2014年8月26日 火曜日/ Tuesday 26th August 2014
まつもと市民芸術館 (長野県松本市)/ Matsumoto Performing Arts Centre (Matsumoto, Japan)
演目:
ジュゼッペ=ヴェルディ 歌劇「ファルスタッフ」 Giuseppe Verdi ‘Falstaff’
Sir John Falstaff: Quinn Kelsey (クイン=ケルシー)
Ford: Massimo Cavalletti (マッシモ=カヴァレッティ)
Fenton: Paolo Fanale (パオロ=ファナーレ)
Alice Ford: Maite Alberola (マイテ=アルベローラ)
Nanetta: Maureen McKay (モーリーン=マッケイ)
Dame Quickly: Jane Henschel (ジェーン=ヘンシェル)
Meg Page: Jamie Barton (ジャイミー=バートン)
Bardolpho: Keith Jameson (キース=ジェイムソン)
Pistola: David Soar (ディヴィッド=ソアー)
Dr. Caius: Raúl Giménez (ラウル=ヒメネス)
Chorus: Saito Kinen Festival Matsumoto Chorus 合唱:サイトウ-キネン-フェスティバル松本合唱団
Director: David Kneuss 演出:ディヴィッド=ニース
Set design & Costumes design: Robert Perdziola 装置・衣装:ロバート=ペルジオーラ
Lighting design: Rick Fisher 照明:リック=フィッシャー
Orchestra: Saito Kinen Orchestra 管弦楽:サイトウ-キネン-オーケストラ
Conductor: Fabio Luisi 指揮:ファビオ=ルイージ
今日も懲りずに「ファルスタッフ」を見に行きました。当日券売り場に行ったら、既に売られてはいたけれど、前方中央すら虫食い状に販売対象となっていた有り様です。メトロポリタン歌劇場で実績を上げた指揮者が来るのに、どうして売れないのか、私には信じられません。松本市民の一人として、松本の恥だと思います。ファビオ=ルイージ応援のために、松本市民の誇りを賭けて立ち上がり、気が付いたら歌劇場に突入した訳です♪
24日は12列ど真ん中(オケピットのため6列潰れるので、新国立劇場基準で言うと前から6列目)、今日は21列わずかに上手側(新国立劇場基準だと15列目)です。
まつもと市民芸術館は席によってかなり響きの差が大きいですね。12列目では歌唱が直撃しますが、後方21列目だと歌唱が減衰する一方で、管弦楽がバンバン響いてきます。新国立劇場以上にまつもと市民芸術館は一階席の勾配が急なので、ちょうど21列目は貴賓席に相当する場所になります。
24日の席よりは、管弦楽優位に聴こえました。特に第一幕では、クイン=ケルシーが24日と比べたら少し不調に思えたほどです。歌唱だけを聴きたいのであれば、前方の席が良さそうです。基本的に歌い手に関する感想は、24日の感想と同じです。
一方で管弦楽の音色を堪能できました。特に第二幕の偽フォンターナのソロの場面や第三幕での管弦楽の響きは、ファビオ=ルイージにより慎重に吟味され、的確に選択され、精緻に実行された美しいものでした。小澤征爾時代の暴走族としか言いようがなかった時には信じがたいほどの繊細さを持つもので、本当に弱奏が綺麗に響き渡っていました。サイトウ-キネンのオケの音色は、実に美しくなりました。もちろん、多少歌唱が細くてもしっかりと支える効果もあります。
やはり歌劇は、歌劇場でしっかりとキャリアを積んだ指揮者でなければだめなのだなあと、思い知らされました。ファビオ=ルイージ、万々歳です。
2014年8月26日火曜日
2014年8月24日日曜日
サイトウ-キネン-フェスティバル 歌劇「ファルスタッフ」 評 Saito Kinen Festival Matsumoto, Opera ‘Falstaff’
2014年8月24日 日曜日/ Sunday 24th August 2014
まつもと市民芸術館 (長野県松本市)/ Matsumoto Performing Arts Centre (Matsumoto, Japan)
演目:
ジュゼッペ=ヴェルディ 歌劇「ファルスタッフ」 Giuseppe Verdi ‘Falstaff’
Sir John Falstaff: Quinn Kelsey (クイン=ケルシー)
Ford: Massimo Cavalletti (マッシモ=カヴァレッティ)
Fenton: Paolo Fanale (パオロ=ファナーレ)
Alice Ford: Maite Alberola (マイテ=アルベローラ)
Nanetta: Maureen McKay (モーリーン=マッケイ)
