2016年6月18日 土曜日
Saturday 18th June 2016
紀尾井ホール (東京)
Kioi Hall (Tokyo, Japan)
曲目:
Frank Bridge: Suite per orchestra d'archi (弦楽のための組曲)
Arvo Pärt: “Tabula Rasa”
(休憩)
Antonín Dvořák: Serenata per archi op.22 (弦楽セレナーデ)
violino: Антон Бараховский / Anton Barakhovsky / アントン=バラホフスキー
violino (solo Pärt): Людмила Миннибаева / Liudmila Minnibaeva / リュドミラ=ミンニバエヴァ
pianoforte preparato: 鷹羽弘晃 / Takaha Hiroaki
orchestra: Kioi Sinfonietta Tokyo(紀尾井シンフォニエッタ東京)
紀尾井シンフォニエッタ東京(KST)は、アントン=バラホフスキーをリーダーに、リュドミラ=ミンニバエヴァとをソリストに迎えて、2016年6月17日・18日に東京-紀尾井ホールで、第105回定期演奏会を開催した。アントンとリュドミラとは夫婦である。アントンはリーダーとペルト作品のソリスト、ミンニバエヴァはペルト作品のソリストを担当する。この評は、第二日目の公演に対してのものである。なお、この演奏会が「紀尾井シンフォニエッタ東京」の名による最後の本拠地公演である。
管弦楽配置は、舞台下手側から、第一ヴァイオリン→第二ヴァイオリン→ヴァイオリン-チェロ→ヴィオラのモダン配置で、コントラバスはチェロの後方につく。リュドミラ=ミンニバエヴァは、ペルト作品以外は第二ヴァイオリン首席の役を果たす。
着席位置は一階正面後方僅かに上手側、今回サボっている定期会員が見受けられた。。観客の鑑賞態度は、曲の最初の所で緊張感を欠いていたが、全般的には良好であった。
ダントツで“Tabula Rasa”が素晴らしい。ソリストの二人は2013年にハンブルク-バレエにて同じ作品のソリストとして演奏していることもあるのか、盤石の出来である。バックで支える管弦楽も、ソリストと見事に調和しており、ホールの響きとも完璧な相性である。劇場であるハンブルクでの公演よりも、はるかに高い水準の響きを実現出来たのは明らかであろう。
曲想が眠気を感じさせるものであるが、予めカフェをがぶ飲みしていた私には、夢みるような響きが続く時間である。全ての音符に対してよく考えられた響きが構成されている。ただただ美しい響きの裏には、必ず、完璧な構成があるのだなと思い知らせれる。
このような作品こそ、紀尾井ホールのような中規模ホールで演奏されて良かったと思う。演奏の見事さに観客が応えたかは、少し疑問が残ったが、攻めたプログラムは完璧な演奏で実現された。
アンコールは、マスカーニの「カヴァレリア=ルスティカーナ」から間奏曲であった。
2016年6月18日土曜日
2016年6月5日日曜日
Hilary Hahn + Cory Smythe, recital, (5th June 2016), review ヒラリー=ハーン + コリー=スマイス 松本公演 評
2016年6月5日 日曜日
Sunday 5th June 2016
松本市音楽文化ホール (長野県松本市)
The Harmony Hall (Matsumoto Municipal Concert Hall) (Matsumoto, Japan)
曲目:
Wolfgang Amadeus Mozart: Sonata per violino e pianoforte n.27 K.379
Johann Sebastian Bach: Sonata per violino solo n.3 BWV1005
(休憩)
Antón García Abril: ‘Seis Partitas’ 2. 'Immensity', 3.'Love'(「6つのパルティータ」から 2.「無限の広がり」、3.「愛」)
Aaron Copland: Sonata per violino e pianoforte
Tina Davidson: ‘Blue Curve of the Earth’ (「地上の青い曲線」(27のアンコールピースより))
violino: Hilary Hahn
pianoforte: Cory Smythe
ヒラリー=ハーンは、2016年6月4日から12日に掛けて、コリー=スマイスとともにリサイタルを、ファリアホール(横浜市)、松本市音楽文化ホール(長野県松本市)、東京文化会館(東京)、東京オペラシティコンサートホール「タケミツメモリアル」(東京)、愛知県芸術劇場(名古屋市)、兵庫県立芸術文化センター(兵庫県西宮市)、みなとみらいホール(横浜市)にて、計7公演行う。プログラムは全て同一である。理想的な音響となる中規模ホールでの公演は、フィリアホールと松本市音楽文化ホールの二か所だけである。
この評は、6月5日松本市音楽文化ホールでの公演に対する評である。
着席位置は後方正面中央、観客の入りは7割弱で空席が目立ったのは残念である。観客の鑑賞態度は、極めて良好だった。
全体的な白眉は、バッハ無伴奏のBWV1005である。息の長さを感じさせる遅めのテンポで、これ見よがしのギヤチェンジもなく、響きの鋭さを強調するものでもない。全ての音符の響きを完璧に考慮して構築させた演奏であると言ってしまえば、その通りなのだろうけど、弱めな響きでありながら、一音一音が説得力に満ちた演奏である。この696席の中規模ホールである、松本市音楽文化ホールだからこそ実現された名演であると言える。特に第二楽章後半からは、ホールの響きを完璧に味方につけ、霊感に満ちたと思わせる演奏である。
(私は、ヒラリーの真価を、客席数が2000席前後の大きなホールで味わう事は不可能だと思っている。バンバン大音量で鳴らすタイプの奏者ではないからだ。中小規模のホールでのリサイタルでこそ、最もヒラリーらしさを味わえるというのが、私の印象である)
後半のアブリルとコープランドは、少し鋭さを出してくるが、響きの豊かさを必ず伴わせる。もっとも、曲想上の問題でBWV1005を聴いた後だと、バッハの偉大さを感じさせてしまうのは、致し方ないところか。細川俊夫の 'Exstasis' 程の曲想の強さがないと、バッハに対抗する事は、なかなか難しいのかもしれない。
それでも、ピアノのコリー=スマイスとのコンビネーションは完璧だった。どのように客席に響くか、一音一音詳細に検討されているかのような、絶妙なバランスである。
アンコールは三曲あり、佐藤總明の「微風」、マーク=アントニー=ターネジの「ヒラリーのホーダウン」、マックス=リヒターの「慰撫」であった。マックス=リヒターで特に感じられる事であるが、同じ音符を刻むにしても、どうして一音一音が説得力を持つのかを考えさせられる演奏であった。
Sunday 5th June 2016
松本市音楽文化ホール (長野県松本市)
The Harmony Hall (Matsumoto Municipal Concert Hall) (Matsumoto, Japan)
曲目:
Wolfgang Amadeus Mozart: Sonata per violino e pianoforte n.27 K.379
Johann Sebastian Bach: Sonata per violino solo n.3 BWV1005
(休憩)
Antón García Abril: ‘Seis Partitas’ 2. 'Immensity', 3.'Love'(「6つのパルティータ」から 2.「無限の広がり」、3.「愛」)
Aaron Copland: Sonata per violino e pianoforte
Tina Davidson: ‘Blue Curve of the Earth’ (「地上の青い曲線」(27のアンコールピースより))
violino: Hilary Hahn
pianoforte: Cory Smythe
ヒラリー=ハーンは、2016年6月4日から12日に掛けて、コリー=スマイスとともにリサイタルを、ファリアホール(横浜市)、松本市音楽文化ホール(長野県松本市)、東京文化会館(東京)、東京オペラシティコンサートホール「タケミツメモリアル」(東京)、愛知県芸術劇場(名古屋市)、兵庫県立芸術文化センター(兵庫県西宮市)、みなとみらいホール(横浜市)にて、計7公演行う。プログラムは全て同一である。理想的な音響となる中規模ホールでの公演は、フィリアホールと松本市音楽文化ホールの二か所だけである。
この評は、6月5日松本市音楽文化ホールでの公演に対する評である。
着席位置は後方正面中央、観客の入りは7割弱で空席が目立ったのは残念である。観客の鑑賞態度は、極めて良好だった。
全体的な白眉は、バッハ無伴奏のBWV1005である。息の長さを感じさせる遅めのテンポで、これ見よがしのギヤチェンジもなく、響きの鋭さを強調するものでもない。全ての音符の響きを完璧に考慮して構築させた演奏であると言ってしまえば、その通りなのだろうけど、弱めな響きでありながら、一音一音が説得力に満ちた演奏である。この696席の中規模ホールである、松本市音楽文化ホールだからこそ実現された名演であると言える。特に第二楽章後半からは、ホールの響きを完璧に味方につけ、霊感に満ちたと思わせる演奏である。
(私は、ヒラリーの真価を、客席数が2000席前後の大きなホールで味わう事は不可能だと思っている。バンバン大音量で鳴らすタイプの奏者ではないからだ。中小規模のホールでのリサイタルでこそ、最もヒラリーらしさを味わえるというのが、私の印象である)
後半のアブリルとコープランドは、少し鋭さを出してくるが、響きの豊かさを必ず伴わせる。もっとも、曲想上の問題でBWV1005を聴いた後だと、バッハの偉大さを感じさせてしまうのは、致し方ないところか。細川俊夫の 'Exstasis' 程の曲想の強さがないと、バッハに対抗する事は、なかなか難しいのかもしれない。
それでも、ピアノのコリー=スマイスとのコンビネーションは完璧だった。どのように客席に響くか、一音一音詳細に検討されているかのような、絶妙なバランスである。
アンコールは三曲あり、佐藤總明の「微風」、マーク=アントニー=ターネジの「ヒラリーのホーダウン」、マックス=リヒターの「慰撫」であった。マックス=リヒターで特に感じられる事であるが、同じ音符を刻むにしても、どうして一音一音が説得力を持つのかを考えさせられる演奏であった。
2016年6月4日土曜日
Mito Chamber Orchestra, the 96th Subscription Concert, review 第96回 水戸室内管弦楽団 定期演奏会 評
2016年6月4日 土曜日
Saturday 4st June 2016
水戸芸術館 (茨城県水戸市)
Art Tower Mito, Concert Hall ATM (Mito, Japan)
曲目:
Franz Joseph Haydn: Sinfonia n.83 Hob.I-83 ‘La poule’ (めんどり)
Niccolò Paganini: Quartetto per Chitarra, Violino, Viola e Violoncello n.15
(休憩)
Max Bruch: ‘Kol Nidrei’ (コル=ニドライ)
Franz Peter Schubert: Sinfonia n.5 D485
viola: Юрий Абрамович Башмет / Yuri Bashmet
orchestra: Mito Chamber Orchestra(水戸室内管弦楽団)
direttore: Юрий Абрамович Башмет / Yuri Bashmet
水戸室内管弦楽団(MCO)は、ユーリ=バシュメットを指揮者兼ヴィオラ-ソリストに迎えて、2016年6月4日・5日に水戸芸術館で、第96回定期演奏会を開催する。この評は、第一日目の公演に対してのものである。
二曲目のパガニーニ、三曲目のブルッフは、ヴィオラと弦楽のために編曲されている。
管弦楽配置は、舞台下手側から、第一ヴァイオリン→第二ヴァイオリン→ヴィオラ→ヴァイオリン-チェロのモダン配置で、コントラバスはチェロの後方につく。管楽パートは後方中央の位置につく。
着席位置は一階正面後方わずかに上手側、観客の入りは、7割程か?。左右両翼及び背後席に空席が目立った。観客の鑑賞態度は、極めて良好だった。
コンサートマスター/ミストレスは、ハイドンは渡辺實和子、パガニーニは小栗まち絵、ブルッフとシューベルトは豊嶋泰嗣が担当した。
ハイドンは、かなり真面目な解釈である。
パガニーニは、原曲をロシア人(モスクワ-ソロイスツのバラショフとカッツによる)が編曲したものであるからか、ヴィオラの哀愁漂う音色もあって、「白鳥の湖」第二幕を観劇しているかの雰囲気になる。カラッとした明るい雰囲気はなく、ジェノヴァ生まれの作曲家の原曲とはとても思えない。少なくとも編曲後は、あまり技巧面は表に出て来ない。原曲の雰囲気とは異なるのだろうか?
