2013年3月30日土曜日

バッハ-コレギウム-ジャパン 「ヨハネ受難曲」演奏会評

2013年3月30日 土曜日
彩の国さいたま芸術劇場 (埼玉県与野市)

曲目:
ヨハン=セバスチャン=バッハ 「ヨハネ受難曲」 BMW245

ソプラノ:ジョアン=ラン
アルト(カウンターテノール):青木洋也
テノール(福音史家):ゲルト=テュルク
バス(イエズス):ドミニク=ヴェルナー

合唱・管弦楽:バッハ-コレギウム-ジャパン(BCJ)
指揮:鈴木雅明

BCJは、3月29日・30日の二日に渡り、「ヨハネ受難曲」演奏会を開催した。3月29日は東京オペラシティ タケミツメモリアル、翌30日は彩の国さいたま芸術劇場を会場とした。BCJの特質からして、東京オペラシティのような巨大なホールよりは、600名強の規模のホールである彩の国さいたま芸術劇場での演奏が適切と判断した。よってこの評は二日目の彩の国さいたま芸術劇場での公演に対するものである。

昨年11月にこの演奏会のチケットが発売され、発売開始日にすぐに入手していらい、ずっと「マタイ受難曲」をやるのだと勘違いしていた。ちらしを見てもチケットを見ても「ヨハネ受難曲」と書いてあるのに、私の頭の中で勝手に「マタイ」と変換されてしまっていた。3時間半もの公演に気合いが入っていた私に水を浴びせかけたかのようなツィッター投稿が入った。前日の東京オペラシティ公演に対する感想つぶやきの中に、「マタイでなくヨハネです」と言った訂正を説明するものがあったのだ。

これを見て、あわてて用意を開始した。いや、用意ったって、ヨハネによる福音書18・19章を読む事と、曲の構成を理解する程度だ。イエズス=キリストの受難についての曲であるので、何を題材としているのかは何となく分かる。歌詞をいちいち暗記するだなんて大真面目なことなど、この私にできるはずがない。

演奏会場に入ると、写真の通りの立派なプログラムが渡される。歌詞と対訳がつけられている丁寧な内容だ。しかし、演奏開始前には鞄の中に入れられる。真面目な人たちは、歌詞を追いながら聴いていくのだけれど、それには私は反対だ。イエズス=キリストの受難云々以前の問題として、私は音楽を聴きに来ている。誤解を恐れずに言えば、キリストの受難などどうでもよい。キリスト受難の宗教的意義を重視するのであれば、松本城そばのカトリック教会にでも行って、礼拝に参加し、司祭にいろいろ質問すれば良いだけのことである。受難云々からは一旦離れて、純音楽的な観点から聴いていきたい。受難曲を、ましてキリスト者の演奏者が多いBCJの演奏会でこのような態度で聴く事が正しいか否かは、私には分からない。しかし、歌詞に集中するあまり、音そのものへの意識がおろそかになり、歌い手の表情に注目しなくなるのは、これは音楽に臨む観客としての態度として本末転倒だと考える。

第一部緊張に満ちた表情で管弦楽、歌い手、指揮者が登場する。合唱はパワフルに始まる。初めから劇的な展開だ。これに対してソリストはちょっとついていけず、固さがあり、全体的には管弦楽優位の展開である。アルト-ソロのアリアは、完全に管弦楽に埋没している。ソプラノも不安定さがあるが、繰り返しの部分では調子を上げていく形だ。

バスのドミニク=ヴェルナーは、低音でありながらも声量は完璧で、しかも声に艶があって素晴らしい。

テノールも固さがあり、パワーは十分ではない。第一部ではニュアンスで攻めるアプローチだ。ペテロの否認の場面で、福音史家が見得を切る場面があるが、その場面での繊細な声量のコントロールは完璧に決まっている。ここが第一部の最大の見せ場であった。

休憩後の第二部、出だしから舞台の上にいる人たち全員のテンションが急に引き締まっている。レシタティーヴォ部での、ゲルト=テュルクのテノールとドミニク=ヴェルナーのバスともう一人のバス(これはBCJメンバー)、これらと通奏低音との掛け合いは絶妙だ。特にテュルクが第一部とは激変し、ギアを入れ替えたかのような秀逸な出来になるし、もう一人のBCJのバスがヴェルナーに負けないだけの迫力があり、もちろんヴェルナーは第一部での調子を維持し絶好調である。通奏低音の背景作りは目立たないながらも、力強く絶妙だ。

第19・20曲での、バスとテノールのアリアの取り扱いには、疑問を持つ。バス・テノールとも(歌えるだけの喉の調子に整っているのにも関わらず)管弦楽に埋没するようなソロだ。ラストにクライマックスを持っていくために、敢えて埋没させているのかもしれないが、やはりソリストが管弦楽に負けてはいけないだろう。

しかしながら、第30曲:アルトのアリアでは、青木洋也は本来の力を発揮する。第35曲:ソプラノのアリアでは、ジョアン=ランが情感に満ちたソロを歌っていく。ソプラノが線形的に声量をコントロールしていない部分もあり、管弦楽とのバランスの点で難を入れようと思えば入れられるが、大きな問題ではないだろう。

ラストに向けて、レシタティーヴォ形式から離れ、ソリスト・合唱・管弦楽三者による総力戦に移行していく。音のバランスは完璧に取れていると同時に、緊張感がみなぎり、パッションが込められていく完璧な展開である。一番最後で、最高音で頂点に達して曲が終わる。

曲が終わって、10秒ほどで拍手が起こるが、私にとってはすぐに拍手ができる心境ではない。30秒なり1分なり余韻を味わってからの拍手が最もふさわしい最後である。

ブラーヴォと叫ぶのとは対照的な、静かな情熱と達成感に支配されていたというか、名状しがたい独特なものだ。この受難曲を聴くのは初めてで、歌詞など見ていないため、純音楽的なアプローチで臨んだ。だから聖書の内容なんて全く聞いていないけど、それでも、主の栄光を讃え、最後の審判の日の救いを願う、祈りと音楽とが、ここで一致して最高音に達する。私たち弱き人間の静かな情熱が、純音楽的に頂点に向かっていく旅を体験出来た二時間であった。