭子

合唱:新国立劇場合唱団

演出:アンドレアス=ホモキ
美術:フランク=フィリップ=シュレスマン
衣装:メヒトヒルト=ザイペル
照明:フランク=エヴァン

合唱指揮:冨平恭平
チェンバロ:石野真穂
管弦楽:東京フィルハーモニー交響楽団(TPO)
指揮:ウルフ=シルマー

新国立劇場は、10月20日から29日までの日程で、モーツァルト作歌劇「フィガロの結婚」を、計4公演に渡って繰り広げられる。この評は、第三回目10月26日の公演に対するものである。

着席位置は一階階中央後方、ギリギリ雨宿り席にならない場所である。一階席の最後方席に空席が目立った事を考えると、8割程の入りか。観客の鑑賞態度は概ね良好であった。

休憩は、第二幕と第三幕の間のみの一回のみである。

舞台壁は、全般を通して二回しか動きがなく、これ以外は固定されている。上から見ると台形の形となっており、客席側が広く舞台後方が狭い。上下方向でも同じである。大抵の場合、役者は後方の壁が開く事によって舞台から出入りする他、舞台前方に梯子があり奈落に繋がり、ケルビーノが二階から飛び降りるシーン等で使用する。

第二幕の終わりで壁がずれ、床は左を上に傾き、後半でさらに壁がずれる。

舞台の上には荷物を入れる段ボール箱が数個以上配置される。この段ボールの中に人が隠れたりする。

舞台はシンプルでモダンな形態であるが、役者が着る衣装はモーツァルト時代のものを思わせるもので、伝統とモダンとの折衷形態というところか。

演劇面では、役者は極めて視覚面で似合っている。伯爵夫人を演じるマンディ=フレドリヒは如何にも品格があり上品な雰囲気であるし、スザンナを演じる九嶋香奈枝はスラッとした体格で結婚したくなる雰囲気を醸し出す活発な娘であり、ケルビーノを演じるレナ=ベルキナもまたスラッとして少年のような雰囲気であり、出番が少ないバルバリーナを演じる吉原圭子に至っては小柄かつ華奢な体格で、如何にも小娘という形だ。良くもこれだけ役者を揃えたものである。

ソリストの出来について述べる。

主役のフィガロ役のマルコ=ヴィンコは最悪の出来で、特に第一幕・第二幕では声量が全く足りない状態であり、音楽として成立していない状態である。今すぐ成田から国外追放して、二度と日本に来るなと言ってやりたくなる程の酷さだ。後半はいくらか持ち直したが、私はこの歌い手に対してだけは拍手をせず、掌を役者に見せる事によって抗議の意志を示した。ブーイングが出なかったのが不思議なくらいである。

これに対して、伯爵夫人役のマンディ=フレドリヒは声量・安定感を伴ったニュアンスが良く、一番の出来である。声量がありながらパワーではなく上品さすら感じさせたが、これは声の安定感が齎しているのであろうか。このレベルの歌唱でありながら、全力を出し切っている雰囲気は全くなく、十分な余裕を持っていると感じさせるところが恐ろしい。

第三幕のアリア、管弦楽との(敢えて言えば)二重唱が決まっている。マンディとウルフとの完璧な二重唱と言った形で、実力ある室内管弦楽団の持つ精緻さをも実現させている。

スザンナ役の九嶋香奈枝は、前半こそもう少しの声量が欲しかったところもあるが、小柄な体格でありながら重要な役を務める努力が感じられるところがある。後半調子を上げたように思えるのは気のせいであろうか、マンディとの二重唱をしっかりお相手しており、マンディとの枢軸を見事に形成している。

新国立劇場オペラ研修所の第4期生である彼女であるが、日本からも重要な役を担える歌い手を輩出し始めている事を実感する。

ケルビーノ役のレナ=ベルキナは、この奇妙な役柄を見事に演じ切っている。声量は文句なく、特に前半はマンディに匹敵する出来である。

その他、伯爵役のレヴァンテ=モルナールは、全てが全て理想的ではなかったが、合格点か。マルチェリーナ役の竹本節子の歌唱も、安定感ある声量で盛り上げている。バジリオ役の大野光彦も良い出来だ。

