2014年8月26日火曜日

サイトウ-キネン-フェスティバル 歌劇「ファルスタッフ」 評(二回目の観劇) Saito Kinen Festival Matsumoto, Opera ‘Falstaff’

2014年8月26日 火曜日/ Tuesday 26th August 2014
まつもと市民芸術館 (長野県松本市)/ Matsumoto Performing Arts Centre (Matsumoto, Japan)

演目:
ジュゼッペ=ヴェルディ 歌劇「ファルスタッフ」 Giuseppe Verdi ‘Falstaff’

Sir John Falstaff: Quinn Kelsey (クイン=ケルシー)
Ford: Massimo Cavalletti (マッシモ=カヴァレッティ)
Fenton: Paolo Fanale (パオロ=ファナーレ)
Alice Ford: Maite Alberola (マイテ=アルベローラ)
Nanetta: Maureen McKay (モーリーン=マッケイ)
Dame Quickly: Jane Henschel (ジェーン=ヘンシェル)
Meg Page: Jamie Barton (ジャイミー=バートン)
Bardolpho: Keith Jameson (キース=ジェイムソン)
Pistola: David Soar (ディヴィッド=ソアー)
Dr. Caius: Raúl Giménez (ラウル=ヒメネス)

Chorus: Saito Kinen Festival Matsumoto Chorus 合唱:サイトウ-キネン-フェスティバル松本合唱団

Director: David Kneuss 演出:ディヴィッド=ニース
Set design & Costumes design: Robert Perdziola 装置・衣装:ロバート=ペルジオーラ
Lighting design: Rick Fisher  照明:リック=フィッシャー

Orchestra: Saito Kinen Orchestra 管弦楽:サイトウ-キネン-オーケストラ
Conductor: Fabio Luisi 指揮:ファビオ=ルイージ

今日も懲りずに「ファルスタッフ」を見に行きました。当日券売り場に行ったら、既に売られてはいたけれど、前方中央すら虫食い状に販売対象となっていた有り様です。メトロポリタン歌劇場で実績を上げた指揮者が来るのに、どうして売れないのか、私には信じられません。松本市民の一人として、松本の恥だと思います。ファビオ=ルイージ応援のために、松本市民の誇りを賭けて立ち上がり、気が付いたら歌劇場に突入した訳です♪

24日は12列ど真ん中(オケピットのため6列潰れるので、新国立劇場基準で言うと前から6列目)、今日は21列わずかに上手側(新国立劇場基準だと15列目)です。

まつもと市民芸術館は席によってかなり響きの差が大きいですね。12列目では歌唱が直撃しますが、後方21列目だと歌唱が減衰する一方で、管弦楽がバンバン響いてきます。新国立劇場以上にまつもと市民芸術館は一階席の勾配が急なので、ちょうど21列目は貴賓席に相当する場所になります。

24日の席よりは、管弦楽優位に聴こえました。特に第一幕では、クイン=ケルシーが24日と比べたら少し不調に思えたほどです。歌唱だけを聴きたいのであれば、前方の席が良さそうです。基本的に歌い手に関する感想は、24日の感想と同じです。

一方で管弦楽の音色を堪能できました。特に第二幕の偽フォンターナのソロの場面や第三幕での管弦楽の響きは、ファビオ=ルイージにより慎重に吟味され、的確に選択され、精緻に実行された美しいものでした。小澤征爾時代の暴走族としか言いようがなかった時には信じがたいほどの繊細さを持つもので、本当に弱奏が綺麗に響き渡っていました。サイトウ-キネンのオケの音色は、実に美しくなりました。もちろん、多少歌唱が細くてもしっかりと支える効果もあります。

やはり歌劇は、歌劇場でしっかりとキャリアを積んだ指揮者でなければだめなのだなあと、思い知らされました。ファビオ=ルイージ、万々歳です。

2014年8月24日日曜日

サイトウ-キネン-フェスティバル 歌劇「ファルスタッフ」 評 Saito Kinen Festival Matsumoto, Opera ‘Falstaff’

2014年8月24日 日曜日/ Sunday 24th August 2014
まつもと市民芸術館 (長野県松本市)/ Matsumoto Performing Arts Centre (Matsumoto, Japan)

演目:
ジュゼッペ=ヴェルディ 歌劇「ファルスタッフ」 Giuseppe Verdi ‘Falstaff’

Sir John Falstaff: Quinn Kelsey (クイン=ケルシー)
Ford: Massimo Cavalletti (マッシモ=カヴァレッティ)
Fenton: Paolo Fanale (パオロ=ファナーレ)
Alice Ford: Maite Alberola (マイテ=アルベローラ)
Nanetta: Maureen McKay (モーリーン=マッケイ)
Dame Quickly: Jane Henschel (ジェーン=ヘンシェル)
Meg Page: Jamie Barton (ジャイミー=バートン)
Bardolpho: Keith Jameson (キース=ジェイムソン)
Pistola: David Soar (ディヴィッド=ソアー)
Dr. Caius: Raúl Giménez (ラウル=ヒメネス)

Chorus: Saito Kinen Festival Matsumoto Chorus 合唱:サイトウ-キネン-フェスティバル松本合唱団

Director: David Kneuss 演出:ディヴィッド=ニース
Set design & Costumes design: Robert Perdziola 装置・衣装:ロバート=ペルジオーラ
Lighting design: Rick Fisher  照明:リック=フィッシャー

