2013年2月24日日曜日

イングリット=フリッター リサイタル 評

2013年2月24日 日曜日
ふれあい福寿会館 サラマンカホール (岐阜県岐阜市)

曲目:
ルートヴィッヒ=ファン=ベートーフェン ピアノ-ソナタ第17番「テンペスト」 op.31-2
フレデリック=ショパン ノクターン第8番 op.27-2
フレデリック=ショパン ワルツ第1番 op.18「華麗なる大ワルツ」
フレデリック=ショパン ワルツ第19番
フレデリック=ショパン バラード第4番
(休憩)
ルートヴィッヒ=ファン-ベートーフェン ピアノ-ソナタ第23番「熱情」 op.57

ピアノ:イングリット=フリッター

イングリット=フリッターはアルヘンティーナ(アルゼンチン)、ブエノスアイレス生まれのピアニストである。彼女の公式ウェブサイトその他の情報よると、今回の来日公演は、2月24日の岐阜公演が唯一のリサイタル、他に2月28日・3月1日、大阪フィルハーモニー交響楽団にて準-メルクルの指揮によりシューマンのピアノ協奏曲を演奏するのみとなっており、希少な演奏会となる。マルタ=アルゲリッチと同郷の彼女がどのような演奏を見せるか、注目のリサイタルとなる。

なーんて書いたが、ある日ふとサラマンカホールのウェブサイトをみて、南米出身のピアニストが来るという理由だけで行くことを決断した。南米出身とは物好きな・・・、とは言われそうであるが、マルタ=アルゲリッチ→ブルーノ=レオナルド=ゲルバーと続く系譜を見れば、決して南米は西洋古典音楽の「辺境」ではない。アルヘンティーナからは離れるが、ヴェネズエラの「エル-システマ」や「シモン=ボリバル-ユース-オーケストラ-オブ-ヴェネズエラ」の存在を考えても、南米は西洋古典音楽の密かな一大根拠地である。カスティージャ語を話す人たちの音楽はなかなか聴けないし、興味本位、あるいは怖いもの見たさの動機もあって、岐阜に行く事とした。

彼女の独特のお辞儀から、演奏会は始まる。腰を後ろずらし、頭を膝の高さまで下げるお辞儀だ。体の柔らかさをアピールしているかのようにも見える。ピアノの椅子を音を立てて位置を調整し、髪や体に触れてから、ピアノを弾き始める。

「テンペスト」は、まあごく普通に始まる。第一楽章は普通の出来、第二楽章は若干退屈気味である。しかしながら第三楽章でイングリットはサンタ-チェチーリアとの交信に成功したのか、霊感に満ちた演奏となる。そのままの調子でショパンになだれ込む。

「テンペスト」第三楽章からショパンの四曲までに関しては、非常に多くの側面を観客に見せる。これを説明する事はちょっと難しい。南米出身となると「情熱」を連想させるが、彼女の演奏は「情感」を込めた優しい演奏だ。と見せかけて置きながら、急にアッチェレラントを掛けて激しくパッションを出したりもする。とても興に乗っていた演奏である。サンタ-チェチーリアとの交信を開始してからのイングリットは、その多彩な姿で観客を魅了していく。

休憩後の「熱情」は、どちらかと言うとパッションを前面に出した激しい演奏になる。休憩によって、サンタ-チェチーリアとの交信が途絶えてしまわないか心配したが、間もなくその懸念は解消した。700名規模のサラマンカホールの音響も素晴らしく、この音響も巧く引き出した演奏である。

「熱情」が終わった後のイングリットの表情は、演奏開始前とは打って変わってとても上機嫌である。アンコールは三つ用意してある。にっこり笑って「ショパン」と言ったら拍手をさせずに「子犬のワルツ」、ノリノリの快演だ。二曲目のアンコールはアルヘンティーナの作曲家、アルベルト=ヒナステラの「三つのアルヘンティーナ舞曲集」より第一曲、現代音楽にも対応できるだけのテクニックは持っている事が分かる素晴らしい演奏である。三曲目はショパンに戻って「ノクターン」op.9-3で、観客の心を落ち着かせて、演奏会を終える。

期待以上の素晴らしい演奏会である。一言では説明しがたい多面的な姿を繰り出すイングリット=フリッター、サンタ-チェチーリアとの交信回路さえ確保すれば、最強のピアニストだ。マルタ=アルゲリッチ、ブルーノ=レオナルド=ゲルバーともいつの間にか70歳代になってしまい、年齢的な限界が近づいてきている中で、イングリットは今年40歳だ。南米からの新たな世代のピアニストを見出すことができて、とてもうれしい。