管弦楽の東京フィルハーモニー交響楽団は、全てが全て技巧面で完璧と言うわけではないが、ウルフ=シルマーの意図を実現している。序曲での響きが弱く感じたのは、一階席だったからなのだろうか、しかしながら本編に入るとその違和感は消え去る。ウルフ=シルマーの指揮は、音のうねりや新鮮なアクセントを効かせており、その構成力を堪能した。

2013年10月20日日曜日

アンジェラ=ヒューイット アフタートークの内容について

2013年10月20日 日曜日
三井住友海上しらかわホール (愛知県名古屋市)

同日に行われたリサイタル(別稿参照)の後で開催された、アフタートークでアンジェラ-ヒューイットが話した内容について記述する。

なお、英語で書かれてある箇所を除き日本語での通訳の内容をまとめたものであり、通訳の正確性及び、私の聴きとり・解釈の正確性、この二重の意味で内容の正確性は保証しない。

通訳は久野理恵子である。この通訳は、2013年2月9日に横浜みなとみらいホールで開催された「エサ-ペッカ=サロネン 自作を語る」でも登場していた通訳でもあり、音楽の知識を併せ持った通訳であることは明らか、音楽関係の通訳者としては、その業界ではかなり名を知られているのでないだろうか。ナビゲーターは、月刊ぶらあぼ編集長の田中泰である。

リサイタル後に帰った観客は半分くらいいた。演奏会終了後、アフタートークまでに40分近い時間があったからなのか、名古屋人の気質によるものなのか。

以下、アンジェラ=ヒューイットが話した内容である。

J.S.バッハの「フーガの技法」をについて、二回に分けて演奏する(注:名古屋公演では10月20日と22日に分けて、「フーガの技法」を半分ずつ演奏した)ことについて

外国のホール(注:実際にはそのホールの名を挙げていた。ロンドンのロイヤル-フェスティバルホール?)の企画により、二回に分けて演奏する機会があった。その流れである。

「フーガの技法」は退屈な作品だと思っていた。演奏のやり方によって違う成果が得られる。十年前や十五年前であったら、今のようにはできなかったかも。

「フーガの技法」には楽器の指定がない。音符しかない。様式への理解が必要である。曲を理解するに当たっては、垂直にではなく、水平に見ていく必要がある。

「フーガの技法」は、バッハが自分自身のために作ったものだ。既に流行遅れの様式であった。楽譜は30部しか売れなかった。聴く側にも相当の集中力を要する。

プログラムにベートーフェンとの組み合わるに当たって、op.101(10月20日公演)とop.110(10月22日公演)を対象とした。二つとも最終楽章がフーガ形式である。ベートーフェンをバッハからみる(ショパンからではなく)。

10月20日公演の際にバッハの作品でヴィルヘルム=ケンプ編曲の作品を入れた理由については、オルガニストでもあったケンプへのオマージュである。

「フーガの技法」に於けるバッハの絶筆部(コントラプンクトゥス14)は感動的な場所である。ここで演奏を止める。沈黙の中で生きるものがある。この後コラールに進む。バッハが口述筆記したものである。バッハ最期の部分であるが、死であるがト長調で書かれてあり、そこにバッハの生き様が表れている。(注:この部分は10月22日の演奏で実現されたかと思われる。残念ながら、私は臨席していない)

映像を作っているが、この目的は解説である。日本では日本語ができないため行っていないが、演奏会時には簡単な解説をしている。

(ここからピアノによる実演を行いながら「フーガの技法」を解説し始める)

コントラプンクトゥス6については、楽譜通りに弾いてはならない。フランス様式の文脈によって弾いていかなければならない。(楽譜通りとフランス様式の文脈での演奏を実演して)、フランス様式の文脈の演奏の方が面白いでしょ♪

コントラプンクトゥス14は四部形式、4つ目の主題があると考えている。三つの主題を一緒にしたものに、オリジナルなものを加えている。

バッハは音楽を無限のものと考えていたのではないか。曲を終わらせたくなかったのでは。

(ピアノ実演はここで終わり。その他にも解説はあったが、どうにも辻褄が合わないところがあり、自信を持てない部分は割愛した)