Orchestra: Saito Kinen Orchestra 管弦楽:サイトウ-キネン-オーケストラ
Conductor: Fabio Luisi 指揮:ファビオ=ルイージ

サイトウ-キネン-フェスティバル実行委員会は、2014年8月20日から8月26日までの日程で、ジュゼッペ=ヴェルディ歌劇「ファルスタッフ」を、まつもと市民芸術館にて4公演開催する。この評は2014年8月24日に催された第三回目の公演に対するものである。

着席位置は一階中央前方である。チケットは当日券発売をしている有り様で、サイトウ-キネン-フェスティバルが主催者も観客も小澤征爾頼みであることを反映している。小澤征爾が引退した時に、サイトウ-キネン-フェスティバルはなくなるだろう。観客の鑑賞態度は概ね良好であったが、一回だけ携帯電話が鳴っていた。特に致命傷となるような形ではなかったが。

休憩は、第二幕と第三幕の間のみの一回のみである。

舞台は伝統的なものであり、衣装を含めて前衛的な要素は何一つない、正統的なものだ。舞台で観客の目を眩ます事はせず、音のみで勝負する形態である。舞台の上に20cm程かさ上げし僅かに客席側に傾けた舞台を用いている。舞台の上に欧州の伝統的な歌劇場の額縁と舞台を乗せたような形となり、舞台の幅は狭くなり、高さも抑えられている。幕は額縁の中のみであるが、両左右角から引っ張る形の幕ではなく、単に上下に移動するだけの幕である。

ソリストの出来について述べる。

一番素晴らしいかったのは、文句なしにファルスタッフ役のクイン=ケルシーである。声量はホール中に大きく響き渡り、終始安定した歌唱である。出番は少ないが、ドクター-カイウス役のラウル=ヒメネスも素晴らしい。フォード役のマッシモ=カヴァレッティは、この二人程ではなかったが、それでも要所で確実に決めている。フェントン役のパオロ=ファナーレは、やや声量が少なめである。

女声については、全般的に男声より声量面では控えめであるが、それでも女性同士仲良く響きが合っている。アリーチェ役のマイテ=アルベローラが素晴らしい出来で、要所に於ける声量は十二分に余裕がある。ナンネッタ役のモーリーン=マッケイは大変可愛らしく、やや細めの声ではあるが、管弦楽のコントロールの助けもあり十分にホールに響いており、熟女役だらけの女性陣の中で爽やかな印象を与える事に成功している。クイックリー夫人役のジェーン=ヘンシェルは、やや不調気味である。

合唱の扱いは、かなり控えめに扱われていた。

管弦楽は極めて素晴らしい出来だ。歌い手を上手に引き立てつつ、ソリスティックな部分では的確に聴かせどころを決めていく。小澤征爾時代とは大違いだ。

小澤征爾は、歌い手と管弦楽との関連性について何も考えていなかった。歌い手に手抜きを許し、サイトウ-キネン暴走族とも言える管弦楽は放縦に任せていた。要するに、小澤征爾はオペラに対し無知だったし、無能だった。

これに対して、ファビオ=ルイージは十二分に準備を重ねてきた事が伺えた。歌い手を引き立たせるにはどうしたら良いか、一方で曲想に応じてどこで管弦楽を走らせるか、その選択は的確だった。第三幕で見せた弱奏の美しさ、良く聴くと実に「歌わせている」けどあまりに自然に扱われるテンポのうねり、フーガの扱いの見事さ、ある歌い手から別の歌い手への絶妙なバトンタッチ、要所で鋭さを見せる管弦楽の扱い、山田和樹によって初めて歌劇としての理想的な響きを手に入れた管弦楽は、ファビオ=ルイージによってその正しい路線を発展させたと言える。一つの歌劇を作り上げるのに当たって必要な、見事な統制力と構築力を、ファビオ=ルイージは見せつける。

歌い手が手抜きばかりしていた小澤征爾時代のサイトウ-キネンとは違い、歌い手のソリストは半数以上は十分に満足出来る歌唱であり、特に重要な役に関しては傑出した実力を発揮していた。管弦楽の扱いも巧みであり、どうしてファビオ=ルイージをもっと早く松本に登場されなかったのかと思わずにはいられなかった。

Viva! 'Fabio Luisi Matsumoto Festival' !!
ファビオ=ルイージ 松本フェスティバル、万歳!!

サイトウ-キネン-フェスティバル松本の名前を変えるのであれば、ファビオ=ルイージこそその名にふさわしいであろう。

2014年8月23日土曜日

アルディッティ弦楽四重奏団 演奏会 評

2014年8月23日 土曜日
水戸芸術館 (茨城県水戸市)

曲目:
アルバン=ベルク:弦楽四重奏曲 op.3(1910)
ブライアン=ファーニホウ:弦楽四重奏曲 第3番(1987)
(休憩)
ハリソン=バートウィスル:弦楽四重奏曲〈弦の木〉(2007)
(休憩)
アルノルト=シェーンベルク:弦楽四重奏曲 第2番 op.10(1907-08)

ソプラノ:サラ=マリア=ズン(Sarah Maria Sun)
弦楽四重奏:アルディッティ弦楽四重奏団 (Arditti String Quartet)

アルディッティ弦楽四重奏団は、8月21日から8月26日に掛けて来日ツアーを行い、サントリーホール(東京)(1公演は東京交響楽団との共演、もう1公演はブルーローズでの演奏会)、水戸芸術館(水戸)、草津音楽の森国際コンサートホール(群馬県吾妻郡草津町)にて計4公演開始される。

