2016年8月21日 日曜日
Sunday 21st August 2016
長野県松本文化会館 (長野県松本市)
Nagano-ken Matsumoto Bunka Kaikan (Nagano Prefectural Matsumoto Theater) (Matsumoto, Japan)
曲目:
Gustav Mahler: Sinfonia n.2
orchestra: Saito Kinen Orchestra(サイトウ-キネン-オーケストラ)
direttore: Fabio Luisi (指揮:ファビオ=ルイージ)
ファビオ=ルイージを指揮者に迎えて、2015年8月19日・21日に長野県松本文化会館にて開催された。
管弦楽配置は、失念した。着席位置は19日は二階正面中央下手側、21日は二階正面やや上手側最前方、チケットは僅かに完売には至らなかった。
この公演については二公演とも臨席した。19日公演と21日公演とでは大きな差が出た。
8月19日公演は、どこか精彩を欠いていた。音響劣悪な長野県松本文化会館で、演奏者の意図が伝えることの難しさを感じた。また、上手いオケが感銘を与える演奏をするのは難しいことも実感した。
前半部分は、余り良く練られていない感じがあった。前半部で低弦がマトモに響いたのは、第一楽章終盤部のみであった。曲冒頭の、低弦の貧しい響きは、愛知芸文の響きがスタンダードな私にとっては、堪え難かった。第三楽章冒頭のティンパニ、残響消しの術が見事に失敗して、汚い音になったのは残念である。あと、ソプラノのソロが出る直前のフルートとトランペットの音は、あまりに大き過ぎ、繊細さに掛けていた。弱音を多用する試みは、この貧しい響きの長野県松本文化会館では無謀である。意図が伝わらず、つまらなく響くから。愛知芸文だったら、観客に伝わるだろうけど。
全般的に、個々に傑出した表現は見られるけど、第五楽章前半は良かったと思うけど・・。
二人のソロの歌い手は、単独だと綺麗な中弱音で聴かせてくれるけど、オケが強めに入ってくると、声が引き立たない。サイトウキネン、歌モノは苦手なのかなあと思わせる。
中部フィルによる しらかわホール におけるマーラーの第四交響曲を聴いた後のような満足感が得られなかったのか、考えさせられる。ホールにしても管弦楽にしても、小さければ小さいほど良くて、大きなモノはダメなのだろうか?ある種の まとまり感 があるのかないのか?どこか統合されていないのか?長野県松本文化会館が悪いのか?大きいから全てが上手くいかないのか?私にはサッパリ分からないけど、不完全燃焼状態が強かった。
8月21日の演奏は、19日のこれとは全く別物であった。
弦管打全てが絡みあった感が強く、弦が強く響くと全てが締まる。音の洪水で攻める点だけでなく、弦のゾクッとさせられる鋭い響きを始めとしたニュアンスが効いて、二階席の私の席にも届いた。これぞ、サイトウキネン!合唱も管弦楽に負けずにハーモニーを構成していた。まとまり感が違っていた。一番強調するべき事は、全員が第一楽章冒頭から緊張感に満ち、弛緩した響きがなかった。前半も充実した演奏で、そこが19日とは違っていた。
長野県松本文化会館にはシャンデリアがないので、天井を向いたり、敢えて目を瞑る箇所が多かった。どれほど素晴らしい演奏だったかを示す、私にとっての証左だ。その音にとにかく浸りたい時、私は視覚情報をカットする。この場面の多さが、演奏の傑出した見事さを示す!
どんなに一流の指揮者や奏者を揃え、万全のリハーサルを組んでも、演奏は生物、どうなる事か分からない怖さと面白さを、今回のファビオ=ルイージ+サイトウキネンの「復活」で思い知らされた。
2016年8月21日日曜日
2016年7月24日日曜日
Noism 劇的舞踊vol.3「ラ・バヤデール-幻の国」 静岡公演 感想
2016年7月24日 日曜日 静岡芸術劇場
(キャスト・スタッフは末尾に掲載)
一階前方僅かに上手側。
まずは、開演前の案内アナウンスであるが、独特のオドロオドロしさを伴う男の人の声であるが、本当に素晴らしい。開演前のオドロオドロしさを感じさせる音楽と、完璧にあっていた。
毒蛇を仕掛けたのは、お美しい梶田留以ちゃんの仕業?(たまいみき さんかも知れないけど。でも、留以ちゃんの持ってた壺だったような?)佐和子さんを見る眼がこわいよ〜。
石原悠子さんは愛知公演に引き続いて面白さを感じる。「壺の踊り」の後で拍手あり。真面目過ぎる東京・名古屋とは違う反応である。静岡の観客の反応いいなあ。
中川賢さんはダメ男ぶりを発揮した♪もちろん、踊りも完璧だ。
井関佐和子さんは、終始愛を感じさせる演技であるが、幻想の場面での、病的でありながら慈愛に満ちた表情を見て(阿片でキメタ、ダメ男の願望だろうけど)、涙腺が潤む。
前半部だったか、佐和子さんと賢さんとが呼吸を吸って吐くシーン、音がばっちり観客席に響く。401席の静岡芸術劇場ならではの光景だ。
俳優部門も全員素晴らしいが、たまいみき さんのセリフが、力んでいた愛知芸術劇場公演とは打って変わって、今日は威厳がありながらも自然に聴こえた。ホームの劇場であることもさりながら、適切な規模の劇場であるからだろう。観客との親近感が、声の自然な響きを引き出したのだろうか?
静岡芸術劇場は、最前列だと確実にダンサーの汗を浴びる程の近さだ。近いだけに、全ての踊り、全ての演技が迫ってくる。随所で涙腺が潤む状態だった。幻想の女性たちが迫る場面は、美しさと臨場感とを併せ持っていた。この独特な場面は、KAATでも実現出来なかったと思う。
演出の金森穣さんは、アフタートークで「記憶と慰霊」を念頭に入れていたとの事である。
Cast
カリオン族
ミラン:井関佐和子、ヨンファ:梶田留以
踊り子:飯田利奈子・西岡ひなの・西澤真耶・鳥羽絢美
メンガイ族
バートル:中川賢、アルダル:チェン=リンイ、兵士:リン=シーピン、少年:田中須和子
マランシュ族
フイシェン:たきいみき、 侍女:浅海侑加・深井響子・秋山沙和・牧野彩季
ポーヤン(フイシェンの侍女/ヤンパオ居留民のスパイ):石原悠子
馬賊
タイラン:吉﨑裕哉、 シンニー:池ヶ谷奏
馬賊の男:佐藤琢哉・上田尚弘・髙木眞慈
オロル人
ガルシン:奥野晃士
ヤンパオ人
ムラカミ:貴島豪、 看護師:石原悠子
演出:金森穣
脚本:平田オリザ
振付:Noism1
音楽:L.ミンクス《ラ・バヤデール》、笠松泰洋
空間:田根剛(DORELL.GHOTMEH.TANE / ARCHITECTS)
衣裳:宮前義之(ISSEY MIYAKE)
木工美術:近藤正樹
舞踊家:Noism1 & Noism2
俳優:奥野晃士、貴島豪、たきいみき(SPAC ‒ 静岡県舞台芸術センター)
舞台監督:夏目雅也
舞台:中井尋央、高橋克也、川口眞人、尾﨑聡
照明デザイン:伊藤雅一(RYU)、金森穣
照明:伊藤雅一(RYU)、葭田野浩介(RYU)、伊藤英行
音響:佐藤哲郎
衣裳製作:ISSEY MIYAKE INC.
衣裳管理:山田志麻、居城地谷
トレーナー:國分義之(郡山健康科学専門学校)
テクニカルアドバイザー:關秀哉(RYU)
PR協力:市川靖子
特設サイト制作:ビークル・プラス
特設サイトインタビュー取材・執筆:尾上そら
写真撮影:遠藤龍
ビジュアルデザイン:阿部太一(GOKIGEN)
(キャスト・スタッフは末尾に掲載)
一階前方僅かに上手側。
まずは、開演前の案内アナウンスであるが、独特のオドロオドロしさを伴う男の人の声であるが、本当に素晴らしい。開演前のオドロオドロしさを感じさせる音楽と、完璧にあっていた。
毒蛇を仕掛けたのは、お美しい梶田留以ちゃんの仕業?(たまいみき さんかも知れないけど。でも、留以ちゃんの持ってた壺だったような?)佐和子さんを見る眼がこわいよ〜。
石原悠子さんは愛知公演に引き続いて面白さを感じる。「壺の踊り」の後で拍手あり。真面目過ぎる東京・名古屋とは違う反応である。静岡の観客の反応いいなあ。
中川賢さんはダメ男ぶりを発揮した♪もちろん、踊りも完璧だ。
井関佐和子さんは、終始愛を感じさせる演技であるが、幻想の場面での、病的でありながら慈愛に満ちた表情を見て(阿片でキメタ、ダメ男の願望だろうけど)、涙腺が潤む。
前半部だったか、佐和子さんと賢さんとが呼吸を吸って吐くシーン、音がばっちり観客席に響く。401席の静岡芸術劇場ならではの光景だ。
俳優部門も全員素晴らしいが、たまいみき さんのセリフが、力んでいた愛知芸術劇場公演とは打って変わって、今日は威厳がありながらも自然に聴こえた。ホームの劇場であることもさりながら、適切な規模の劇場であるからだろう。観客との親近感が、声の自然な響きを引き出したのだろうか?