1979年のコンクールでは、デリカシーのある演奏を行う事が出来た。

グレン=グールドとの唯一の共通点はカナダ人であることだけ。

私(アンジェラ)もグレン=グールドも自分の道を歩んできた。グールドは「フーガの技法」をオルガンで演奏した。オルガンでは音の透明感や声部を際立たせる効果がある。一方でピアノは広い強弱・音域を実現できる。

カナダ楽派が無いのが良かった。これにより個性的な音楽家が生じた。ヨーロッパから優秀な先生が来てくれた事は、その要因である。

ファツィオリ社(イタリア、ヴェネツィアのピアノ工房)のピアノは1999年から使用している。タッチが絶妙であり、最高にクリエイティブなコントロールが行える。高音部では音が跳ねまわり軽やかに響く。一方低音部はクリアな響きである。

iPadの楽譜は、そんなに集中して見ていない。何もない砂漠で三週間邪魔もなく過ごせれば、暗譜は可能であるが、そのような機会はない。しかしながら、譜めくりの人が横にいるのは嫌だ。楽譜のめくりは足により操作する。楽譜は、私(アンジェラ)が記号を書いたものをスキャンしてiPadに読み込む。

イタリアはペルージャ(ウンブリア州)のフェスティバルは、2014年は7月5日から11日まで、7日間に6演奏会を開く。2014年で第10回目を迎える。多くの仲間と一緒に演奏できる機会である。

ベートーフェンのop.101・op.110は、レガートは指で実施し、ペダルを用いてはならない。ベートーフェンは葛藤が大事である。透明感が必要なのは、バッハと一緒である。

集中力は徐々に培うものである。他の考えをシャットアウトするしなければならない。6時間トレーニングした時は、6時間歌っている(別の事をしている)。しかしながら、ピアノを弾きながら歌ったりなんてしないですよ、グレン=グールドではないのですから♪♪

アンジェラ=ヒューイット ピアノ-リサイタル 評

2013年10月20日 日曜日
三井住友海上 しらかわホール (愛知県名古屋市)

曲目:
ヨハン=セバスティアン=バッハ(ヴィルヘルム=ケンプ編曲):「いざ来たれ、異教徒の救い主よ」 BWV659
ヨハン=セバスティアン=バッハ(ヴィルヘルム=ケンプ編曲):フルート-ソナタBWV1031より「シチリアーノ」
ヨハン=セバスティアン=バッハ(ヴィルヘルム=ケンプ編曲):カンタータ 第29回「神よ、われら汝に感謝す」 BWV29より「シンフォニア」
ルートヴィッヒ=ファン=ベートーヴェン:ピアノ-ソナタ 第28番 op.101
(休憩)
J.Sバッハ:「フーガの技法 BWV1080」より「コントラプンクトゥス」第1曲から第10曲まで

ピアノ:アンジェラ=ヒューイット

ピアノはイタリアのファツィオリ社製で、持ち込みのピアノである。

着席場所は、若干後方かつやや上手側である。客の入りは6割程である。観客の鑑賞態度はかなり良好だった。

アンジェラの演奏姿勢はそれほど動かず、二つか三つの姿勢で演奏している形である。

前半部は、一言で言うと「華やか」で見た目通りの女性的な演奏だ。第二曲目の「シチリアーノ」で調子に乗った感じがある。ある特定のフレーズで観客の方を向いたりするのは、ここが聴きどころだよと教えてくれているのか、それとも静かに聴いている観客が実は寝ているのか起きているのかをチェックしているのか、ちょっと謎だ。

バッハもベートーヴェンも、アンジェラ風に華やかに軽やかに染めている感じ。パッションを込めて強く弾く部分も、彼女独特のテンポの扱い方も相乗して、どこか蝶が舞いあがる印象がある。この印象については、ファツィオリ社製のピアノの音色も、重要な役割を果たしている事は言うまでもない。

シルバーの光沢あるドレスを着た姿はスラッとした容姿で、写真よりも美しい。妙に彼女の奏でる音と合っている。

後半はバッハの「フーガの技法」。前半とは打って変わって、時折客席を見つめる事もなく、曲にのめり込んで行くかの演奏である。後方上手側だと分からないが、楽譜はiPodを用いているらしい。それぞれの曲の導入部から全開に展開するまでの時間が微妙に長い曲想であることもあり、観客の側にも集中力を要するところがある演奏だ。ティントレットよりもティッツィアーノが好きな享楽主義の私にとっては、前半部の方が好みであるが、そのような事を言ったら怒られるだろうか。