水戸芸術館での演奏会では、最後のシェーンベルクのみソプラノにサラ=マリア=ズンが加わり、ボリジョイ六重奏団のような形態での演奏会となる。亡くなられた吉田秀和さんの後任とでもいうべき音楽評論家、片山杜秀の解説付きである。

全て現代曲または現代曲に準ずる曲目であり、かなり尖がっているプログラムである。どのような観点から観察するべきなのか、現代曲については良く分からないので、かなり簡単な感想じみたものとなってしまうが、総じて良かったのはホンマものの現代曲であるファーニホフとバートウィスルの曲目である。

何か合わせて演奏すると言うよりは、各自バラバラに演奏する事によって、各演奏者の個性が伺える。演奏者に穴はなく、全てが技術的に難しそうなフレーズを確実に弾きこなし、ニュアンスも精密に表現しきっている。残響が少なめな水戸芸術館の音響を考慮して、奏者自らが残響を作って豊かな響きをも実現している。今や眠くなるような演奏しか出来なくなって凋落したエマーソン弦楽四重奏団とは全く違い、作曲家と密接な関わりを持って演奏活動を続けて来たアルディッティ弦楽四重奏団は、いつまでもヴィヴィッドであり続けなければならない環境下にあったせいか、結成40周年を経ても勢いが削がれていないように思われる。極めて素晴らしい弦楽四重奏団である。

現代曲だからこそ、技術面や構成力、ニュアンスを重視していかなければならないのだと思い知らされる。20世紀初頭までのクラシック音楽と現代曲との関係は、クラシック-バレエとコンテンポラリー-ダンスとの関係に似ている。どちらが優れているとか高度な内容だとか言うものではなく、どちらもそれぞれの分野で求められている内容は違っているけれども高度であり、しかしどこか共通なものも求められているところが分かって面白い。

ソプラノのサラ=マリア=ズンの出来は、普通の出来か。いつでもモデル転向可能な程細くて、歌い手の中では最高の美女で、お目目の保養にピッタリだ。膨張色である白いドレスを着ていても、バレエダンサーかと思ってしまう程の体格である。肝心な歌声は、強声部は浮遊感があるが、弱声部については今一つ弦楽四重奏との調和が取りきれていない印象がある。室容積が少ない水戸芸術館であったら、もう少し精密に響かせる事も出来るようにも思える。

片山杜秀の解説はあってもなくても良かったが、邪魔にならない程の短さである。演奏者へのインタビューを中心としたもので、おどろおどろしい片山節はほんの僅かしかなかったため、これを期待していた人たちにとっては物足りなかったかもしれない♪

観客の入りは、中央はほぼ埋まっていたものの左右翼は合わせて30人ほどで、おそらく合計300人程と思われる。定員680名のホールで半分以下の入りではあるが、そもそも弦楽四重奏+現代音楽+地方都市と言った厳しい内容でありながら、これだけの観客を集めただけ凄いと言えるだろう。学芸員が充実しているからこその水戸芸術館ならではの企画で、地方都市でここまでの企画をぶち上げた事自体が称賛に値する。今後も、どこのホールでも実現していないこのような企画を続けていってほしいと、心から願っている。

2014年8月16日土曜日

勅使川原三郎 「睡眠」Sleep 評 Teshigawara Saburo ‘Sleep’

2014年8月16日 土曜日 19:00~ / Saturday, 16 August 2014 19h00
東京芸術劇場 プレイハウス(東京)/ Tokyo Metropolitan Theatre(Tokyo, Japan) Playhouse

演者:
勅使川原三郎 (Teshigawara Saburo)
オーレリー=デュポン (Aurélie Dupont)
佐東利穂子 (Sato Rihoko)
鰐川枝里 (Wanikawa Eri)
加藤梨花 (Kato Rika)

構成・振り付け・美術・照明:勅使川原三郎 (Teshigawara Saburo)

勅使川原三郎が振り付けを行うコンテンポラリー-ダンス「睡眠」は、8月14日から23日までにかけて東京(東京芸術劇場 プレイハウス)にて5公演、名古屋(愛知県芸術劇場)にて1公演、兵庫県西宮市(兵庫県立芸術文化センター)にて1公演、計7公演に渡って繰り広げられる。これらの公演が世界初演となる。この投稿をしている段階で、まだ公演が残っており、ネタばれに注意されたい。

この評は、東京芸術劇場8月16日夜(19時00分開始)の公演に対するものである。

着席位置は一階ど真ん中から僅かに後方僅かに上手側である。左右後方・バルコニー席は空席がある状態であり、観客の入りは七割くらいであろうか。連続した咳のノイズがあったものの、観客の鑑賞態度は概ね良好であった。

全体的な印象として、コンテンポラリー-ダンスの身体表現の語彙がこれ程まであるとは思わず、驚愕するところがある。勅使川原三郎が60歳前後とは思えないほど激しく見える表現は、そう言った身体表現の語彙の豊かさに裏付けられている。もちろんクラシック-バレエの派手な大技は若さがいるのだろうけど、そういった大技を使わず、しかし小技を駆使しているとも全く感じさせず、自由自在な表現でかつ速い動きで魅了していく。

KARASの躍動感溢れる演技にも目を見張る。佐東利穂子、鰐川枝里、加藤梨花の躍動感は、出番の多寡はあれ、いずれも素晴らしいものだ。長時間のソロも存在感がある踊りで見事だ。ラストのソロも佐東利穂子がしっかりと決める。