バシュメットのヴィオラは、基本的に弱めであるがその割りに通る響きであり、大規模ホールで聴かせる感じではない。水戸芸術館で聴けて良かったという感じである。第二楽章以降は、バシュメットのヴィオラがかなり響き始め、独特の哀愁漂う響きで魅了される。
管弦楽は、どこでどのように振る舞うべきか完璧に把握しており、バシュメットを立てるべき箇所では的確に支えると同時に、管弦楽が出るべき箇所では、曲全体を踏まえて良く考えられた形で自己主張を強めてくる。ソリストと管弦楽との音色の差があり、その対比が面白い。
最後のシューベルトD485は、全般的にかなりロマン派のような演奏である。鋭い響きで惹きつける事はせず、遅めのテンポの中でニュアンスをつける形態である。
私は、この曲はメリハリをつけまくった速めのテンポが好みであるが、この好みとは対照的でありながら、説得力のある演奏である。特に第二楽章をあの遅さでありながら、緊張感を失わずに観客の耳を集中させるMCOの演奏は、これは本当に見事なものだ。ヴィヴィッドな路線とは正反対のものであるが、このような演奏であれば、夢を見ているような心地で聴く事が出来る。
アンコールはなかった。
Saturday 4st June 2016
水戸芸術館 (茨城県水戸市)
Art Tower Mito, Concert Hall ATM (Mito, Japan)
曲目:
Franz Joseph Haydn: Sinfonia n.83 Hob.I-83 ‘La poule’ (めんどり)
Niccolò Paganini: Quartetto per Chitarra, Violino, Viola e Violoncello n.15
(休憩)
Max Bruch: ‘Kol Nidrei’ (コル=ニドライ)
Franz Peter Schubert: Sinfonia n.5 D485
viola: Юрий Абрамович Башмет / Yuri Bashmet
orchestra: Mito Chamber Orchestra(水戸室内管弦楽団)
direttore: Юрий Абрамович Башмет / Yuri Bashmet
水戸室内管弦楽団(MCO)は、ユーリ=バシュメットを指揮者兼ヴィオラ-ソリストに迎えて、2016年6月4日・5日に水戸芸術館で、第96回定期演奏会を開催する。この評は、第一日目の公演に対してのものである。
二曲目のパガニーニ、三曲目のブルッフは、ヴィオラと弦楽のために編曲されている。
管弦楽配置は、舞台下手側から、第一ヴァイオリン→第二ヴァイオリン→ヴィオラ→ヴァイオリン-チェロのモダン配置で、コントラバスはチェロの後方につく。管楽パートは後方中央の位置につく。
着席位置は一階正面後方わずかに上手側、観客の入りは、7割程か?。左右両翼及び背後席に空席が目立った。観客の鑑賞態度は、極めて良好だった。
コンサートマスター/ミストレスは、ハイドンは渡辺實和子、パガニーニは小栗まち絵、ブルッフとシューベルトは豊嶋泰嗣が担当した。
ハイドンは、かなり真面目な解釈である。
パガニーニは、原曲をロシア人(モスクワ-ソロイスツのバラショフとカッツによる)が編曲したものであるからか、ヴィオラの哀愁漂う音色もあって、「白鳥の湖」第二幕を観劇しているかの雰囲気になる。カラッとした明るい雰囲気はなく、ジェノヴァ生まれの作曲家の原曲とはとても思えない。少なくとも編曲後は、あまり技巧面は表に出て来ない。原曲の雰囲気とは異なるのだろうか?
バシュメットのヴィオラは、基本的に弱めであるがその割りに通る響きであり、大規模ホールで聴かせる感じではない。水戸芸術館で聴けて良かったという感じである。第二楽章以降は、バシュメットのヴィオラがかなり響き始め、独特の哀愁漂う響きで魅了される。
管弦楽は、どこでどのように振る舞うべきか完璧に把握しており、バシュメットを立てるべき箇所では的確に支えると同時に、管弦楽が出るべき箇所では、曲全体を踏まえて良く考えられた形で自己主張を強めてくる。ソリストと管弦楽との音色の差があり、その対比が面白い。
最後のシューベルトD485は、全般的にかなりロマン派のような演奏である。鋭い響きで惹きつける事はせず、遅めのテンポの中でニュアンスをつける形態である。
私は、この曲はメリハリをつけまくった速めのテンポが好みであるが、この好みとは対照的でありながら、説得力のある演奏である。特に第二楽章をあの遅さでありながら、緊張感を失わずに観客の耳を集中させるMCOの演奏は、これは本当に見事なものだ。ヴィヴィッドな路線とは正反対のものであるが、このような演奏であれば、夢を見ているような心地で聴く事が出来る。
アンコールはなかった。
2016年6月1日水曜日
Shoji Sayaka, recital, (1st June 2016), review 庄司紗矢香 無伴奏リサイタル 名古屋公演 評
2016年6月1日 水曜日
Wednesday 1st june 2016
電気文化会館コンサートホール (愛知県名古屋市)
Denki Bunka Kaikan Concert Hall (Nagoya, Japan)
曲目:
Johann Sebastian Bach (arr. Jean-Frédéric Neuburger): Fantasia e fuga BWV542
Bartók Béla: Sonata per violino solo Sz.117
(休憩)
Hosokawa Toshio / 細川俊夫: ‘Exstasis’ (脱自)
Johann Sebastian Bach: Partita per violino solo n.2 BWV 1004
violino: 庄司紗矢香 / Shoji Sayaka
庄司紗矢香は、2016年5月26日から6月7日に掛けて日本ツアーを行い、無伴奏リサイタルを、美深町文化会館(北海道中川郡美深町)、川口総合文化センター(埼玉県川口市)、神奈川県立音楽堂(横浜市)、北広島市芸術文化ホール(北海道北広島市)、電気文化会館(名古屋市)、JMSアステール-プラザ(広島市)、松江市総合文化センター(島根県松江市)、紀尾井ホール(東京)、計8箇所にて上演する。プログラムは全て同一である。
この評は、2016年6月1日電気文化会館の公演に対する評である。
着席位置はやや後方正面中央、チケットは完売した。観客の鑑賞態度は、概して極めて良好だった。
二曲目のバルトークは少し優しく聴こえる。三楽章・四楽章で、すりガラスのような音色を使っている箇所もある。響きはかなり豊かに響かせている。ピッチカートは敢えて尖らせていない感じがある。今日の席は後方で、残響が豊かに聴こえる事もあるのか。全般的に、響きの鋭さと言うよりは、響きの豊かさを追求した印象を持つ。その意味では、アリーナ=イブラギモヴァとは対照的かなあ。
圧巻なのは後半である。
後半の細川俊夫の新作 'Exstasis' とBWV1004との組み合わせは、言葉で言い表わすことが出来ない。Exstasisは巫女、BWV1004はただただ主と人とのお取りなし、あるいは、主と人との対話である。
細川俊夫の新作 'Exstasis' は、作曲の段階で、ヴァイオリンの擦弦楽器としての表現の限界を極めたと言える。庄司紗矢香は、作曲者の極めて高い期待を演奏面で傑出したレベルで実現する。ヴァイオリンの四本の弦で、これ程までの音色が出せるのかと、信じがたい気持ちになる。この演奏会の中で、最も鋭い響きを選択する箇所がある一方で、震えるような音色を聴くと、庄司紗矢香はまさに巫女になって脱自の状態にあったのではないか、と思えるような演奏である。
(本当にトランスしちゃったら演奏不能だと思うけど)それだけに、この巫女のような、トランス状態になって人間界から飛び出すような表現は、重い挑戦だったに相違ない。精神的な負担が大きい曲で、演奏出来る奏者は限られるだろう。技巧面・精神面、両面での卓越した強さが求められる。庄司紗矢香がどれだけの強さを持っていることか!