2013年2月23日土曜日

NHK交響楽団 横浜公演 評

2013年2月23日 土曜日
横浜みなとみらいホール (神奈川県横浜市)

曲目:
リスト=フェレンツ 交響詩「前奏曲」 S.97/R.414
リスト=フェレンツ ピアノ協奏曲第1番 S.124/R.455
 (休憩)
シャルル=カミーユ=サン-サーンス 交響曲第3番 「オルガン付き」op.78

ピアノ:ヘルベルト=シュフ
オルガン:新山恵理
管弦楽:NHK交響楽団
指揮:準=メルクル

NHK交響楽団は、2013年2月20日から2月24日までにわたり、準=メルクルを指揮者に迎え、東京で二公演、横浜・名古屋で各一公演、同じ曲目にて演奏会を開催する。東京での二公演は第1750回NHK交響楽団定期演奏会として既に開催された。この評は、第三回目、2月23日に開催された横浜公演に対してのものである。

「前奏曲」が始まる。前日にグルノーブル-ルーブル宮音楽隊(MDLG)の演奏会を聴いたせいか、大管弦楽の精度と言うものはこの程度のものなのだなと、やはりどうしても思ってしまう。ミンコフスキとMDLGは罪深い♪

それでも、この「前奏曲」からして響きに色彩感が溢れているのはなぜだろう。何も知らずに聴いてみると、フランスの管弦楽団かと勘違いしてしまう程の色彩感だ。さすがは日本を代表するN響の力なのか、それともメルクル-マジックであるのか。

二曲目のピアノ協奏曲である。独奏はヘルベルト=シュフ。ピアノはまずは若干弱めで始まるが、シュフはだんだん興に乗り始め、即興的な危険な演奏を繰り広げていく。崩壊するかしないかのギリギリの線を攻めていき、大柄な体格だけど繊細そうな見掛け通りの、儚く危うい魅力に溢れた演奏だ。まさに天才肌の演奏である。この演奏を支えたメルクル+N響も素晴らしい。

シュフのアンコール曲は、リストの「ラ-カンパネラ」。どうも東京公演とは違ったアンコールだったようだ。ソロ演奏となって誰にも配慮する必要がなくなった事もあり、さらに危険度を増した峻烈な演奏だ。こういった危険な演奏をするピアニストは、私が知る限り日本人ではいないのだよなあ。

休憩後の三曲目、いよいよ「オルガン付き」である。横浜みなとみらいホールのオルガンは、米国マサチューセッツ州に本拠を置くC.B.フィスク社製である。この2013年に立教大学新座キャンパス聖パウロ礼拝堂に二台目のオルガンが導入されるまでは、日本で唯一のC.B.フィスク社のオルガンだ。歴史の浅い米国のオルガンは、どのような音がするのだろう。

第一部後半からオルガンが登場する。オルガンの響きは管弦楽と溶け合わせるようなアプローチを取っている。よってオルガンの音量は控えめであるが、フィスク社のオルガンの音色は極めて柔らかく、私の涙腺を共鳴させるものだ。この音色は反則である。泣き出しそうになるのを必死にこらえる。六日前の福井で、鈴木雅明の奴がシュッケ社のオルガンを硬質な響きで大きく響かせたのを思い出して、これとは対照的な柔らかな響きにちょっと感極まってしまったのだ。

歴史の浅い米国で、まるでオーストリアで制作されたかのような柔らかな響きを実現してしまった事に驚愕とさせられる。

一方、管弦楽も冒頭から精緻な演奏が始まる。オルガンのみを売り物とする演奏でなく、管弦楽自体が表現力がさらに増した演奏だ。管弦楽とオルガンとが対立的ではなく、あたかも一心同体のような響きになるよう、計算された見事な演奏である。

準=メルクルの指揮はエネルギッシュではあるがとても明晰な指揮をする。ミンコフスキにしろメルクルにしろ、完成度の高い演奏を仕掛ける指揮者の棒さばきは、無駄がない。

二月の土曜日に、必ず横浜みなとみらいホールに来るという偉業(?)は達成された。当面、みなとみらいに行く予定はない。この二月の演奏会に、なぜか幽霊は出なかったのはどうしてだろう。奏者の三メートル左から音が聞こえてくる、怪奇現象が起こるホールのはずだったのだが。N響は、やはり本拠地以外で聴くのがいいのだなあ。