正直に言うと、どちらかと言うとオーレリーの静的な演技よりも、彼女たちの動的な演技の方が楽しめた。このような発言を、パリ-オペラ座のエトワールに対してすると怒られそうだが(♪)、私の好みはそう言った激しい動きが好みなのだから、そのような感想にならざるを得ない。

照明・舞台装置は、総じて幾何学的で、直線的で、四角形的だ。曲線を描いた舞台装置は、後半に出てくる祭壇らしき物体の土台部分のみであり、他は全て直線である。

照明光は白色と電球色とを適宜用いたもので、その光線の指向性の扱い方が上手だ。照明が当たる場所は綿密に考えられていて、特に上からの光は四角形に当たるようになっており、その場所の選定やタイミングが絶妙である。前半部では、強い白色光を下手側から浴びせて、オーレリーの腕の動きに残像が残り軌跡が目に焼きつくようになっている(この効果がどうして生じたかについては謎である)し、後半部では、客席の電灯をごく僅かに点灯させる場面もあり、舞台との一体感をも感じさせられる。

吊り下げ物のバトン-テクニックも幾何学的で構成の綿密さが伺えた。適度な反射度を備えた透明なアクリル板、椅子、行灯凧の骨組みのようなもの、舞台上の物体は恐らく全てバトンに吊り下げられており、適宜上下させて舞台を区切ったり、アクリル板を回して灯台のように光を反射させたりする。特に後半部に見せるバトン-テクニックは、一斉に上下させたり、一定の時間差をもって幾何学的に上下させたりするところが実に効果的だ。もちろん、バトン-テクニック自体は電子計算機に入力して制御するものであるので、手作業の操作が見事だと言うわけではないが、そのようなバトン-テクニックをどの場面でどのように、どのタイミングでどのスピードで行うかの構成がよく考えられている。

舞踊を単に支える域の照明・舞台装置ではなく、双方ともが絶妙に噛み合った形で相乗効果を上げている。

全般的に難解な印象は感じさせず、動きの躍動感により純ダンス的な要素に注目させられるもので、その上に照明・舞台装置の妙もあり、これらは見事に統一体となって「睡眠」が作り上げられている。コンテンポラリー-ダンスの場合、いつも題名は公演が始まる前に頭の中から放り出して置くのが私の在り方であるが、今回は常に題名である「睡眠」を意識させられる点も面白い。

勅使川原作品を観劇したのは初めてであったが、ただただ魅了されたお盆休みの夜であった。

2014年8月4日月曜日

「サイトウ-キネン-フェスティバル」の終わりの始まり

松本市民の一人として、「サイトウ-キネン-フェスティバル」の名称が来シーズンから「セイジ-オザワ松本フェスティバル」に変わる件については、冷笑的な態度しか取れない。まあ、勝手にしろと言ったところである。「実態通りになったね」とでも、皮肉の一つでも言っておこうか。

「サイトウ-キネン」にしろ「セイジ-オザワ」にしろ、小澤征爾が指揮台に立てなくなったところで、このフェスティバルは終わりだ。それでいいと思っている。

このフェスティバルは、主催する側にしろ観客にしろ、小澤征爾に全てを依存している。チケット発売日の、ファビオ=ルイージの歌劇と小澤征爾のプログラムとの列の差からして、観客の小澤征爾へのべったりぶりはあきれるほどのものであったし、1992年から開始してから22年間、小澤征爾の後継の核となる指揮者・監督を育ててくることもなかった。

サイトウ-キネンのオケが「田園」で無気力でつまらない演奏をしても、ブルックナーで金管のコントロールに大失敗した演奏をしていても、小澤征爾が指揮をしていると言うだけで観客はスタンディングオベーションを繰り広げる異常な雰囲気を見てきた。

歌劇は歌劇で、歌い手のソリストは手を抜いている事例が多すぎた。マトモに歌ったのは山田和樹が睨みを効かせて振った時くらいで(この時も小澤征爾が連れてきたイザベル=カラヤンは手を抜きやがった!この時ほどイザベル=カラヤンと小澤征爾に怒りを感じた時はなかった。あの二人がいなかったら、山田和樹の「ジャンヌダルク」は完璧な出来だったのだ!)、小澤征爾は概して、放置すれば暴走族と化す管弦楽のコントロールをロクにしていなかったし、歌劇の総監督としては無能と言える。リッカルド=ムーティの爪の垢でも煎じて飲めとでも言いたくなる。

室内楽も、まあ一定水準は保っているけど、ロバート=マンがいらっしゃった時の名演はもう期待できないだろう。

サイトウ-キネンにしろセイジ-オザワにしろ、このフェスティバルの終わりは近付いている。主催する側にしろ観客にしろ、無能な者が多かった。松本市民として観客として参加した私にとって、この事は恥としか言いようがない。

サイトウ-キネンよりも水戸室内管弦楽団の方がはるかに優秀だし(当然と言えば当然であるが)、ここ一年を除けば水戸は小澤征爾の依存度が少なかった。吉田秀和さんが亡くなられても、学芸員が充実しているし、水戸芸術館は上手くやっていけるだろう。この事と比較し、松本はどうだったのか?サイトウ-キネンに関わってきた者は(もちろん私を含めて)よくよく考え、どのようにこのフェスティバルを終わらせるかを考える時期に来ているのではないだろうか。