静岡芸術劇場は、最前列だと確実にダンサーの汗を浴びる程の近さだ。近いだけに、全ての踊り、全ての演技が迫ってくる。随所で涙腺が潤む状態だった。幻想の女性たちが迫る場面は、美しさと臨場感とを併せ持っていた。この独特な場面は、KAATでも実現出来なかったと思う。
演出の金森穣さんは、アフタートークで「記憶と慰霊」を念頭に入れていたとの事である。
Cast
カリオン族
ミラン:井関佐和子、ヨンファ:梶田留以
踊り子:飯田利奈子・西岡ひなの・西澤真耶・鳥羽絢美
メンガイ族
バートル:中川賢、アルダル:チェン=リンイ、兵士:リン=シーピン、少年:田中須和子
マランシュ族
フイシェン:たきいみき、 侍女:浅海侑加・深井響子・秋山沙和・牧野彩季
ポーヤン(フイシェンの侍女/ヤンパオ居留民のスパイ):石原悠子
馬賊
タイラン:吉﨑裕哉、 シンニー:池ヶ谷奏
馬賊の男:佐藤琢哉・上田尚弘・髙木眞慈
オロル人
ガルシン:奥野晃士
ヤンパオ人
ムラカミ:貴島豪、 看護師:石原悠子
演出:金森穣
脚本:平田オリザ
振付:Noism1
音楽:L.ミンクス《ラ・バヤデール》、笠松泰洋
空間:田根剛(DORELL.GHOTMEH.TANE / ARCHITECTS)
衣裳:宮前義之(ISSEY MIYAKE)
木工美術:近藤正樹
舞踊家:Noism1 & Noism2
俳優:奥野晃士、貴島豪、たきいみき(SPAC ‒ 静岡県舞台芸術センター)
舞台監督:夏目雅也
舞台:中井尋央、高橋克也、川口眞人、尾﨑聡
照明デザイン:伊藤雅一(RYU)、金森穣
照明:伊藤雅一(RYU)、葭田野浩介(RYU)、伊藤英行
音響:佐藤哲郎
衣裳製作:ISSEY MIYAKE INC.
衣裳管理:山田志麻、居城地谷
トレーナー:國分義之(郡山健康科学専門学校)
テクニカルアドバイザー:關秀哉(RYU)
PR協力:市川靖子
特設サイト制作:ビークル・プラス
特設サイトインタビュー取材・執筆:尾上そら
写真撮影:遠藤龍
ビジュアルデザイン:阿部太一(GOKIGEN)
2016年7月10日日曜日
Camerata de Lausanne, Nagoya perfomance, (10th July 2016), review カメラータ-ドゥ-ローザンヌ 名古屋公演 評
2016年7月10日 日曜日
Sunday 10th July 2016
宗次ホール (愛知府名古屋市)
Munetsugu Hall (Kyoto, Japan)
曲目:
Johann Sebastian Bach: Concerto per due violini BWV1043
Дмитрий Дмитриевич Шостакович / Dmitrii Shostakovich: Due pezzi per ottetto d'archi, op. 11 (弦楽八重奏のための2つの小品)
Пётр Ильич Чайковский / Pyotr Ilyich Tchaikovsky: Сладкая греза op.39-21 (甘い夢)
Пётр Ильич Чайковский / Pyotr Ilyich Tchaikovsky: Waltz e Scherzo op.34
Пётр Ильич Чайковский / Pyotr Ilyich Tchaikovsky: Воспоминание о дорогом месте op.42 2.Scherzo, 3.Mélodie(なつかしい土地の思い出)
(休憩)
Пётр Ильич Чайковский / Pyotr Ilyich Tchaikovsky: Serenata per archi op.48
orchestra: Camerata de Lausanne
カメラータ-ドゥ-ローザンヌは2016年7月3日から11日までにかけて日本ツアーを行い、仙台で1公演、東京で3公演、神奈川県藤沢市で1公演、名古屋で1公演、計6公演が開催される。この評は、五番目の公演である名古屋公演に対してのものである。
弦楽配置は、舞台下手側から、第一ヴァイオリン→第二ヴァイオリン→ヴィオラ→ヴァイオリン-チェロのモダン配置で、コントラバスはチェロの後方につく。
着席位置は二階正面後方上手側、観客の入りは、7割程か。同じ時刻で名フィルの演奏会があり、観客が割れてしまったか?観客の鑑賞態度は、概ね良好であったが、僅かに拍手とブラヴォーが早かったように思える。スピーカーのスウィッチを切り忘れたような音が終始響いていたのは残念だった。
男性は黒、女性は赤で統一された衣装で登場する。ピエール=アモイヤルの門下等の繋がりで結成されているからか、奏者は彼以外は若手に見える。
全般的に終始素晴らしい演奏であるが、ショスタコーヴィチのop.11、チャイコフスキーの弦楽セレナーデ、アンコールのニーノ=ロータが特に素晴らしい。
響きが若々しく、一方でニュアンスに富み、低弦も豊かに響いた。ショスタコーヴィチはヴィオラが豊かに鋭く響かせているのが効いている。ショスタコーヴィチが初期の作品からその天才ぶりを発揮したのが良く分かる。
その後のチャイコフスキーの小品集は、「甘い夢」でアンドレイ=バラーノフのソリスティックな、パガニーニ的テクニックの披露を聴けるのは楽しいけれど、ショスタコーヴィチがチャイコフスキーを馬鹿にしまくっていたのが良く分かってしまう選曲ではあると言っては、怒られるか?
しかし、後半の弦楽セレナーデは、同じチャイコフスキーとは思えないアプローチである。テンポは全般的に速めで、メリハリを付けた緊張感を絶やさない演奏だ。チャイコフスキーの甘い演奏が嫌いな人に聴かせたい演奏である。ヴィオラ・チェロが表に出る部分はしっかり聴かせてくれる。一方で、ニュアンスも豊かだ。テンポの揺らぎはバッチリ決めてくる。小技に効かせ方が絶妙である。第四楽章だったか、チェロが主旋律を弾いている際の、ヴァイオリンが音量を的確に調節したニュアンスの効果は絶大だった。正統派のチャイコフスキーではないのだろうけど、小技の掛け方がいい意味で職人的に絶妙に計算されているのだろう。本当に新鮮で面白いチャイコフスキーだ。絶賛するしかない。
アンコールは、J.S.バッハの「アリア」と、ニーノ=ロータの「弦楽のための協奏曲」から第四楽章である。ニーノ=ロータの作品は、あたかもショスタコーヴィチに対するアプローチで、ニーノ=ロータが映画音楽だけの作品家ではない、純音楽の作曲家として非凡な才覚を持っている事を認識させられる演奏である。奏者の若さが的確に導かれ、全員の才覚が花開く、傑出したニーノ=ロータであった。
Sunday 10th July 2016
宗次ホール (愛知府名古屋市)
Munetsugu Hall (Kyoto, Japan)
曲目:
Johann Sebastian Bach: Concerto per due violini BWV1043
Дмитрий Дмитриевич Шостакович / Dmitrii Shostakovich: Due pezzi per ottetto d'archi, op. 11 (弦楽八重奏のための2つの小品)
Пётр Ильич Чайковский / Pyotr Ilyich Tchaikovsky: Сладкая греза op.39-21 (甘い夢)
Пётр Ильич Чайковский / Pyotr Ilyich Tchaikovsky: Waltz e Scherzo op.34
Пётр Ильич Чайковский / Pyotr Ilyich Tchaikovsky: Воспоминание о дорогом месте op.42 2.Scherzo, 3.Mélodie(なつかしい土地の思い出)
(休憩)
Пётр Ильич Чайковский / Pyotr Ilyich Tchaikovsky: Serenata per archi op.48
orchestra: Camerata de Lausanne
カメラータ-ドゥ-ローザンヌは2016年7月3日から11日までにかけて日本ツアーを行い、仙台で1公演、東京で3公演、神奈川県藤沢市で1公演、名古屋で1公演、計6公演が開催される。この評は、五番目の公演である名古屋公演に対してのものである。
弦楽配置は、舞台下手側から、第一ヴァイオリン→第二ヴァイオリン→ヴィオラ→ヴァイオリン-チェロのモダン配置で、コントラバスはチェロの後方につく。
着席位置は二階正面後方上手側、観客の入りは、7割程か。同じ時刻で名フィルの演奏会があり、観客が割れてしまったか?観客の鑑賞態度は、概ね良好であったが、僅かに拍手とブラヴォーが早かったように思える。スピーカーのスウィッチを切り忘れたような音が終始響いていたのは残念だった。
男性は黒、女性は赤で統一された衣装で登場する。ピエール=アモイヤルの門下等の繋がりで結成されているからか、奏者は彼以外は若手に見える。
全般的に終始素晴らしい演奏であるが、ショスタコーヴィチのop.11、チャイコフスキーの弦楽セレナーデ、アンコールのニーノ=ロータが特に素晴らしい。
響きが若々しく、一方でニュアンスに富み、低弦も豊かに響いた。ショスタコーヴィチはヴィオラが豊かに鋭く響かせているのが効いている。ショスタコーヴィチが初期の作品からその天才ぶりを発揮したのが良く分かる。
その後のチャイコフスキーの小品集は、「甘い夢」でアンドレイ=バラーノフのソリスティックな、パガニーニ的テクニックの披露を聴けるのは楽しいけれど、ショスタコーヴィチがチャイコフスキーを馬鹿にしまくっていたのが良く分かってしまう選曲ではあると言っては、怒られるか?