庄司紗矢香は、実演を聴けば誰でも分かる事であるが、 'Exstasis' の後にバッハのBWV1004を持ってくると言う暴挙を為した。こんな、技巧面でも精神面でもとてつもない強靭さを要するプログラムなど、誰がどう考えても無謀である。結論から言うとこの暴挙は大きな成果を持って成功したと断言出来る。トランスする世界から、主と人との対話の世界への移行であった。
BWV1004に於いて、庄司紗矢香は何か特別な技巧を示すことはしないし、「鋭い」表現を為した訳でもない。テンポは遅めである。彼女は明らかに、鋭さとか技巧の誇示と言ったものを求めなかった。と言うよりは、こんな世界の、人間界の世界の約束事など、どうでもよかったのだろう。
どう考えても、これは主と人との取りなしの場であった。全ての響きなりニュアンスがそのようであった。作為は不要であり、霊感だけがそこにあったと言える。このような表現はしたくはないが、「精神的な響き」と言うものがあるのだとすれば、まさしくこのような演奏こそ該当する。
なので、これはピリオド非ピリオドの様式面だとか、どんな技巧を使ったかとか、テンポの設定がどうであるとか、そんな指標であれこれ言うのでなしに、今そこにある響き、主と人との対話の刹那刹那を感じ取る演奏だ。
まあ、細川俊夫さんの 'Exstasis' でエクシタシーに達した状態でBMW1004を聴き出した私の頭がトランス状態で逝っちゃってただけだろう、って言う批判はあるかもしれない。
それにしたって、ではどうしてそのような暴挙とも言うべき後半のプログラムにしたのか?ワザワザそんなプログラミングをしたのには当然意図があるだろう。後半のプログラム全て、BWV1004を含めた全てが、 'Exstasis' 「脱自」であったのだ。どのように聴くのかは、もちろん観客の自由だけれども、この演奏会の後半は、身も心もエクシタシーに達してトランス状態になって聴くのが、観客にとって幸せな気持ちになれるのではないか。このように私は強く思う。
Wednesday 1st june 2016
電気文化会館コンサートホール (愛知県名古屋市)
Denki Bunka Kaikan Concert Hall (Nagoya, Japan)
曲目:
Johann Sebastian Bach (arr. Jean-Frédéric Neuburger): Fantasia e fuga BWV542
Bartók Béla: Sonata per violino solo Sz.117
(休憩)
Hosokawa Toshio / 細川俊夫: ‘Exstasis’ (脱自)
Johann Sebastian Bach: Partita per violino solo n.2 BWV 1004
violino: 庄司紗矢香 / Shoji Sayaka
庄司紗矢香は、2016年5月26日から6月7日に掛けて日本ツアーを行い、無伴奏リサイタルを、美深町文化会館(北海道中川郡美深町)、川口総合文化センター(埼玉県川口市)、神奈川県立音楽堂(横浜市)、北広島市芸術文化ホール(北海道北広島市)、電気文化会館(名古屋市)、JMSアステール-プラザ(広島市)、松江市総合文化センター(島根県松江市)、紀尾井ホール(東京)、計8箇所にて上演する。プログラムは全て同一である。
この評は、2016年6月1日電気文化会館の公演に対する評である。
着席位置はやや後方正面中央、チケットは完売した。観客の鑑賞態度は、概して極めて良好だった。
二曲目のバルトークは少し優しく聴こえる。三楽章・四楽章で、すりガラスのような音色を使っている箇所もある。響きはかなり豊かに響かせている。ピッチカートは敢えて尖らせていない感じがある。今日の席は後方で、残響が豊かに聴こえる事もあるのか。全般的に、響きの鋭さと言うよりは、響きの豊かさを追求した印象を持つ。その意味では、アリーナ=イブラギモヴァとは対照的かなあ。
圧巻なのは後半である。
後半の細川俊夫の新作 'Exstasis' とBWV1004との組み合わせは、言葉で言い表わすことが出来ない。Exstasisは巫女、BWV1004はただただ主と人とのお取りなし、あるいは、主と人との対話である。
細川俊夫の新作 'Exstasis' は、作曲の段階で、ヴァイオリンの擦弦楽器としての表現の限界を極めたと言える。庄司紗矢香は、作曲者の極めて高い期待を演奏面で傑出したレベルで実現する。ヴァイオリンの四本の弦で、これ程までの音色が出せるのかと、信じがたい気持ちになる。この演奏会の中で、最も鋭い響きを選択する箇所がある一方で、震えるような音色を聴くと、庄司紗矢香はまさに巫女になって脱自の状態にあったのではないか、と思えるような演奏である。
(本当にトランスしちゃったら演奏不能だと思うけど)それだけに、この巫女のような、トランス状態になって人間界から飛び出すような表現は、重い挑戦だったに相違ない。精神的な負担が大きい曲で、演奏出来る奏者は限られるだろう。技巧面・精神面、両面での卓越した強さが求められる。庄司紗矢香がどれだけの強さを持っていることか!
庄司紗矢香は、実演を聴けば誰でも分かる事であるが、 'Exstasis' の後にバッハのBWV1004を持ってくると言う暴挙を為した。こんな、技巧面でも精神面でもとてつもない強靭さを要するプログラムなど、誰がどう考えても無謀である。結論から言うとこの暴挙は大きな成果を持って成功したと断言出来る。トランスする世界から、主と人との対話の世界への移行であった。
BWV1004に於いて、庄司紗矢香は何か特別な技巧を示すことはしないし、「鋭い」表現を為した訳でもない。テンポは遅めである。彼女は明らかに、鋭さとか技巧の誇示と言ったものを求めなかった。と言うよりは、こんな世界の、人間界の世界の約束事など、どうでもよかったのだろう。
どう考えても、これは主と人との取りなしの場であった。全ての響きなりニュアンスがそのようであった。作為は不要であり、霊感だけがそこにあったと言える。このような表現はしたくはないが、「精神的な響き」と言うものがあるのだとすれば、まさしくこのような演奏こそ該当する。
なので、これはピリオド非ピリオドの様式面だとか、どんな技巧を使ったかとか、テンポの設定がどうであるとか、そんな指標であれこれ言うのでなしに、今そこにある響き、主と人との対話の刹那刹那を感じ取る演奏だ。
まあ、細川俊夫さんの 'Exstasis' でエクシタシーに達した状態でBMW1004を聴き出した私の頭がトランス状態で逝っちゃってただけだろう、って言う批判はあるかもしれない。
それにしたって、ではどうしてそのような暴挙とも言うべき後半のプログラムにしたのか?ワザワザそんなプログラミングをしたのには当然意図があるだろう。後半のプログラム全て、BWV1004を含めた全てが、 'Exstasis' 「脱自」であったのだ。どのように聴くのかは、もちろん観客の自由だけれども、この演奏会の後半は、身も心もエクシタシーに達してトランス状態になって聴くのが、観客にとって幸せな気持ちになれるのではないか。このように私は強く思う。
2016年5月21日土曜日
Nagoya Philharmonic Orchestra, the 435th Subscription Concert, review 第435回 名古屋フィルハーモニー交響楽団 定期演奏会 評
2016年5月21日 土曜日
Saturday 21st May 2016
愛知県芸術劇場コンサートホール (愛知県名古屋市)
Aichi Prefectural Art Theater Concert Hall (Nagoya, Japan)
曲目:
Дмитрий Дмитриевич Шостакович / Dmitrii Shostakovich: сюита из балета ‘Золотой век’ op.22 (Интродукция, Полька, Танец)(バレエ組曲「黄金時代」から「序奏」,「ポルカ」,「踊り」)
Альфре́д Га́рриевич Шни́тке / Alfred Schnittke : Concerto per viola e orchestra
(休憩)
Дмитрий Дмитриевич Шостакович / Dmitrii Shostakovich: Sinfonia n.6 op.54
viola: Andrea Burger (アンドレア=ブルガー)
orchestra: Nagoya Philharmonic Orchestra(名古屋フィルハーモニー交響楽団)
direttore: Дми́трий Ильи́ч Лисс / Dmitri Liss (指揮:ドミトリ=リス)
名古屋フィルハーモニー交響楽団は、スイス連邦生まれのアンドレア=ブルガー(ヴィオラ)をソリストに、ドミトリー=リスを指揮者に迎えて、2016年5月20日・21日に愛知県芸術劇場で、第435回定期演奏会を開催した。この評は、第二日目の公演に対してのものである。
今回のプログラムは、保守化した今シーズンのプログラムの中では例外的に良心的なもので、ドミトリー=ショスタコーヴィチのバレエ組曲と交響曲、シュニトケが1985年に作曲したヴィオラ協奏曲と、ロシアの近現代音楽から構成されている。今シーズンのプログラムの白眉であることは間違いない。
管弦楽配置は、舞台下手側から、第一ヴァイオリン→第二ヴァイオリン→ヴィオラ→ヴァイオリン-チェロのモダン配置で、コントラバスはチェロの上手方につく。木管パートは後方中央、ホルンは木管後方の中央に位置し、その後ろにティンパニがつく。他の金管は後方上手、ティンパニ以外の打楽器群が後方下手側につく。