Dame Quickly: Jane Henschel (ジェーン=ヘンシェル)
Meg Page: Jamie Barton (ジャイミー=バートン)
Bardolpho: Keith Jameson (キース=ジェイムソン)
Pistola: David Soar (ディヴィッド=ソアー)
Dr. Caius: Raúl Giménez (ラウル=ヒメネス)
Chorus: Saito Kinen Festival Matsumoto Chorus 合唱:サイトウ-キネン-フェスティバル松本合唱団
Director: David Kneuss 演出:ディヴィッド=ニース
Set design & Costumes design: Robert Perdziola 装置・衣装:ロバート=ペルジオーラ
Lighting design: Rick Fisher 照明:リック=フィッシャー
Orchestra: Saito Kinen Orchestra 管弦楽:サイトウ-キネン-オーケストラ
Conductor: Fabio Luisi 指揮:ファビオ=ルイージ
サイトウ-キネン-フェスティバル実行委員会は、2014年8月20日から8月26日までの日程で、ジュゼッペ=ヴェルディ歌劇「ファルスタッフ」を、まつもと市民芸術館にて4公演開催する。この評は2014年8月24日に催された第三回目の公演に対するものである。
着席位置は一階中央前方である。チケットは当日券発売をしている有り様で、サイトウ-キネン-フェスティバルが主催者も観客も小澤征爾頼みであることを反映している。小澤征爾が引退した時に、サイトウ-キネン-フェスティバルはなくなるだろう。観客の鑑賞態度は概ね良好であったが、一回だけ携帯電話が鳴っていた。特に致命傷となるような形ではなかったが。
休憩は、第二幕と第三幕の間のみの一回のみである。
舞台は伝統的なものであり、衣装を含めて前衛的な要素は何一つない、正統的なものだ。舞台で観客の目を眩ます事はせず、音のみで勝負する形態である。舞台の上に20cm程かさ上げし僅かに客席側に傾けた舞台を用いている。舞台の上に欧州の伝統的な歌劇場の額縁と舞台を乗せたような形となり、舞台の幅は狭くなり、高さも抑えられている。幕は額縁の中のみであるが、両左右角から引っ張る形の幕ではなく、単に上下に移動するだけの幕である。
ソリストの出来について述べる。
一番素晴らしいかったのは、文句なしにファルスタッフ役のクイン=ケルシーである。声量はホール中に大きく響き渡り、終始安定した歌唱である。出番は少ないが、ドクター-カイウス役のラウル=ヒメネスも素晴らしい。フォード役のマッシモ=カヴァレッティは、この二人程ではなかったが、それでも要所で確実に決めている。フェントン役のパオロ=ファナーレは、やや声量が少なめである。
女声については、全般的に男声より声量面では控えめであるが、それでも女性同士仲良く響きが合っている。アリーチェ役のマイテ=アルベローラが素晴らしい出来で、要所に於ける声量は十二分に余裕がある。ナンネッタ役のモーリーン=マッケイは大変可愛らしく、やや細めの声ではあるが、管弦楽のコントロールの助けもあり十分にホールに響いており、熟女役だらけの女性陣の中で爽やかな印象を与える事に成功している。クイックリー夫人役のジェーン=ヘンシェルは、やや不調気味である。
合唱の扱いは、かなり控えめに扱われていた。
管弦楽は極めて素晴らしい出来だ。歌い手を上手に引き立てつつ、ソリスティックな部分では的確に聴かせどころを決めていく。小澤征爾時代とは大違いだ。
小澤征爾は、歌い手と管弦楽との関連性について何も考えていなかった。歌い手に手抜きを許し、サイトウ-キネン暴走族とも言える管弦楽は放縦に任せていた。要するに、小澤征爾はオペラに対し無知だったし、無能だった。
これに対して、ファビオ=ルイージは十二分に準備を重ねてきた事が伺えた。歌い手を引き立たせるにはどうしたら良いか、一方で曲想に応じてどこで管弦楽を走らせるか、その選択は的確だった。第三幕で見せた弱奏の美しさ、良く聴くと実に「歌わせている」けどあまりに自然に扱われるテンポのうねり、フーガの扱いの見事さ、ある歌い手から別の歌い手への絶妙なバトンタッチ、要所で鋭さを見せる管弦楽の扱い、山田和樹によって初めて歌劇としての理想的な響きを手に入れた管弦楽は、ファビオ=ルイージによってその正しい路線を発展させたと言える。一つの歌劇を作り上げるのに当たって必要な、見事な統制力と構築力を、ファビオ=ルイージは見せつける。
歌い手が手抜きばかりしていた小澤征爾時代のサイトウ-キネンとは違い、歌い手のソリストは半数以上は十分に満足出来る歌唱であり、特に重要な役に関しては傑出した実力を発揮していた。管弦楽の扱いも巧みであり、どうしてファビオ=ルイージをもっと早く松本に登場されなかったのかと思わずにはいられなかった。
Viva! 'Fabio Luisi Matsumoto Festival' !!
ファビオ=ルイージ 松本フェスティバル、万歳!!