しかし、後半の弦楽セレナーデは、同じチャイコフスキーとは思えないアプローチである。テンポは全般的に速めで、メリハリを付けた緊張感を絶やさない演奏だ。チャイコフスキーの甘い演奏が嫌いな人に聴かせたい演奏である。ヴィオラ・チェロが表に出る部分はしっかり聴かせてくれる。一方で、ニュアンスも豊かだ。テンポの揺らぎはバッチリ決めてくる。小技に効かせ方が絶妙である。第四楽章だったか、チェロが主旋律を弾いている際の、ヴァイオリンが音量を的確に調節したニュアンスの効果は絶大だった。正統派のチャイコフスキーではないのだろうけど、小技の掛け方がいい意味で職人的に絶妙に計算されているのだろう。本当に新鮮で面白いチャイコフスキーだ。絶賛するしかない。
アンコールは、J.S.バッハの「アリア」と、ニーノ=ロータの「弦楽のための協奏曲」から第四楽章である。ニーノ=ロータの作品は、あたかもショスタコーヴィチに対するアプローチで、ニーノ=ロータが映画音楽だけの作品家ではない、純音楽の作曲家として非凡な才覚を持っている事を認識させられる演奏である。奏者の若さが的確に導かれ、全員の才覚が花開く、傑出したニーノ=ロータであった。
2016年7月9日土曜日
Михаи́л Васи́льевич Плетнёв / Mikhail Pletnev, recital, (9th July 2016), review ミハイル=プレトニョフ 豊田公演 評
2016年7月9日 土曜日
Saturday 9th July 2016
豊田市コンサートホール (愛知県豊田市)
Toyota City Concert Hall (Toyota, Aich, Japan)
曲目:
Johann Sebastian Bach (arr. Liszt Ferenc): Preludio e fuga BWV543/S.462-1
Edvard Hagerup Grieg: Sonata per pianoforte op.7
Edvard Hagerup Grieg: Ballade i form av variasjoner over en norsk folketone op.24 (ノルウェー民謡による変奏曲形式のバラード)
(休憩)
Wolfgang Amadeus Mozart: Sonata per pianoforte n.9 K.311
Wolfgang Amadeus Mozart: Sonata per pianoforte n.14 K.457
Wolfgang Amadeus Mozart: Sonata per pianoforte n.15(18) K.533/494
pianoforte: Михаи́л Васи́льевич Плетнёв / Mikhail Pletnev
ロシア連邦のピアニスト、ミハイル=プレトニョフは、2016年7月1日から9日に掛けて日本ツアーを実施し、リサイタルを、東京オペラシティコンサートホール「タケミツメモリアル」(東京)(2公演)、兵庫県立芸術文化センター(兵庫県西宮市)、青山音楽記念館(京都市)、東京文化会館(東京)、豊田市コンサートホール(愛知県豊田市)にて、計6公演開催する。プログラムは全て同一である。理想的な音響となる中小規模ホールでの公演は、青山音楽記念館と豊田市コンサートホールの二か所だけである。
この評は、日本ツアー千秋楽である7月9日豊田市コンサートホールでの公演に対する評である。
着席位置は正面やや前方上手側、観客の入りは7割弱か。観客の鑑賞態度は、概ね良好だったが、肝腎な箇所でノイズが入る場面もあった。
プレトニョフのピアノは、構成がよく考えられており、正統派の路線で攻めている。ピアノは SHIGERU KAWAI を用いている。強奏部がストレートに響くと言うよりは、独特な透明感で来るような印象を持つ。大規模ホール独特では向かないかもしれない。
グリークにしてもモーツァルトにしても、プレトニョフによる深い分析を経て決定された響きで、観客に示されるように思える。モーツァルトには「軽やかさ」の要素は希薄で、その分、プレトニョフの神経を通わせた要素が入り込んでいたのかと。
わずかにグリークの方が、プレトニョフとの相性は良かったか。
アンコールは、リストの「愛の夢」と「小人の踊り」であった。
Saturday 9th July 2016
豊田市コンサートホール (愛知県豊田市)
Toyota City Concert Hall (Toyota, Aich, Japan)
曲目:
Johann Sebastian Bach (arr. Liszt Ferenc): Preludio e fuga BWV543/S.462-1
Edvard Hagerup Grieg: Sonata per pianoforte op.7
Edvard Hagerup Grieg: Ballade i form av variasjoner over en norsk folketone op.24 (ノルウェー民謡による変奏曲形式のバラード)
(休憩)
Wolfgang Amadeus Mozart: Sonata per pianoforte n.9 K.311
Wolfgang Amadeus Mozart: Sonata per pianoforte n.14 K.457
Wolfgang Amadeus Mozart: Sonata per pianoforte n.15(18) K.533/494
pianoforte: Михаи́л Васи́льевич Плетнёв / Mikhail Pletnev
ロシア連邦のピアニスト、ミハイル=プレトニョフは、2016年7月1日から9日に掛けて日本ツアーを実施し、リサイタルを、東京オペラシティコンサートホール「タケミツメモリアル」(東京)(2公演)、兵庫県立芸術文化センター(兵庫県西宮市)、青山音楽記念館(京都市)、東京文化会館(東京)、豊田市コンサートホール(愛知県豊田市)にて、計6公演開催する。プログラムは全て同一である。理想的な音響となる中小規模ホールでの公演は、青山音楽記念館と豊田市コンサートホールの二か所だけである。
この評は、日本ツアー千秋楽である7月9日豊田市コンサートホールでの公演に対する評である。
着席位置は正面やや前方上手側、観客の入りは7割弱か。観客の鑑賞態度は、概ね良好だったが、肝腎な箇所でノイズが入る場面もあった。
プレトニョフのピアノは、構成がよく考えられており、正統派の路線で攻めている。ピアノは SHIGERU KAWAI を用いている。強奏部がストレートに響くと言うよりは、独特な透明感で来るような印象を持つ。大規模ホール独特では向かないかもしれない。
グリークにしてもモーツァルトにしても、プレトニョフによる深い分析を経て決定された響きで、観客に示されるように思える。モーツァルトには「軽やかさ」の要素は希薄で、その分、プレトニョフの神経を通わせた要素が入り込んでいたのかと。
わずかにグリークの方が、プレトニョフとの相性は良かったか。
アンコールは、リストの「愛の夢」と「小人の踊り」であった。
2016年7月2日土曜日
Kioi Sinfonietta Tokyo, Concert, (2nd July 2016), review 紀尾井シンフォニエッタ東京 豊田演奏会 評
2016年7月2日 土曜日
Saturday 2nd July 2016
豊田市コンサートホール (愛知県豊田市)
Toyota City Concert Hall (Toyota, Aich, Japan)
曲目:
Antonín Dvořák: Česká suita op.39 B.93
Wolfgang Amadeus Mozart: Concerto per corno e orchestra n.1 KV412 (movimenti 1 e 3)
(Movimento 2) Nino Rota: Andante sostenuto per il Concerto per Corno KV412 di Mozart (1959)
(休憩)
Ludwig van Beethoven: Sinfonia n.3 op.55
corno: Radek Baborák / ラデク=バボラーク
orchestra: Kioi Sinfonietta Tokyo(紀尾井シンフォニエッタ東京)
direttore: Radek Baborák / ラデク=バボラーク
紀尾井シンフォニエッタ東京(KST)は、ラデク=バボラークをソリスト・指揮者に迎えて、2016年7月2日に豊田市コンサートホールで、演奏会を開催した。本拠地である紀尾井ホールでは演奏されなかった。この演奏会が、「紀尾井シンフォニエッタ東京」の名での最後の演奏会となる。
管弦楽配置は、舞台下手側から、第一ヴァイオリン→第二ヴァイオリン→ヴィオラ→ヴァイオリン-チェロのモダン対向配置で、コントラバスはチェロの後方につく。木管パートは後方中央、ホルンは後方上手側、ティンパニ・トランペットは後方下手側の位置につく。金管・打楽器は、本拠地の紀尾井ホールでの公演とは逆の位置である。
着席位置は一階正面やや前方上手側、観客の入りは8割程で空席が目立つ。観客の鑑賞態度は、若干ノイズがあったものの、概ね良好であった。
本日のメンバーは、レギュラーメンバーではない奏者が多かったようにも思える。コンサート-ミストレスは野口千代光さんである。
本拠地ではないということもあり、響きの検討が生煮え状態と感じたり、オーボエの響きに「若さ」が感じられる箇所が無きにしも非ずで、バボラークのホルンももっと豊かな表現が可能かなと思える箇所もあったが、全般的には曲が進むに連れて馴染んだ感がある。
私に取っての好みの箇所は、モーツァルトのバボラークとオーボエのやり取り(第二楽章であり、ロータによる作曲部分)と、第三楽章に於けるバボラークの弱音を披露するソロの箇所である。
Beethoven の3番は、冒頭部分は宇野功芳の真似かと一瞬思えたほどの遅さで焦ったが、以下はマトモな解釈ではある。全般的に遅めのテンポで堂々とした演奏である。いつもとは違うメンバーと思われるホルンにもう少し頑張って欲しかった箇所があると思うのは欲張りか?