なお、第二曲目のシュニトケ、ヴィオラ協奏曲はヴァイオリンは登場せず、そのスペースにチェンバロ・足踏みオルガン・ピアノ・ハープが置かれる。
着席位置は一階正面後方中央、客の入りは8割程であろうか、チケット完売には至らなかった。観客の鑑賞態度については、概ね良好だったものの、シュニトケのヴィオラ協奏曲にて、最後の音符を奏でた直後に余韻を壊すフライング拍手があったのは、同じ聴衆として極めて遺憾である。
今回は、総じて難曲揃いであるが、素晴らしい演奏だった。
第一曲目の「黄金時代」は、冒頭のフルートによる鋭い響きに引き寄せられる。弦が少し戸惑っているように感じられたが、曲の進行ともに管楽打楽と噛み合ってくる。
第二曲目のシュニトケによるヴィオラ協奏曲は、素人受けはしづらい曲想で、終始緊張感を要するが、ヴィオラ-ソリストのアンドレア=ブルガーはこの難曲を、1990年生まれの若手とは思えない程の完成度を持って演奏する。音量は問題ないし、この曲を理解した上で、ソロで攻めるべき箇所や他楽器との絡み合いの箇所を計算し、気を衒わない見事な正統派の演奏だ。一方で、名フィルの管弦楽も綺麗な弱奏でソリストを支えたり、管楽打楽で攻めるべき箇所は攻めたりと、的確な演奏である。にしても、現代音楽なのに、チェンバロとヴィオラ-ソロとの組み合わせで聴かせるポイントがあるのは意外だ。
後半はショスタコーヴィチの交響曲第6番。管楽打楽の聴きどころでしっかり決めてくるし、弦楽も負けずに響かせるし、弦管打、それに愛知県芸術劇場コンサートホールの音響全てが見事に絡みあった完璧な演奏だ。
何よりも、一番長大な第一楽章が素晴らしいのが効いている。下手すると眠気を誘いそうな楽想であるが、天井やオルガンを見上げてウットリしているうちに終わっちゃった感じである。リスの的確な構成力が緊張感を持続させ、管弦楽がこれに応えて、ソリスティックな聴きどころを担当する管楽打楽が決まりまくったからか。
いつものように、この曲も予習せずに初聴で臨んだが、第一楽章で秘かにイイなと思った箇所は、低弦の弱奏に支えられて第一フルートがずっと奏でているところに、第二フルートが鳥の鳴き声のように入ってくるところ。Beethovenの第6交響曲「田園」を意識しているのか?まあ、多分違うと思うけど・・・。
それにしてもこれ程までの内容でショスタコーヴィチを演奏してしまうのだから、間も無く実施される愛知芸文の改修工事時期を外して、年間プログラムをショスタコーヴィチだけで構成することもできるだろうとも思う。無謀承知の発言であるが。
名フィルはトップの指揮者がマーティン=ブラビンズから交代した事により、プログラムが保守化した。中日新聞社放送芸能部の某記者すら自らの責務を放棄して、この保守化に与したが、しかしこの第435回定期演奏会は例外的に挑戦的なプログラムで攻めた、最も良心的な演目だった。こういったプログラムを演奏し紹介し、観客を啓蒙するのは、管弦楽団の重要な社会的責務であるし、聴衆の立場からも応えないといけないと、私は思っている。
観客は、現在自分の好きな音楽を聴きたがるもの、専門知識を有し提起する力がある、その地域の管弦楽団が啓蒙しなければ、観客も管弦楽団も、その地域の文化も進歩しない。このようなプログラムは、これからも比率を増やして継続されるよう、要望したい。
Saturday 21st May 2016
愛知県芸術劇場コンサートホール (愛知県名古屋市)
Aichi Prefectural Art Theater Concert Hall (Nagoya, Japan)
曲目:
Дмитрий Дмитриевич Шостакович / Dmitrii Shostakovich: сюита из балета ‘Золотой век’ op.22 (Интродукция, Полька, Танец)(バレエ組曲「黄金時代」から「序奏」,「ポルカ」,「踊り」)
Альфре́д Га́рриевич Шни́тке / Alfred Schnittke : Concerto per viola e orchestra
(休憩)
Дмитрий Дмитриевич Шостакович / Dmitrii Shostakovich: Sinfonia n.6 op.54
viola: Andrea Burger (アンドレア=ブルガー)
orchestra: Nagoya Philharmonic Orchestra(名古屋フィルハーモニー交響楽団)
direttore: Дми́трий Ильи́ч Лисс / Dmitri Liss (指揮:ドミトリ=リス)
名古屋フィルハーモニー交響楽団は、スイス連邦生まれのアンドレア=ブルガー(ヴィオラ)をソリストに、ドミトリー=リスを指揮者に迎えて、2016年5月20日・21日に愛知県芸術劇場で、第435回定期演奏会を開催した。この評は、第二日目の公演に対してのものである。
今回のプログラムは、保守化した今シーズンのプログラムの中では例外的に良心的なもので、ドミトリー=ショスタコーヴィチのバレエ組曲と交響曲、シュニトケが1985年に作曲したヴィオラ協奏曲と、ロシアの近現代音楽から構成されている。今シーズンのプログラムの白眉であることは間違いない。
管弦楽配置は、舞台下手側から、第一ヴァイオリン→第二ヴァイオリン→ヴィオラ→ヴァイオリン-チェロのモダン配置で、コントラバスはチェロの上手方につく。木管パートは後方中央、ホルンは木管後方の中央に位置し、その後ろにティンパニがつく。他の金管は後方上手、ティンパニ以外の打楽器群が後方下手側につく。
なお、第二曲目のシュニトケ、ヴィオラ協奏曲はヴァイオリンは登場せず、そのスペースにチェンバロ・足踏みオルガン・ピアノ・ハープが置かれる。
着席位置は一階正面後方中央、客の入りは8割程であろうか、チケット完売には至らなかった。観客の鑑賞態度については、概ね良好だったものの、シュニトケのヴィオラ協奏曲にて、最後の音符を奏でた直後に余韻を壊すフライング拍手があったのは、同じ聴衆として極めて遺憾である。
今回は、総じて難曲揃いであるが、素晴らしい演奏だった。
第一曲目の「黄金時代」は、冒頭のフルートによる鋭い響きに引き寄せられる。弦が少し戸惑っているように感じられたが、曲の進行ともに管楽打楽と噛み合ってくる。
第二曲目のシュニトケによるヴィオラ協奏曲は、素人受けはしづらい曲想で、終始緊張感を要するが、ヴィオラ-ソリストのアンドレア=ブルガーはこの難曲を、1990年生まれの若手とは思えない程の完成度を持って演奏する。音量は問題ないし、この曲を理解した上で、ソロで攻めるべき箇所や他楽器との絡み合いの箇所を計算し、気を衒わない見事な正統派の演奏だ。一方で、名フィルの管弦楽も綺麗な弱奏でソリストを支えたり、管楽打楽で攻めるべき箇所は攻めたりと、的確な演奏である。にしても、現代音楽なのに、チェンバロとヴィオラ-ソロとの組み合わせで聴かせるポイントがあるのは意外だ。
後半はショスタコーヴィチの交響曲第6番。管楽打楽の聴きどころでしっかり決めてくるし、弦楽も負けずに響かせるし、弦管打、それに愛知県芸術劇場コンサートホールの音響全てが見事に絡みあった完璧な演奏だ。
何よりも、一番長大な第一楽章が素晴らしいのが効いている。下手すると眠気を誘いそうな楽想であるが、天井やオルガンを見上げてウットリしているうちに終わっちゃった感じである。リスの的確な構成力が緊張感を持続させ、管弦楽がこれに応えて、ソリスティックな聴きどころを担当する管楽打楽が決まりまくったからか。
いつものように、この曲も予習せずに初聴で臨んだが、第一楽章で秘かにイイなと思った箇所は、低弦の弱奏に支えられて第一フルートがずっと奏でているところに、第二フルートが鳥の鳴き声のように入ってくるところ。Beethovenの第6交響曲「田園」を意識しているのか?まあ、多分違うと思うけど・・・。
それにしてもこれ程までの内容でショスタコーヴィチを演奏してしまうのだから、間も無く実施される愛知芸文の改修工事時期を外して、年間プログラムをショスタコーヴィチだけで構成することもできるだろうとも思う。無謀承知の発言であるが。
名フィルはトップの指揮者がマーティン=ブラビンズから交代した事により、プログラムが保守化した。中日新聞社放送芸能部の某記者すら自らの責務を放棄して、この保守化に与したが、しかしこの第435回定期演奏会は例外的に挑戦的なプログラムで攻めた、最も良心的な演目だった。こういったプログラムを演奏し紹介し、観客を啓蒙するのは、管弦楽団の重要な社会的責務であるし、聴衆の立場からも応えないといけないと、私は思っている。
観客は、現在自分の好きな音楽を聴きたがるもの、専門知識を有し提起する力がある、その地域の管弦楽団が啓蒙しなければ、観客も管弦楽団も、その地域の文化も進歩しない。このようなプログラムは、これからも比率を増やして継続されるよう、要望したい。
2016年4月24日日曜日
原田靖子(松本市音楽文化ホール専属オルガニスト) + 蓼沼雅紀 + サクソフォン-カルテット ギャルソン 演奏会感想
2016年4月24日 日曜日
松本市音楽文化ホール (長野県松本市)
曲目:
ヨハン=セバスティアン=バッハ:パッサカリア BWV582
作者不詳:グリーンスリーヴス変奏曲
ヤン=ピーテルスゾーンス=ウェーリンク:「われ汝に呼ばれる、主イエス=キリストよ」
ウラディミール=ヴァヴィロフ:「アヴェ=マリア」(いわゆる「カッチーニのアヴェ=マリア」)