アンコールは、グルックの歌劇「オルフェオとエウリディーチェ」から「聖霊の踊り」。前半部と同じような華やかで軽やかな演奏で、「フーガの技法」の疲れを癒してくれた。

アフタートークについては、別稿を参照願う。

2013年10月19日土曜日

マレイ=ペライア アフタートークの内容について

2013年10月19日 土曜日
彩の国さいたま芸術劇場 音楽ホール (埼玉県与野市)

同日に行われたリサイタル(別稿参照)の後で開催された、アフタートークでマレイ=ペライアが話した内容について記述する。

なお、英語で書かれてある箇所を除き日本語での通訳の内容をまとめたものであり、通訳の正確性及び、私の聴きとり・解釈の正確性、この二重の意味で内容の正確性は保証しない。

リサイタル後に帰った観客はごく少なく、ほぼ全員がそのまま残ってアフタートークに臨んだ形となる。

以下、マレイ=ペライアが話した内容

リサイタルのプログラムについては、ベートーフェンの「熱情」を中心に据えた。その「熱情」を軸に、対照的になるようにプログラムを構成した。悲劇的な「熱情」に対してバッハのフランス組曲を置くように。

ベートーヴェンはシェイクスピアからの影響を受けている。「熱情」については、ハムレットからの影響を受けているのではないか。第一楽章は亡霊を描写的に、第二楽章は祈り、第三楽章は復讐という形で。

ホロヴィッツと一緒に勉強した。

ヴィルトゥオーソを超えるためには、まずヴィルトゥオーソにならなければならない。

過去のヴィルトゥオーソ(ケンプ・ルービンシュタイン・ホロヴィッツ)は、曲の内面・感情に対する深く追求していた。

バッハは、故障により演奏不可能となった時によく聴いていた。癒し・感動がもたらされた。バッハのコラールは、全ての音楽に対しての原点である。

レコーディングについて。後期ベートーフェンについては、op.110とop.109はよく演奏している(から対象となるだろうと暗示?)。op.111はちょっと難しい(から対象にはならないと暗示?)。

ピアノの音については、音色はあまり考えていない。大切な事は、耳から聴こえてくる音が納得できるものであるか否か。個性的な音、本当に自分がどんな音を求めているかを追求している。

音楽に対する愛(love)が大切である。その為には音楽を聴く事(listening)が重要だ。音の要素や意味合いを考えていく事が大切である。

マレイ=ペライア ピアノ-リサイタル 評

2013年10月19日 土曜日
彩の国さいたま芸術劇場 音楽ホール (埼玉県与野市)

曲目:
ヨハン=セバスティアン=バッハ:フランス組曲第4番 BWV 815
ルートヴィッヒ=ファン=ベートーフェン:ピアノ-ソナタ第23番 「熱情」 op.57
(休憩)
ロベルト=シューマン:「ウィーンの謝肉祭の道化」
フレデリック=ショパン:即興曲第2番 op.36
フレデリック=ショパン:スケルツォ第2番 op.31

ピアノ:マレイ=ペライア

着席場所は、ど真ん中より僅かに上手側である。チケットは、前日5枚残っていた分を売り切り、一旦完売していた後、当日券が2枚だけ出てこれも完売した。観客の鑑賞態度はかなり良好だった。

マレイ=ペライアの演奏姿勢はほぼ一定で、あまり変化がない。

第一曲目の、J.S.バッハ:フランス組曲第4番、最初の音から、主と対話しているかのオーラが出ている。全く無駄な音がない。全ては必然である。テンポを揺るがせる訳でもなく、技巧を見せつける訳でもなく。通常奏者の表情も観察したがる私であるが、このバッハにだけは、敢えて奏者から目を逸らす。演奏している映像をシャットアウトし、音だけに集中するべき状況だと思ったから。