2014年6月4日水曜日

デヴィッド=ビントレー監督の退任と、政府・新国立劇場のあるべき役割


デヴィッド=ビントレー新国立劇場舞踏部門芸術監督の記事を紹介し、考えた事を述べたい。彼はこの8月で惜しまれながらその職を辞することとなる。

http://www.yomiuri.co.jp/culture/classic/clnews/02/20140523-OYT8T50246.html?from=tw

「日本で古典への愛情がものすごく深いことが、前に進む妨げになっていないでしょうか。ダンサーは時代を反映することが出来る。それをしないと150年前の作品を再現するだけになる」との発言は重い。大原永子次期監督が選んだ2014/2015シーズンの演目は19世紀バレエばかりで、現代作品の演目はほとんどない。

19世紀バレエの演目をやるなと言うわけではないが(むしろ一定比率で上演するべき)、このような演目ばかりを上演することが国立の劇場としての使命ではない。(様々な問題を抱えているとはいえ)日本には民間のバレエカンパニーがあり、採算をも重視しなければならないこのようなバレエカンパニーが19世紀バレエばかりになるのはやむを得ない。国立の劇場が為すべき役割はもっと広範である。

(少なくとも日本では)観客が見込めない現代作品を取り上げ、発信することは民間カンパニーでは不可能であり、日本国政府が担わなければならない役割の一つである。潤沢な資金を新国立劇場に拠出し、現代バレエ作品の発信に寄与しなければならない。

大原永子次期監督は、「歴史と伝統を持つクラシック・バレエを大切にしなければならない」(The Atre 2014年5月号 6頁)と発言している。しかし、2014/2015シーズンの演目を正当化している意図を持つ彼女の「クラシック」の概念は狭量であり、19世紀バレエ以外は「クラシック」ではないと宣言しているとしか思えない。

言うまでもなくバレエは何百年の歴史を有するものであり、チャイコフスキーに代表される19世紀バレエ作品だけが「クラシック」バレエ作品ではない。18世紀のバレエは無価値なのか?チャイコでなければ「クラシック」ではないのか?

2014年5月26日にNHK-FMにて、マルク=ミンコフスキ指揮ヴィーンフィルハーモニー管弦楽団演奏で、グルック作曲バレエ音楽「ドン-ファン」が流れたが、このような18世紀以前のバレエ作品に光を当てるのも、日本国政府・新国立劇場の役割の一つであろう。

演目の「バランスが大事です」、このビントレー監督の遺言を大原永子次期監督は深く認識し、2015/2016シーズンの演目に反映するべきであろう。

2014年5月31日土曜日

ローマ歌劇場 歌劇「シモン=ボッカネグラ」 評 Teatro dell’Opera di Roma ‘Simon Boccanegra’

2014年5月31日 土曜日/ Saturday 31st May 2014
東京文化会館 (東京)/ Tokyo Bunka Kaikan(Tokyo, Japan)

演目:
ジュゼッペ=ヴェルディ 歌劇「シモン=ボッカネグラ」 Giuseppe Verdi ‘Simon Boccanegra’

シモン=ボッカネグラ:ジョルジョ=ペテアン(George Petean)
アメーリア(マリア=ボッカネグラ):エレオノーラ=ブラット(Eleonora Buratto)
ガブリエーレ=アドルノ:フランチェスコ=メーリ(Francesco Meli)
ヤーコポ=フィエスコ:ドミトリー=ベロセルスキー(Дмитрий Белосельский / Domitry Beloselskiy)
パオロ=アルビアーニ:マルコ=カリア(Marco Caria)
ピエトロ:ルーカ=ダッラミーコ(Luca dall’Amico)
伝令:サヴェリオ=フィオーレ(Saverio Fiore)
侍女:シムゲ=ビュユックエデス(Simge Büyükedes)

合唱:ローマ歌劇場合唱団(Coro del Teatro dell’Opera di Roma)

演出:エイドリアン=ノーブル(Adrian Noble)
美術:ダンテ=フィレッティ(Dante Ferretti)
衣装:マウリツィオ=ミレノッティ(Maurizio Millenotti)
合唱指揮:ロベルト=ガッビアーニ(Roberto Gabbiani)

管弦楽:ローマ歌劇場管弦楽団(Orchestra del Teatro dell’Opera di Roma)
指揮:リッカルド=ムーティ(Riccardo Muti)

ローマ歌劇場は、2014年5月20日から6月1日までの日程で、ジュゼッペ=ヴェルディ「ナブッコ」、同「シモン=ボッカネグラ」を、東京にて三公演ずつ、計6公演に渡って繰り広げられた。この評は、「シモン=ボッカネグラ」第三回目(千秋楽)5月31日の公演に対するものである。

着席位置は一階中央僅かに後方僅かに上手側である。チケットは公演日近くで完売した模様である。観客の鑑賞態度は概ね良好であったが、終了時にムーティが左手を挙げている状態であるのにも関わらず拍手が出る状態であった。

切符の購入は、バルバラ=フリットリ(Barbara Frittoli)降板の知らせを聞いて購入した。フリットリは2013年5月19日にタケミツメモリアルで、メッタメタな状態の歌声を本番中に聴かせた挙句、なぜかアンコールだけ完璧に歌い上げる訳の分からないリサイタルを披露した。この時以来、私はフリットリの歌唱能力に対し全面的な不信を抱いている。