(休憩)
ヨハン=セバスティアン=バッハ:フーガ BWV578 (サクソフォン=カルテットとオルガンのために編曲:大場陽子)
長生淳:彗星(トルヴェールの「惑星」より)
天野正道:セカンド-バトル
バルバラ=トンプソン:サクソフォン四重奏とオルガンのための協奏曲「蜃気楼」(第一楽章・第三楽章・第四楽章)(日本初演)
オルガン:原田靖子(松本市音楽文化ホール専属オルガニスト)
サクソフォン=カルテット:ギャルソン
ソプラノ=サクソフォン:蓼沼雅紀(ソリスト)
アルト=サクソフォン:細川紘希
テナー=サクソフォン:完戸吉由希
バリトン=サクソフォン:大坪俊樹
松本市音楽文化ホールは、「The Harmonu Hall Organ Concert series ~若手サクソフォン奏者と共に~」「人類史上『最古の鍵盤楽器』と『最新の管楽器』が恋に落ちて」のタイトルで、専属オルガニストである原田靖子と 蓼沼雅紀 + サクソフォン-カルテット ギャルソンの共演による演奏会を、2016年4月24日に開催した。
着席位置は後方上手側、観客の入り具合は六割程か。観客の鑑賞態度は、細かなノイズが時折見受けられたが、概ね良好であった。
私自身が少し疲れていたこともあり、第一曲目では照明・オルガンとも気持ちよくなってしまい、夢見心地な状態にあったところもあったが、オルガンとサクソフォンとの共演という冒険的な試みは成功したと言って良い。
やはり白眉は、最後のバルバラ=トンプソンの「蜃気楼」であった。精緻に演奏され、オルガンとサクソフォンとが見事にブレンドされ、サクソフォンカルテットの四人だけでなく、オルガンを含めて五人の奏者全体での一体感が感じられた。松本市音楽文化ホールの豊かな残響を巧みに味方につけ、日本初演を立派に果たした。
このような作品を演奏するに適したホールは、オルガンがあり、かつ残響が豊かな中規模ホールとなるが、松本市音楽文化ホールの他、サラマンカホール(岐阜市)、豊田市コンサートホール、福島市音楽堂くらいしか適したホールが日本にはない。その中で、松本市音楽文化ホールで日本初演を実現できたのは、やはり専属オルガニストである原田靖子による企画力の賜物であろう。きちんとした箱と、きちんとした運営によって、この日本初演が松本市で実現した。人口20万人規模の地方都市のホールでも、やれることはたくさんあるのだと認識した。第二楽章が省略されなければ、全曲での日本初演が実現できたところであり、この点だけが残念である。
このような現代音楽をしれっと地方都市の観客に受け入れさせるためなのか?その前に「セカンド-バトル」という非常に楽しい曲を持ってきた。四人の奏者が客席に降りてきて、空席に図々しく座って演奏するなど、かなりポピュラー色の高い曲目だ。観客の反応も良い。奏者が客席のどこにいても、舞台上での演奏と全く同じ響きで聴こえてくるところに、松本市音楽文化ホールの凄さがある。演奏も、残響が長いからこそ重要となる精緻さを伴ったもので、観客を乗せて盛り上げただけでなく、非常に充実した状態で「蜃気楼」に持ち込める状態を作った。
にしても、やはり日本初演というのは重要だ。200年前の作品を再現させるだけでなく、現代に生きる作曲家の作品を紹介するのは演奏者の重要な使命の一つだと思うが、オルガンとサクソフォンとの珍しい組み合わせの曲を紹介したのは、本当に有意義な事である。松本市音楽文化ホールが続けてきた、専属オルガニスト制度が活かされた公演であった。箱を作るだけではない音楽堂のあるべき姿の事例を示したものである。
アンコールは、村松嵩継の「彼方の光」であった。
松本市音楽文化ホール (長野県松本市)
曲目:
ヨハン=セバスティアン=バッハ:パッサカリア BWV582
作者不詳:グリーンスリーヴス変奏曲
ヤン=ピーテルスゾーンス=ウェーリンク:「われ汝に呼ばれる、主イエス=キリストよ」
ウラディミール=ヴァヴィロフ:「アヴェ=マリア」(いわゆる「カッチーニのアヴェ=マリア」)
(休憩)
ヨハン=セバスティアン=バッハ:フーガ BWV578 (サクソフォン=カルテットとオルガンのために編曲:大場陽子)
長生淳:彗星(トルヴェールの「惑星」より)
天野正道:セカンド-バトル
バルバラ=トンプソン:サクソフォン四重奏とオルガンのための協奏曲「蜃気楼」(第一楽章・第三楽章・第四楽章)(日本初演)
オルガン:原田靖子(松本市音楽文化ホール専属オルガニスト)
サクソフォン=カルテット:ギャルソン
ソプラノ=サクソフォン:蓼沼雅紀(ソリスト)
アルト=サクソフォン:細川紘希
テナー=サクソフォン:完戸吉由希
バリトン=サクソフォン:大坪俊樹
松本市音楽文化ホールは、「The Harmonu Hall Organ Concert series ~若手サクソフォン奏者と共に~」「人類史上『最古の鍵盤楽器』と『最新の管楽器』が恋に落ちて」のタイトルで、専属オルガニストである原田靖子と 蓼沼雅紀 + サクソフォン-カルテット ギャルソンの共演による演奏会を、2016年4月24日に開催した。
着席位置は後方上手側、観客の入り具合は六割程か。観客の鑑賞態度は、細かなノイズが時折見受けられたが、概ね良好であった。
私自身が少し疲れていたこともあり、第一曲目では照明・オルガンとも気持ちよくなってしまい、夢見心地な状態にあったところもあったが、オルガンとサクソフォンとの共演という冒険的な試みは成功したと言って良い。
やはり白眉は、最後のバルバラ=トンプソンの「蜃気楼」であった。精緻に演奏され、オルガンとサクソフォンとが見事にブレンドされ、サクソフォンカルテットの四人だけでなく、オルガンを含めて五人の奏者全体での一体感が感じられた。松本市音楽文化ホールの豊かな残響を巧みに味方につけ、日本初演を立派に果たした。
このような作品を演奏するに適したホールは、オルガンがあり、かつ残響が豊かな中規模ホールとなるが、松本市音楽文化ホールの他、サラマンカホール(岐阜市)、豊田市コンサートホール、福島市音楽堂くらいしか適したホールが日本にはない。その中で、松本市音楽文化ホールで日本初演を実現できたのは、やはり専属オルガニストである原田靖子による企画力の賜物であろう。きちんとした箱と、きちんとした運営によって、この日本初演が松本市で実現した。人口20万人規模の地方都市のホールでも、やれることはたくさんあるのだと認識した。第二楽章が省略されなければ、全曲での日本初演が実現できたところであり、この点だけが残念である。
このような現代音楽をしれっと地方都市の観客に受け入れさせるためなのか?その前に「セカンド-バトル」という非常に楽しい曲を持ってきた。四人の奏者が客席に降りてきて、空席に図々しく座って演奏するなど、かなりポピュラー色の高い曲目だ。観客の反応も良い。奏者が客席のどこにいても、舞台上での演奏と全く同じ響きで聴こえてくるところに、松本市音楽文化ホールの凄さがある。演奏も、残響が長いからこそ重要となる精緻さを伴ったもので、観客を乗せて盛り上げただけでなく、非常に充実した状態で「蜃気楼」に持ち込める状態を作った。
にしても、やはり日本初演というのは重要だ。200年前の作品を再現させるだけでなく、現代に生きる作曲家の作品を紹介するのは演奏者の重要な使命の一つだと思うが、オルガンとサクソフォンとの珍しい組み合わせの曲を紹介したのは、本当に有意義な事である。松本市音楽文化ホールが続けてきた、専属オルガニスト制度が活かされた公演であった。箱を作るだけではない音楽堂のあるべき姿の事例を示したものである。
アンコールは、村松嵩継の「彼方の光」であった。
2016年4月23日土曜日
Kioi Sinfonietta Tokyo, the 104th Subscription Concert, review 第104回 紀尾井シンフォニエッタ東京 定期演奏会 評
2016年4月23日 土曜日
Saturday 23rd April 2016
紀尾井ホール (東京)
Kioi Hall (Tokyo, Japan)
曲目:
Gabriel Fauré: ‘Masques et Bergamasques’ op.112
Ludwig van Beethoven: Concerto per pianoforte e orchestra n.4 op.58
(休憩)
Franz Joseph Haydn: Sinfonia n.103 Hob.I:103
pianoforte: Imogen Cooper / イモジェン=クーパー
orchestra: Kioi Sinfonietta Tokyo(紀尾井シンフォニエッタ東京)
direttore: Trevor Pinnock / トレヴァー=ピノック
紀尾井シンフォニエッタ東京(KST)は、トレヴァー=ピノックを指揮者に、イモジェン=クーパーをソリストに迎えて、2016年4月22日・23日に東京-紀尾井ホールで、第104回定期演奏会を開催した。この評は、第二日目の公演に対してのものである。
管弦楽配置は、舞台下手側から、第一ヴァイオリン→ヴァイオリン-チェロ→ヴィオラ→第二ヴァイオリンの左右対向配置で、コントラバスは中央最後方につく。木管パートは後方中央(コントラバスの手前)、ホルンは後方下手側、トランペットは後方上手側、ティンパニは上手側、ハープは下手側の位置につく。ティンパニはモダンタイプとバロックタイプの二種類を準備し、フォーレ作品のみモダンタイプを用いた。
着席位置は一階正面後方僅かに上手側、チケットはほぼ完売している。観客の鑑賞態度は、若干のノイズはあったが、拍手のタイミングも適切であった。