2013年2月22日金曜日

グルノーブル-ルーブル宮音楽隊 東京公演 評

2013年2月22日 金曜日
東京オペラシティ タケミツメモリアル (東京)

曲目:
クリストフ=ヴィリバルト=グルック 「タウリスのイフィゲニア」序曲(ヴァーグナー編曲版)
フランツ=シューベルト 交響曲第7(8)番 「未完成」 D759
 (休憩)
ヴォルグガング=アマデウス=モーツァルト ミサ曲 K427

ソプラノ1:ディッテ=アンデルセン・マリア=サバスターノ
ソプラノ2:ブランディーネ=スタスキエヴィッチ・ポリネ=サバティエ
アルト:メロディ=ルヴィオ・オウェン=ヴィレットゥ
テノール:コリン=バルザー・マーニュ=スタフェルラン
バス:シャルル=デカイサ・ルカ=ティットート

管弦楽:グルノーブル-ルーブル宮音楽隊
指揮:マルク=ミンコフスキ

グルノーブル-ルーブル宮音楽隊(以下MDLG)は2013年2月22日・25日に東京で2公演、26日に金沢で1公演行う。この評は、2月22日東京オペラシティ タケミツメモリアルでの公演に対してのものである。

管弦楽は左右対向配置であり、弦楽は舞台下手から第一ヴァイオリン→ヴィオラ→ヴァイオリン-チェロ→第二ヴァイオリンと前方に並んでいる。コントラバスは舞台正面後方であり、他の弦楽パートと離れた異例の配置である。第一ヴァイオリンの数は10人であり、大管弦楽とは言い難いが、室内管弦楽よりは大きな規模である。その中間に位置する規模になるのだろうか。

第一曲目の「タウリスのイフィゲニア」序曲から、MDLGは飛ばし始める。ミンコフスキの意図を完璧に実現する。この「完璧」と言うのはまさしく「完璧」であり、ミンコフスキ的、あるいはMDLG的な「完璧」さと同義のものである。響きの調和と言う点で、一体どこの管弦楽団がこれほどまでの「完璧」さを実現できるのだろう。日本に於ける最も水準の高い水戸室内管弦楽団ですら、このような「完璧」さを実現させる事はできない。ただただ非常に美しい。

第二曲目の「未完成」は、第一曲目での「完璧」さを見せつけられると、やはり不完全燃焼と言わざるを得ない。木管パートに固さが見られ、音抜けこそないが音程がやや不安定な部分が見受けられた。木管ソロパートで、二回繰り返す中の一回目がどうもうまくいっていない印象だ。それでも、金管パートの響きは完璧であったし、弦楽器パートの出来も良い。響きについての考慮は為されていたのだろうが、実現レベルで完璧とまでは言っていない感じである。ヴィーンでのシューベルト全曲演奏会の動画を見たときの印象で期待していると、外れとは言えるが、全ての曲目を同じレベルで完璧にこなすのは、やはりなかなか難しいのか。後半には大曲が控えていたし。

ここで前半のアンコールが入り、シューベルトの交響曲第3番から第四楽章である。ちょっと微妙な感じである。私の心の中では、アレグロは求めていたけどプレストは求めていない。まあいいか、メインは後半のミサ曲K427だ。

後半のミサ曲 K427では、配置が変わる。舞台正面後方にいた四人のコントラバスは、二手に分かれて第一ヴァイオリン・第二ヴァイオリンの後方に二人づつ、左右対向の形で置かれ、空いたコントラバスのスペースに10人の歌い手が位置する。10人の歌い手は、区切れ毎にその配列を変えていく。ソロ(または二~三人での)パートを歌う場合には、正面一歩前に出て歌う形である。

曲が進むにつれて、興奮度が増していく演奏である。最大の理由としては、10人の歌い手それぞれのレベルが全て高い事がある。たった10人しかいないのに、あの巨大なタケミツメモリアルを、東京オペラシンガーズが歌っているかのように響かせる。あるいは、森麻季の調子の良い時のレベルを10人全てが保っている形だ。もちろん、10人の中でも差はあるのだが、85歩100歩レベルの違いであり、全てが高いレベルのいる中での程度の差に過ぎない。欧州に於ける、歌い手のレベルの高さや層の厚さを改めて思い知らされる。