サイトウ-キネン-フェスティバル松本の名前を変えるのであれば、ファビオ=ルイージこそその名にふさわしいであろう。
まつもと市民芸術館 (長野県松本市)/ Matsumoto Performing Arts Centre (Matsumoto, Japan)
演目:
ジュゼッペ=ヴェルディ 歌劇「ファルスタッフ」 Giuseppe Verdi ‘Falstaff’
Sir John Falstaff: Quinn Kelsey (クイン=ケルシー)
Ford: Massimo Cavalletti (マッシモ=カヴァレッティ)
Fenton: Paolo Fanale (パオロ=ファナーレ)
Alice Ford: Maite Alberola (マイテ=アルベローラ)
Nanetta: Maureen McKay (モーリーン=マッケイ)
Dame Quickly: Jane Henschel (ジェーン=ヘンシェル)
Meg Page: Jamie Barton (ジャイミー=バートン)
Bardolpho: Keith Jameson (キース=ジェイムソン)
Pistola: David Soar (ディヴィッド=ソアー)
Dr. Caius: Raúl Giménez (ラウル=ヒメネス)
Chorus: Saito Kinen Festival Matsumoto Chorus 合唱:サイトウ-キネン-フェスティバル松本合唱団
Director: David Kneuss 演出:ディヴィッド=ニース
Set design & Costumes design: Robert Perdziola 装置・衣装:ロバート=ペルジオーラ
Lighting design: Rick Fisher 照明:リック=フィッシャー
Orchestra: Saito Kinen Orchestra 管弦楽:サイトウ-キネン-オーケストラ
Conductor: Fabio Luisi 指揮:ファビオ=ルイージ
サイトウ-キネン-フェスティバル実行委員会は、2014年8月20日から8月26日までの日程で、ジュゼッペ=ヴェルディ歌劇「ファルスタッフ」を、まつもと市民芸術館にて4公演開催する。この評は2014年8月24日に催された第三回目の公演に対するものである。
着席位置は一階中央前方である。チケットは当日券発売をしている有り様で、サイトウ-キネン-フェスティバルが主催者も観客も小澤征爾頼みであることを反映している。小澤征爾が引退した時に、サイトウ-キネン-フェスティバルはなくなるだろう。観客の鑑賞態度は概ね良好であったが、一回だけ携帯電話が鳴っていた。特に致命傷となるような形ではなかったが。
休憩は、第二幕と第三幕の間のみの一回のみである。
舞台は伝統的なものであり、衣装を含めて前衛的な要素は何一つない、正統的なものだ。舞台で観客の目を眩ます事はせず、音のみで勝負する形態である。舞台の上に20cm程かさ上げし僅かに客席側に傾けた舞台を用いている。舞台の上に欧州の伝統的な歌劇場の額縁と舞台を乗せたような形となり、舞台の幅は狭くなり、高さも抑えられている。幕は額縁の中のみであるが、両左右角から引っ張る形の幕ではなく、単に上下に移動するだけの幕である。
ソリストの出来について述べる。
一番素晴らしいかったのは、文句なしにファルスタッフ役のクイン=ケルシーである。声量はホール中に大きく響き渡り、終始安定した歌唱である。出番は少ないが、ドクター-カイウス役のラウル=ヒメネスも素晴らしい。フォード役のマッシモ=カヴァレッティは、この二人程ではなかったが、それでも要所で確実に決めている。フェントン役のパオロ=ファナーレは、やや声量が少なめである。
女声については、全般的に男声より声量面では控えめであるが、それでも女性同士仲良く響きが合っている。アリーチェ役のマイテ=アルベローラが素晴らしい出来で、要所に於ける声量は十二分に余裕がある。ナンネッタ役のモーリーン=マッケイは大変可愛らしく、やや細めの声ではあるが、管弦楽のコントロールの助けもあり十分にホールに響いており、熟女役だらけの女性陣の中で爽やかな印象を与える事に成功している。クイックリー夫人役のジェーン=ヘンシェルは、やや不調気味である。
合唱の扱いは、かなり控えめに扱われていた。
管弦楽は極めて素晴らしい出来だ。歌い手を上手に引き立てつつ、ソリスティックな部分では的確に聴かせどころを決めていく。小澤征爾時代とは大違いだ。
小澤征爾は、歌い手と管弦楽との関連性について何も考えていなかった。歌い手に手抜きを許し、サイトウ-キネン暴走族とも言える管弦楽は放縦に任せていた。要するに、小澤征爾はオペラに対し無知だったし、無能だった。
これに対して、ファビオ=ルイージは十二分に準備を重ねてきた事が伺えた。歌い手を引き立たせるにはどうしたら良いか、一方で曲想に応じてどこで管弦楽を走らせるか、その選択は的確だった。第三幕で見せた弱奏の美しさ、良く聴くと実に「歌わせている」けどあまりに自然に扱われるテンポのうねり、フーガの扱いの見事さ、ある歌い手から別の歌い手への絶妙なバトンタッチ、要所で鋭さを見せる管弦楽の扱い、山田和樹によって初めて歌劇としての理想的な響きを手に入れた管弦楽は、ファビオ=ルイージによってその正しい路線を発展させたと言える。一つの歌劇を作り上げるのに当たって必要な、見事な統制力と構築力を、ファビオ=ルイージは見せつける。
歌い手が手抜きばかりしていた小澤征爾時代のサイトウ-キネンとは違い、歌い手のソリストは半数以上は十分に満足出来る歌唱であり、特に重要な役に関しては傑出した実力を発揮していた。管弦楽の扱いも巧みであり、どうしてファビオ=ルイージをもっと早く松本に登場されなかったのかと思わずにはいられなかった。
Viva! 'Fabio Luisi Matsumoto Festival' !!