アンコールは、前半のバボラークのソリスト-アンコールは、彼自身の作曲による「アルペン-ファンタジー」、演奏会終了時のアンコールは、ドヴォルジャークの「我が母の教えたまいし歌」であった。
Saturday 2nd July 2016
豊田市コンサートホール (愛知県豊田市)
Toyota City Concert Hall (Toyota, Aich, Japan)
曲目:
Antonín Dvořák: Česká suita op.39 B.93
Wolfgang Amadeus Mozart: Concerto per corno e orchestra n.1 KV412 (movimenti 1 e 3)
(Movimento 2) Nino Rota: Andante sostenuto per il Concerto per Corno KV412 di Mozart (1959)
(休憩)
Ludwig van Beethoven: Sinfonia n.3 op.55
corno: Radek Baborák / ラデク=バボラーク
orchestra: Kioi Sinfonietta Tokyo(紀尾井シンフォニエッタ東京)
direttore: Radek Baborák / ラデク=バボラーク
紀尾井シンフォニエッタ東京(KST)は、ラデク=バボラークをソリスト・指揮者に迎えて、2016年7月2日に豊田市コンサートホールで、演奏会を開催した。本拠地である紀尾井ホールでは演奏されなかった。この演奏会が、「紀尾井シンフォニエッタ東京」の名での最後の演奏会となる。
管弦楽配置は、舞台下手側から、第一ヴァイオリン→第二ヴァイオリン→ヴィオラ→ヴァイオリン-チェロのモダン対向配置で、コントラバスはチェロの後方につく。木管パートは後方中央、ホルンは後方上手側、ティンパニ・トランペットは後方下手側の位置につく。金管・打楽器は、本拠地の紀尾井ホールでの公演とは逆の位置である。
着席位置は一階正面やや前方上手側、観客の入りは8割程で空席が目立つ。観客の鑑賞態度は、若干ノイズがあったものの、概ね良好であった。
本日のメンバーは、レギュラーメンバーではない奏者が多かったようにも思える。コンサート-ミストレスは野口千代光さんである。
本拠地ではないということもあり、響きの検討が生煮え状態と感じたり、オーボエの響きに「若さ」が感じられる箇所が無きにしも非ずで、バボラークのホルンももっと豊かな表現が可能かなと思える箇所もあったが、全般的には曲が進むに連れて馴染んだ感がある。
私に取っての好みの箇所は、モーツァルトのバボラークとオーボエのやり取り(第二楽章であり、ロータによる作曲部分)と、第三楽章に於けるバボラークの弱音を披露するソロの箇所である。
Beethoven の3番は、冒頭部分は宇野功芳の真似かと一瞬思えたほどの遅さで焦ったが、以下はマトモな解釈ではある。全般的に遅めのテンポで堂々とした演奏である。いつもとは違うメンバーと思われるホルンにもう少し頑張って欲しかった箇所があると思うのは欲張りか?
アンコールは、前半のバボラークのソリスト-アンコールは、彼自身の作曲による「アルペン-ファンタジー」、演奏会終了時のアンコールは、ドヴォルジャークの「我が母の教えたまいし歌」であった。
2016年6月18日土曜日
Kioi Sinfonietta Tokyo, the 105th Subscription Concert, review 第105回 紀尾井シンフォニエッタ東京 定期演奏会 評
2016年6月18日 土曜日
Saturday 18th June 2016
紀尾井ホール (東京)
Kioi Hall (Tokyo, Japan)
曲目:
Frank Bridge: Suite per orchestra d'archi (弦楽のための組曲)
Arvo Pärt: “Tabula Rasa”
(休憩)
Antonín Dvořák: Serenata per archi op.22 (弦楽セレナーデ)
violino: Антон Бараховский / Anton Barakhovsky / アントン=バラホフスキー
violino (solo Pärt): Людмила Миннибаева / Liudmila Minnibaeva / リュドミラ=ミンニバエヴァ
pianoforte preparato: 鷹羽弘晃 / Takaha Hiroaki
orchestra: Kioi Sinfonietta Tokyo(紀尾井シンフォニエッタ東京)
紀尾井シンフォニエッタ東京(KST)は、アントン=バラホフスキーをリーダーに、リュドミラ=ミンニバエヴァとをソリストに迎えて、2016年6月17日・18日に東京-紀尾井ホールで、第105回定期演奏会を開催した。アントンとリュドミラとは夫婦である。アントンはリーダーとペルト作品のソリスト、ミンニバエヴァはペルト作品のソリストを担当する。この評は、第二日目の公演に対してのものである。なお、この演奏会が「紀尾井シンフォニエッタ東京」の名による最後の本拠地公演である。
管弦楽配置は、舞台下手側から、第一ヴァイオリン→第二ヴァイオリン→ヴァイオリン-チェロ→ヴィオラのモダン配置で、コントラバスはチェロの後方につく。リュドミラ=ミンニバエヴァは、ペルト作品以外は第二ヴァイオリン首席の役を果たす。
着席位置は一階正面後方僅かに上手側、今回サボっている定期会員が見受けられた。。観客の鑑賞態度は、曲の最初の所で緊張感を欠いていたが、全般的には良好であった。
ダントツで“Tabula Rasa”が素晴らしい。ソリストの二人は2013年にハンブルク-バレエにて同じ作品のソリストとして演奏していることもあるのか、盤石の出来である。バックで支える管弦楽も、ソリストと見事に調和しており、ホールの響きとも完璧な相性である。劇場であるハンブルクでの公演よりも、はるかに高い水準の響きを実現出来たのは明らかであろう。
曲想が眠気を感じさせるものであるが、予めカフェをがぶ飲みしていた私には、夢みるような響きが続く時間である。全ての音符に対してよく考えられた響きが構成されている。ただただ美しい響きの裏には、必ず、完璧な構成があるのだなと思い知らせれる。
このような作品こそ、紀尾井ホールのような中規模ホールで演奏されて良かったと思う。演奏の見事さに観客が応えたかは、少し疑問が残ったが、攻めたプログラムは完璧な演奏で実現された。
アンコールは、マスカーニの「カヴァレリア=ルスティカーナ」から間奏曲であった。
Saturday 18th June 2016
紀尾井ホール (東京)
Kioi Hall (Tokyo, Japan)
曲目:
Frank Bridge: Suite per orchestra d'archi (弦楽のための組曲)
Arvo Pärt: “Tabula Rasa”
(休憩)
Antonín Dvořák: Serenata per archi op.22 (弦楽セレナーデ)
violino: Антон Бараховский / Anton Barakhovsky / アントン=バラホフスキー
violino (solo Pärt): Людмила Миннибаева / Liudmila Minnibaeva / リュドミラ=ミンニバエヴァ
pianoforte preparato: 鷹羽弘晃 / Takaha Hiroaki
orchestra: Kioi Sinfonietta Tokyo(紀尾井シンフォニエッタ東京)
紀尾井シンフォニエッタ東京(KST)は、アントン=バラホフスキーをリーダーに、リュドミラ=ミンニバエヴァとをソリストに迎えて、2016年6月17日・18日に東京-紀尾井ホールで、第105回定期演奏会を開催した。アントンとリュドミラとは夫婦である。アントンはリーダーとペルト作品のソリスト、ミンニバエヴァはペルト作品のソリストを担当する。この評は、第二日目の公演に対してのものである。なお、この演奏会が「紀尾井シンフォニエッタ東京」の名による最後の本拠地公演である。
管弦楽配置は、舞台下手側から、第一ヴァイオリン→第二ヴァイオリン→ヴァイオリン-チェロ→ヴィオラのモダン配置で、コントラバスはチェロの後方につく。リュドミラ=ミンニバエヴァは、ペルト作品以外は第二ヴァイオリン首席の役を果たす。
着席位置は一階正面後方僅かに上手側、今回サボっている定期会員が見受けられた。。観客の鑑賞態度は、曲の最初の所で緊張感を欠いていたが、全般的には良好であった。
ダントツで“Tabula Rasa”が素晴らしい。ソリストの二人は2013年にハンブルク-バレエにて同じ作品のソリストとして演奏していることもあるのか、盤石の出来である。バックで支える管弦楽も、ソリストと見事に調和しており、ホールの響きとも完璧な相性である。劇場であるハンブルクでの公演よりも、はるかに高い水準の響きを実現出来たのは明らかであろう。
曲想が眠気を感じさせるものであるが、予めカフェをがぶ飲みしていた私には、夢みるような響きが続く時間である。全ての音符に対してよく考えられた響きが構成されている。ただただ美しい響きの裏には、必ず、完璧な構成があるのだなと思い知らせれる。
このような作品こそ、紀尾井ホールのような中規模ホールで演奏されて良かったと思う。演奏の見事さに観客が応えたかは、少し疑問が残ったが、攻めたプログラムは完璧な演奏で実現された。
アンコールは、マスカーニの「カヴァレリア=ルスティカーナ」から間奏曲であった。
2016年6月5日日曜日
Hilary Hahn + Cory Smythe, recital, (5th June 2016), review ヒラリー=ハーン + コリー=スマイス 松本公演 評
2016年6月5日 日曜日
Sunday 5th June 2016
