2013年6月29日土曜日

第339回 オーケストラ-アンサンブル-金沢 定期演奏会 演奏会評

2013年6月29日 土曜日
石川県立音楽堂 (石川県金沢市)

曲目:
ルートヴィッヒ=ファン=ベートーフェン 「レオノーレ」序曲第1番 op.138
ヴォルフガング=アマデウス=モーツァルト 交響曲第25番 K.183
(休憩)
ルートヴィッヒ=ファン=ベートーフェン ピアノ協奏曲第5番「皇帝」 op.73

ピアノ:シュテファン=ヴラダー
管弦楽:オーケストラ-アンサンブル-金沢(OEK)
指揮:シュテファン=ヴラダー

OEKは、シュテファン=ヴラダーを指揮者に迎えて、2013年6月29日・30日に、第509回定期演奏会を開催した。この評は、第一日目の金沢公演に対してのものである。

管弦楽配置は、舞台下手側から、第一ヴァイオリン→ヴィオラ→ヴァイオリン-チェロ→第二ヴァイオリンの左右対向配置で、コントラバスはチェロの後方につく。木管パートは後方中央、ホルンは後方下手側、その他の金管・ティンパニは後方上手側の位置につく。

着席位置は一階正面上手側中央、客の入りはほぼ8割程であろうか。

シュテファン=ヴラダーは演奏会前に下記ウェブサイトの通り記者会見を行っている。
http://www.orchestra-ensemble-kanazawa.jp/news/2013/06/339.html

前半、「レオノーレ」序曲から縦の線が揃った演奏で、端正な演奏を目指している事が分かる。記者会見録は演奏会後に閲覧したが、やはりそのような狙いだったのかと納得する次第である。しかしながら、実際の演奏でどこまで反映できたのかは疑問に感じるところもある。

ヴラダーの指揮は手をばたばた動かしている感が強い。テンポの変動は自然であり心地よいが、反面眠くなりやすい演奏でもある。モーツァルト25番の第三楽章トリオ部でのオーボエ・ファゴット・ホルンの見せ場では、チグハグ感が感じられ見せ場を飾ることができない状態である。それでも、アビゲイル=ヤング率いる第一ヴァイオリンのテンションは高く、演奏をリードしているのが感じられ好感が持てる。

前半の観客の拍手は、全く情熱の感じられないお義理の拍手に近い。岩城宏之さんがご存命であったらと思うとちょっと恐ろしくなる。

後半の「皇帝」である。シュテファン=ヴラダーによる指揮振りによる演奏となる。ピアノは鍵盤を客席に向け、天蓋は外されている。このような状況であり、ピアノの直接音は期待できず、全てが間接音によるものとなってしまう苦しい展開ではあるが、その状況の中でもヴラダーは的確な響きを探りだしてくる。

全てが前半とは打って変わり、まるで別人のような演奏と化す。

シュテファン=ヴラダーは監獄から出たかのよう。第一楽章では、同じフレーズをリピートさせる際にテンポを速めるなど、自由闊達な演奏を繰り広げる。

管弦楽は、第一ヴァイオリンの高いテンションは維持しながらも、木管・金管とも見違えたような冴えわたり、厚い響きでヴラダーを力強く支えていく。管楽ソロとピアノとの掛け合いの部分では、管楽は響きがニュアンスに富んだ精緻な室内楽的掛け合いであり、弦楽四重奏を聴いているかのようにも思えてくる。

終盤でのピアノとティンパニとのリタルダンドも見事に決まる。ソリスト・弦楽・管楽・ティンパニの全てがかっちり噛み合った演奏で、ヴラダーも満足した演奏であったに違いない。「皇帝」を終えた後の拍手は、前半とは大違いの熱気を伴うものだ。金沢の観客は露骨な程に率直な性格を見せる。

アンコールはヴラダーのソロで、リストのコンソレーション第3番である。「皇帝」とは別の意味でのニュアンスを深く表現した演奏で、感銘させられるアンコールであった。

2013年6月22日土曜日

第509回 新日本フィルハーモニー交響楽団 定期演奏会 演奏会評

2013年6月22日 土曜日
すみだトリフォニーホール (東京)