ファビオ=ルイージ 松本フェスティバル、万歳!!
サイトウ-キネン-フェスティバル松本の名前を変えるのであれば、ファビオ=ルイージこそその名にふさわしいであろう。
2014年8月23日土曜日
アルディッティ弦楽四重奏団 演奏会 評
2014年8月23日 土曜日
水戸芸術館 (茨城県水戸市)
曲目:
アルバン=ベルク:弦楽四重奏曲 op.3(1910)
ブライアン=ファーニホウ:弦楽四重奏曲 第3番(1987)
(休憩)
ハリソン=バートウィスル:弦楽四重奏曲〈弦の木〉(2007)
(休憩)
アルノルト=シェーンベルク:弦楽四重奏曲 第2番 op.10(1907-08)
ソプラノ:サラ=マリア=ズン(Sarah Maria Sun)
弦楽四重奏:アルディッティ弦楽四重奏団 (Arditti String Quartet)
アルディッティ弦楽四重奏団は、8月21日から8月26日に掛けて来日ツアーを行い、サントリーホール(東京)(1公演は東京交響楽団との共演、もう1公演はブルーローズでの演奏会)、水戸芸術館(水戸)、草津音楽の森国際コンサートホール(群馬県吾妻郡草津町)にて計4公演開始される。
水戸芸術館での演奏会では、最後のシェーンベルクのみソプラノにサラ=マリア=ズンが加わり、ボリジョイ六重奏団のような形態での演奏会となる。亡くなられた吉田秀和さんの後任とでもいうべき音楽評論家、片山杜秀の解説付きである。
全て現代曲または現代曲に準ずる曲目であり、かなり尖がっているプログラムである。どのような観点から観察するべきなのか、現代曲については良く分からないので、かなり簡単な感想じみたものとなってしまうが、総じて良かったのはホンマものの現代曲であるファーニホフとバートウィスルの曲目である。
何か合わせて演奏すると言うよりは、各自バラバラに演奏する事によって、各演奏者の個性が伺える。演奏者に穴はなく、全てが技術的に難しそうなフレーズを確実に弾きこなし、ニュアンスも精密に表現しきっている。残響が少なめな水戸芸術館の音響を考慮して、奏者自らが残響を作って豊かな響きをも実現している。今や眠くなるような演奏しか出来なくなって凋落したエマーソン弦楽四重奏団とは全く違い、作曲家と密接な関わりを持って演奏活動を続けて来たアルディッティ弦楽四重奏団は、いつまでもヴィヴィッドであり続けなければならない環境下にあったせいか、結成40周年を経ても勢いが削がれていないように思われる。極めて素晴らしい弦楽四重奏団である。
現代曲だからこそ、技術面や構成力、ニュアンスを重視していかなければならないのだと思い知らされる。20世紀初頭までのクラシック音楽と現代曲との関係は、クラシック-バレエとコンテンポラリー-ダンスとの関係に似ている。どちらが優れているとか高度な内容だとか言うものではなく、どちらもそれぞれの分野で求められている内容は違っているけれども高度であり、しかしどこか共通なものも求められているところが分かって面白い。
ソプラノのサラ=マリア=ズンの出来は、普通の出来か。いつでもモデル転向可能な程細くて、歌い手の中では最高の美女で、お目目の保養にピッタリだ。膨張色である白いドレスを着ていても、バレエダンサーかと思ってしまう程の体格である。肝心な歌声は、強声部は浮遊感があるが、弱声部については今一つ弦楽四重奏との調和が取りきれていない印象がある。室容積が少ない水戸芸術館であったら、もう少し精密に響かせる事も出来るようにも思える。
片山杜秀の解説はあってもなくても良かったが、邪魔にならない程の短さである。演奏者へのインタビューを中心としたもので、おどろおどろしい片山節はほんの僅かしかなかったため、これを期待していた人たちにとっては物足りなかったかもしれない♪
観客の入りは、中央はほぼ埋まっていたものの左右翼は合わせて30人ほどで、おそらく合計300人程と思われる。定員680名のホールで半分以下の入りではあるが、そもそも弦楽四重奏+現代音楽+地方都市と言った厳しい内容でありながら、これだけの観客を集めただけ凄いと言えるだろう。学芸員が充実しているからこその水戸芸術館ならではの企画で、地方都市でここまでの企画をぶち上げた事自体が称賛に値する。今後も、どこのホールでも実現していないこのような企画を続けていってほしいと、心から願っている。
水戸芸術館 (茨城県水戸市)
曲目:
アルバン=ベルク:弦楽四重奏曲 op.3(1910)
ブライアン=ファーニホウ:弦楽四重奏曲 第3番(1987)
(休憩)