トレヴァー=ピノックの解釈は全般的に端正なものである。おそらく楽譜に
私にとっての白眉は、二曲目のBeethoven ピアノ協奏曲の4番であった。
イモジェン=クーパーのピアノは全般的に遅く、特に第一楽章で顕著だ。第一楽章前半部ではその遅さに加え曲想上も手を入れにくいのか、覚醒状態が高くなければ眠くなる演奏である。しかし、後半部からは、その遅いテンポでなければ見えてこないものを表現し、遅いテンポの中で揺らぎを入れて表情付けを行い始める。カデンツァも説得力のあるものだ。
第二楽章では、弦楽が深く強く美しい表現響きで始めた後で(今日の管弦楽で一番素晴らしい箇所だった!)、臨終間近を思わせる儚い弱奏のピアノとの対比が面白い。管弦楽はしばらくして強く響かせるのをやめ、同じ方向性を向いた弱奏でピアノに寄り添う。
第三楽章は、通常よりもわずかに遅い程度のテンポか?イモジェンのピアノは必要以上に強い演奏でなく、控えめで溶け込ませ、管弦楽と同じ方向性を持つものである。
全般的にイモジェンのピアノは、遅いテンポの基調でなければ不可能な表現をニュアンス豊かに行うスタイルで、超絶技巧を披露する派手系な路線の対極に位置する。好き嫌いが別れる演奏であることは間違いない。正直観客の反応が心配だったが、是と感じる知的な反応をする観客は思った以上に多く、暖かい反応で前半を終えた。
アンコールは、シューベルト、キプロスの女王 ロザムンデ より 第三幕の間奏曲であった。
Saturday 23rd April 2016
紀尾井ホール (東京)
Kioi Hall (Tokyo, Japan)
曲目:
Gabriel Fauré: ‘Masques et Bergamasques’ op.112
Ludwig van Beethoven: Concerto per pianoforte e orchestra n.4 op.58
(休憩)
Franz Joseph Haydn: Sinfonia n.103 Hob.I:103
pianoforte: Imogen Cooper / イモジェン=クーパー
orchestra: Kioi Sinfonietta Tokyo(紀尾井シンフォニエッタ東京)
direttore: Trevor Pinnock / トレヴァー=ピノック
紀尾井シンフォニエッタ東京(KST)は、トレヴァー=ピノックを指揮者に、イモジェン=クーパーをソリストに迎えて、2016年4月22日・23日に東京-紀尾井ホールで、第104回定期演奏会を開催した。この評は、第二日目の公演に対してのものである。
管弦楽配置は、舞台下手側から、第一ヴァイオリン→ヴァイオリン-チェロ→ヴィオラ→第二ヴァイオリンの左右対向配置で、コントラバスは中央最後方につく。木管パートは後方中央(コントラバスの手前)、ホルンは後方下手側、トランペットは後方上手側、ティンパニは上手側、ハープは下手側の位置につく。ティンパニはモダンタイプとバロックタイプの二種類を準備し、フォーレ作品のみモダンタイプを用いた。
着席位置は一階正面後方僅かに上手側、チケットはほぼ完売している。観客の鑑賞態度は、若干のノイズはあったが、拍手のタイミングも適切であった。
トレヴァー=ピノックの解釈は全般的に端正なものである。おそらく楽譜に
私にとっての白眉は、二曲目のBeethoven ピアノ協奏曲の4番であった。
イモジェン=クーパーのピアノは全般的に遅く、特に第一楽章で顕著だ。第一楽章前半部ではその遅さに加え曲想上も手を入れにくいのか、覚醒状態が高くなければ眠くなる演奏である。しかし、後半部からは、その遅いテンポでなければ見えてこないものを表現し、遅いテンポの中で揺らぎを入れて表情付けを行い始める。カデンツァも説得力のあるものだ。
第二楽章では、弦楽が深く強く美しい表現響きで始めた後で(今日の管弦楽で一番素晴らしい箇所だった!)、臨終間近を思わせる儚い弱奏のピアノとの対比が面白い。管弦楽はしばらくして強く響かせるのをやめ、同じ方向性を向いた弱奏でピアノに寄り添う。
第三楽章は、通常よりもわずかに遅い程度のテンポか?イモジェンのピアノは必要以上に強い演奏でなく、控えめで溶け込ませ、管弦楽と同じ方向性を持つものである。
全般的にイモジェンのピアノは、遅いテンポの基調でなければ不可能な表現をニュアンス豊かに行うスタイルで、超絶技巧を披露する派手系な路線の対極に位置する。好き嫌いが別れる演奏であることは間違いない。正直観客の反応が心配だったが、是と感じる知的な反応をする観客は思った以上に多く、暖かい反応で前半を終えた。
アンコールは、シューベルト、キプロスの女王 ロザムンデ より 第三幕の間奏曲であった。
2016年4月17日日曜日
New National Theatre Tokyo, Opera ‘Andrea Chénier’ review 新国立劇場 歌劇「アンドレア=シェニエ」 感想
2016年4月17日 日曜日
Sunday 17th April 2016
新国立劇場 (東京)
New National Theatre Tokyo (Tokyo, Japan)
演目:
Umberto Giordano: Opera ‘Andrea Chénier’
ウンベルト=ジョルダーノ 歌劇「アンドレア=シェニエ」
Andrea Chénier : Carlo Ventre (カルロ=ヴェントレ)
Maddalena di Coigny: Maria José Siri (マリア=ホセ=シリ)
Carlo Gérard: Vittorio Vitelli(ヴィットリオ=ヴィテッリ)
Roucher: Kamie Hayato (上江隼人)
un Incredibile: Matsuura Ken (松浦健)
la Contessa di Coigny: Moriyama Kyoko (森山京子)
Bersi: Shimizu Kasumi (清水華澄)
Madelon: Takemoto Setsuko (竹本節子)
Mathieu: Okubo Makoto (大久保眞)
Fléville : Komada Toshiaki (駒田敏章)
l’Abate: Kamoshita Minoru (加茂下稔)
Fouquier Tinville: Sudo Shingo (須藤慎吾)
Dumas: Omori Ichiei (大森いちえい)
Il Maestro di Casa/Schmidt: Okubo Mitsuya (大久保光哉)
Coro: New National Theatre Chorus (合唱:新国立劇場合唱団)
Director: Philippe Arlaud (演出:フィリップ=アルロー)
Set design: Philippe Arlaud(装置:フィリップ=アルロー)
Costumes design: Andrea Uhmann (衣裳:アンドレア=ウーマン)
Lighting design: Tatsuta Yuji (照明:立田雄士)
Stage Maneger: Saito Miho (舞台監督:斉藤美穂)
orchestra: Tokyo Philharmonic Orchestra (管弦楽:東京フィルハーモニー交響楽団)
maestro del Coro: Misawa Fminori (合唱指導:三澤洋史)
direttore: Jader Bignamini (指揮:ヤデル=ビニャミーニ)
新国立劇場は、2016年4月14日から4月23日までの日程で、ウンベルト=ジョルダーノ歌劇「アンドレア=シェニエ」を4公演開催する。この評は2016年4月17日に催された第二回目の公演に対するものである。
着席位置は一階やや前方上手側である。観客の入りは九割程はあったか?観客の鑑賞態度は、極めて良好だった。
(以下ネタバレ注意)
舞台は先進的なもので、新国立劇場ご自慢の廻り舞台がフルに活かされる。赤いオペラカーテンを一切用いず、ギロチンをモチーフとした斜めに切られた舞台装置は、疑問の余地なく秀逸なものだ。第一幕と第二幕の間の幕間のギロチン器材映写も素晴らしい。
ソリストの出来について述べる。
一番の出来は、Maddalena 役の Maria José Siri だ。新国立劇場で求められる爆音の要件を満たしたばかりでなく、終始ニュアンスに富んだ歌唱で観客を魅了した。第三幕での Gérard が改心する前のアリアは完璧だった。Maddalena への欲望に燃える Gérard が改心する説得力溢れるアリアで、まさしくこの公演の白眉だ。このアリアで涙腺の緩まない者は、誰一人としていないだろう。
Maria José Siri 程でないにせよ、題名役の Carlo Ventre 、Gérard 役の Vittorio Vitelli と、外国人ソリストは士気溢れる歌唱を披露し、これに影響されたのか、Bersi 役の清水華澄、Madelon 役の竹本節子も素晴らしかった。
第一幕・第二幕と、爆演系の力技で観客をノックアウトさせようとする陰謀に乗せられてたまるかと思った。このAndrea Chénierは音が多い箇所があり、そう言った箇所での響きの精緻さについては疑問の余地があろうが、そんな要素などどうでも良くなる第三幕・第四幕だった。
この三月に大評判だった「イェヌーファ」・「サロメ」は見ていない条件で言うけど、この「アンドレア=シェニエ」は私が観劇した数少ない新国立劇場のオペラ公演の中で、間違いなく一番の出来だ。視覚面でも聴覚面でも。意気揚々と松本に帰ってる!