曲目:
グスタフ=マーラー 交響曲第6番「悲劇的」

管弦楽:新日本フィルハーモニー交響楽団(NJP)
指揮:ダニエル=ハーディング

新日本フィルハーモニー交響楽団は、ダニエル=ハーディングを指揮者に迎えて、2013年6月21日・22日に、第509回定期演奏会を開催した。この評は、第二日目の公演に対してのものである。

管弦楽配置は、舞台下手側から、第一ヴァイオリン→ヴァイオリン-チェロ→ヴィオラ→第二ヴァイオリンの左右対向配置で、コントラバスはチェロの後方につく、ダニエル=ハーディングのいつもの配置である。木管パートは後方中央、ホルンは後方下手側、その他の金管は後方中央から上手側の位置につく。

着席位置は一階正面下手側やや前方、客の入りはほぼ満席である。

この曲で問題となる中間楽章の取り扱いは、第二楽章をアンダンテ-モデラート、第三楽章をスケルツォとして演奏された。古典回帰の意図もあるのか?最終楽章のハンマーは木槌を用いており、使用回数は二回である。

全般的に管楽器重視の展開である。木管セクションは、強力な金管セクションに囲まれた環境でありながら、十分に響かせるのに成功している。金管については、ホルン-ソロの音程が不安定であり、マーラー室内管弦楽団のホルン奏者と比較すると歴然とした差を感じざるを得ない出来であったが、それでも第四楽章に向けて改善されていったか。ヴァイオリンは全般的に線が細いが、逆にこれが管楽器を際立たせるのに作用しており、もともとの狙い通りか、怪我の功名かは不明であるが、結果的にはよい方向に向いている。

第一楽章冒頭部では、弦楽の縦の線がかなりずれていたが、主題展開部では是正されている。弦楽はやや出来不出来の差があるが、第二楽章(アンダンテ=モデラート)で主旋律を奏でるところ等、決めなければならない箇所では縦の線が揃っている。

ダニエル=ハーディングは、曲によって接する態度を変えているところがあるのか、この曲では作曲家の意図を忠実に表現するアプローチで臨んでいる。マーラー室内管弦楽団とのドヴォルジャークの「新世界」とは対極のアプローチである。また、「悲劇的」との副題とは距離を置き、純音楽的なアプローチである。グスタフ=マーラー自身になり切る事を避けつつ、純音楽的なパッションには溢れている演奏だ。

第一楽章から総じて「流している」と感じられるところはなく、それなりの水準に達している演奏であるが、それでもその意図が最も良く働いたのは第四楽章で、これは圧巻である。別の管弦楽団になったかのようで、何もかもが噛み合い、熱がこもった精緻な演奏となる。連続30分に及ぶこの長大な楽章について、どこで何をすればどのような展開になるか、ダニエル=ハーディングは全てを鋭く見通している。グスタフ=マーラーの作曲の意図が完璧に理解され、如何にこの大作曲家が天才だったかが分かるかのような演奏だ。

弦楽のピッチカートによる最後の弱い一音が終わった後の静寂、すみだトリフォニーホールの客はその意図を理解し、フライング拍手もフライングブラボーもない。観客にも恵まれた演奏である。

小澤征爾もマーラーについては比較的良い結果を出していたが、選りすぐりの楽団員を揃えたサイトウ-キネンではなく、NJPでハーディングがこれほどまでの成果を出しているところを聴くと、もはや小澤征爾が出る幕ではない。6月15日からのマーラー室内管弦楽団演奏会を含め、この6月の三回の公演とも、ダニエル=ハーディングの本領を実感させられた、とても充実した演奏であった。

2013年6月21日金曜日

小曽根真+ゲイリー=バートン 松本公演 演奏会評

(注:この投稿に関しては、twitterには投稿していません)

2013年6月21日 金曜日
松本市音楽文化ホール (長野県松本市)

曲目:
曲名/作曲者
Afro Blue / M. Santamaria
I hear a Rhapsody / G. Fragos, J. Baker
Remembering Tano / G. Burton
「クープランの墓」 / モーリス=ラヴェル
Sol Azteca / 小曽根真
(休憩)
Fat Cat / 小曽根真
Ital Park / 小曽根真
Stompin at B.P.C / 小曽根真
Time Thread(for Bill Evans) / 小曽根真
Suite ‘One Long Day in France’ / 小曽根真