ハリソン=バートウィスル:弦楽四重奏曲〈弦の木〉(2007)
(休憩)
アルノルト=シェーンベルク:弦楽四重奏曲 第2番 op.10(1907-08)
ソプラノ:サラ=マリア=ズン(Sarah Maria Sun)
弦楽四重奏:アルディッティ弦楽四重奏団 (Arditti String Quartet)
アルディッティ弦楽四重奏団は、8月21日から8月26日に掛けて来日ツアーを行い、サントリーホール(東京)(1公演は東京交響楽団との共演、もう1公演はブルーローズでの演奏会)、水戸芸術館(水戸)、草津音楽の森国際コンサートホール(群馬県吾妻郡草津町)にて計4公演開始される。
水戸芸術館での演奏会では、最後のシェーンベルクのみソプラノにサラ=マリア=ズンが加わり、ボリジョイ六重奏団のような形態での演奏会となる。亡くなられた吉田秀和さんの後任とでもいうべき音楽評論家、片山杜秀の解説付きである。
全て現代曲または現代曲に準ずる曲目であり、かなり尖がっているプログラムである。どのような観点から観察するべきなのか、現代曲については良く分からないので、かなり簡単な感想じみたものとなってしまうが、総じて良かったのはホンマものの現代曲であるファーニホフとバートウィスルの曲目である。
何か合わせて演奏すると言うよりは、各自バラバラに演奏する事によって、各演奏者の個性が伺える。演奏者に穴はなく、全てが技術的に難しそうなフレーズを確実に弾きこなし、ニュアンスも精密に表現しきっている。残響が少なめな水戸芸術館の音響を考慮して、奏者自らが残響を作って豊かな響きをも実現している。今や眠くなるような演奏しか出来なくなって凋落したエマーソン弦楽四重奏団とは全く違い、作曲家と密接な関わりを持って演奏活動を続けて来たアルディッティ弦楽四重奏団は、いつまでもヴィヴィッドであり続けなければならない環境下にあったせいか、結成40周年を経ても勢いが削がれていないように思われる。極めて素晴らしい弦楽四重奏団である。
現代曲だからこそ、技術面や構成力、ニュアンスを重視していかなければならないのだと思い知らされる。20世紀初頭までのクラシック音楽と現代曲との関係は、クラシック-バレエとコンテンポラリー-ダンスとの関係に似ている。どちらが優れているとか高度な内容だとか言うものではなく、どちらもそれぞれの分野で求められている内容は違っているけれども高度であり、しかしどこか共通なものも求められているところが分かって面白い。
ソプラノのサラ=マリア=ズンの出来は、普通の出来か。いつでもモデル転向可能な程細くて、歌い手の中では最高の美女で、お目目の保養にピッタリだ。膨張色である白いドレスを着ていても、バレエダンサーかと思ってしまう程の体格である。肝心な歌声は、強声部は浮遊感があるが、弱声部については今一つ弦楽四重奏との調和が取りきれていない印象がある。室容積が少ない水戸芸術館であったら、もう少し精密に響かせる事も出来るようにも思える。
片山杜秀の解説はあってもなくても良かったが、邪魔にならない程の短さである。演奏者へのインタビューを中心としたもので、おどろおどろしい片山節はほんの僅かしかなかったため、これを期待していた人たちにとっては物足りなかったかもしれない♪
観客の入りは、中央はほぼ埋まっていたものの左右翼は合わせて30人ほどで、おそらく合計300人程と思われる。定員680名のホールで半分以下の入りではあるが、そもそも弦楽四重奏+現代音楽+地方都市と言った厳しい内容でありながら、これだけの観客を集めただけ凄いと言えるだろう。学芸員が充実しているからこその水戸芸術館ならではの企画で、地方都市でここまでの企画をぶち上げた事自体が称賛に値する。今後も、どこのホールでも実現していないこのような企画を続けていってほしいと、心から願っている。
2014年8月16日土曜日
勅使川原三郎 「睡眠」Sleep 評 Teshigawara Saburo ‘Sleep’
2014年8月16日 土曜日 19:00~ / Saturday, 16 August 2014 19h00
東京芸術劇場 プレイハウス(東京)/ Tokyo Metropolitan Theatre(Tokyo, Japan) Playhouse
演者:
勅使川原三郎 (Teshigawara Saburo)
オーレリー=デュポン (Aurélie Dupont)
佐東利穂子 (Sato Rihoko)
鰐川枝里 (Wanikawa Eri)
加藤梨花 (Kato Rika)