わずか四公演だけなのが勿体無い素晴らしい出来だ!20日・23日と、あと二公演あるが、期待して観劇して欲しい!
Sunday 17th April 2016
新国立劇場 (東京)
New National Theatre Tokyo (Tokyo, Japan)
演目:
Umberto Giordano: Opera ‘Andrea Chénier’
ウンベルト=ジョルダーノ 歌劇「アンドレア=シェニエ」
Andrea Chénier : Carlo Ventre (カルロ=ヴェントレ)
Maddalena di Coigny: Maria José Siri (マリア=ホセ=シリ)
Carlo Gérard: Vittorio Vitelli(ヴィットリオ=ヴィテッリ)
Roucher: Kamie Hayato (上江隼人)
un Incredibile: Matsuura Ken (松浦健)
la Contessa di Coigny: Moriyama Kyoko (森山京子)
Bersi: Shimizu Kasumi (清水華澄)
Madelon: Takemoto Setsuko (竹本節子)
Mathieu: Okubo Makoto (大久保眞)
Fléville : Komada Toshiaki (駒田敏章)
l’Abate: Kamoshita Minoru (加茂下稔)
Fouquier Tinville: Sudo Shingo (須藤慎吾)
Dumas: Omori Ichiei (大森いちえい)
Il Maestro di Casa/Schmidt: Okubo Mitsuya (大久保光哉)
Coro: New National Theatre Chorus (合唱:新国立劇場合唱団)
Director: Philippe Arlaud (演出:フィリップ=アルロー)
Set design: Philippe Arlaud(装置:フィリップ=アルロー)
Costumes design: Andrea Uhmann (衣裳:アンドレア=ウーマン)
Lighting design: Tatsuta Yuji (照明:立田雄士)
Stage Maneger: Saito Miho (舞台監督:斉藤美穂)
orchestra: Tokyo Philharmonic Orchestra (管弦楽:東京フィルハーモニー交響楽団)
maestro del Coro: Misawa Fminori (合唱指導:三澤洋史)
direttore: Jader Bignamini (指揮:ヤデル=ビニャミーニ)
新国立劇場は、2016年4月14日から4月23日までの日程で、ウンベルト=ジョルダーノ歌劇「アンドレア=シェニエ」を4公演開催する。この評は2016年4月17日に催された第二回目の公演に対するものである。
着席位置は一階やや前方上手側である。観客の入りは九割程はあったか?観客の鑑賞態度は、極めて良好だった。
(以下ネタバレ注意)
舞台は先進的なもので、新国立劇場ご自慢の廻り舞台がフルに活かされる。赤いオペラカーテンを一切用いず、ギロチンをモチーフとした斜めに切られた舞台装置は、疑問の余地なく秀逸なものだ。第一幕と第二幕の間の幕間のギロチン器材映写も素晴らしい。
ソリストの出来について述べる。
一番の出来は、Maddalena 役の Maria José Siri だ。新国立劇場で求められる爆音の要件を満たしたばかりでなく、終始ニュアンスに富んだ歌唱で観客を魅了した。第三幕での Gérard が改心する前のアリアは完璧だった。Maddalena への欲望に燃える Gérard が改心する説得力溢れるアリアで、まさしくこの公演の白眉だ。このアリアで涙腺の緩まない者は、誰一人としていないだろう。
Maria José Siri 程でないにせよ、題名役の Carlo Ventre 、Gérard 役の Vittorio Vitelli と、外国人ソリストは士気溢れる歌唱を披露し、これに影響されたのか、Bersi 役の清水華澄、Madelon 役の竹本節子も素晴らしかった。
第一幕・第二幕と、爆演系の力技で観客をノックアウトさせようとする陰謀に乗せられてたまるかと思った。このAndrea Chénierは音が多い箇所があり、そう言った箇所での響きの精緻さについては疑問の余地があろうが、そんな要素などどうでも良くなる第三幕・第四幕だった。
この三月に大評判だった「イェヌーファ」・「サロメ」は見ていない条件で言うけど、この「アンドレア=シェニエ」は私が観劇した数少ない新国立劇場のオペラ公演の中で、間違いなく一番の出来だ。視覚面でも聴覚面でも。意気揚々と松本に帰ってる!
わずか四公演だけなのが勿体無い素晴らしい出来だ!20日・23日と、あと二公演あるが、期待して観劇して欲しい!
2016年4月16日土曜日
New National Theatre Tokyo, Opera ‘Werther’ review 新国立劇場 歌劇「ヴェルター」(ウェルテル) 感想
2016年4月16日 土曜日
Saturday 16th April 2016
新国立劇場 (東京)
New National Theatre Tokyo (Tokyo, Japan)
演目:
Jules Massenet: Opera ‘Werther'
ジュール=マスネ 歌劇「ヴェルター」(ウェルテル)
Werther: Dmitry Korchak (ディミトリー=コルチャック)
Charlotte: Elena Maximova (エレーナ=マクシモワ)
Albert: Adrian Eröd(アドリアン=エレート)
Sophie: Sunakawa Ryoko (砂川涼子)
le Bailli: Kubota Masumi (久保田真澄)
Schmidt: Murakami Kota (村上公太)
Johann: Mogiguchi Kenji (森口賢二)
Coro: New National Theatre Chorus (合唱:新国立劇場合唱団)
Coro dei bambini: Tokyo FM Boys Choir
Director: Nicolas Joel (演出:ニコラ=ジョエル)
Set design: Emmanuelle Favre(装置:エマニュエル=ファーヴル)
Costumes design: Katia Duflot (衣裳:カティア=デュフロ)
Lighting design: Vinicio Cheli (照明:ヴィニチオ=ケリ)
Stage Maneger: Onita Masahiko (舞台監督:大仁田雅彦)
orchestra: Tokyo Philharmonic Orchestra (管弦楽:東京フィルハーモニー交響楽団)
maestro del Coro: Misawa Fminori (合唱指導:三澤洋史)
direttore: Emmanuel Plasson (指揮:エマニュエル=プラッソン)
新国立劇場は、2016年4月3日から4月16日までの日程で、ジュール=マスネ歌劇「ヴェルター」を5公演開催した。この評は2016年4月16日に催された第五回目千秋楽の公演に対するものである。
当初予定されていた、指揮のマルコ=アルミリアート・ミシェル=プラッソン、ベアトリス役のマルチェッロ=ジョルダーニは、負傷・病気のため降板した。
着席位置は一階前方やや下手側である。観客の入りは9割ほどか。観客の鑑賞態度は、概ね極めて良好だった。
舞台は伝統的なものであり、衣装を含めて前衛的な要素は特段ない、正統的なものだ。背景の映像はプロジェクターを用いたものと思われるが、事前に新国立劇場会員誌「テアトレ」で予告された背景映像とは異なったものとなったのは残念だ。
ソリストの出来について述べる。
Werther役の Dmitry Korchak は、第一幕、第三幕オシアンの詩の朗読の場面、Charlotte 役の Elena Maximova は第三幕のWertherとの場面が特に素晴らしい。Albert 役の Adrian Eröd は全般に渡り期待する水準を満たし、Sophie 役の 砂川涼子 も特に第三幕での Charlotte との場面は素晴らしく健闘した。
管弦楽は東京フィルハーモニー交響楽団であったが、バレエ公演でこのくらい元気良く上手に演奏してくれたらと思える程ではあるが、歌劇公演としての演奏のあり方としては疑問を持たざるを得ない箇所も見受けられた。演奏のあり方が、タケミツメモリアルでの演奏会のようだった。
特に第一幕・第二幕で、管楽の無神経な響きによって歌が損なわれた。歌の響きに対してどのような響きで対処するかが見えていない。これは各奏者が考えるべき点か、指揮者の無能ぶりにより齎された点かは不明である。
第一幕終盤シャルロッテとヴェルターの段は、もう少し考えるべきだろう。
特に第二幕では、管弦楽をなくして、歌い手のアカペラだけでやった方がマシと思える程だ。歌が綺麗に響く時は、ピットからの音がない時だったり、教会から漏れ伝わる弱いオルガンの音の場面だったりした。
歌の個別が良くても、管弦楽個別が良くても、なんとなくシックリ来ない感じが強い。全体的な響きの組み立てがうまくいっていない。
今日わかった事は、新国立劇場はピットからの音がかなり大きく響き渡り、その結果、歌い手が爆音量対応で無ければ管弦楽に負けてしまう点である。地元の まつもと市民芸術館 では、管弦楽はうまい具合にすっぽ抜けた響きとなり、結果的に歌が活きてくるが、新国立劇場ではそうならない。新国立劇場の音響は、バレエ公演向けとしては抜群に素晴らしいが、オペラ公演としてはダメダメの部類だろう。
オペラに関して、二国問題の勝者はいなかった。佐々木忠次の狂気じみた2000席超構想をぶっ潰したのは良かったとして、現状の1814席は誰得だったのだろう。過剰に響く管弦楽により歌い手に爆音量を要求する劇場となってしまった。1000席前後の規模にし、オケを室内管弦楽団の規模として座付きとしていれば、砂川涼子や Elena Maximova の歌が活きた場面はもっとたくさんあったのではないだろうか。新国立劇場設立のグランド-デザインが誤っていた事については、日本の音楽界を挙げた反省が必要かと思われる。