ピアノ:小曽根真
ヴィブラフォン:ゲイリー=バートン

小曽根真+ゲイリー=バートンでは、6月1日から6月23日までに掛けて日本ツアーを行った。この評は13の公演中第11回目、6月21日の松本公園に対する評である。

着席位置は後方中央、チケットは完売しており満席である。小曽根真のピアノはYAMAHA社製である。

総じてヴィブラフォンによる表現力の制約にピアノも拘束され、表現が少ないパターンに収束される形となり、特段の感銘は受けなかった。

前半最終曲の「Sol Azteca」、最終曲の「One Long Day in France」の最終局面で、スリリングなピアノが聴けた事が収穫と言える。

アンコールは、小曽根真の「Popcorn Explosion」であった。

2013年6月16日日曜日

マーラー室内管弦楽団 名古屋公演 演奏会評

2013年6月16日 土曜日
愛知県芸術劇場 コンサートホール (愛知県名古屋市)

曲目:
ロベルト=シューマン 交響曲第3番「ライン」 op.97
(休憩)
アントニーン=ドヴォルジャーク 交響曲第9番「新世界から」 op.95

管弦楽:マーラー室内管弦楽団(MCO)
指揮:ダニエル=ハーディング

マーラー室内管弦楽団は、ダニエル=ハーディングを指揮者に迎えて、2013年6月15日・16日に、軽井沢・名古屋で来日公演を行った。この評は、第二日目名古屋公演に対してのものである。

着席位置は三階(実質的には二階)正面前方やや上手側、客の入りは7割くらいであろうか、二階・三階のバルコニーは空席が非常に目立つ。

第一曲目の「ライン」は、冒頭部で愛知県芸術劇場の響きに戸惑ったのか、乱れが生じていたが徐々に軌道修正されていく。軽井沢公演でも感じた事ではあるが、ホルンの響きがとても明瞭で綺麗な響きである。ハーディングの左手の動きに、管弦楽は敏感に反応している。

後半の「新世界から」は、曲の展開こそ軽井沢公演とほぼ同じであるが、改めて曲の最初から最後まで仕掛けられたハーディングの音作りに感嘆させられる。第一楽章におけるフルートの取り扱いについては、他のオーボエ・クラリネットとのバランスを考慮すると、もっと強く自己主張しても良かったような気がするが、敢えて弱めたのか。第二楽章のイングリッシュ-ホルンは、軽井沢公演と同様に素晴らしい出来だ。

軽井沢公演と違うところは、やはりホールの響きであろうか。軽井沢大賀ホールでは、中規模ホールならではの緊密かつ親密な空間が特色であるし、愛知県芸術劇場では残響の豊かさを味わえるところが良い。

最終局面では、敢えてギアを落としてゆっくりと余韻を聴かせながら終わらせる。このような終わらせ方はなかなか無いものであるが、実に効果的だ。軽井沢公演・名古屋公演とも、指揮棒を降ろすまで拍手・掛け声もなく、観客をも巻き込んで一つになって終わる。一人の観客も見当違いな振る舞いをしなかったのが素晴らしい。

アンコールは、ドヴォルジャークのスラブ舞曲第一集より、第四番であった。

今回のマーラー室内管弦楽団の来日公演は、軽井沢と名古屋だけという、変則的な場所での公演であった。土日の公演であったが、名古屋で空席が目立ったのは少し残念である。ダニエル=ハーディングの知名度が浸透しているのは、東京だけなのだろうか。また、マーラー室内管弦楽団の知名度が日本で浸透していない事を、痛感させられた。

今回のマーラー室内管弦楽団の公演では、やはりダニエル=ハーディングが本領を発揮し、その実力を日本に知らしめる事が出来た事が大きい。在日オーケストラではリハーサル時間が足りないのか、音作りにムラがあり、本気を出しているところと流している(手を抜いている)ところとの差を感じられるところがあったが、今回はそのような場面が無かった。手兵であり、来日直前までオーストラリアで本番を重ねていたところもあり、テンションが高い状態で演奏できる所もあっただろう。どうしてダニエル=ハーディングが欧州で高い評価を得ているのかを、実感する事ができた。松本の地の利を活かした、軽井沢→名古屋への追っかけは、実に有意義であった。