構成・振り付け・美術・照明:勅使川原三郎 (Teshigawara Saburo)
勅使川原三郎が振り付けを行うコンテンポラリー-ダンス「睡眠」は、8月14日から23日までにかけて東京(東京芸術劇場 プレイハウス)にて5公演、名古屋(愛知県芸術劇場)にて1公演、兵庫県西宮市(兵庫県立芸術文化センター)にて1公演、計7公演に渡って繰り広げられる。これらの公演が世界初演となる。この投稿をしている段階で、まだ公演が残っており、ネタばれに注意されたい。
この評は、東京芸術劇場8月16日夜(19時00分開始)の公演に対するものである。
着席位置は一階ど真ん中から僅かに後方僅かに上手側である。左右後方・バルコニー席は空席がある状態であり、観客の入りは七割くらいであろうか。連続した咳のノイズがあったものの、観客の鑑賞態度は概ね良好であった。
全体的な印象として、コンテンポラリー-ダンスの身体表現の語彙がこれ程まであるとは思わず、驚愕するところがある。勅使川原三郎が60歳前後とは思えないほど激しく見える表現は、そう言った身体表現の語彙の豊かさに裏付けられている。もちろんクラシック-バレエの派手な大技は若さがいるのだろうけど、そういった大技を使わず、しかし小技を駆使しているとも全く感じさせず、自由自在な表現でかつ速い動きで魅了していく。
KARASの躍動感溢れる演技にも目を見張る。佐東利穂子、鰐川枝里、加藤梨花の躍動感は、出番の多寡はあれ、いずれも素晴らしいものだ。長時間のソロも存在感がある踊りで見事だ。ラストのソロも佐東利穂子がしっかりと決める。
正直に言うと、どちらかと言うとオーレリーの静的な演技よりも、彼女たちの動的な演技の方が楽しめた。このような発言を、パリ-オペラ座のエトワールに対してすると怒られそうだが(♪)、私の好みはそう言った激しい動きが好みなのだから、そのような感想にならざるを得ない。
照明・舞台装置は、総じて幾何学的で、直線的で、四角形的だ。曲線を描いた舞台装置は、後半に出てくる祭壇らしき物体の土台部分のみであり、他は全て直線である。
照明光は白色と電球色とを適宜用いたもので、その光線の指向性の扱い方が上手だ。照明が当たる場所は綿密に考えられていて、特に上からの光は四角形に当たるようになっており、その場所の選定やタイミングが絶妙である。前半部では、強い白色光を下手側から浴びせて、オーレリーの腕の動きに残像が残り軌跡が目に焼きつくようになっている(この効果がどうして生じたかについては謎である)し、後半部では、客席の電灯をごく僅かに点灯させる場面もあり、舞台との一体感をも感じさせられる。
吊り下げ物のバトン-テクニックも幾何学的で構成の綿密さが伺えた。適度な反射度を備えた透明なアクリル板、椅子、行灯凧の骨組みのようなもの、舞台上の物体は恐らく全てバトンに吊り下げられており、適宜上下させて舞台を区切ったり、アクリル板を回して灯台のように光を反射させたりする。特に後半部に見せるバトン-テクニックは、一斉に上下させたり、一定の時間差をもって幾何学的に上下させたりするところが実に効果的だ。もちろん、バトン-テクニック自体は電子計算機に入力して制御するものであるので、手作業の操作が見事だと言うわけではないが、そのようなバトン-テクニックをどの場面でどのように、どのタイミングでどのスピードで行うかの構成がよく考えられている。
舞踊を単に支える域の照明・舞台装置ではなく、双方ともが絶妙に噛み合った形で相乗効果を上げている。
全般的に難解な印象は感じさせず、動きの躍動感により純ダンス的な要素に注目させられるもので、その上に照明・舞台装置の妙もあり、これらは見事に統一体となって「睡眠」が作り上げられている。コンテンポラリー-ダンスの場合、いつも題名は公演が始まる前に頭の中から放り出して置くのが私の在り方であるが、今回は常に題名である「睡眠」を意識させられる点も面白い。
勅使川原作品を観劇したのは初めてであったが、ただただ魅了されたお盆休みの夜であった。
東京芸術劇場 プレイハウス(東京)/ Tokyo Metropolitan Theatre(Tokyo, Japan) Playhouse
演者:
勅使川原三郎 (Teshigawara Saburo)
オーレリー=デュポン (Aurélie Dupont)
佐東利穂子 (Sato Rihoko)
鰐川枝里 (Wanikawa Eri)
加藤梨花 (Kato Rika)
構成・振り付け・美術・照明:勅使川原三郎 (Teshigawara Saburo)