管弦楽も「未完成」の時のような未完成な出来では全くない。第一曲目の序曲のような完璧さが戻っている。その完璧さで持って10人の歌い手を盛り上げていく。ミンコフスキの指揮も何かを指示しているというよりは、もっと上に上がっていこう、一緒に天上の世界に上がっていこうと言ったような指揮だ。歌い手・管弦楽・指揮、三つにして一つなるものが天国に行きたいと強く願う。完璧さに熱狂が伴う。高き場所にある栄光に向けて、全てが上に向かい出す。

私はタケミツメモリアルの観客席にいるのだろうか、と何度も疑う。私自身が天上の世界に向けて浮遊しているかのような気持ちにさせられるのだ。

Et incarnatus estでは、ソプラノ独唱が真ん中ではなく、同じく舞台下手側に位置した木管の近くに位置する。このソプラノの歌い手はディッテ=アンデルセンであろうか。タケミツメモリアルの響きを完璧に捉え味方につけ、傑出した歌声を披露する。ミサ曲を聴いているはずなのに、私の心の中の情熱を抑えがたい衝動に駆られる。ミサ曲なのに、オペラを聴いているかのように興奮している自身に罪の意識を覚えつつも、この内なる熱狂は頂点に達する。

何と申し上げたらよいのだろう、このような演奏を聴けるのは五年に一回あればいい方であろうか。

アンコールは同じミサ曲から「クレド」の中から、10人の歌い手・MDLG・ミンコフスキの全員で演奏する。まさしく完璧なアンコールの選曲だった。その日の晩、私の心は熱狂に支配され、全く寝付けなかった。この演奏会に参加できた歓びは、言葉で言い尽くせない。Gloria in excelsis Deo!!

2013年2月17日日曜日

追加ラベル(バッハ-コレギウム-ジャパン 福井演奏会評 関連)

下記リンク先の投稿について、ラベル制限文字数超過のため、追加ラベル表示のための投稿。

http://ookiakira.blogspot.jp/2013/02/blog-post_17.html

バッハ-コレギウム-ジャパン 福井演奏会評

2013年2月17日 日曜日
福井県立音楽堂(ハーモニーホールふくい) (福井県福井市)

曲目:
全曲ヨハン=セバスチャン=バッハ作曲

前奏曲 BWV552/1
コラール「主イエズス=キリストよ、我らを顧みて」 BWV709
フーガ BWV552/2
管弦楽組曲 第3番 BWV 1068
(休憩)
カンタータ 第30番 「喜べ、贖われた者たちの群れよ」 BWV 30 より第2.3.4を除いた全て
カンタータ 第191番 「いと高きところには栄光神にあれ」 BWV 191

ソプラノ:ハナ=ブラシコヴァ
アルト(カウンターテノール):ロビン=ブレイズ
テノール:ゲルト=テュルク
バス:ペーター=コーイ

オルガン:鈴木雅明
合唱・管弦楽:バッハ-コレギウム-ジャパン(BCJ)
指揮:鈴木雅明

最初の三曲は、鈴木雅明のオルガン-ソロである。オルガンの出来は可もなく不可もなくと言った形だ。鈴木雅明は、最後を割と引っ張る演奏を行う。福井県立音楽堂は残響が豊かなホールであるはずなのだが、オルガンの残響はあまり良く計算されていないのか、すっと消える形となる。

福井県立音楽堂のオルガンに関して、鈴木雅明は2013年2月18日に下記のツイートを発している。参考までにURLを明記する。

https://twitter.com/quovadis166/status/303157478470860800
https://twitter.com/quovadis166/status/303158225975517184
https://twitter.com/quovadis166/status/303159319929704449
https://twitter.com/quovadis166/status/303160065869901825
https://twitter.com/quovadis166/status/303161376346624000

福井県立音楽堂のオルガンはドイツ、カール=シュッケ社のもので、5402本ものパイプを伴う立派なものであるが、それでも全てのオルガン奏者を満足させる事は難しいらしい。余程の策を講じなれば低い稼働率となるオルガンを設置する事が如何に難しいか、痛感させられる。

管弦楽組曲、第一楽章の入りが明瞭な響きでない。比較的良かったのは第二楽章である。トランペットが控え目過ぎてアクセントになっていない。チェンバロの音は配慮されていたが。全体的に、福井県立音楽堂の音響の良さを今ひとつ活かせていない。