2013年6月15日土曜日

マーラー室内管弦楽団 軽井沢公演 演奏会評

2013年6月15日 土曜日
軽井沢大賀ホール (長野県北佐久郡軽井沢町)

曲目:
ルートヴィッヒ=ファン=ベートーフェン ヴァイオリン協奏曲 op.61
(休憩)
アントニーン=ドヴォルジャーク 交響曲第9番「新世界から」 op.95

ヴァイオリン:クリスティアン=テツラフ
管弦楽:マーラー室内管弦楽団(MCO)
指揮:ダニエル=ハーディング

マーラー室内管弦楽団は、ダニエル=ハーディングを指揮者に迎えて、2013年6月15日・16日に、軽井沢・名古屋で来日公演を行う。この評は、第一日目軽井沢公演に対してのものである。

管弦楽配置は、舞台下手側から、第一ヴァイオリン→ヴァイオリン-チェロ→ヴィオラ→第二ヴァイオリンの左右対向配置で、コントラバスはチェロの後方につく、ダニエル=ハーディングのいつもの配置である。木管パートは後方中央、ホルンは後方下手側、その他の金管は後方上手側の位置につく。

着席位置は一階正面後方中央、客の入りはほぼ満席である。大賀典雄さんが生前座っていたC-L席の一つ後ろのC-M席、なぜか六席連続で空席となっていたが、関係者に割り振っていたのであろうか。関係者がタダでチケットもらうこと自体は否定しないが、せっかく割り当てられた関係者席、せめて音楽好きな社員に割り振って消化するなど、良い席を空席にするような事はしないで頂きたいと思うところだ。

第一曲のベートーフェンのヴァイオリン協奏曲のソリストは、クリスティアン=テツラフ。ドイツ出身で最近名が売れ出しているらしい。この曲について、ダニエル=ハーディングは、昨年(2012年)7月13日にオーケストラ-アンサンブル-金沢を指揮しており、その時のソリストは、韓国の若手シン=ヒョンスであった。若々しく朗々とした響きであったのを覚えている(この時の評は2012年7月15日に掲載している)。

指揮者は同じでありながら、管弦楽は手兵とも言えるMCOになり、ソリストはドイツ出身となる。どのような変化を見せるのだろう。

冒頭から管弦楽はかなり飛ばしている。二日前の夜にオーストラリアで公演を行ったばかりとは思えない元気さだ。ソロが出るまでの長い管弦楽を、テツラフはヴァイオリンを抱えて目をつぶりながらじっと聴いている。ソロが始まる。少し弱い響きで不安を感じるが、数分経過するとこの弱奏が計算ずくであることが分かる。

テツラフは非常に危うい橋を渡る。両岸は断崖絶壁の切り立った尾根を走るかのような、繊細な演奏だ。ほんのわずかなミスで全てが崩壊してしまいそうな、危うい繊細さ、その繊細さに宿る霊感をどのように表現したらよいのか。一音一音が霊感に満たされ、繊細であっても訴えてくるものは力強い。

テツラフのその繊細さは大胆さとも見事に同居している。第一楽章のカデンツァ、ティンパニをも巻き込んだデュオ形式になることに驚愕する。カデンツァに本来の即興的性格は無くなり、確立された「カデンツァ」を演奏する出来レースが当然となった現代に於いて、出来レースである事に変わりはなくとも、ティンパニを巻き込んだ新鮮なカデンツァの道を切り開き、反則と言えるかも知れないが説得力のある魅力的なカデンツァの在り方を提起したクリスティアン=テツラフの大胆不敵ぶりを、極めて高く評価したい。

しかしテツラフのヴァイオリンは、実は強く出るべきところでは強く出れる。決して弱奏のみで攻めている訳ではない。

一方で、テツラフのヴァイオリンとMCOの管弦楽とのバランスは実に的確に取れている。ハーディングのコントロールがうまく働いているのだろう。

ソリストアンコールは、J.S.バッハの無伴奏パルティータ第3番、ヒラリー=ハーンのやや遅めの演奏とは違い、少し速めではあるが、霊感がこもった実に素晴らしいアンコールである。