二曲目であるベートーフェンの「熱情」は、打って変わってペライア節を前面に押し出す演奏である。特に、最高音をどこに設定するかの解釈に、強い個性が発揮される。通常跳ね上がるように弾かれる三音を敢えて平板に奏したり、テンポの変化が激しくなる。かなり冒険的で、観客の中で好き嫌いが出そうな演奏である。


後半はシューマンとショパン。こちらはベートーフェンとは違って、楽譜通りに自然な感じで演奏していく路線であるが、一方でベートーフェンで見せたペライアの個性を絶妙な形で融合させている。ペライアのパッションは、ベートーフェンではごつごつした武骨な感じになるが、特にショパンとなると、どうしてこれほどまでに相性良く絶妙な形になるのか。ショパンとペライアの完璧な相性を感じた演奏である。

曲によってペライアはアプローチを大幅に変えてくる。私の好みと言う点では、バッハとショパンがそれぞれ全く別の意味で双璧を占める。

アンコールは、ショパンのノクターンop.15-1、シューベルトの即興曲第2番 D899-2、ショパンのエチュードop.10-4、の三曲であった。

演奏会後にアフタートークがあったが、その内容については別稿を参照願う。

2013年10月16日水曜日

堀米ゆず子 バッハ-ブラームス プロジェクトI 松本公演 評

2013年10月16日 水曜日
松本市音楽文化ホール (長野県松本市)

曲目:
ヨハネス=ブラームス:ピアノ五重奏曲 op.34
(休憩)
ヨハネス=ブラームス:ヴァイオリン-ソナタ 第3番 op.108
ヨハン=セバスティアン=バッハ 無伴奏ヴァイオリン-パルティータ 第2番 BWV.1004

ヴァイオリン:堀米ゆず子・山口裕之
ヴィオラ:小倉幸子
ヴァイオリン-チェロ:辻本玲
ピアノ:リュック=ドゥヴォス

着席場所は、中央上手側である。客の入りは半分強で、少なめだ。観客の鑑賞態度は概ね良好であった。

私が知る限り、同じプログラムでの演奏会は、10月18日に白寿ホール(東京)、10月20日に兵庫県立芸術文化センター大ホール(兵庫県西宮市)でも開催される。また、プログラムを半分変形させた形で、10月19日に山形シベール-アリーナ(山形県山形市)でも開催される。一連の公演の初回公演となる。白寿ホールはともかくとして、兵庫県立芸術文化センター大ホールでの公演は無謀かと思われるが・・・。

プログラムは、五人が二人になり、最後は一人になる構成である。当初発表されていたプログラムは、一人が二人になり、最後は五人になる構成だったから、当日来てみたら逆転していたという展開だ。

前半はブラームスのピアノ五重奏曲、この曲がいかに難しいかを認識させられた演奏である。この瞬間の音をどのように響かせ、その為には個々の奏者がどのような音を出すかという点で難しい。実際の演奏は、何となく響きが精緻ではないけど、堀米ゆず子の力技というか、パッションで持たせた印象が強い。個々人の技量ではなく、五重奏全体の問題として、常設の室内楽団でなければ難しいところもあるのか。

後半の曲目は、ブラームスのヴァイオリン-ソナタ第3番と、バッハ無伴奏ヴァイオリン-パルティータ第2番である。

ブラームスのヴァイオリン-ソナタは、第一楽章の堀米ゆず子がやけに大雑把である。冒頭の平板な響きや、弱奏部で二つの音の間で波打たせる表現に、特にそのように感じられる。一方で、強奏部はよく響かせており、パッションを乗せやすいように思える。

バッハの無伴奏ヴァイオリン-パルティータは、速めのテンポである。前曲の大雑把さが不安を抱かせたところであるが、予想外にいい出来だ。強めに弾いているところもあり、前曲のように苦手部分が露呈しないこともあるのか。第四楽章までは調子良かったが、やはり最後の「シャコンヌ」は、冒頭部のテンポの速さからしても、「主との対話」の領域とまでは行かない。堀米ゆず子は、どちらかと言うと如何にドラマティックに作り上げるかを意識しているのかとも思える。ヒラリー=ハーンの領域に達する事の難しさを、改めて思い知らされた。