松本市音楽文化ホール (長野県松本市)
The Harmony Hall (Matsumoto Municipal Concert Hall) (Matsumoto, Japan)
曲目:
Wolfgang Amadeus Mozart: Sonata per violino e pianoforte n.27 K.379
Johann Sebastian Bach: Sonata per violino solo n.3 BWV1005
(休憩)
Antón García Abril: ‘Seis Partitas’ 2. 'Immensity', 3.'Love'(「6つのパルティータ」から 2.「無限の広がり」、3.「愛」)
Aaron Copland: Sonata per violino e pianoforte
Tina Davidson: ‘Blue Curve of the Earth’ (「地上の青い曲線」(27のアンコールピースより))
violino: Hilary Hahn
pianoforte: Cory Smythe
ヒラリー=ハーンは、2016年6月4日から12日に掛けて、コリー=スマイスとともにリサイタルを、ファリアホール(横浜市)、松本市音楽文化ホール(長野県松本市)、東京文化会館(東京)、東京オペラシティコンサートホール「タケミツメモリアル」(東京)、愛知県芸術劇場(名古屋市)、兵庫県立芸術文化センター(兵庫県西宮市)、みなとみらいホール(横浜市)にて、計7公演行う。プログラムは全て同一である。理想的な音響となる中規模ホールでの公演は、フィリアホールと松本市音楽文化ホールの二か所だけである。
この評は、6月5日松本市音楽文化ホールでの公演に対する評である。
着席位置は後方正面中央、観客の入りは7割弱で空席が目立ったのは残念である。観客の鑑賞態度は、極めて良好だった。
全体的な白眉は、バッハ無伴奏のBWV1005である。息の長さを感じさせる遅めのテンポで、これ見よがしのギヤチェンジもなく、響きの鋭さを強調するものでもない。全ての音符の響きを完璧に考慮して構築させた演奏であると言ってしまえば、その通りなのだろうけど、弱めな響きでありながら、一音一音が説得力に満ちた演奏である。この696席の中規模ホールである、松本市音楽文化ホールだからこそ実現された名演であると言える。特に第二楽章後半からは、ホールの響きを完璧に味方につけ、霊感に満ちたと思わせる演奏である。
(私は、ヒラリーの真価を、客席数が2000席前後の大きなホールで味わう事は不可能だと思っている。バンバン大音量で鳴らすタイプの奏者ではないからだ。中小規模のホールでのリサイタルでこそ、最もヒラリーらしさを味わえるというのが、私の印象である)
後半のアブリルとコープランドは、少し鋭さを出してくるが、響きの豊かさを必ず伴わせる。もっとも、曲想上の問題でBWV1005を聴いた後だと、バッハの偉大さを感じさせてしまうのは、致し方ないところか。細川俊夫の 'Exstasis' 程の曲想の強さがないと、バッハに対抗する事は、なかなか難しいのかもしれない。
それでも、ピアノのコリー=スマイスとのコンビネーションは完璧だった。どのように客席に響くか、一音一音詳細に検討されているかのような、絶妙なバランスである。
アンコールは三曲あり、佐藤總明の「微風」、マーク=アントニー=ターネジの「ヒラリーのホーダウン」、マックス=リヒターの「慰撫」であった。マックス=リヒターで特に感じられる事であるが、同じ音符を刻むにしても、どうして一音一音が説得力を持つのかを考えさせられる演奏であった。
Sunday 5th June 2016
松本市音楽文化ホール (長野県松本市)
The Harmony Hall (Matsumoto Municipal Concert Hall) (Matsumoto, Japan)
曲目:
Wolfgang Amadeus Mozart: Sonata per violino e pianoforte n.27 K.379
Johann Sebastian Bach: Sonata per violino solo n.3 BWV1005
(休憩)
Antón García Abril: ‘Seis Partitas’ 2. 'Immensity', 3.'Love'(「6つのパルティータ」から 2.「無限の広がり」、3.「愛」)
Aaron Copland: Sonata per violino e pianoforte
Tina Davidson: ‘Blue Curve of the Earth’ (「地上の青い曲線」(27のアンコールピースより))
violino: Hilary Hahn
pianoforte: Cory Smythe
ヒラリー=ハーンは、2016年6月4日から12日に掛けて、コリー=スマイスとともにリサイタルを、ファリアホール(横浜市)、松本市音楽文化ホール(長野県松本市)、東京文化会館(東京)、東京オペラシティコンサートホール「タケミツメモリアル」(東京)、愛知県芸術劇場(名古屋市)、兵庫県立芸術文化センター(兵庫県西宮市)、みなとみらいホール(横浜市)にて、計7公演行う。プログラムは全て同一である。理想的な音響となる中規模ホールでの公演は、フィリアホールと松本市音楽文化ホールの二か所だけである。
この評は、6月5日松本市音楽文化ホールでの公演に対する評である。
着席位置は後方正面中央、観客の入りは7割弱で空席が目立ったのは残念である。観客の鑑賞態度は、極めて良好だった。
全体的な白眉は、バッハ無伴奏のBWV1005である。息の長さを感じさせる遅めのテンポで、これ見よがしのギヤチェンジもなく、響きの鋭さを強調するものでもない。全ての音符の響きを完璧に考慮して構築させた演奏であると言ってしまえば、その通りなのだろうけど、弱めな響きでありながら、一音一音が説得力に満ちた演奏である。この696席の中規模ホールである、松本市音楽文化ホールだからこそ実現された名演であると言える。特に第二楽章後半からは、ホールの響きを完璧に味方につけ、霊感に満ちたと思わせる演奏である。
(私は、ヒラリーの真価を、客席数が2000席前後の大きなホールで味わう事は不可能だと思っている。バンバン大音量で鳴らすタイプの奏者ではないからだ。中小規模のホールでのリサイタルでこそ、最もヒラリーらしさを味わえるというのが、私の印象である)
後半のアブリルとコープランドは、少し鋭さを出してくるが、響きの豊かさを必ず伴わせる。もっとも、曲想上の問題でBWV1005を聴いた後だと、バッハの偉大さを感じさせてしまうのは、致し方ないところか。細川俊夫の 'Exstasis' 程の曲想の強さがないと、バッハに対抗する事は、なかなか難しいのかもしれない。
それでも、ピアノのコリー=スマイスとのコンビネーションは完璧だった。どのように客席に響くか、一音一音詳細に検討されているかのような、絶妙なバランスである。
アンコールは三曲あり、佐藤總明の「微風」、マーク=アントニー=ターネジの「ヒラリーのホーダウン」、マックス=リヒターの「慰撫」であった。マックス=リヒターで特に感じられる事であるが、同じ音符を刻むにしても、どうして一音一音が説得力を持つのかを考えさせられる演奏であった。
2016年6月4日土曜日
Mito Chamber Orchestra, the 96th Subscription Concert, review 第96回 水戸室内管弦楽団 定期演奏会 評
2016年6月4日 土曜日
Saturday 4st June 2016
水戸芸術館 (茨城県水戸市)
Art Tower Mito, Concert Hall ATM (Mito, Japan)
曲目:
Franz Joseph Haydn: Sinfonia n.83 Hob.I-83 ‘La poule’ (めんどり)
Niccolò Paganini: Quartetto per Chitarra, Violino, Viola e Violoncello n.15
(休憩)
Max Bruch: ‘Kol Nidrei’ (コル=ニドライ)
Franz Peter Schubert: Sinfonia n.5 D485
viola: Юрий Абрамович Башмет / Yuri Bashmet
orchestra: Mito Chamber Orchestra(水戸室内管弦楽団)
direttore: Юрий Абрамович Башмет / Yuri Bashmet
水戸室内管弦楽団(MCO)は、ユーリ=バシュメットを指揮者兼ヴィオラ-ソリストに迎えて、2016年6月4日・5日に水戸芸術館で、第96回定期演奏会を開催する。この評は、第一日目の公演に対してのものである。
二曲目のパガニーニ、三曲目のブルッフは、ヴィオラと弦楽のために編曲されている。
管弦楽配置は、舞台下手側から、第一ヴァイオリン→第二ヴァイオリン→ヴィオラ→ヴァイオリン-チェロのモダン配置で、コントラバスはチェロの後方につく。管楽パートは後方中央の位置につく。
着席位置は一階正面後方わずかに上手側、観客の入りは、7割程か?。左右両翼及び背後席に空席が目立った。観客の鑑賞態度は、極めて良好だった。
コンサートマスター/ミストレスは、ハイドンは渡辺實和子、パガニーニは小栗まち絵、ブルッフとシューベルトは豊嶋泰嗣が担当した。
ハイドンは、かなり真面目な解釈である。
パガニーニは、原曲をロシア人(モスクワ-ソロイスツのバラショフとカッツによる)が編曲したものであるからか、ヴィオラの哀愁漂う音色もあって、「白鳥の湖」第二幕を観劇しているかの雰囲気になる。カラッとした明るい雰囲気はなく、ジェノヴァ生まれの作曲家の原曲とはとても思えない。少なくとも編曲後は、あまり技巧面は表に出て来ない。原曲の雰囲気とは異なるのだろうか?