フリットリは2013年12月トリノ歌劇場日本公演の際にも、トスカ役を降板しており、その時の理由がスピント-ソプラノ(太く強靭な声を要する)役からの敵前逃亡を理由としたものであった。トリノの降板も今回の降板も、予想の範囲内での展開である。巨大な規模を誇る東京文化会館に恐れを抱き、病気を理由に敵前逃亡をしたのだろう。タケミツメモリアルであんな状態の彼女が、東京文化会館で歌えるわけがない。

ムーティはいつの間にか、何が起こってもおかしくない年齢になってきており、そろそろ聴きに行くべき時かという想いと、バルバラ=フリットリに対する不信とがせめぎあい、結果チケットの購入はしないで置いていた。降板の知らせの後、「残り物には福がある」のか、まあ許容できる席が売れ残っていたので、購入した次第である。

休憩は、第一幕と第二幕の間のみの一回のみである。

舞台は伝統的なものであり、衣装を含めて前衛的な要素は何一つない、正統的なものだ。舞台で観客の目を眩ます事はせず、音のみで勝負する形態である。幕・場毎に場面転換が行われた。

ソリストの出来について述べる。

一番素晴らしいかったのは、文句なしにガブリエーレ役のフランチェスコ=メーリである。終始抜群の安定感を保ち、若手貴族の純真さを的確に演じていた。

また、フィエスコ役のドミトリー=ベロセルスキーは、第一幕まではメーリと同様に素晴らしい。

題名役のジョルジョ=ペテアンは、ベストとは言い難い出来で有るが、後半は破綻なく歌い切る。

アメーリア役のエレオノーラ=ブラットは、特に前半部が声をリニア(線形)にコントロール出来ず不安定ではあったが、強く歌う箇所の表現は出来ていた。エレオノーラ=ブラットは、少なくとも最強唱部分でのパワーでは明らかにバルバラ=フリットリを上回っており、代役の責任は十二分に果たしたと言える。

パオロ役のマルコ=カリアの出来は良くなかった。全般的にソリストの出来は、後半になるに従って良くなって来たが、ムーティと管弦楽に救われたところはある。

合唱の扱いは非常に適切で、第一幕で舞台裏から歌う時点から音量・響きともによく考えられており、その重要な役割を果たす。

管弦楽は極めて素晴らしい出来だ。歌い手を上手に引き立てつつ、ソリスティックな部分では的確に聴かせどころを決めていく。

リッカルド=ムーティは十二分に準備を重ねてきた事が伺えた。歌い手を引き立たせるにはどうしたら良いか、一方で曲想に応じてどこで管弦楽を走らせるか、その選択は的確だった。ムーティによる管弦楽の設定は非常に見事で、本当に必要ある場面以外では管弦楽を鳴らさず、見事な統制力と構築力を見せつける。

管弦楽を暴走に任せ、歌い手を殺す指揮者が新国立劇場に来ているのをこの耳で知っている私としては、リッカルド=ムーティのオペラ指揮者として極めて模範的であることを認識させられる。ムーティが走らせる管弦楽に乗れないのだとしたら、それは全面的に歌い手の責任である。

巨大な死んだ響きの東京文化会館を考慮すると、上演水準は高く、新国立劇場やサイトウ-キネン-フェスティバルの歌劇公演を軽く上回る出来ではあるが、それでも全てのソリストがメーリ並みの水準に達していたとは言い難く、54,000円のチケット代に見合うかと言われるとやや疑問ではあった。

2014年5月17日土曜日

ゴラン=コンチャル+エフゲニー=ザラフィアンツ デュオ-リサイタル 松本公演 評

2014年5月17日 土曜日
松本市音楽文化ホール (長野県松本市)

曲目:
ルートヴィッヒ=ファン=ベートーフェン ヴァイオリン-ソナタ第5番 op.24
フランツ=シューベルト ヴァイオリンとピアノのための二重奏曲 op.162 D.574
(休憩)
フレデリック=ショパン ポロネーズ第2番 op.26-2 (※2)
ヨハン=セバスティアン=バッハ 無伴奏ヴァイオリンパルティータ第3番 BWM1006から「前奏曲」 (※1)
ウジェーヌ=イザイ 無伴奏ヴァイオリン-ソナタ第2番 op.27 (※1)
パブロ=サラサーテ 「ツィゴイネルワイゼン」
カミーユ=サン-サーンス 「序奏とロンド-カプリッチョーソ」

(※1)ヴァイオリン-ソロによる演奏
(※2)ピアノ-ソロによる演奏

ヴァイオリン:ゴラン=コンチャル (Goran Končar)
ピアノ:エフゲニー=ザラフィアンツ (Evgeny Zarafiants)

ゴラン=コンチャルとエフゲニー=ザラフィアンツは、それぞれ別個に日本ツアーを組み、ゴラン=コンチャルは、東京(五反田文化センター音楽ホール)・小山(栃木県)・松本・京都(青山記念音楽堂)で、エフゲニー=ザラフィアンツは東京(王子ホール・五反田文化センター音楽ホール)・京都(ゲーテ-インスティチュート-ヴィラ鴨川)・武蔵野市(東京都)にて公演を行っている。この二人の組み合わせは、五反田文化センターの公演と松本公演の二回のみである。この評は5月17日に開催された、松本市音楽文化ホールでの公演に対する者である。