勅使川原三郎が振り付けを行うコンテンポラリー-ダンス「睡眠」は、8月14日から23日までにかけて東京(東京芸術劇場 プレイハウス)にて5公演、名古屋(愛知県芸術劇場)にて1公演、兵庫県西宮市(兵庫県立芸術文化センター)にて1公演、計7公演に渡って繰り広げられる。これらの公演が世界初演となる。この投稿をしている段階で、まだ公演が残っており、ネタばれに注意されたい。
この評は、東京芸術劇場8月16日夜(19時00分開始)の公演に対するものである。
着席位置は一階ど真ん中から僅かに後方僅かに上手側である。左右後方・バルコニー席は空席がある状態であり、観客の入りは七割くらいであろうか。連続した咳のノイズがあったものの、観客の鑑賞態度は概ね良好であった。
全体的な印象として、コンテンポラリー-ダンスの身体表現の語彙がこれ程まであるとは思わず、驚愕するところがある。勅使川原三郎が60歳前後とは思えないほど激しく見える表現は、そう言った身体表現の語彙の豊かさに裏付けられている。もちろんクラシック-バレエの派手な大技は若さがいるのだろうけど、そういった大技を使わず、しかし小技を駆使しているとも全く感じさせず、自由自在な表現でかつ速い動きで魅了していく。
KARASの躍動感溢れる演技にも目を見張る。佐東利穂子、鰐川枝里、加藤梨花の躍動感は、出番の多寡はあれ、いずれも素晴らしいものだ。長時間のソロも存在感がある踊りで見事だ。ラストのソロも佐東利穂子がしっかりと決める。
正直に言うと、どちらかと言うとオーレリーの静的な演技よりも、彼女たちの動的な演技の方が楽しめた。このような発言を、パリ-オペラ座のエトワールに対してすると怒られそうだが(♪)、私の好みはそう言った激しい動きが好みなのだから、そのような感想にならざるを得ない。
照明・舞台装置は、総じて幾何学的で、直線的で、四角形的だ。曲線を描いた舞台装置は、後半に出てくる祭壇らしき物体の土台部分のみであり、他は全て直線である。
照明光は白色と電球色とを適宜用いたもので、その光線の指向性の扱い方が上手だ。照明が当たる場所は綿密に考えられていて、特に上からの光は四角形に当たるようになっており、その場所の選定やタイミングが絶妙である。前半部では、強い白色光を下手側から浴びせて、オーレリーの腕の動きに残像が残り軌跡が目に焼きつくようになっている(この効果がどうして生じたかについては謎である)し、後半部では、客席の電灯をごく僅かに点灯させる場面もあり、舞台との一体感をも感じさせられる。
吊り下げ物のバトン-テクニックも幾何学的で構成の綿密さが伺えた。適度な反射度を備えた透明なアクリル板、椅子、行灯凧の骨組みのようなもの、舞台上の物体は恐らく全てバトンに吊り下げられており、適宜上下させて舞台を区切ったり、アクリル板を回して灯台のように光を反射させたりする。特に後半部に見せるバトン-テクニックは、一斉に上下させたり、一定の時間差をもって幾何学的に上下させたりするところが実に効果的だ。もちろん、バトン-テクニック自体は電子計算機に入力して制御するものであるので、手作業の操作が見事だと言うわけではないが、そのようなバトン-テクニックをどの場面でどのように、どのタイミングでどのスピードで行うかの構成がよく考えられている。
舞踊を単に支える域の照明・舞台装置ではなく、双方ともが絶妙に噛み合った形で相乗効果を上げている。
全般的に難解な印象は感じさせず、動きの躍動感により純ダンス的な要素に注目させられるもので、その上に照明・舞台装置の妙もあり、これらは見事に統一体となって「睡眠」が作り上げられている。コンテンポラリー-ダンスの場合、いつも題名は公演が始まる前に頭の中から放り出して置くのが私の在り方であるが、今回は常に題名である「睡眠」を意識させられる点も面白い。
勅使川原作品を観劇したのは初めてであったが、ただただ魅了されたお盆休みの夜であった。
2014年8月4日月曜日
「サイトウ-キネン-フェスティバル」の終わりの始まり
松本市民の一人として、「サイトウ-キネン-フェスティバル」の名称が来シーズンから「セイジ-オザワ松本フェスティバル」に変わる件については、冷笑的な態度しか取れない。まあ、勝手にしろと言ったところである。「実態通りになったね」とでも、皮肉の一つでも言っておこうか。
「サイトウ-キネン」にしろ「セイジ-オザワ」にしろ、小澤征爾が指揮台に立てなくなったところで、このフェスティバルは終わりだ。それでいいと思っている。