バシュメットのヴィオラは、基本的に弱めであるがその割りに通る響きであり、大規模ホールで聴かせる感じではない。水戸芸術館で聴けて良かったという感じである。第二楽章以降は、バシュメットのヴィオラがかなり響き始め、独特の哀愁漂う響きで魅了される。
管弦楽は、どこでどのように振る舞うべきか完璧に把握しており、バシュメットを立てるべき箇所では的確に支えると同時に、管弦楽が出るべき箇所では、曲全体を踏まえて良く考えられた形で自己主張を強めてくる。ソリストと管弦楽との音色の差があり、その対比が面白い。
最後のシューベルトD485は、全般的にかなりロマン派のような演奏である。鋭い響きで惹きつける事はせず、遅めのテンポの中でニュアンスをつける形態である。
私は、この曲はメリハリをつけまくった速めのテンポが好みであるが、この好みとは対照的でありながら、説得力のある演奏である。特に第二楽章をあの遅さでありながら、緊張感を失わずに観客の耳を集中させるMCOの演奏は、これは本当に見事なものだ。ヴィヴィッドな路線とは正反対のものであるが、このような演奏であれば、夢を見ているような心地で聴く事が出来る。
アンコールはなかった。
Saturday 4st June 2016
水戸芸術館 (茨城県水戸市)
Art Tower Mito, Concert Hall ATM (Mito, Japan)
曲目:
Franz Joseph Haydn: Sinfonia n.83 Hob.I-83 ‘La poule’ (めんどり)
Niccolò Paganini: Quartetto per Chitarra, Violino, Viola e Violoncello n.15
(休憩)
Max Bruch: ‘Kol Nidrei’ (コル=ニドライ)
Franz Peter Schubert: Sinfonia n.5 D485
viola: Юрий Абрамович Башмет / Yuri Bashmet
orchestra: Mito Chamber Orchestra(水戸室内管弦楽団)
direttore: Юрий Абрамович Башмет / Yuri Bashmet
水戸室内管弦楽団(MCO)は、ユーリ=バシュメットを指揮者兼ヴィオラ-ソリストに迎えて、2016年6月4日・5日に水戸芸術館で、第96回定期演奏会を開催する。この評は、第一日目の公演に対してのものである。
二曲目のパガニーニ、三曲目のブルッフは、ヴィオラと弦楽のために編曲されている。
管弦楽配置は、舞台下手側から、第一ヴァイオリン→第二ヴァイオリン→ヴィオラ→ヴァイオリン-チェロのモダン配置で、コントラバスはチェロの後方につく。管楽パートは後方中央の位置につく。
着席位置は一階正面後方わずかに上手側、観客の入りは、7割程か?。左右両翼及び背後席に空席が目立った。観客の鑑賞態度は、極めて良好だった。
コンサートマスター/ミストレスは、ハイドンは渡辺實和子、パガニーニは小栗まち絵、ブルッフとシューベルトは豊嶋泰嗣が担当した。
ハイドンは、かなり真面目な解釈である。
パガニーニは、原曲をロシア人(モスクワ-ソロイスツのバラショフとカッツによる)が編曲したものであるからか、ヴィオラの哀愁漂う音色もあって、「白鳥の湖」第二幕を観劇しているかの雰囲気になる。カラッとした明るい雰囲気はなく、ジェノヴァ生まれの作曲家の原曲とはとても思えない。少なくとも編曲後は、あまり技巧面は表に出て来ない。原曲の雰囲気とは異なるのだろうか?
バシュメットのヴィオラは、基本的に弱めであるがその割りに通る響きであり、大規模ホールで聴かせる感じではない。水戸芸術館で聴けて良かったという感じである。第二楽章以降は、バシュメットのヴィオラがかなり響き始め、独特の哀愁漂う響きで魅了される。
管弦楽は、どこでどのように振る舞うべきか完璧に把握しており、バシュメットを立てるべき箇所では的確に支えると同時に、管弦楽が出るべき箇所では、曲全体を踏まえて良く考えられた形で自己主張を強めてくる。ソリストと管弦楽との音色の差があり、その対比が面白い。
最後のシューベルトD485は、全般的にかなりロマン派のような演奏である。鋭い響きで惹きつける事はせず、遅めのテンポの中でニュアンスをつける形態である。
私は、この曲はメリハリをつけまくった速めのテンポが好みであるが、この好みとは対照的でありながら、説得力のある演奏である。特に第二楽章をあの遅さでありながら、緊張感を失わずに観客の耳を集中させるMCOの演奏は、これは本当に見事なものだ。ヴィヴィッドな路線とは正反対のものであるが、このような演奏であれば、夢を見ているような心地で聴く事が出来る。
アンコールはなかった。
2016年6月1日水曜日
Shoji Sayaka, recital, (1st June 2016), review 庄司紗矢香 無伴奏リサイタル 名古屋公演 評
2016年6月1日 水曜日
Wednesday 1st june 2016
電気文化会館コンサートホール (愛知県名古屋市)
Denki Bunka Kaikan Concert Hall (Nagoya, Japan)
曲目:
Johann Sebastian Bach (arr. Jean-Frédéric Neuburger): Fantasia e fuga BWV542
Bartók Béla: Sonata per violino solo Sz.117
(休憩)
Hosokawa Toshio / 細川俊夫: ‘Exstasis’ (脱自)
Johann Sebastian Bach: Partita per violino solo n.2 BWV 1004
violino: 庄司紗矢香 / Shoji Sayaka
庄司紗矢香は、2016年5月26日から6月7日に掛けて日本ツアーを行い、無伴奏リサイタルを、美深町文化会館(北海道中川郡美深町)、川口総合文化センター(埼玉県川口市)、神奈川県立音楽堂(横浜市)、北広島市芸術文化ホール(北海道北広島市)、電気文化会館(名古屋市)、JMSアステール-プラザ(広島市)、松江市総合文化センター(島根県松江市)、紀尾井ホール(東京)、計8箇所にて上演する。プログラムは全て同一である。
この評は、2016年6月1日電気文化会館の公演に対する評である。
着席位置はやや後方正面中央、チケットは完売した。観客の鑑賞態度は、概して極めて良好だった。
二曲目のバルトークは少し優しく聴こえる。三楽章・四楽章で、すりガラスのような音色を使っている箇所もある。響きはかなり豊かに響かせている。ピッチカートは敢えて尖らせていない感じがある。今日の席は後方で、残響が豊かに聴こえる事もあるのか。全般的に、響きの鋭さと言うよりは、響きの豊かさを追求した印象を持つ。その意味では、アリーナ=イブラギモヴァとは対照的かなあ。
圧巻なのは後半である。
後半の細川俊夫の新作 'Exstasis' とBWV1004との組み合わせは、言葉で言い表わすことが出来ない。Exstasisは巫女、BWV1004はただただ主と人とのお取りなし、あるいは、主と人との対話である。
細川俊夫の新作 'Exstasis' は、作曲の段階で、ヴァイオリンの擦弦楽器としての表現の限界を極めたと言える。庄司紗矢香は、作曲者の極めて高い期待を演奏面で傑出したレベルで実現する。ヴァイオリンの四本の弦で、これ程までの音色が出せるのかと、信じがたい気持ちになる。この演奏会の中で、最も鋭い響きを選択する箇所がある一方で、震えるような音色を聴くと、庄司紗矢香はまさに巫女になって脱自の状態にあったのではないか、と思えるような演奏である。
(本当にトランスしちゃったら演奏不能だと思うけど)それだけに、この巫女のような、トランス状態になって人間界から飛び出すような表現は、重い挑戦だったに相違ない。精神的な負担が大きい曲で、演奏出来る奏者は限られるだろう。技巧面・精神面、両面での卓越した強さが求められる。庄司紗矢香がどれだけの強さを持っていることか!
