2021年5月2日(日)から8日(土)にかけて、「コッペリア」が新国立劇場バレエ団により上演された。
4月23日に発表された緊急事態宣言に基づき、無観客公演を余儀なくされ、予定されていた5公演のうち、5月1日(土)公演は中止となり、残りの4公演は無料動画配信された。
このレポートは、無料動画配信によるすべての公演を対象とする。
なお、最近の他公演を踏まえた記述については、当該公演を観劇したワルイ子諜報団(ワルイ子東京城西、ワルイ子北陸)からのレポートをも参考にした。
1.概観
ローラン プティ版によるもので、実上演時間が90分強の規模の短めな作品となる。2日、4日、5日、8日と、上演+動画配信 されたことにより、全てのキャストをリアルタイムで視聴が可能となった。
振付指導者であるルイジ ボニーノは来日できず、リモートでの指導となった。
この版での新国立劇場での初演は2007年5月であり、前回は2017年2月の上演であった。約4年ぶりの上演となった。
これまでなかった、木村優里-福岡雄大、小野絢子-渡邊峻郁の組み合わせも注目されるところであったが、残念ながらその成果は乏しいと言わざるを得ない。
公演レベルは、特殊演目に関わらず、基本的に各ダンサーの地力が反映されたが、観客の一般的なウケの面では特殊要素が働いた面もあった。
2. スワニルダ役について
2-1. 米沢唯
第一幕では拗ねてる表情が可愛らしいが、第二幕で人形の服を着ている場面では、黒の衣装も相まって、(ロシア風という意味でもなく、古典バレエ風と言う意味でもなく)オディールがコッペリアに化けたように思わせる。いい子ちゃんだかワルイ子ちゃんだか分からない、女性のミステリアスな性格を表され、ある意味マノンをコメディー化したかのようでもあった。
他方、民族舞踊や古典バレエの様式を強調する場面(第一幕6人の友人たちと絡む箇所でのアレグロのソロや、第二幕のフェッテを含めた終盤)でも、見事な完成度であり、上肢の長さを活かしたスケール感もあった。
2-2. 木村優里
弱点をかなり消せる修飾が効く演目ではあるが、それでも弱点は覆い隠せなかった。
総じて彼女にとっては、他演目と比較しかなり有利な展開ではあったが、それでも、古典的な技巧を必要とする箇所の弱さが目立った。
有利な点は下記。
i. 古典演目で見られるような定型的振付が希薄であり、バレエの定型的な技巧の巧拙が問われにくい
ii. 実演ではなく、動画配信でありアップにより顔の表情が強調された。可愛さを顔芸で実現する成果が配信先に届きやすかった
iii. 小顔体形が衣装とマッチしており、長い四肢がもたらす映えた見た目も、このプティ版にあっては極めて有利
これら三点が相まって、地力を上回る評判を得がちな有利な状況となった。一般受けが良かった理由は、この点からも説明できる。確かに、顔芸については命を懸けたかのような気合が入っていた。予想を超えて「可愛さ」アピールに成功したとは言える。
しかしながら、古典的な技巧を必要とする箇所は本当に弱い。
具体例としては
i. 第一幕後半の、6人の友人たちと絡むところのアレグロのソロ。
ii. 第二幕終盤のフェッテの前辺り。
これら古典的な技巧を必要とする場面では、ちゃんと踊れていなかったり、所作が何となく綺麗でなかったりした。また、民族舞踊の箇所は全キャストを通じて最も弱かった。
これらは常日頃から露呈している弱点が再現された。
木村優里のアレグロの弱さは、例えば2021年4月10日「白鳥の湖」公演に於けるルースカヤ役ソロの後半でも指摘できる(ワルイ子北陸からの情報提供)。
また、何となく所作が美しくない点についての弱点は、2021年2月の「眠れる森の美女」公演でのアウロラ・リラ両役で露呈した通りである。(ワルイ子東京城西から情報提供)