休憩後のカンタータBWV30は、カウンターテナーのロビン-ブレイズのソロが良かった。レシタティーヴォのみであれば、ソプラノのハナ=ブラシコヴァの良い。

BWV191でも言えた事だが、何かアクセントをつけると言うよりは、溶け込ませる事を旨とした演奏であるように思う。私にとっては、あまり好みの演奏ではない。

アンコールは、ロ短調ミサ曲の終曲、「我らに平安を与えたまえ」であった。

写真は、福井県立音楽堂のオルガンと、その解説である。

2013年2月16日土曜日

諏訪内晶子・ピーテル=ヴィスペルウェイ・江口玲 演奏会評

2013年2月16日 土曜日
横浜みなとみらいホール (神奈川県横浜市)

曲目:
ヨハネス=ブラームス ピアノ-トリオ第1番 op.8
(休憩)
モーリス-ラヴェル ヴァイオリンとチェロのためのソナタ
フェリックス=メンデルスゾーン=バルトルディ ピアノ-トリオ第1番 op.49

ヴァイオリン:諏訪内晶子
ヴァイオリン-チェロ:ピーテル=ヴィスペルウェイ
ピアノ:江口玲

私の席:真ん中より上手側。

「国際音楽祭NIPPON」は諏訪内晶子を芸術監督としており、今年は横浜で3公演、仙台で1公演、開催される。この演奏会は、「国際音楽祭NIPPON」初年第三回目の演奏会となる。ヴァイオリン-チェロのピーテル=ヴィスペルウェイはネーデルラント王国ハールレム生まれの50歳、ピアノ奏者である江口玲も同じく50歳になったばかりで、諏訪内より九歳年上の世代となる。

全体的に完成度の高い演奏であり、どこで誰を際立たせるか、よく配慮された演奏会である。奇を衒う解釈はなく、自然な流れの演奏である。江口玲のピアノは控えめであるが、そのようなピアノでも表に出てくる場合は、他の二つの弦楽器が巧くサポートしている。

ブラームスは地味な曲ではあるが、フーガ、ユニゾンがきれいに決まっていて、この曲の魅力を引き出している。

最も面白い演奏はラヴェルである。ピアノを配慮する必要がないせいか、ヴァイオリンとチェロのデュオがパッションを剥き出しにしている。他の二曲が、様々な制約の下どのように弾いていくかをよく考えている演奏であるのに対し、そのような制約がないのか、より自由に躍動しているかのような演奏だ。巨大なみなとみらいホールにいるとは思えない程の力強い響きをも実現させていた。

なお、この演奏会はNHK BSプレミアムで日本時間2013年3月27日朝6時から放送された。

2013年2月9日土曜日

フィルハーモニア管弦楽団 横浜公演 演奏会評

2013年2月9日 土曜日
横浜みなとみらいホール (神奈川県横浜市)

曲目:
ルートヴィッヒ=ファン=ベートーフェン 劇付随音楽「シュテファン王」 op.117より 序曲
ジャン=シベリウス ヴァイオリン協奏曲op.47
(休憩)
ジャン=シベリウス 交響詩「ポホヨラの娘」 op.49
エサ-ペッカ=サロネン ヴァイオリン協奏曲

ヴァイオリン:諏訪内晶子
管弦楽:フィルハーモニア管弦楽団
指揮:エサ-ペッカ=サロネン

フィルハーモニア管弦楽団は、2013年2月に来日公演を行い、この演奏会は8公演あるうちの7番目の演奏会である。この演奏会は、「国際音楽祭NIPPON」の一環としてでも開催される。この音楽祭の芸術監督である諏訪内晶子は、ヴァイオリンのソリストとして二つの協奏曲に出演する。「国際音楽祭NIPPON」初年第二回目の演奏会であり、今年唯一の大管弦楽を伴う演奏会でもある。二曲目のヴァイオリン協奏曲は、エサ-ペッカ=サロネンの自作自演であり、日本における初演である。演奏順について、当初発表の予定から休憩前と後の曲目を入れ替えたものとなる。

管弦楽は左右対向配置ではなく、舞台下手側より第一ヴァイオリン→第二ヴァイオリン→ヴィオラ→チェロと、高弦から低弦に向け順番に下がる配置である。コントラバスはチェロの後ろ、舞台上手側に位置する。