このフェスティバルは、主催する側にしろ観客にしろ、小澤征爾に全てを依存している。チケット発売日の、ファビオ=ルイージの歌劇と小澤征爾のプログラムとの列の差からして、観客の小澤征爾へのべったりぶりはあきれるほどのものであったし、1992年から開始してから22年間、小澤征爾の後継の核となる指揮者・監督を育ててくることもなかった。
サイトウ-キネンのオケが「田園」で無気力でつまらない演奏をしても、ブルックナーで金管のコントロールに大失敗した演奏をしていても、小澤征爾が指揮をしていると言うだけで観客はスタンディングオベーションを繰り広げる異常な雰囲気を見てきた。
歌劇は歌劇で、歌い手のソリストは手を抜いている事例が多すぎた。マトモに歌ったのは山田和樹が睨みを効かせて振った時くらいで(この時も小澤征爾が連れてきたイザベル=カラヤンは手を抜きやがった!この時ほどイザベル=カラヤンと小澤征爾に怒りを感じた時はなかった。あの二人がいなかったら、山田和樹の「ジャンヌダルク」は完璧な出来だったのだ!)、小澤征爾は概して、放置すれば暴走族と化す管弦楽のコントロールをロクにしていなかったし、歌劇の総監督としては無能と言える。リッカルド=ムーティの爪の垢でも煎じて飲めとでも言いたくなる。
室内楽も、まあ一定水準は保っているけど、ロバート=マンがいらっしゃった時の名演はもう期待できないだろう。
サイトウ-キネンにしろセイジ-オザワにしろ、このフェスティバルの終わりは近付いている。主催する側にしろ観客にしろ、無能な者が多かった。松本市民として観客として参加した私にとって、この事は恥としか言いようがない。
サイトウ-キネンよりも水戸室内管弦楽団の方がはるかに優秀だし(当然と言えば当然であるが)、ここ一年を除けば水戸は小澤征爾の依存度が少なかった。吉田秀和さんが亡くなられても、学芸員が充実しているし、水戸芸術館は上手くやっていけるだろう。この事と比較し、松本はどうだったのか?サイトウ-キネンに関わってきた者は(もちろん私を含めて)よくよく考え、どのようにこのフェスティバルを終わらせるかを考える時期に来ているのではないだろうか。
「サイトウ-キネン」にしろ「セイジ-オザワ」にしろ、小澤征爾が指揮台に立てなくなったところで、このフェスティバルは終わりだ。それでいいと思っている。
このフェスティバルは、主催する側にしろ観客にしろ、小澤征爾に全てを依存している。チケット発売日の、ファビオ=ルイージの歌劇と小澤征爾のプログラムとの列の差からして、観客の小澤征爾へのべったりぶりはあきれるほどのものであったし、1992年から開始してから22年間、小澤征爾の後継の核となる指揮者・監督を育ててくることもなかった。
サイトウ-キネンのオケが「田園」で無気力でつまらない演奏をしても、ブルックナーで金管のコントロールに大失敗した演奏をしていても、小澤征爾が指揮をしていると言うだけで観客はスタンディングオベーションを繰り広げる異常な雰囲気を見てきた。
歌劇は歌劇で、歌い手のソリストは手を抜いている事例が多すぎた。マトモに歌ったのは山田和樹が睨みを効かせて振った時くらいで(この時も小澤征爾が連れてきたイザベル=カラヤンは手を抜きやがった!この時ほどイザベル=カラヤンと小澤征爾に怒りを感じた時はなかった。あの二人がいなかったら、山田和樹の「ジャンヌダルク」は完璧な出来だったのだ!)、小澤征爾は概して、放置すれば暴走族と化す管弦楽のコントロールをロクにしていなかったし、歌劇の総監督としては無能と言える。リッカルド=ムーティの爪の垢でも煎じて飲めとでも言いたくなる。
室内楽も、まあ一定水準は保っているけど、ロバート=マンがいらっしゃった時の名演はもう期待できないだろう。
サイトウ-キネンにしろセイジ-オザワにしろ、このフェスティバルの終わりは近付いている。主催する側にしろ観客にしろ、無能な者が多かった。松本市民として観客として参加した私にとって、この事は恥としか言いようがない。
サイトウ-キネンよりも水戸室内管弦楽団の方がはるかに優秀だし(当然と言えば当然であるが)、ここ一年を除けば水戸は小澤征爾の依存度が少なかった。吉田秀和さんが亡くなられても、学芸員が充実しているし、水戸芸術館は上手くやっていけるだろう。この事と比較し、松本はどうだったのか?サイトウ-キネンに関わってきた者は(もちろん私を含めて)よくよく考え、どのようにこのフェスティバルを終わらせるかを考える時期に来ているのではないだろうか。
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