ゴラン=コンチャルはクロアチアのヴァイオリニスト、エフゲニー=ザラフィアンツはロシア出身ではあるが、現在はクロアチアに本拠を構えているピアニストである。

着席位置は正面中央上手側、観客の入りは七割程で、チケットは完売には至らなかったようだ。観客の鑑賞態度は、ややノイジーな状態である。

ゴラン=コンチャルは、ソリストとしての基本的な技量に欠けている。

第一曲目のベートーフェンの時点で、音はか弱くピアノの響きに埋没し、「響き」になっていない。当然、松本市音楽文化ホールの優秀な残響を味方につける事も出来ていない。

第二曲目のシューベルトは、先月庄司紗矢香によっても演奏された曲でもあり、実力差は歴然としている。庄司紗矢香が一歩引く演奏をするときは、プレスラーを立てるためという目的がはっきりしているが、コンチャルはそもそもピアノに対抗できない状態で、およそソリストとしての素養を有しているとは言えない。

バッハの無伴奏、イザイの無伴奏については、ピアノが外れた事もありいくらか聴いた印象は良くなるが、それでも響きが混濁してきちんと音符を弾いているか疑問が残る箇所があるし、イザイに至っては重要な「怒りの日」の動機を明確に表出する事すら出来ていない箇所があり、またこの曲の激しい性格の表現は為されなかった。(ちょうど二週間前に聴いたばかりの)アリーナ=イブラギモヴァのような激しさを表現しろとまでは言わないが、それとは別方向で攻めるのであれば、それなりの明晰な演奏でもって説得力を持たせるべきで、そのような説得力がないコンチャルの演奏はわざわざ聴くには値しないだろう。

5月18日に京都青山記念音楽館に登場するようだが、コンチャルの演奏に失望した聴衆による暴動が起きないか心配でならない。

一方、エフゲニー=ザラフィアンツのピアノは前半のベートーフェン・シューベルトともまともなアプローチで、ヴァイオリンさえ完璧であれば十分に噛み合う事が期待できる演奏だ。ショパンのポロネーズは、技術的な面に於ける問題があってクリアな要素が欠ける部分があり、「彩の国さいたま芸術劇場ピアノエトワールシリーズ」に出演する若手ピアニストの方が上手であるなあとは思わされるが、それでも響かせようとしているだけコンチャルよりはマシな状態だ。

「ツィゴイネルワイゼン」以降の出来は、何故かヴァイオリンとピアノのコンビネーションが格段に良くなり、まあ聴ける状態にはなる。アンコールは三曲あり、マスネの「タイスの瞑想曲」、モンティの「チャールダーシュ」、クライスラーの「愛の悲しみ」の三曲であり、アンコールについては一曲目と三曲目は良い出来であった。

「おやすみなさいのBGM」やら「就寝時の音楽」やらのCDを作成するのであれば、本当に優秀な演奏家であるが、ちょっとでも技量を要する箇所となると、(特にコンチャルは)自らが意図する表現を表出する技量に欠けており、彼以上の優秀な若手演奏家がたくさんいる中で日本ツアーを実現させた意義はないと言ってよい。招聘する側としては、目利きを良くする必要があるだろう。

ここ六カ月の間にヴァイオリンのソリストとして聴いた演奏者は、庄司紗矢香・諏訪内晶子・リサ=ヴァティアシュヴィリ・アリーナ=イブラギモヴァ・ピンカス=ズッカーマンと続いてきた。長野県松本市に住んでいる私としては、ヴァイオリンのソリストはこの水準で演奏されて当たり前だと思っていたが、この環境は贅沢な環境であったのか。その事を思い知らせてくれただけでも感謝するべきなのかも知れない。

2014年5月10日土曜日

ピンカス=ズッカーマン + 宮崎国際音楽祭管弦楽団 演奏会 評

2014年5月10日 土曜日
宮崎県立芸術劇場 (宮崎県宮崎市)

曲目:
ヨハネス=ブラームス 交響曲第2番 op.73
(休憩)
ヨハネス=ブラームス ヴァイオリンとヴァイオリン-チェロのための二重協奏曲 op.102

ヴァイオリン:ピンカス=ズッカーマン (Pinchas Zukerman)
ヴァイオリン-チェロ:アマンダ=フォーサイス (Amanda Forsyth)
管弦楽:宮崎国際音楽祭管弦楽団
指揮:ピンカス=ズッカーマン(交響曲)・徳永二男(二重協奏曲)

第19回宮崎国際音楽祭は、2013年4月29日から5月18日までにわたり、宮崎県立芸術劇場を中心に、室内管弦楽・室内楽を中心に10以上の公演を開催し、無事終了した。この評は、演奏会2、「ブラームス・深淵なる響き」の題名の下5月10日に開催された演奏会に対してのものである。

宮崎国際音楽祭に臨席するのも、ピンカス=ズッカーマンの演奏を聴くのも二度目である。着席位置は、一階中央僅かに下手側である。観客の入りは六割程で、一階後方、二階三階バルコニー席に空席が目立つ。観客の鑑賞態度は、僅かに拍手のタイミングが早いが、概ね良好であった。

管弦楽配置は、舞台下手側から第一ヴァイオリン→第二ヴァイオリン→ヴァイオリン-チェロ→ヴィオラの順である。

交響曲2番は、第二・第三楽章の木管・ホルンが素晴らしい音色で響かせる。特に第二楽章のホルンのソロは、まあバボラーク程ではないけれど、それでも確実に決めて引き締める演奏だ。全般的に荒削りの箇所がないとは言えないが、管弦楽それぞれがパッションを出せば良い出来になるのだと実感させられる。2009年の小澤征爾指揮によるサイトウ-キネン-オーケストラの演奏はあまりにつまらなく覇気がなく無気力で、最後の90秒以外は聴いていられない状態で、この曲が嫌いになっていた状態であったが、宮崎で再びこの第二交響曲の魅力を認識させられる演奏に出会える。今日の演奏は、もちろん最後の90秒の盛り上がりも、全管弦楽が精緻に揃い綺麗に決める。