当日の私の席は、ほぼ真ん中である。

第一曲目は「シュテファン王」である。フィルハーモニア管は予想以上にとても上手だ。木管のソロの部分も力強い響きを難なくこなしてしまう安心感がある。

第二曲目は、シベリウスのヴァイオリン協奏曲である。諏訪内晶子のヴァイオリンは、鋭さはやや封印して、ディテールを重視した、ややゆっくり目な演奏である。朗々と流れる響きを主眼にしているのだろう。テンポを一気に変化させる個所は、かなり絞った印象だ。管弦楽との関係は対抗的と言うよりは、むしろ協調的で一緒に音楽を作り上げていく方向性か。ナイフのような切れ味の鋭さや、崩壊寸前のスリリングな展開を求める向きには、やや物足りなさが残るかもしれないが、これはこれで良い。

フィルハーモニア管は、背景になるべきところと前面に出るところとのメリハリがはっきりして見事な演奏だ。ヴァイオリン-ソロが前面に出る部分は、諏訪内晶子のヴァイオリンが引き立つよう精密に音量を調節しており、一方で管弦楽が前面に出るところでは、みなとみらいホールの響きを味方につけながら全開のパワーで観客に迫ってくる。エサ-ペッカ=サロネンの的確な指示があったのか、フィルハーモニア管弦楽団員の職人的な自発性によるものなのか、おそらくその両方によるものだと思うが、協奏曲に対して理想的なアプローチの一つである。

休憩後の第三曲目は「ポホヨラの娘」、弦も木管も金管もパーカッションもとても上手で、完成度の高い惚れ惚れとする演奏である。

第四曲目の、エサ=ペッカ=サロネン自作自演のヴァイオリン協奏曲は、40分はあるのではないかと感じさせる、思った以上の大作である。当日プログラムを変更したのは、やはり当たりである。スタンダードの曲目であるシベリウスとは違い、諏訪内晶子にも譜面が用意される。

この曲は、ソロでの技巧的な部分が多く、多大なプレッシャーをヴァイオリン-ソロに与える曲かとは思うが、諏訪内晶子は、特に弱奏部こその緊迫感を要する部分が素晴らしい。ちょっとした不協和音をソロで弱めに奏でる部分は、浅田真央がトリプルアクセルを飛ぶどころではない、静かではあるが張り詰めたスリルを感じるが、諏訪内晶子は見事に決めていく。彼女の弱奏部は、どういう訳か弱くない。芯があるというか、凛としたものがあるというか、いずれも嘘ではないのだが、朗々としている響きでありながら冷たいナイフを首筋に当てられている時のような心拍の鼓動を覚える、そんな瞬間を味わえる演奏である。

講演記録 「エサ-ペッカ=サロネン 自作を語る」

2013年2月9日 土曜日
横浜みなとみらいホール (神奈川県横浜市)

ヴァイオリン:諏訪内晶子
管弦楽:フィルハーモニア管弦楽団
指揮:エサ-ペッカ=サロネン

フィルハーモニア管弦楽団横浜公演が2013年2月9日に開催されたが、その前にプレトークやらプレシンポジウムやら公開総稽古が実施された。

この公演自体が、「国際音楽祭NIPPON」の一環であり、この音楽祭の芸術監督である諏訪内晶子の強い意向があって開催されたものであろう。「現代音楽」をもっと大衆に広めたいとの意志が、諏訪内晶子の中にあることは間違いない。この公演で諏訪内晶子は、協奏曲のソロを二曲もやり、その内の一曲がエサ-ペッカ=サロネン作曲の「現代音楽」だ。極めてハードなプログラムであり、余程の意向がなければ、このような「無謀」なプログラムは組まないだろう。

この企画は、三部に分けて構成される。

第一部:エサ-ペッカ=サロネンによる単独の講演で、彼自身の「現代音楽」に対する見解及び、自作のヴァイオリン協奏曲の解説。

第二部:同じく現代音楽の作曲家である西村朗と、エサ-ペッカ=サロネンとの対談形式のシンポジウム

第三部:公開総稽古

以下、あくまで私の記憶の範囲であり、内容の正しさについては保証しない。誤った部分があれば指摘していただければ幸いである。

第一部.まずは、エサ-ペッカ=サロネンによる「現代音楽」に対する見解を述べる。作曲家の誰もが持つ願い・・・、自作が「永遠の音楽」になる願いを実現するために、これまで様々な作曲家が努力してきた。「現代音楽」家たちも「永遠の音楽」を実現させるため、「規則的なもの」「普遍的原理」があるのではないかと追及して来た。しかしながらその追求は「現代音楽」の要素以外の存在が否定され、その抑圧はスターリン時代に於けるソヴィエト連邦の音楽と本質的な性質は同じものであった。当然、「現代音楽」は行き詰った。「永遠の音楽」を実現させるための「規則的なもの」「普遍的原理」など存在しない。「永遠の音楽」を実現させるために必要なものは、「努力、努力、ひたすら努力あるのみ」とのこと。