扇を飛ばしたり、瞬きをしたことについては、他が高い水準であれば目をつぶるが、このような「顔芸バレリーナ」ぶりを見ると、気になってきてしまう。まだワカイ子であり、体が思い通りに動かせるはずの年頃でこの出来では、先が思いやられる。
2-3. 池田理沙子
第一幕では、彼女が得意とするはずの「お転婆娘」が不発気味であり、本領を発揮していない感があった。体格の不利さをカヴァーしにくい版も影響しているのか?それでもアレグロのソロはキッチリこなしており、無難に終わった。
池田理沙子の本領は第二幕で発揮された。特に民族舞踊や終盤の場面は素晴らしい。基本的には米沢唯の方向性だが、米沢唯的マノン路線よりは、カワイコいい子ちゃん と 気の強さを出した表情でコントラストを出した路線であった。
2-4. 小野絢子
体格の不利さを感じさせる面が皆無ではないが、大原芸監時代からの「絢子ワールド」を、高い完成度で示し、立派な成果を残した。
3. フランツ役について
3-1. 井澤駿
「眠れる森の美女」降板の原因となった怪我の影響があるからか、安全運転気味であった。ソロの場面で見せ場を作ることはなかったが、それでもサポートは盤石であった。
3-2. 福岡雄大
コロナ禍以降、これほどまでの絶好調ぶりは見たことがなかった。ソロでの切れがある豪快さや、コッペリウス役山本隆之とのコンビネーションが光った。また、特に第一幕でのイタズラ好きな子どもっぽさの表現も見事である。フランツ役でダントツの成果を上げた。
3-3. 奥村康祐
キャラクターと合致しており、フランツの馬鹿っぽさを的確に表現した。福岡雄大に準じる成果を上げた。
3-4. 渡邊峻郁
キャラクターと全く合致していないこともあるが、全般的に演技が不自然で、フランツの馬鹿っぽさ、いたずら好きな子供っぽさを全く表現できていなかった。また、第一幕ではリフトサポートした小野絢子の挙動を乱し、サポートのスタビリティーが欠如していた。これは主役級の男性ダンサーにとっては致命的である。第二幕放り投げの場面は、落としそうとまでは思わないが、予告編で流れた2017年2月公演での福岡雄大によるものとは決定的なまでの安定感の差があった。
これまでの公演では、ここまでサポートの弱点が露呈したことはなかったが、サポートされる側の米沢唯が超絶補正していたからなのか?
また、第一幕幕切れの後ろ足は、とても綺麗とは言えないものであった。
小野絢子ファンから怨嗟を浴びてもしょうがない内容で、ファーストキャストにするべきではなかった。
第二幕終盤のソロで、難易度の高い技に挑戦した意欲は買うべきなのか?しかし、完成度の低さをしっかりと指摘するべきなのだろう。
4. コッペリウス役について
4-1. 中島駿野
かなりの頑張りが見受けられた。高い演技力を示し、初役にしては上出来であろう。
4-2. 山本隆之
元プリンシパルでもあり、卓越した演技力であった。人形遣いのサポートが実に上手い。
5. スワニルダの友人たち
ファーストキャストの中核を担った、柴山紗帆と細田千晶が素晴らしい。両者が小野絢子の脇を固めるシーンは絵になる。全体との調和を踏まえつつも、両者の強い基礎力が舞台に圧を与える。
セカンドキャストの廣川みくり は悪目立ちをしており、調和していなかった。
ファーストキャストとセカンドキャストとの差は、舞台から強い圧を発せられるか否かの面で決定的であった(当然ファーストが素晴らしい)。
6. 意見事項
下記の通り意見する。
・明らかに渡邊峻郁はファーストキャストの器ではなかった。
・小野絢子-福岡雄大、木村優里-渡邊峻郁のコンビであった方が、前者による傑出した成果が出せた可能性が高かった。公演レベルの平準化よりも、傑出した成果を狙うキャスティングを願いたい。
7. 一部の「クラスタ」に対する批判