Saturday 16th April 2016
新国立劇場 (東京)
New National Theatre Tokyo (Tokyo, Japan)
演目:
Jules Massenet: Opera ‘Werther'
ジュール=マスネ 歌劇「ヴェルター」(ウェルテル)
Werther: Dmitry Korchak (ディミトリー=コルチャック)
Charlotte: Elena Maximova (エレーナ=マクシモワ)
Albert: Adrian Eröd(アドリアン=エレート)
Sophie: Sunakawa Ryoko (砂川涼子)
le Bailli: Kubota Masumi (久保田真澄)
Schmidt: Murakami Kota (村上公太)
Johann: Mogiguchi Kenji (森口賢二)
Coro: New National Theatre Chorus (合唱:新国立劇場合唱団)
Coro dei bambini: Tokyo FM Boys Choir
Director: Nicolas Joel (演出:ニコラ=ジョエル)
Set design: Emmanuelle Favre(装置:エマニュエル=ファーヴル)
Costumes design: Katia Duflot (衣裳:カティア=デュフロ)
Lighting design: Vinicio Cheli (照明:ヴィニチオ=ケリ)
Stage Maneger: Onita Masahiko (舞台監督:大仁田雅彦)
orchestra: Tokyo Philharmonic Orchestra (管弦楽:東京フィルハーモニー交響楽団)
maestro del Coro: Misawa Fminori (合唱指導:三澤洋史)
direttore: Emmanuel Plasson (指揮:エマニュエル=プラッソン)
新国立劇場は、2016年4月3日から4月16日までの日程で、ジュール=マスネ歌劇「ヴェルター」を5公演開催した。この評は2016年4月16日に催された第五回目千秋楽の公演に対するものである。
当初予定されていた、指揮のマルコ=アルミリアート・ミシェル=プラッソン、ベアトリス役のマルチェッロ=ジョルダーニは、負傷・病気のため降板した。
着席位置は一階前方やや下手側である。観客の入りは9割ほどか。観客の鑑賞態度は、概ね極めて良好だった。
舞台は伝統的なものであり、衣装を含めて前衛的な要素は特段ない、正統的なものだ。背景の映像はプロジェクターを用いたものと思われるが、事前に新国立劇場会員誌「テアトレ」で予告された背景映像とは異なったものとなったのは残念だ。
ソリストの出来について述べる。
Werther役の Dmitry Korchak は、第一幕、第三幕オシアンの詩の朗読の場面、Charlotte 役の Elena Maximova は第三幕のWertherとの場面が特に素晴らしい。Albert 役の Adrian Eröd は全般に渡り期待する水準を満たし、Sophie 役の 砂川涼子 も特に第三幕での Charlotte との場面は素晴らしく健闘した。
管弦楽は東京フィルハーモニー交響楽団であったが、バレエ公演でこのくらい元気良く上手に演奏してくれたらと思える程ではあるが、歌劇公演としての演奏のあり方としては疑問を持たざるを得ない箇所も見受けられた。演奏のあり方が、タケミツメモリアルでの演奏会のようだった。
特に第一幕・第二幕で、管楽の無神経な響きによって歌が損なわれた。歌の響きに対してどのような響きで対処するかが見えていない。これは各奏者が考えるべき点か、指揮者の無能ぶりにより齎された点かは不明である。
第一幕終盤シャルロッテとヴェルターの段は、もう少し考えるべきだろう。
特に第二幕では、管弦楽をなくして、歌い手のアカペラだけでやった方がマシと思える程だ。歌が綺麗に響く時は、ピットからの音がない時だったり、教会から漏れ伝わる弱いオルガンの音の場面だったりした。
歌の個別が良くても、管弦楽個別が良くても、なんとなくシックリ来ない感じが強い。全体的な響きの組み立てがうまくいっていない。
今日わかった事は、新国立劇場はピットからの音がかなり大きく響き渡り、その結果、歌い手が爆音量対応で無ければ管弦楽に負けてしまう点である。地元の まつもと市民芸術館 では、管弦楽はうまい具合にすっぽ抜けた響きとなり、結果的に歌が活きてくるが、新国立劇場ではそうならない。新国立劇場の音響は、バレエ公演向けとしては抜群に素晴らしいが、オペラ公演としてはダメダメの部類だろう。
オペラに関して、二国問題の勝者はいなかった。佐々木忠次の狂気じみた2000席超構想をぶっ潰したのは良かったとして、現状の1814席は誰得だったのだろう。過剰に響く管弦楽により歌い手に爆音量を要求する劇場となってしまった。1000席前後の規模にし、オケを室内管弦楽団の規模として座付きとしていれば、砂川涼子や Elena Maximova の歌が活きた場面はもっとたくさんあったのではないだろうか。新国立劇場設立のグランド-デザインが誤っていた事については、日本の音楽界を挙げた反省が必要かと思われる。
2016年4月10日日曜日
Wihan Quartet, Nagoya perfomance, (10th April 2016), review ウィハン弦楽四重奏団 名古屋公演 評
2016年4月10日 日曜日
Sunday 10th April 2016
宗次ホール (愛知府名古屋市)
Munetsugu Hall (Kyoto, Japan)
曲目:
Franz Joseph Haydn: Quartetto n.67 op.64-5 Hob.III-63
Leoš Janáček: Quartetto n.1
(休憩)
Ludwig van Beethoven: Quartetto n.15 op.132
Quartetto d'archi: Wihan Quartet
violino 1: Leoš Čepický
violino 2: Jan Schulmeister
viola: Jakub Čepický
violoncello: Aleš Kaspřík
チェコ人により構成されるウィハン-クァルテットは、2016年3月から4月に掛けて日本ツアーを実施し、福岡・横浜・東京(3会場で計3公演)・大阪・広島・武豊(愛知県)・名古屋にて演奏会を開催した。この評は、最終公演である名古屋公演に対するものである。
着席位置は秘密。およそ7割程の入りか?観客の鑑賞態度は、概ね極めて良好であった。
一曲目のハイドンから深い音色で聴かせてくれるが、面白いのは二曲目のヤナーチェクである。どのように弾いてそのような音を出しているのか不明だが、特殊な音色が出て来たり、現代音楽チックな部分もあったりする。
最後のBeethovenは、第三楽章・第五楽章が特に素晴らしい。第三楽章は繊細であり、第五楽章は心臓の鼓動が高鳴る演奏だ。それにしても、全曲に渡り正統派の解釈であり、誰が何をするか、よく考えられた演奏である。深い音色が宗次ホールと実によくマッチしている。
アンコールは二曲あり、いずれもドヴォルジャークである。一曲目は弦楽四重奏曲第12番第四楽章であるが、終盤の二人のヴァイオリンが微妙にテンポを速めながらきっちりユニゾンを決めた響きは実に素晴らしい。二曲目は、弦楽四重奏のための「糸杉」から「自然はまどろみの夢の中に」で心を落ち着かせるものである。
弦楽四重奏の表現力を改めて思い知る。100以上の奏者を集めてデカくやる意味って、どこにあるのでしょうね。
Sunday 10th April 2016
宗次ホール (愛知府名古屋市)
Munetsugu Hall (Kyoto, Japan)
曲目:
Franz Joseph Haydn: Quartetto n.67 op.64-5 Hob.III-63
Leoš Janáček: Quartetto n.1
(休憩)
Ludwig van Beethoven: Quartetto n.15 op.132
Quartetto d'archi: Wihan Quartet
violino 1: Leoš Čepický
violino 2: Jan Schulmeister
viola: Jakub Čepický
violoncello: Aleš Kaspřík
チェコ人により構成されるウィハン-クァルテットは、2016年3月から4月に掛けて日本ツアーを実施し、福岡・横浜・東京(3会場で計3公演)・大阪・広島・武豊(愛知県)・名古屋にて演奏会を開催した。この評は、最終公演である名古屋公演に対するものである。
着席位置は秘密。およそ7割程の入りか?観客の鑑賞態度は、概ね極めて良好であった。
一曲目のハイドンから深い音色で聴かせてくれるが、面白いのは二曲目のヤナーチェクである。どのように弾いてそのような音を出しているのか不明だが、特殊な音色が出て来たり、現代音楽チックな部分もあったりする。
最後のBeethovenは、第三楽章・第五楽章が特に素晴らしい。第三楽章は繊細であり、第五楽章は心臓の鼓動が高鳴る演奏だ。それにしても、全曲に渡り正統派の解釈であり、誰が何をするか、よく考えられた演奏である。深い音色が宗次ホールと実によくマッチしている。
アンコールは二曲あり、いずれもドヴォルジャークである。一曲目は弦楽四重奏曲第12番第四楽章であるが、終盤の二人のヴァイオリンが微妙にテンポを速めながらきっちりユニゾンを決めた響きは実に素晴らしい。二曲目は、弦楽四重奏のための「糸杉」から「自然はまどろみの夢の中に」で心を落ち着かせるものである。
弦楽四重奏の表現力を改めて思い知る。100以上の奏者を集めてデカくやる意味って、どこにあるのでしょうね。
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