アンコールは一曲で、おそらくバッハの無伴奏曲からの一曲である。曲名は明らかにされなかった。

2013年10月6日日曜日

新国立劇場 歌劇「リゴレット」 評

2013年10月6日 日曜日
新国立劇場 (東京)

演目:
ジュゼッペ=ヴェルディ 歌劇「リゴレット」

リゴレット:マルコ=ヴラトーニャ
ジルダ:エレナ=ゴルシュノヴァ
マントヴァ公爵:キム=ウーキュン
スパラフチーレ:妻屋秀和
マッダレーナ:山下牧子
モンテローネ伯爵:谷友博
ジョヴァンナ:与田朝子
マルッロ:成田博之
ボルサ:加茂下稔
チュプラーノ伯爵:小林由樹
チュプラーノ伯爵夫人:佐藤路子
小姓:前川依子
牢番:三戸大久

合唱:新国立劇場合唱団

演出:アンドレアス=クリーゲンブルク
美術:ハラルド=トアー
衣装:ターニャ=ホフマン
照明:シュテファン=ボリガー
振付:ツェンタ=ヘルテル
合唱指揮:三澤洋史
管弦楽:東京フィルハーモニー交響楽団(TPO)
指揮:ピエトロ=リッツォ

新国立劇場は、10月3日から22日までの日程で、ヴェルディ作歌劇「リゴレット」を、計7公演に渡って繰り広げられる。この評は、第二回目10月6日の公演に対するものである。

着席位置は二階中央前方、9割程の入りである。観客の鑑賞態度は概ね良好であったが、第一幕第二場「慕わしき御名」にて二階正面後方席でビニールの音を二分以上にも渡って鳴らす演奏妨害があった。

休憩は、第一幕と第二幕の間のみの一回のみである。

舞台は、第一幕・第二幕では、現代風のホテルの部屋やロビー、廊下、階段を円柱三層構造にした巨大な回転体があり、これをメリーゴーランドのように、場面に応じて様々な速度で動かしたり止めたり回転方向を逆転させたりする。舞台脇にはホテルの中にあるようなバルを設置している。この舞台は二幕に渡って変化はなく、そのままホテルやリゴレット邸の舞台としている。

第三幕では、一転郊外にあるスラム街のような背景である。アルコールの宣伝広告が三つあり、Twitter上でのWilm Hosenfeld さん(‏@wilmhosenfeld)の解説(2013年10月6日投稿)によると、「中央は、Spumante Ducale(公爵スパークリング)、右は、Birra Mantova(マントヴァ・ビール)。ビールには、dal 1813とヴェルディの生年が。左のワインには、『頭痛の日』という能書きがある」。

舞台の出来は秀逸で、高級ホテルのような第一幕・第二幕の場面と、怪しげな第三幕のスラム街の対比が、悲劇的結末へ至る見事なインフラとなっている。現代風ではあるが演目との違和感は感じない。

衣装も現代風で、マントヴァ公爵やその手下は、如何にもマフィア風である。舞台と一致している衣装であり、これまた演目との違和感は感じない。

演劇面では、冒頭から女性の扱いが乱暴である。「あれかこれか」は、ムフフな気分ではとても聴けない。「あの女性を抱いては次の女性に心変わり♪」と言った雰囲気ではなく、とにもかくにも「女を捨て、女を捨て」と言った形で最初から最後まで一貫している。捨てられ疲れ切った下着姿の娼婦の姿をしつこいほどに背景に存在させる。男の残酷さ、男性優位社会の不条理を強く印象付ける演出ではある。あまりに強い演出であるが故に、女性の観客の中には、直視できなかった人たちもいたかもしれない。

ソリストの出来について述べる。

リゴレット役のマルコ=ヴラトーニャは、第一幕では九割程の調子であるが主役としての役割を果たしている。第二幕になり管弦楽の強奏に乗ることが出来ず失速したが、終始主役として求められる存在感あるニュアンスで何とか持ちこたえ、調子が悪いなりに頑張ったか。

