よく(特に「英国バレエ」ファンや、「英国バレエ」に拘りを持っている評論家たちが使う)「演技力」の概念を考えている。その役になるために「作り上げる」ことなのかなと考える。小野絢子さんに対して「絢子姫」と言う言葉がある通り、「姫」になり切るために「作り上げ」ている。木村優里りんもその系列かな?
他方、米沢唯ちゃんが「唯ちゃん」と言われるのは、舞台の上にいるのはその役と言うよりは「唯ちゃん」であるから。あたかも唯ちゃんがそこにいるかのように存在する。
唯ちゃんは「演じて」いるのだろうか?と思うくらいに、どの役のどの場面を現わす場合でも、リアルにそこに「唯ちゃん」がいる。
「ロメオとジュリエット」に於いて、ジュリエット役の唯ちゃんが乳母に対してイタズラを仕掛ける時、本当に日頃から仲のいい他ダンサーにイタズラ仕掛けているように思う。唯ちゃんはその時、何かを「加える」「味付けのソース」を掛けることは、多分考えていない。私には「演技力」と言うものは装飾に過ぎないと思っている。
(わる〜い女の美和りん(本島美和さん)が演じるような役のような、専ら「キャラクター」的要素で構成されている役であれば別だけど)通常バレエの「演技力」と言うものは、「踊り」の基盤の上にある「飾り」に過ぎない。
唯ちゃんほどになると、「飾り」で味つける必要は殆どないんだよね。「踊り」自体のニュアンスで攻めていく。
唯ちゃんは、「飾り」のために「踊り」のフォルムを崩すようなことはない(少なくとも、新国立劇場バレエ団の中では、最も崩さない)。
だから、純舞踊的に美しく上品で、しかし強い踊りが実現でき、(パートナーに最低限の技倆さえあれば、)観客に世界を示すことができる。
新国立劇場バレエ団は、ビントレー政権以降、「英国風」と言われる。「英国」=「演技力」の図式もよく言われ、妙に重視される。
しかし、米沢唯ちゃんを観ていると、人口に膾炙する「演技力」とは何か、再定義が必要なのではと思わせる。
そのように思わせるダンサーは、新国立劇場バレエ団では米沢唯ちゃんしかいない。