その後、自作のヴァイオリン協奏曲についての解説となる。諏訪内晶子が登場し、あたかも映画の予告編のように、ヴァイオリン-ソロを弾いては、エサ-ペッカ=サロネンが解説するパターン。あまり語り過ぎない内容で、予習としては良い内容である。


第二部は、西村朗による基調講演っぽいちょっと長い独演から始まる。西村朗、話が巧いよなあ。作曲家だけでなく、講談師にもなれるし、大学教授にも即なれそうだ。話の掴みは、「永遠の音楽」を実現させるために、自身が作曲する前にまず「私は天才である」と唱えるとのこと。私が会場中で一番笑い過ぎていたかも知れない♪もちろん冗談だと思うけどね。ホントだったら、怖いと同時に面白過ぎだけど♪

で、西村朗の基調講演の内容は、以下のとおりである。「現代音楽」は破壊から始まった。ドイツのダルムシュタットを拠点として、まずはナチスドイツ=ドイツロマン派を破壊する活動を開始する。米国からの裏資金が出ていたとの噂もあり♪でもすぐ行き詰りを迎え、今度は「後退」を開始する。その「後退」は、これまでの足跡を踏まない、そのままの逆戻りするわけではない「後退」があり、現在に至る。一方で米国では「偶然性」を追求した結果、ピアノの蓋を開け閉めするだけの「4分33秒」にまで至る。

この後、エサ-ペッカ=サロネンとの対話の展開がある。「現代音楽」、どうせ一回演奏したくらいで観客が全部覚えられるはずがないから、観客を「引っかける」要素は必要だよね、などと、西村朗が発言しただなんて、そんな秘密はバラさないでおいてあげよう♪

シンポジウムでは、ピリオド派について下記の議論がなされていた。現在は音楽のフィールドが広がっている。世界中のいろんな地域から音楽が流通している。18世紀とは時代背景は全く違う。いまの人はマドンナを知っている。そのような中で、ピリオド楽器を用いたり、カツラを被って当時の格好を着用して、18世紀の音楽を単純に再現する意味はないとのこと。同じ理由で、アルフレット=ブレンデルが、ピリオド楽器ではなくモダン楽器を用いて演奏すると。

以下は私の意見である。なるほどね、エサ-ペッカ=サロネンは反ピリオド派ではないのだろうけど、非ピリオド派なのね。だから、ヴァイオリンパートの左右対向配置はやらないのだよね。ピリオド楽器を用いる事の意味は、私はあると思うけど。しかし、単純にピリオド楽器を用いるだけでは演奏する意味は全くない。ピリオド楽器であろうと、その演奏にパッションを込め、かつ適切な様式に沿って発露させなければならないのは、モダン楽器を用いる時と同じ。そうでなければ、ピリオド楽器による演奏を現代に甦らせることはできないし。


第三部は公開総稽古。まずは、諏訪内晶子付きで約1時間強。

この日私はホテルで眠れず、睡眠不足だったため、本番で覚醒させるために、故意に意識レベルを低下させていた。聴き過ぎるのも良くないので、寝ぼけながら聴いて置くのはその意味ではいいだろう。本番でなくてあくまで稽古、真面目に聴く必要はない。

やはり、エサ-ペッカ=サロネンのヴァイオリン協奏曲をメインに時間を取っている。第一楽章は通しで演奏しただけで、サロネンは満足の意を表明。他の楽章でちょこっと指示を出して細切れに演奏をしている。18列目辺りに座っているフィルハーモニア管の職員らしき者とサロネンとが会話しているのは、響きの確認であろうか。

シベリウスのヴァイオリン協奏曲は、二楽章と三楽章をさらっとおさらいしただけである。響きのバランスは、この時点で精密に取れている。既に他会場で演奏済みだからかな。

休憩後、諏訪内晶子抜きで管弦楽のみの総稽古を20分くらい。ほとんど修正点はなく、思い出し稽古のようなものか。

本番については、別稿を参照してほしい。

2013年2月2日土曜日

諏訪内晶子・レイフ=オヴェ=アンスネス 演奏会評

2013年2月2日 土曜日
横浜みなとみらいホール (神奈川県横浜市)