庄司紗矢香は、実演を聴けば誰でも分かる事であるが、 'Exstasis' の後にバッハのBWV1004を持ってくると言う暴挙を為した。こんな、技巧面でも精神面でもとてつもない強靭さを要するプログラムなど、誰がどう考えても無謀である。結論から言うとこの暴挙は大きな成果を持って成功したと断言出来る。トランスする世界から、主と人との対話の世界への移行であった。
BWV1004に於いて、庄司紗矢香は何か特別な技巧を示すことはしないし、「鋭い」表現を為した訳でもない。テンポは遅めである。彼女は明らかに、鋭さとか技巧の誇示と言ったものを求めなかった。と言うよりは、こんな世界の、人間界の世界の約束事など、どうでもよかったのだろう。
どう考えても、これは主と人との取りなしの場であった。全ての響きなりニュアンスがそのようであった。作為は不要であり、霊感だけがそこにあったと言える。このような表現はしたくはないが、「精神的な響き」と言うものがあるのだとすれば、まさしくこのような演奏こそ該当する。
なので、これはピリオド非ピリオドの様式面だとか、どんな技巧を使ったかとか、テンポの設定がどうであるとか、そんな指標であれこれ言うのでなしに、今そこにある響き、主と人との対話の刹那刹那を感じ取る演奏だ。
まあ、細川俊夫さんの 'Exstasis' でエクシタシーに達した状態でBMW1004を聴き出した私の頭がトランス状態で逝っちゃってただけだろう、って言う批判はあるかもしれない。
それにしたって、ではどうしてそのような暴挙とも言うべき後半のプログラムにしたのか?ワザワザそんなプログラミングをしたのには当然意図があるだろう。後半のプログラム全て、BWV1004を含めた全てが、 'Exstasis' 「脱自」であったのだ。どのように聴くのかは、もちろん観客の自由だけれども、この演奏会の後半は、身も心もエクシタシーに達してトランス状態になって聴くのが、観客にとって幸せな気持ちになれるのではないか。このように私は強く思う。
Wednesday 1st june 2016
電気文化会館コンサートホール (愛知県名古屋市)
Denki Bunka Kaikan Concert Hall (Nagoya, Japan)
曲目:
Johann Sebastian Bach (arr. Jean-Frédéric Neuburger): Fantasia e fuga BWV542
Bartók Béla: Sonata per violino solo Sz.117
(休憩)
Hosokawa Toshio / 細川俊夫: ‘Exstasis’ (脱自)
Johann Sebastian Bach: Partita per violino solo n.2 BWV 1004
violino: 庄司紗矢香 / Shoji Sayaka
庄司紗矢香は、2016年5月26日から6月7日に掛けて日本ツアーを行い、無伴奏リサイタルを、美深町文化会館(北海道中川郡美深町)、川口総合文化センター(埼玉県川口市)、神奈川県立音楽堂(横浜市)、北広島市芸術文化ホール(北海道北広島市)、電気文化会館(名古屋市)、JMSアステール-プラザ(広島市)、松江市総合文化センター(島根県松江市)、紀尾井ホール(東京)、計8箇所にて上演する。プログラムは全て同一である。
この評は、2016年6月1日電気文化会館の公演に対する評である。
着席位置はやや後方正面中央、チケットは完売した。観客の鑑賞態度は、概して極めて良好だった。
二曲目のバルトークは少し優しく聴こえる。三楽章・四楽章で、すりガラスのような音色を使っている箇所もある。響きはかなり豊かに響かせている。ピッチカートは敢えて尖らせていない感じがある。今日の席は後方で、残響が豊かに聴こえる事もあるのか。全般的に、響きの鋭さと言うよりは、響きの豊かさを追求した印象を持つ。その意味では、アリーナ=イブラギモヴァとは対照的かなあ。
圧巻なのは後半である。
後半の細川俊夫の新作 'Exstasis' とBWV1004との組み合わせは、言葉で言い表わすことが出来ない。Exstasisは巫女、BWV1004はただただ主と人とのお取りなし、あるいは、主と人との対話である。
細川俊夫の新作 'Exstasis' は、作曲の段階で、ヴァイオリンの擦弦楽器としての表現の限界を極めたと言える。庄司紗矢香は、作曲者の極めて高い期待を演奏面で傑出したレベルで実現する。ヴァイオリンの四本の弦で、これ程までの音色が出せるのかと、信じがたい気持ちになる。この演奏会の中で、最も鋭い響きを選択する箇所がある一方で、震えるような音色を聴くと、庄司紗矢香はまさに巫女になって脱自の状態にあったのではないか、と思えるような演奏である。
(本当にトランスしちゃったら演奏不能だと思うけど)それだけに、この巫女のような、トランス状態になって人間界から飛び出すような表現は、重い挑戦だったに相違ない。精神的な負担が大きい曲で、演奏出来る奏者は限られるだろう。技巧面・精神面、両面での卓越した強さが求められる。庄司紗矢香がどれだけの強さを持っていることか!
庄司紗矢香は、実演を聴けば誰でも分かる事であるが、 'Exstasis' の後にバッハのBWV1004を持ってくると言う暴挙を為した。こんな、技巧面でも精神面でもとてつもない強靭さを要するプログラムなど、誰がどう考えても無謀である。結論から言うとこの暴挙は大きな成果を持って成功したと断言出来る。トランスする世界から、主と人との対話の世界への移行であった。
BWV1004に於いて、庄司紗矢香は何か特別な技巧を示すことはしないし、「鋭い」表現を為した訳でもない。テンポは遅めである。彼女は明らかに、鋭さとか技巧の誇示と言ったものを求めなかった。と言うよりは、こんな世界の、人間界の世界の約束事など、どうでもよかったのだろう。
どう考えても、これは主と人との取りなしの場であった。全ての響きなりニュアンスがそのようであった。作為は不要であり、霊感だけがそこにあったと言える。このような表現はしたくはないが、「精神的な響き」と言うものがあるのだとすれば、まさしくこのような演奏こそ該当する。
なので、これはピリオド非ピリオドの様式面だとか、どんな技巧を使ったかとか、テンポの設定がどうであるとか、そんな指標であれこれ言うのでなしに、今そこにある響き、主と人との対話の刹那刹那を感じ取る演奏だ。
まあ、細川俊夫さんの 'Exstasis' でエクシタシーに達した状態でBMW1004を聴き出した私の頭がトランス状態で逝っちゃってただけだろう、って言う批判はあるかもしれない。
それにしたって、ではどうしてそのような暴挙とも言うべき後半のプログラムにしたのか?ワザワザそんなプログラミングをしたのには当然意図があるだろう。後半のプログラム全て、BWV1004を含めた全てが、 'Exstasis' 「脱自」であったのだ。どのように聴くのかは、もちろん観客の自由だけれども、この演奏会の後半は、身も心もエクシタシーに達してトランス状態になって聴くのが、観客にとって幸せな気持ちになれるのではないか。このように私は強く思う。
2016年5月21日土曜日
Nagoya Philharmonic Orchestra, the 435th Subscription Concert, review 第435回 名古屋フィルハーモニー交響楽団 定期演奏会 評
2016年5月21日 土曜日
Saturday 21st May 2016
愛知県芸術劇場コンサートホール (愛知県名古屋市)
Aichi Prefectural Art Theater Concert Hall (Nagoya, Japan)
曲目:
Дмитрий Дмитриевич Шостакович / Dmitrii Shostakovich: сюита из балета ‘Золотой век’ op.22 (Интродукция, Полька, Танец)(バレエ組曲「黄金時代」から「序奏」,「ポルカ」,「踊り」)
Альфре́д Га́рриевич Шни́тке / Alfred Schnittke : Concerto per viola e orchestra
(休憩)
Дмитрий Дмитриевич Шостакович / Dmitrii Shostakovich: Sinfonia n.6 op.54
viola: Andrea Burger (アンドレア=ブルガー)
orchestra: Nagoya Philharmonic Orchestra(名古屋フィルハーモニー交響楽団)
direttore: Дми́трий Ильи́ч Лисс / Dmitri Liss (指揮:ドミトリ=リス)
名古屋フィルハーモニー交響楽団は、スイス連邦生まれのアンドレア=ブルガー(ヴィオラ)をソリストに、ドミトリー=リスを指揮者に迎えて、2016年5月20日・21日に愛知県芸術劇場で、第435回定期演奏会を開催した。この評は、第二日目の公演に対してのものである。
今回のプログラムは、保守化した今シーズンのプログラムの中では例外的に良心的なもので、ドミトリー=ショスタコーヴィチのバレエ組曲と交響曲、シュニトケが1985年に作曲したヴィオラ協奏曲と、ロシアの近現代音楽から構成されている。今シーズンのプログラムの白眉であることは間違いない。