ジルダ役のエレナ=ゴルシュノヴァは、主要な役としてはギリギリ合格点と言った程度か。

マントヴァ公爵のキム=ウーキュンが抜群の出来だ。あれなら、女性たちも口説かれるのに納得する。「あれかこれか」、一回目の「女心の歌」については、荒っぽさがある。しかし、第一幕第二場でのジルダとの二重唱ではパワー・コントロールとも完璧である。口説く場面になるとテンションが上がるのか、一旦誘惑する女性が側につくと、全てが完璧となり圧巻の出来だ。それにしても徹底的に悪役を演じきる。そういう奴だから、マントヴァ公爵が生き残ったのかと、この歌劇の不条理に納得させられる役割を十二分に果たしている。

その他、マッダレーナ役の山下牧子は声が通っていて良い出来だ。モンテローネ伯爵役の谷友博は、呪いをかける部分での迫力が全くなく、遺憾である。登場する場面が短い役であるが、その呪いは第一幕第一場で重要な場面の一つであり、力のある歌い手である必要があった。

管弦楽の東京フィルハーモニー交響楽団は、演奏会毎の出来不出来が激しい楽団であるが、今回の公演での管弦楽に違和感を感じられるところはなく、したがって良い出来であったと思われる。

2013年10月5日土曜日

第88回 水戸室内管弦楽団 定期演奏会 演奏会評

2013年10月5日 土曜日
水戸芸術館 (茨城県水戸市)

曲目:
アントニーン=レイハ 演奏会用序曲 op.24
アントニオ=ロゼッティ 二つのホルンのための協奏曲 MurrayC56Q
ジャック=イベール 「ディヴェルティスマン」
(休憩)
ヨーゼフ=ハイドン 交響曲第101番「時計」 Hob.I-101

ホルン:ラデク=バボラーク、アンドレイ=ズスト
管弦楽:水戸室内管弦楽団(MCO)
指揮:ラデク=バボラーク

MCOは、ラデク=バボラークを指揮者に迎えて、2013年10月5日・6日に水戸で、第88回定期演奏会を開催した。この評は、第一日目の公演に対してのものである。

管弦楽配置は、舞台下手側から、第一ヴァイオリン→第二ヴァイオリン→ヴァイオリン-チェロ→ヴィオラのモダン配置で、コントラバスはチェロの後方につく。木管パートは後方中央、ホルンは後方上手側、その他の金管・ティンパニは後方下手側の位置につく。

着席位置は正面やや前方やや上手寄り、客の入りは9割5分である。観客の鑑賞態度は、携帯電話のマナモードの音が一回あったが大きな影響は与えず、その要素を除けばかなり良好であった。楽曲の解説は、家業の都合で退職された元水戸芸術館学芸員の矢澤孝樹さんで、正面後方の席で臨席している。

第1曲目、レイハの「演奏会用序曲」は、ゼネラルパウゼで残響感を強調する場面があって面白い。

第2曲目のロゼッティの協奏曲は、ヨーゼフ=ハイドン作とされていたもの。バボラークとズストのホルンは柔らかい音色でかつユニゾンもしっかり揃っている。ソリストが先頭に立って走るというよりは、ソリストと管弦楽とが協調し盛り上げていくアプローチである。もっとも、残念ながらもともとの曲想が曲想なだけに、観客に強い印象を与えるものではない。

第3曲目のイベールのディヴェルティメント、最高に楽しい!もちろん、弦管打鍵全て非の打ち所がない完璧な演奏に支えられている。特に第五曲・第六曲は、スリリングな要素を持つ曲を演奏させたら無敵のMCOならではの完璧な演奏である。確か元ヴィーン-フィルのローランド=アルトマンさん、ホイッスルも特技なのですね

休憩後のハイドンの交響曲「時計」、第一・第三楽章は、ゆっくり目で一定のテンポで、濃厚なニュアンスで攻める。遅いテンポであることで見えてくるものはあるが、テンポが一定であることもあり躍動感があるわけではないので、好みは分かれるだろう。正直私が好みの展開ではない。

バボラークが冒険したのは第二・第四楽章だ。第二楽章はチクタクが気迫となる展開部の強い表現が印象的である。特に一回目の展開部は本当に見事だ。バボラークの指揮者としての構成力を思い知らされる。

第四楽章はスリリングな展開でドキドキさせて終わらせる。MCOの最も良い特質が出てくる展開で演奏会を締めくくる。

アンコールはなかった。