軽井沢大賀ホールは、実は残響の少ないホールであるが、それでもその小さな室容積を活かした繊細なテツラフの演奏であった。クリスティアン=テツラフのヴァイオリンは、ソロであれ協奏曲であれ、是非800席程度以下の中規模ホールで聴いてほしい。彼の霊感を帯びた繊細な響きを大きなホールで味わう事は不可能である。

後半のドヴォルジャーク「新世界から」は、冒頭はやや弱めな響きで始まる。タメを少し長めにとって、表現を独自なものにしている。第一楽章でややフルートの調子が若干怪しいところがあったが、ダニエル=ハーディングが何をやりたいかの意図は十分に伝わってくるので、あまり気にしなくて済む。第二楽章のオーボエは素晴らしい。全般を通してクラリネットも良い響きだ。ホルンも実によくコントロールされた音色である。弦楽パートもハーディングの意図を良く組んだ素晴らしい演奏だ。もっとも、前半のテツラフの独奏が凄過ぎたため、「普通に凄い」程度ではあるが、まあそれでも素晴らしい演奏であるとは言えるだろう。

アンコールは、シューマンの第三交響曲「ライン」から第四楽章、明日名古屋で聴く曲目の予告となった。♪

私の中では、「2013年に長野県で演奏された最も素晴らしい演奏会」決定である。サイトウキネンが始まっていない段階ではあるが、決定している。ダニエル=ハーディングが在日オーケストラ客演の場合に見せる手抜きが、今回は見当たらなかった。手兵である事もあるかとは思うが、準備に掛ける時間や、既にオーストラリアで本番が繰り返されている事情もあって、高い完成度を保つ演奏に仕上げる事が出来たのだろう。

2013年6月9日日曜日

田部京子+カルミナ四重奏団 岐阜公演 演奏会評

2013年6月9日 日曜日
ふれあい福寿会館 サラマンカホール (岐阜県岐阜市)

曲目:
フェリックス=メンデルスゾーン=バルトルディ 無言歌集より「ヴェネツィアのゴンドラの歌 第2番」
ロベルト=シューマン 「子供の情景」より「トロイメライ」
エドヴァルド=グリーグ 抒情小曲集より「トロルドハウゲンの婚礼の日」
アントニーン=ドヴォジャーク 弦楽四重奏曲第12番 「アメリカ」 op.96
(休憩)
フランツ=シューベルト ピアノ五重奏曲 「ます」 D667 op.166

ピアノ:田部京子
コントラバス:井戸田善之
カルミナ弦楽四重奏団
ヴァイオリン:マティーアス=エンデルレ・スザンヌ=フランク
ヴィオラ:ウェンディ=チャンプニー
ヴァイオリン-チェロ:シュテファン=ゲルナー

着席場所は、一階中央上手側である。客の入りは八割程である。

本日のプログラム構成は、まず田部京子のピアノ-ソロによる小品が三曲演奏された後、カルミナ弦楽四重奏団のみによるドボルジャークの「アメリカ」が演奏される。休憩後は、田部京子とカルミナ弦楽四重奏団(第二ヴァイオリンのスザンヌ=フランクはお休み)に加え、NHK交響楽団コントラバス奏者の井戸田善之を加えての「ます」である。

田部京子のピアノ-ソロは、昨日の浜離宮朝日ホールでの公演と比べ非常に良く響く。下手側から上手側に席が移っただけでなく、ホールの特性も影響しているのだろう。浜離宮朝日ホールのような、何かフィルターを掛けたかのような音とは対照的な、率直な音が飛んできて、かつ豊かな残響に包まれる理想的な形である。

静の曲では丁寧なタッチで非常に上品な演奏であるが、「トロルドハウゲンの婚礼の日」と言った華麗な曲では、綺麗な響きを重視しつつも躍動感をも感じさせる演奏になる。サラマンカホールの残響を敢えてそのまま活かした部分も効果的である。

続いて、カルミナ弦楽四重奏団の「アメリカ」が演奏されるが、浜離宮朝日ホールでの演奏と比べ、明らかに響きが明瞭である。叙情的な第二楽章はしっかりと響かせ、全曲に渡って各奏者のパッションが綺麗な響きによって見事に表現され、全てがきちっと噛み合いまとまった演奏だ。やはり、ホールは演奏に重大な影響を及ぼすものだと改めて認識する。ホールの完成度は、サラマンカホールの圧勝である。