二曲目の二重協奏曲は、ズッカーマンのソロが聴ける事もあり、ほぼこの曲目当てに宮崎まで来たようなものだ。どのような出来となるだろうか。

第一楽章冒頭、アマンダ=フォーサイスのチェロの音が細く、ピンカス=ズッカーマンのヴァイオリンはどう考えてもアマンダを庇っている演奏で、いつものズッカーマンらしさが希薄となってしまう。第一楽章冒頭ではアマンダのチェロの音の細さが影響して、音の多い箇所でズッカーマンとの二人のソロでどのような音を伝えるのか、不鮮明な箇所もあった。しかし、曲が進むにつれ是正される。

一方管弦楽は冒頭から全力全開で思いっ切りの良い演奏で、ホールを豊かな響きで満たす。まるでソリスト(特にアマンダ)に対して総決起を促しているかのようなパッションに溢れている。ソリスト級を含め力のある楽団員を揃えている宮崎国際音楽祭管弦楽団の本領が十全に発揮されている。

このような管弦楽の決起と、ズッカーマンがアマンダに引きずらずにマイペースを取り戻し、アマンダも十分ではないにしろ響かせる演奏になっていく。ここまで来れば、全てがうまく噛み合う演奏となる。宮崎県立芸術劇場の素晴らしい残響を味方につけ活かした、素晴らしい演奏だ。

アンコールはコダーイの「ヴァイオリンとヴァイオリン-チェロ二重奏曲」から一曲であった。

2014年5月3日土曜日

アリーナ=イブラギモヴァ 無伴奏ヴァイオリン-リサイタル 評

2014年5月3日 土曜日
電気文化会館 (愛知県名古屋市)

曲目:
ウジェーヌ=イザイ 無伴奏ヴァイオリン-ソナタ op.27
第1番 ヨーゼフ=シゲティに献呈
第2番 ジャック=ティボーに献呈
第3番 「バラード」 ジョルジェ=エネスクに献呈
(休憩)
第4番 フリッツ=クライスラーに献呈
第5番 マチュー=クリックボームに献呈
第6番 マルエル=キロガに献呈

ヴァイオリン:アリーナ=イブラギモヴァ
(Алина Ринатовна Ибрагимова / Alina Rinatovna Igragimova)

アリーナ=イブラギモヴァは、4月30日から5月3日に掛けて来日ツアーを行い、トッパンホール(東京)、電気文化会館(名古屋)にてリサイタルを行った。いずれも曲目は、イザイの無伴奏ヴァイオリン-ソナタである。在住国の連合王国にても、日本ツアーの後で123を一回、456を一回、全てを一回の公演がある。

アリーナ=イブラギモヴァは1985年9月28日に、当時のソヴィエト連邦スヴェルドロフスク州に生まれた。10歳の時に、父親がロンドン交響楽団コントラバス首席奏者として就任したことに伴い連合王国に移住し、現在も本拠としている。

イブラギモヴァの評判については、名古屋に於ける聴衆仲間からの噂で聴きつけた。まだ20代の彼女の演奏スタイルは「激しい」らしく、どちらかと言うとカワイイ系の顔立ちを売り物としている写真からは、想像できない。電気文化会館の宣伝チラシによると、「”妖精”イブラギモヴァが誘う。イザイの深淵」との事である。

そもそも東京での公演日は平日であり、かつわざわざ最新鋭の劣悪な音響設計で建築したトッパンホールに、この私が行くはずがない。当然名古屋の電気文化会館で決定である。着席位置は、一階中央やや前方である。客の入りは7割くらいであろうか。予想外の少なさである。聴衆の鑑賞態度は良好であった。

第1番は、演奏スタイルにリサ=バティアシュヴィリとそう変ったところはない。特別な「激しさ」は感じない。

第2番が始まる。最初の一小節だか三音だかは、実に繊細に優しい響きで弾いているなあと思いきや、突然豹変しアリーナの激しい本性が表出される。そのコントラストに圧倒される。第3番は「バラード」のタイトルに拘束されず、「激しさ」を織り込んだ演奏である。後半の4・5・6番は曲想こそおとなしめになるが、演奏スタイルは変わっていない。トッパンホール公演では最終局面で疲れが出たとの情報もあるが、今日の電気文化会館での公演では最後の最後まで緊張感が途切れない抜群の安定感を保っている。

アリーナの傑出しているところは、実は「激しさ」を伴うところも極めて緻密に演奏しているところだ。重音の美しさも何らの淀みもない。感情に全てを任せる事もせず、パッション溢れる演奏スタイルで観客の目を眩ませることもなく、全ては綿密な構成力の下で全ての響きが成り立っている。一音一音のあらゆる場面が必然と感じられる。完璧と言ってよい。身体能力の高さの面では若さの特権を活かしつつ、産み出される音楽は28歳とは思えない演奏だった。

無伴奏と言う事もあり、アンコールはなし。唯一の突っ込みどころは、「妖精」の宣伝文句の割にはふっくらとしていたことくらいしかない。この12月にはJ.S.バッハの無伴奏を同じ電気文化会館で演奏する。その時までにはダイエットを済ませて、「妖精」の宣伝文句の通りになってくださいね、アリーナたん♪♪