管弦楽配置は、舞台下手側から、第一ヴァイオリン→第二ヴァイオリン→ヴィオラ→ヴァイオリン-チェロのモダン配置で、コントラバスはチェロの上手方につく。木管パートは後方中央、ホルンは木管後方の中央に位置し、その後ろにティンパニがつく。他の金管は後方上手、ティンパニ以外の打楽器群が後方下手側につく。
なお、第二曲目のシュニトケ、ヴィオラ協奏曲はヴァイオリンは登場せず、そのスペースにチェンバロ・足踏みオルガン・ピアノ・ハープが置かれる。
着席位置は一階正面後方中央、客の入りは8割程であろうか、チケット完売には至らなかった。観客の鑑賞態度については、概ね良好だったものの、シュニトケのヴィオラ協奏曲にて、最後の音符を奏でた直後に余韻を壊すフライング拍手があったのは、同じ聴衆として極めて遺憾である。
今回は、総じて難曲揃いであるが、素晴らしい演奏だった。
第一曲目の「黄金時代」は、冒頭のフルートによる鋭い響きに引き寄せられる。弦が少し戸惑っているように感じられたが、曲の進行ともに管楽打楽と噛み合ってくる。
第二曲目のシュニトケによるヴィオラ協奏曲は、素人受けはしづらい曲想で、終始緊張感を要するが、ヴィオラ-ソリストのアンドレア=ブルガーはこの難曲を、1990年生まれの若手とは思えない程の完成度を持って演奏する。音量は問題ないし、この曲を理解した上で、ソロで攻めるべき箇所や他楽器との絡み合いの箇所を計算し、気を衒わない見事な正統派の演奏だ。一方で、名フィルの管弦楽も綺麗な弱奏でソリストを支えたり、管楽打楽で攻めるべき箇所は攻めたりと、的確な演奏である。にしても、現代音楽なのに、チェンバロとヴィオラ-ソロとの組み合わせで聴かせるポイントがあるのは意外だ。
後半はショスタコーヴィチの交響曲第6番。管楽打楽の聴きどころでしっかり決めてくるし、弦楽も負けずに響かせるし、弦管打、それに愛知県芸術劇場コンサートホールの音響全てが見事に絡みあった完璧な演奏だ。
何よりも、一番長大な第一楽章が素晴らしいのが効いている。下手すると眠気を誘いそうな楽想であるが、天井やオルガンを見上げてウットリしているうちに終わっちゃった感じである。リスの的確な構成力が緊張感を持続させ、管弦楽がこれに応えて、ソリスティックな聴きどころを担当する管楽打楽が決まりまくったからか。
いつものように、この曲も予習せずに初聴で臨んだが、第一楽章で秘かにイイなと思った箇所は、低弦の弱奏に支えられて第一フルートがずっと奏でているところに、第二フルートが鳥の鳴き声のように入ってくるところ。Beethovenの第6交響曲「田園」を意識しているのか?まあ、多分違うと思うけど・・・。
それにしてもこれ程までの内容でショスタコーヴィチを演奏してしまうのだから、間も無く実施される愛知芸文の改修工事時期を外して、年間プログラムをショスタコーヴィチだけで構成することもできるだろうとも思う。無謀承知の発言であるが。
名フィルはトップの指揮者がマーティン=ブラビンズから交代した事により、プログラムが保守化した。中日新聞社放送芸能部の某記者すら自らの責務を放棄して、この保守化に与したが、しかしこの第435回定期演奏会は例外的に挑戦的なプログラムで攻めた、最も良心的な演目だった。こういったプログラムを演奏し紹介し、観客を啓蒙するのは、管弦楽団の重要な社会的責務であるし、聴衆の立場からも応えないといけないと、私は思っている。
観客は、現在自分の好きな音楽を聴きたがるもの、専門知識を有し提起する力がある、その地域の管弦楽団が啓蒙しなければ、観客も管弦楽団も、その地域の文化も進歩しない。このようなプログラムは、これからも比率を増やして継続されるよう、要望したい。
Saturday 21st May 2016
愛知県芸術劇場コンサートホール (愛知県名古屋市)
Aichi Prefectural Art Theater Concert Hall (Nagoya, Japan)
曲目:
Дмитрий Дмитриевич Шостакович / Dmitrii Shostakovich: сюита из балета ‘Золотой век’ op.22 (Интродукция, Полька, Танец)(バレエ組曲「黄金時代」から「序奏」,「ポルカ」,「踊り」)
Альфре́д Га́рриевич Шни́тке / Alfred Schnittke : Concerto per viola e orchestra
(休憩)
Дмитрий Дмитриевич Шостакович / Dmitrii Shostakovich: Sinfonia n.6 op.54
viola: Andrea Burger (アンドレア=ブルガー)
orchestra: Nagoya Philharmonic Orchestra(名古屋フィルハーモニー交響楽団)
direttore: Дми́трий Ильи́ч Лисс / Dmitri Liss (指揮:ドミトリ=リス)
名古屋フィルハーモニー交響楽団は、スイス連邦生まれのアンドレア=ブルガー(ヴィオラ)をソリストに、ドミトリー=リスを指揮者に迎えて、2016年5月20日・21日に愛知県芸術劇場で、第435回定期演奏会を開催した。この評は、第二日目の公演に対してのものである。
今回のプログラムは、保守化した今シーズンのプログラムの中では例外的に良心的なもので、ドミトリー=ショスタコーヴィチのバレエ組曲と交響曲、シュニトケが1985年に作曲したヴィオラ協奏曲と、ロシアの近現代音楽から構成されている。今シーズンのプログラムの白眉であることは間違いない。
管弦楽配置は、舞台下手側から、第一ヴァイオリン→第二ヴァイオリン→ヴィオラ→ヴァイオリン-チェロのモダン配置で、コントラバスはチェロの上手方につく。木管パートは後方中央、ホルンは木管後方の中央に位置し、その後ろにティンパニがつく。他の金管は後方上手、ティンパニ以外の打楽器群が後方下手側につく。
なお、第二曲目のシュニトケ、ヴィオラ協奏曲はヴァイオリンは登場せず、そのスペースにチェンバロ・足踏みオルガン・ピアノ・ハープが置かれる。
着席位置は一階正面後方中央、客の入りは8割程であろうか、チケット完売には至らなかった。観客の鑑賞態度については、概ね良好だったものの、シュニトケのヴィオラ協奏曲にて、最後の音符を奏でた直後に余韻を壊すフライング拍手があったのは、同じ聴衆として極めて遺憾である。
今回は、総じて難曲揃いであるが、素晴らしい演奏だった。
第一曲目の「黄金時代」は、冒頭のフルートによる鋭い響きに引き寄せられる。弦が少し戸惑っているように感じられたが、曲の進行ともに管楽打楽と噛み合ってくる。
第二曲目のシュニトケによるヴィオラ協奏曲は、素人受けはしづらい曲想で、終始緊張感を要するが、ヴィオラ-ソリストのアンドレア=ブルガーはこの難曲を、1990年生まれの若手とは思えない程の完成度を持って演奏する。音量は問題ないし、この曲を理解した上で、ソロで攻めるべき箇所や他楽器との絡み合いの箇所を計算し、気を衒わない見事な正統派の演奏だ。一方で、名フィルの管弦楽も綺麗な弱奏でソリストを支えたり、管楽打楽で攻めるべき箇所は攻めたりと、的確な演奏である。にしても、現代音楽なのに、チェンバロとヴィオラ-ソロとの組み合わせで聴かせるポイントがあるのは意外だ。
後半はショスタコーヴィチの交響曲第6番。管楽打楽の聴きどころでしっかり決めてくるし、弦楽も負けずに響かせるし、弦管打、それに愛知県芸術劇場コンサートホールの音響全てが見事に絡みあった完璧な演奏だ。
何よりも、一番長大な第一楽章が素晴らしいのが効いている。下手すると眠気を誘いそうな楽想であるが、天井やオルガンを見上げてウットリしているうちに終わっちゃった感じである。リスの的確な構成力が緊張感を持続させ、管弦楽がこれに応えて、ソリスティックな聴きどころを担当する管楽打楽が決まりまくったからか。
いつものように、この曲も予習せずに初聴で臨んだが、第一楽章で秘かにイイなと思った箇所は、低弦の弱奏に支えられて第一フルートがずっと奏でているところに、第二フルートが鳥の鳴き声のように入ってくるところ。Beethovenの第6交響曲「田園」を意識しているのか?まあ、多分違うと思うけど・・・。
それにしてもこれ程までの内容でショスタコーヴィチを演奏してしまうのだから、間も無く実施される愛知芸文の改修工事時期を外して、年間プログラムをショスタコーヴィチだけで構成することもできるだろうとも思う。無謀承知の発言であるが。
名フィルはトップの指揮者がマーティン=ブラビンズから交代した事により、プログラムが保守化した。中日新聞社放送芸能部の某記者すら自らの責務を放棄して、この保守化に与したが、しかしこの第435回定期演奏会は例外的に挑戦的なプログラムで攻めた、最も良心的な演目だった。こういったプログラムを演奏し紹介し、観客を啓蒙するのは、管弦楽団の重要な社会的責務であるし、聴衆の立場からも応えないといけないと、私は思っている。
観客は、現在自分の好きな音楽を聴きたがるもの、専門知識を有し提起する力がある、その地域の管弦楽団が啓蒙しなければ、観客も管弦楽団も、その地域の文化も進歩しない。このようなプログラムは、これからも比率を増やして継続されるよう、要望したい。
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