後半の「ます」は、「アメリカ」で示された路線をさらに深く追求した演奏で、完璧と言ってよい。田部京子も井戸田善之も、初めからカルミナ弦楽四重奏団に加入しているかのように、一体感のある演奏である。どこで誰を際立たせるか、よく考えられた演奏だ。第四楽章ではピアノで軽やかに跳び跳ねるかと思えば、ヴァイオリンが力強く奏で始めたりと、多彩な姿を楽しませてくれる。

この演奏会は「シューベルトの『ます』を聴きたい!」などという、ちょっと恥ずかしい副題が付けられているが、これほどまでの「ます」を聴いたら、まあ許しても良いだろう。今回の演奏を超える「ます」を実現する事は、かなり難しいのではないだろうか。演奏者のパッションと技巧とサラマンカホールの響きの全てが巧く絡み合い、とても優れた演奏である。

アンコールは、昨日と同じくブラームスのピアノ五重奏曲から、第三楽章であった。

2013年6月8日土曜日

田部京子+カルミナ四重奏団 東京公演 演奏会評

201368日 土曜日
浜離宮朝日ホール (東京)
 
曲目:
ルートヴィッヒ=ファン=ベートーフェン ピアノ-ソナタ第20 op.49-2
ルートヴィッヒ=ファン=ベートーフェン ピアノ-ソナタ第21番「ワルトシュタイン」 op.53
 
(休憩)
 
ヨハネス=ブラームス ピアノ五重奏曲 op.34
 
ピアノ:田部京子
カルミナ弦楽四重奏団
ヴァイオリン:マティーアス=エンデルレ・スザンヌ=フランク
ヴィオラ:ウェンディ=チャンプニー
ヴァイオリン-チェロ:シュテファン=ゲルナー
 
着席場所は、一階中央下手側である。8割程の客の入りか。
 
前半は田部京子のピアノ-ソロでベートーフェンを二曲である。今日はチケット入手の都合上、下手側の席になってしまったが、最近行きつけの、彩の国さいたま芸術劇場との音響の差に驚愕させられる。要するに響かない。田部京子が敢えて弱めのタッチで弾いている事もあるかも知れない。
 
20番はおよそベートーフェンとは言い難く、まるでモーツァルトのように弾いている。第21番は多彩な姿を見せる。弱いタッチでありながら旋律を際立たせたり、ここぞという所で強く出て行ったり、最後はちゃんと盛り上がて終わる演奏である。ニュアンスで攻めるタイプで、パワーで攻めることも出来るのだろうけど、その方向に走らずに上品に弾いていくタイプだ。
 
後半は、カルミナ弦楽四重奏団+田部京子のピアノによる、ブラームスのピアノ五重奏曲である。ヴァイオリンの二人がパッションを込めて先頭を走り、田部京子のピアノも、主役に躍り出るところと脇役に回るところのメリハリがはっきりしていて、良い演奏をしている事は分かるのだが、なんとなく気分が乗らない演奏だ。
 
気迫を込めた演奏をしているのだが、何となく精緻さに欠けていて、うまく噛み合っていない演奏である。理由はよく分からないが、プログラムにCDの宣伝があり、そこに「精緻な職人的アプローチ」とある文言に、私が引きずられたところがあるのかもしれない。あるいは、そもそもカルミナ弦楽四重奏団と浜離宮朝日ホールとの相性が良くないと言うところもあるのだろう。
 
浜離宮朝日ホールは、世間の評判ほど音の響きと言う点では良くないホールで、松本市音楽文化ホールや彩の国さいたま芸術劇場(与野市)、サラマンカホール(岐阜市)で感じられるような、華があり厚みがある響きにならないところがあって、その辺りの事情でパッションが空回りしてしまうのではないかと思うところがある。私の思い過ごしであるのかもしれないが、浜離宮朝日ホールは今後ちょっと敬遠したい。

アンコールは、後半で演奏されたブラームスのピアノ五重奏曲から、第三楽章であった。本番の演奏よりも、しっかりと噛み合った良い演奏であった。