このプティ版「コッペリア」に対しては、一部の「バレエクラスタ」(自称「評論家」「ライター」も含む)による偏見に満ちた不公正な論評が露呈しているように思われる。
自爆言語は「フランス」「フランスの風」「プティ」「プティ風」「演技力」「演技派」だ。その辺りを強調している人物に限って、ピント外れな評を表明し、中途半端に持つ発言力とともにバレエ界に対して害悪をもたらす。
もっと分かりやすく言うと、小野絢子推し且つ木村優里推し且つ渡邊峻郁推し(且つ米沢唯アンチ、この辺りは「クラスタ」内部でも差異がみられるが、古典演目では絶賛していても「コッペリア」に関してはアンチになってる事例が多い)且つ池田理沙子アンチ。(カワイイからユルイ木村優里ファン程度の方は、特段有害ではない)
まずは「フランス」や「プティ」の定義をすることが先決である。フランス風ではないとか、プティ風ではないと主張するのであれば、「フランス」「プティ」の定義をきちんと行うべきだ。
管見では、「フランス」なり「プティ」を体現しているのは、プティ自身によるコッペリウスくらいである。その意味では、プティ自身の公演以外は認めないという立場は、賛否はともかく、論理的には一貫性がある。
しかしながら、プティ芸術監督時代のマルセイユ国立バレエ団でスワニルダを演じたダンサーからして、エウスカディ人(バスク人)・カザフ人・英語圏カナダ人もおり、全く「フランス」的ではない。
それに、プティ自身によるコッペリウスも、「1970年代フランス」の体現であり、車に例えれば シトロエンDS のようなものである。現在のフランス車がドイツ車と区別できないのと同じように、現在のパリ国立オペラバレエ団のエトワールでさえも、プティの存在感は出せないであろう。当然ルイジ ボニーノなど、プティの後継者に全く値しない。
プティの死去とともに、プティ版「コッペリア」の在り方は時間の経過も相まって変容していくのは当然である。ロクでもない振り付け指導者がリモートで指導となれば、尚更だ。そのような文脈を基に、公演の評が為されなければならない。
池田理沙子のスワニルダに対して「学校的」と評した者がいた。第一幕だけならまだ理解できるが、第二幕を併せた場合にその評は失当である。百歩譲って、池田理沙子を「学校的」と評するのであれば、木村優里に対しては「学校的な水準にも達していない」と酷評するべきである。その評者は、渡邊峻郁に対してはあれ程までの低水準なパフォーマンスでありながら贔屓目な評を出している。そのような恣意的な評を発している者が、フランスバレエの理解者面し、恣意的な評価をしているのは有害である。その信奉者もまた有害であるが。
渡邊峻郁に対し「演技派」と評する者がいた。あのフランツの演技に対して「演技派」と評するのは笑止である。私にとっての彼の評価は、これまでは、女性主演ダンサーを邪魔することなく無難に演じるダンサーであったが、そのような信頼すら失墜する今回の出来であった。なお、私は本島美和以外を「演技派」とは言いたくない。
米沢唯の公演の後で「フランスの風を吹かせて欲しい」と言っておきながら、渡邊峻郁に対しては「フランスで踊っていた人でもあるし不満はなかった」と訳の分からない理由で擁護した自称「評論家」がいた。自称であれ「評論家」がそのような著しく偏った言説を発するのは公益に反するので、そいつの名前だけは公にする。門行人である。
David Mead は米沢唯を、Paul McInnes は池田理沙子をきちんと評価している。特に後者は、プティ版について嫌悪しつつも、公演水準は冷静に評価している。好き嫌いと良し悪しとを、きちんと区別しているし、「フランス(風)」「プティ(風)」には触れていない。当然、下手な日本人「クラスタ」が陥る罠に嵌まらない。外国人の方が余程マトモじゃないか!