曲目:
フランツ=シューベルト ソナチネ第1番 D.384
バルトーク=ベーラ ヴァイオリン-ソナタ第2番 Sz.76
(休憩)
アントン=ヴェーベルン:ヴァイオリン&ピアノのための4つの小品 op.7
ルートヴィッヒ=ファン=ベートーフェン ヴァイオリン-ソナタ第9番「クロイツェル」 op.47

ヴァイオリン:諏訪内晶子
ピアノ:レイフ=オヴェ=アンスネス

「国際音楽祭NIPPON」は諏訪内晶子を芸術監督としており、今年は横浜で3公演、仙台で1公演、開催される。この演奏会は、「国際音楽祭NIPPON」初年初回の演奏会となる。ピアノ奏者であるアンスネスはノルゲ(ノルウェー)出身で1970年生まれ、1972年生まれの諏訪内より若干年上である。

第一曲目のシューベルトは、諏訪内晶子らしい朗々とした響きが限られており、この演奏会の行方を心配させる程である。

しかしながら、第二曲目のバルトークでその懸念は一掃され、会場の雰囲気は一変する。第三曲目のヴェーベルン、第四曲目のベートーフェンに於いても同じように準備は入念になされている。

2020名収容する巨大なホールであり、室内楽を演奏するに当たってどのような響きになるか不透明な部分があった。ヒラリー=ハーンのヴァイオリンは明らかに音量不足であったし(2012年6月2日演奏会評参照)、神尾真由子では確実にアウトである。しかしながら、何年か前に長野県松本文化会館での演奏会にて、ゲルギエフもロンドン交響楽団も無気力演奏をしていた中で、たった一人だけ気迫を込めた演奏を諏訪内晶子がしていたのを知っている私としては、多分大丈夫だろうとは思っていた。

やはり、みなとみらいホールが大き過ぎるとは感じられる所は部分部分にはある。600~800名規模の小さめなホールであれば、あらゆる音量に対しても、もっと的確な響きにコントロールする事が可能であるとは確実に言える。松本市音楽文化ホールや軽井沢大賀ホール・水戸芸術館が演奏会場であれば、完璧を期する事ができると感じられる部分はある。

しかしながら、強奏部と、逆に最弱奏部に於いては、みなとみらいホールを味方につける事に成功している。バルトークでは、ロマ音楽の影響を強く受けたのだろうなという部分が実感できるとともにパッションが十二分に込められた素晴らしい演奏である。

休憩後のヴェーベルンは、全曲で10分満たない小品であるが精密で丁寧な演奏である。

ベートーフェンもヴァイオリンが表に出てくるところ、ピアノが表に出てくるところ、二人で親密に合わせて演奏するところでどのように処理するか明確な演奏である。諏訪内晶子はヴァイオリンを朗々と響かせて観客の心を掴んでいくが、ピアノのアンスネスもピアノが表になるところでちょっとテンポと音量をひねって新鮮な印象を残していく。長く緩やかなアッチェレランド掛けて、いつの間にかテンポが速くなっていたり、ちょっと長めにゼネラルパウゼを掛けてテンポを遅く再設定したりするが、全く不自然なところがない。ベートーフェンの曲に新たな生命を吹き込みながらも、完成度を高く保った立派な演奏である。

アンコールは、ヤナーチェクのヴァイオリン-ソナタ、第2楽章であった。

写真(編注:facebookに掲載。このブログでは写真の掲載はしない方針です)は、「国際音楽祭NIPPON」のチラシの中にある、諏訪内晶子芸術監督によるご挨拶(的な文)。天下のトヨタ自動車を味方につけるとは、諏訪内晶子、偉くなったなあ♪ウェブサイト見ると、来年は名古屋でもやるみたい。そりゃ、トヨタ自動車がスポンサーでは、名古屋開催は不可避だな。それにしても第一回目の主会場を横浜としたのは、横浜駅前に本社を置く某自動車会社への宣戦布告??まあ、私としては「音楽祭」云々はどうでも良くて、どんな形態であれ良い演奏が聴ければいいし、トヨタ車を買うこともないかと思いますが、このような機会を設けるのに重要な役割を果たしてくれましたトヨタ自動車様には、ただただ感謝申し上げる次第であります♪♪